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メイドたちの密かな陰謀
圭介は、ニューヨークとパリに屋敷を持っている。IBCの本社があるニューヨークが圭介の拠点ではあるが、チャネルのあるパリも重要だ。そんな屋敷を取り仕切っているのは、執事の田島だが、じつは、もう一人、重要な人物がいた。
メイド長の、カトリーヌ・シャヴァンヌ。二十九歳。彼女はもともと、桐島真智子の屋敷でメイドをしていたが、田島が圭介の屋敷のメイド長として引き抜いてきたのだ。そのとき、カトリーヌに肩書はなにもなかった。それが、いきなりメイド長に抜擢されたのだから、異例の出世だ。桐島家に、二十代のメイド長はカトリーヌ以外にいない。
カトリーヌには、メイド長という肩書とはべつに、もうひとつ大きな特徴があった。麻里と矢野。だれもが認める美女二人と比べても、まったく引けをとらない美貌の持ち主だった。いや、もしかしたら、麻里と矢野以上かもしれなかった。絹糸のように美しい金色の髪。澄んだブルーの瞳。スーパーモデルもうらやむプロポーション。彼女の外見は、なにもかもが、神の祝福としか思えなかった。
だが……
その日の夜。圭介は、例によって徹夜で仕事をしていた。チャネルの経営について、考えているうちに、気がつけば時計の針は夜中の二時をさしていた。例によって、小腹が空いた圭介は、なにかお腹に入れてからベッドに入ろうと思い、屋敷の厨房に向かった。いつもメイドのだれかがいて、なにか作ってくれる。いってみれば、日課みたいなものだ。
ところが、その晩は、だれもいなかった。
「あれ? おかしいなあ……」
圭介は、そうつぶやいたが、だれもいないものはしょうがない。だから、業務用の冷蔵庫を開けて食料を物色した。
そのとき。
「圭介さま」
背後から声がした。
「はい!」
圭介は、イタズラが見つかった子供のように、思わず返事をしながらふり返った。
カトリーヌだった。大理石の彫刻のように、青白い顔で立っていた。
「なにをなさっておいでですか?」
「あ、あの……その……こんばんは、シャヴァンヌさん」
圭介は、カトリーヌの冷たい瞳に見据えられて、思わず身体を後ろに引いた。夜中にアンティークのフランス人形を見ているみたいだった。なんとなく……いや、わりと本気で怖い。圭介は、ホラー映画の世界に迷い込んだ気がした。カトリーヌほど、その美貌が裏目に出ている例も珍しい。
「わたくしのようなメイドにもご挨拶をいただけて恐縮でございます」
カトリーヌは、大げさではなく、だが礼を失しない程度に頭を下げた。彼女の英語は、清流の流れのごとくなめらかだった。だが、抑揚がなかった。感情がまるで読み取れない。コンピュータの合成音声のほうが、まだ可愛げがある。
「さて、それはそれとして。わたくしの質問にお答えくださっておりません。ここで、なにをなさっておいでなのですか?」
「えっと……」
圭介は、息苦しさを感じながら答えた。
「ちょっとお腹が空いちゃって……なにか食べるものがないかなと」
「いま、何時かご存じでいらっしゃいますか?」
「二時です」
「夜中のというお言葉が欠けております。よろしいですか圭介さま。人間は、夜中の二時に食事をするようにはできておりません」
「はい……」
「ご朝食までには、まだ間がございます。どうぞ、寝室にお戻りになって、安らかにお休みください」
カトリーヌが言うと、そのまま永眠してしまいそうな雰囲気があった。体温が徐々に奪われ、冷たい氷のようになっていく自分の姿を、圭介は思わず想像してしまう。
「す、すいません、ごめんなさい!」
圭介は、逃げるように厨房を出た。
怖い、怖いよ、シャヴァンヌさん。田島さんより百倍怖い〜。
夜中、トイレに行くのが怖い子供のように、圭介は屋敷の階段を駆け上った。照明の落とされた薄暗い屋敷は、一度怖いと思うと、ホラーハウスのように感じられる。豪華な調度品が、よけい雰囲気を盛り上げている。
「圭介さま」
階段を上りきったところで、声をかけられ、圭介はビクッとなった。
「だ、だれ?」
あたりを見渡してもだれもいない。
ひーっ! この屋敷、本当に幽霊がいるのか!
