ファイブ・ワイヤー・プラン

 プロローグ


 ニューヨーク、マンハッタン。深夜。

 黒い革のハーフコートを着た三十代後半の男が、エレベーターから降りた。そこは、摩天楼にそびえる高層ビルの最上階だった。
 男は大理石が敷かれたエレベーターホールに立ち、正面のガイドプレートを見た。目的の場所は、右側の廊下の突き当たりだった。
 ふう……
 男は息を吐いた。
 まいったね。いまごろビビッてきたぜ。
 男は軽く深呼吸して、ゆっくりと歩きはじめた。コツコツと、自分の足音だけが廊下の壁に反響する様が、妙に緊迫感を高める効果があるなと、男は心の中で苦笑した。
 廊下の先には、革張りのドアがあった。その両脇に、高級なスーツを着てはいるが、いかにもセキュリティガードらしい威圧的な顔の男たちが立っていた。
「テリーだ」
 黒いコートの男は名乗った。
「テリー・ウォーレンス。ブルックスさんに呼ばれてきた」
 セキュリティガードは、テリーと名乗った男の言葉にわずかにうなずいて、革張りのドアを開けた。
「入れ」
「どうも」
 テリーは中に入った。
 バーだった。豪華な調度品が並び、照明は適度な暗さで落ち着きがあった。流れるジャズの音量も心地よい。金持ち相手の会員制クラブなのは間違いなかった。
 窓の外に、ロウアー・マンハッタンの夜景が広がっていた。テリーは、素直にマンハッタンの夜景はきれいだと思った。昼間のマンハッタンは薄汚い。だが夜は違う。
 まるで女だな。と、テリーは心の中で思い、苦笑を浮かべた。女もニューヨークシティも、明るいところで見ちゃいけない。もし可能なら、近づかない方がいいぐらいだ。だがテリーは、まさにニューヨークシティのど真ん中にいるのだ。
「あら、テリーじゃない」
 テリーが、しばしマンハッタンの夜景に目を奪われていると、豪華なドレスを着た金髪の女が近寄ってきた。まるで、ファッション雑誌から抜け出てきたような美女だった。
「珍しいわね、あなたがこんなところにくるなんて」
「ルディ」
 テリーは、引きつった笑顔を浮かべた。たったいま、女には近づかない方がいいと思ったばかりだ。それだけではなかった。いまのテリーに、美人をゆっくり鑑賞する心の余裕はないのだ。
「べつに、きたくてきたわけじゃない。ブルックスさんに呼ばれた」
「ふうん」
 ルディは、意味ありげに、テリーをなめ回すように見つめた。
「ボスなら、カウンター席にいらっしゃるわよ」
「ご親切に、どうも」
「ちょっと、待ってよ」
 ルディは、店の奥に入っていこうとするテリーの腕をとった。
「あとで、一杯どう? おごるわよ」
「遠慮しておく」
 テリーは、にこりともせず、ルディの腕をふりほどいた。
「相変わらずつれないわね。女の誘いを断るなんてルール違反よ。そうでしょ、プレイボーイさん?」
「悪いが、あんたのルールでゲームをする気はない」
「意気地なし」
「なんとでもいってくれ」
 テリーは、軽く肩をすくめると、足早にカウンター席に向かった。
 カウンター席には、アルマーニの高級スーツに身を包んではいるが、豚のように太った男が座っていた。頭はつるつるのスキンヘッド。テリーは、この男を見るたびに、俳優のテリー・サバラスを思い出す。自分より、よほどテリーという名がふさわしい。だが、男の名は、ブルース・ブルックスといった。裏の社会では、BBと呼ばれるニューヨークマフィアの大物だ。
「おお、テリー」
 ブルックスは両手を広げた。
「よくきたな。待ってたぞ」
「すいません。遅くなりまして」
 テリーは、ブルックスに軽く会釈した。
「なあに、夜は長い」
 ブルックスは、ニヤリと笑った。
「こう見えても、待つことにはなれていてね。まあ、座れテリー」
「失礼します」
 テリーは、ブルックスに勧められるまま、彼のとなりに腰を下ろした。
「なにか飲むか? なんでもいいぞ。おまえがふだん飲めない高級な酒が揃っている」
「いえ……けっこうです。ご好意だけで」
 気前のいいマフィアは、耳障りのいい公約を並べ立てる政治家と同じくらい信用できず、同じくらい気味が悪かった。
「どうした。酒好きのおまえらしくないな」
 テリーは苦笑するしかなかった。
「オレみたいな男は、薄汚いバーで安酒を飲むのが合っている。今夜は、こんな高いところに登って、足がすくんでます」
「欲がないな」
「そうでもありません」
 テリーは、肩をすくめてコートのポケットから封筒を取り出し、もったいぶった仕種でカウンターの上に置くと、ブルックスの方へスライドさせた。
「例のものです」
「ふむ」
 ブルックスは、くわえていた葉巻を灰皿においた。ゆっくりと、テリーの差し出した封筒を手にとり、封を切った。中には、アジア人らしい女の写真が一枚と、データの印刷されたレターサイズの紙が三つ折りになって入っていた。
「女か」
 ブルックスは、意外そうな顔を浮かべた。
「そうです。四年前は……二十一でした」
「なんと、こんな小娘とはな」
 ブルックスは、女の写真を見ながら吐き捨てるようにいった。
「この情報は本物だろうな、テリー」
「もちろん」
 テリーは、ゴクリとつばを飲みこんでうなずいた。
「あなたを騙そうなんて思っていない。オレは長生きしたいんで」
「いい心がけだ」
 ブルックスは、ニヤリと笑うと、後ろに待機している部下に、軽く目配せした。
 合図をされた部下は、手に持っていたアタッシェケースをテリーの前において、それを開けた。中には、百ドル札が詰まっていた。
「約束の五十万ドルだ」
 ブルックスがいった。
「これでおまえも、金持ちの仲間入りだな。高級な酒を飲め」
「無理ですよ」
 テリーは、硬い表情のまま、開けられたアタッシュケースを閉じた。
「性格は変えられない。だが、生き方は変えられる。この稼業も潮時です。どこかオレのことをだれも知らない土地へ行って細々と生きますよ。それじゃあ、ブルックスさん。いい取引でした」
「待て」
 ブルックスは、アタッシュケースを抱えて出て行こうとするテリーを呼び止めた。
「これが、おまえとも最後だ。一杯だけ付き合え」
「しかし……」
 テリーは、眉をひそめた。だが、諦めたように首をふって席に戻った。
「じゃあ、一杯だけ。ウィスキーを。ジム・ビームのホワイトでいいです」
「極上のシェリーがある」
 ブルックスは、テリーの注文を無視して、バーテンに目で合図した。テリーの前に、琥珀色のシェリーが入ったグラスが置かれた。
「どうも……いただきます」
 テリーは、グラスに手を伸ばした。
 ブルックスは、そのタイミングを計ったように、意地悪い笑い顔を浮かべながらテリーに聞いた。
「最後の山が、仲間の裏切りってのは、どういう気分だ?」
 テリーは、シェリーを口に入れる寸前で、グラスを止めた。その姿勢のまま石のように固まった。
「おっと失礼」
 ブルックスは、いよいよ口をゆがめて、いやらしく笑った。
「せっかくの酒が、不味くなる質問だったかな」
「いや……」
 テリーは、うなるような声で、グラスをカウンターに戻した。
「もともと、今度の山にオレは反対だった。そして、あの女が、あなたの金庫を荒らしたヤツだとわかった時点で、絶対無理だと悟った。それだけのことです」
「いつ、女がわしの金庫を荒らしたヤツだとわかった?」
「一週間前ですよ」
「晃二は知っていたのか?」
「さあ」
 テリーは、肩をすくめた。
「そこまでは、わかりません」
「テリー。誤魔化しっこなしにしよう」
 ブルックスは、テリーの腕を、二、三度軽く叩いた。
「晃二とおまえは十年以上の仲だろう。おまえたちが計画した山に、その女が必要だったんじゃないのか?」
「待ってください、ブルックスさん。これ以上は話せない。あなたが始末したいのは、四年前、あなたの金庫からダイアを盗んだ女だけでしょう? そうとは知らず、オレと晃二は、その女を仲間にしちまった。だからオレは、女の情報をあなたに提供した。それでいいじゃないですか。晃二は関係ないはずだ」
「四年前、女は仲間じゃなかったのか」
「オレも晃二もバカじゃない。あなたの金庫には指一本触れていない。過去はもちろん、未来もです」
「ふん」
 ブルックスは鼻を鳴らした。
「いいだろう。おまえを信じるよテリー。ところで、おまえと晃二は、女を仲間にして、なにを狙ってたんだ?」
「本当に勘弁してくださいよ」
 テリーは、手をあげた。
「それを話しちゃ、オレはおしまいだ」
「最後の一線ってやつか? どのみち、おまえが裏切り者なのは変わらない」
「そうですよ」
 テリーは、深いタメ息をついたあと、自虐的な笑顔を浮かべた。
「オレはもう、この世界で生きていけない。裏切り者はだれも信用しない。ブルックスさん。あなたもオレを信用しないはずだ。だから、オレが話すことは……なにもない」
「残念だよ、テリー。おまえはいい泥棒だった。本当に残念だよ」
 ブルックスは、クククと、腹の底から聞こえてくるような低い笑い声を漏らした。
 テリーは、立ち上がった。
「お話がおすみのようなので、これで失礼します」
「いいだろう」
 ブルックスの顔から笑顔が消えた。そして、冷たい声でいった。
「失せろ」
「どうも」
 テリーは、額ににじんだ冷や汗をぬぐうと、アタッシュケースを抱えて、足早にバーを出ていった。
「まるでドブネズミね」
 ブルックスのとなりで、女の声がした。先ほどテリーに声をかけた、金髪美人だった。いつのまにか、ブルックスのとなりに立っていた。
「ルディ」
 ブルックスは、低い声で女の名を呼んで、封筒を渡した。
「この女を、連れてこい。抵抗するようなら、腕の一、二本折ってもかまわん。だが、殺すな。わしの楽しみがなくなる」
「はい、ボス。ところで、あのドブネズミはどうします?」
「テリーか? しばらく、夢を見させてやってもいい」
「お優しいのね」
 ルディは、皮肉っぽく笑った。
「今夜中に高飛びするかもしれませんよ」
「心配するな。性格は変えられん」
「は?」
「あいつが、自分でいった言葉だ。どこか知らない土地で、細々と生きるだと? 冗談じゃない。どこかのバーで安酒に溺れるのがオチだ」
「たしかに」
 ルディは、クスクス笑った。
「ねえボス。テリーは、わたしに任せていただけないかしら」
「どうするつもりだ?」
「べつに、どうもしませんわ」
 ルディは、ブルーの瞳を妖しく輝かせた。
「ボスは、テリーよりも、晃二の山に興味がおありなんでしょ?」
「ああ。テリーが渋ったような山だ。かなりヤバそうだが、大金が動くのは間違いない。女を捕まえたら、わしが口を割らせてやる」
「でしたら、テリーも利用できましてよ。あいつも生け捕りにして、尋問するのはいかがかしら? もちろん、わたしのやり方でたっぷりとね」
「そういうことか」
 ブルックスは、クククと腹の底から笑った。
「悪い女だ。いいだろう。この件は、すべておまえに任せる。頼りにしてるぞ、ルディ」
「ええ。きっとご満足いただけると信じていますわ」
 ルディは、残忍な笑顔を浮かべてブルックスにうなずいた。





