迷い道

 ある蒸し暑い夏の夜。仕事から戻ったぼくは、駅の改札を出てすぐ目の前にある酒屋に入った。なじみの若奥さんと一言、二言雑談を交わして、缶ビールを二本買う。五年も住んでいると、それなりに街にもなじみが出てくるものだ。この酒屋の奥さんとも顔なじみだし、マスターと趣味の合う喫茶店もある。住めば都とはよく言ったものだ。
 そうか。思えば、この街に住んで五年になるんだなァ。ぼくは、急にしみじみと思ってしまった。
 この街を選んだ理由は特にない。もちろん、交通の便を考慮したけど、一番大きな理由といえば、やはり家賃。それと駐車場。今日は電車だけど、車を使うことも多いから、駐車場があるのは、必要絶対条件だった。
 駅からアパートまでの道のりは歩いて約八分。近いとは言えないが、遠くもない。駅に近いほど家賃は高いから、ぼくにとって妥当な金額の部屋を選ぶと、必然的にそのぐらいの距離になるのだ。でもさすがに、酒屋で買った冷えたビールが、ぬるくなるような距離には住みたくなかった。どんなに安くても。
 それにしても、本当に蒸し暑い夜だった。早く帰ってビールにありつきたい。まず一缶開けて、シャワーを浴びて、もう一缶飲む。夏はこうでなくちゃ。
 と、そんなことを考えながら帰路につくと。ぼくはふと、見慣れた風景が失われているのに気がついた。確かに、朝この道を通って駅に向かったときと、風景が違う。理由はすぐにわかった。今朝までそこにあったはずの建物が無いのだ。空き地になっている。
 ずいぶん取り壊すのって早いんだな。と、思いながら、ぼくはそこにどんな建物があったのか思い出そうとした。ところが、とんと思い出せない。そこに何か建っていたのは覚えているけど、具体的な形が脳細胞に蘇らない。普通の一軒家だったかな? いや、つぶれた病院があった気もする……
 人間の記憶力って言うのはずいぶんいい加減なものだなァ。それとも、ぼくが忘れっぽいだけか?