圭介の顔から、血の気がさーっと引いたとき。
「こっちですよ、圭介さま」
廊下の先の曲がり角から、メイドがちょこんと顔を出し、こっちこっちと手招きしていた。
「クレアか……ビックリしたぁ」
圭介は、ホッと息を吐いた。クレアは、麻里付きのメイドだった。カトリーヌと同じように、金髪でブルーの瞳だったが、鼻の頭にちょっとそばかすが残る、美人というよりはカワイイという表現が似合う女性だった。
圭介は、クレアに引き寄せられるように、廊下の先に向かった。
「また、お腹がお空きになったですね」
と、クレアは、小声で言った。
「うん。そしたらシャヴァンヌさんに見つかっちゃった」
圭介も、小声で答えた。
「やっぱり。ごめんなさい圭介さま。メイド長ったら、たまに抜き打ちで夜回りするんですよ。あたしたちも、なんか怖くって」
「そうだね。こんなこと言いたくないけど、近寄りがたいよ」
「でしょ。あ、それより、こっちに来てください。静かにね。メイド長に見つからないように」
「うん」
圭介は、クレアのあとについて、抜き足差し足で、廊下を歩いた。まるで泥棒だ。自分の屋敷なのだから、堂々と歩けばいいのに、圭介は、そんなことにまったく、気づかなかった。
案内された先は、メイドたちの休憩室だった。明るい照明に照らされ、暖房もちょうどいい加減だった。
「なんか、ホッとするなあ」
圭介は、思わず声を漏らした。
メイドの休憩室には、フェシリアとミランダが休んでいた。雑誌を広げて、お茶を飲んでいるところだった。
「よくやったわ、クレア」
ミランダが、立ち上がった。
「圭介さま救出成功ね」
「ええ、危ないところだったわ」
クレアが、真剣な顔でうなずく。
「どうぞ、圭介さま」
フェシリアも立ち上がり、圭介に椅子を勧めた。
「ありがとう」
圭介は、椅子に腰掛けた。
「たぶん、こんなことになると思って、おにぎりを作っておきました」
クレアはそう言って、竹の皮でくるんだおにぎりを、圭介の前に置いた。クレアたちは日本で暮らしたことは一度もない。だが、圭介の好みは熟知している。おにぎりだろうと味噌汁だろうと、なんでも作れるのだ。
「いま、お茶をお入れしますね。夜中だから、番茶でいいですか?」
「うん。うれしいなあ!」
圭介は。思わず顔をほころばせた。クレアとフェシリア、そしてミランダは、圭介のメイドの中で一番若く、いわゆる仲良し三人組だった。圭介に対する態度が馴れ馴れしすぎると、カトリーヌに年中注意をされていたが、当の圭介は、気にしたことは一度もなかった。むしろフランクに話せるので、この三人が好きだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
お茶を入れてもらった圭介は、おいしそうに、おにぎりをほおばった。
クレアたちは、そんな圭介を見て、クスッと笑った。
「メイド長に感謝ね」
と、ミランダ。
「こうして、圭介さまと、一緒にいられるんだから」
「ホントね」
と、フェシリア。
「圭介さま。どうぞ、ごゆっくり食べてくださいね」
「まあねえ」
と、クレアがタメ息をついた。
「圭介さまとご一緒できるのはうれしいけどねえ。こんなこと何度もあったら圭介さまがかわいそうだわ」
「そうね」
と、ミランダ。
「あたしたちだって、メイド長には息が詰まりそう」
「ねえ」
と、フェシリア。
「やっぱり、例の計画を実行に移すべきじゃない?」
「そう思うわ」
クレアがうなずいた。
