ぼくの願い 第六夜




 彼が事故に遭った。吉岡良一さん。わたしの大切な人……
 わたしが病院に駆けつけたとき、彼は集中治療室に移されたところでした。
 脳死。
 なにか他人事のように感じられるこの言葉が、いま現実になろうとしています。

 わたしは音のない世界に住んでいます。
 そんなわたしと彼の出会いは、いまから八年前のことでした。そこは、ある聾(ろう)学校の高等部でした。わたしたちはそこの生徒だったのです。
 そう。彼もわたしと同じように、耳が不自由なのです。障害の程度は、幸い二人とも言語障害はないので二級です。二級っていうのは、飛行機の爆音がなんとか感じられるくらいで、日常生活では、ほとんどの音が聞こえません。
 引っ込み思案なわたしと違って、彼はとても明るい性格でした。そして、いろいろなことに積極的でした。パソコンを積極的に使いはじめたのも、クラスでは彼が最初でした。健聴者の方とも普通にコミュニケーションが取れるインターネットは、いまでこそ、わたしたちにとって必需と言っていいものですが、八年前は、まだパソコンはひどく難しそうで、まだインターネットではなく、パソコン通信の時代でした。文字によるコミュニケーションができたら、とても便利だろうなと理解はできても、なかなか手を出すところまではいかなかったのです。でも彼は、パソコンなんかすぐに使えるようになり、クラスのみんなはもちろん、先生にだって教えてあげていました。本当に、なんに対しても前向きで積極的なんです。
 わたしは、彼がとてもまぶしく見えました。彼を見ていると胸がときめく。でも、彼はクラスの人気者です。わたしとはぜんぜん違う……
 だから、わたしの彼に対する思いは、ずっとわたしの心の中にだけ秘めておくものだと思っていました。本当にわたしは、自分が彼に釣り合う人間などと思ったことは一度もありません。でも、彼には違っていたらしいのです。クラスの中で、いつも隅っこにいるわたしを、彼はなにかと友達の輪の中に引き込んでくれました。
 最初、彼は引っ込み思案なわたしを、もどかしく感じてそうしているのだと思いました。ところが、ある日、彼の方から告白されたのです。
 うれしいと思うより先に、驚きました。いったい、わたしのどこがいいのか、まったくわからなかったからです。
 だから、思わず彼に、わたしのどこがいいの? と、質問してしまいました。バカな質問ですよね。
 でも彼は、珍しく少しはにかみながら、ほほ笑んだときの笑顔がとても可愛かったからと答えてくれたのです。わたしは、火が出そうなほど顔を赤らめてしまったけど、見ると、彼の顔も赤くなっていて、思わず、二人で吹きだしてしまいました。
 そのときから、友だちの中のわたしたちではなく、わたしと彼という二人だけの時間が始まったのです。
 思えば、彼と行った遊園地がわたしにとって初めてのデートでした。最初、聾者同士で出かけることを、わたしの家族はひどく心配しました。でもそれは、当時十六歳だったわたしが、男性と二人っきりで出かけることへの心配だったのではないかと思います。
 いまも、あのときの父の不機嫌そうな顔を思い出すと幸せな気分になるのです。だってそれは、聴覚障害の子を持つ親の顔ではなくて、年頃の娘を持つ普通の親の顔だったから。
 そんな親の心配をよそに、わたしたちの仲はどんどん親密になっていきました。もちろん、本当の意味で親を心配させるようなことは一度もなかったけど、それは、彼とのことをすべて報告したわけではないからです。だって普通、彼とキスをしたことや、彼の部屋でお互いに結ばれたことなんて、親には報告しないものです。薄々感づいていたみたいですけどね。
 わたしは、彼とつき合うようになってから、自分が変わっていくのを感じていました。彼といるといろんなことに前向きになれる。それは、耳が不自由なことと関係はなかったと思います。人と同じように恋をして、人と同じように幸せなんだと感じると、不思議と誰に対してもうちとけた気持ちになれて、それがとてもうれしく思いました。
 こうして、楽しい学園生活は、あっと言う間に過ぎていきました。
 もちろん。わたしと彼の時間が、それで終わったわけではありません。わたしたちは、高等部を卒業したあと、同じ学校のビジネス情報科という専攻科に進みました。そこでわたしは、流通経済や簿記、計算事務などを学び、彼は情報技術や情報管理、そしてプログラミングを学びました。いまでこそITなんて言葉がはやっていますが、そのころはまだ、誰もそんなことを言ってなかった時代でした。でも、彼の選んだ専攻は間違いじゃなかった。わたしたちは、学校を卒業したあと、すぐに一般の企業に就職できたのです。しかも、とても幸運なことに、同じ会社に。彼はコンピュータのシステムエンジニアとして働き、わたしは経理の事務。従業員が全部で三十人にも満たない小さな会社だけど、わたしたち聾者を受け入れてくれたことに、心から感謝しています。

 今日彼は、同僚と二人で契約している会社のシステムのメンテナンスに行っていました。別に特別な仕事ではありません。彼にとっては日常的な業務です。でも、事故はそんななんでもない日に起こりました。
 一緒にいた同僚の話では、たまたま駐車場が一杯で、車をちょっと道ばたに停めたそうです。そして彼は、確かに青信号の横断歩道を渡りました。でもそのとき。かなりスピードを出した右折車が、彼の体を投げ飛ばしたのです。救急車が到着したのは、事故があってから八分後だったと聞いています。
 初めて手を握ったのも彼。初めてキスをしたのも彼。そして、わたしの初めての人。わたしの大切な思い出にはいつも彼がいます。それは、これからもずっと続くはずだったのです。なのに、いまのわたしには、なにもできない。集中治療室に入ることも許されず、彼のそばについていて上げることさえ……

 深夜。
 わたしと彼のご両親だけが病院に残っていました。集中治療室の前の廊下で、彼のお母さんは泣き疲れたらしく、ソファーにもたれていました。お父さんも憔悴しきっていて、二人は少し眠っているようでした。
 自分でも不思議なことに、わたしは病院に着いてから、一度も涙を流していません。わたしはまだ、この現実を受け入れることを拒んでいたのです。
 信じたくない。これは、悪い夢なのだと思いたい……
 でも同時に、わたしの中には、絶望という名の、とても深く、そして黒くよどんだ感情が渦巻いてもいました。もし彼がこの世からいなくなるのなら、わたしも彼と一緒に消えてなくなりたい。本当に、そう思っていました。

