オリュンポスの看板娘

 さて、お立ち会い。今回はゼウスとヘラの娘さんのお話ですよ。

 彼女の名前は「ヘベ」。いささか響きが悪いですが、この名前には「青春」という意味もあるらしいです。青春ですよ、青春。と、ここまで書けばお察しいただける通り、ヘベは明るく快活なお嬢さんです。しかも、超のつく美人のヘラ姉さん(いや、本当ですってば)の娘さんですからね。お母さんに似て、輝くばかりの美しさ。と、オリュンポスの神様たちの間で有名です。(だから、本当ですってば)

 まったく、アレスやエリスとは大違い。ヘベは、本当にいい子で、ヘラも、この娘は大好きでした。ふだん、おっかないヘラ姉さんですが(ゼウスのせいですが)、へべにはとっても優しかったんですよ。

 お話を始めてすぐに脱線するのがこのエッセイの特徴ですが(こら。そんなこと特徴にするな)、やっぱり今回も脱線します。というのは、このヘベを語るには、いささか「お断り」を入れておかなければならないからなんです。

 ええとですね。じつは、ヘベは、ヘラのことだっていう説もあるんですよ。つまり、まだ若かりし(乙女だったころの)ヘラを現す名前だというんですね。難しく言うと、「ヘラの処女相」って呼ぶらしいです。ここで、この説に関して詳しくは述べませんが、まあ、それなりに説得力はあります。でも、そんなのおもしろくないんで、このエッセイでは、そういう無粋な学術的考察は、いっさい無視します。さらに、後に述べるガニュメデウスのくだりも、いくつかの文献で、話の前後が食い違っていたりするのですが、これも無視します(おそらくローマ神話の影響)。とにかく、このエッセイでは、ぼくが一番好きなお話を書きます。(それも、自由気ままに)

 と、言うわけで、「それ違うんじゃないの?」と思われても、当方はいっさい関知いたしません。でも、ぼくが書くお話も、けっして「勝手な創作」というわけではないですよ。(すいません。ちょっと脚色はしてるかも)

 さあ、話を元に戻しましょう。

 神様って、食べ物も飲み物も必要ないって気がするんですが、そんなことありません。人間のように飲み食いします。もちろん、それは神様専用の特別なもので、食べ物はアンブロシア。飲み物はネクタルと呼ばれています。さらに、言うまでもありませんが、一杯350円の中華丼を目当てに学食に集まる、どこぞの学生たちのようにガツガツ食ったりはしません。(十何年前の、わたくしですな)

 ここで、こんな想像をしてみてください。荘厳なギリシャ神殿。目の前は、美しい庭が広がり(もち、噴水あり)。風はどこまでも穏やか。そんな中、アポロンが琴を弾き、女神たちが舞いを踊っている。

 どうです。優雅でしょ。こんな場所で神様たちは食事を楽しむのです。どこぞの学食とは、以下同文。

 ところが……

 そんな優雅な神様たちの高級レストランにあって、たった一人だけ、忙しく働くお嬢さんがいました。わがままな神様たちのオーダーを聞き、それを配り、彼らの盃にはルビー色のネクタルを注いで回りと、たいそう忙しそう。それでも、そのお嬢さんは、疲れた様子なんか少しも見せないで、いつも明るく、輝くような笑顔を振りまいていました。

 そう! 彼女こそがヘベなのです。元祖、お給仕さん。あるいは、メイドさんの起源とでもいいましょうか。それがヘベの仕事なのです。ゼウスとヘラの娘にもかかわらず、なんでこんな雑用係をやらされていたのか不思議と思われるかもしれませんが、それが、彼女のお父さんであり神々の王である、ゼウスの与えた仕事なのです。(まあ、訳があるんですが)

 しかし。ヘベは、この父から命ぜられた仕事を、心から楽しんでいました。どうやら、彼女の性に合ってたみたいなんですね。

「わたし、お父様やお母様に喜んでもらえるのがうれしいんです。それに、ほかの神様たちも、お食事のとき、とっても楽しんでくださいます。こんな誇りに思える仕事はほかにありません」

 とは、ヘベの弁。いやあ、ゼウスとヘラの子供とは思えないですな。なんと愛らしいことか。実際、神様たちは、ネクタルを飲みながら、ヘベの笑顔を見るのが、とてもお気に入りだったようです。彼女のおかげで、食事が何十倍も美味しく感じると、みなさんおっしゃってます。(これ本当です)

 しかしですね。ヘベが自分の仕事に誇りを感じているのも、わかる気がするんです。なぜなら、彼女の運ぶ食事とお酒は、上にもちょっと書いた通り、「神様専用の特別食」だからです。この特別食には、恐るべき力が備わっておるのですよ。

 それはなにか?