 その二日後。東京。午後十二時。某大学、分子工学研究室。

 夢野奏恵(ゆめの・かなえ)は、研究室の机の上で、目の前のコンピュータモニタをながめながら、手作りのお弁当を食べていた。
 髪は飾りっ気のないストレートヘアー。顔も化粧をしている様子はなく、黒縁の眼鏡と相まって、垢抜けない大学院生という雰囲気だった。
「お、奏恵ちゃん」
 と、背中から先輩の大学院生に声をかけられた。
「今日も手作りのお弁当か。よく毎日続くね。料理好きなんだな」
「いやだ、違いますよぉ」
 奏恵は、苦笑しながらふり返った。その拍子に、眼鏡がずり落ちそうになって、あわてて直した。
「今月の生活費、あと一万円しかなくって。学食にも行けないんです」
「そんなテレビ番組があったなあ」
 先輩は笑った。
「一ヶ月一万円で生活するってヤツ。奏恵ちゃんも出れそうだね」
「さすがに、一ヶ月一万円は無理ですってば」
 奏恵も、釣られて笑った。
 そのとき。
「あー、夢野くん」
 研究室の窓際に、ひときわ大きな机があった。そこの主が、奏恵に声をかけた。この研究室の教授だ。しかし、禿げ上がった頭に丸眼鏡の風貌は、教授というより、八百屋のジイさんといわれた方が納得するものが多そうだった。
「すまんがねえ、お茶を入れてくれんかね?」
「あ、はい。ただいま」
 奏恵は、箸を置いて立ち上がった。
「奏恵ちゃん」
 先輩が、小声でいった。
「べつにお茶汲みなんかしなくてもいいんだぜ」
「でも……わたしまだ新米だし。教授が拾ってくれなかったら行くとこなかったし」
 奏恵は、苦笑で先輩に答えると、給湯室に向かった。だが、研究室の入り口にある段差で足をつまずき、転びそうになった。
「きゃーっ! あわわっ! おっとっと!」
 なんとか、バランスを立て直して踏みとどまった。ふり返ると、研究室のみんなが呆れた顔で見ていた。
「あ、あはは……またやっちゃいました」
 奏恵は、バツが悪そうに頭を掻くと、逃げるように給湯室に走った。入り口の段差で転びそうになるのが彼女の日課だ。二十五にもなって、さすがに恥ずかしい。
 給湯室には、先客がいた。事務職の女だった。
「あら、奏恵ちゃん。また教授のお茶汲みやってるの?」
「ええ」
 奏恵は、女にうなずくと、ふうとタメ息をついた。
「いいかげん、自分はお茶汲みじゃないって、教授にいったら?」
 事務員の女は、奏恵のタメ息を聞きつけていった。
「あ、いえ。違うんです。お茶汲みはいいんですけど……」
「けど?」
「また転びそうになっちゃって。わたしって、なんで、おっちょこちょいなのかな」
「あはは。そこが人気の秘訣かもよ」
 事務員の女は、笑いながら給湯室を出ていった。
「人気の秘訣ね」
 女の出ていった給湯室で、奏恵はひとり苦笑を浮かべた。
 急須にお茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
 奏恵は、ふと手際のいい自分に気がついて、またひとり苦笑を浮かべた。
 まいっちゃうなあ。この大学の研究室に入ってもう三ヶ月か。すっかり教授のお茶の好みを覚えちゃったじゃない。ま……いいけど。
 奏恵は、急須のお茶を湯飲みに入れて、研究室に戻った。
「はい、どうぞ」
 教授の机に、湯飲みを置く。
「おお。ありがとう夢野くん」
 ずずっ。と、教授は奏恵の入れたお茶を飲んだ。
「いやあ、夢野くんのお茶は、いつもおいしいねえ。うちのバーさんの入れたのなんてひどいもんだよ。夢野くんは、いい奥さんになれるねえ。うんうん」
「あはは……ありがとうございます」
 奏恵は、複雑な気持ちで、愛想笑いを浮かべた。
「だれか、いい人はおるのかね?」
 と、教授。
「は? いえ……べつに」
「またまたァ。ホントは、いるんじゃろ?」
「い、いませんよ」
「ホントかね?」
 教授はしつこく聞いてきた。
「ホントです」
 うーっ。セクハラ教授め。奏恵は、心の中でうなった。
「そうかね、そうかね。んじゃ、総長の息子さんなんかどうかね? ちょっとボンクラじゃが……っていうか、もそっと正確にいうとバカ息子じゃが、よかったら紹介するよん」
 よんってあんた……さすがの奏恵でも、この人、マジで八百屋のオヤジじゃないかと疑いたくなってきた。
 と、そのとき。奏恵の席から、携帯電話の鳴る音が聞こえた。
「あ、すいません。電話かかってきたみたい。失礼します」
 奏恵は、これ幸いとばかり、あわてて自分の席に戻った。だが、携帯電話のモニタに表示される電話番号を見て、奏恵は眉をひそめた。
 なによ、電話して来ないでっていっといたのに。
 奏恵は、タメ息をつきながら、しかたなく電話に出た。
「はい」
『奏恵。ぼくだ』
「ちょっと」
 奏恵は、声をひそめた。
「晃二。大学にいるとき電話してこないでっていったじゃない」
『緊急事態だ』
「どうしたの?」
『BBに勘づかれた』
「なんですって!」
 奏恵は、ひそめていた声を張り上げて、椅子から飛び上がった。
 研究室のみんなが、一斉に奏恵に集中した。
「あっ……」
 奏恵は、あわてて座り直すと、また声をひそめた。
「どうして、BBに気づかれたのよ」
『テリーが裏切った。きみを売ったらしい』
 とたん。奏恵の顔から血の気がひいた。
「テ、テリーが? うそでしょ……」
『こんなこと、うそつくもんか。ヤバいぞ。すぐBBの追手がくる。いただけるモノをいただいて、いますぐ逃げてくれ』
「そんな急に! だいたい、まだ制御ソフトウエアは完成してないのよ」
『仕方ないだろ。とにかくブツを持ってきてくれ』
「なにが仕方ないよ。あなたが絶対確実だっていうから話に乗ったのよ」
『文句はあとで聞く。とにかく計画変更だ。いいね?」
「よかないわよ。よかないけど……やるしかないみたいね」
『そういうこと。ぼくも、すぐそっちに向かう。ピックアップするよ』
 晃二と呼ばれた男は電話を切った。
「くそっ!」
 奏恵は、悪態をついた。だがつぎの行動は早かった。黒いプラダのショルダーバッグからピストルを出して、教授に向けた。
「おろ?」
 教授は、目をパチクリとさせた。
「なにかね夢野くん。きみ、モデルガンの趣味があったのかね?」
「教授」
 奏恵は、かけていた眼鏡を外して床に捨てた。ダテ眼鏡だった。
「あたし本当は泥棒なの。この銃は本物よ」
「またまたァ。近頃の若いもんは冗談が好きだねえ」
「奏恵ちゃん」
 と、先輩がいった。
「いくら、教授のお茶汲みでストレス溜まってるからって、その冗談はやりすぎだよ」
「冗談だったらよかったわね」
 奏恵は、天井に向かって引き金を引いた。ニセモノとは思えない銃声が響き、天井に穴があいた。
「ま、まさか……きみ……ホントに?」
 教授は、ポカンと口を開けた。
「やっと事態を飲み込んでくれたみたいね」
 奏恵は、ニッコリ笑って、教授を手招きした。
「教授。一緒にきてちょうだい。デートしましょ」
 教授は、ふるふると、首をふった。
「死にたいの?」
 奏恵は、またニッコリ笑って、教授に銃を向けた。
「わ、わかった! わかった!」
 教授は、あわてて立ち上がった。
「デートでも、援助交際でもなんでもするから殺さんでくれ!」
「バカね。ホントにデートなんかするわけないでしょ。実験室に入りたいのよ」
「えーっ! ま、まさか、奏恵ちゃん、うちの研究室が発明したDNAコンピュータ素子が目的なんかい!」
「あのね、教授」
 奏恵は、教授の大ボケに、思わず頭を抱えそうになった。
「説明的なセリフをありがとうといいたいとこだけど、この研究室に、ほかに盗むものなんてないでしょうに」
「なにを失礼な。金目のものぐらい、いくらでも……まあ、べつにないか」
「この期に及んで、ナイスなボケね教授。本気で殺したくなってきちゃった」
「ひーっ。ちょっとプリティーなジョークで、緊迫したカンバセーションに潤いを与えてみただけじゃよぉ」
「いいかげん頭痛くなってきた……いいから、さっさときなさいってば」
 奏恵は、教授の腕を引っ張って、研究室の出口に向かった。
「これこれ、奏恵ちゃん。老人を乱暴に扱ってはイカンって。わしってば、心臓は悪いし糖尿病だし、ついでに、最近おしっこの出も悪いのよね」
「こないだ、大学の健康診断で、百まで生きるっていわれたんじゃなかったっけ?」
「ちっ。変なこと覚えとるのう」
 奏恵と教授は、廊下に出た。実験室は廊下の先だ。
「定年まであと二年だったのになあ。まさか、こんなデンジャラスなことになるとはなあ。人生は、いくつになっても、山あり谷ありじゃな」
「ホントね。あたしも、もっと穏便に済ませたかったんだけど」
「ところで奏恵ちゃん。実験室に入って、DNAコンピュータ素子を盗むのはいいとして、まだ制御プログラムが完成してないんじゃよ」
「そんなこと、わかってるわよ。こっちにも、いろいろ都合ってもんがあるの」
「泥棒さんも大変じゃな」
「まったく、人生は山あり谷ありだわ」
「気が合いましたな」
「ちっとも、うれしくない」
 二人は、妙に緊迫感のない会話をしながら、実験室の前に着いた。
「開けて」
 と、奏恵。
「なあ、奏恵ちゃん。マジで盗むの?」
「マジよ」
 奏恵は、教授のこめかみに銃を当てた。
「あの世では、たぶんお茶は飲めないと思うわ。さっさと開けて」
「へーい」
 教授は、セキュリティボックスの上に、手のひらを乗せた。
 すると、コンピュータの合成音声が聞こえた。
『セキュリティーチェック完了。山田一朗教授。入室を許可します』
「開きましたよ」
「ありがと。お先にどうぞ」
「へいへい」
 二人は中に入った。
 実験室では、助教授がコンピュータのモニタを見ていた。
「あれ、教授。どうしたんですか?」
 助教授はモニタから顔を上げた。
「いやあ、なんかヤバいことになっててのう。どーしましょう?」
「どーしましょうって……なんで奏恵ちゃんまで? 彼女に入室権限はありませんよ」
「それがあるのよ」
 奏恵は、ずかずかと助教授に近づき、彼の後頭部を銃のグリップで殴った。
「うっ……」
 どさっと、助教授は倒れた。
「うわあ。えげつないことするのう」
 教授は、思わず眉をひそめた。
「あんたも、こうなりたくなかったら、これに、さっさとDNAコンピュータ素子の製造方法を書いたファイルをコピーして」
 奏恵は、メモリーチップを教授に渡した。
「へいへい。人使いの荒い泥棒さんじゃな」
 教授は、助教授が座っていた椅子に腰掛けると、受け取ったメモリーチップにファイルをコピーした。
「奏恵ちゃん。設計途中の制御プログラムも盗んでいくかね?」
「もちろんよ」
 奏恵は、業務用冷蔵庫のような装置を開けながら答えた。その冷蔵庫の中には、青い液体の入った試験管が並んでいた。
「教授。DNAコンピュータ素子は、常温でどのくらい保存できる?」
「そうじゃなあ。常温での賞味期間は、二週間ってとこかのう」
「けっこう保存できるのね。よかった」
 奏恵は、試験管の一本を取り出して、プラダのショルダーバッグに放り込んだ。
「コピーはできた?」
「へいへい。できましたよ」
 教授は、メモリーチップを抜き取って、奏恵に渡した。
「ちゃんと入ってるでしょうね?」
「心配しなさんな。小細工なんぞ、しやせんよ」
「ありがと。じゃあね教授。運がよければ、また会いましょ」
 奏恵は、教授にウィンクした。
「刑務所の面会室でかね?」
 教授は、精一杯の皮肉で応えた。
「いっとくが、差し入れなんぞ持っていってやらんぞ」
「そうならないように努力するわ」
 奏恵は、教授に苦笑いを浮かべてから、実験室を飛び出した。二階下の裏口に通じる階段を駆け降りる。だが、下からサングラスをした男たちが上がってきた。
 男のひとりが叫んだ。
「いたぞ! あの女だ!」
「シット!」
 奏恵は、Uターンして、階段を上った。
「やることが早いわねBB! 警察より早いって、どーいうことよ!」
 ちくしょう。どうする。晃二のバカ野郎。こんな事態想定してないから、脱出路を確保してなかったじゃないの! と、目の前にいない仲間に文句をいってもなんの解決にもならなかった。
 どうしよう、どうしよう……突破できるか? 無理よ。相手が多すぎる。下へ降りたら蜂の巣だし、このまま屋上に上がったって袋小路。
 そのとき、ハッと、今日は窓の清掃日なのを思い出した。
 奏恵は、エレベーターホールに走った。アップボタンを押す。エレベーターのドアが開くまでの時間が、永遠にも感じられた。
「早く、早く、早く!」
 奏恵は、神経質に足踏みしながら待った。
「いたぞ!」
 駆け上がってきた男の叫び声が聞こえた瞬間、ドアが開いた。飛び込む。ドアのクローズボタンを連打。間一髪でドアが閉まった。
「ど、どうしたの奏恵ちゃん」
 中に、事務員の女が乗っていた。
「すごい剣幕ね。なにかあったの?」
「あったかも」
 奏恵は、昇降パネルを凝視しながら応えた。五階、六階、七階……
「奏恵ちゃん……なに持ってるの? モデルガン?」
「グロック18C」
 にっこりと奏恵。
「ターミネーター3で、ジョン・コナーが使ってたわ。見た?」
「いいえ」
 事務員の女は、ふだんとまったく雰囲気の違う奏恵に驚きながら首をふった。
 八階でエレベーターが止まった。
「降りて!」
 奏恵は、事務員の女を乱暴に外に押し出して、クローズボタンを連打した。閉まるドアのむこうで、事務員の女は、ただポカンと口を開けていた。
「早く、早く!」
 奏恵は、エレベーターの昇降表示を見ながら、足踏みをしていた。気があせる。
 十六階の屋上に到着。
 奏恵は、エレベータを飛び出して、屋上に上がる非常階段に向かった。屋上に出るドアはロックされていた。銃を連射。ノブを壊す。ドアを蹴破って外に出る。
 よく晴れていた。最高のピクニック日和だ。
 奏恵の思惑どおり、清掃業者がいた。外壁の窓を拭くためのゴンドラを操作していた。
「お? なんですか、あなた。ここは立入禁止ですよ」
「知ってるわ」
 奏恵は、清掃業者のみぞおちにパンチ。清掃員は、クリティカルヒットを受けたアクションゲームのキャラのように、うっとうなっただけで気絶した。
 下をのぞく。
 ゴンドラは、十四階の窓を拭いているところだった。二階下だ。この高さなら降りれる。即座にそう判断した奏恵は、ゴンドラの操作パネルを見た。
「ちくしょう。旧式なパネルね。降下ボタンはこれかな? やった。スピードコントロールもあるじゃない。最高」
 奏恵は、降下スピードを最大にセットしてから、ボタンを押した。そして、すぐさま屋上から飛び下りた。
 ガシャン!
 派手な音を立てて、奏恵はゴンドラの上に着地した。
「い、いたぁ~」
 思わず足をさする。さすがに二階分のジャンプは足にきた。
「な、な、なんだきみは!」
 清掃員のおじさんが、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「知らない方が身のためよ」
 奏恵は、グロックの銃口をおじさんに向けた。
「ひええええっ!」
 おじさんは、本当に腰を抜かした。
「なんだか、今日のあたしってば、すごい悪党ね。自己嫌悪」
 こんなことになるなら、おっちょこちょいの大学院生なんて演技をする必要もなかったわね。と、奏恵がひとり苦笑したときだった。
 ガクン。とゴンドラが止まった。
 ハッとして上を見ると、サングラスの男が、屋上から銃で狙っていた。
「シット!」
 奏恵は、グロックの引き金を引いた。男の肩に命中。致命傷ではなかった。
「ちくしょう! うまい方法だと思ったのに!」
 奏恵は、窓を撃った。ガシャン! とガラスが割れる。飛び込んだそこは会議室だった。大きな会議室のテーブルの上に着地。医学部の教授たちが会議をしている最中だった。
「ハイ、ドクター。ご機嫌よう!」
 奏恵は、テーブルの上を走った。その振動で、教授たちのコーヒーカップが倒れた。
「どうも、失礼しました!」
 奏恵は、ジャンプしてテーブルから飛び下りた。教授たちは、ポカンと口を開けたまま、奏恵が出ていったドアを見つめた。
 奏恵は廊下を走っていた。
「マラソン選手じゃあるまいし、まったくもう!」
 階段を駆け下りる。幸い、BBの手下たちは奏恵を追って、ほとんど屋上に向かったようだった。
「よし、逃げきれる!」
 奏恵は、走るスピードをいよいよ上げた。今年、二十五歳。体力は充分。だが、三ヶ月の大学院生生活が、奏恵の基礎体力に影響していた。息が上がってくる。
 こんなことなら、毎朝、ジョギングしとくんだった! と心の中で叫びながら、奏恵は必死に走った。
 裏口を出る。もうちょいだ。もうちょい。がんばれ奏恵。自分で自分を叱咤。
「どいて、どいて、どいて!」
 なにも知らない学生たちをかき分けながら、裏門を飛び出し、やっと表通りに出たときだった。
「銃を捨てろ」
 サングラスの男に銃を突きつけられた。
「ふう、はあ、ふう、はあ」
 奏恵は、荒い息を吐きながら、サングラスの男をにらんだ。
「やるじゃん。下っ端のくせに」
「銃を捨てろといってる」
「くそっ」
 奏恵は、銃を投げ捨てた。男がひとりだけなら、なんとかできたかもしれない。だが外には三人も待機していたのだ。
「詰めが甘かったな」
 サングラスの男は、ニヤリと笑った。
「今日は最高に楽しい日だぜ。あとでおまえの泣き叫ぶ顔を見れるかと思うとな。アメリカに着くまでの間、たっぷり地獄を見せてやるよ」
「ファック、ユー」
 奏恵は、男の顔につばを吐いた。
「上等だ」
 サングラスの男は、こめかみに血管を浮かばせながら顔をぬぐった。
「こうでなくっちゃ、いたぶる楽しみがねえ」
 そのとき。
 ポルシェがタイヤの音をきしませて、歩道に乗り上げ、奏恵に銃を向けている男をはね飛ばした。奏恵は、すぐさま右側の男にパンチ。そのまま一回転するように後ろの男にケリを入れた。
「お待たせ!」
 運転席の男が叫んだ。
「お待たせすぎよ!」
 奏恵は、文句をいいながら助手席に飛び乗った。
「飛ばして、晃二!」
「いわれなくても、そうするさ!」
 晃二は、アクセルをめい一杯踏み込んだ。パトカーのサイレンが聞こえてきたのは、ポルシェが走り去ってから、三十秒もたってからだった。





 ニューヨーク、マンハッタン。深夜。

 ルディは、フィットネスクラブでルームランナーの上を走っていた。肌に密着したスパッツが、ルディの整ったヒップの形を強調していた。
 黒いスーツを着た、背の高い黒人の男が入ってきた。その男は、ちらりとルディの揺れる胸を見てからいった。
「いまさっき、東京の部下から連絡が入った。計画どおり、女と晃二を泳がせたぞ」
「そう」
 ルディは、男を見ずに、そっけなくうなずいただけだった。
 男は、少しムッとしたように続けた。
「おかげで、オレの部下が死にかけたがな」
「というと?」
「ビリーが肩を撃たれた。リッキーがポルシェに跳ねられて全治二ヶ月だ」
「情けないわね。小娘ひとりに」
 ルディは、おもしろくなさそうな顔で、ルームランナーから降りた。汗を拭く。
「待てよ、ルディ」
 男は、ルディをにらんだ。
「オレの部下は、だれかをぶっ殺すことは慣れてるが、あんな、ギリギリのところで、わざと逃がすような計画はやったことがない。それにしちゃ、うまくやったと思う」
「間違いなく、女に盗聴器と発信機を仕掛けたんでしょうね?」
「もちろんだ。女と晃二をバッチリ捕捉してる」
「いいわ。まずは成功ね。ほめてあげる」
「なあルディ。本当に、この計画でいいのかよ」
「なにか文句があるの?」
「そうじゃねえ。そうじゃねえが……ボスの命令は、女をとっ捕まえることだろ。こんな回りくどいことをする必要があるのか?」
「だから、あんたは出世しないのよ。いいこと、スタンリー。ボスは、晃二の計画している山に興味がある。あいつらに仕掛けた盗聴器から、重要な情報が手に入るわ。女を捕まえるのは、そのあとで遅くないでしょ。わかる? 命令された以上の仕事をしなきゃ、この世界で上にはいけないわ」
「かなわねえよ、おまえには」
「ありがと。理解がえられたところで、仕事に戻ってちょうだい。女と晃二の会話をモニタし続けるのよ。どんな情報も漏らさないように」
「わかった。なにかわかったら報告する」
 スタンリーは、うなずいて出て行こうとした。
「ああ、スタンリー」
 ルディが、スタンリーの背中に声をかけた。
「この仕事がうまくいったら、ボスによくいっとくわ。あんたが優秀だってね。これであんたの部下が怪我した件はチャラよ」
「サンクス」
 スタンリーは、ふり返り、ニヤリと笑って出ていった。
「単純な男」
 ルディは、ふんと鼻を鳴らすと、タオルをベンチに投げ捨てて、スポーツバッグから携帯電話を取り出した。べつの部下をコールする。
「チャーリー。わたしよ。テリーのほうはどうなってる?」
『さっき、自分のアパートメントに戻りました。今夜も飲んだくれですよ』
「でしょうね。部屋の盗聴は?」
『やってますよ。いまシャワーを浴びてます。それでわかったんですが、どうやら、明日あたり、高飛びしそうですぜ』
「マズいわね。押さえられる?」
『オレたちが? そいつは難しい注文ですぜ。いくら飲んだくれでも、あの野郎、射撃の腕は一流だからな』
「いいわ」
 ルディは、タメ息をついた。どいつもこいつも、頼りにならない。
「テリーは、明日、あたしが押さえる。そのままマークしてなさい」
『了解です』
 ルディは、携帯を切って、シャワールームに入った。





 東京。ビジネスホテル。午後九時。

 稲村晃二は、ベッドの上でノートパソコンを広げていた。
「くそう。ロシア人め、ぼったくりやがって」
 メールの画面を見ながら悪態をつく。
「いくらなんでも、半額はないよな。交渉決裂を匂わせるか……」
「どうしたの?」
 奏恵が、バスルームから出てきた。タオルを身体に巻いただけの姿だった。髪は長いストレートヘアではなく、明るいブラウンのショートヘアに変わっていた。
「バイヤーからのメールだよ。制御ソフトウエアが、まだ完成してないって伝えたら、金額を半分に値切ってきた」
「さすがロシアンマフィア。欲深いわね。半額だったら売らないわ」
「わかってる。返事を書くよ」
 晃二は、ノートパソコンのキーボードに指を走らせた。
「一千五百万ドル。これ以下では売れない。イヤなら交渉は決裂。バイバイと」
 返事を書き終えて、返信ボタンを押す。
「オーケー。これで返事待ちだ。なんといってくるかな」
「承知するわよ。DNAコンピュータ素子と、製造方法のファイルはあるんだから」
 奏恵は、ベッドの上に置いてあったテレビのリモコンを取った。スイッチを入れる。NHKのニュースが映り、ちょうど奏恵の顔写真が出ていた。アナウンサーが、日本では前代未聞の犯罪だと、大げさな口調で語っていた。
「ちょっと派手にやりすぎたわね。変装が大変だわ」
「そうでもないだろ」
 晃二は、テレビに映る写真と、奏恵を見比べた。写真の方は眼鏡をかけて、ややうつむき加減の冴えない顔だった。ピントもあまりよくない。
「もともと、大学に潜入してるときの姿が変装なんだから、ふだんの奏恵を見たら、だれも同じ人物だとは思わないさ」
「まあね」
 奏恵が、軽く肩をすくめたときだった。テレビに、山田教授が映った。記者会見の模様だ。奏恵と晃二は、テレビの画面を注視した。