「あれ?」
 ぼくはつぶやいた。
 空き地の脇に、細い道があった。それは、「こんな道あったかな?」というあいまいな記憶じゃなくて、まったく知らなかった。五年目にして初めて発見したのだ。『思い出せない建物』に隠れていて、今まで見過ごしていたのだろう。
 ぼくは急に、その道がどこに通じているのか興味を持った。方向的には、この街の唯一とも言える商店街に抜けられそうな感じだ。もしそうなら、商店街に行く近道を見つけたことになる。
 ぼくは、ビニール袋から缶ビールをとりだすと、プルトップを開けて一口飲んだ。早く飲みたくて家路を急いでいたのだけど、この細い道の探索に変更。でも、ビールは我慢できなかったのだ。一気に半分ぐらい飲むと、渇いた咽も潤った。
 ぼくは、残りを飲みながら、その小道に入っていった。道の両わきには木造の民家がくっつくように建っている。丁度、浅草の下町がこんな感じだ。それにしても、五年も住んでて、こんなところに住宅街があるなんてまるで知らなかった。
 二分ぐらい歩いただろうか? 道はまだまだ続いているように思えた。ぼくはすでに、自分の見当が外れていたのを感じ始めていた。二分も歩くなら商店街に抜ける近道とは言えない。これなら、いつもどおり線路の脇の道を通っていった方が、早いような気がする。だいいち、この道は狭いし、暗くて歩きづらい。
 暗い?
 ぼくはふと、両わきに密集している民家の窓ガラスを見た。どうしたことだろう。どの家も明かりがついていない。なぜ今まで気がつかなかったのか不思議だけど、こんな夜に、どの家も暗いなんて、不思議を通り越して不気味ですらあった。
 気がつくと、ぼくの足はずいぶん早く動いていた。いや、走っていたというべきだ。早くここを抜けたいという気持ちが次第に強くなってきたのだ。
 でも…… 道は、どこまでもどこまでも続いているように思えた。先が暗くてよく見えないけど、風景がまったく変わらないのだ。電気のついていない民家が果てしなくあるばかり。
 ぼくは、ついに立ち止まった。息は荒く汗をかいていた。走った汗が半分だけど、冷や汗も半分だ。ぼくは恐怖を感じていた。うまく説明できないけど、とにかく怖かった。これ以上先に行ってはいけない。心の中のなにかがそう叫んでいた。
 ぼくは、来た道を引き返すことにした。どういうわけか、振り返るのに勇気が必要だった。すごく怖かった。
 ところが。
 勇気を出して振り返ったそこに道はなかった。ぼくは手に持っていたビニールの袋はおろか、仕事の書類が入ったショルダーバッグさえ、その場に落とした。まるで深い闇が押し寄せてくるように、ぼくが来たはずの道が消えてなくなっているのだ。そこには暗黒しかなかった。
「ひやァ!」
 ぼくは叫んだ。自分でも奇怪な声だと思った。恐怖でゆがんだ声だった。
 もう夢中だった。明かりのついていない家の玄関を開けて叫んだ。
「誰か! 誰か!」
 誰かいないのかと叫びたかったのだけど、ぼくの咽は誰か誰かとしか発声していないようだった。
 返事はなかった。家の中にも暗黒だけが存在した。
 そう思った瞬間。人の気配を感じた。それは確かに人間で、家の奥から、すーっとぼくの前に現れたような感じだった。
 怖い!
 だが、その人は優しげな顔の中年男だった。それがわかったら急に、怖さよりも助かるかもしれないという、漠然とした思いが込み上げてきた。
「あ、あの、あの、こ、ここは……」
 ぼくはその人に取りすがるように言った。
 その人の肩に手が触れたと思った。でもそれは、ほんの一瞬のことで、彼はかげろうのようにぼくの前から消えた。わずかに見えた彼の表情は、優しげな感じから、苦痛とも悲しみともとれる、複雑なものに変わっていた。
「ひい!」
 ぼくは悲鳴にならない悲鳴をあげて、家から飛び出た。来た道は暗黒のままだ。あの中に飛び込む勇気はとてもなかった。だからぼくは、まだ消えていない、道の先に向かって走った。ただもう、夢中で走り続けた。
 このまま永遠に走り続けるのか。そんな思いに捕らわれ始めたころ。道の先にぽうっと明かりが見えてきた。それが救いであるとは、とても思えなかった。でも、光というのが、これほど惹きつけられるものなのだったのかと、このとき初めてわかった。一刻も早く、その光がある場所に行きたかった。
 まるで月だ……
 ぼくは、走りすぎて極度の疲労に達した頭で、そんなことを思った。その光は、どんなに走っても近づくことがない。そう、まるで月のように……
