広一はその日、会社を解雇された。だれでも名前を聞いたことのある一流企業だったが、このご時世、どこも景気はよくない。
もっとも広一は、自分は大丈夫だと信じていた。女遊びをするタイプじゃなかったから、大学を出てからの十年間、仕事一筋に生きてきたのだ。地味だが、それなりに会社に貢献してきたという自負もあった。しかし、彼の努力は認められなかった。
広一は、アパートへの帰り道タメ息をついた。
まじめに働いてきたのに辞めさせられるなんて……能力主義なんてうそっぱちだ。けっきょくは要領のいいヤツだけが得をするんだ。正直者はバカを見る。それともぼくには運が無いのかな? と、広一はそんな気分だった。だから、いままで頼る必要も、興味さえなかった道端の易者に目が止まった。
目に止められた易者も、広一に目が止まった。
「これ、そこの平均よりややランクが下の容姿をお持ちの若人よ」
広一は、キョロキョロあたりを見回して、だれもいないことを確認すると、仕方なく自分を指差して「ぼく?」と聞いてみた。
「ほかに、だれがおる」
と、易者。
広一はムッとした。当たってるが、当たってるからこそ腹が立つ。
「いいから座んなさい。いかにも悩みがあるような顔をしておる。占ってしんぜよう」
どうする?
広一は迷った。だが、これだけあけすけにモノを言う易者だ。意外と、こういう人の方がマトモな占いをするかもしれない。そう思って広一は、易者の前にある、折り畳みの椅子に腰を下ろした。
「さて。見料は二千円ポッキリじゃ。よろしいかな?」
初老の易者は、開口一番そう言った。
「初めてですから、高いのか安いのかわかりませんよ」
広一はそう言いながら、二千円を払った。
「では、ありがたく頂戴しよう。で、若人よ。悩みはなんじゃね?」
「はあ、じつは……」
広一は、易者に事情を話した。話しているうちに、考えて見れば、ぼくみたいなヤツなんていくらでもいるだろうな。これだけ不景気だと。儲かるのは易者だけか。なんだかバカバカしくなってきた。どうせ、明るい色の背広を着て、笑顔を絶やさなければ、道は切り開かれるであろう。なんて言われるのがオチ。ところが、説明を聞き終わった易者は、意外なことを言った。
「おぬし、彼女はいるかね?」
「は?」
「彼女じゃよ。ガールフレンドとも言う」
「いませんよ」
広一は、またムッとして答えた。さっき自分で、平均よりややランクが下の容姿をもってるとかなんとか言いやがったじゃないか。
「それがイカンのじゃ。恋をしなされ。人生を変えるには恋が一番じゃ。とくに、おぬしのようにモテそうもないヤツはな」
「だんだん、本気で腹立ってきたな。まあいいや。そう言うなら、スパゲッティみたいな棒をジャラジャラさせて、当たるもはっけ~ って占ってくださいよ。どするれば女にモテるのかね」
「ふむ。占ってしんぜよう」
易者は、本当にスパゲッティみたいな棒を出してきて、とつぜん白目を向いた。
「はう~。きえええええっ!」
「うわっ!」
広一は、ビビった。大丈夫かこの人?
