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しまった! 夜食を忘れた!
圭介はシャワーを浴びながら、そのことに気づいた。深夜の二時すぎまで仕事をしたあと、軽くなにか腹に入れてから寝ようと思ったのだが、やはり夜中まで仕事をしていた矢野と、ラウンジで遭遇してしまい、すっかり夜食を忘れてしまったのだ。
まいったな。
圭介は、シャワーを早めに切り上げてバスルームを出る。髪を乾かしてから、今度こそ軽くなにか食べよう。そう誓う。
だが、ドライヤーで髪を乾かしている最中に、ふと、矢野の用意した資料の中で気になる点を思い出してしまった。
こうなるともう、いても立ってもいられない。圭介はドライヤーを止めて、ふたたびテーブルに伏せてあった資料の束と格闘を始めてしまった。
で、けっきょく朝の五時。今日も眠れなかった。いや、寝なかった。
「け、圭介さま!」
キッチンで雑誌を読んでいたメイドがあわてて飛び上がった。ラフな格好をした圭介が、キッチンにふらりと入ってきたのだ。そりゃ驚く。というか緊張する。
「お、おはようございます!」
「おはよう。読書の邪魔して悪いけど、なにか食べる物ない?」
「あ、あの、申し訳ございません。シェフがまだ来ておりませんので、圭介さまにお出しできるようなものは、その……」
「いや、軽い物でいいんだ。サンドイッチかなにか。それと、コーヒーを一杯」
「本当にサンドイッチでよろしいのですか?」
「うん。悪いけど作ってくれる?」
「はい。ただいま」
メイドはいそいそと働き始めた。
圭介はメイドが座っていた椅子に腰掛けた。そして、大きなあくびをする。
「あの、圭介さま」
メイドが振り返った。
「もしかして、また徹夜でお仕事をなさっていたのですか?」
「ついね」
圭介は苦笑いを浮かべた。
「この性格が恨めしいよ」
「差し出がましいようですが、少しはお休みにならないとお体に障ります」
「ありがとう。ぼくもそうしたいんだ」
圭介は、あくびをかみ殺しながら答える。
「まったく、働けど働けど、わが暮らし楽にならず。って感じだよ」
メイドはクスッと笑った。そして再びサンドイッチに取りかかる。
圭介はホッとした。今の軽い冗談でメイドの緊張が解けたようだ。
ふと、メイドの読んでいた雑誌が圭介の目が止まった。なんとそれは、経済誌のフォーブス誌。それだけではない。雑誌と一緒に経済や法律の専門書が何冊か置かれていた。
食パンの耳を落としているメイドの背中を見ながら、圭介は必死に記憶を探った。この黒い肌が絹のように美しいアフリカ系アメリカ人の名前を。
そう。説明が遅れた。いま圭介がいる屋敷は、ニューヨーク郊外に建てた、新しい拠点なのである。IBCコンピュータの本社がマンハッタンにあるので、車で三十分程度の距離にあるこの場所を選んだのだ。
「ええと……ジャネットだったかな?」
「は、はい!」
メイドは名前を呼ばれて、あわてて振り返った。瞳が輝いている。
圭介は、にこっと笑う。名前が合っていて良かった。
「ジャネットって、すごい本を読んでるんだね」
「はい。あの、来週試験がありますから」
ジャネットは恥じらいながら答えた。
「試験?」
「タイガーチームの採用試験です」
「あっ」
圭介は、思い出した。アメリカでタイガーチームの増強を計画していたのだ。
「そうか。そうだったね。ハハ、ぼくが忘れてりゃ世話ないや」
「圭介さまはお忙しいですから」
ジャネットはほほえみを返した。
「経済の勉強をしているってことは、大滝さんのチームを希望してるのかい?」
「そうです。とても難しい問題が出るそうですから、受かるとは思えませんけど」
「う〜ん。こればっかりは、ぼくにもどうしようもないな。まあ、気休めを言うようだけど、少なくともぼくがその試験を受けたら、落第だと思うよ。それも最下位で」
「まさか」
ジャネットはクスクス笑った。
「あたし、圭介さまの本も全部読んだんですよ」
「ぼくの本?」
「たくさん出てます。ご存じないのですか?」
「うわさだけは聞いたことあるよ。どんな内容?」
「どれも的外れって気がしました。一番まともだったのは、ジェフリー・クラークの『落合圭介に見る戦略的発想の源』ですね」
「へえ、読んでみようかな。ぼくも少しは会社の経営もうまくなるかも」
「ご冗談ばっかり。ところで、マヨネーズは塗らないでバターを多めですよね?」
「ご名答。それも本に書いてあった?」
「いいえ」
ジャネットは笑いながら首を振った。
「さあできました。ダイニングにお運びいたしますね」
「ここで食べるよ。わざわざダイニングまで行くなんてバカらしい。ジャネットの邪魔にならなければだけど」
「邪魔だなんてとんでもない」
「そりゃよかった。コーヒーも頼むよ」
と、そのとき。キッチンの入り口で声がした。
「また徹夜でございますか?」
圭介は振り返った。
「あれ、田島さん。こんな時間まで起きてたの?」
「ご冗談を」
田島は眉間にしわを寄せた。
「わたくしは起きていたでのはなく、起きたのでございます。この違いは天と地ほどの開きがございますぞ。ご自分と同じ尺度で測られては困りますな」
「こりゃ、失礼」
圭介は、肩をすぼめた。