 はい。お教えしましょう。ピンときた方もおられるかもしれませんが、彼らの食事には「不老不死」の力があるのです。この特別食を食べているかぎり、神様たちは永遠の若さと永遠の命を保証されるのです。ヘベは、その特別食を運ぶ係りというだけでなく、管理をしているのです。だから、神様たちは、ヘベがいないと、年老いて死んでしまうのですよ。どうです。思った以上に重要な仕事でしょ? これほど重要な仕事は、やはり実の娘でないと任せられない。というわけで、ヘベは、ゼウスからお給仕さんを命じられたのでした。

 また脱線。

 神々の食べ物、不老不死の力を持つ「アンブロシア」は、「ヘスペリデスの園」にある「聖なるリンゴの木」から、作られると考えられています。が、ここに人間が近づくことはできません。なぜなら、人間が食べると神と同じ不老不死になってしまうからです。だから、人間が絶対に近づけないように、神様は蛇の番人を置いて見張っているのです。

 ちなみに、聖なるリンゴの木を所有しているのはヘラです。だから、あーでもない、こーでもない、と理屈をこねた後に、ヘベはヘラの処女相という説に到達するわけですが、さっきも書いた通り、それは無視します。

 それはそうと、これを聞いて、「おや?」って思いませんか? どこかで聞いたことがあるぞって。そう。旧約聖書のアダムとイヴのお話に似てますよね。彼らは、蛇にそそのかされて、絶対に食べてはいけないと神様から言われていたリンゴを食べてしまい、エデンの園から追放されたのでした。

 まあ、べつに隠すつもりはないんですが、ヘベには別の呼び名があって、それがずばり「イヴ」なんです。イヴは、アナトリアではヘバト、メソポタミアではヘヴェー(あるいはハウア)、ペルシアではアヴォヴですね。ことほどかように、いろんなところに、イヴ伝説はありまして、早い話、旧約聖書もギリシャ神話の影響を受けてるわけです。というか、ギリシャ、ローマ、エジプト、ユダヤ。そして、メソポタミア。これらの地域(あるいは民族)に伝わる伝説には、非常に密接な関係があります。むかし、学校で習った(いま習っている人もいるかも)歴史を思い出してください。この地域は、歴史的にとても密接ですよね。それが伝説や神話にも色濃く残っているわけです。

 そう言えば、ゲルマン民族の神話にも、フレイアという豊饒の女神がいましたね。彼女もヘベに似てるかも。フレイアを失ったとき、北欧の神様たちが死にかけたそうですから。待てよ。フレイアは、恋の魔法がお得意で、多くの男神と関係を持ったと言われてますから(その中には、お兄さんのフレイも含まれたりする)、アフロディーテにも似てるか。

 うーむ。ゲルマンは地域的に少し離れているし、彼らヴァイキングの歴史は、またちょっと異質なので、この辺は違うのかなァ。そう考えてみると、ケルト神話もやや異質ですよねえ…… 

 お? いかん、いかん。なんか脱線しすぎですね。学術的考察は無視すると書いといて、いつの間にか、考察してしまった。失礼。この辺で本題に戻りましょう。

 なんでしたっけ? ああ、ヘベだ。

 聖なるリンゴの木を管理し、神様たちに永遠の命を提供するヘベは、彼女自身、人を若返らせる力もありました。たまに神様は、とくに優れた人間を(英雄ってヤツ)不老不死にして神々の列に加えることがありますけど、そのとき活躍するのがヘベなんですね。年老いた人間を若返らせ、そしてアンブロシアを食べさせて不老不死にするのです。

 さて。そんな重要な仕事をまかされ、心身ともに充実した日々を送っていたヘベですが、ある日、彼女に大変な事件が持ち上がります。その原因は…… いやはや、またゼウスのオッサンです。