『山田博士』
 記者が尖った声で質問を発した。
『犯人の夢野奏恵は、博士自身が研究室にスカウトされたそうですが、どういう経緯で知り合ったのですか?』
『すいません、すいません』
 山田教授は、ぺこぺこ頭を下げた。
『奏恵ちゃん……じゃなくて、えっと、犯人の夢野奏恵はですね、わしが日本茶好きなのを知っててですね、わしが、学食でマズイ日本茶を飲んでるとき、すごくおいしい日本茶を入れてくれたんですな。だから、こりゃいいと思っちゃったわけなんです』
『教授が学食でお茶を? いや、まあ、そういうこともあるかもしれませんが、要するにお茶汲みとして雇ったと、そういうことですか?』
『雇ってませんよ。彼女は学生なんだから』
『それは偽装でしょ? 本当は国際的な泥棒ですよ』
『だって、そんなこと知らなかったもん』
『もんって……それはそうでしょうが……あんた、大学教授として、そういうことでいいんですか?』
『すいません、すいません。反省してます。これからお茶を飲むときは、ペットボトルにします。サントリーの新製品は、けっこうおいしいですな』
『そういう問題じゃないでしょう!』
『えっ? 伊藤園の方がいいですかね?』
『あのね……』
 記者は、頭を抱えた。

 記者会見場は、騒然というより、呆れた雰囲気に包まれていた。
「たいしたもんだ」
 と、晃二。
「あの教授、記者の質問を、適当にかわしてるよ。こんな責任逃れの方法もあるんだな」
「違うわよ。そんな高等テクニックじゃないわ。ただの天然ボケ」
「天然ボケ? これが?」
「絶対そうよ。三ヶ月も、お茶汲みやらされたんだからわかるわ」
 奏恵は、苦笑を浮かべながら、冷蔵庫からビールを出した。
「ぷはーっ! 生き返る。今日はよく運動したわ」
「オリンピック選手並みだったもんな」
「だれのせいよ、だれの」
 奏恵は、晃二をにらんだ。
「怒るなよ」
 晃二は、肩をすくめた。
「まさかテリーが裏切るなんて、ぼくだって信じられない」
「テリー……バカなヤツ。BBに寝返ったって、どうせ殺されるのに」
「まあね」
 晃二は、奏恵の言葉に複雑な表情を浮かべたが、すぐもとの顔に戻っていった。
「問題は奏恵だ。テリーのおかげで、BBに面が割れた」
「BBも執念深いわね。あいつの金庫から、たかが二十万ドルのダイアをちょうだいしただけじゃない」
「奏恵。こいつは冗談事じゃないぞ」
「わかってるわよ。この仕事が終わったら、しばらく身を隠すわ」
「仕事が終わったら? おい、マジかよ。ニューヨークに行くつもりか?」
「そうよ」
「待てよ。ブルックスに狙われてるのはきみだぞ」
「だから?」
「わかってるだろ。きみがブルックスのお膝元に乗り込んだりしたら、今度の仕事に支障があるかもしれない」
「あたしを売ったのは、あんたの仲間じゃない」
「そうだけど、きみがやった四年前の仕事に、ぼくには関係ない。ぼくだけだったら、ブルックスも手を出さないはずだ」
「どうかしらね。テリーが、今度の仕事の情報も売ってるかもよ」
「テリーが? ぼくも売ったって? まさか」
「あんた、意外とお人好しね」
「いや、まあ……たしかに、その可能性はあるけど」
「だいたい、あんたが、あたしを裏切って、金を持って逃げないって保証もない」
「信頼されてないな。この計画を練ったのはぼくだぞ」
「だからなによ」
「べつに。命知らずな女に呆れてるだけだ」
「ありがとう。ほめ言葉と受け取っておくわ」
「そうしてくれ」
 晃二は、タメ息をつきながら、ゼロハリバートンのジェラルミンケースをあけた。スポンジのクッションの真ん中に、奏恵が持ち出した試験管が入っていた。
「DNAコンピュータ素子か……クリームソーダのもとにしか見えないな」
「バカね」
 奏恵は、晃二から試験管を奪うようにとると、ケースに戻した。
「このDNA素子が、一ガロンもあれば、世界最速のスーパーコンピュータが作れる。一千五百万ドルでも、超バーゲンよ。一億ドルくらいほしいところだわ」
「制御ソフトが完成してれば、二千万ドルだったんだが」
「だーかーらー、それは、だれのせいだって――」
「ストップ、ストップ。蒸し返すのはやめよう」
「いいわ」
 奏恵は、ビールの缶を、めきめきっと握りつぶした。
「正直、BBに顔が割れたのは痛いけど、どうせテリーは殺される。それでチャラよ」
「そうだな」
 晃二は、さすがに暗い顔を浮かべた。
「長いつきあいだったのに……残念だ」
「何年組んでたの?」
「奏恵が、この稼業をはじめるずっと前からだよ」
「年寄りじみたことを。あたしより、五つ歳上なだけのくせに」
「十八のころからだ。十二年も組んでた」
「十八って……あんたが、この稼業をはじめたころ?」
「ああ。まだ右も左もわからないひよっこだった。テリーに、ずいぶんこの世界の流儀を教わった。一番信頼してたのに……なんで裏切ったんだ」
 晃二は、疲れたように首をふった。奏恵の前では、顔に出さないつもりでいたが、十二年も組んできた仲間に裏切られたショックは、かなり大きかった。
 奏恵は、そんな晃二の気持ちを無視するように、挑発的な声で言った。
「女でもできたんでしょ。あの色魔」
「たしかに、女癖は悪いけど、女を仕事に持ち込む男じゃない」
「でも裏切った。それは事実よ」
「まあ……そうだけど。奏恵は、ぼくらと組んで日が浅いからわからないだけだ」
「わかるわよ。あんたは、けっきょくテリーに騙されてたのよ。ずっとね」
「違う。テリーにはテリーなりの理由があったんだ」
「どんな理由よ」
「それはわからない」
「ふん。仲間を裏切ってもいい理由があるのなら、聞いてみたいもんだわ。さすがに遠慮して、いままでいわなかったけど、あたしなら、裏切り者は殺すわ。この手で。今回はBBが始末するだろうから、手を出さないだけ」
「クールだな」
「生き残るためよ。あんたも裏切ったら容赦なく殺す」
「若いね」
「なによ。あたしをルーキー扱いするつもり?」
「そうじゃない。そうじゃないけど……」
「けどなによ」
「べつに」
 晃二は、肩をすくめて、ベッドからノートパソコンを降ろした。
「もう寝るよ」
「あたしも。さすがに疲れた」
「明日は、ニューヨークだ。今夜はゆっくり休んでくれ」
「一千五百万ドルの夢でも見ながらね」
「そうしてくれ」
 晃二は、苦笑を浮かべてから、ゆっくり瞳を閉じた。今度の仕事で失ったものの大きさを嘆くのは、一千五百万ドルを手に入れてからでも遅くはなかった。





 同じころニューヨーク。午前八時過ぎ。

「以上です」
 ルディは、メモリーレコーダーのスイッチを切った。そのレコーダーは、晃二と奏恵がホテルで交わした会話を、すべて一言も漏らさずに再生していた。
「エクセレント!」
 ブルックスは、テーブルに並べられた朝食を、ぐちゃぐちゃと、汚らしく食べながら叫んだ。その拍子に、口の中の食べカスが、テーブルに飛んだ。
「なんと、一千五百万ドルの山か! こいつはご機嫌だ!」
「ええ、ホントに」
 ルディは、食べカスが自分の服に飛んでないか、気にしながらうなずいた。
「よくやったルディ。まったく、おまえは頼りになる部下だ」
「ありがとうございます。よろこんでいただけて、わたしもうれしいですわ」
「あー、ところでルディ」
 ブルックスは、チキンのモモ肉にかぶりついた。
「DNAコンピュータってなんだ?」
「はい、ボス。その件はジョンから説明させます」
 ルディは、となりに立つ、黒縁の眼鏡をかけた部下に目配せした。
 だが、ジョンと呼ばれた部下は、朝っぱらからすごい食欲のブルックスを、ポカンと口を開けて見ていた。
「ジョン?」
 ルディは、返事がないので眉をひそめた。
「あ、はい、すいません!」
 ジョンは、ハッとわれに返り、あわてて小脇に抱えていたファイルケースから資料を出した。
「では、わたしからご説明します。DNAコンピュータとは、まあ、要するに演算素子にDNAを使うコンピュータのことなんです」
「DNAってのは、人間にもあるやつか?」
 ブルックスは、ポテトフライにケチャップをかけながら聞いた。
「そうです。つまりですね、DNAは、自分を複製する能力がありますよね。そのコピー機能を、計算に使うらしいのです。えーと、資料によりますと、アデニン、グアニン、チミン、シトシンの四つの塩基をですね、コンピュータの1と0に見立てるわけですね」
「はう。それで?」
 ブルックスは、マッシュポテトを口の中に放り込んだ。
「はい、ボス。またまた資料によりますと、いままでのコンピュータは、シリコンで作られたマイクロプロセッサが一つあって、それが高速に計算処理をこなしているわけですが、より高速に計算を行うには、複数のコンピュータが並列処理をするといいらしいのです。その点DNAですと、一度に何万、何億という分子が並列して、さまざまな計算処理を行なうことが可能です……こんな説明で、ご理解いただけますでしょうか?」
 ジョンは、ぐちゃぐちゃと食事に忙しいブルックスに聞き返した。
「いいから続けろ」
 ブルックスは、サラダのプチトマトを三つまとめて、口の中に投げ込んだ。プチッとつぶれて、トマトの汁が口から飛び出て、テーブルクロスを汚した。
 ルディは、その様子に、ちょっと眉をひそめたが、もちろん黙って、部下とブルックスの会話を聞いていた。
「というわけで」
 ジョンは説明を続けた。
「DNAコンピュータは、超並列マシンなわけで、いままでのコンピュータが苦手とする、ハミルトニアン経路問題などが得意らしいです」
「なんだ、そのハミルトンってのは?」
 ブルックスは、ワインをぐびりと飲んだ。
「えっと……ハミルトンではなく、ハミルトニアンですが……まあ、名前はともかく、ハミルトニアン経路問題には、いろんなバリエーションがあるのですが、古典的かつ有名なものに、セールスマン問題があります」
「ルディ」
 ブルックスは、呆れたような顔でいった。
「こいつは、わしにセールスマンの問題を聞かせるつもりらしいぞ。わしが歯医者のつぎに嫌いなセールスマンの話をな」
「まあ、そうおっしゃらず」
 ルディは、にこやかな顔で、だが心の中では、このクソ親父と思いながら答えた。
「もうしばらく、辛抱してジョンの説明をお聞きください。続けなさい」
「あ、はい」
 ジョンは、冷や汗を拭きながら続けた。
「いま仮に、あるセールスマンが飛行機に乗って、仕事のために、いくつかの都市を、すべてを立ち寄らなければならないとしましょう。このとき、セールスマンには二つの制限かあります。まずは、すべての都市が、エアラインで結ばれているわけでないこと。もう一つは、一度通った都市は、二度と通ってはいけないということ。この二つの制限が問題なのです」
「だから?」
 ブルックスは、白身魚のフリッターをグチャグチャと噛みながら首をかしげた。
「都市の数が少ないうちは紙とペンでこの問題は解けますが、都市の数が十を超えると、もう人間の頭では解くのが難しくなります。都市の数が多くなると、指数関数的に問題が複雑になるんです。都市の数が一万を超えると、かなり高速なコンピュータでも、問題を解くのに数日かかるらしいです」
「それがDNAコンピュータだと、簡単に解けるのか?」
 ブルックスは、ポタージュスープを、ずずっと音を立てて飲んだ。
「はい。ですが、いままでのDNAコンピュータでは、指数関数的に増える解の候補を表現するDNA分子を、あらかじめ用意しておかなくてはならないのです。これでは、DNAコンピュータの大きさは、すぐに地球よりも大きくなってしまう」
「だめじゃないか」
 ブルックスは、分厚いステーキにフォークを刺した。
「そうなんです。ところがですね、日本の大学で、山田一朗教授の率いる研究グループが、画期的な制限酵素を発見しました。それだけでもノーベル賞ものですが、日本人はそれをDNA分子にくっつけて、ひとつの素子にすることにも成功したんです。シトシンのメチル化を制御できるのがすごいらしいです。彼らの開発した素子は、わずか一ガロンで、現代のスーパーコンピュータに匹敵する能力があるそうです」
「よし、わかった」
 ブルックスは、ステーキを口の中でミンチにしながら、得意気にいった。
「DNAコンピュータがなんなのか、サッパリわからんが、つまり、それが一千五百万ドルで売れるわけだな」
「ええ」
 ジョンは、いままでの説明がむだと知って苦笑した。
「それがご理解いただければ、まあよろしいかと」
「そして、そいつを晃二と例の女が持っているわけだな」
「そうです」
 と、答えたのはルディだった。
「彼らはニューヨークにきます。盗聴テープにはありませんが、おそらくバイヤーがニューヨークにいるのでしょう」
「やつらがニューヨークに到着するのはいつだ」
「明日の夕方だと思われます」
「捕まえろ。そのDNAコンピュータと一緒にな」
「ええ。すでにスタンリーに指示を出してありますわ」
「スタンリーだと? あの大男じゃ頼りにならん。ルディ、おまえが指揮しろ」
「はい、ボス。お任せください」
「うははは!」
 ブルックスは、かみ砕いたステーキを飛ばしながら笑った。
「棚からぼた餅とはこのことだな! 一千五百万ドルだぞ。笑いが止まらん。うひひひ。うははは! げふっ、げふっ」
 ブルックスは、ステーキが喉に引っかかった。
「大丈夫ですか、ボス?」
「げふっ、げふっ。あー、苦しかった」
 ブルックスは、ナプキンで汚れた口を拭いた。
「水をお持ちしましょうか?」
「心配いらん。そりゃそうと、ルディ」
「はい、ボス」
「肝心のバイヤーは何者だ?」
「それは、わかりません。聞いていただいた彼らの盗聴テープが、いまわかっていることのすべてです」
「ロシアンマフィアってことだけか」
「そうです」
「ふむ。一千五百万ドルもの資金を動かせるとなると、イワノフかハチネンコか……あるいは、トドロフスキーか。その三人ぐらいだろう」
「探りを入れてみますか?」
「やめとけ。下手に動かんほうがいい。勘繰られて、誤解されてもうまくないからな。やつらのほしいものを手に入れて、そいつを買い取ってもらえりゃ、それでいい」
「賢明ですわね」
「テリーはどうした?」
「ご心配なく。ちゃんと監視しています」
 ルディは、答えながら部屋の時計を見た。
「そろそろ高飛びしそうなので、捕まえておきますわ」
「よしよし。DNAコンピュータの取引がうまくいくまでは殺すなよ」
「ええ。残念ですけどね」
 ルディは、つまらなそうに肩をすくめた。





