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とある夜のこと。
圭介は、自分の寝室で仕事をしていた。時計の針は、深夜の二時を差している。
ここ二〇日間というもの、ただでさえ忙しい圭介は、まさに激務をこなしていた。ＩＢＣコンピュータは、シドニーオリンピックの公式スポンサーで、かつ、選手たちの膨大なデータを処理していたのだ。インターネットの公式サイトには、なんと期間中に五十億アクセスがあった。もちろん、ＩＢＣのサーバは、ビクともしなかった。
しかし、オリンピックが終わったいま、圭介はつぎの仕事に取り掛かっていた。テーブルには、矢野のまとめてくれた資料が山と積まれている。そう。いよいよ、タイガーチームとして、つまり、泥棒としての仕事が待っているのである。
圭介は、空になったグラスにワインを注ぎ足そうとボトルを手に取る。ところが、そのボトルもすでに空になっていた。
そろそろ店仕舞いしろってことか。
圭介は、苦笑いを浮かべた。ＩＢＣの会長として、朝から晩まで働き、屋敷に戻ってからは、タイガーチームのボスとして働く。さすがに今日はもう、オーバーヒートだ。
「ふーっ」
圭介は、資料の束を閉じて大きくのびをした。
本当に今日はここまでにしよう。圭介は、そう決心して椅子から立ち上がった。シャワーを浴びて寝よう。そう思って、疲れた体をバスルームに引きずっていこうとしたとき。なにげなく麻里の寝顔をのぞき込んだ。
「寝てると、ホントかわいいな」
圭介は、クスッと笑った。
「なんにも、悪いことなんかしてないよって顔だぜ、大泥棒さん」
「う〜ん…… 圭介……」
麻里が寝言を言った。
「へえ、うれしいね。ぼくの夢を見てくれてるんだ」
「もう食べられないよぅ……」
ガクッ。圭介はズッコケた。なんの夢を見てるんだ、いったい？
すると、今度は圭介のお腹が鳴った。麻里の寝言に触発されたのか、急に、空腹が襲ってくる。
まいったな。こりゃ、なにかお腹に入れないと、寝つけないぞ。
圭介は、シャワーを延期して、キッチン（厨房と言うべきか）に向かう決心を固めた。ディナーの残り物はないだろうが、なにかしら食べる物があるはずだ。メイドさんにサンドイッチを作ってもらう手もある。（タイガーチームが二十四時間体勢で仕事ができるように、何人かのメイドさんが夜勤で働いているのだ。贅沢！）
圭介は、寝室のドアを静かに閉めると、キッチンに向かった。照明の落とされた廊下を通って、ラウンジに出る。これがキッチンへの近道なのである。（なにせ、広い屋敷だから、いくつかルートがある）
ラウンジも照明が落とされていた。いくつかの間接照明だけが、ぼんやりとラウンジを照らしている。
ふと、圭介は足を止めた。ラウンジの窓から、外の月明かりを眺めている女性を発見したからである。
圭介は、その女性の後ろ姿を見ながら、苦笑いを浮かべる。どうやら働き者は自分だけではないらしい。
「矢野さん」
圭介は、声をかけた。
矢野は、少し驚いたように振り返った。
「あっ…… 圭介さま」
「ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど。こんな時間まで仕事かい？」
「ええ。圭介さまこそ、まだお休みになっていらっしゃらなかったんですか？」
「どういうわけか、ぼくのベッドルームに、百科事典みたいな厚さのバインダーが置いてあってね。恐る恐る見てみると、つぎの仕事の資料らしいんだよ。ざっと目を通すだけで三時間掛かったんだけど、いったい、誰の陰謀だろうね？」
「さあ？」
矢野は、笑いながら首を傾けた。
「ひどいことをする人もいるんですねえ」
「まったくだね。矢野さん」
圭介も笑った。その資料を作ったのは矢野なのだから。
「圭介さま」
と、矢野。
「それで、目を通していただいて、いかがでしたか？」
「よくまとまっている。すんなり頭に入ったよ。おかげで、うまい計画が浮かびそうだ」
「ありがとうございます。つぎは大仕事ですから、わたしたちも気合いが入ってますよ」
「でも、今日はもう休ませてくださいよ」
圭介は笑った。
「矢野さんもね。明日があるんだから」
「ええ」
矢野は微笑む。
「わたしも、もう休むつもりでした。でも、ここに来たら、月があんまり綺麗になんで、つい見とれていたんです」
「月？」
圭介は、ラウンジの窓の外を見る。
「本当だ。スモッグが晴れるなんて珍しいな」
「でしょ」
矢野は、圭介の隣に立った。
しばらく二人で月を見上げる。
「ねえ、圭介さま。気がついていらっしゃいますか？」
「なにを？」
「いま。わたしたち、二人きりなんですよ」
ドキッ。圭介の心臓の音。
「そ、そうだっけ？」
圭介は、わざとラウンジを見渡した。メイドの姿は確かに見えない。
矢野が、すっと圭介に近付き、腕を絡めてくる。
「ちょ、ちょっと矢野さん……」
「わかってます。わかってますから、なにも、おっしゃらないで」
矢野は、そう言って圭介の肩に、頭をもたげた。
「ほんのちょっとだけ…… 五分だけこうさせてください。お願い」
「う、うん」
圭介はうなずく。
すると、ふう…… と、微かに矢野のタメ息が聞こえた。
そのタメ息の意味を、もちろん圭介は知っている。知っていながら、自分にはどうすることもできないことも知っている。
「ごめんなさい」
矢野が、急に離れた。
「なんか、弱気になっちゃいました。こんなことじゃいけませんね」
「う、うん。そうだよ」
「そうですよね。もっと強気に行かなきゃ」
矢野はそう言うと、圭介のネクタイをつかんで、ぐっと引き寄せた。
「うわっ！」
そのとたん、矢野は圭介の唇を奪う。
チュッ。と、軽いキス。
「ふふ。今日はこのくらいにしときます。お休みなさい、圭介さま」
矢野は、呆然と立ち尽くす圭介にウィンクすると、ラウンジを出ていった。
まいったね。
圭介は、心の中で苦笑いを浮かべる。ぼくだって泥棒なのに、キスを奪われちゃったよ。まったく、人生は楽しいね。
圭介は、自分も寝室に戻る。
シャツを脱いで、シャワールームに入る。
熱いお湯を、頭から浴びる。そこで、圭介は、はたと気づいた。
しまった！ 夜食を忘れた！ |
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