「このお屋敷の平和は、あたしたちが守らなきゃ」
「あの〜ぉ」
圭介は、おにぎりをもぐもぐ食べながら聞いた。
「計画ってなに?」
「あら。圭介さまったら、おべんとつけてる!」
フェシリアが、圭介の口元にご飯粒を発見して、それをつまみとると、パクッと自分の口に入れた。
「きゃーっ。おいしい」
フェシリアは、ティーンエイジャーのようにはしゃいだ。
「あ、フェシリア抜け駆け!」
ミランダが叫んだ。
「ふんだ。早い者勝ちよ」
「ちょっと二人とも」
と、クレア。
「いまから、仲間割れしててどうするのよ。メイド長と戦うには、チームワークが重要なのよ」
「そうだったわ」
「そうそう。がんばらなきゃ」
ミランダとフェシリアがうなずいた。
圭介は、なんとなく、早々に退散したほうがよさそうな雰囲気を感じた。
「あの……ごちそうさま。なんだか知らないけど、がんばってください。じゃ」
「待って圭介さま!」
クレアが、圭介の腕をつかんだ。
「屋敷の平和のためなんです。どうか、協力してください」
「そうなんです」
ミランダも懇願する。
「圭介さまのご協力がなければ、できない計画なんです。お願いします」
「圭介さま」
フェシリアは、ニッコリ笑った。
「協力してくださらないと、お夜食食べられなくなっちゃいますよぉ」
「う、うーむ」
圭介は、唸った。
「すごくイヤな予感がするけど、話だけは聞こうかな」
これが圭介の悲劇のはじまりであった。
十五分後。
「どこ行ってたのクレア」
カトリーヌは、一階のラウンジに戻ってきたクレアを、冷たくにらみつけた。
「あなた、遅番の仕事がどのようなものか理解しているのかしら」
「すいません、メイド長さま」
クレアは、深々と頭を下げた。
「ちょっと気になることがあって、金庫室を調べていたんです」
「気になること?」
「はい。たまに変な音がするんです。なにかなと思って」
「原因はわからないのね」
「はい。タイガーチームのみなさまにご報告したほうがよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。でも、その前にわたくしも確認しておきましょう。ネズミの仕業だったりしたら、わたくしたちの責任ですからね。音のする場所に案内しなさい」
「はい、こちらです」
クレアは、先に立って、地下の金庫室に向かった。
「ところでクレア」
と、カトリーヌ。
「ミランダたちはどうしたのですか。さっきから姿が見えないけど」
「えっと……裏門の戸締りを見てくるって言ってました」
「それにしても遅いわね。あの子たちのことだからまたさぼっているんでしょう。困ったものだわ」
「そうですよねえ。うんと叱っといてください」
「あなたもよクレア。メイドとしての自覚が足りません。いいですか、メイドというものはですね――」
「メイド長さま。ここなんですけど」
クレアは、カトリーヌが、延々と説教をはじめる前に、金庫室に到着した。
「べつに、変わったことはないみたいよ」
カトリーヌは、固く閉ざされた、金庫室のドアを触った。
「どこで音なんか……」
そのとき。金庫の中から、コツンコツンというかすかな音が聞こえた。
「あら、いやだ。本当に音がするわね。なにかしら?」
クレアは、カトリーヌに悟られないように、胸につけた超小型マイクに、小声でささやいた。メイドたちも、広い屋敷で連絡を緊密に取るため、小型の無線機を支給されているのだ。
「こちらクレア。いまよ」
『了解』