「ふむ。わかったぞ」
易者は、唐突に普通に戻る。
「あー、ビックリした。で、どんな結果でした?」
「うむ。メタメタじゃ。おぬし、一生女に縁がないのう。顔がどうとか言う前に、こりゃ神の定めた運命じゃな。可哀想に」
広一は、椅子から滑り落ちそうになった。
「ぼくがバカだった。こんなことを聞くために二千円も払うなんて……」
「真実の言葉には値打ちがあるモンじゃぞ」
「よけい悪い。もういいです。さよなら」
「待て待て待て。これほど運命的に女と縁のない相も珍しい。このままおぬしを帰しては、わしも寝覚めが悪いわい。ここはひとつ、秘伝の惚れ薬を分けてしんぜよう」
「またまた」
広一は、いかにも胡散臭そうな顔をした。
「そうやって商売をする気だな。ぼくだって女が寄ってくる香水だとか、お金が儲かるペンダントだとか、そんなもの信用してませんよ。占い以上にね」
「ふむ。気持ちはわかるが、これは本物じゃ。しかも金はいらん。最初に二千円ポッキリと言ったのはウソじゃないぞ。ほれ。これが惚れ薬じゃ」
と、易者は小瓶を広一の前に差し出した。
「ふうん」
広一は香水でも入っていそうな小瓶を手にとった。たしかに液体が入っている。
「本当に、この世に媚薬なんてモノが存在するとは信じられないな」
「これ。媚薬ではない。惚れ薬じゃと言っておろうに」
易者は、広一の言葉を修正した。
「同じようなモンでしょ?」
「わかっとらんな。媚薬というのは、身体にだけ作用して、気持ちよくなる薬じゃ。そんなもんヤクザに頼めば、いくらでも買える。ところが惚れ薬は心に作用するのじゃ。これは大きな違いじゃぞ。ざっくばらんに言えば、愛のないセックスと、愛のあるセックスじゃ。どちらがいいかね?」
「ベッドに入るところは同じなわけですね」
「やっぱり、わかっとらんのう」
易者はタメ息をついた。
「どうも、おまえさんに、この薬を渡すのはマズイような気がしてきたわい」
「いまさら遅いですよ。頂いておきます。もっとも信用したわけでもないですけどね」
広一は、惚れ薬の入っているビンをさっさと、ポケットにしまった。
「よかろう。ただしひとつだけ注意しておくことがある」
「なんですか?」
「その惚れ薬を振りかけられた相手は、おまえさんを心の底から、とことん、なにがあっても愛し続けるようになってしまうんじゃ。しかも、薬の効果が切れることはない。くれぐれも、相手をよく選んで使うことじゃな」
「ふうん。つまり振りかければいいんですね。簡単だな。それが本当なら、クレオパトラ並みの美女を探さないといけないな」
「そうかね? クレオパトラは言われとるほど美人じゃなかったぞ。まあ、楊貴妃よりかはマシかな」
「見てきたように言いますね」
「見てきたんじゃが……いやいや、まあ、なんじゃ、がんばりなされ。定められた運命を変えるのも、また一興じゃ。神など恐れることはない」
「どうも。暇つぶしにはなりましたよ」
広一は、立ち上がってアパートに向かって歩き始めた。
それから三日間ほど、広一は忙しかった。失業保険を受け取る手続きなどに忙殺されていたのだ。
そんなこんなで三日目。やっと一息つくと、広一はとたん、暇になった自分を思い知った。十年も無欠勤で、しかも有給だってほとんど使わずに働いた会社。そこへ行かなくていいという事実が、広一の胸に重くのしかかった。行くべきだとすれば、そこは職業安定所だ。だが広一は、そんな気にもなれなかった。喪失感。なにもする気になれない。
まあ、スズメの涙しか出なかった退職金と失業保険で、半年ぐらいはなんとか暮らしていけそうだ。貯金も取り崩して、緊縮財政に耐えれば、一年は暮らせるかも。そう思ったら、一月ぐらい、ぼーっして過ごしてもよさそうな気になった。いや。そのくらいの休養は必要だろう。十年分の疲れを癒すには……
となると、がぜん惚れ薬が気になり出す。もちろん、本物であるはずはないが、気になることは気になる。
どうせ暇なんだ。この惚れ薬を使うような女性を探しに出かけてみるか。広一は、惚れ薬の入った小瓶をポケットに入れて、アパートを出た。
しばらくブラブラすると、自分の住む街には、あまり目的にかなう女性がいないような気がして、都心に出て見ることにした。女の子のいる場所か。やっぱり渋谷かな。それとも原宿? うーん。六本木には滅多に行かないから、なんか気おくれするなァ。などと思いながらも、けっこう楽しい。こりゃ暇つぶしにはなるぞ。