 テリーは、ボストンバッグに、服を詰め込んでいるところだった。黒のトランクスに黒いシャツ。そして黒いスラックス。持っている服は黒ばかりだった。いつでも葬式に出席できる。自分の葬式以外は。
「いけね。ベルトが入ってねえ」
 テリーは、ベルトをとりに、クローゼットを開けた。そのとき、足がふらついた。
「おっと……」
 テリーは、クローゼットのドアにもたれた。
「まいったね。さすがに飲みすぎた」
 ひとり、つぶやく。完全な二日酔いだ。いや、四日酔いだった。酒と女をこよなく愛するテリーだが、どちらも溺れないように気をつけていた。だが、ここ数日、酒には完全に溺れていた。飲まずにはいられない。
「すまん……晃二……」
 テリーは、操り人形の糸が切れるように、ずるずると崩れ、床に座り込んだ。
「許してくれ。こうするしかなかったんだ。オレは……オレには、これしかなかった」
 仲間を裏切るという、彼の人生で、もっともありえない決断を下したそのときから、津波のように襲ってくる自責の念だった。唯一の救いは、十二年も組んできた晃二を売ったのではないと思うことだった。売ったのは奏恵だ。あんな女、どうなってもいい。
「オレは、最初から反対だったんだ……あの女と組むのは……」
 テリーは、言い訳がましくつぶやいた。女好きだからこそ、女の怖さを知っているのは事実だった。だからといって、仲間を裏切った事実が消えるわけでもなかった。
 テリーは、自責の念をふり払うように、二、三度首をふって立ち上がった。後悔はしても立ち止まることは許されなかった。
 そのとき。ドアをノックする音が聞こえた。
 テリーは、とっさに腰のホルスターから、銃を抜いた。ベレッタM92G。いままでに、何度も彼の命を救ってきた愛用の銃だった。テリーは、いままでの二日酔いがウソだったかのように、迅速にかつ無音で、ドアの横の壁に背中を張りつかせた。
 ノックの音が続いた。
「テリー。ねえ、テリー」
 女の声だった。
「いるんでしょ? 開けて。わたし、ルディよ」
 ルディだって? なぜルディが……
「お願いよ」
 ルディの声が、少し柔らかくなった。
「ちょっとでいいの。少しだけ話をさせて。あなたにとって悪い話じゃないはずよ」
 いまさら、いい話も悪い話もあるものか。テリーは、心の中で苦笑しながら、ドアの外に向かっていった。
「ルディ。なんの用だ」
「やっぱり、いたのね。ひどいじゃないテリー。わたしに挨拶もなしに、どこに行くつもりなのよ」
「用件をいえ」
「開けてよ。女を外に立たせとくほど野暮な男じゃないでしょ?」
「ふん」
 テリーは、鼻を鳴らしてドアの鍵を解除した。そのつぎの瞬間、銃を構えてドアに狙いをつけた。
「勝手に入れ」
「サンキュ」
 ドアが開いた。ルディが中に入ってくると、いい香りが漂った。香水の匂いではなかった。シャンプーの香りだ。服装も、昨晩のバーとはうって変わって、白いブラウスにジーンズというカジュアルな出で立ちだった。
 そのルディは、中に入ったとたん眉をひそめた。テリーの銃口が、ぴったり自分の頭に照準を合わせたからだ。
「オー、マイ……」
 ゴッドの部分を飲み込んで、ルディはホールドアップした。
「テリー。わたしは丸腰。あなたとやり合う気はないわ」
「ドアを閉めろ」
 テリーは、ルディに命令した。
「オーケー」
 ルディは、ゆっくりとドアを閉めた。
「鍵もだ」
「わかってるわよ」
 ルディは、いわれたとおり鍵も締めた。
「そのまま中に歩け」
「はいはい。仰せのままにご主人さま」
 ルディは、軽くタメ息をついて、部屋の中央まで歩いた。
「つぎはどうするの? ストリップでもさせるつもり?」
「黙ってろ」
 テリーは、右手に持った銃でルディを狙いながら、ボディチェックをした。彼女のいうとおり、武器は携帯していないようだった。
「慎重ね」
 ルディは苦笑した。
「これがオレのやり方だ」
 テリーは、ルディから二歩下がって、やっと銃を降ろした。
「なんの用だ」
「どうでもいいけどさ」
 と、ルディ。
「あんた、いま何月だと思ってるの? そんなコート着てて暑くないの?」
「こいつは、オレのトレードマークだ」
「見てる方が暑苦しいのよ」
「オレだって暑い」
「だったら脱げばいいじゃない」
「うるさいな。オレは夏でもコートを着てなきゃいけないことになってるんだよ」
「バカみたい。レイ・チャールズじゃあるまいし」
「おまえに文句をいわれる筋合いはない。早く用件をいえ」
「いいわ」
 ルディは、肩をすくめてから、気持ちを切り換えるように、にっこりと笑った。マフィアの女とは思えない笑顔だった。
「ねえテリー。わたしって、魅力ないの?」
「はあ? オレは、用件をいえといったはずだ」
「だから、いってるんじゃない。ずっと聞きたかったのよ。女好きのあなたが、なぜわたしに手を出さないのか」
「なにを聞くかと思えば」
 テリーは眉をひそめた。
「くだらん質問に答える義務はない。出てけ」
「くだらないですって?」
 ルディは、大げさに手を広げた。
「冗談じゃないわ。女にとっては、これほど重要なことはない。ねえ、なんでいままで、わたしの誘いを断り続けたの?」
「BBの女を寝取るほど、オレはバカじゃないからだ」
「わたし、ボスと寝たことはないわ」
「そうかい。どっちにしても、オレには関係ないことだ」
「わたしにはあるわ」
 ルディは、ブラウスのボタンをひとつ外した。
「あなたと寝たかったの」
「やめろ。そんな気分じゃない」
「わたしは気分なのよ」
 ルディは、艶かしい表情を浮かべて、テリーに抱きつこうとした。
「やめろ」
 テリーは、一歩下がって銃を構えた。
「魂胆みえみえだぜ。どうせブルックスにいわれてきたんだろ。オレを殺して、渡した金を回収してこいってな」
「たかが、五〇万ドルを?」
 ルディは、呆れたといわんばかりに、苦笑を浮かべた。
「あなた、うちのボスが、そんな小物だと思ってるわけ?」
「金の亡者なのはたしかだ」
「仲間を五〇万ドルで売った男の言葉とは思えないわね」
 とたん、テリーの顔が凍りついた。
「ふふ。痛いとこ突かれたって顔ね」
「出て行け」
「ねえテリー。そんな怖い顔しないでよ。わたしのプライドにかけて誓うわ。ボスから、あなたを殺せなんて命令は受けていない」
「うそだ」
「うそじゃない」
 ルディは、テリーに一歩近づいた。そして、切なそうな顔を浮かべた。
「信じて、テリー。あなたに抱かれたいの。本気よ」
 ルディは、ブラウスのボタンをすべて外した。ブラジャーはしていなかった。大きくはないが形のいいバストがあらわになった。
「あなたは、どこかへ行ってしまう。行き先を知るつもりもない。だから、これが最後のチャンス。お願い、抱いて」
「やめろ……」
 テリーは、低くうなった。だが、自分に近づくルディから逃げなかった。いや、逃げられなかった。そのブルーの瞳は、あまりにも魅力的だった。
「これ以上、女に恥をかかせないで」
 ルディは、テリーに抱きついた。
「あなたを、ちょうだい」
「バカな女だ」
「知ってる。そして……あなたもバカな男だってね」
「くそっ」
 テリーは、乱暴にルディを抱きしめた。唇を重ね、舌を絡ませた。もうどうにならない。テリーの中で炎が点火した。
「ベッドに連れてって」
 二人は、激しいキスをしたまま、ベッドルームに入った。ルディは、テリーから離れ、ベッドに腰を下ろした。そして足を開くと、唇をなめながら、人指し指でテリーを手招きした。その顔は、まるで娼婦だった。
「カモン、テリー。楽しませて」
 燃える。点火した炎は、いっそう熱く燃え上がった。テリーは、銃を枕元に投げ捨てると、じれったそうに、黒いコートとシャツを脱いだ。
 そのとたん。
 ベッドルームに、銃を持ったサングラスの男たちがなだれ込んできた。テリーは、とっさに、投げ捨てた銃に飛びついたが、ルディの方が早かった。
「タイムアップ」
 ルディは、銃口をテリーのおでこに当ててウィンクした。
「ごめんねテリー。ここまでよ」
「き、きさま……」
 テリーは、サングラスの男たちに銃を向けられて、ルディをにらみつけた。
「うふ。あなたの怒った顔が好きよ」
 ルディは、娼婦の顔でほほ笑んだ。
「わたしの、カモンって言葉が突入する合図だったの」
 テリーは、思わずルディに手をあげた。だが、その腕をサングラスの男に押さえつけられた。
「やられたよルディ。盗聴器まで仕掛けられてたとはな。さっさと殺せ」
「殺さないわ。いったでしょ。あなたを殺せなんて命令は受けてないって」
「どういう意味だ」
「言葉どおりよ」
 ルディは、テリーのほほに軽くキスをして立ち上がった。その顔はすでに、マフィアに戻っていた。そして、マフィアの顔で、部下たちにいった。
「テリーを連れてきなさい。丁重にね。大事なお客さまだから」
「サノバビッチ!」
 テリーは、ルディの部下に押さえつけられながら叫んだ。
「晃二だな! きさま、晃二の情報がほしいんだな。くそっ! なんてヤツだ、恥を知れルディ!」
「あははは!」
 ルディは、声を上げて笑った。
「恥ですって? 傑作だわ! 仲間を売った男に説教されるなんてね!」
 テリーは、ルディの屈辱的な言葉に、顔を真っ赤に高揚させた。だが、なにもいい返せなかった。





 東京。

 奏恵と晃二は、周囲に目を配りながら空港のロビーを歩いていた。大きな旅行鞄を転がしながら、まるで新婚旅行に行くかのように、二人は腕を組んでいた。
 奏恵は、まるで別人だった。カジュアルではあるが、明らかにブランド物の服に身を包み、派手ではないが、最近流行りの化粧をした顔は、プロのモデルといっても通用しそうだった。大学にいた奏恵しか知らない者が見たら、その変貌ぶりに、同一人物と気づかないかもしれない。もっとも、こちらが本来の奏恵なのだが。
「アメリカが余計なことやったせいで、ずいぶん警官が増えたわね」
「まあね。それより、気がついてるか?」
「もちろんよ。成田に着いたとたん、尾行されてる」
 奏恵は、軽くタメ息をついた。きのう、大学にきたような、いかにもマフィアという男たちの姿はなかったが、尾行の気配をビンビンに感じる。
「空港に張ってるとは思ったけど……あっさり見つかっちゃったわね。どうする? 銃は置いてきちゃったわよ」
「空港で派手なアクションはないさ。この警備なら、BBの手下もうかつに手は出せないはずだ」
「皮肉なものね。警官が多くて助かるなんて」
「まったくだ。泥棒のプライドが傷つくね」
 晃二は、肩をすくめてから腕時計を見た。もうすぐ搭乗時間だ。わざと、時間ギリギリに成田に着いたのだ。
「急ごう」
 二人は、チェックインカウンターに急いだ。事前に購入しておいたフライトクーポンとパスポートを出す。晃二も奏恵も、偽造パスポートだった。名字は同じ。少しでも不審に思われないように、夫婦に見せたかった。ご丁寧に二人は、マリッジリングも左手の薬指にはめていた。そのおかげというわけでもないが、まったく不審に思われることなく、フライトクーポンはボーディングパスに変わった。
 晃二は、となりのカウンターをちらりと見た。サラリーマン風の白人の男が、チケットを購入していた。そのサラリーマン風の男は、晃二の視線に気づいて、ニヤリと笑った。彼らは、尾行に気づかれても動揺している気配はなかった。
「余裕かましてくれるじゃんか」
 晃二は苦笑を浮かべると、皮肉に皮肉で応えるように、尾行しているBBの部下に、不敵な笑いを返してやった。
「奏恵」
 と、晃二。
「やつらも同じ飛行機に乗り込む気だぞ」
「空席があったのかしら」
「どうかな。それにしても手際がよすぎる」
「まさか、空港の職員を買収してあるとか? そこまでは考えすぎかな」
「いや」
 晃二は、真剣な顔で首をふった。
「BBのことだ、ありえない話じゃない。どうする? いまなら、まだ引き返せるぞ」
「冗談」
 奏恵は、話の内容とは、まるでマッチしない、新婚の奥さんふうに笑顔を浮かべた。
「もうあとへは引けないわ。向こうの空港を出たあとの手配は?」
「大丈夫。万が一を考えて、プランCまで準備してある」
「相変わらず慎重ね」
「この稼業で、一番必要な資質だよ」
「皮肉に聞こえるわ」
「きみが慎重じゃないって? まあ、そうかもな」
 晃二は苦笑した。
「とにかく、車の心配はない」
「またポルシェ?」
「当然だ。ぼくはポルシェ以外信用しない。と、いいたいところだけど、今回はさすがに目立つ。BMWを頼んでおいた」
「それでもドイツ車なのね」
 奏恵は苦笑した。
「逃走にはドイツ車を使えって、テリーに教わったのかしら?」
「違う。テリーはイタリア車がお好みだ。まったく信じられないね。あんな壊れまくる車をよく使えるもんだよ」
「壊すのが好きなのよ。仲間との関係も、自分の人生さえもね」
「辛辣だな」
 晃二は、そう答えたが、奏恵の意見に反対したわけでもなかった。
 出国ゲートへ向かうころには、晃二も奏恵も、尾行の気配を気にしなくなっていた。気にしてもしょうがない。
 ボディチェックは、まったく問題なく通過した。手荷物のX線検査も問題はなかった。あるはずがない。引っかかりそうなものは、なにも入れていないのだから。試験管に入っていた、DNAコンピュータ素子は、奏恵の化粧水のビンに移しかえてある。
 出国審査も、偽造パスポートでなんなくクリアした。さすがに晃二は、尾行している男を思い出し、審査ゲートをくぐったあとに、ちらりと後ろをふり返った。その男も当然のごとく、なんの障害もなく審査をパスした。
 なるほど、テロリストが、自由に行動できるわけだと晃二は思ったが、自分も偽造パスポートなのを思い出し、思わず心の中で苦笑した。
 搭乗のアナウンスがかかった。JFK空港に降り立つのは、現地時間の午後五時のはずだった。





 どこかの地下室で、テリーは、椅子に座らされていた。手も足も縛られ、身動きがとれなかった。テリーは、もう諦めたような、しかしルディに騙された怒りが消えないような複雑な表情を浮かべていた。そのルディは、部屋にいなかった。
「バカな野郎だ」
 スタンリーがいった。
「ルディのやり口はわかっていただろうに」
 スタンリーと一緒に、テリーを監視している男たちも、クククと低い笑い声を漏らした。
「いうな」
 テリーは、スタンリーをにらんだ。
「オレはいま、激しく後悔している」
「女好きの性格が身を滅ぼしたってわけだ。オレも気をつけなきゃな」
「ふん。心配するな。おまえによってくる女なんかいねえよ」
「いってくれるぜ。オレだって、けっこう女にモテるんだぜ」
「バカめ。金が目当てに決まってるだろ。鏡をよく見ろ。おまえのお袋だって、こんな息子生まなきゃよかったと思うさ」
「楽しい野郎だ」
 スタンリーは、テリーの胸ぐらをつかんだ。
「おい、おまえら。何発ぶん殴ったら、こいつがオレに謝りたくなるか、賭けようじゃねえか」
「三発ぐらいじゃなねえですか?」
「いや、五発は持ちますよ」
 男たちが、ニヤニヤしながら答えたときだった。
「やめなさい」
 ドアが開き、ルディが入ってきた。
「スタンリー。テリーに手を出すなといっておいたはずよ。忘れたの?」
「べつに」
 スタンリーは、肩をすくめてテリーの胸ぐらをつかんでいる手を離した。
「手なんか出しちゃいねえよ」
「そう。だったらいいわ」
 ルディは、持っていたバッグをテーブルの上に置いた。
「テリーの前に、あんたをお仕置きするのは面倒だからね」
「ルディ」
 テリーは、努めて冷静な声を出した。
「むだなことはやめろ。オレは、なにもしゃべらない。さっさと殺してくれ」
「そんなに慌てないでよ」
 ルディは、ニッコリ笑顔を浮かべると、バッグを開けた。
「あなたのために、いろいろオモチャを持ってきたの。使わなきゃもったいないわ」
 そういって、ルディがバッグから出したのは注射器だった。それだけではない。メスやペンチのような医療器具もあった。清潔な病院の手術室で見ても、充分に不気味な器具ばかりだ。それを薄暗い地下室で見るのは、楽しい体験ではなかった。
 スタンリーは、思わず、ゴクリとつばを飲みこんだ。
「ルディ。なにをやらかすつもりだ?」
「あんたは黙ってて」
 ルディは、バッグからアンプル剤を取り出した。
「でもよ……」
 スタンリーは、戸惑った声でいった。
「ボスから、まだ殺すなっていわれている。あんまり危険なことはするなよ」
「危険? なにが?」
 ルディは、注射器に、アンプルの薬品を注入した。
「危険なことなんてなにもないわ。これからは、わたしとテリーの楽しい時間。それともスタンリー。あんたもテリーと一緒に、チオペンタールナトリウム打ってみる? けっこう楽しいかもよ」
「遠慮しておく」
 スタンリーは、首をふった。
「オレは、ヤクはやらねえ。あれは売るものだ」
「ご立派ですこと」
 ルディは、口元をゆがめた。
「だったら、出て行きなさい。わたしとテリーの楽しみを邪魔されたくないわ。あんたたちもよ」
 ルディは、男たちに冷たい声でいった。
「人のデートを覗き見しちゃいけないわ。そうよね? さあ、早く。出ていって」
 男たちは、肩をすくめながら部屋を出ていった。
「テリー」
 スタンリーは、テリーの肩に手をおいた。
「悪いことはいわねえ。さっさとゲロっちまいな。抵抗しても痛い思いをするだけだぜ」
「うるせえ」
 テリーは、吐き捨てるように応えた。
「ホントにバカな野郎だぜ」
 スタンリーは、やれやれと首をふって出口に向かった。
 ルディが、ドアを開けて待っていた。
「なあ、ルディ」
 スタンリーは、部屋を出る前に、もう一度だけルディに声をかけた。
「やりすぎないでくれよ。マジで頼むぜ」
「わかってるわよ」
 ルディは、スタンリーの背中を小突いて部屋から押し出した。そして、テリーをふり返りながらドアを閉めた。
「テリー……やっと二人きりよ」
 ルディは、後ろ手で、鍵をカチャリとかけ、妖しい笑みを浮かべた。
「この日がくるのを、ずっと、ずっと待っていた。やっと願いがかなうのね」
 テリーは、ルディの青く澄みきった瞳を見つめた。なにか気の利いたことをいおうと口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。いまのテリーにできることは、これからはじまるショーを、ただじっと待つだけだった。