クレアの耳にはまっているイヤフォンから、ミランダの返事が聞こえた。
そのとき。
ガクンと音を立てて、金庫室のドアが開いた。
カトリーヌは、思わず一歩あとずさった。だが、少しも驚いた様子もなく、落ち着いた声で言った。
「なぜ、金庫室のドアが開いたのかしら」
「メイド長さま……なんでしょう。わたし怖いです。ま、まさか、心霊現象とか?」
クレアは、わざと怯えた声を出した。
「なにをバカなことを」
カトリーヌは、無表情なまま言った。
「心霊現象など、この世にあるはずがありません。コンピュータの誤動作かもしれない。これは、タイガーチームにご報告する必要がありそうね」
「あ、メイド長さま!」
クレアは、金庫室の中を指さした。
「あれ、なんですか?」
「なに?」
「いま、なにか黒いものが動いた気がしました」
「いいえ。わたくしには見えませんでしたよ」
「わたしは見えました……怖いです……メイド長さま、見てきてくれませんか?」
「困った子ね、本当に」
カトリーヌは、かすかに肩をすくめて、金庫室の中に入った。クレアは、カトリーヌが充分に中に入ったのを見計らって、またミランダに通信した。
「いまよ」
そのとき。
ガクンと、また音がして、ドアが動いた。カトリーヌは、ハッとしてふり返ったが、もう遅かった。カトリーヌを残したまま、ドアは静かに閉まった。
「オッケイ」
と、クレア。
「第一段階成功よ」
金庫室の中。
「クレア」
カトリーヌは、閉まったドアに向かって、いつもより大きめの声を出した。
「聞こえますかクレア。遅番のタイガーチームに頼んで、ここを開けてもらってちょうだい。クレア。クレア?」
返事はなかった。
「やれやれだわ……」
カトリーヌは、軽くタメ息をついた。
「なんという失態でしょう。メイド長ともあろうものが」
しかし、閉じ込められてしまったものは仕方がない。クレアが、タイガーチームに金庫を開けてくれるように頼んでいるだろう。カトリーヌは、そう思って、まったく動揺はしていなかった。だいたい、カトリーヌの閉じ込められた場所は、三重扉になっている金庫室の第一扉の内側だった。ここは、それほど堅牢ではない。貴金属はもちろん、一ドルのお金も保管されてはいないのだ。本当の金庫は、この先のドアの、さらに奥にある。タイガーチームなら、第一扉を開けることなど、五分でできるだろう。カトリーヌは、それを知っていた。
ただ……こんなことで助けられるのは恥ずかしいわね。カトリーヌは、さすがに苦笑を浮かべた。
そのとき。
金庫室の天井から、ガタッと音が聞こえた。
カトリーヌは、音のする場所を凝視した。天井のパネルがパカンと開き、するすると紐が降りてくる。
「なんなの、いったい?」
さすがのカトリーヌも、異常な事態に眉をひそめた。この屋敷に泥棒が? まさか。そんなこと信じられない。
カトリーヌが、自分の目を疑ったつぎの瞬間。紐をつたって、男が降りてきた。
「圭介さま!」
カトリーヌは、思わず声を上げてしまった。それは圭介だったのだ。
「やあ、シャヴァンヌさん」
圭介は、床に足を着けて、カトリーヌに手を上げた。
「圭介さま。いったい、なにをなさっていらっしゃるのです?」
「トップシークレットだ」
圭介は、苦笑しながら言った。
「だが、見つかってしまったものは仕方ない。だれにも言わないと約束してくれたら説明して上げよう」
「お話の内容によります」