 ふと気づくと、廊下の奥から、ひとりの女性がこちらに歩いてくるのが見えました。
 その人は、病院にはひどく不釣り合いな感じがしました。全身黒い服で、長い髪も漆のような漆黒の輝きを持っていました。それとは対照的に、肌は透き通るように白かったのです。
 その女性は、彼のいる集中治療室の前で立ち止まりました。
 その瞬間。わたしの全身に激しい嫌悪感が走りました。気がつくとわたしは、弾かれたように彼女の前に立ちふさがっていました。理屈ではありません。彼女がとても危険に思えたのです。
 死神。
 わたしはそう思ったのです。
「ほう。あなたにはわたしが見えるのね」
 彼女は言いました。
 わたしは驚きました。だって、彼女は『言った』のです。人の声を聞いたのは生まれて初めてでした。
「驚くことはないわ。あなたが聞いているのは言葉ではない。わたしの思考を直接感じているだけなのだから」
 そうなのです。彼女の言う通り、わたしは彼女の声を感じていたのでした。もっと正確に言えば、それは言葉ですらなかったはずです。
 それは、とても不思議な、そしてどこか恐ろしい感覚でした。
「さて。申し訳ないけれど、そこをどいていただけないかしら。わたしに仕事をさせてちょうだい」
 彼女は、深い闇のような瞳でわたしを見据えていました。
 わたしにできたことは、首を横に振ることだけでした。もちろん、彼女に道をあけるつもりなんてありません。でも、正直に言うと、恐怖で体が動かなかったのです。
「いまのあなたに用はない」
 彼女は、微かに笑ったように見えました。
「お嬢さんに死が訪れるのは、ずっと遠い未来。すこやかにその人生を送りなさい」
 この言葉を聞いたとき。わたしは恐怖の中で確信していました。彼女は確かに死神なのだと。
「それは違う」
 死神は、わたしの心を読んだように否定しました。
「わたしは死神ではない。わたしの名はラミルス。死を司る者」
〈死を司る者……〉
「そう。生のある者がわたしの姿を見ることはない。ただ、希にお嬢さんのような感覚の鋭い人間がいるけどね」
〈ラミルスさんが死神ではないのなら、彼を連れてはいかないのですね?〉
「連れていくか。あながち間違った表現ではないわね」
〈まさか……〉
「それがわたしの仕事」
〈そんなの絶対にイヤ!〉
 わたしは激しく首を振りました。彼が連れていかれてしまう。
「これはもう決定していること。あなたにとって、彼がどれほど大切な存在であっても、彼の運命を変えることはできない」
〈お願いです。彼を連れていかないで!〉
 わたしは心の中で訴えました。
「無理な相談だ。人は定められた運命を生きるもの。その摂理を逸脱することはエレガントではない」
〈エレガント? そんなことで、人の運命を決めないで下さい!〉
「たとえが悪かったね。わたしが言いたいのは、定めに従うからこそ、人生は美しく輝くということよ」
〈わからない。そんなのわかりたくもない!〉
「困ったお嬢さんだこと」
 ラミルスさんは顔をしかめました。
〈どうして彼が死ななければいけないの。彼はなにも悪いことなんかしていない。それどころか、彼はいままで懸命に生きてきました。その彼を連れていくなんてひどい〉
「それはあなたのエゴだ。あなたは、彼を失いたくないだけ。この世のどんな聖人の死よりも彼の死を悲しむだけなのだから」
〈人は、自分にとって大切な人の死を悲しみます! それのどこがいけないと言うのですか!〉
「悪いことなどとは言ってはいない。わたしはあなたにとって大切な人も、そうでない人も、みな同じように運命に従わなければならないと言っているのです」
〈イヤです。そんなこと認めたくありません〉
「やれやれ……」
〈お願いです。彼を助けて下さい〉
「それは、わたしの仕事ではない」
〈仕事? あなたの仕事が彼を連れていくことなら、彼を助けてくれる方もいるのですか?〉
「その質問には答えたくない」
〈いるのですね?〉
「いない。いまはね」
〈そんな……ひどい……〉
 そのときでした。
「それが、いるんだよねえ、困ったことにさ」
 また声がしました。いえ、声を感じました。
 わたしが振り返ると、そこには、薄い布を一枚羽織っただけの女性が宙に浮いていました。まるで、ビーナスのように美しい女性で、目の前のラミルスさんとは対照的に、長い髪は金色に輝いていました。
「モーナ……」
 ラミルスさんが苦い顔でビーナスを睨みました。
 ビーナスは肩をすくめました。
「そんな顔しないでおくれよラミルス。あたしだって、好きで来たわけじゃないよ。このお嬢さんが願う心を聞いちゃったんだ。そしたら、あんたがいたってだけのことさ」
「だったら、わたしの邪魔をしてほしくありませんね」
 ラミルスさんがそう言うと、ビーナスは、わたしをちらっと伺いながら答えました。
「あたしだって、ラミルスの邪魔をしたくない。と、思ってはいるんだけどねえ」
〈あの……あなたは?〉
 わたしは、心の中でビーナスに問いかけました。
「おっと。自己紹介がまだだったね。あたしはアシュレモーナ。モーナでいいよ。どうも今回は言いたくないけど、あたしの仕事は人の願いを叶えること」
〈それは、わたしの願いですか?〉
「まあ、気は乗らないけどそう言うことになるだろうねえ。見たところ、あんた耳が不自由なようだね。どうだい、その耳を聞こえるようにするって願いは?」
〈まさか! わたしの願いは決まっています。彼を助けて下さい!〉
「あちゃ~」
 モーナさんは、大げさな身ぶりで顔を手で覆いました。
「どうして、あたしってばこんな願いばっかりなんだろう?」
「認めません」
 ラミルスさんが口を挟みました。
「この男の死はすでに決定事項です。これはモーナの介入する領域ではありません」
「そんなことラミルスに言われなくてもわかってるよ。それにしたって、なにも役人みたいな口調で言うことないじゃないか」
「あなたにわたしの口調を注意されるなんて心外ですね。あなたこそ、その汚らしいしゃべり方を直しなさい」
「ふん。こっちこそ心外だね。あたしゃ、気のいいお姉さんで通ってるんだよ。あんたみたいにインテリを気取っちゃいないのさ」
「不毛な会話ね。そもそも、モーナと議論をしようとしたわたしがバカでした。さっさと、このお嬢さんが願いを変更するように説得しなさい」
〈イヤです! わたしの願いは変わりません!〉
 わたしは心の中で叫びました。
「まあまあ、お嬢さん」
 と、モーナさん。
「そう興奮しないでよく考えてみなよ。そうだ。今回に限り、特別にオマケをつけて上げよう。どうだい、お嬢さんの耳を聞こえるようにするのと、宝くじで一等が当たるっていうのは?」
〈イヤです!〉
「じゃあさ、いい男紹介するよ。好きな映画俳優の名を言いなよ。そいつがお嬢さんに恋をするようにしようじゃないか」
〈冗談でしょう?〉
 わたしは、モーナさんの言葉を聞いているうちに悲しくなってきました。本当に、モーナさんは彼の命と引き替えに、わたしがそんなことを願うと思っているのでしょうか。
「まあ、そうだろうねえ」
 モーナさんはわたしの心がわかったように肩をすくめました。
「人っていうのはそういうものさ。だから、あたしは人間が好きなんだけどね」
「モーナ。なにを納得してるのですか」
「ふん。ラミルスにはわかんないよ。それより、お嬢さんは願い事を変更する気はないみたいだね」
「認めませんよ」
「はあ~ わかってるさ」
 モーナさんはタメ息をつきながら言いました。
「ねえ、お嬢さん。これだけは言いたくなかったんだけど、たったひとつだけ彼の命を助ける方法があるよ」
〈本当ですか!〉
「モーナ!」
 ラミルスさんが厳しい目つきでモーナさんを睨みました。
「黙ってな、ラミルス。こっちはあたしの領域だよ」
 今度は、モーナさんがラミルスさんを睨みました。
「さて、お嬢さん」
 モーナさんがわたしに向き直って続けました。
「その方法を教えて上げてもいいけど、正直言って、お勧めじゃないね。とても辛い選択をすることになるよ」
〈教えて下さい。わたしなんでもします〉
「そう言うと思った。じゃあ、よくお聞き。彼を助けるには、もっと寿命の長い人間の命と彼の残り少ない命とを交換する必要がある」
〈交換?〉
「そうさ。チェンジするんだ。ところが、こいつが問題でね。誰の命でもいいってわけじゃない。願いを叶えたい人間の勝手で、他人の命を交換するわけにはいかないのさ。このへん、わかるだろ?」
〈はい。わかります〉
「いい子だね。そんじゃ、あたしが言いたいこともわかるね」
〈はい。願った人間の命。つまり、わたしの命と交換するのですね〉
「そう……」
 モーナさんは、ふと悲しい顔になりました。
「あたしにできることは、お嬢さんの命を犠牲にすることさ。本当は、そんなことはしたくないんだよ。ただ、お嬢さんが望めば、しかたないやね」
〈ありがとう。モーナさん……〉
 このとき。わたしは初めて涙を流しました。彼が助かる。そう思ったうれしさと、モーナさんの優しさを感じたからです。
〈モーナさん。どうかお願いします。わたしの命と、彼の命を交換して下さい〉
「後悔するよ」
〈いいえ。しません〉
「自己犠牲なんて、いまどき流行らないよ」
〈わたしの決心は変わりません〉
「そうかい……まあ、そうだろうね。お嬢さんの心を読めばわかるよ。あたしとしては、あんたみたいな子に長生きしてもらいたいんだけどね」
〈ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいです〉
「いいさ。しかたないよ。きっと、これがお嬢さんの運命だったんだから」
 わたしは、モーナさんにうなずきました。
 でも、自分では、自己犠牲なんて気持ちはまったくありませんでした。ただ、彼が助かることがうれしい。それだけでした。
「そうそう。忘れてた。さっき、あたしは特別にオマケをつけて上げるって言ったよね」
〈はい〉
「あたしに二言はないよ。もうひとつ叶えて上げる」
〈それなら、彼の耳を聞こえるようにして上げて下さい〉
「あんたって子は……」
 モーナさんは、少し呆れたような顔で言いました。
「自分のことを願ったらどうだい。死ぬ前にひとつぐらい」
〈自分のことだと思います。だって、彼が元気になって、しかも健聴者になるなら、それは、わたしにとって、とてもうれしいことですから〉
「まいったねえ……わかったよ。さ、そう言うわけさラミルス。ここはひとつ、書類の書き換えを頼むよ」
「まったく、余計なことを」
 ラミルスさんは、苦々しい顔で答えました。
「書類の書き換えが、どれほど煩雑な作業か知っているくせに」
「ほう。そういうこと言うの」
 モーナさんは、得意そうな顔で言い返しました。
「あたしゃ聞いたよ。最近、魂管理局もマークシート方式が導入されて、書類の書き換えがすごく楽になったって話じゃないか。それに、先月改訂された、願い受理法第三条十五項の願い優先順位項目修正第六……あたた、舌噛んだ」
「バカ」
「うるさいね。とにかく、願い優先順位項目の修正第六条を忘れたとは言わせないよ。魂の交換条件に関しては、願い受理局の要請が優先される。つまり、あんたには、あたしの依頼を拒む権限はない」
「言われなくても知っています」
「じゃ、さっさとやんな」
「いい気になって……まあ、いいでしょう。ただし、命を交換したあと、交換した方の死に方を選ぶのはわたしの権利です」
「嫌な言い方だねえ。まさか、このお嬢さんが苦しみながら死ぬように仕向けるつもりじゃないだろうね」
「まさか。わたしは悪魔ではありません。ただ確実な死が訪れるようにするだけです。そうしなければ、またモーナに邪魔をされる可能性もありますからね」
「というと?」
「自然衰弱死を選びます。彼女は、今日から自然に衰弱していき、一ヶ月後にその命の炎が尽きることでしょう」
「苦しまないかい?」
「眠るように。これで文句はないわね」
 ラミルスさんは、わたしに問いかけるように言いました。
〈はい。ありがとうございますラミルスさん〉
「礼など言わなくて結構です。では、お嬢さんとは、一ヶ月後にまたお会いすることにしましょう」
 そう言って、ラミルスさんは消えました。ポワンと。
「やれやれだね」
 と、モーナさん。
「じゃあ、さよならお嬢さん。確かにあんたの願いは叶えたよ。あたしはもう、あんたとは二度と会わない」
〈お世話になりました。お元気で〉
「そりゃ、こっちのセリフだよ」
 モーナさんは、首を振りながら消えました。ポワンと。
 ふと、ひとり取り残されたわたしは、しばらく立ちすくんでいました。
 いまのは夢?
 ぼんやりとそう思ったとき。
 急に廊下があわただしくなりました。看護婦さんが何人か駆けてきて、彼のいる集中治療室に入っていきます。すぐにお医者様も駆けつけました。
 わたしは、お医者様が閉め忘れたドア越しに、そっと中をのぞき込みました。そこには、少し困惑した様子でベッドから身体を起こした彼がいたのでした。
 夢じゃなかった。