 翌日。午後五時半。

 奏恵と晃二は、空港のセキュリティスタッフはもちろん、BBの手下からも、なんの妨害も受けず、JFK空港のロビーを歩いていた。
「ここまでは順調ね」
 奏恵は、空港ロビーを見回した。成田空港以上に警官の数が多い。
「BBの手下が、ここでドンパチはじめるほどバカじゃないのはいいけど……空港を出たとたん、その反動が来そうで怖いわ」
「ああ」
 晃二は、まわりを警戒しながら、駐車場に足を向けた。
「テリーが今度の山をしゃべってるとしたら、ぼくらの持っているものの価値をBBは知っている。そりゃ必死にもなるさ」
 晃二は、後ろをちらりとふり返った。尾行する男たちの数が増えている。ざっと十五人はいそうだ。いくらBBでも、これだけの数を、奏恵を捕まえるためだけに使うとは思えなかった。
「つまり」
 と、奏恵が、どこか得意顔でいった。
「狙われているのは、あたしだけじゃないってことよね」
「自分でいっといて、認めたくはないが……たぶんね」
「呆れたわね。いいかげん現実を見なさいよ。テリーは、あんたを裏切ったのよ」
「わかってるって。奏恵ほどじゃないけど、ぼくだって充分に現実主義者だ。だからこそ気になるんじゃないか」
「なにが?」
「成田といい、ここといい、いくらなんでも手回しがよすぎる」
「気が合うわね。あたしもそう思うわ」
「理由はなんだと思う?」
「じつは、あんたも、あたしを裏切ってるとか?」
「おいおい」
 晃二は、思わず苦笑した。
「ぼくがBBと通じてるっていうのか? 疑心暗鬼を生ずる気持ちはわかるけどね、いくらなんでも、それは飛躍しすぎだよ」
「じゃあ、理由は……」
 奏恵は、そこまでいって言葉を切った。そして、自分の肩にかかっているプラダのショルダーバッグを見た。大学を逃げるときから、ずっと使っていたバッグだ。
「まさか……」
 奏恵は、ゴクリとつばを飲んだ。
「そのまさかだと思うよ」
 と、晃二。
 奏恵は、晃二に無言でうなずくと、ゆっくり音を立てないように、バッグの中身を確認した。すると、底の方にボタン型の盗聴器が落ちていた。発信機も兼ねているタイプだ。
 奏恵は顔をしかめ、小声でいった。
「筒抜けだったわけだ。どうする?」
「逆に利用できる」
 晃二も小声で、奏恵の耳元でささやいた。
「まだ、盗聴器に気づかないふりをしておこう」
「どうやって利用するつもり?」
「任せとけって」
 晃二は、奏恵にウィンクすると、携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけた。盗聴器に聞かれないように、ぼそぼそと小声で会話した。
「オッケイ」
 晃二は、携帯電話を閉じた。
「手は打った」
「どこに電話したの?」
「いつもの便利屋だ」
 晃二は、そう答えたあと、奏恵の耳元で計画を話した。
「なるほど」
 奏恵は、思わず苦笑した。
「晃二らしい派手な計画だわ」
「おほめに預かりましてどうも」
「それにしても――」
 奏恵は、そこまでいって言葉を切った。
「なんだい?」
 晃二が、先を促す。
「べつに」
 奏恵は、肩をすくめた。
「あんたが裏切り者でなくてよかったと思っただけ」
「ぼくは、きみを裏切らない」
「だといいけどね。でも……この仕事が終わったら、コンビを解消した方がいい」
「潮時か?」
「ええ。あんたとは長く付き合いすぎた」
「きみは……本当にクールだな」
 晃二は、軽く肩をすくめた。
 そうこうするうちに、二人は駐車場に入った。尾行している男たちが、距離を詰めてきた。全員が、自然と足早になっていた。
「そろそろ、アクションタイムかしら」
「まだだ」
 晃二は足を止めた。そこにはBMWが停まっていた。ニューヨークの便利屋に依頼しておいた品だ。もちろん表の稼業ではなく、裏の世界の便利屋。金さえ出せば、戦車だって用意できる。
「よしよし。注文どおりだ」
 晃二は、満足げにうなずくと、ヘルメットをかぶってバイクにまたがった。BMWのR1150RS。色はチタンシルバー。そう。BMWはBMWでも、それは四輪車ではなかった。いうまでもなく、二〇〇四年の最新式モデルだ。
「バイク?」
 と、奏恵。
「そうさ。まさか渋滞にハマって、BBの手下と銃撃戦でもやりたかった?」
 じっさい、JFK空港から市内へアクセスする道は、よく渋滞する。晃二はそのことをよく知っていた。
「やりたかったかもよ」
 奏恵は笑いながら、カモフラージュで持っていた旅行鞄を放り出した。本当に大事なのは、肩にかけているプラダのバッグだけなのだ。
「でもま、いまは、すっ飛ばして逃げるのが一番いいみたいね」
 奏恵は、少し前髪を直してヘルメットをかぶり、晃二の後ろに飛び乗った。
「そういうこと!」
 晃二は、エンジンをかけた。どんと腹に響く振動が伝わった。
「しっかりつかまってろよ!」
「オッケイ! 飛ばして!」
 晃二は、アクセルを全開にした。タイヤが空転して煙が上がった。つぎの瞬間。前輪がふわっと浮かぶ。晃二は、そのままバイクをウイリーさせながら、駆け寄ってきたBBの手下の中に突っ込んだ。
「うわっ!」
 BBの手下たちは、思わずBMWをよけた。奏恵は、右手をあげて、中指を突き立てて見せた。
「ざまみろ! 鬼さん、ここまでおいで!」
 だが、奏恵の得意そうな声は、すぐ舌打ちに変わった。BBの手下もバイクを用意していた。黒い塗装のホンダだ。晃二のBMWの進路に立ちふさがる。
「ちっ。やるじゃんBB」
 と、奏恵。
「まったくだ。敵を侮るなかれだな」
 晃二が答えたとき、BBの手下は、フルフェイスのヘルメットを脱いで顔を見せた。
「スタンリー」
 晃二も、苦笑しながら、ヘルメットのフードをあげた。
「あんたがお出ましとはね。BBは、よっぽど、ぼくらの持っているものに興味があるようだな」
「めんどくさい話は抜きだ」
 スタンリーはいった。
「晃二。悪いことはいわん。女と、持っている品を渡せ。そうすれば、おまえには手を出さん」
 奏恵は、ゴクリとつばを飲んで晃二の返答を待った。
「魅力的な提案だ」
 晃二は、スタンリーにほほ笑みを浮かべた。
「でも答えはイエスじゃない。たとえBBでも、人の山を横取りってのは、流儀に反するじゃないか」
「その女が関わってるからだ」
「そんなの理由にならないね」
「うちのボスに歯向かう気か。後悔するぞ」
「ご忠告どうも。もう遅いけどね」
「どういう意味だ」
「とっくのむかしに、後悔してるってこと!」
 晃二は、フードを閉じて、アクセルを吹かした。そして、スタンリーの脇を猛スピードで駆け抜けた。
「バカなヤツ」
 スタンリーは、肩をすくめてヘルメットを被り直すと、アクセル全開でスピンターン。晃二たちを追った。
「ねえ晃二!」
 奏恵が、背中で叫んだ。
「いったい、いつから後悔してたの!」
「三年前、きみと出会った瞬間からさ!」
「どーいうことよそれ!」
「さあね!」
 晃二は、駐車場の出口を突破した。セキュリティガードが、大声を叫びながら飛び出してくるのがバックミラーに見える。もちろん、スタンリーのバイクも見えた。
 さて……どうするかな。一般道に入るか高速を使うか。晃二は、先の二股を、どちらへも分岐できるように、道の中央を走っていた。
 そのとき、奏恵が、晃二の肩を叩き、高速の方を指さした。
「ダウンタウンまで、ぶっ飛ばして!」
 奏恵は、エンジンの音で聞こえないとわかっていても、大声で叫んだ。
 晃二はうなずいて、ふたたびアクセルを開けた。
 JFK空港から、高速を利用してマンハッタンに向かうには、北上するルートと、西に進むルートがある。西側はブルックリンの海岸線を回り込むので、かなり遠回りだ。だから晃二は、バンウィック高速道路を北上して、フラッシング・メドウ・コロナ公園に出るルートに向かった。
 フラッシング・メドウ・コロナ公園までは、何事もなかった。問題はこの先だ。公園の先にジャンクションがあり、ルートが二手に分かれる。そのまま北上続けて、ラガーディア空港の南側から、ワーズアイランドを通って、マンハッタン124ブロックに入るか、それともロングアイランド高速道路に乗って、クイーンズのミッドタウンからマンハッタンの36ブロックに入るか……
 もしも四輪だったら、晃二は迷うことなく、北上するルートを選んだだろう。距離的には、ミッドタウンを通った方が近いのだが、いうまでもなく、ミッドタウンを通るルートは渋滞する。しかし、いまはバイクだ。
 晃二は、ジャンクションを左折して、渋滞を覚悟でロングアイランド高速道路に乗った。ここからが正念場だ。
 スタンリーも、晃二がどのルートを選ぶか充分に予想していた。晃二が、予想どおりのルートに入ったので、ホンダのアクセルをいよいよ開けた。
 晃二も、アクセルを開いた。猛スピードで、自動車の間をすり抜ける。スピードメーターは二〇〇キロを軽く超えていた。さすがの奏恵も、必死に晃二にしがみつく。
 ホンダは、徐々に距離を詰めてきた。
 くそっ。不利だ。と、晃二は思った。奏恵が重いとはいわないが、こっちは大人二人分の体重を運んでいる。
 そのときだった。前を走るトラックの荷台が開いた。中から、黒いバイクが、何台も飛び出してくる。
「マジかよ!」
 晃二は、急ブレーキをかけてリアタイヤをスライドさせながら、側道に逃げ込んだ。多勢に無勢。高速では逃げきれない。晃二は、とっさにそう判断すると、そのまま側道を通って、出口を降りた。

『晃二のバイクが、高速を出ます』
 ルディの無線機に通信が入った。彼女は、まさに、その出口の下で待機していたのだ。
「了解」
 ルディは、計画どおりに事が運んでいることにニヤリとすると、助手席に置いてあるハンドバッグから、ベレッタを取り出した。
「ふふ」
 ベレッタのグリップを握って、ルディは妖しく笑った。
「テリー。あなたの銃を使ってあげるわ。わたしって、優しいから」
 ルディは、真っ赤なアルファロメオから降りた。ちょうど、晃二のバイクが降りてくるところだった。ルディは、ベレッタを構え、バイクのタイヤを狙った。
 晃二にも、真っ赤なアルファロメオは見えていた。だが、そのときはすでに遅かった。罠にはめられたと気づいた瞬間、前輪がパンクしていた。
 晃二は、なんとかバイクをコントロールした。タイヤがバーストしなかったのが唯一の救いだった。横転する、寸前でバイクを停める。
「やられたよ奏恵」
 晃二は、ヘルメットを脱いだ。
「ルディまでお出ましだ」
「ホント」
 奏恵もヘルメットを脱いだ。
「あなたらしくない失態ね」
「きみが高速に乗れっていうから……いや、人のせいにするのはよくないな」
 晃二は、肩をすくめた。
 バイクに乗った、BBの手下たちも、ぞくぞくと高速から降りてきた。そのしんがりには、スタンリーのホンダも見えた。
「さあ、どうする?」
 と、晃二。
「あんたは、もう抜けてもいいわ」
「なんだって?」
「あんただけなら、殺されないでしょ。でも、あたしは違う。BBに捕まるくらいなら自殺した方がマシ」
 とたん、奏恵は、バイクから飛び下りると、脱いだヘルメットで、降りてきたBBの手下をぶん殴った。その手下は、バイクのハンドルから手を離して転んだ。
 間髪を容れず、奏恵は、ライダーを失ったバイクを起こして、飛び乗った。
「ったく、よくやるよ!」
 晃二も、すぐさま奏恵のバイクに乗り、今度は自分が、奏恵の背中にしがみついた。
「まだ付き合う気!」
「いっただろ、ぼくはきみを裏切らないって!」
「物好きね!」
 奏恵はアクセルを全開にした。
「往生際が悪い!」
 ルディは、走り出す奏恵のバイクにベレッタを向けた。だが引き金を引けなかった。なにかが顔面に向かって飛んできたのだ。ルディは、とっさに、よけた。それは、晃二が投げたBMWの鍵だった。ルディが顔を上げたときには、奏恵のバイクは、ミッドタウンに向けて走り出していた。
「シット!」
 ルディは、アルファロメオの運転席に飛び乗ってアクセルを踏んだ。そのとき、部下のだれかが銃を構える姿が見えた。
「発砲するな!」
 ルディは無線機に叫んだ。
「女を殺したら、わたしが、あんたたちをひねり殺すよ!」
 奏恵のバイクは、信号を無視して走り去った。ルディも、クラクションの嵐を受けながら信号を無視して奏恵を追う。
『ルディ』
 無線機に、スタンリーの声が入った。
『おまえは無茶するな。オレが追う』
 あんたに、任せておけないから……と、ルディは喉元まで出かかって、なんとかその言葉を飲み込んだ。渋滞にハマったのだ。
「もちろんよ。見失わないで」
『了解』
 その返答と同時に、スタンリーのバイクが、アルファロメオの脇を駆け抜けていった。
「スタンリー!」
 ルディは、叫ばなくても聞こえるとわかっていても叫んだ。
「たぶんあいつらクイーンズボロ・ブリッジを渡るわ!」
『わかってる。耳元で怒鳴らないでくれ』
 奏恵は、ルディが予測したとおり、クイーンズボロ・ブリッジに向かっていた。車の間を、すいすいとすり抜け、ニューヨークシティでは、まるで暴走族のように走ると有名な、イエローキャブも目じゃなかった。だが、つぎつぎとイエローキャブの窓が開き、アラブ人やイタリア人やメキシコ人らしい顔つきの運転手たちが、奏恵のバイクに罵声を浴びせた。それは、奏恵の運転が悪いからだけではない。ニューヨークシティではいつものことだ。イエローキャブの運転手は、どんな些細なことにでも、窓を開けて、罵声を浴びせる。彼らは、常に罵詈雑言辞典を携帯しているに違いない。だから、奏恵は、まったく気にしなかった。追ってくるスタンリー以外は。
「しつこいわね、スタンリー!」
「たしかに。それはそうと、奏恵も運転うまいね」
「当然でしょ!」
 奏恵のバイクは、クイーンズボロ・ブリッジを渡った。ついにマンハッタン島だ。橋を抜けると、渋滞は少しマシになった。
「ねえ晃二! レキシントン・アベニューは右折できたっけ?」
 いまさら、交通規制を守るつもりなのかと、晃二は心の中で苦笑した。
「できるよ。でも、このまま直進して、六番街まで走った方がいい」
「わかった! 飛ばすわよ、落ちないで!」
 奏恵は、レキシントン・アベニューを突っ切って、いよいよミッドタウンの中心街に入った。六番街を右折して、グラマシー方面に向かう。ビルの間から、ちらりとエンパイアステートビルの先端が見えた。十ブロックほど進んだところで、奏恵は、また右折した。一方通行だったが、かまうことはなかった。
「ほら!」
 と、晃二。
「どうせ、交通規制なんか無視すると思った!」
「うるさいわね! 知らなかっただけよ!」
 今度こそ、クラクションの嵐。罵声を浴びせるイエローキャブの窓からは、コーラの缶まで飛んできた。
「大人気だな!」
「これだから、ニューヨークシティは嫌いよ!」
 奏恵は、バイクを停めて、飛び下りた。そこは、エンパイアステートビルの正面だった。晃二も、バイクを降りて、二人で中に走った。エスカレーターを駆け上って二階に上がる。
 エンパイアステートビルは、エレベーターの化け物だ。六七基ものエレベーターがある。奏恵は、セキュリティガードを突っ切り、とにかく一番最初に目についた、上に上がるエレベーターに飛び乗った。いうまでもなく、観光客が並ぶ展望台に昇るエレベーターには目もくれなかった。晃二も後に続く。スタンリーが追いかけてくる姿が見えた。エレベーターのドアが閉まる前に、スタンリーがセキュリティガードに取り囲まれる姿も見えた。
「どうやら」
 と、奏恵は、エレベーターの昇降表示を見ながらいった。
「あたしの運はまだ尽きてないみたい」
「ぼくらの運だよ」
 晃二は、奏恵の言葉を修正してから、腕時計を見た。予定より五分遅れている。
「もっとも、ぼくらもセキュリティガードに捕まらなきゃの話だけどね」

 そのころ二階のロビーでは、スタンリーが、セキュリティガードに身体検査をされているところだった。
「勘弁してくれよ」
 スタンリーは、セキュリティガードたちにいった。
「このオレがテロリストに見えるっていうのか? 誤解もいいとこだぜ」
「黙ってろ」
 セキュリティガードの一人がスタンリーをにらんだ。
「やれやれ」
 と、スタンリー。
「ニューヨークも住みにくくなったもんだ」
 そのとき。エスカレーターをルディが駆け上がってきた。
「スタンリー! あいつらは?」
「ご覧のとおりだ」
 スタンリーは、両手を広げて苦笑を浮かべた。
「やつらは、エンパイアステートビルでデートでも楽しみたいらしい。それより、オレがテロリストじゃないって、こいつらに納得させてやってくれよ」
「バカ!」
 ルディは、スタンリーに怒鳴ったあと、セキュリティガードたちにいった。
「この男の前に、東洋人が二人逃げ込んできたでしょ!」
「わかっていますよ」
 と、セキュリティガード。
「彼らのことも追っています」
「そう。それはよかった。たぶん、早く捕まえた方がいいと思うわ。わたしのバッグを盗んだやつらだから、ここのオフィスからもなにか盗むでしょうよ」
「あなたのバッグを?」
「そうよ。黒いプラダのバッグ」
「失礼ですが……ミス、お名前をうかがいたいのですが」
「マクミラン。ルディ・マクミランよ」
 ルディは、ハンドバッグから運転免許証を出して、セキュリティガードに見せながらいった。アメリカでも、ほとんどの場合、運転免許証がIDカードの代わりなのだ。
「ちなみに、あんたたちがボディチェックしている大男は、わたしのボディガードよ。どうやら、役立たずだったみたいだけどね」
 スタンリーは、不機嫌そうな顔で肩をすくめた。

