Gift - illustration
矢野絵里子
ショートストーリー
 矢野絵里子は、七時少し前に目が覚めた。
 彼女も、タイガーチームの例にもれず、夜中まで今回の作戦の問題点を検討していた。だが、さすがに少し寝ておこうと、三時過ぎにはベッドに入った。まだ二日や三日の徹夜でバテるような年齢ではないが、美容に無頓着でいられるほどには若くなかった。
「ん……」
 矢野は、広いベッドの上で伸びをした。
 フランスの屋敷で、チーフたちに割り当てられた個室は、圭介と麻里の部屋に比べれば、ずいぶん、こぢんまりしていた。だが、それでも、一流ホテルのスイートルームに匹敵する広さがある。クローゼットだけで、若い日本のサラリーマンが住むアパートぐらいはあるだろう。
「さて。今日も忙しくなりそう」
 矢野は、ベッドから出て、バスルームに向かった。チャネルの経営会議は十時からだ。圭介は九時にはこの屋敷を出るだろう。それまでに圭介を捕まえて、数分でいいから、打ち合わせをしたい。いや、打ち合わせをしたいのは事実だが、それよりも、圭介の顔を見たいという気持ちの方が強かった。
 矢野の第一の仕事は、圭介の関る事柄すべてについて、法務上の問題を調査し、かつ解決することだ。だがそれ以上に、セクレタリー(秘書)としての仕事が、彼女の重要な役目でもあった。超がつくほど多忙な落合圭介をサポートするのが、自分の使命とすら考えている。
 もちろん、矢野の仕事の範囲は、公的な落合圭介の時間を管理することだ。公的とはすなわち、企業家としての落合圭介であり、またタイガーチームのボスとしての落合圭介であった。屋敷の主としての落合圭介をサポートするのは、執事である田島の仕事だし、麻里のフィアンセとしての落合圭介は、もちろん、麻里のものなのだ。つまり、私的な落合圭介の時間に、矢野の居場所はない。
 しかし矢野は、その境界線は曖昧なものだと思っている。いや、曖昧なのだと、自分を納得させている。だから彼女は、一日の大半を、圭介のことを考えて過ごすのだ。そのせいか、二十四時間のうちに、一度は圭介の顔を見ないと、禁断症状が出るような気がした。矢野自身、バカげた考えだと思っているが、本当にイライラしてくるんだから仕方ない。まさに禁断症状だ。
 矢野は、バスルームに入って、寝間着を脱いだ。大きな鏡に映った自分の姿を見る。三十を少しだけ超えてしまったが、まったくボディラインは崩れていない。もともとスタイルには自信があったが、タイガーチームに入ってから、より引き締まったと思う。責任ある地位にいる者として、体調の管理に気を使っているのはもちろんだが、この身体を見てもらいたい男性が近くにいるからだ。
 矢野は、長い髪を束ねて、シャワーのコックをひねった。熱い湯を浴びると、まだ睡眠から完全には覚醒していなかった身体が目覚めるのを感じた。
 チャネルの会議についていっちゃおうかな。
 矢野は、身体を洗いながら、今日の行動を考えていた。
 ダメね。わたしが行っても意味はないし、それより、IBCコンピュータの重役会議の資料を整理しておこう。そろそろ、ジェネラル・エレクトリックの、ポリマー部門を買収するかどうか、圭介さまは決断を下さなければいけない。IBC内部では、肯定派と否定派が、まっぷたつに別れているけど、圭介さまは、どうするつもりかしら。そもそも、こんどの作戦で頭が一杯だったはず。IBCのこと考えている暇があったかしらね。
 矢野は、身体を洗い終えて、シャワーを止めた。
 まあ、圭介さまのことだから大丈夫か。矢野は、クスッと笑った。こんなに忙しいのに、モネを落札しに、オークションに出かけるぐらいなんだから。ホント、圭介さまってタフよね。どうせなら、そのエネルギーで、もうちょっと、わたしのこと、かまってくれてもいいのに。
 意外なことに、矢野は新たなトラブルを、圭介がどう解決するかに興味があった。圭介が、問題を解決できないという考えは、矢野にはない。そんなこと、思い浮かびもしない。問題が大きければ大きいほど、圭介はその真価を発揮する。
 矢野は、身体を拭いて、新しい下着を身につけた。ブラジャーもパンティーも、一点、数万円もするモノだ。べつに、今日は特別な日ではない。彼女の普段着だ。この程度の贅沢が許されるだけの報酬を、彼女は得ている。
 矢野は、薄い化粧を、すっかり精気の戻った顔に施すと、ジバンシーの香水を首筋にふりかけた。そして、バスルームを出て、クローゼットを開ける。いや、入ったと言うべきか。部屋と呼んで差し支えない大きさなのだから。そこには、プライベートの服と、仕事で着るビジネススーツが分けて掛けられている。もちろん、矢野が向かったのは、ビジネススーツの掛けてある棚だ。
「今日は、明るめの色にしようかしら」
 矢野は、数あるビジネススーツの中から、淡いグリーンを選んだ。じつは、どれもチャネルの佐藤がデザインしたスーツで、値段を付ければ、一着、数百万円はするだろう。だが、実際には値段はつけられない。佐藤は、彼のポリシーとして、ビジネススーツはデザインしないのだ。もちろん、プレタポルテに出すようなことは絶対にない。
 しかし。矢野と麻里、そして佐藤の秘書である、香坂翔子だけは例外。この世で、彼女たちにだけ、佐藤はビジネススーツを作る。もちろん、彼女たちの体型にあったオーダーメードを、それぞれ違ったデザインで、しかも無料で。それは圭介の命令だからではない。佐藤の純粋な趣味なのだ。つまり矢野は、どれほど地位のある女性が、どれほど熱く望んでも手にすることの出来ない贅沢を、ごく日常的に手にすることができる三人の女性のうちの一人なのだ。(ただし、麻里だけは例外中の例外であり、彼女が望めば、どんな用途の服も、佐藤にデザインさせられる。それも、最優先で)
 矢野は、明るい色のビジネススーツを着終わると、クローゼットを出て、薄いフレームの眼鏡をかけた。そして、書類が詰まったビジネスバッグを脇に抱えた。
「よし」
 もう一度、鏡で自分の姿を確認すると、矢野は背筋を伸ばして、自分の部屋を出た。こうして、タイガーチームきっての才女、矢野絵里子の一日が始まった。


このショートストーリーは、現在執筆中の「召しませMoney!3」より抜粋しました。
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