「そりゃまあ、ほかの連中はいいよ。きれいな娘にお酌してもらってさ。でもさあ、なんだかね。わしゃ、どうもこう、いま一歩トキメキがないんだよね。だって、自分の娘だぜ。それも、カーチャンとの間に作っちまった娘だから、似てるんだよ顔が。そりゃヘラは美人だよ。美人ですとも。でもね。いつも怒鳴られてる身としては、同じような顔でニッコリ微笑まれても、背筋がゾクッとなるだけなんだよねえ。だからさあ、だれかほかの者に酒を注ぐ仕事をさせたいんだよねえ」

 そりゃ、てめえが悪いんじゃねえか! と、聞いてるこっちが怒鳴りたくなりますが、まあ、さすがに自分の娘に手を出すような変態じゃなかっただけでも良しとしますか。

 ところが……

 自分の娘に手を出すほどの変態ではなかったにしろ、やはりゼウスは、立派な、どこに出しても恥ずかしい変態です。彼は、ヘベの代わりに、自分の盃に酒を注ぐ者として、トロイの王子だったガニュメデウスを選んだのでした。ええと、そうです。男の子です。もちろん、ゼウスのことですから、「夜のお仕事」もあり。ゼウスのオッサン、手当たりしだい美女を食い物にするだけでなく、美少年も好きなのでした。ぼくは頭が痛い…… 

「おいヘベ」
「はい、お父様」
「おまえ、今日から、わしの盃に酒を注がんでもいいぞ」
「え? あ、あの…… わたし、なにかそそうをしたのでしょうか?」
「そう言うわけじゃないんだけどさ。今日から、このガニュメデウス君に任せることにしたから。そういうことで、よろしく」

 ヘベは顔面蒼白。輝く笑顔を持っていた彼女から、その笑顔が消えました。それどころじゃない。彼女は泣きました。生まれて初めて涙を流したのです。

「ちょ、ちょっと! どうしたのヘベ!」
 驚いたのはヘラさんです。
「あ…… お母様」
「あなた、まさか泣いてるの?」
「いえ…… なんでもないんです」
「ウソおっしゃい。どうしたの? お腹でも痛いの?」
「違います」
「じゃあ、いったいなにがあったというの。あなたが泣くなんて、よほどのことでしょうに。お母さんに話してごらんなさい」
「でも……」
「ああ、かわいいヘベ」
 ヘラは、ヘベを優しく抱きしめる。
「お母さんを信じなさい。お母さん、あなたの力になりたいのよ」
「お母様…… ありがとうございます。じつは……」
 と、ヘベは、泣いているわけをヘラに話しました。

 そのころ、ゼウス。

「どうぞ、ゼウス様」
 ガニュメデウスは、ゼウスの金の盃にネクタルを注ぎます。
「わはははは。よきかな、よきかな。これガニュメデウス。もそっと近こうよれ」
「あ、あの……」
「なにをしておる。ほれ、きのうの熱い夜のように」
 しかし、ガニュメデウスは、血の気が失せてガタガタと震え出しました。
「どうしたっていうんじゃ」
 首をひねるゼウス。
 ガニュメデウスは、震えながら、ゼウスの後ろを指差しました。
「なんじゃ。メデューサでもおるのか?」
 と、振り返るゼウス。
 そこにいたのは、もちろん……
「あなた」
 ヘラは、ゼウスを睨みつけます。
「あ、あわわわわ、ヘ、ヘラ、なんでここにおるんじゃ」
「そんなことはどうでもよろしい。それより、この少年はなんですか?」
「いや、なに、これはその、べつに、ハハハ」
「わたくしね」
 と、ニッコリ笑うヘラ。こわ~
「ヘベから、聞きましたの。ええ、そりゃあもう、ぜ~んぶ。あなたのなさったことをね」

 そのあと、ゼウスがどんな目に会ったか、話すまでもありませんよねえ。ゼウスって全能の神なんですけど、ぼくはたまに、ヘラこそが全能ではないかと思うんですよねえ。お父さんは、おカアチャンには勝てない。

「ひ~っ、わしが悪かった! もう殴らないで~ 許して~」

 と、そんなわけで、ゼウスはガニュメデウスの任を解き、ふたたびヘベをお食事係に戻したのでした。でも、ガニュメデウスが、あんまり美しい少年だったので、ゼウスはいつでも彼を見れるように、星座に変えて、夜空に飾ったのでした。それが水瓶座。