ところが、現実は甘くなかった。たしかに、ちょっと見には良さそうな女性がたくさんいるのだが、いまの広一は志が高いのだ。探しているのはクレオパトラ。世界を変えてしまうような女性。そんな女性に滅多に会えるもんじゃない。
けっきょくその日は、なんの成果もなしにアパートに戻り、インスタントラーメンを夕食代わりにして寝てしまった。
翌日。
一晩寝て、さすがにバカバカしくなってきた。それでも広一は、銀座に出かけてみた。惚れ薬なんて、どうせウソなんだから、きれいな女性を観察しながら、のんびり散歩でもするさ。そう思ったのだ。
でも、こんなバカなことは今日で終わりにしよう。そして、読まずにため込んでいた小説でも読んで、今週いっぱいはのんびりして、来週から職業安定所に通おうと決心した。一月もぼーっとしてたら、頭が変になる。
ところが。
探し物は、探すのをやめたときに見つかるという法則が、ここでもいかんなく発揮された。ぶらりと入った喫茶店にその女性はいたのだ。目の醒めるような美人だ。
だが、彼女は広一の望んだ女性ではなかった。むしろ正反対。
名前は、藤崎真奈美。年齢はたしか、二十四ぐらいのはずだ。そう。広一は、彼女のことを知っている。なぜなら、自分をリストラした会社の社長令嬢なのだから。
広一は、藤崎真奈美に対して、『絶滅危惧種』という印象を持っていた。いや、これではわからない。一般的には高飛車と表現するべきだろう。社内でも有名な話だ。そして広一自身、彼女の尊大な態度に腹が立ったことがある。
それは、広一が自分がリストラされるなどと思ってもいなかった三ヶ月前の、会社の創立五十周年記念のパーティでの出来事だ。真奈美も、社長のお供で、パーティに顔を出したのだが、彼女の高飛車ぶりは、堂に入っていた。ゲストで呼んだ東京都知事には笑顔を振りまいているのだが、裏で、広一のような平社員に見せる顔は、暴君そのもの。よくここまで豹変できるなと、みな感心したぐらいだ。
じつは、そのパーティで広一は雑用係をしていた。所属していた部署が総務部なのだから、そのこと自体は当然だ。だが、社長の娘というだけで、上司でもない、それどころか社員ですらない年下の娘に、なんでコキ使われなければならないのかと、理不尽に思ったものだ。まるで封建社会だと。
もちろん、広一は耐えた。ただでさえ忙しいのに、彼女に飲み物を持ってくるように命令され、それを十五分経ってから届けたときに、とろくさい男ねと、下げずまれてさえも、ぐっと我慢した。
まったく、ここまで悪い意味で、わかりやすいお嬢さま体質も珍しい。その意味で広一の『絶滅危惧種』と言う印象は、的を得ていた。
広一はゴクリとつばを飲み込んだ。その、藤崎真奈美が、いま二つ離れた席でお茶を飲んでいるのだ。
これも運命か。と、広一は思った。いま自分は惚れ薬を持っている。あんな高飛車、と言うより、性格破綻者とさえ思える女をかしずかせたら、さぞ気分がいいだろうな。
だが広一は、すぐに三ヶ月前の、自分を汚いものでも見るような目つきで下げずんだ彼女の顔を思い出した。
冗談じゃない! いくら美人でも、彼女だけはお断りだ!
しかし待てよ……
もし彼女を恋人にしたら、また会社に戻れるかな? この先、いくら就職活動をしたって、あんな大企業に勤めるのはもう無理だ。それが社長令嬢の恋人、いや、惚れ薬の力があれば、結婚も夢じゃない。そうなれば、会社に戻れるどころか、ゆくゆくは重役……
待て待て。あの社長は創業者一族で、息子はいないはずだから、はては、ぼくが社長になれるかもしれないぞ。ふむ。魅力的な考えだな。
ここで広一は、われに返った。
マズイ。重傷だ。妄想がだんだんひどくなってきている。ぼくは、ただの水が入った瓶を持ってるだけだ。もう、こんなバカげた遊びはやめよう。
われに返ってみると、今度は藤崎真奈美が哀れに見えた。利害関係抜きに考えてみれば、彼女の態度は、親の教育が悪かっただけではないのか。そう思ったのだ。なまじ、きれいな顔に生まれてきたのが彼女の不幸なのかもしれない。ちやほや、されすぎたんだよ。子供のころから。
さて!