 目が覚めた。
 そこはベッドの上だった。口の中や鼻の穴にチューブが差し込まれていて、ものすごく苦しかった。
 あわてて、チューブをむしり取ると、ぼくは大きく深呼吸をした。消毒液の臭いが鼻を突いた。どうやら、病院のようだ。
 そのとたん。洪水のように記憶が蘇った。
 そうだ。ぼくは車にひかれたんだ。そこからの意識というか、記憶はない。推察するに、病院に運ばれて、治療を受けたのだろう。
 それにしても大げさな病室だ。ぼくは、自分がよほどの怪我をしたのかと思って、体を動かしてみた。けど、どこにも痛みは感じなかった。
 あれ?
 なにかおかしい。なんだろう?
 音? そう、音だ! 音がする!
「あ……あー」
 ぼくは声を出してみた。自分の声が聞こえる。聞こえる……
 聞こえるんだ!
 ぼくは飛び上がった。でも、そのとたん。急に不安に襲われた。
 もしかして、ぼくは死んだのではないだろうか? これは生きた自分が感じていることではなくて、死んで魂だけになったからこそ、音が聞こえるんじゃないのか?
 そんなバカな。
 そう自分に言い聞かせて、首を振ってみた。けど、どうしてもその不安を払いのけることができなかった。
 そのとき。病室のドアが開いた。看護婦さんだ。彼女たちは、ぼくを見てひどく驚いていた。まさか、幽霊になったぼくが見えるんじゃないだろうな。
 看護婦さんたちは、驚喜した表情でなにごとかしゃべっていた。もちろん、声は聞こえているのだけど、発音されている声と言葉の意味が、すぐにはピンとこなかった。人の声を聞いたのは、十九年ぶりなのだ。ぼくが聴覚を失ったのは三歳のころだから。でも彼女たちの唇の動きで、なにを話しているのかわかる。
「信じられない!」
「まさか、こんなことって!」
 およそ、こんな会話だった。
 そのうちに、医者も駆けつけた。さすがに医者は看護婦さんのようにあからさまに驚いてはいなかったけど、それでも興奮した様子だった。
 ふと、医者が閉め忘れたドアのすき間から廊下が見えた。
 そこには、ぼくを見つめる女性がいた。今泉梨香子。ぼくの最愛の人。彼女の瞳からは涙があふれていたけど、ぼくの大好きなあの柔らかいほほ笑みを浮かべていた。

 騒々しい一夜が明けて、ぼく自身、やっと自分になにが起こったのか冷静に考えることができるようになった。
 まず、事故に遭ったこと。
 これは確かに記憶がある。ただ、医者に言わせると、とても一晩で回復するような怪我ではなかったらしい。いや、それ以上に、かなり深刻な状況だったらしく、ぼくは脳死という診断を下されるはずだったと聞かされた。
 そう言われてもねえ……
 医者には申し訳ないが、ぼくはただ寝ていただけだ。自分でも、どうして元気になったかなんてわからない。医者以上にだ。
 そしてもうひとつ。
 ぼくの聴覚障害も治ってしまったということだ。これも、まったく原因はわからない。ぼく自身はもちろん、医者にもだ。
 そんなわけで、ぼくが病院から解放されたのは、考えられるありとあらゆる検査を受けた後だった。まったく健康になってしまったぼくは、検査のために一週間近くも病院に釘付けにされたのだ。
 ただ、この一週間がまったく無駄だったわけじゃない。ぼくは、家族や病院の人たちとの会話を心から楽しんでいた。それに、会社の上司や、同僚たちもお見舞いに来てくれた。小さな会社とはいえ、社長自ら来てくれたのには少し感激した。
 会話。
 そう。ぼくは本当の会話を味わっていた。言葉の発音も思いのほか早くできるようになって(まだ少したどたどしいけど)、まるで、生まれ変わったような気分だった。
 そんなぼくを、いつも優しげな眼差しで見つめているのが梨香子だった。彼女は、毎日、病院に見舞いに来てくれた。見舞いと言っても、ぼくはぜんぜん健康だから、梨香子は終始笑顔で、うれしそうだった。
 ただ、彼女は一度だけ、真剣な眼差しになると、手話でぼくに伝えた。
『これから先。事故や病気に気をつけて。お願いが叶うのは一度だけだから』
「願い? 梨香子は、ぼくのことを神様にでも願ってくれたの?」
 ぼくは、声を出しながら、手話で彼女に問いかけた。
 梨香子は、ぼくの問いに、ほほ笑みを浮かべただけだった。
 女の子らしいなと思った。もちろん、神様にお願いしたから、ぼくが元気になったなんて、梨香子だって本気では思っていないだろう。でも、そういうロマンチックな表現がいかにも女の子してる。
「じゃあ、ぼくもお願いするよ」
 ぼくは少しおどけて答えた。
「梨香子の耳も治りますようにってね」
 梨香子は、ただニコッとほほ笑んだだけだった。

 病院の中もそうだったけど、退院して真っ先に思ったことは、この世は、なんて音にあふれているんだろうということだった。
 車の音。人の声。どこかから流れてくる音楽。
 ぼくは、子供のようにはしゃいでいた。なにせ、病院の前の道路で、行き交う車の音を三十分も聞いていたのだ。
 こいつは、確かに騒音だ! ぼくはいま、騒音の中にいる!
 ぼくは、夢中になって、梨香子に説明した。
「車は、うなるように走ってるよ。それも、車によって音が違うんだ。前を通り過ぎる瞬間、風を切る音もする。オートバイは車より小さいから、もっと静かだと思っていたけど違うんだ。スクーターは甲高い音だし、大きなバイクは、空気を振動させるみたいに低いうなり声を上げてる。それに、救急車のサイレンは、思っていたよりずっと大きい音がするんだね」
 梨香子は、嫌な顔ひとつしないで、ぼくの支離滅裂な説明につき合ってくれた。それどころか、あれはどんな音? これはどんな? と、ぼくに質問してきた。ぼくは、そのつど、支離滅裂な説明で答えた。でも、梨香子はとてもうれしそうだった。

 ぼくは、退院した翌日、CDプレーヤーという機械を買いに行った。ちょうど日曜日だったから、梨香子にも付き合ってもらった。去年の春から一人暮らしを始めたぼくのアパートに、音楽を奏でる機械が置かれたのはこれが初めてだ。
 ぼくは少し興奮していた。
 銀色の円盤。
 そう。いままではただ銀色に輝く円盤でしかなかったこの物体。これからどんな音が出てくるのだろう。
 ぼくは、CDプレーヤーと一緒に、前から聞きたくてしょうがなかった、ビートルズのCDをたくさん買いこんだ。クラッシックも買った。そして、いま流行っているポップスも買った。とにかく、たくさん買った。
 はたして、ビートルズの曲は想像とはまるで違うものだった。みごとに裏切られた。ぼくの想像なんか及びもつかないほど素晴らしかったからだ。
 ぼくは買ってきたCDを、ただただ、夢中になって聞いた。なかには車の騒音とえらく変わらない音楽もあったけど、それすら、おもしろかった。でも、ビートルズとモーツアルトと井上陽水がとりわけよかった。宇多田光はいまいちだな。
 梨香子は、そんなぼくの隣に寄り添っていたけど、そのときのぼくは、梨香子にどんな音楽なのか説明することさえ忘れていた。
 そんな梨香子の存在を思い出したのは、半日も音楽を聴き続けたあとだった。
「ごめん、梨香子。退屈だったろ?」
 ぼくは彼女の前で、ゆっくり声に出して言った。いままで口話を読み取る側だったから、梨香子が読み取りやすいしゃべり方は、よくわかっている。
 梨香子は『ううん』と首を振ると、手話でぼくに伝えた。
『お茶。飲む?』
「うん。コーヒーがいいな」
 ぼくが答えると、梨香子はうなずいて立ち上がった。
 そのとき。梨香子の足が、少しもつれた。
「大丈夫か?」
 ぼくは、あわてて立ち上がると梨香子の体を支えた。
 梨香子は、ペロッと舌を出して答えた。
『座り疲れたみたい』
「ハハハ。ごめんよ。ぼくのせいだね」
 梨香子は、ニコッと笑った。