 そのころ晃二と奏恵は、エレベーターを乗り継いで、八〇階まで上がっていた。展望台に続く非常階段のドアの鍵を開けているとき、セキュリティガードに見つかった。
「いたぞ、あいつらだ!」
 ガードの一人が叫んだ。
「早く晃二!」
「わかってるって!」
 晃二は、細い針を鍵穴に入れて回していた。ピンと抵抗があった。
「よし開いた!」
 晃二は、すぐさまドアを開け、非常階段に飛び出した。だが、階段を駆け登るスピードは奏恵の方が早かった。
「体力あるなあ!」
「早く! だらしないわよ、晃二!」
「きみには、かなわないよ!」
 晃二は、必死に奏恵を追った。二人は、六階分を一気に駆け上がり、野外展望台に出た。昼の長い六月とはいえ、すでにニューヨークシティの空は、オレンジ色に染まっていた。
 展望台には、マンハッタンの夜景を楽しもうと、大勢の観光客がいた。晃二は、その観光客を見回した。
 すると。
「九分も遅刻だぜ」
 背中から、男に声をかけられた。
「すまん、ジャクソン」
 晃二はふり返った。小柄な黒人の男が立っていた。
「いいから早くしな」
 ジャクソンと呼ばれた、便利屋の男は晃二にバックパックを二個渡した。
「あんたに逃げてもらわないと、金が支払われないからな。今回は高くつくぜ」
「わかってる。いつもの口座に振り込んどくよ」
 晃二は、便利屋に答えながら、受け取ったバックパックの一個を奏恵に渡して、自分も一個を背負った。
「よろしく」
 便利屋の男は、晃二にウィンクして、観光客の中に紛れ込んだ。
 そのとたん。
「いたわ、あそこよ!」
 ルディが、セキュリティガードと野外展望台に上がってきた。
 数人のセキュリティガードは、一斉に晃二と奏恵に銃を向けた。
 観光客が騒然となる。
「行くぞ奏恵!」
「オッケイ!」
 晃二と奏恵は、パニックに陥っている観光客をかき分けて、野外展望台の金網に取りついた。計画どおり、金網の一部が簡単に取り外せるようになっていた。
「ジャクソン、いい仕事するじゃない!」
 奏恵が叫びながら、金網の外に出た。
「ああ、バカ高い料金を請求されそうだ!」
 晃二も外に出た。八六階の高さ。目が眩む。自分で計画したこととはいえ、ここから飛ぶのか?
「行くわよ晃二!」
 奏恵は、まったく動じることなく叫んだ。
「あ、ああ」
 晃二は、ゴクリとつばを飲みこんだ。
「1、2、3で飛ぼう」
「オーケイ! 1!」
 奏恵は、1と数えたとたん、飛び下りた。
「フライングだ!」
 晃二は叫んだ。だが、そのつぎの瞬間、意を決して飛び下りた。
「なんてことを!」
 セキュリティガードが、血の気の失せた顔で、金網に取りついた。
 ルディも、展望台の下をのぞいた。赤と青のパラシュートが、仲良く開いて、晃二と奏恵が優雅にニューヨークシティをスカイダイビングしているところだった。
「ニューヨーク市警に連絡しろ!」
 セキュリティガードの一人が、同僚に叫んでいた。その同僚は、どこかに無線で連絡していた。ほかにセキュリティガードも、パニックに陥っている観光客を安全な場所に誘導するのに忙しかった。
「スタンリー」
 ルディは、そんな大騒ぎをよそに、発信機の受信装置を見ながらいった。
「追うわよ」
「了解、ルディ」
 ルディとスタンリーは、エレベーターに向かった。

「うまくいったわね!」
 奏恵は、セントラルパークを見ながら、となりを飛ぶ晃二に叫んだ。
「当然だ! ぼくのプランが失敗するわけがない!」
「ウソばっかり!」
 奏恵は笑った。
「本当は、冷や冷やしてたくせに!」
「奏恵こそ、必死だったじゃないか!」
「当たり前でしょ、こっちは命がかかってるんだから!」
「ぼくだって、命懸けだ!」
「あんたは、殺されないわよ!」
「どうかな? それはともかく、命懸けなのに変わりはない!」
「どうして?」
「ぼくは……ぼくは、高いところが嫌いなんだ! 奏恵がうらやましいよ!」
「悪かったわね、高いところが好きで!」
「ホント、きみには負けるよ!」
 あまりロマンチックとはいえないランデブーは、数分で終了した。二人はセントラルパークに降りた。

 その数分後。ルディたちは、晃二たちを追っていた。
「その角を曲がってくれ」
 アルファロメオの助手席に座ったスタンリーが、受信機を見ながらいった。
「ソーホーね」
 ルディは、アルファロメオのハンドルをソーホーに向ける。
「逃がさないわよ晃二」
「ったくな」
 スタンリーは、頭を掻いた。
「まさか、エンパイアステートビルからダイビングするとは……さすがのルディも思いつかなかったってわけだ」
「あんたが晃二たちを捕まえてれば、こんな苦労はしなくてすんだのよ」
「オレは、おまえの指示通り動いただけだぜ」
「すべて、わたしの責任だっていいたいわけ?」
「べつに」
 スタンリーは肩をすくめた。
「そういうわけじゃねえが……晃二は天才だよ。度胸もある。侮らない方がいい」
「ふん。天才だろうがなんだろうが、仲間に裏切られて逃げ回ってるのに変わりはないわ。最後に笑うのはわたしよ」
「もちろん、そうだろうさ。おっと、その角を右だ。そろそろ近いぞ」
 ルディは、右折した。晃二たちの姿は見えなかった。
「どこよ?」
「もうちょいだ……あと五十メートル。つぎのブロックを左だ」
「オーケー」
 ルディは、アルファロメオのスピードを少しあげた。ブロックをすぎて左に曲がる。しかし、晃二たちの姿はなかった。
「いないじゃない」
「くそっ、やられた!」
 スタンリーは、受信機を後部座席に投げ出した。
「ちょっと! どういうことよ!」
「アレだよ」
 スタンリーは、目の前を優雅に歩くサラブレッドを指さした。騎馬警官だった。
「あいつに、発信機がくっついてやがる。また、やられたな」
 ルディは、絶句した。言葉が出ない。
「だからいっただろ、侮るなって」
 スタンリーが肩をすくめた。
 ルディは、スタンリーをにらみつけてから、手が白くなるほどハンドルを握りして、やっと口を開いた。
「ナイス、晃二。やってくれるじゃない。今回は、あんたの勝ちよ。今回はね」
 陽は完全に落ちていた。ニューヨークシティは、夜の闇に支配される時間だった。





「女と晃二を逃がしただと?」
 ブルックスは、不機嫌な顔をルディに向けた。
「なにをやっとるんだ。おまえともあろうものが」
「申し訳ございません」
「申し訳ございませんですむか、バカタレ! 一千五百万ドルを逃がしたんだぞ!」
「ご安心ください。そろそろ、テリーの精神力も尽きるころです。あいつから情報が引き出せます」
「本当だろうな?」
「はい」
「よし。わしの目の前で、やつから聞き出してみろ」
「仰せのままに」
 ルディは、ブルックスと地下室に向かった。スタンリーは、気が進まない様子だったが一緒についてきた。
 地下室のドアを開けると、テリーの座る場所にスポットライトが当たっていた。
 ぐったりと座るテリーの顔は血だらけだった。いや、顔だけではない。縛られた腕には火傷のあともあった。そして、なにより痛々しいのは、太股に鉄の杭が打ち込まれていることだった。テリーの座る椅子の下は、どす黒い血がたまっていた。
「うっ……」
 スタンリーは、思わず口を押さえた。
「ここまでやるか……ルディ」
「うるさい」
 ルディは、スタンリーをにらみつけると、テリーの顎をもって、ぐいと上げた。
 とたん、テリーは、げふっと血を吐いた。
「おい、ルディ」
 さすがのブルックスも、眉をひそめた。
「しゃべれるのか、こいつは」
「大丈夫ですわ。たぶん、あと三十分ぐらいは」
 ルディは、ブルックスに背筋が凍るような笑顔を浮かべると、テリーに向き直って優しい声を出した。
「お待たせテリー。ごめんね、こんなところで一人にさせちゃって」
 テリーは答えなかった。ほとんど意識が残っていないようだった。
「さあ、テリー。そろそろ話してくれてもいいでしょ?」
「こ……殺して……くれ」
 テリーは、絞り出すような声でいった。
「ええ。わかってるわ。辛いでしょうね。すぐに楽にしてあげるわ。ブルックスさんに、晃二たちのことを話してくれたらね」
「DNA……コンピュータ」
「それはわかってるわ。バイヤーはだれ?」
「イワノフ……」
「そうか、イワノフか!」
 ブルックスが、瞳を輝かせて叫んだ。
「よしよし。やつとならコネクションがある。ルディ。取引場所を聞き出せ」
「はい、ボス」
 ルディは、ブルックスに答えたあと、やはり優しい声でテリーにいった。
「聞いたでしょテリー。取引場所と時間を教えてちょうだい」
「ブルックリン……」
「ブルックリンの?」
 ルディは、テリーの口元に耳を近づけた。もはや、やっと聞き取れる程度の、か細い声なのだ。
「リバー・カフェ……」
「時間は?」
「十時……」
 ルディは時計を見た。
「ボス。十時にリバー・カフェです。あと三十分ですわ。取引の前に、晃二を捕まえて、ブツをこちらの手に」
「よし! よくやったルディ。行くぞ!」
 ブルックスは、あわてて出口に向かった。だが、ルディから返事がないのでドアのところでふり返った。
「どうした、ルディ?」
「ボス」
 ルディは立ち上がった。
「これでもう、テリーを殺してもよろしいかしら」
「待て。取引が終わるまで――」
 ブルックスはいいかけて言葉を切った。ルディが、ブルーの瞳に怪しい光を輝かせて、自分の唇をなめていた。さすがのブルックスも、その姿に、一瞬背筋が凍った。
「わかった……いいだろう。だが急げ」
「先に行ってください」
 ルディは、テリーの後ろにまわり、血に染まった彼のほほをなでた。
「わたしは、彼の処置をしてから追いかけますわ。ああ、ご心配なく。十分もあれば終わりますから」
「怖い女だ」
 ブルックスは、苦笑を浮かべて部屋を出ていった。スタンリーは、そんなルディに何度も何度も首をふってから、出て行くブルックスを追った。
 地下室には、ルディとテリーだけになった。
 ルディは、内側からドアに鍵をかけた。そして、ゆっくりテリーの前まで歩いていくと、膝を落として、うなだれているテリーのアゴを持ち上げた。
「もういいわよ、テリー」
 テリーは、両目を開いた。そして何事もなかったように、ふつうの声でいった。
「ルディ。おまえ、サドの演技うますぎ」
「ひどいわね」
 ルディは、思わず苦笑した。
「あなたこそ、名演技だったわ。メル・ギブソンが知ってたら、パッションの主役に抜擢されてたかもね」
「冗談だろ。オレがキリストの役なんかやったら、罰が当たる」
「たしかに」
 ルディは、笑いながら、テリーの縄を解いた。
「あなたがキリストだったら、毎日、水をワインに換えて飲んだくれるのがオチね」
「よくいうぜ。おー、痛てえ。縄のあとがクッキリだ」
 テリーは、縛られていた腕をさすった。
「ごめん、痛かった? 弱く縛ったらバレちゃうと思って」
「わかってるよ。ルディ、ウェットティッシュあるか? 顔についた血糊が気持ち悪い」
「うん」
 ルディは、拷問器具が入っていたバッグから、ウェットティッシュを出した。その間にテリーは、太股に刺さった鉄の杭を、横にスライドさせて抜いた。映画で使うニセモノだ。
「拭いて上げる」
 ウェットティッシュを出したルディがいう。
「いいよ、自分で拭く」
「いいから、いいから」
 ルディは、テリーの顔を拭いた。流れる血はもちろん、青アザも、火傷のあともすべて化粧だった。
「よかった。ハンサムに戻ったわ」
 ルディは、血糊の消えたテリーのほほに、チュッとキスをした。
「ボロボロのあなたも、ちょっとセクシーだったけどね」
「おいおい。やっぱり、サドの素質があるんじゃないのか」
「バカね」
 ルディは笑った。マフィアの顔でも、娼婦の顔でもなかった。明るい笑顔だった。だが、その笑顔はすぐに消えた。
「いよいよ仕上げね……緊張してきたわ」
「ああ」
 テリーはコートの襟を正した。
「覚悟はいいか、ルディ。裏切りは一度だけだ。ブルックスを裏切ったら最後……いまなら、まだ引き返せるぜ」
「引き返すと思う?」
 ルディは、ハンドバッグから、テリーの銃を出した。テリーは、愛用のベレッタを受け取りながら答えた。
「まさか。おまえは、オレより度胸があるよ」
「違うわ。テリー。あなたがいてくれるからよ。あなたとなら、なんだってできる」
「買いかぶりだ」
「テリー」
 ルディは、テリーに抱きついた。
「本当よ。あなたは、わたしのすべて。愛してる。どこまでも、あなたについていくわ」
「心配するな。これからは、ずっと一緒だ。オレたちの新しい生活がはじまる」
「うれしい。ねえ、キスして……勇気をちょうだい」
「オレにも勇気をくれ」
 テリーは、ルディの顎をあげて、その唇にキスをした。ほんの数秒だった。
「続きは、あとでゆっくりやろうぜ。とりあえず、ブルックスの金庫でデートだ」
 テリーは、ルディにウィンクした。
「ええ」
 ルディは、軽くほほ笑むとテリーから離れ、地下室の鍵を解除した。そして、そっとドアを開ける。
「オーケー。だれもいないわ」
「よし」
 テリーは、ベレッタを構えて外に出た。プレイボーイの甘い顔はどこにもなかった。裏の世界で、二十年近く生き抜いてきた男の顔だった。
 廊下の角を曲がると、階段になっていた。その階段のところに、小柄で、若ハゲの男がタバコを吸いながら立っていた。テリーは足を止めて身を潜めると、後ろのルディに目配せで合図した。
「任せて」
 ルディは、小声でテリーにいうと、先に立った。
「ハイ。チャーリー。ボスはもう出かけた?」
「あ、ルディ」
 若ハゲの男は、あわてて、タバコをコンクリの床に捨てた。
「ええ、たったいま、屋敷にいる連中を全員引き連れて出かけられました」
「全員?」
「ええ」
「あんたは、わたしを待っててくれたんだ」
「ええまあ。ところで、そのぉ……テリーの始末は終わったんですか?」
「もちろんよ。掃除をお願いできる?」
「え? オレがですか?」
 部下は、眉をひそめた。
「イヤなの?」
「い、いえ……そういうわけじゃありませんが……」
「いいのよ、無理しなくて。ここで寝てていいわ」
「は?」
「お休み」
 ルディは、その部下の腹にパンチを入れた。
「うっ……」
 部下が前かがみになった瞬間、その後頭部に肘鉄を入れる。部下は白目を向いて、床に転がった。
「お見事」
 テリーが、廊下の角から出てきた。
「オレも気をつけなくっちゃ」
「そうよ。浮気したら許さないんだから」
 ルディは、テリーの胸板に、軽くパンチをしてみせた。
「冗談はともかく……いえ、冗談でもないけど、わたしが先にあがるわ」
「ああ」
 屋敷の中は、不気味なほど静まり返っていた。若ハゲの男がいったとおり、ブルックスは、屋敷にいる部下を全員引き連れていったようだ。
「急ぎましょ」
 ルディは、二階へ上がる大理石の階段を駆け上がった。テリーも続く。急いではいるが、二人とも、足音をまったく立てなかった。だが、出かけたのは全員ではなかった。二階には、二人の部下が、警備のために残っていた。
「ちっ」
 ルディは、軽く舌打ちすると、こんどは声をかけることなく、男の一人にパンチを入れた。もう一人の男はテリーが担当した。ほんの数秒で方がついた。しかも、ほとんど音を立てることなく、男たちは床に倒れた。
「これで最後だといいがな」
 テリーは、気絶した男たちを見下ろしながらいった。
「ホントね」
 ルディは、男たちが立っていた、豪華な木製のドアを開けた。ブルックスの書斎だ。鍵はかかっていなかった。ルディは、薄暗い部屋の中を、そっとうかがった。
「オーケー。だれもいない」
 ルディは、滑るように中に入った。テリーは、廊下に目配せしてから、中に入った。静かにドアを閉める。
 テリーがドアを閉め終わるころ、ルディはすでに、書斎の壁にかけられた絵画を外しているところだった。その裏に金庫があった。黒い扉の上に金の模様が入った、いかにも金庫らしい重厚な作りだった。
「アムセックの金庫か。レトロだね」
「BBは、電磁式を信用してないのよ」
「オレもだ。コンピュータ操作で開いちまう金庫なんか使いたくないね」
「そっちの方が、開けるの簡単なの?」
「べつに。情緒がないだけだ」
 テリーは、金庫のダイヤルを触った。
「開けられそう?」
 ルディは、不安げに聞いた。金庫の番号だけは調べることができなかったのだ。
「任せとけ。このタイプは、得意中の得意だ」
 テリーは、金庫のドアに耳を押しつけた。ゆっくりとダイヤルを回す。
「8」
 と、テリーは小さな声でいうと、コートの内ポケットからボールペンを出して、自分の手に、その番号を書きつけた。
「3、9、12、6……」
 テリーは、数字をどんどん手に書いていった。
 ルディは、腕時計を見た。すでに六分経過していた。まだ大丈夫。そう思っても、緊張でこめかみから冷や汗が流れた。
 ダイヤルを回すテリーの手が止まった。
「開いたの?」
「どうかな?」
 テリーは、金庫のドアノブをひねった。
 カクンと、軽い音を立てて金庫は開いた。
「ビンゴ」
 と、テリー。
「簡単なもんだ。電磁式だと、こうはいかない」
「わたし、金庫を買うときは、電磁式にするわ」
「そうしてくれ」
 テリーは、苦笑しながら、金庫の中を探った。
「どれだルディ」
「見せて」
 ルディは、革のファイルケースを取り出した。
「これよ。BBの裏帳簿」
「見せてくれ」
 テリーは、ファイルケースを受け取って、中をめくった。裏金の流れが、すべて記載してあった。
「よし。こいつをFBIに渡せば、オレたちの仕事は終わりだ」
「そしてブルックスは、アル・カポネと同じ運命をたどるってわけね」
「そういうこと。さあ、ずらかろうぜ」
「うん」
 ルディが、うなずいたときだった。部屋の明かりがついた。
 テリーとルディは、ハッとして、書斎のドアを見た。
「おやおや、お邪魔だったかな」
 ブルックスが、不敵な笑みを浮かべながら書斎に入ってきた。
「テリー。瀕死の重傷に見えたが、ずいぶんと元気そうじゃないか。いやあ、よかった、よかった」
「ブルックス……」
 テリーは、ルディを背中に隠しながら、ブルックスをにらんだ。
「さすがだね。お見通しだったわけか」
「うはははは! 当たり前だ。わしを騙せると本気で思ったのかね! こりゃ傑作だ!」
「うるせえ」
 テリーは、ブルックスにベレッタを向けた。
「荒っぽいことはしたくなかったが、こうなったら仕方ない。ここで殺してやるよ」
 だが、テリーが引き金を引く前に、ソファの陰から銃声が響いた。飛んできた弾はテリーの腕に当たった。
「うっ!」
 テリーは、ベレッタを落とし、銃声のした方を見た。そこには、銃を持った晃二が立っていた。