 このまま身体が溶けてしまうのではないかと本気で思った。気づいたら、さっき見た男のように闇の中に溶けていくのではないか。
 いや、もうすでに……
 ぼくは立ち止まって、その場にへたり込んだ。一歩も動けない。荒れた息。全身から噴きだす汗。そして、狂ったように鼓動する心臓。だからこそぼくは、まだ自分自身の存在を信じることができた。この息苦しさは、確かに走って走って、走りすぎたからなのだ。実体の無い存在にこの苦しさはないはずだ。
 しかし。時間の感覚はすでに失われていた。この小道に入ってから、どのくらいの時間が経っているのかまるでわからない。もうまる一日いるような気もするし、まだ一時間も経っていないかもしれない。
 ぼくは荒れた息が少しずつ正常に戻っていくのを感じた。まだ立ち上がり、まだ歩く気力はあった。
 ぼくは立ち上がった。
 すると、遠くに見えて、決して近づくことのなかった光が、微かに動いた気がした。それは気のせいなんかじゃなく、本当に近づいてきていた。
 ふたたび恐怖が襲ってきた。近づく努力をする分にはいいのだが、向こうから近づいてくるのは怖い。でも、ぼくには退路はないし、こうなったら、なんか新しい展開がある方が、気分的にもよかった。この暗やみの中に、なにもせずいたら気が狂う。
 光は、ぼくの目の前まで近づいてきて止まった。それは、ふわふわと漂う丸い塊に見えた。大きさはサッカーのボールぐらいだ。
 ぼくは、触ってみようかと思って、手を差し伸べた。そっと触る。温かいのではと思ったけど、実際は冷たかった。
 すると、その光の塊は、粘土のようにくにゃっと形を変えた。ぼくはビックリしてすぐに手を引っ込めた。
 光の塊は、徐々に形を変えた。ときに大きくなり、また少し小さくなりと繰り返しながら、結果的にはどんどん大きくなっているようだった。
「人か?」
 ぼくはつぶやいた。
 そう。その形は人間に近づいている気がしたからだ。頭、腕、身体、足…… それらはいかにも人間らしい形に変化していった。胸が微かに膨らんでいる気がするのは、ぼく自身の願望だろうか?
 突然。その光の『頭』の部分で目が開いた。
「うわっ!」
 ぼくは、ビックリして叫んでしまった。その瞳はぼくを見つめていた。のっぺらぼうで瞳だけが存在するのだ。ぼくは恐ろしかった。
 つぎは口だった。やはり突然、口が開いたのだ。あと鼻ができれば、一応、人間としてのパーツがすべて揃う。
「こんばんわ」
 その光の塊は言った。
 ぼくは、ぼう然とたたずむだけで答えられなかった。
「あなた、迷ってしまったのね」
 光は続けた。
 そこでぼくは、やっと口を開くことができた。
「ここはどこ? 君は誰? どうしたら出られるの?」
 なんとなく子供に話しかけるような口調になってしまった。事実、その光の塊は小学生ぐらいの大きさしかなかったから、自然とそうなったのだ。
「ふふふ」
 光は笑った。
「あなた、もうここから出られないよ」
「なんだって? どうしてだ!」
「だって、あなたわたしのコレクションだもの」
「コレクション?」
「そう。ここにある家はね。みんなわたしのコレクションなの」
「待てよ! ぼくは家じゃない!」
「いやだ。家をコレクションしてるわけじゃないわ。あれは入れ物。中に入っているのは人間の魂なのよ」
「き、君は何者なんだ!」
「説明する必要はないわ。しても無駄だもの」
「どうして!」
「理解できないから」
「くそっ!」
 ぼくは、その光に飛びかかった。でも、ただすり抜けるだけで、光に実体はなかった。
「そんなことしても無駄よ」
「い、いやだ! ぼくはこんなところにいたくない!」
「もう遅いわ。あなたは迷ってしまったのだもの。千個目の魂になる運命なのよ」
「千個目? ここには999個の家があるのか?」
「そうよ」
「嘘だ」
「あら、どうして?」
「そんなに多くあるものか。もっと少ない」
「いいえ。確かよ。わたし、毎日数えてるもの」
「嘘だ。絶対に信じない」
「不思議な人ね。ここへ来てそんなこと言ったのはあなたが初めてよ」
「とにかく信じない。千個なんてウソっぱちだ」
「じゃあ、数えてみる?」
「ああ、いいとも」
 ぼくが答えると、いままで闇に閉ざされていた、ぼくが来た道が、ふたたび現れた。
 ぼくは、光と並んで家を一軒ずつ数えながら、来た道を戻っていった。
「一軒、二軒、三軒……」