 わたしは、彼のアパートのキッチンで、お鍋に水を入れました。赤い琺瑯(ほうろう)の小さいお鍋。わたしのお気に入りです。それを火にかけたとき、また少し立ち眩みがしました。
 彼が回復して、今日で八日目。わたしの身体はラミルスさんが言っていたとおり、少しずつ死に向かっているようです。耳が不自由なこと以外、どこも悪いところはなかったのに、最近は身体が重く感じられるのです。朝、身体を起こすのがとても辛い。残された時間は、あと三週間あまりです。でも最後の日まで、彼と一緒にいられる自信はありません。あと十日もすれば、寝たきりになるかもしれないから……
 正直に言います。死にたくありません。でも後悔はしていません。ただ、最愛の人と別れるのが辛いだけです。だから、こうして身体が動くうちは、彼と一緒にいたい。ちょっとめまいがするくらい、我慢できます。
 プツプツと泡が浮いてきたお鍋を見つめていると、わたしの肩に、ポンと彼の手が置かれました。わたしは振り返りました。
「お湯が沸いたら教えてあげるよ」
 彼が言いました。声は聞こえないけど、口話でわかります。彼の唇の動きは、とっても読み取りやすい。
 わたしたち聴覚障害者のハンディはたくさんあります。電話もできないし、ラジオを聞くこともできませんし、日本の映画も見ることができません。ドアのチャイムもわからない。病院や銀行での呼び出しもわかりません。電車は大丈夫だけど、バスに乗るのは大変です。その中で、意外に思われるかもしれませんが、お湯の沸騰音を聞くことができないのが、日常生活の中でかなり大変なのです。だからわたしは、お鍋でお湯を沸かします。沸騰した様子が目で見えるから。その苦労がわかっているから、彼がキッチンまで来てくれたのだと思います。
『ううん。平気よ。あなたは音楽を聴いていて』
 わたしは手話で応えました。
「さすがに、ぼくも聴き疲れたよ」
 彼は、そう言って笑うと、わたしを背中から抱きしめました。
「ごめんよ。こんなことに付き合わせて」
 わたしは、彼の唇が見えなかったので、なに? と聞き返しました。
「なんでもない」
 彼はほほ笑みました。
「お湯が沸いたよ」
『ありがとう』
 わたしは、手話で応えると火をとめました。
 彼が、コーヒー豆の入った缶を取ってくれました。そして彼は、わたしがコーヒーを入れる様子を、ずっと見ていました。その顔は、なんだか深刻そうな気がしました。なんだろう?
 コーヒーを入れて、リビング(といっても六畳ですけど)に戻ると、彼が口話だけでなく、手話を交えて切り出しました。
「べつに、恋愛の歌をたくさん聞いたから言うわけじゃないんだけど」
 彼は、そこでいったん言葉を切りました。
「その……前から考えていたんだ。ぼくの未来は梨香子としか考えられない」
 わたしは、そのあと、彼が言う言葉を想像して身体が固まりました。
「ごめん。本当に突然で。もっとロマンチックな場所で言うべきだったかもしれない。でも、いま言いたいんだ。贅沢はさせてあげられないけど、幸せにします。だから、ぼくと結婚してほしい」
 聞きたかった言葉。でも、いまのわたしには、聞いてはいけない言葉でした。
「梨香子?」
 身体が震えだしたわたしに、彼が問いかけました。
「ご、ごめん。本当に突然だったね。あの、返事はいまじゃなくていいんだ。そうだ、今度の週末デートしようか。ディズニーランドにでも――」
 わたしは立ち上がりました。もう、とても聞いていられませんでした。
『ごめんなさい!』
 わたしは、コートとバッグを持って、玄関に駆け出しました。そして、彼のアパートを飛び出してから、涙があふれてきました。わたしの未来も彼としか考えられない。でもその未来が、わたしにはもうないのです。彼の未来に、わたしはいないのです。
「梨香子!」
 彼が追いかけてきました。逃げようとするわたしの腕をつかみました。
「どうしたんだ? ぼく、そんなに変なこと言ったかな?」
『違う……違うの』
「じゃあどうして?」
『お願い。聞かないで。わたしを一人にさせて』
「梨香子……」
 彼がわたしの腕を離しました。
『ごめんなさい。ごめんなさい』
 わたしは、涙を吹いて、駅に向かって駆け出しました。彼の顔を見るのが辛かった。





 翌日、ぼくは仕事に戻った。小さな会社なので、社長以下、社員全員に暖かく迎えられた。病院にお見舞いに来てくれたり、いまもこうしてよろこんでくれている。
 とりわけ、よろこんでくれたのは、あの事故の時、一緒にいた中平という同僚だった。彼とは同期入社で仲が良かったというのもあるけど、やっぱり、健聴者の自分が注意を怠ったという責任を感じていたようだ。もちろん、ぼくを引いた車が前方不注意とスピード違反だったから事故が起こったわけで、彼に責任はない。
「良一。いやあ、ホントよかったよ!」
 まず、声を掛けてきたのも彼だった。病院に見舞いに来てくれたときも、何度も言われた言葉だが、彼は飽きもせず同じ言葉を繰り返した。
「心配かけたな」
 ぼくも、飽きもせず同じ答えを繰り返した。
「とんでもない。しかしそれにしても不思議な感じだよな」
「なにが?」
「いや、見舞いに行ったときも思ったけど、良一がしゃべってるってのがさ」
「ハハハ。なんなら、筆談に戻そうか」
 ぼくは、疲れた笑いで応えた。
「それは勘弁してくれ」
 彼はそう言いながら、ぼくの表情に気づいた。
「どうした。やっぱ、まだ完全じゃないのか?」
「いや……」
「無理するなよ。なにせ重体だったんだから。今日は外回りやめといたほうがいいな。オレ一人で行くよ」
「違うんだ。身体は大丈夫。ちょっと心がね」
 ぼくはそう言って、事務机でコンピュータに向かっている梨香子をちらっとうかがった。彼女の様子は、いつもと変わらないように見えた。
「なんだよ。彼女となんかあったのか?」
「まあ、ね」
 ぼくは肩をすくめた。いくら突然だったとはいえ、まさか、プロポーズに、あんな反応をされるとは思っていなかった。なにせ、泣きながら逃げられちゃったんだから、男としてはショックは大きい。梨香子は、ぼくが思っているほど、ぼくのことを真剣に考えていたわけじゃなかったのかもしれない。
「ま、仲がいいほどケンカするっていうしな」
 中平は、気楽な感じで言った。
「とにかく、身体の方が平気なら、外回り行こうぜ。お客さんも、おまえのこと、けっこう心配してるんだぜ」
「ああ。みんなに心配かけて申しわけないよ」
「バーカ。こうして元気になったんだから、それが一番だよ」
「そうだな。じゃあ、行こうか」
 ぼくは、外回り用のバッグをもって立ち上がった。
 いつも梨香子は、ぼくが出かける前にこちらを見て笑顔を見せてくれるのだけど、今日はコンピュータのモニタから顔を上げなかった。