広一は立ち上がった。アパートに帰って、惚れ薬を捨ててしまおう。藤崎真奈美がどうなろうと知ったこっちゃないが、こっちはマトモな生活をしなきゃいけないのだ。来週から就職活動だ。
もし、迂回する方法があればそうしていたが、レジに行くには真奈美の前を通らねばならなかったので、広一は、足を速めて彼女の前を通り過ぎた。
そのとき。
「あら。ちょっと、あなた」
と、広一は呼び止められた。もちろん、その声は藤崎真奈美だ。
広一は、そのまま無視しようかと思ったが、元来まじめな性格なので、立ち止まり、彼女を振り返った。
「やあ」
と、広一は愛想笑いを浮かべた。
「こんちは、藤崎さん」
真奈美は眉をひそめた。平社員のくせに、バカになれなれしい。
「あなたね。わたしをだれだと思ってるの?」
「だれって、藤崎真奈美さんでしょ?」
「それがわかってるなら、敬語を使いなさい。だいたい、わたしに顔を覚えてもらっていただけでも、ありがたく思うべきなのよ」
「忘れて欲しかったけどな」
広一は苦笑いを浮かべた。自分はもう、彼女におべっかを使う立場じゃない。
「あんた、バカじゃない? 父のいない所なら、わたしになれなれしく話しかけてもいいと思ってるわけ? 報告するわよ」
「どうぞ、ご自由に」
広一は肩をすくめた。
真奈美は、ちょっとビビった。ペコペコ頭を下げるはずの男が、そうしないのだ。飼い犬に噛まれた気分。
「ま、まあいいわ」
真奈美は、気を取り直した。
「あなた、わたしの荷物を持ちなさい」
「は?」
「今日は、久しぶりに一人で買い物に出たんだけど、思いのほか荷物が多くなったのよ。うちまで運んでちょうだい」
「やれやれ」
広一は、タメ息をついた。
「余計なおせっかいだけど、その性格なんとかした方がいいよ。じゃあね」
広一は、ひらひらと手を振った。
「ちょっと! あんたクビになりたいの? わたしが父にあんたの態度を話せは、即刻リストラよ」
「ご心配ありがとう。でもね。とっくのむかしにリストラされた人間に言う言葉じゃなかったね」
「え? あんた……ああそうか。思い出した。パーティのあと、父にとろくさい社員がいるから、クビにしてって頼んだんだわ。そう言えば、あんただったわね」
「なに? それは本当か?」
広一は、真奈美を睨んだ。
「ごめんなさいね」
真奈美は、広一に同情の眼差しを向けた。
「あんたみたいなバカ社員が、うちの会社にいるのが許せなかったのよ。せいぜい二流どころの会社を探してちょうだい。あら、わたしったら、また失言を。あんたなら三流がお似合いね。オホホホ」
とたん。広一はかっと、頭に血が上った。こんなこと言われて、腹の立たないヤツはいない。
広一は、ポケットに入れてあった小瓶を取り出すと、コルクの蓋を抜いて、真奈美の頭の上から中の水をかけた。
「あっ」
と、真奈美は、声をあげたが、あまりの出来事に言葉を失った。
「きみが、あんまりきれいだから、水も滴るいい女にしてあげたよ。訴えたければ、どうぞご自由に。ぼくも、きみの会社を、不当解雇で訴えてやる」
広一は、もう一度真奈美を睨みつけてから、レジに向かった。
「待って!」
真奈美は、あわてて立ち上がると、広一の腕をつかんだ。
「離してくれ」
広一は冷たく言い放つ。
だが、真奈美は腕を離さなかった。それどころか、ぐっと力をこめてくる。
「わたし……ああ、どうしましょう! こんな気持ち生まれて初めて!」
真奈美の瞳がうるんでくる。そしてついに、火山が爆発するような勢いで広一に抱きつき、大きな声で叫んだのだ。
「好き、好き、好き! 愛してるーっ!」
「えーっ!」
広一も叫んだ。これが叫ばずにいられるか。
それからは、大混乱。なにが混乱したかって、それは広一の頭の中だ。狼狽と書くべきかな。喫茶店の中で真奈美が強引にキスをしてきて、彼女の唇を引き離すのだけでも苦労した。
「こら! やめろ、こんな人前で!」