「さすが、慎重な答えだ。シャヴァンヌさんらしい。じつは、思うところあって、金庫破りの方法を研究していた。うちの屋敷の金庫を破れれば、世界中のどんな金庫だって簡単に破れるからね。ところが、うかつにもクレアに見つかってしまった。あの子は、勘が鋭いね。さすがぼくのメイドだ」
圭介は、クレアが用意したセリフをそのまましゃべっていた。まったく、なにが勘が鋭いだ。困ったもんだよ。と思いながら。
「というわけで」
圭介は、気を取り直して言った。
「タイガーチームを呼びに行こうとするクレアを止めて、ぼくがきみを救出しに来た」
「タイガーチームにも秘密なのですか?」
「そうだよ。敵を騙すなら味方からって言うわけじゃないけど、できるだけ、本当の金庫と同じ条件にしたかったんだ。だれにも知られず、金庫破りの方法を見つけたかった」
「そうでしたか」
カトリーヌの表情に変化はなかった。感心しているのか、それとも呆れているのかさえ圭介には判断できなかった。
「仕事熱心と申し上げるべきかもしれませんが、そのようなことをなさっているから、夜中にお腹がお空きになられるのですよ」
どうやら、呆れているようだった。
「お説教はあとで聞くよ。とにかく、ここを出よう」
圭介は、降りてきた紐に手をかけた。
「まさか、わたくしも、その紐を上れと?」
「そうだよ」
「圭介さまが、外からドアを開けてくださるわけにはいかないのですか?」
「ドアはコンピュータ制御になっている。やっとのことで開けたんだ。もう一度開けるとなると、タイガーチームに勘づかれる」
「そうですか……」
カトリーヌはタメ息をついた。
「さあ、早く」
「待ってください」
カトリーヌは、ついに表情を浮かべた。どこか恥ずかしげな顔だった。
「こんなこと申し上げるのは心苦しいのですが、じつはわたくし……」
「なに?」
「運動神経はまったくないんです。とても、その紐をつたって、上に上がることなんてできそうもありません」
「そんなことか」
圭介は明るく笑った。
「大丈夫。モーターで巻き取るようになっているから。力なんかいらない。さあ、こっちへ来て」
圭介は、カトリーヌを手招きした。
「はい……」
カトリーヌは、不安そうな顔を浮かべて圭介に近づいた。
「ぼくにつかまって」
「はい?」
「抱きつけばいいんだよ」
「まさか。そんなことできるはずがありません」
「じゃあ、タイガーチームに見つかってもいいのかい?」
「見つかってお困りになるのは圭介さまですよ」
「そうだよ。だから、それでもいいのかって聞いたんだ。ぼくの困る顔を見たい?」
「い、いいえ……そうではありませんが」
「だったら早く。ぼくの肩に手を回して」
「仕方ありませんね。失礼いたします」
カトリーヌは、遠慮がちに圭介の肩に手を回した。
「ダメだよ、そんなのじゃ。もっと強く」
「でも……」
「いいから」
圭介は、カトリーヌをぐっと引き寄せた。
「あっ……」
圭介の顔が、目前に迫って、カトリーヌは、思わず顔を背けた。
「そんなに、ぼくのこと嫌い?」
「いいえ! そうではありません!」
カトリーヌは、思わず大きな声を出してしまった。
「シャヴァンヌさんも、カワイイとこあるね」
「圭介さま。ご冗談もほどほどになさってください」
「ごめん。さあ行くよ。しっかりつかまって」
圭介が言うと、小型のモーターが回り、紐を巻き取っていった。
カトリーヌは、致し方なく、圭介の胸に顔をうずめていた。こうしないと、抱きついていられない。
致し方なく?
カトリーヌは自問した。本当に仕方ないと思っているの?