 十時。最初の会社に到着した。ぼくが事故にあった日、セキュリティシステムの検査をする予定だった会社だ。ぼくの事故のせいで、検査が一週間もずれ込んでしまったのだ。
「申し訳ありませんでした」
 ぼくと中平は、社内LANの担当課長に頭を下げた。
「いやいや」
 年配の課長は、眼鏡を上げて言った。
「大変な事故だったから心配してたんだよ。元気そうでよかった」
「高田課長が救急車を呼んでくれたんだぜ」
 と、中平が言った。
「えっ、そうなんですか?」
 ぼくは驚いた。そういえば、この会社のまん前で引かれたんだから、課長もさぞビックリしたことだろう。
「わたしは、ただ119番に電話しただけだよ」
 と、課長。
「ありがとうございました!」
 ぼくは、またまた頭を下げた。渡る世間に鬼はなしって言うけど、案外本当なのかもしれない。
「おいおい。大げさに考えないでくれ。でもまあ、本当に無事でよかったよ」
「はい。奇跡的に助かったそうです。って、自分のことなのに他人事みたいですが」
 ぼくは、軽く笑いながら答えた。
「なにせ、ベッドに寝かされていただけなので、実感がわかないんですよ。気づいたら治ってるし。でも、耳まで聞こえるようになっているのには、驚きました」
「まったくだね」
 課長はうなずいた。
「こう言っては失礼だが、きみは優秀だから、耳が不自由なのがとても残念だと思っていたんだよ。あの事故は、むしろきみにとってよかったかもしれないね」
「はい。ぼくもそう思います。とにかく、ご心配をおかけしました。ぼくのせいで、検査も一週間遅れてしまって、本当にすいません。今日の検査は無料にさせていただきます」
「えっ、悪いね。気を使ってもらって」
「とんでもありません。今後ともよろしくお願いします」
 もう一度、課長に頭を下げてから、ぼくたちは仕事を始めた。この会社は、うちの顧客の中でも大きいほうで、ビルの三フロアに渡って事務所を持っている。とりあえず、中平が営業部で、ぼくは総務部の事務所に向かった。
「失礼します」
 総務のフロアに足を踏み入れると、いつも顔を合わせている若い女性社員が、ビックリしたような顔を浮かべた。
「吉岡さん……いま、しゃべった?」
「はい」
 ぼくは笑った。
「耳も聞こえるようになりました」
「すごーい。そんなことってあるんだ。あの事故で助かったのは知ってましたけど、耳も治ったんですか?」
「ええ。いろいろ奇跡的に。原田さんにも、ご心配をおかけしました」
「本当によかったですね」
「ありがとうございます。じゃあ、さっそく検査させてもらいますね」
 ぼくは、そう言いながら、総務のサーバーに向かった。
 三十分ぐらい作業したころだろうか。さっきの原田さんが、お茶を持ってきてくれた。こんなことは初めてだ。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「吉岡さんって、そういう声だったんですね。ステキですよ」
「ははは。ぼくも自分の声を初めて聞きましたよ。耳が不自由になったのは三歳のころだから、子供のころは聞いてたんでしょうけど、そんなの記憶にないしね」
「そうですよね」
 原田さんは笑った。
「それに、声変わりした大人の声は本当に初めて、ご自分でもお聞きになるわけだから、不思議な感じじゃないですか?」
「ええ。不思議な感じでしたね。自分の声って実感がしばらく湧かなかったな」
「ふうん。他人みたいとか?」
「いや、こんなはずじゃなかったと思いましたよ。もっとカッコいい声かと思ってた」
「あら。意外と自信過剰?」
「あはは。冗談ですよ。親からもらった声だから満足してます。それに、自分の声より、みなさんの声が聞こえるのが一番うれしいですよ。耳が不自由だったとき、顔つきとかから、その人の声を勝手に想像してたりしたんですが、想像通りだったり、想像と違ったり、おもしろいですね」
「あら。じゃあ、わたしの声ってどうですか?」
「落ち着いた感じを想像してたんですけど、爽やかな感じですね」
「ま。ひどい。それって老けて見えるってことですか?」
「えっ!」
 うわ。マズイこと言ったか? 口は災いのもと?
「い、いえ、違いますよ。いい意味で言ったんですってば」
 ぼくは、あわてて言い訳した。
「うふふ」
 原田さんは笑った。
「ごめんなさい。わかってます」
「原田さん、人が悪いなあ」
 ぼくは、ホッとしながら苦笑を浮かべた。
「ふふ」
 原田さんは、またクスッと笑った。
「吉岡さんこそ、イメージと違いますよ。じつは、もっと気難しい人なのかなって思ってたんです」
「ぼくが? そうかな」
「いままでは、話しかけたくても躊躇しちゃうところがあったから、勝手にそう思ってたんですね、わたしも。ごめんなさい」
 ぼくは、原田さんが言いたいことを理解した。たしかに健聴者は聾者に話しかけるのに躊躇する。というか、めんどうだと思うのはわかる。それに、聴覚障害は、ほかのハンディキャップと違って、見た目は普通だから、かえって誤解を受けることも多いんだ。健聴者と思われて、いろいろ誤解が生じる。話しかけても、聞こえないから、ぼくらは返事ができない。そうすると、相手は無視されたと思ってカチンとくるよね。肩をたたいて話しかけてくれれば、なんの問題もなかったのに。そういうのって、ぼくら聾者はもちろん、健聴者にとっても不幸なことだ。
「そうですね」
 ぼくは、原田さんが気分を悪くしないように、笑顔を浮かべながら言った。自分が正しいと思うことを言うときは、控えめなほうがいい。
「たしかに、なかなか健聴者同士のようにコミュニケーションはとれないですよね。でも、じつはそんなに大変なことじゃないんですよ。手話とかおできにならなくても、ぼくたち口話で、だいたいの言葉はわかりますから」
「口話?」
 原田さんは首をかしげた。
「しゃべっている口の形を読むことです。できれば正面に立ってもらって、ふだんより少しゆっくりしゃべってもらえれば、ほとんどわかりますよ」
「へえ、そうなんだ」
「たまに間違えますけどね。『たまご』と『たばこ』とか」
「似てますもんね」
「似てるどころか、口の形だと、まったく同じなんですよ」
「えっ、そう?」
 原田さんは、そう言って、自分で『たまご』『たばこ』とゆっくりしゃべった。
「あ、ホントだ!」
「でしょ」
 ぼくは、ニコッと笑った。
「そういうときは、ジェスチャーで教えてくださってもいいし、空文字って方法もあるんですよ」
「空文字って?」
「空間に指で文字を書くことです。中には鏡文字で書くんですかって聞く人もいますけど、ごく普通に書いてもらえば、バッチリですよ。これだけやってもらえば、コミュニケーションに、ほとんど問題ないじゃないかな」
「ふうん。なるほどねえ」
 原田さんは、感心したようにうなずいた。だが、つぎの言葉はぼくの期待を裏切った。
「でも、やっぱり普通に聞こえるのが一番ですよね。吉岡さん、耳が治って本当によかったですね」
「え、ええ。そうですね」
 ぼくは、複雑な気分で笑顔を浮かべた。いままでの話は無駄だったみたいだ。そりゃ、ぼくだって、耳が聞こえるようになったのはうれしいよ。うれしくないわけがない。でもぼくの友人は、いまも耳のハンディキャップで苦労している。梨香子だって……
 梨香子。彼女はいまなにをやっているだろう。ぼくはどうしたらいいんだ。昨日のことを聞いてみるべきなんだろうか。それとも、彼女のほうから、なにか言ってくるまで待ったほうがいいんだろうか。
「吉岡さん?」
 ぼくが黙り込んでしまったので、原田さんが首をかしげた。
「あ、すいません。えっと、そろそろ仕事しないと」
「あら。ごめんなさい。話し込んじゃって」
「いいえ。とんでもない。とても楽しかったです」
 ぼくはそう言って、仕事に戻った。
 ところが、原田さんのほうは、まだ仕事に戻らず、キーボードを打ちはじめたぼくに言った。
「ねえ、吉岡さん。今日は何時ぐらいまでかかります?」
「えーと、三時前には終わらせようと思ってます」
「じゃあ、お昼はどうするんですか?」
「同僚と、その辺に食べに出るつもりですが」
「だったら、ご一緒しません?」
「ぼくらがですか?」
「ええ」
 原田さんは、ちょっと苦笑いを浮かべながらうなずくと、小声で言った。
「うちの課って、女の子以外はみんなオジサンでしょ。不毛な砂漠って感じ。そう思いません?」
「い、いや、それはどうでしょう」
 ぼくは、返答に困った。そんなこと言われてもねえ。
「だからね」
 と、原田さん。
「わたしも、同僚の女の子誘いますから、若者だけで一緒にお昼しましょうよ」
「はあ……」
 ぼくは、あいまいにうなずきながら考えた。そういえば、中平は、いま彼女がいないはずだ。きっと喜ぶだろうな。原田さんとなら、お似合いのような気もするし。そう思ったぼくは、原田さんに答えた。
「わかりました。喜んで」
「わ、よかった! 断られたらどうしようかと思っちゃった」
 原田さんは、いままで見たことのないような笑顔を浮かべた。