「ああ」
真奈美はうっとり。
「怒った顔もすてき」
ダメだこりゃ。
惚れ薬が本物だっただけでも驚きなのに、そのなんと強力なことよ。こりゃ、あの易者が言ってた通り、男に振りかけていたら、生き地獄だったな。というか、いまだって地獄の一丁目って感じ。
「とにかく、藤崎さん。落ち着いて話をしよう」
「真奈美って呼んで」
「真奈美さん」
「さんなんて付けないで!」
「真奈美!」
広一は、怒鳴るようにいう。
「ああ、すてき……」
真奈美は、べったりくっついて離れない。
店員の視線を痛いほど感じながら、広一は逃げるように喫茶店を出た。そして、真奈美がべったり離れないまま、なんとかアパートに帰りついた。
「ここがあなたの部屋なのね。なんて狭いのかしら」
「悪かったな」
「いいえ。狭いからあなたの匂いが充満してるわ。すてきよ」
「掃除してないだけだ」
「あとで侍女を呼んでやらせましょう」
「侍女?」
「そうよ。うちに十人はいるわ」
「すごいね」
「そう? そのくらい普通でしょ」
真奈美は服を脱ぎ始めた。
「こら! なにやってんだ!」
「なにって、服を脱いでるのよ」
「そんなの見ればわかる! だから、なんで服を脱ぐ必要があるんだよ!」
「もう我慢できないの」
真奈美は、さっさと服を脱ぎ捨てて全裸になった。
その姿は広一の想像以上に美しかった。なんの汚れも知らぬと言いたげな、きめ細かい大理石のような肌。そして、絵に描いたように均等のとれたプロポーション。バストはたわわに実った果実のようだ。
「抱いて。いますぐ。あなたの好きにしてちょうだい」
真奈美は広一に抱きつく。
「待ってくれ。話し合おう……」
「バカね。愛し合う二人に言葉なんていらないわ」
「愛し合ってない!」
「ウソよ。あなたもわたしを愛してるわ」
真奈美は、広一のシャツのボタンを外す。
「こら、待て」
「待てない。いいえ、待たないわ。ああ、じれったい!」
真奈美は、ぶちぶちとシャツのボタンを引きちぎって、広一のシャツを脱がすと、まるで、なにかに取り憑かれたように、彼の胸板に舌を這わせた。
「ああ、すてき。あなたの味がする。匂いもすてき。なにもかもすてき」
すごい。惚れ薬の力は偉大だ。好きになれない女だが、こうなってしまった以上、こっちも楽しまなきゃ。
「わかった。わかったよ。シャワーを浴びよう」
「ダメ。あなたの匂いが消えちゃう。さあ、あなたも好きにして。遠慮はいらないのよ。いいえ、遠慮なんかしたら怒るわ。あなたの望むこと、なんでもして上げる」
なんてこった。望んでるのも、好きにしてるのも、遠慮してないのも、ぜんぶ、おまえの方じゃないか。惚れ薬は効いても、性格は変わらないんだな。
と、広一は、心の中でタメ息をついたが、理性と下半身は別物なので、しっかり反応するところは反応していて、けっきょく、真奈美の望み通り、彼女をベッドに押し倒したのだった。男とは、悲しい生き物だ。
という具合に、惚れ薬の効果は劇的だった。しかも、肉体関係をもってからは、よりいっそう効果が増したようで、真奈美は広一に激ラブ状態。一日中、べったりくっついて離れないし、四六時中キスを求めてくる。いくら美人でも、かなりうっとうしい。さらに悪いことに、ペアルックまでさせられた日には、三日も経たずして、広一は疲労困憊した。
だが。広一は耐えねばならなかった。惚れ薬を使ってしまったのは自分なのだ。いくら嫌いな女だったとはいえ、彼女の心を変えてしまった責任を感じていたのだ。
しかし、広一が耐える理由はそれだけではない。真奈美が父親に自分を紹介したいと言い出したからだ。思惑通りだ。このまま我慢していれば、会社に戻れるばかりか、ゆくは重役、末は社長かも。
そして、その通りになった。初めは驚いていた社長だが、娘のあまりの、というか異常なほどの真剣さに負けて、広一との結婚を許した。
結婚!