 一応、補足など。この物語は、ヘベが結婚してしまったので、その代わりにガニュメデウスをお食事係にしたという話もあります。で、自分がいなくなって、両親が悲しむだろうというガニュメデウスの気持ちを察したゼウスが、彼の両親の悲しみを和らげようと、ガニュメデウスを星座にしたんだとか。だったら返してやれよ。

 なにはともあれ、仕事に復帰したヘベですが、彼女の不幸はまだまだ続く。その原因を作ったのは…… そう。言うまでもなく、ゼウス。このオッサン、どうにかしてちょうだいよ。

 ゼウスはアルクメネを身ごもらせます(姑息な手を使ってね)。彼女が生んだ子供こそ、かの英雄ヘラクレス。このヘラクレスには、ヘラ姉さん、いつにも増して激怒。この辺は、まえに書きましたよね。で、じつはヘラ姉さん、ヘラクレスが生まれる前から、すでに怒ってらして(そりゃ、そうだろね)、彼が生まれるのを、あの手この手で遅らせました。

 今度、それに怒ったのがゼウス。

「ヘベ!」
 ゼウスはヘベを呼びつけます。
「はい、お父様」
 いつもの調子で、明るいヘベは、ゼウスのもとに駆け寄ります。
 ところが。
「キャーッ! お父様、なにをなさるんですか!」
「うるさーい!」
 ゼウスは、ヘベの美しい髪の毛をむんずとつかんで、そのまま吊し上げました。
「痛い。痛いです、お父様」
 髪の毛で吊るされたヘベは、クスンと泣きます。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
 もう、なにがなんだかわからないゼウス。奥さんに直接怒りをぶつけるのが怖いもんだから、娘に八つ当たり。あのう、この人、本当に神様?

 ヘベは、吊るされたまま耐えました。何日も。ゼウスが自制心を取り戻すまで。それでも、彼女はいつも明るく、すぐに元気を取り戻すのです。そして、楽しいお食事係の仕事に戻って行くのでした。いい子だ。マジで。

 ここで、やっとヘベに、本当の幸せが訪れます。

 ヘラの与えた十二の試練を乗り越えたヘラクレス。その人間離れした(というか、もともと、神様と人間のハーフだけど)所業に、ゼウスはいたく感銘を受け、彼をオリュンポスに迎え入れることにします。もちろんヘラは大反対。

「許せない! 絶対に許せないわ!」
 怒り心頭のヘラさん。
「あの、お母様」
 そこへ、ヘベ登場。
「あら、ヘベ。どうしたの?」
「そのォ…… ヘラクレス様のことなんですけど」
「ヘラクレス様?」
 ヘラクレスを「様」と呼ぶ娘に、ピクッと右の眉を上げるヘラさん。
「ヘベ。あなたね、あんな男のこと、様なんて呼んじゃダメよ。いいわね。お母さんが許しませんよ」
「ご、ごめんなさい。あの、でも……」
「なによ。あなたらしくもない。言いたいことがあるなら、ハッキリおいい」
「でも、お母さま、怒るから」
「わたしが、あなたを怒るわけないでしょ。いいから、言ってごらんなさい」
「はい。じつは、わたしヘラクレス様のこと…… 好きになっちゃった」
 沈黙。
「な……」
 やっとのことで声を出すヘラさん。
「な、なんですってー!」
「ごめんなさい、お母様。だって、ヘラクレス様ったら、カッコいいんですもの」
「あ、あ、あなたね」
 声が震えてるヘラさん。
 ヘベは、畳み掛けます。
「お父様も、わたしとヘラクレス様を結婚させるって言ってくださっています。わたし、喜んでお受けするつもりです。ごめんなさい、お母様。わがままな娘を許してください」

 というわけで、ヘベは、ヘラクレスと結婚しました。さすがのヘラも、愛娘と結婚した義理の息子を、これ以上虐める気にはなれず、神となったヘラクレスを認め、和解したのでした。

 うーむ。ヘベはすごい。けっきょく、ヘベが、オリュンポスで一番偉大な女神なのかもしれませんなァ。