 わたしは、昨日のことをひどく後悔していました。わたしは、あと三週間でこの世を去ります。彼の未来にわたしはいない。それが辛くて、それが悲しくて、それが堪えられなくて、わたしは逃げ出してしまった。
 でも……
 わたしの寿命を知っているのはわたしだけ。彼は知らない。だったら、たった三週間でもいい。彼のフィアンセになるべきだった。彼のフィアンセとして、最後のを迎えたい。そんなことをしたら、わたしが死んだとき、彼がもっと悲しむかもしれないとも思います。でも、悲しみはきっと薄れます。時間が経てば、わたしの存在は過去になる。もちろん、それでかまいません。ううん。そうなってほしい。と、頭でわかっていても、わたしが確かに存在したんだということを、彼の心に留めておいてもらいたい。これは、きっとわたしのエゴです。それはわかっています。それでも……
 わたしが、一人そんな物思いにふけっていると、肩にポンと手が置かれました。顔を上げると、そこには係長がいました。
「調子でも悪いのかい?」
 係長が言いました。わたしのキーボードをたたく手が止まっていて、ぼーっとしていたから心配してくださったのでしょう。わたしは、あわてて首を振りました。
「そう。だったらいいけど」
 係長は、そう言って、わたしの机にCDケースを置きました。そのCDケースには、最近、うちで開発したプログラムの名前が印刷されていました。わたしは、これで係長の用件がわかりました。
 係長は、わたしの机に置いてあるメモ用紙を引き寄せました。このメモ用紙は、筆談用に置いてあるのもなのです。だいたいのことは口話で理解できますが、仕事の用件は、間違いがあってはいけないので、筆談で行うようにしているのです。もちろん、コンピュータのシステムを作ってる会社ですから、ほとんどは社内のグループウェアで用が足りますが、こうして対面して会話したほうがいいことも多いのです。
 係長は、胸のポケットからボールペンを取り出して、メモ用紙に用件を書きつけました。
『いまさっき中平くんから連絡があって、新しいプログラムを入れたCDを忘れたそうなんだ。今泉くん、悪いんだけど、届けてもらえないかな?』
 ほらやっぱり。わたしは苦笑しました。中平さんは、いま良一さんと一緒にお客さんのシステムを検査に出かけている同僚です。たまに、あるんです、こういうこと。良一さんと違って、中平さんは、少し大雑把なところがあるから。
 わたしは、メモを読んで、『はい』と、口を動かしながらうなずきました。すると係長は、またメモに書きつけました。
『ちょうどお昼時だし、吉岡くんも一緒だから、一緒に食事でもしてきたら?』
 わたしは、軽く笑いました。わたしと良一さんが付き合っていることは、社内で知らない人はいません。
『ありがとうございます』
 と、わたしは、係長の書いたメモの下に書きつけました。これも係長の気づかい……なのかしら? よくわかりませんが、お礼を言っておくべきだと思ったのです。
「じゃあ、悪いけどよろしく」
 係長は、そう声に出して言うと、自分の机に戻っていきました。
 わたしは、打ち込んでいた伝票のシートを終了して、コンピュータをシャットダウンしました。そして、CDケースをもって立ち上がったとき、クラッとめまいがして、そのまま、ストンと椅子に落ちるように座り直しました。
 ふう……大丈夫。まだ大丈夫よ。
 わたしは、自分に言い聞かせました。あと六日で月末です。それまでは、仕事を続けると決心したんです。絶対に今月分の経理だけは済ませようと。そうしないと、来月の〆に請求書も発行できないし、支払いの明細もわからなくて困るはずです。それでも、来月からわたしが休むと、みんなに迷惑がかかるでしょう。だから、できる限りのことはしていきたいのです。この会社に感謝している気持ちと、わたしが死ぬとき後悔しないために。
 わたしは、もう一度、ゆっくり立ち上がりました。今度は大丈夫。よかった。わたしはCDケースをバッグに入れると、机を離れて、ロッカーからコートを出しました。コートに袖を通しながら、ふと、良一さんにどんな顔で会おうかと考えました。
 普通に。いつもどおり。そう。それしかありません。あまり食欲はありませんが、彼とお昼を食べて、そして、今夜仕事が終わったら、昨日のことを謝ろう。わたしは、彼のプロポーズを受ける決心をしたのです。わずかな時間。わずかな幸せだけど。いまは、それがほしい。

 会社を出て、四十分後に、良一さんたちがいる会社に着きました。わたしが受け付けのあるフロアに入っていくと、受け付けの女性が笑顔を浮かべました。わたしも笑顔を返しました。何度かお邪魔しているので、彼女は、わたしのことを知っています。わたしは、受け付けの前に行くと、来る途中、電車の中で書いたメモを見せました。
『お世話になっております。データ・イクスピリアンスの今泉です。本日、貴社にお邪魔している当社の社員に届け物があってお邪魔しました』
「お疲れさまです」
 と、メモを読んだ受け付けの女性が言いました。
 わたしは、もう一枚のメモを見せました。
『申しわけないのですが、わたしの携帯電話で、当社の社員を呼び出していただけないでしょうか。名前は中平(なかひら)です』
「はい、いいですよ」
 受け付けの女性が応えたので、わたしは、会社から支給されている携帯電話をバッグから出すと、電話帳から中平さんの電話番号を呼び出し、発信ボタンを押せばいいだけにして、受け付けの女性に渡しました。
『お願いします』
 わたしは、三枚目のメモを見せました。
『発信ボタンを押していただければ、中平が出ます』
「はい」
 彼女は、発信ボタンを押して、携帯電話を耳に当てました。
「あっ、中平さんですか? いま、会社の方が届け物をもって、受け付けにいらしてますよ。はい。よろしくお願いします」
 受け付けの女性は電話を切ると、わたしに返しながら言いました。
「いま、降りていらっしゃるそうです」
『ありがとうございます』
「いいえ」
 受け付けの女性は、軽く首を振りながら笑顔を浮かべました。
「どうぞ、ロビーのソファにおかけになってお待ちください」
『はい』
 わたしは、うなずきました。身体が辛かったので、座れるのはうれしいです。
 二、三分して、中平さんが降りてきました。
「ごめーん。今泉さん。申しわけない」
 そう言って、中平さんはわたしの前で手を合わせました。
 わたしは、CDケースを中平さんに渡しました。
「いやあ、マジ助かった。これ取りに戻ってたら、昼飯食えないとこだった」
 わたしは、メモを取り出して、さっと文字を書いた。
『わたしのお昼は?』
「はい! キッチリおごらせていただきます」
 中平さんの言い方がおかしくて、わたしはクスッと笑った。
「いやマジで、マジで」
 中平さんも笑いながら言いました。
「もうじき、良一も降りてくるから、一緒に―― ああ、来た来た」
 中平さんが、エレベーターのほうに視線を移しました。わたしもエレベーターを見ました。すると、良一さんが、この会社の女性二人と一緒にエレベーターを降りてくるところでした。わたしに気づいた。良一さんは、ちょっと驚いたように駆け寄ってきました。
「どうしたの?」
 彼の問いに手話で答えようとしたとき、中平さんが先に言いました。
「いやあ、オレ忘れ物しちゃってさ。今泉さんに届けてもらったんだよ」
「またか」
 良一さんは苦笑しました。
「どうなさったんですか?」
 良一さんと一緒に降りてきた女性が言いました。とても奇麗な人です。
「ああ、同僚が忘れ物をしまして、うちの事務の社員が届けに来たんです。でも丁度いいや。みんなでお昼に行きましょうか」
 良一さんは、わたしにもわかるように、手話を交えながら、その女性に答えました。
「ええ、いいですよ」
 と、その女性は答えたあと、良一さんに聞きました。
「この人も、耳が不自由なんですか?」
「ええ。ぼくら聾学校の同級生だったんです」
「そうですか」
 女性はうなずきました。そのとき、ほんの一瞬でしたけど、彼女が鋭い目つきでわたしを見たような気がしました。わたしは直感的に、この人が良一さんに好意を持っているんじゃないかと感じました。
『ごめんなさい!』
 わたしは、反射的に手を動かしていました。手話で良一さんに言いました。
『わたし、急ぎの仕事があるから、会社に戻ります』
「えっ? 三十分ぐらい大丈夫だろ?」
『ううん。本当に急ぎだから』
 わたしは、ソファに置いたバッグをあわてて肩にかけると、やはり、あわててロビーを飛び出しました。
 やっぱりダメ! 彼のプロポーズは受けられない! 彼の未来には、健康で明るくて、彼を支えてあげられるような人が相応しい。でもそれは、わたしじゃない!
 わたしは地下鉄の駅まで走りました。そして、そこで力尽きました。階段を降りる手前で、ガクンとひざが折れて、その場にへたり込み、そのまま立てなかったのです。

