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麻里は不思議だった。
「ねえ、圭介。もう朝よ。起きたら?」
隣で寝ている圭介を起こす。だが圭介は、
「うーん……」
と、唸るだけで、一向に起きる気配がなかった。
不思議なこともあるものだ。いつも圭介が自分を起こす役なのに。しかも、今日は立場が逆になったどころか、ぜんぜん目を覚ましてくれない。
「よっぽど、疲れてるのね」
麻里は、圭介に言う。
「いいわ。今日はゆっくり寝てて。オリンピックも終わったし、会社を休んでも誰も文句は言わないでしょ」
それはそうだ。文句を言える人間はいない。
麻里は、圭介のほっぺたにキスをしてから、ベッドを出た。バスルームで身仕度をして、ラウンジに向かう。
「お嬢さま!」
声をかけてきたのは宮本だった。どうやら、ラウンジで圭介が起きてくるのを待っていたようだ。
「おはようございます。圭介さまは?」
「寝てるわ」
麻里は素っ気なく答えた。
「へ?」
「寝てるって言ったのよ。よっぽど疲れてるみたいね」
「は、はあ……」
宮本は、意外そうな、残念そうな顔を浮かべる。
「おはようございます、麻里お嬢さま」
今度は、田島が深々と頭を下げた。
「おはよう田島。朝食の準備をしてちょうだい。ああ、圭介の分はいいわ。あの人、まだ寝てるから」
「かしこまりました」
麻里の朝食が運ばれてくるころ、タイガーチームの面々が、ぞくぞくと集まってくる。
「おはようございます」
大滝だ。
「圭介さまは、どちらですかな?」
「ベッドの中よ」
「は?」
「寝てるって言ったの」
「おはようございます」
横田も来た。
「圭介さまにご報告があるんですが……って、お嬢さまだけですか?」
「だから、寝てるって言ってるでしょ」
「おはようございます」
矢野も来た。
「圭介さま……あら? なんでお嬢さましかいらっしゃらないの?」
「あんたたち、いい加減にしなさいよ。毎朝毎朝、こうやって圭介の朝食を邪魔するから、あの人イヤになって逃げちゃったのよ」
「まさか。ご冗談を」
オホホ。と、矢野が笑う。
「冗談ではないかもしれませんぞ」
田島が、麻里にモーニングティーを持ってきた。
「お嬢さまのご意見は、的を得ておりますな」
「お言葉ですけど田島さん」
と、矢野。
「わたしたちも、好きで圭介さまのご朝食を邪魔しているわけではないわ。それが必要だからよ」
「そうかね?」
田島は、澄ました顔で、麻里のティーカップに紅茶を注ぎながら言う。
「たとえば宮本くん。今回の仕事の人員配置を報告したいようだが、はたして圭介さまの了解を必要とするのかね? きみの独断で進めて問題がないように思える」
「え? ええ、まあそうですが、圭介さまが知りたいだろうと思って」
「では事前報告ではなく、事後報告でよろしかろう」
「はあ、まあ、そうですね」
「大滝くんもしかり。今回の仕事で使うキャッシュを、いくつかポートフォリオ(有価証券)を取り崩して用意するつもりのようじゃが、必要なことは、すべて自身の判断で進めればよろしい。こちらも事前報告の必要は感じませんな」
「ん……それはもっともだが」
大滝は、憮然とした顔で答えた。
「横田くんもじゃな。工作機械の発注は、宮本くんと相談して決めればよい問題だと推察するがいかがかね?」
「確かに、そうですが」
横田は、顔をしかめた。
「矢野女史についても同じ。フランス政府の法律まで、圭介さまのお耳に入れる必要はない。具体的に必要な部分の規制だけ整理して報告すればよろしい」
「ですが、圭介さまが、知りたいっておっしゃってるんですよ」
「それで、圭介さまの貴重なお時間を、六時間も潰すつもりかね?」
「そ、それは……」
「圭介さまがお知りになりたいのなら、データベースにして、圭介さまにお渡しすればよかろう。お知りになりたいとき、すぐに検索できるように。違うかね?」
「いえ……その通りです」
タイガーチームの面々は、みな田島に看破された。
「では、諸君に納得いただいたところで、麻里お嬢さまにも、ゆっくりご朝食を取っていただくお時間を差し上げるのに異論はあるまいね」
「はい……」
タイガーチームの面々は、すごすごと、自分のオフィスに戻っていった。
「よくやったわ、田島」
と、麻里。
「さすが一流の執事ね。ただ……」
「なんでございましょう?」
「タイガーチームも、少しでも長く、圭介と一緒に仕事がしたいのよ。それをわかってあげてちょうだい」
「もちろん、充分承知いたしておりますとも」
田島は、にっこり笑った。
「それはわたくしも同じでございます。ですが、それ以上にわたくしは、麻里お嬢さまと圭介さまの、お元気なお姿を見るのが好きなのです」
「なるほど」
麻里は、ニヤリと笑った。
「圭介が起きないから変だと思ったのよ。田島。あんたなにかしたわね?」
「さあ。なんのことか、一向にわかりかねますな」
田島は、深々と頭を下げて、厨房の方へ下がっていった。
彼の名は、田島藤吉朗、六十四歳。桐島家に仕える完全無欠の執事であった。 |
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