今度は広一が驚いた。父親に会ってくれと言われて出かけて行った社長宅で、いきなり結婚まで話が進んでしまったのだ。
真奈美は、どんどん話を進め、あっという間に式場も日取りも決まり、あとはその日を待つだけとなった。
広一の方は、社長秘書室長という役職を与えられて会社に復職したのだが、そもそも、仕事自体がなかった。重役並みの個室を与えられ、そこですることは、真奈美とベタベタすることだけだ。これで、平社員だったころの十倍の給料をもらえるのだから、楽でいい。真奈美の異常な愛情にうんざりはするが、金と地位には代えられぬ。
そして、いよいよ結婚の日を迎え、言うまでもなく、信じられないほどお金をかけた結婚式を開いて、二人は晴れて夫婦になった。広一からすれば、なってしまったと言いたいところだが、自業自得でもあり、また将来を約束されたのだから文句を言う筋合いでもなかった。
ところが……
会社の経営は、思った以上に深刻な状況だった。ちらほら噂はされていたのだが、なんと負債総額が二兆円にものぼるのだ。さらに負債は膨らむばかりで、返済のめどはまったくたっていなかった。真奈美と広一が結婚してから、一週間も経たないうちに、そうした事実が発覚した。
そうなると、経営者の責任が問われることになるのだが、同じ時期に、社長一族の巨額の脱税が発覚した。しかも、その脱税の対象になった金は、会社から不正に流用した資金であることがわかり、責任問題どころか、社長は警察に逮捕された。その後、社長夫人も、弟も、従兄弟さえも、芋づるで逮捕されていった。
捜査の手は広一や真奈美にも及んだ。だが広一は、会社の経営はもちろん、横領事件などまったくタッチしていない。というか、そんな深く関るほど時間が経っていないのだ。なにしろ、真奈美に惚れ薬を使ったあの日から、たった半年間に起こった出来事なのだから。そして、真奈美自身も、犯罪には関っていなかった。
おかげで、広一と真奈美の容疑はすぐに晴れて、ごく形式的に、事情を聞かれただけですんだ。しかし、とても会社に残れる雰囲気ではない。けっきょく重役会で辞表を提出させられ、しかも創業者一族として、いままでもらった給料を返還させられて、退職金は一円も出なかった。
もちろん広一は、会社がおかしくなり始めたころから、あの易者を毎晩探した。なんとか惚れ薬の解毒剤を手に入れたかったのだ。こうなっては、真奈美と夫婦でいる必要はない。しかし、易者はいっこうに見つからなかった。
そんなこんなで、怒濤の半年間を過ごした広一は、結婚する前に住んでいたアパートより、さらにランクが下の汚いアパートに移り住んだ。給料を返還するために貯金を全部下ろし、残ったのはわずかな生活費と、好きでも何でもない女房だけ。
おまえは疫病神だ!