 目が覚めたのは病院のベッドでした。
 ああ、そうか。わたし倒れちゃったんだ。
 うっすらと、救急車に乗せられた記憶があります。そう思いながら、わたしは身体を起こそうとしました。とても重い。でもなんとか上半身を起こすと、近くにいた看護婦さんがわたしに気づきました。なんだか、テレビで見たことのあるERのような場所でした。あ、そうか。みたいなではなく、ERそのものなんですね。
「大丈夫?」
 看護婦さんがわたしに聞きました。わたしは、自分の耳が不自由であることを、看護婦さんにジェスチャーで伝えました。
「ええ」
 看護婦さんはうなずきました。そして、すぐにポケットから、ペンとメモ用紙を取り出して、筆談を始めました。
『御茶ノ水の駅で倒れたことは覚えていますか?』
『はい』
 わたしも、メモに書きつけました。
『わたしは、どのくらい寝ていたんでしょうか?』
『こちらに運ばれてきて、まだ十分ぐらいですよ。心拍や脳波に異状はありませんでしたので、特に救命処置はしていません。ただ、念のため採血して血液検査を行っています。なにか薬を服用されていますか?』
 わたしは、そう言われて初めて、右腕に血を採られた痕があるのに気づきました。
『いいえ。たぶん、貧血かなにかです』
『そうですね。ところで、意識を失っている間に、あなたのバッグの中を調べさせてもらいました。手帳に名刺が入っていたので、会社に連絡をさせていただきました』
 なんてこと……
 わたしは、ただでさえ青ざめていた顔から、さらに血の気が引きました。看護婦さんは、会社の人に聞いて、わたしが聾者だと知っていたのです。ということは、良一さんにも、わたしが倒れたことを知られてしまう。いいえ、もう知られているかも。
『すぐに』
 と、看護婦さんは、書き足しました。
『会社の方がいらっしゃるそうです。近くでお仕事をされてる方がいるそうなので』
 良一さんだ……
『いま、医師を呼んできますね』
 看護婦さんは、そう言って、お医者様を呼びに行きました。
 わたしは、看護婦さんの後ろ姿を見ながら、心底落ち込んでいました。一番心配をかけたくない人に知られてしまった。
 しばらくして、お医者様がカルテをもってやってきました。
『今泉さんですね』
 お医者様も筆談を始めました。
『はい』
『血液検査の結果がでました。再生不良性貧血の疑いがあるようですね。いままで、そのような診断を受けたことはありますか?』
『いいえ』
『でしたら、すぐに精密検査を受けることをお勧めします。油断は禁物ですよ』
『はい。わかりました。あの、そろそろ会社に戻りたいのですが……』
『いまのご気分は?』
『もう平気です。ご迷惑をおかけしました』
『わかりました』
 わたしは、なかなか帰してもらえないのではないかと思いましたが、意外にも、お医者様は、わたしをすぐ開放してくれました。そのあと、看護婦さんに診察表を渡され、受け付けで診察料の支払いを促されました。
 診察室を出てると、そこに、いまは会いたくない人が待っていました。
「梨香子!」
 良一さんは、待合室のソファから立ち上がりました。
「大丈夫なのか?」
 わたしは、うなずきました。
「よかった」
 良一さんは、ホッとしたように言うと、すぐに怒ったように手を動かしました。
『ダメじゃないか。調子が悪いなら、そう言ってくれなきゃ』
『ごめんなさい』
 わたしも手話で応えました。
 すると、良一さんは、今度、すまなそうに言ったのです。
『ごめん。謝るのはぼくだ。ぼくの事故のせいで、きみにずいぶん心配をかけさせてしまった。それで疲れが出たのかもしれないね』
『ううん、違うの!』
 わたしは、あわてて応えました。
『お医者様は、貧血だろうって言ってたから』
『貧血? いままで梨香子、貧血になんかなったことないじゃないか。どうしたんだろう?』
『わかんない……』
『ちゃんと検査してもらったほうがいいね。まあ、とにかく、今日は帰ろう。家まで送って行くよ』
『大丈夫。会社に戻るわ』
『ダメだって。今日は家に帰って寝なさい』
『でも、仕事が』
『仕事の心配なんかしなくていいの。なんとかなるから。それより、梨香子の身体が大事だろ』
『うん……』
『本当に仕事は、心配しなくていいから』
『うん……』
『行こう』
『うん……』
 わたしは、受け付けで後日保険証をもってくるように言われ、今日は三千円だけ払って病院を出た。





 なんということだ。ぼくは、梨香子の両親からの連絡に愕然とした。
 けっきょく、彼女が倒れて救急車で運ばれた日から、梨香子は会社に来ることはなかった。翌日両親に連れられて行った大きな病院で、急性骨髄性白血病と診断されたのだ。そして、その日のうちに入院した。
 白血病……聞きたくない病名だった。
 連絡を受けたときは、すでに夜だったので、病院に行くことができなかった。ぼくは一晩中、白血病について調べた。そして、驚きと不安は少しだけ収まった。大丈夫。治療できる。いまは治療方法が進歩して、70%の人が治るそうだ。そのうち35%は再発の心配もほとんどない、完治に近い状態になるという。
 大丈夫だ。大丈夫。梨香子は治る。いままで、あんなに元気だったんだ。彼女が病気なんかに負けるわけはない。ぼくは、自分にそう言い聞かせた。でも、その晩は眠れなかった。なんで梨香子がそんな病気になるんだ。そう思うと、怒りが込み上げてくる。そして、彼女の変化に気づかなかった自分にも腹が立った。梨香子は、前から調子が悪かったはずなのだ。
 そう……
 思えば、ぼくが事故にあってから、たまに立ち眩みを感じているような素振りがあった。いままで、彼女は丈夫だったから、病気だなんて発想がなかったんだ。それにしたって、おかしいと思うべきだった。もっと早く。
 翌日。ぼくはすぐに病院に行った。すでに梨香子のお母さんがいた。病室に入る前、お母さんから聞いたところによると、今日から早速、化学療法が始まるそうだった。完治を目指して、かなり強い抗がん剤を連日投与するらしい。この初期の治療が、治療結果に大きく作用するとインターネットで調べて、ぼくは知っていた。そして、強力な治療により副作用もかなり強いということも。
 ぼくは病室に入った。まだ治療が始まる前だったが、梨香子の顔はいくぶん青ざめているようにみえた。
『気分はどう?』
 ぼくは手話で聞いた。
『ごめんなさい』
 梨香子は、いきなり謝った。しかも、何度も。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
『バカだな。なにを謝ってるんだよ』
 ぼくはベッドサイドの椅子に腰を降ろした。
『わたし……』
 梨香子は、そこまで言って手が止まった。
『なんだい?』
 ぼくは、彼女を安心させたくて、ほほ笑みを浮かべながら聞いた。
『なんか、欲しいものでもある?』
『ううん』
 梨香子は首を振った。そして、もう一度ごめんなさいと言ってから続けた。
『あなたの、プロポーズは受けられません』
『そういうことか』
 ぼくは、彼女が謝っている理由がやっとわかった。
『もしも、病気のことを気にしているなら、そんなのぼくは認めない。きみは絶対に治るんだから』
『そうじゃないの』
『じゃあ、どうして?』
『わたしは、あなたに相応しくありません』
『梨香子……』
 ぼくは、少し動揺した。でも、今度こそ聞いた。
『まさか、ぼくのこと嫌いになった?』
 梨香子は首を振った。
『じゃあ、なぜ?』
『だって、わたしは……とにかく、ダメなの。わたしのことは忘れて』
『意味がわからないよ。きみに嫌われたんならしょうがない。そうでなくても、結婚がイヤなら諦める。もしも、まだ早いだけなら、きみがその気になるまで何年でも待つ。でも、理由もなく断られるのは、あんまりうれしくないな』
 梨香子はなにも答えなかった。ただ首を振って、天井を見つめてしまった。
『梨香子』
 ぼくは、言った。
『この話しはやめよう。いまはね。ぼくも大きな事故に遭って、結婚ってことに焦りすぎたのかもしれない。忘れてくれとは言わないけど、きみの病気が治るまで、もうこの話はしない。これでいい?』
 梨香子は、うなずいてくれた。
『お医者様に聞いたと思うけど、最初の治療では、副作用が少し出るみたいだね。辛いと思うけどがんばって。必ず治るから。いまはすごく治癒率が高いんだよ』
 梨香子は、またうなずいた。でもその顔は無表情だった。
『ダメだよ。そんな顔してちゃ。本当に治るんだから。負けちゃダメだ』
『ありがとう』
 梨香子は、やっと、少しだけ笑顔を浮かべた。
『がんばるわ。だから心配しないで』
『うん。そうこなくっちゃ』
『もう仕事に行って。会社に遅れちゃう』
『ああ』
 ぼくは腕時計を見た。
『終わったらまた来るよ。なにか、買ってこようか?』
『ううん。いらない』
『そう……でも、なにかあったら遠慮なくなんでも言って』
『うん』
 梨香子は、またほほ笑んだ。
『じゃ、行くよ』
 ぼくは、後ろ髪を引かれる思いで病室を出た。彼女のどこか冷めた態度がとても気になった。まるで、死を覚悟しているようだと思った。

 それからぼくは、毎日病院に通った。そして、毎日ぼくの期待は裏切られた。化学治療に効果がなかった。それだけならまだいい。いや、ちっともよくないけど、とにかく、医者も驚くほど梨香子の病状は急速に進行した。そもそも、白血病という診断そのものが間違っていたのではないかと言う話しまで出てきたのだ。じゃあ、なんの病気なんだと言っても、医者にもわからなかった。ただ、このままでは、彼女はあと数日の命だろうと医者はいった。
 そんなバカな!
 彼女の両親から、医者の説明を聞いたとき、ぼくはその医者のところに怒鳴り込みそうになった。なんとか理性で思いとどまったけど、いまどき、原因不明の奇病なんて言われたら、誰だって医者を問い詰めたくなるはずだ。
 それにしたって、どうしてだよ。なんでだよ。なんで、梨香子が死ななきゃいけないんだよ。そんなバカなことあるか。そんなバカなこと……あるもんか……
 ぼくは、病院の廊下で泣いた。涙が止まらなかった。彼女を失うことに堪えられなかった。彼女のいない未来はぼくにはなかった。