10


「晃二……」
 テリーは、目を見開いた。まるで、見ているものが信じられないとでもいうように。
「ど、どうしておまえが……ここにいる」
「どうしてって、ソファの陰にずっと隠れていたからさ」
 晃二は、とぼけた声で答えた。
「ふざけるな!」
 テリーは、血が滴る腕を押さえながら怒鳴った。
「なんで、おまえがここにいるんだよ!」
「テリー」
 晃二は、苦笑を浮かべながら肩をすくめた。
「女を仕事に持ち込まないのが流儀じゃなかったのかい?」
「質問に答えろ」
 テリーは、鬼のような形相で晃二をにらみつけた。
「なぜ、おまえがここにいるのか聞いている」
「あんたとルディが、ぼくらを裏切る計画を立ててたのは知っていた。奏恵だけならともかく、ぼくまで裏切るとはね」
「ホント、バカな男」
 奏恵も、書斎に入ってきた。
「晃二を騙せると思うなんて、あんた、何年彼と組んできたのよ」
「いつからだ。いつ気づいた」
 テリーは、奏恵を無視して、晃二に聞いた。
「最初からだよ」
 晃二は、不敵な笑顔を浮かべた。
「そして、最初から、ブルックスさんに協力してもらっていた」
「釈迦の手か。オレたちは、おまえの手のひらで踊ってたわけだ」
「目には目をだよ、テリー。裏切りには裏切りだ」
「大人になったな、晃二」
「おかげさまでね」
「ほめたんじゃねえよ」
「わかってるさ」
「ブルックスにいくら払った?」
「DNAコンピュータ素子を売った値段の半分」
「ずいぶん、ぼったくられたな」
「まったくね。テリーのおかげで大損害だよ」
「いい気味だ」
「テリー、なぜぼくを裏切った? 十二年も一緒にやってきたのに、ルディに惚れただけでぼくを裏切るとは思えない」
「おまえにも、わからないことがあるわけだ」
「ああ。ぜひ教えてほしいね」
「ただの気まぐれだ。さっさと殺せ」
「最後まで、カッコつけちゃって」
 晃二は、やれやれと首をふりながら銃を構えた。
「グッバイ、テリー。ルディと地獄で仲良くやってくれ」
「待て」
 と、晃二を制したのはブルックスだった。
「まだ殺すな。このお別れ会を主催してやったのは、おまえがテリーを殺すところを見たかっただけじゃない」
「というと?」
「わしこそ知りたいんだよ。部下の裏切りの理由をな」
 ブルックスは、そういってルディを見た。
「ルディ。なぜわしを裏切った? 金は充分に渡していたはずだぞ」
「ふん」
 ルディは、ブルックスをにらみつけた。
「いったってむださ。どうせ、あんたは覚えてない。レナード・マクミランの名を」
「マクミラン……?」
「ほらね。自分で殺した男の名も覚えていない。ブルックス。あんたは人間のクズだと思っていたけど、考えが変わった。人間ですらない。悪魔だよ」
「悪いなルディ」
 ブルックスは、クククと低い笑いを漏らした。
「なにせ数が多すぎてな。いちいち殺した野郎の名を覚えてはおれんよ。おまえの恋人でも殺したかね、わしは」
 ルディは、ブルックスの質問に答える代わりに、自分の髪をつかんで投げ捨てた。金色の髪はカツラだった。カツラの下から現れた本当の髪は、見事な赤毛だった。
「これでも、まだ思い出さないって?」
「ああ!」
 ブルックスは、突然、閃いたようにいった。
「そういえば、十年ぐらい前に、土地の権利書を渡さない頑固者がいたっけな。あの男も赤毛だった。おまえ、あの男の娘……じゃねえな。妹か?」
「そう。兄はあんたの地上げに反対して殺された。そして、父と母が、わたしたち兄弟に残してくれた土地の上に、手抜き工事の安ホテルを建てた」
「そうかそうか」
 ブルックスは、楽しそうに笑った。
「そいつは、悪いことをしたなあ。それにしても律儀なこった。十年も兄貴の復讐に燃えていたとは。赤毛の女は執念深いらしい。これから気をつけよう」
「バカバカしい」
 と、いったのは晃二だった。
「そんなことで、ぼくらを裏切ったのか。テリー、あんたには失望したよ」
「それだけじゃねえ」
 テリーは、うなるような声で晃二をにらんだ。
「へえ。聞きたいね。仲間を裏切ってもいい理由を」
「おまえはオレの忠告を無視した」
「ロシアンマフィアのことか」
「そうだ。あいつらにだけは関わるなといったはずだ。ロシアンマフィアはひどすぎる。あいつらこそ悪魔だ」
「それこそバカバカしい」
 晃二は、両手を広げた。
「テリー。これはビジネスだ。金が手に入るなら、悪魔とだって取引するさ」
「金がすべてじゃねえ。金で孤独が癒せるか? いいやダメだ。金じゃなにも解決しない。オレは死ぬとき、愛した女の顔も思い出せないような人生を送るつもりはない」
「ご立派。そうやって、最後までカッコつけてればいいいさ」
「おまえは変わったよ。本物のワルになった。もう仲間じゃねえ」
「つまり、こうなる運命だったわけか。遅かれ早かれ」
「運命なんて物があるとしたら、そうなんだろうよ」
「お別れだ、テリー」
 晃二は、銃を構えた。
「待って!」
 ルディが、テリーの前に立った。
「わたしがテリーをたぶらかしたんだ。殺すのはわたしだけでいいでしょ。仮にもテリーは、あんたの仲間だったんだ。殺したら寝覚めが悪いよ」
「ルディ」
 テリーは、ルディの腕を取った。
「やめろ。むだだ。こいつらには、お涙ちょうだいは通じねえ」
「テリー……」
 ルディは、テリーに抱きついた。
「ごめんなさい……わたしのせいで」
「バカ。おまえのせいじゃない。愛しているルディ。おまえに会えてよかったよ」
「ねえ晃二」
 奏恵が、つまらなそうな顔でいった。
「いつまで、メロドラマを見ているつもり?」
「そうだな。そろそろ終わらせよう」
 晃二は、銃の引き金に力を込めた。
 その瞬間、テリーは、抱いていたルディを反射的に引き剥がした。
 銃声が響いた。
 テリーは、顔面をピクピクと引きつらせた。胸から鮮血が飛び散っていた。スローモーションのように崩れる。
「テリー!」
 ルディは、倒れたテリーを抱き起こした。
「いやだ! 死なないで! テリー!」
「ルディ……」
 テリーは、絞り出すような声でルディの名を呼んだ。
「悪いな……先に行くぜ」
「ああ、テリー。テリー。わたしのせいだ、わたしが……あなたに惚れなきゃ……こんなことにはならなかったのに」
「惚れたのは……オレだ……後悔してねえ……」
 そこまでだった。テリーは、静かに目を閉じて、全身から力が抜けていった。
「テリー! いやーっ! 目を開けて、テリー!」
 ルディは、泣き叫びながら、力尽きたテリーの身体を揺さぶった。
「うるさい女ね」
 奏恵が、ふんと鼻を鳴らして、自分のグロックをホルスターから抜いた。
「あんたは、あたしが殺してあげる」
「よくも……よくもテリーを」
 ルディは、ゆっくりと顔を上げた。滝のような涙が流れるブルーの瞳で、晃二と奏恵をにらみつけた。
「おまえたちを許さない。殺してやる。必ず殺してやる」
「バカじゃない。死ぬのはあんたでしょうに」
 奏恵は、呆れた顔を浮かべて、ルディの胸に向かって、銃の引き金を引いた。鮮血が飛び散った。だがルディは倒れなかった。
「殺して……やる……」
「しつこい女」
 奏恵は、生ゴミを見るような目で、ルディを撃った。二発、三発。
 ついに、ルディは崩れた。テリーに折り重なって、絶命した。
「ふふん。好きな男と一緒に死ねて本望でしょうね」
 奏恵は、ニヤニヤと笑った。
 パチパチパチ。と拍手の音が聞こえた。ブルックスだった。
「いやあ、いいショーだった。じつに楽しかった。最高だ。書斎の床が汚れたのだけが気がかりだがね」
「掃除はあとだ」
 晃二は、銃をホルスターに納めて、腕時計を見た。
「イワノフとの約束がある。急ごう。遅れると金が手に入らないぞ」
 だが、出口に向かいかけた晃二をよそに、奏恵とブルックスは動かなかった。
「どうしたんだ?」
 晃二は、ドアの前で、二人をふり返った。そのとき、自分に銃を向けている奏恵の姿が目に映った。
「奏恵……?」
「そういうわけなの」
 奏恵は、晃二にほほ笑んだ。
「あなたが、この計画を立てたとき、閃いたのよ。裏切りの裏切りには、さらに裏切りだってね」
 晃二は、しばらく言葉が出なかった。自分の置かれた状況を理解するのに数秒かかった。
「きみが……」
 晃二は、ゆっくりといった。
「本当の裏切り者だったわけか」
「そういうこと」
 奏恵は、また、ニッコリと笑った。
「あなた、あたしに惚れてたでしょ? だからバレないと思った」
「は、ははは……」
 晃二は、乾いた笑いを浮かべた。
「負けたよ。百年の恋も、一瞬で覚めるようなセリフだ」
「女は怖いな」
 ブルックスが、にやにや笑った。
「国を滅ぼすのも、男を堕落させるのも、いつも女だ」
 晃二は、ブルックスに視線を移した。
「BB。あんたも、ずいぶん、アコギなことするじゃないか。彼女からどんな条件を提示されたんだ」
「それを知ってどうする?」
「ぼくが、もっといい条件を提示できるかもよ」
「そういつはどうかな」
 ブルックスは、肩をすくめた。
「DNAコンピュータ素子を売った金を、すべてよこすとさ。その代わり、四年前に盗んだ金のことはチャラにさせられたがね」
「なるほど」
 晃二は、奏恵に向き直った。
「思った以上にBBを恐れていたわけだ」
「まあね」
 と、奏恵。
「四年前。この世界に入ったばかりで、バカなことをしたわ。ブルックスさんから金を盗むなんてね。あれから、いつバレるかと心休まる日はなかった。いいかげん、おびえて暮らすのに飽きたのよ」
「仲間を裏切る理由には、それで充分ってわけだ」
「そういうこと」
「バカな女だ」
 晃二は、クククと笑いを漏らした。
「ブルックスがおまえを生かしておくはずがないのに。ぼくを殺したあとに、殺されるのはきみだよ」
「ご忠告ありがとう」
 奏恵は、ニッコリ笑いながら引き金を引いた。
「うっ」
 晃二は、自分の胸を見た。心臓の上に、べっとりと血がにじんでいた。つぎの瞬間、がくりと膝をつき、うつ伏せに倒れた。奏恵は、その背中に向けて、もう一発撃った。肉に弾がめり込むとき、晃二の身体がピクリと痙攣した。
「終わったな」
 ブルックスがいった。
「しかし奏恵。晃二のいうことはもっともだぞ。わしが、おまえを殺さないと、どうして確信できる?」
「殺せないからよ」
 奏恵は、不敵な笑顔を浮かべた。
「DNAコンピュータ素子の製造方法が書かれたファイルには、パスワードロックをかけておいたわ。もちろん、そのパスワードはわたししか知らない」
「イワノフとの取引現場で、そのパスワードを明かすってわけか」
「いいえ」
 奏恵は首をふった。
「イワノフとは、ちゃんと手を打ってある。取引が終わったら、彼とロシアに行くわ。そこでパスワードを彼に伝える」
「なるほど」
 ブルックスは、感心したようにいった。
「つまり、おまえも取引材料のひとつというわけだ」
「そういうこと。あなたは、DNAコンピュータ素子とあたしをセットでイワノフに渡さなければ、お金を手に入れないってわけ。どう? これでも、あたしを殺したいと思うかしら?」
「思わんよ」
 ブルックスは、死んだ晃二たちを見下ろしながらいった。
「たいした女だ。晃二とテリーが手玉にとられたのもよくわかる」
「騙される方が悪いのよ」
 奏恵は、笑った。
「そうでしょ、ブルックスさん。あなたには理解できるはずだわ」
「どういう意味かね?」
「あなたとわたしは、似た者同士ってこと。敵にはなりたくないわ。わかるでしょ?」
「わかっている。イワノフとの取引が終了したら、約束どおり、四年前のことは水に流そう」
「よかった」
 と、奏恵。
「わたしも、二度とあなたにちょっかい出さないわ。恨みっこなしよ」