そうではなかった。
温かい……カトリーヌは、圭介の体温を感じていた。圭介さま、着痩せするタイプなのね。思ったよりずっと胸が厚い。やっぱり、男の方ね。い、いやだ。わたくしったら、なにを考えているのかしら……
カトリーヌは、その性格が災いして、男性と付き合った経験がなかった。
「もうじきだよ」
圭介が言った。
「がんばってカトリーヌ。力が緩んでる。もっと強く抱きついて」
圭介は、カトリーヌの名を呼んだ。
「はい、圭介さま」
カトリーヌは、ぎゅっと圭介に抱きついた。うれしい。圭介さまに名前で呼んでもらっちゃった。カトリーヌは、圭介の体温を感じながら、鼓動が速くなるのを感じていた。
金庫室の上に上がった。
「さあ、着いた。もういいよ、離しても」
「あ……はい」
カトリーヌは、圭介から離れるのが少し残念だった。同時に、そんな自分に驚いてもいた。こんな感情が自分にもあったのかと。
「どうしたの?」
「い、いいえ。なんでもありません」
カトリーヌは、圭介から腕を離した。
「さあ、これからは、ちょっと大変だ。通風孔を抜けなきゃいけない。緩い下りのスロープになっているんだ」
圭介は、通風孔の金網をバカンと開けた。金属の太い管が、地下三階に向かって下に伸びていた。
「いったん、外気を地下三階に導いて、そこでフィルターを通した空気を屋敷に送る構造になっている」
圭介は、事務的に説明した。
「そうなんですか……」
カトリーヌは、通風孔をのぞき込んだ。下から風が上がってくる。カトリーヌの金色の髪が風に舞った。
ゴクリと、カトリーヌはつばを飲んだ。
こ、怖い……こんなところ……入れない……
「カトリーヌ、ジェットコースターに乗ったことは?」
「あ、ありません」
「そうか。じゃあ、少し怖いかもしれない」
「いやだ……わたし、どうしよう……」
カトリーヌは、もう無表情ではなかった。圭介に怯えた顔を向けた。いまにも泣きだしそうだった。
圭介は、チクリと胸が痛んだ。ごめんね、カトリーヌ。これも夜食のためなんだ。許してください。
「方法は二つ」
圭介は、気を取り直して言った。
「幸い、通風孔は二人同時に入れる広さがある。一人ずつ入るか、それとも一緒に入るか。どっちがいい?」
「あの……」
カトリーヌは、ちょっと顔を赤らめ、消え入りそうな声で言った。
「ご一緒に……よろしいでしょうか?」
「いいとも」
圭介は、カトリーヌの腰に手を回した。
「しっかり、ぼくにつかまって」
「はい、圭介さま」
カトリーヌは、ふたたび圭介に抱きついた。
「いくよ」
「はい」
圭介は、カトリーヌを抱いて、通風孔に入った。滑り台を降りるように、ふたりで落ちていく。
「わぉ! これ、けっこう楽しいね!」
圭介が明るく笑った。
「楽しくありません」
「あはは。ごめんごめん。すぐ着くからがまんして」
楽しくないけど、でも楽しい。もうちょっと、このまま、圭介さまと一緒にいたい……カトリーヌがそう思ったとき、地下三階に着いた。空調室だった。フィルターの手前で圭介たちは止まり、フィルターを外して、空調室に入った。
「さあ、ここからは安心だ。階段を上れば、裏庭へ出れる」
「圭介さま」
「なに?」
「ありがとうございました」
「えっ、い、いやだなあ。お礼を言うのはぼくだよ。黙っててくれるんだから」
「いいえ。わたし、こんなに足手まといになってしまって、恥ずかしいです。それに、圭介さまのお仕事を理解していなかった。メイド長失格です」
「待った、待った!」
圭介はあわてて言った。
「カトリーヌは、すごく優秀なメイド長だよ。ぼくが言うんだから間違いない。本当に。だから、そんなこと言っちゃダメだ。きみ以外のメイド長なんて、ぼくにはまったく考えられない! 本当だよ!」
圭介は、自分のせいでカトリーヌの自信がなくなったら、大変だとあわてた。それどころか、メイド長を辞めたいなんて言いだしたら、取り返しのつかないことだ。いっそ、本当のことをしゃべってしまったほうがいい。クレアには悪いけど。