広一は、真奈美に、そう叫んでやりたかった。だが、彼女に罪はない。それどころか、いまもって彼女は広一にラブラブであり、父が逮捕されようが、一族の資金がぜんぶ没収されようが、『あなたがいてくれたら、わたしなにもいらない』状態だった。しかし、それは口だけで、真奈美の性格までは変わらない。
「あなた。お腹が空いたわ。食事に行きましょ」
真奈美は、引っ越しが終わると、ニッコリと言った。
「なにも荷物を運んでないのに、お腹だけは空くんだな」
広一は、さすがに皮肉で応えた。真奈美は、引っ越しをまったく手伝わなかったのだ。広一の周りをウロウロしながら、カーテンは何色がいいとか、家具はイタリア製じゃなきゃダメだとか、ひとりでしゃべりまくっていただけ。
「あらァ。だってわたし、重いもの持てないもの」
「知ってるよ。きみが持てるのはスプーンだけだ。けど、もう、そんなこと言ってる場合じゃないのはわかるだろ? ぼくらは、明日から職を探さなきゃいけないんだぜ」
「ぼくら?」
真奈美は首をひねった。
「そうさ。きみも働くんだ。共働きじゃなきゃ生きていけないよ」
「いやだ、あなたったら」
真奈美はクスクス笑った。
「わたしに働けだなんて、すごいジョークだわ」
「冗談なんて言ってないぞ」
「はいはい。あなたのユーモアセンスはよくわかったから、食事に行きましょう。お腹がペコペコなのよ」
「だったら作ってくれ。近くのスーパーで安い食材を買ってきて、料理を作る。簡単だろ? そのぐらいは出来るよな?」
「わたし料理なんてしたことないし、第一、スーパーなんて庶民の行くところに入ったことすらないわよ」
「今日からやるんだ」
「だったら、侍女を呼びましょう」
「いいかげんにしろ!」
広一は怒鳴った。そして、片づけたばかりの戸棚から、貯金通帳を出して、真奈美の前にバンと置いた。
「見ろ。ぼくの貯金残高を。十万円も入ってない。失業保険をもらえなくなったら、飢え死にだ」
「そう……わかったわ。買い物してくる」
と、言って出て行った真奈美だが、彼女が買ってきたのは特上の握り寿司だった。
翌日。
広一は職業安定所に出かけた。本当は真奈美も働かせたいが、料理どころか電卓さえまともに使ったことがない女に、いきなり仕事をさせるのは無理だ。まずは社会常識を身につけさせなければならない。なんでぼくがそこまで。と、広一は腹が立ったが、惚れ薬を使ってしまった自分が悪いのだと、自分自身をいさめた。
夕方。職が見つからず重い足取りでアパートに帰ると、広一は目を疑った。
「おかえりなさい。一人で寂しかったわ」
真奈美が抱きついてきてキスをせがむ。毎日この調子だから、なんとか我慢する。
「それ、どうしたんだ?」
広一は聞いた。真奈美が見たこともないワンピースを着ていたのだ。
「うふふ。気づいてくれた?」
真奈美は悪びれた様子どころか、むしろ、うれしそうに言った。
「今日ね。デパートに行って買ってきたのよ。すてきな柄でしょ?」
「いくらだ?」
「八万円よ」
「金はどうしたんだ?」
「お金? お金なんて使ってないわ。カードだもの」
「同じことだろうに……」
広一は頭を抱えた。真奈美に対して、殺意さえ覚える。だが、あわてて首を振ってバカな考えを打ち消し、彼女からカードを没収しなかった自分が悪いと思うことにした。辛い人生だ。
それはそうと、台所がいやにきれいだ。食事を作った形跡も、匂いも漂っていない。
「晩飯は?」
広一は聞いた。
「あるわよ」
真奈美は冷蔵庫を開けた。
「はい、どうぞ」
彼女が出してきたのは、コンビニで買ってきたサンドイッチだった。そしてコーラの缶を一本。
「これが夕食か……きみの分は?」
「あなたの帰りが遅いから、先に食べたわ」
真奈美は、しれっと答えた。
たぶんそれは、サンドイッチではないだろう。どこかのレストランで、フォークとナイフとスプーンが並んだ食事に違いない。言うまでもなくデザートつきで。
そう思ったら、広一の心の中で、ぷつんと糸が切れた。渡されたサンドイッチを床に投げつけ、真奈美をベッドに連れ行くと、真新しいワンピースのボタンを引きちぎって、乱暴に押し倒した。そして、怒りに任せて真奈美に覆いかぶさる。このまま首を締めてやりたい。でも、それは許されないから、強姦魔のように犯してやろうと思った。夫婦の間で、どんなセックスをしようが罪にはならない。
だが。
「ああ、あなた。愛してる。いいの。あなたの好きにしていいのよ」