 時がきたと感じました。
 ラミルスさんは、眠るように死ぬと言ってた。そう。わたしは眠くなってきたのです。そして、この眠りに落ちたら、もう二度と瞳を開くことはないと思いました。
 正直に言って、この二週間は辛かった。無駄だとわかっていても、抗がん剤の投与を拒否するわけにはいきません。ラミルスさんやモーナさんのことを話しても、誰も信じないでしょう。良一さんでさえも。
 その無駄な治療も終わりました。わたしは白血病ではなく、原因不明の奇病ということになったようです。もちろん、わたしにそんな説明をする人はいませんでしたが、明らかに治療方法が変わったので(正確には、検査だけのようです)、お医者様も悩んでいるのだと思うのです。こう言ったらとても不謹慎だけど、辛い治療のせいで、やっと死ねるって感じがしています。何度、もうやめてと叫びたかったか……
 わたしは、なす術もないお医者様に、最後に一つだけワガママを言いました。どうしても、死ぬ前に良一さんに会いたかったのです。化学治療が始まってから、彼は病室に入れなかったから、もう二週間も会っていないのです。会うのは、わたしの感染症を防ぐために、ビニールの服を着た、お医者様と看護婦さんだけ。だから、死ぬ前に、もう一度、良一さんに会いたい。そう思っても、罰は当たらないと思いました。
 最初お医者様は、わたしのお願いに首を縦に振ってはくれませんでした。でも、何度も何度もお願いをしたら、やっと許可が出たのです。たぶん、お医者様も、わたしの死期を検査の結果から悟ったのでしょう。

 眠くなってきました……もう、間に合わないかな……

 そのとき。無菌室の扉が開きました。そこには、ビニールの服を着た良一さんが立っていました。よかった。間に合った。
 彼は、厳しい顔つきでベッドに近づいてきました。
『良一さん』
 わたしは、手を動かしました。
『よかった。また会えて』
『梨香子……』
 彼は、懸命に笑顔を浮かべました。
『少し、顔色がいいみたいだね』
『そう?』
『奇麗だよ』
『ありがとう』
 わたしは、ほほ笑みました。彼らしい。
『今日は、会社のみんなと、梨香子が退院したときのパーティーについて話し合ってきたよ。ぼくは、イタリア料理のお店がいいって言ったんだけど、社長が、焼き肉屋がいいって主張して譲らないんだ。焼き肉食べたい?』
『そうね。社長のおごりなら、なんでもいいわ』
『そうだね』
 良一さんは、ベッドサイドの椅子に座りました。
『伝えておくよ。お寿司が食べたいって言ってたって』
『まあ、ひどい。せめて、フグ料理にしておいて』
『ははは。どっちが高いかな』
 良一さんは笑いました。でも、すぐに真剣な顔になって黙り込んでしまいました。
『ねえ、良一さん』
『なんだい?』
『いままで、ありがとう。あなたに会えてよかった』
『バカ。なに言ってるんだ。きみはよくなる』
『……お願いがあるの』
『うん』
『わたしのこと忘れないで』
『忘れるもんか。だって、きみは……いなくなったりしない……』
 良一さんの瞳が潤んできました。わたしは、かすかな罪悪感を感じました。彼の悲しむ顔を見たかったわけではないのです。
『わたしも、あなたのこと忘れません』
 わたしは、笑顔で言いました。
『でも、お願い。忘れてほしくないけど、わたしのことは思い出にしてください。良一さんは、幸せになってね』
『バカなこと言うな……』
『ううん。バカなことなんかじゃない。本当に、幸せになってくれないと、わたし怒りますよ』
『わかった。わかったから……』
 良一さんは、もう、たまらないと言う感じで、顔を背けました。
『ごめんなさい。悲しませるつもりはなかったの。ただ、あなたに会いたかった』
『ぼくも……会いたかったよ』
『ありがとう』
 わたしは、最後に彼の顔を見つめると、瞳を閉じました。もう限界。眠くて……

 良一さん……
 さようなら……
 あなたに会えて……
 本当によかった……





 また目が覚めました。
 あれ?
 わたしは首をひねりました。死んでないの? だって、そこはここ二週間、すっかり見慣れてしまった病室だったから。
「梨香子!」
 良一さんの声が聞こえました。
「よかった! あれは夢じゃなかったんだ!」
 えっ?
 わたしは、うれしそうな顔の良一さんを見つめました。どういうこと?
「梨香子。ああ、本当に顔色もすっかり戻ってる! もう大丈夫だ。きみは助かったよ」
 良一さんは、そう言って、ビニールの服を脱ぎはじめてしまったのです。わたしは、ビニールの服なんか無意味だと知っていますが、良一さんはそうではないはずです。そんなことしたら、お医者様に怒られる……
 まさか!
 わたしは、身体を起こしました。そのとき確信しました。さっきまで、目を開けていることさえ辛かったのに、いまはなんともないのです。健康なときと同じように。
『良一さん』
 わたしは、あわてて手を動かしました。
『ま、まさか……彼女に会ったの?』
「モーナだね」
 と、良一さんは言いました。
「うん。会ったよ。ぼくが入院してるとき、神様にお祈りしたって言ってた意味が、やっとわかったよ」
『待って!』
 わたしは、悲痛な気持ちで聞きました。
『いったい、どんなお願いをしたの?』
 人の命を助けるには、自分の命を犠牲にしなければいけないのです。もし、良一さんが自分の命を犠牲にしてわたしを助けたのだとしたら、わたしのやったことはいったいなんだったの?
「そう聞くと思った」
 良一さんは、にっこり笑いました。
「大丈夫。ぼくは死んだりしない。そんなお願いをしたら、梨香子に怒られるどころか、恨まれちゃうかもしれないからね」
『じゃあ、いったい……』
「シェアさ」
 良一さんは、わたしにウインクしました。
「梨香子は、自分の命とぼくの命をチェンジしたんだろ? それをモーナから聞いたときに思ったんだ。チェンジができるなら、シェアもできるはずだって。つまり、分け合えるはずだとね」
『分け合う?』
「そう。半分こさ。ねえ、梨香子。きみの寿命、もともと何年あるか知ってるかい?」
 わたしは、首を振りました。
「きみを連れていこうとしたラミルスに聞いたんだ」
 良一さんは得意げに言いました。
「きみは本来、九十八まで生きるはずだったんだよ! あと七十六年もあったんだ!」
 わたしは、目をパチクリとしました。
「いいかい梨香子。単純な計算さ。残り七十六年を二で割ると、三十八年。それを二人で分け合ったんだ。ぼくたちはいま、二十二才だから、二人とも六十まで生きられる。いまの平均寿命としては短いけど、江戸時代だったらすごい長生きだ」
 良一さんの声は、徐々に興奮が冷めていき、最後は少し寂しげに、わたしに問いかけました。
「それに……明日、ぼくらのうちどちらかが先に死ぬよりずっといい。そう思わないかい?」
 わたしは、思わずうなずいてしまいました。
「だろ」
 良一さんの顔に笑顔が戻りました。そしていつもの落ち着いた声で言いました。
「本当は、きみの寿命だから、ぜんぶ返したかったけど、ぼくも梨香子と別れたくなかったんだ。ごめんよ、こんな方法しかなくて」
 わたしは首を振りました。そして、彼の願ったことの素晴らしさが、じんわりと実感できてきました。
『良一さん……わたし……そんな方法思い浮かばなかった』
「モーナも思い浮かばなかったって言ってたよ」
 良一さんは笑いました。
「それに、まだきみは、ぼくのお願いの内容を、完全に気づいてないみたいだね。まあ、モーナも驚いていたから当然だけど」
『なに?』
「ぼくはね。寿命を半分ずつにしてくれってお願いをしたんじゃないんだ。足りないものを半分ずつにしてくれって頼んだんだよ」
『どういうこと?』
 わたしが聞くと、良一さんは、右の耳を、人差し指でポンポンと叩きました。
「耳。聞こえるだろ?」
 あっ……
 わたしは、やっと気づきました。そう。わたしは良一さんの声を聞いている!
「きみは右の耳。ぼくは左の耳さ」
「そ、そんな……」
 わたしは、思わず声を出しました。
「せっかく、良一さんの耳が治ったのに」
「これも、もともとは、梨香子が願ってくれたんだろ。モーナもひどいよな。女の子には願いのオマケをつけるのに、ぼくにはつけてくれなかった。だから、ああいうお願いになったのさ」
「わたし……」
 わたしは、なんと言っていいかわからず、首を振りました。
「想像していたとおりだ」
 良一さんは、ニッコリと言いました。
「梨香子の声。すごく素敵だよ」
「あっ……」
 わたしは、顔が赤くなりました。発語が変じゃないかしら。いえ、もう発音と言うべきなのかしら?
「梨香子」
 良一さんは、わたしの手を握りました。そして、わたしを見つめて、ゆっくりとハッキリした声で言ったのです。
「お帰り。もうどこにも行かないで」
 わたしは、その言葉に涙があふれてきました。
 そうか。帰ってきたんだ。わたし……彼のところに。
「そうそう。それと、明日か、明後日か、半年後か、一年後かわからないけど、またぼくがプロポーズしたら、そのときは逃げないでくれよ」
「はい」
 わたしは、涙を拭きながら言いました。
「今度はちゃんと断ります」
「えーっ!」
 良一さんは、仰天しました。
「うそよ」
 わたしは笑った。そして言いました。
「あなたに会えて、本当によかった」


 終わり。