だが。
「圭介さま……」
カトリーヌは、熱心に言ってくれる圭介に胸が熱くなった。この人が、みんなから好かれるのがよくわかる。自分も、ずっと前から圭介が好きだった。その感情を押し殺していただけ。圭介さまのおそばにいたい。心からそう思う。
「ありがとうございます。わたし……なんとかやっていけそうです」
「よかった」
圭介は、心の底から安堵した。
クレア〜、なんてことやらせるんだよ、まったくもう! 危うく優秀なメイド長を失うところだったぞ。圭介は、あとでクレアにたっぷり文句を言おうと心に誓ったのだった。
「成功よ」
裏庭で、圭介たちの会話を盗聴していたクレアが満足げに言った。
「さすが圭介さまね。あの氷のメイド長さまも、イチコロなんだから」
「あら」
と、ミランダ。
「メイド長は、前から圭介さまのこと好きだったのよ。自分でもやっと、それに気づいただけなんだわ」
「そうそう」
と、フェシリア。
「圭介さまのこと嫌いな人なんていないけどね。メイド長も例外じゃないってこと」
「おっと」
と、クレア。
「そろそろ、圭介さまたちが上がってくるわ。あんたたちも、計画通りうまくやんなさいよ」
クリアは、そう言って、一足早く屋敷に戻った。
そのころ。圭介たちは、階段を上り、金属のドアを開けているところだった。裏庭に出るドアだった。
「ふう。やっと外に出た。お疲れさま、カトリーヌ」
「はい。圭介さまこそ、お疲れさまです」
そう答えるカトリーヌの顔は、もう人形でも大理石でもなかった。にっこりと笑顔を浮かべていた。
「カトリーヌって、笑うとすごくチャーミングだね」
「いやだわ、圭介さまったら」
カトリーヌは、ポッとほほを染めた。
「そういうことは、お嬢さまだけにおっしゃってくださいな」
「そうだね。これも秘密だよ」
「はい。二人だけの秘密ですね」
「そういうこと」
圭介は、苦笑を浮かべて屋敷のほうへ向かった。
そのとき。
「伏せて」
突然、圭介が、カトリーヌを抱き抱えるように、植木の陰に隠れた。
ミランダと、フェシリアが歩いてきた。
「やっと、終わったわ」
と、ミランダ。
「こっちの戸締りは問題なしよ。そっちはどうフェシリア」
「ええ、異常なし」
「オッケイ。中に戻りましょ。思った以上に時間がかかっちゃった。メイド長さまに、また仕事をさぼってると思われちゃう」
「そうね。急ぎましょ」
ミランダたちは、屋敷の中に入っていった。
圭介は迷った。ここでもセリフが用意されていた。クレアたちに、これ以上協力したくない。そう思ったが、まあ、それもかわいそうかと、またまた彼女たちが用意したセリフをそのまましゃべった。
「勤勉だな。ぼくは、いいメイドをたくさん持って、本当に幸せだよ」
まったくもう。なにを言わせるんだ、なにを。と、圭介は心の中でブツブツ言った。
「そうですね。あの子たちのこと、少し誤解していたかしら……」
「う、うーむ……」
圭介は考えた。このまま、クレアたちの計画通りになるのは悔しい。
「そうか。わったぞ。カトリーヌの教育が行き届いているからだ。これからも、いままでどおり、厳しくし教育するのがいいと思うよ。ホントに」
「ご安心ください。これからも、ビシビシ教育いたしますわ」
「そうしてやってくださいませ。ぜひ」
よしよしと、圭介は、心の底から大きくうなずいたのだった。ぼくの苦労の、百分の一でも経験してもらわなくっちゃなと。
翌朝。
圭介と麻里は、裏庭の見えるテラスで、朝食をとっていた。例によってタイガーチームのチーフたちも集まっての、ブレックファーストミーティングを開いていた。
「昨晩」
と、横田が言った。