11


 奏恵とブルックスは、リバー・カフェに向かった。ワールドトレードセンタはすでにないが、ロウアー・マンハッタンの夜景は、いつもどおり美しく輝いていた。
「予約してあるわ。ブルックスよ」
 奏恵は、ボーイにいった。ボーイは、名簿も見ずに、承っておりますと軽く頭を下げて、夜景の見える窓際の席に、奏恵とブルックスを案内した。
「わしの名で予約しておったのか?」
「そうよ。ちょっとしたサービス」
 奏恵は、ブルックスにウィンクした。
 案内された席には、だれも座っていなかった。
「お飲み物は?」
 ボーイが聞いた。
「連れがあとからくるわ。注文はそれから」
「かしこまりました」
 ボーイは、高級レストランらしい態度で頭を下げると、席を離れた。
「珍しいな」
 ブルックスは、左腕にはめた金メッキのロレックスを見た。
「イワノフが約束の時間に遅れるとは」
「一千五百万ドルよ」
 奏恵は、ロウアー・マンハッタンの夜景を見ながら答えた。
「いままでと額が違うわ」
「たしかにな。それにしても、奏恵。おまえさんは度胸が据わっとる。どうだね、ルディの代わりに、わしの側近にならんか?」
「驚いた。あたしをスカウトするつもり?」
「そうだ。金は充分に出す」
「魅力的なお誘いだけど、やめとくわ。あなたとベッドを共にするつもりはないから」
「その心配はいらん」
「どうして?」
「わしは、女に興味がなくてな」
「あら……男がお好みだったとは知らなかったわ」
「悪いかね?」
「いいえ」
 奏恵は苦笑した。
「ニューヨークでは珍しい話じゃないわね。そっか、それで、いままで女に騙されたことがないわけか」
「そういうことだ」
 ブルックスは、ニヤニヤと笑った。
「まったく、女に関わるとろくなことはないからな」
「そうかもね」
 奏恵は肩をすくめた。
 そのとき。
「失礼」
 と、背中から声をかける男がいた。
 奏恵とブルックスは、同時にふり返った。
 安っぽいスーツを着た男が二人立っていた。男の一人が、笑顔を浮かべて、持っていた手帳を広げた。FBIのバッチだった。
「FBIのジェイムズ・バーナードだ。夢野奏恵と、ブルース・ブルックスだな」
「なっ!」
 ブルックスは、一瞬絶句すると、目を丸くして奏恵を見た。
「きさま、騙したな!」
 だが、奏恵もブルックスと同じくらい驚いた顔で、FBIの捜査官の顔を凝視していた。
「え、FBIが……いったい、なんのご用かしら」
 奏恵の声は震えていた。
「テリーだよ」
 バーナードと名乗った捜査官は、ニッコリといった。
「彼は、きみと晃二が、ここでイワノフと取引することを、前からわれわれにリークしていた。ところが、きみは晃二ではなく、ブルックスと現れたわけだが」
「待って、待ってよ」
 奏恵は、引きつった笑いを浮かべた。
「なんの話か、さっぱりわからないわ。あたしはただ、このオジサンと食事に来ただけよ。そうでしょ、オジサンさん?」
「そ、そうだ。なんの話かわからん」
 ブルックスも引きつった笑いを浮かべた。
「先ほど」
 と、バーナードは笑顔を崩さずにいった。
「ブルックスさんは、彼女に、わしを騙したとかどうとか、叫ばなかったかね?」
「なんのことかな」
 ブルックスは肩をすくめた。
「ブルックス」
 バーナードは、笑顔を消して、畳みかけるようにいった。
「そんなごまかしが通ると思ってるのか。あんたの屋敷からなにが出てきたと思う? テリーとルディ、そして晃二の死体だ」
「わしの屋敷に入ったのか!」
「もちろん」
「令状はあるのか!」
「テリーのコートに無線機を仕込んでおいた。こういえば、わかってもらえるかな?」
「くっ……」
 ブルックスは、唇をかんだ。
「つまり」
 と、奏恵。
「テリーは、最初からFBIとつるんでいたってわけ?」
「そう。いままでの犯罪歴を帳消しにする条件でね。きみと晃二をわれわれに売ったわけだ。もっとも、晃二はきみに騙されていたらしいが」
 奏恵の顔から血の気が引いてきた。
「テリーには気の毒なことをした」
 バーナードは、肩をすくめた。
「ルディとカタギになる寸前だったんだが……きみと晃二に殺されるとは、われわれも予想外だったよ」
「わしは関係ない」
 ブルックスがいった。
「無関係だ。こいつらが勝手にやったことだ」
「今回の殺しに関してはそうだろうさ」
 と、バーナード。
「だが、あんたの屋敷からは、おもしろいものも出たよ。テリーが盗むはずだった裏帳簿は、いま専門家が分析している。百年か二百年、懲役刑を食らう覚悟をしておくんだな」
「そんな違法捜査が許されると思っておるのか!」
「捜査?」
 バーナードは、両手を広げた。
「違法捜査なんかしていない。それどころか、われわれは、なにもやっていない。テリーが、勝手にあんたの裏帳簿を盗もうとしただけだ」
「きさまら――」
 ブルックスは、なにかいいかけたが、ふんと鼻を鳴らし、憮然とした顔でいった。
「これ以上はしゃべらんぞ。弁護士を呼べ」
「もちろんだとも。その権利はある」
 バーナードは、また笑顔を浮かべた。勝ち誇った笑顔だった。
「死んだルディからも、おもしろい話をたくさん聞いているよ。よほど腕のいい弁護士を頼むんだな」
 奏恵は、脂汗を流しながら、捜査官とブルックスの会話を聞いていた。きょろきょろと神経質に、視線を動かしていた。
「というわけで、続きはFBIの――」
 バーナードが、そういいかけたとき。奏恵は、突然席から立ち上がり、出口に向かってダッシュした。
「あっ!」
 と、バーナードは銃を抜いた。
「とまれ! 奏恵!」
 奏恵は止まらなかった。しかし、逃げることもできなかった。リバー・カフェにいた客は、すべてFBIの捜査官だったのだ。出口の近くの捜査官が奏恵の前に立ちふさがった。
「どきなさい!」
 奏恵は、銃を抜いて、その捜査官を撃った。
 これが、彼女の最後の抵抗だった。バーナードの構えた銃の銃口が光り、銃声と共に奏恵の背中に穴があいた。奏恵は、走っていた勢いのまま、テーブルの上に倒れた。ものすごい音を立てて、テーブルの上のグラスが飛び散り、床に落ちて割れた。ほかの捜査官も、奏恵に銃の弾を撃ち込んだ。
 二発、三発……
 四発の銃声が聞こえたところで、リバー・カフェの店内に静寂が戻った。テーブルの上に、うつ伏せに倒れている奏恵の指先が、ピクピクと痙攣していた。
「バカな女だ」
 ブルックスがつぶやいた。
「まったくだ」
 バーナードも肩をすくめると、ブルックスに手錠をかけた。
「あんたには分別があって助かるよ。取り調べにも協力してもらえると、もっと助かるんだがね」
「なにもしゃべらんといったはずだ」
「そうだろさ」
 バーナードは苦笑を浮かべ、ブルックスを椅子から立たせた。
 若い捜査官が、奏恵の首筋で脈を診ていた。
「だめです、部長。死んでます」
 若い捜査官は、残念そうな顔で、バーナードに報告した。
「これでテリーの仲間は……いや、仲間だった連中は、全員あの世行きってわけか。哀れなもんだな」
 バーナードは、さして残念そうでもない顔で首をふった。


12


 リバー・カフェの外に待機していたFBIのワゴン車に、黒いビニールにくるまれた、奏恵の遺体が運び込まれた。捜査官たちは、事務的な手つきで遺体をワゴン車に乗せると、やはり事務的な手つきでドアを閉めた。
 ワゴン車の中にいた男が、ビニールのチャックを開けた。奏恵の顔が見えた。
「お疲れさん」
 その男が声をかけると、奏恵の目が開いた。
「ふう。痛かった。思いっきり転んじゃった」
「たしかに、痛々しかったな」
 男が笑った。晃二だった。
 奏恵は起き上がって、ビニール袋から出た。
「名演技だったぜ」
 と、車内にあるモニターを見ながらいった男はテリーだった。
「ホントね」
 ルディもいた。
「わたしたちも演技派だと思ったけど、奏恵には負けるわ」
「やめてよ、もう」
 奏恵は苦笑を浮かべ、車内を見渡した。
 晃二、テリー、ルディ。みんな、ハリウッドから技術提供を受けた、血糊を仕込んだ服を着たままだった。胸や背中から、血を流している。
「みんな、ゾンビみたいね」
 奏恵は笑った。
「きみこそ、ひどいもんだよ」
 晃二も笑った。彼がいう通り、奏恵が一番、服に穴が開いていた。
「ホント」
 奏恵は、自分の服を見た。
「よくできてるわよね、この服。モデルガンの音に反応して、穴があくし、血も飛び出すんだから」
「そりゃそうさ。ぼくが用意したんだから」
 晃二が、得意気にいった。
「はいはい。そういうと思いました」
 奏恵は、笑った。その笑いが収まると、奏恵は、突然晃二たちに頭を下げた。
「ありがとう」
「なんだよ、突然」
 晃二が、驚いた顔を浮かべた。
「だって……みんなのおかげで……ついに、父たちの無念を晴らせた。みんながいてくれなかったらわたし……いまごろ、どうなっていたかわからない」
「奏恵」
 ルディが、奏恵の手を握った。
「水臭いこといわないでよ」
「ううん」
 奏恵は首をふった。
「ちゃんと、いっておきたいの。六年前……父と母は、ブルックスの罠にハマって殺された。それからわたしは、ブルックスへの復讐だけのために生きてきた。四年前、ブルックスを殺そうと、彼の家に忍び込んだ。でも無理だった。警備が厳重すぎた。金庫から金を奪うのが精一杯。もしも、そのあと、みんなに出会えなかったら……きっとわたし、もっとバカをやってたと思う」
「奏恵」
 と、晃二。
「もういいよ。あのころの、触れれば切れそうなきみは、もういない」
「うん」
 奏恵は、晃二に笑顔を見せた。
「あなたのおかげよ。いつか必ず、ブルックスに復讐するチャンスがあるっていってくれた。あなたを信じてよかった」
「男冥利につきるね、晃二くん」
 テリーが、晃二の脇腹をつついた。
「あなたもよ、テリー」
 ルディだった。
「わたしこそ、みんなにお礼をいうわ。兄を殺されたあと、ブルックスに復讐しようと、あいつの組織に入った。気が狂うほどイヤだったけど、ブルックスに近づくには、それしか方法がなかった。テリー。あなたに出会えなかったら、わたし、本当に頭がおかしくなっていたと思う」
「べつに、助けようと思ったわけじゃない」
 テリーは、肩をすくめた。
「ただ、おまえに惚れちまっただけだ」
「うん……」
 テリーを見つめるルディの瞳から、大粒の涙がポロポロこぼれ落ちた。
「ありがと……愛してるわ、テリー」
「泣くなってば」
 テリーは、ルディを優しく抱きしめた。
「本当に泣き虫なんだから」
「だって……だって……なんだか胸に込み上げてきちゃって……」
「ルディ」
 奏恵がいった。
「さっき、テリーが晃二に殺されたとき、すごく泣いてたよね。あれ演技じゃなかったんじゃない?」
「うん。テリーが死んだと思ったら、本当に泣けてきちゃったんだもん」
「顔に似合わないよなあ」
 晃二が笑った。
「ルディが、一番クールに見えるのに」
「そうなんだよ」
 と、テリー。
「一緒に映画なんか見てるとすごいぜ。バスタオルが必要なくらい、ポロポロ泣いてるもんな」
「いじわる」
 と、ルディ。
「わたしを泣かそうとして、わざと悲しい映画ばっかり見せるのはだれよ」
 全員が、また笑った。
 そのとき。ワゴン車のドアが開いた。開けたのは、バーナード捜査官だった。
「諸君」
 バーナードは、ワゴン車に乗り込んできた。
「お待たせした。ブルックスの護送が終了した」
 晃二たちは、ホッと息を吐いた。
「終わったな」
 と、テリー。
「ああ、終わった。これでぼくらは自由だ」
「まだ終わっていない」
 バーナードがいった。
「奏恵くんの持っている、DNAコンピュータ素子を渡してもらいたい」
「どうぞ」
 奏恵はバッグごとバーナードに渡した。
「いっときますけど、制御プログラムはまだ未完成よ」
「わかっている。ありがとう。きみたちのおかげで、ニューヨークを仕切るマフィアのドンを逮捕できた。どうせなら、本当にロシアンマフィアと取引してもらって、やつらも一網打尽にできれば最高だったがね」
「冗談だろ」
 テリーが、バーナードをにらんだ。
「ブルックスだけでも命懸けなのに、このうえ、ロシアンマフィアにまで目をつけられてたまるかよ」
「それはそうだ」
 バーナードは笑った。
「ともかく、ブルックスを逮捕できたのは大きな収穫だ。連邦政府に代わって礼をいう」
「よくいうぜ」
 テリーが、ふんと鼻を鳴らした。
「DNAコンピュータ素子をタダで手に入れられるから、オレたちの計画に乗っかっただけだろうに。あんたたちこそ、マフィアだよ」
「そうでもないさ」
 バーナードは肩をすくめた。
「司法長官の思惑まではわからんが、少なくともわたしは、ブルックスを逮捕したかった。それは事実だよ」
「どっちでもいい」
 と、晃二。
「ブルックスを刑務所にぶち込まなきゃ、奏恵とルディに未来はなかった。つまり、ぼくとテリーの未来もなかったってことだ。今回は、ぼくたちの未来のための計画だ。FBIの協力は感謝している」
「どっちが主導権を持ってるのかわからんな、これじゃあ」
 バーナードは苦笑した。
「まあいい。今日から、きみらは自由の身だ。二度とわれわれに追われる立場にならないことを願っているよ」
「本当に、オレたちの犯罪履歴は抹消されるんだろうな?」
 テリーが念を押した。
「きみたちは死んだ」
 バーナードは、テリーたちにウィンクして見せた。
「ファイルは抹消される。死者を逮捕するほど、FBIは暇じゃないよ」


 エピローグ


「終わった終わった!」
 ワゴン車から出たテリーは、大きく伸びをした。血糊のついた服も着替えていた。
「さあ、酒でも飲みにいこうぜ」
「賛成! おいしいワインが飲みたーい」
 ルディが、テリーの腕を甘えるように抱いた。ブルックスの部下だったころの面影は微塵もなかった。これが本当のルディだった。
「いい店を予約してあるよ」
 晃二がいった。
「まさか、高級レストランじゃないだろうな? いまからスーツに着替える気はないぜ」
「大丈夫。気取らないビストロだよ」
「もしかして、バルサザール?」
 奏恵が、店の名を聞いた。
「そうだよ」
「きゃーっ、うれしい! あそこのローストポークチョップ大好きなの!」
「知ってるよ。だから選んだんだ」
「うふふ。晃二ってば気が利いてるわね」
 奏恵は、本当にうれしそうにいった。こちらも、ブルックスと対峙していたときの面影はまるでなかった。これが本当の奏恵だった。
 こうして、晃二たちは、ソーホーにあるフレンチ・ビストロに向かった。ブロードウェイと、クロスベイ・ストリートの間にあるバルサザールという店だ。ステーキはもちろんだが、奏恵が好きだといったローストポークチョップが絶品。予約をとるのが難しい人気店だったが、晃二はずっと前から予約を入れておいたのだ。今日という日を祝うために。
「稲村です」
 晃二が、ウエイターにいった。
「三ヶ月前に、予約を入れておきました」
「はい、どうぞ。お席にご案内します」
「どうも」
 晃二たちは、ウエイターについて、席に向かった。
「こちらです」
 と、ウエイターが示した席には、先客がいた。
「やっとご到着かね」
 その先客がいった。奏恵がDNAコンピュータ素子を盗んだ大学の山田教授だった。大学にいるときは、八百屋のオヤジに見えたが、ここニューヨークでは……やっぱり八百屋に見えるオヤジだった。
「悪いが、先にやっとるよ」
 山田教授は、シャンパングラスを上げた。テーブルに置かれたボトルは、三分の一ほど減っていた。
「お待たせしました」
 奏恵が、教授のとなりに座った。
「FBIに、ちょっと足止め食らっちゃって」
「そりゃそうと教授」
 テリーは、腰を下ろしたとたん、勢い込んで聞いた。
「ロシア政府との交渉はどうだったんだ?」
「せっかちな男じゃな」
 教授は笑った。だが、すぐに厳しい顔になっていった。
「難しい交渉じゃったよ。あいつら、なかなか首を縦にふらなくてのう。一時は諦めようかと思ったわい」
「ご託はいいから、早くいえよ。いくらで売れたんだ、DNAコンピュータ素子は」
「五千万ドルじゃ」
 一同は、一瞬目をパチクリさせた。
「そいつはまた……」
 晃二が苦笑を浮かべた。
「ずいぶんと吹っ掛けましたね」
「とんでもない。最初は一億ドルじゃったんじゃ。半分にまで値切られた」
 教条は渋い顔でいったあと、ニヤリと笑った。
「まあ、三千万ドルになれば御の字と思っておったから、結果オーライじゃけどな」
「あははは」
 奏恵が笑った。
「やっぱり、教授が一番上手ですね」
「ったくなあ」
 と、テリー。
「このハゲオヤジが、本当の黒幕だと知ったら、FBIも腰抜かすだろうぜ」
「でもさあ」
 と、ルディ。
「本当に、DNAコンピュータ素子をロシア政府に売っちゃってよかったの?」
「ルディ」
 教授は、剥げオヤジのくせに、カッコつけてルディにウィンクした。
「この世はバランスが大事なんじゃよ。アメリカばかりが先端技術を持っておっては、脳味噌の足りない大統領がつけあがるだけじゃ」
「まあね」
 奏恵が、苦笑した。
「アメリカが唯一の超大国になって、かえって住みにくくなったものね」
「そういうことじゃよ」
 教授はうなずいた。
「ま、政治の話はともかくじゃ。今回の報酬は、ひとり一千万ドルじゃな。金は、諸君の口座に振り込んでおいた」
「イエス!」
 テリーが、ガッツポーズ。
「無駄遣いするんじゃないぞ、テリー」
 と、教授。
「なんで、オレにだけいうんだよ」
「ご心配なく教授」
 ルディが、テリーの腕を抱いた。
「わたしが、しっかり管理しますから。ね、テリー。わかってるわよね、最初に買うのはエンゲージリングよ」
「はいはい。わかってますって」
 テリーは、とほほと、タメ息をつきながらいった。
「まいったねえ。これがホントの、年貢の納め時だぜ」
 全員が、テリーの言葉に笑った。
「おぬしら」
 教授が、ルディに聞く。
「結婚したあとはどうするんじゃ?」
「もちろん新婚旅行よ」
 ルディは、楽しそうに答えた。
「世界中をテリーと二人で旅するの。それでね、気にいった国があったら、いつでも行けるように別荘を建てとくの。どう? いい計画でしょ?」
「優雅じゃのう」
 教授は、奏恵たちにも聞いた。
「おぬしらは、これからどうするんじゃ?」
「そうねえ」
 奏恵は、ちょっと考えた。
「まだ、これといって決めてないわ」
「最初に」
 と、晃二。
「きみに贈るエンゲージリングを買うってのはどう?」
「あら。どうしようかしら」
 奏恵は、とぼけた声を出した。
「ひどいな。いいかげんイエスって返事を聞きたいよ」
「まだよ」
 奏恵は、クスッと笑って、すねた顔の晃二のほっぺたに、チュッとキスをした。
「あとで二人っきりになったら、たっぷり聞かせてあげる」
「やった!」
 晃二は、思わずガッツポーズ。
「おー、暑い暑い」
 と、テリー。
「だれか冷房を強くしてくれ」
「その前に」
 と、ルディ。
「その、暑苦しい黒いコートを脱ぎなさいってば」
「いいの。これはオレのトレードマークなんだから」
 また、全員が笑った。
「では、諸君」
 教授が、シャンパングラスを持った。
「乾杯しようじゃないか。二組のカップルの未来と、わしの老後を祝してな」
「そして」
 と、奏恵もグラスを持った。
「ファイブ・ワイヤー・プランの成功にね」
 全員が、グラスを高く上げた。
 カチン。
 と、五つのグラスは、涼やかな音を奏でながら重なった。


 おわり


 この作品は、夢音さんの運営するサイト「紙飛行機の冒険」5周年のために書いたものです。