「圭介さま。宵っぱりも結構ですが、少しはお休みになられたらいかがですか。きのうもあまり睡眠をお取りになっていないと記憶しております」
「ジャネットにも叱られたよ。でもね、いつもながら問題が山のようにあるんだ。とくに今回は、エベレストかK2かってくらい問題だよ」
「エベレストでございますか?」
「そう。高くて険しい」
「なるほど。的確とは言えませんが、状況の説明には充分でございますな」
「圭介さま。コーヒーをどうぞ」
ジャネットがコーヒーを注いだ。
「ありがとう」
「お待ち下さい」
田島が圭介を制した。
「難しい仕事に取り組んでいらっしゃるのは存じていますが、それをお飲みになるのは賢明ではございませんな。圭介さまに必要なのはカフェインではなく、充分な睡眠でございます。睡眠不足では、良いアイデアも浮かびませんぞ」
「あの、差し出がましいようですが」
ジャネットが口を挟む。
「あたしも田島さんのご意見に賛成です。圭介さま、疲れた顔をなさっています」
「いや、そう言われても……」
圭介はコーヒーを見つめた。なんだか飲みにくい雰囲気。
「ジャネット。圭介さまにかねてよりご用意しておいたワインをお持ちしないさい」
「はい。あのワインでございますね」
ジャネットが答える。
「ちょ、ちょっと、田島さん。朝からお酒なんか飲めないよ」
「いいえ。少量のアルコールは程良い睡眠薬になりましょう。一杯のワインでそのサンドイッチを召し上がれば、興奮した頭脳も安らぐはずでございます」
「どうしても、ぼくを寝かせるつもりだね」
「それが執事の勤めでございます。わたくしは、圭介さまに最高の状態で仕事に臨んでいただきたいのです」
「お待たせしました」
ジャネットは、さっさとコーヒーを下げ、白ワインをグラスに注いだ。
「まいったな」
圭介は苦笑いした。
「じゃあ、こうしよう田島さん。このワインを飲んでも睡魔が襲ってこなかったら、もうぼくに寝ろとは言わないで欲しいな」
「それは、お互いにとって不毛な賭ですな。ですが、そのことに関して議論するつもりはございません。どうぞお好きなように」
「OK。賭は成立だよ。じゃあ、乾杯」
圭介は、ワインを飲んだ。
よく冷えたワインが、カッラポの胃に流れ込む。なんだか、綿に水が染み込むようにアルコールが体に回るようだ。圭介は、あわてて、サンドイッチを食べた。
「どうぞ、ごゆっくり召し上がられませ」
田島は、どこか含みのあるほほえみで言った。
「ここんところ、ゆっくりっていう言葉に縁がないんだよ。IBCとチャネルの経営を任されているだけでも大変なのに、ぼくはタイガーチームのボスでもある」
「加えて麻里お嬢さまのフィアンセですな。ご苦労は、察して余りあるものがございます」
「ありがとう」
「だからこそ、休んでいただきたいのです。ごゆっくりと」
「ハハ」
圭介は苦笑いした。
「それが出来れば、苦労はない」
「タイガーチームに、もそっと、仕事を任せておけばよろしいのでは?」
「任せてるさ。でもね、自慢じゃないけど、ぼくはタイガーチームみたいに頭が良くないんだよ。その分、資料を理解するのにも、なにか考えるのにも時間が掛かるんだ」
「それはまた、ずいぶんとご謙遜を」
「残念だけど事実だよ」
「圭介さまも相変わらず心配性ですな。もう少しご自分をお信じになられませ」
「自信ないよ……ふぁああ……」
圭介は、大きなあくびをした。どうやら、アルコールが効いてきている。
「お休みになられますか?」
「いいや、まだまだ」
圭介はあくびをかみ殺す。
「田島さんはどう見てるか知らないけど、ぼくはいつもビクビクしてるんだ。今の命令がホントに正しかったのか。もし、間違っていたらどうしようってね」
「わたくしが思いますに、圭介さまはなにもかもご自分で解決なさろうとする癖がございます。責任をすべてご自分で背負ってしまう。ですが、問題が複雑になれば多くの部下に頼るしかないではありませんか」
「とっくに頼ってるよ。頼りっぱなし」
「いいえ。わたくしにはそう見えませんな。もっと多くのことをタイガーチームにお任せなさいませ。今度の仕事は、タイガーチームによい試練でございましょう。まさに、麻里お嬢さまの究極のワガママですからな」
「それを言うなら、ぼくにこそ試練だよなァ……ふぁああ……」
圭介は、またも大きなあくび。
「さて。試練の前に充分な睡眠が必要なようでございます」
「なんの、これしき……」
圭介は意地で歯を食いしばった。それに反して瞳はとろんとしている。
「意外と手強いですな」
田島は懐中時計を見る。
「ワインをお飲みになって十五分ですか。もうそろそろ……」
カクン。
突然、圭介は力つきた。いきなりコンセントを抜かれたコンピュータのように。
「賭はわたくしの勝ちですな。ささ、寝室まで肩をお貸ししましょう。ジャネット、右の肩をお持ちしなさい」
「はい」
ジャネットは、クスッと笑いながら圭介の肩を抱いた。かねてより用意していたワインがバッチリ効いたのだ。もちろんその成分は、田島とメイドたちの間だけの秘密だ。ただし、六時間程度で効果が切れたあと、圭介はスッキリ爽やかに目ざめるはずとだけ言っておこう。
さすが泥棒一家。執事もメイドもただ者ではない。 |
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