窓の女

 あなたが、疲れた身体を引きずるようにアパートメントのドアを開けると、部屋の明かりが自然と点灯した。あなたはスーツを脱いでソファーに投げる。そして、冷蔵庫から氷のかけらをひとつ取り出しグラスに入れると、バーボンを注いで一口飲んだ。
 辛い一日だった。あなたは、消えてなくなりたいとさえ思った。あなたは、自分で思っていたほど、強い精神を持ちあわせていないことを神に呪っていた。
「おかえりなさい」
 女の声が聞こえた。
「ああ」
 あなたはうなづくように答えると、タバコに火をつけた。
「疲れているようね」
「まあね」
 あなたは苦笑いで答えた。
「きみはなんでもお見通しかい」
「皮肉を言わないで。あなたのことが心配なのよ」
「分かってる」
 あなたはタメ息をつくと、コンピューターの置かれた机の前に座った。
「それ、おいしい?」
 女が聞く。
「うまいとも。きみの選んだバーボンだ。オレの口に合わないわけはない」
 あなたはコンピュータのモニターを見つめて、グラスをかかげた。
 女はほほえんだ。
 そう…… 彼女はモニターの中にいる。
 彼女は、ウィンドウズというコンピューターオペレーションシステムで動くアプリケーションだった。
 あなたは、心の中で苦笑いを浮かべた。まったくウィンドウとはよく言ったものだ。モニターに映る彼女は、まるで本物の女が、窓の外からあなたを見ているような錯覚すら覚える。だからあなたは、彼女に名前は付けていない。これ以上、彼女が人間臭くなったら、あなた自身、現実と虚像の区別がつかなくなりそうで怖かったのだ。
 しかし……
 いつから彼女はそこにいるのだろう。思い出そうとしても、どうしても思い出すことができない。オレはいつ彼女を『買った』のだ? あなたは、そんな疑念を持ち始めていた。
 思い出せない。
 ただわかっているのは、あなたは探偵で、このモニターの中にいる女をアシスタントに使っているということだけだった。
 ちょっと待て。そもそもオレは、いつから探偵をやっているのだろう?
 あなたがそう考え始めたときだった。
「ねえ」
 女が言った。
 あなたは思考から引き戻された。
「そのウィスキーを探すのは苦労したのよ。ぜったい、あなたが気に入ると思って一所懸命探したの」
「きみはなんでも知っている。オレの好みも癖もなにもかも」
「あなたのことはなんでも知りたいわ」
「だが、オレはきみのことをなにも知らない」
「いいえ、あなたは知っているはずよ」
「優秀なコンピューター、アプリケーションだ」
「わたしは、あなたにとってそれだけの存在?」
「どう言う意味だ?」
「わたしは、あなたの妻であり恋人でもあると思っているわ」
「ふざけたことを言う。オレは機械と恋に落ちる趣味はない」
「ずいぶんひどいことを言うのね。こんなに尽くしているのに」
「どうせ、ほかの連中にも同じことを言ってるんだろう」
「あなただけよ。わたしはあなた専用だもの」
「五十年前のパソコンマニアが聞いたら、腰を抜かして喜ぶセリフだな」
「ねえ。どうしたの? 今日のあなたはやけにイライラしているようだわ」
 あなたは答えず、グラスのウィスキーを飲み干した。
「話して」
 女は懇願するような眼差しであなたを見つめた。
 あなたはつぶやくように言った。
「捜査に協力した少女が殺された」
「あの子が? いつ?」
「八時間前。オレの目の前で」
「そう…… それで落ち込んでいるのね。それはあなたの責任ではないわ。それよりも事件が解決したことを喜ぶべきよ」
「オレがいつ解決したと言った?」
「えっ? ああ…… そうね。わたしったらなにを勘違いしてるのかしら。それで、事件の方はどうなったわけ?」
「とぼけるな」
「なんのこと?」
「あの少女の犠牲で事件は解決した。おまえはそれを知っていたんだな」
「知らなかったわ。本当よ。ただ勘違いしただけよ」
「ウソだ。今度の仕事もおまえが請け負ってきた。おまえは最初から何もかも知っていたんだ」
「この話はもうやめましょう」
「おまえは何者だ」
「だから、わたしあなたの恋人…… いえ、アシスタントよ。あなたの言葉で言えば、ただのコンピューター、アプリケーション」
「違う。おまえは、もっと異質なものなんだ。この世のものではない」
「何を言っているのかわからないわ」
「そうさ。オレはずっと前から感じていた。いつも、どこかにおまえの意志が存在するのを。オレはおまえに監視されていたんだ」
「あなたを監視するなんてそんなことするわけないじゃない」
「そうだな。監視ではないのかもしれない。もっと違う…… うまく説明できないな」
「疲れているのよ。もう休んだ方がいいわ」
「そうか! わかったぞ。おまえはオレを操っているんだ」
「なにを言い出すかと思えば……」
 女は、モニターの中で首を振った。
「おまえは仕事を請け負ってきたのではない。その仕事…… いや事件そのものをおまえが作り出したんだ」
「そんなこと不可能よ」
「神にならできる」
「あら。おかしなことを言うわね。わたしが神だとでも言うつもり?」
「まさか! それを言うなら悪魔だろう」
「馬鹿馬鹿しい」
「教えてくれ。おまえは何者なんだ。いや、オレは何者だ。なぜ、自分のことを思い出せないんだ?」
 あなたが言うと、モニターに映る女の表情が、急に無機質なものに変わった。
「それを知ってどうするつもり?」
 女は、声も無機質なものに変わっていた。
 あなたは急に不安になった。
「わからない…… ただ知りたいだけだ」
「馬鹿な人」
 今度は、女の顔が哀れみに変化した。
「わたしのいない世界では、あなたも存在しえないのよ」
「どう言う意味だ?」
「だって、あなたを作ったのはわたしなんだもの」
 あなたは絶句した。まさか、本当にそんなことがあるのか。だが、あなたは自分でもそれを否定できないでいた。
「あなたが言う通り、わたしは神かもしれない。いいえ、悪魔なのかもね」
 女が笑った。
「ジーザス……」
 あなたはつぶやいた。女に対して言ったのではなかった。あなたの信じる、あなたの神に対して言ったのだ。あなたは、もしそれが存在しないのなら、自分の存在も無意味だと思った。
「あなたは純朴に作り過ぎたわ。今度はパラメーターをうまく調整しましょう」
 女はタメ息をつきながら言った。
「さようなら、わたしの作った最初の探偵さん。ゲームオーバーよ」
 すると。
 あなたの意識は薄れていった。すべてが消えてなくなる感覚だった……


 女は、ふっと息を漏らすと、キーボードの隣に置いたコーヒーを一口飲んだ。
「ハードボイルドの世界を作るのって難しいわね」
 女は独りつぶやく。
「また、一からやり直しだわ」
 女の前のモニターには、ゲームオーバーの文字とともに、消えていく男の姿が映っていた。しかし、男の顔には、苦悩から開放される安らぎが浮かんでいた。
 女はコンピューターの電源を落とした。
 かたわらには、人間育成シミュレーションと書かれたゲームの箱が置いてあった。


 終わり。