 何時間経ったろう。まるで時間の感覚が無いけど、すごく時間がかかった。歩きながら一軒一軒と、数字が大きくなってくる。
「998、999」
 光が数え終わった。
「ほらね。ちゃんとあったでしょ」
 ぼくは答えなかった。それより、最初の家の先に向かって、猛ダッシュしたのだ。そこはただの闇しかなかったけど、もう、どうなってもいいと思った。ここに閉じ込められるくらいなら!

 パッパーッ!
 車のクラクションが鳴った。ぼくは、勢い余って道に飛びだしていた。危うく車に引かれるところだったけど間一髪助かった。
「やった!」
 ぼくは飛び上がった。
 あの光が何者なのかわからないけど、騙してやった。ぼくは戻ったのだ!
 ぼくはすぐにアパートには帰らず、駅前の酒屋に戻った。いつもの若奥さんがいた。ぼくは、これで心底ホッとした。
「あら。なにか買い忘れたの?」
 奥さんがぼくに声をかけた。
「うん。ビールを……」
 ぼくは口ごもった。落としてきたとは答えられなかった。
「もう飲んじゃったの? さっき買ったの十分ぐらい前じゃない?」
 そうだったのか。ぼくは、あそこに十分しかいなかったのか。
「いや、本数が足りなくて…… 友達が来るから」
「そうよね」
 奥さんは笑った。
「いくらなんでも早すぎるもの」
「うん」
 ぼくは、ビールを一ケース、レジに置いた。一週間分ぐらいはあるけど、二、三日で飲み干してしまいそうな気分だった。
「そういえば、空き地ができてるね」
 ぼくは、お金を払いながら言った。
「ええ。昨日まではなかったのに。あそこってなにが建ってたっけ?」
「思い出せないんだ。病院があったような気もするけど」
「そうなのよね。歯医者だったかしら? 内科だったかしら?」
「どっちでもいいよ。それより、空き地の脇に細い道があるんだけど……」
「あら。そんな道あったっけ?」
「あるんだ。あそこは入らない方がいいよ」
「なんで?」
「その…… 行き止まりだからさ。商店街に抜けられそうな気がするけど、無駄だからやめた方がいい」
「そうなんだ。へえ、細い道がねえ。そんなの知らなかったわ」
 奥さんは、興味をそそられたようだった。
 ぼくは慌てて叫んだ。
「とにかく入っちゃダメ!」
「ど、どうしたのよ。真剣な顔して?」
 奥さんは少し、驚いた様子だった。
「いや…… なんでもない。お休み」
 ぼくは店を出た。そして、あの道の前は通らず、わざと遠回りしてアパートに戻った。

 翌日。
 ぼくは仕事がなかったので、昼まで寝ていた。平日に惰眠をむさぼれるのも、フリーカメラマンの特権だ。それに、昨日の晩は朝日を見るまで安心できず、やっと眠りについたのは、朝の五時ごろだったのだ。
 それから三日。ぼくはなにごともなく過ごした。でも、どうしても、あの道の前だけは通りたくなかった。

 四日目。
 ぼくは、いつものように駅から出ると、駅前の酒屋のシャッターが降りているのに気がついた。今日は月曜日だから、定休日でないはずだった。
 少し不審に思いながらも、それほど気にせず、なじみの喫茶店に向かった。暑さのせいで食欲は全然ないんだけど、無性にアイスコーヒーが飲みたかった。
「いらっしゃい」
 マスターがいつもの笑顔で迎えてくれた。
「アイスコーヒーを」
 ぼくは、カウンターに座りながら言った。
 アイスコーヒーはすぐに出てきた。
「なあ、聞いたかい?」
 マスターは、アイスコーヒーをカウンターに置きながら言った。
「なにを?」
「酒屋の奥さんさ」
「どうしたの?」
 ぼくは急に不安になった。
「いや、四日前だったかな。店をしまうとき、ちょっと出てくるって言ったきり、帰ってこないんだってさ」
「ウソ!」
「ホント、ホント。今日、店しまってたろ? なんか旦那さんが奥さんの実家の方とか探しに行ったらしいよ」
 ぼくは、なにも答えられなかった。
「浮気かねえ?」
 マスターが首をかしげる。
「さ、さあ……」
 ぼくは首を振って、アイスコーヒーを大急ぎで飲んだ。
 あの道に入ったんだ。ダメだって言ったのに……
「どうしたの?」
 マスターがぼくに聞いた。
「なんでもないよ」
「ははあん。あの奥さんのこと気に入ってたろ?」
「うるさいな」
 ぼくは、お金をレジに置くと、そうそうに店を出た。
 ぼくの責任だろうか? あんなことを言わなきゃ、奥さんも興味を持つことはなかったかもしれない。
 そうだ。ぼくの責任だ……
 そう思うと、いてもたってもいられなかった。ぼくは、ここ数日避けていた、例の道に行った。それはあのときと同じように、そこに存在していた。
 ここに入ったら、二度と出られない。それはわかっていた。でも、ひとりの人間を闇に消してしまった罪悪感は、想像以上に大きかった。奥さん千個目の魂になったのだ。
 だったら、千番目の家に入って、中の奥さんを連れ出してこれないだろうか?
 ぼくは、そう思ったとたん、首をブルブルと振った。ダメだ。絶対にできない。できるわけがない。あの光の塊に、今度こそ捕まる。
 ぼくは、どうしても、その道にはいることができなかった。

 それから一週間後。
 ぼくは、貯金をぜんぶ降ろして、引っ越しをした。たぶん、あの街には、二度と近づくことはないだろう。


終わり。