「空調室と通気孔のセキュリティシステムが二十分ほど解除され、なおかつ金庫室のコンピュータが操作された形跡があります。もちろん徹底的に調べましたが、何者かが侵入した形跡はありません。圭介さま、お嬢さま。なにかご存じでいらっしゃいますでしょうか」
「知らないわよ、あたし」
麻里は、圭介を見た。
「あなた、なんかしたの?」
「ぼくが容疑者か」
圭介は苦笑した。
「じつは、麻里は正しい。ちょっと金庫の構造を知りたくって動かしたんだ」
「やはりそうでしたか。あのコンピュータは、圭介さまと麻里お嬢さましか操作できませんので」
「金庫なんか調べて、どうするつもりなの? 銀行強盗でもはじめるつもり?」
「うん。お金がなくなったら、銀行強盗に転職だ」
「バカねえ。本当は、どうするつもりなのよ」
「べつに。他意はないよ。金庫の構造を知りたかっただけ」
「ふーん。まあいいけど」
そのとき。
「おはようございます、みなさま」
カトリーヌが、銀のお盆に、紅茶のポットを持って現れた。
「圭介さま。お茶のお代わりはいかがですか?」
「うん。もらおうかな」
「はい」
カトリーヌは、満面の笑顔をを浮かべて、圭介のカップに紅茶を注いだ。
「麻里お嬢さまはいかがですか?」
「え、ええ……」
麻里は、目をパチクリさせながらうなずいた。
「も、もらうわ」
「はい」
カトリーヌは、麻里のカップにも紅茶を注ぐと、やはり、満面の笑顔で言った。
「ではみなさま。どうぞ、ごゆっくり」
タイガーチームの全員が、口をポカンと開けて、カトリーヌが戻っていく後ろ姿を眺めていた。
「ちょ、ちょっと!」
麻里が叫んだ。
「なによあれ、カトリーヌが笑ってたわよ! 熱でもあるんじゃない!?」 「驚いた……笑うとすごい美人だな、あの人」
と、宮本。
「しかし、不思議なことがあるものだ」
と、大滝。
「悪いことの起こる前兆でなければいいが」
と、横田。
「世の中には、まだまだ謎が多いわね」
と、矢野。
ひどい、言われようだな。と、圭介は苦笑しながら、カトリーヌの入れた紅茶を飲んだ。いつもより、数倍おいしく感じた。クレアたちの計画も、まんざら悪くなかったかもしれない。まんざらね。
おわり。
後日談。
「クレア」
カトリーヌは、クリーニングの上がった圭介のスーツを持っているクレアを呼び止めた。
「それ、圭介さまのお召し物ね」
「はい。ご寝室にお持ちしようと思って」
「いいわ。わたくしが持っていくから」
「え? でも……」
「いいのよ。あなたは休んでいらっしゃい」
カトリーヌは、クレアからスーツを奪うようにとると、ウキウキした顔で、圭介の寝室に向かった。
「ミランダ」
カトリーヌは、お茶を入れているミランダを呼び止めた。
「それ、圭介さまのお茶かしら?」
「はい。お飲みになりたいとおっしゃったので」
「いいわ、わたくしが入れるから」
「え? でも……」
「いいのよ。あなたは休んでいらっしゃい」
カトリーヌは、ミランダからポットを奪うようにとると、ウキウキした顔で、圭介のいるラウンジに向かった。
「フェシリア」
カトリーヌは、圭介の夜食を作っているフェシリアを呼び止めた。
「それ、圭介さまのお夜食かしら」
「はい。そろそろ、お腹が空いたとおっしゃるかと思って」
「いいわ、わたくしが作るから」
「え? でも……」
「いいのよ。あなたは休んでいらっしゃい」
カトリーヌは、フェシリアからペティーナイフを奪うようにとると、鼻唄を歌いながらサンドイッチを作った。
「あたしたちが、圭介さまに、お会いできなくなっちゃったーっ!」
と、クレアたちが叫んだかどうか、圭介には関係のないことだった。
人はこれを、自業自得と呼ぶ。
※注
この物語は、つかささんのイラストのために書きましたが、ぼく自身、とても気に入りましたので、執筆中の召しませMoney!3にも採用することにしました。 |
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