という、真奈美の声を聞いて、広一の怒りは急速に冷めた。どこかうっとりするような、どこか期待するような彼女の顔。惚れ薬の効果。
広一は真奈美から離れた。バカバカしい。こいつを喜ばせてどうする。
「どうしたの? してくれないの?」
真奈美は残念そうな声を出す。広一はそれに答えず、床に投げたサンドイッチを拾って、それを無言で食べた。涙が出そうだ。どうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ。
「ねえ……」
真奈美がベッドから起き上がり、乱れた服のまま歩いてきて、広一の背中に抱きついた。
「それ食べたらしてくれるんでしょ? きのうもしてくれなかったし」
「疲れた。食べたら寝る」
「どうして、そんなイジワルを言うの? わたし、なにか気に障ることした?」
「きみの、すべてが気に障るよ。存在そのものが」
「そんなのウソよ。わたしは、あなたのために存在しているのよ。愛してる。心の底から、あなただけを愛してるのよ」
「だったら、金を使うな」
「使ってないわ」
「カードだって、お金と一緒だろ!」
「あなた疲れてるのね。だから怒りっぽくなってるんだわ。でもいいの。怒ったあなたも好き。乱暴にされるの好きよ。あなたのことは、みんな好き」
「きみは……おかしいよ。狂ってる」
「またそんな心にもないこと言って」
「本心だ」
「うふふ。わたしは、あなたのことみんな知ってるの。あなたも、わたしを愛してくれてること。だから、そんな嘘をついてもダメよ」
このとき広一は、真奈美の目を見た。トロンとしている。普通じゃない。
「ねえ。抱いて。お願い」
真奈美は、広一の股間をまさぐった。
「やめろ……やめてくれ!」
広一は叫んだ。とつぜん、得体の知れない恐怖を感じたのだ。そして、そのままアパートを飛び出した。
街をさまよう。もう帰りたくない。彼女が恐ろしい。
すると。
「おや、そこの平均より、ややランクが下の容姿を持つ若人」
という声が聞こえて、広一は、あわてて振り返った。ビルの陰に、折り畳みの椅子を出して座っている、あの易者がいた。
「ジイさん!」
広一は、救援隊を発見した遭難者のように、易者の前に駆け出した。
「よかった! ずっと探してたんだよ!」
「ほほう。そうかい。わしにお礼でも言いたかったかな?」
「逆だ!」
広一は叫んだ。
「なんとかしてくれ! あの惚れ薬は強力すぎる!」
「落ち着きなされ。事情を説明せんか」
広一は、息をついて易者の前に腰を下ろした。
「じつは、かくかくしかじか」
と、事情を手早く説明する。
「ふーむ」
易者は、腕を組んだ。
「なるほどのう。うまいことやったつもりが、大災難じゃったと。そういうわけかい」
「そうだよ。もともと大嫌いな女だったんだ。それが女房になっただけでもキツイのに、毎晩、愛してる、抱いてくれって迫られる。もう、気が狂いそうだ」
「そういう薬じゃからなァ」
「だから、解毒剤をくれよ。なんなら買っても……待て、最初からそれが目的か?」
「は?」
「そうだ。そうに違いない。あんた、あの薬をぼくにタダでくれたよな。それは、こうなることがわかってたからだな。それで、解毒剤を高く売りつけるつもりだったんだ」
「これこれ。勝手に人を詐欺師にするんじゃない。そんなこと、思いつきもせんかったわい」
「じゃあ、解毒剤をタダで譲ってくれ」
「だから、まだ勘違いをしておるな。最初に言ったはずじゃぞ。あの薬の効果は絶対に切れない。どんなことがあっても、おまえさんを愛し続けるのじゃよ。つまり、解毒剤なんぞありゃせんわ。詐欺のしようもないわな」
「マジかよ!」
「マジなんじゃ」
「かんべんしてよ! ありゃ異常だよ! 狂ってるよ! あんな女、普通じゃない!」
「まったく、でかい声で騒ぎなさんな。そういう薬なんじゃから仕方あるまい」
「どうしてくれるんだ。ぼくの人生をメチャクチャにしやがって!」
「自業自得じゃろうに。そんな女にあの薬を使ったのは、おまえさんじゃ」
「くそう……訴えてやる」
「困った客さんじゃな。ひとつだけ解決策がないでもないが」
「このさいなんでもいい、教えてくれ」
「これを使うんじゃ」
そう言って、易者は惚れ薬が入っていたのと同じ瓶を広一の前に出した。
「なんだよ。解毒剤はないって、さっき言ったじゃないか」
「そうじゃよ。こりゃ解毒剤じゃなく、例の惚れ薬じゃ」
「どういうことだ?」
「簡単じゃ。その女にこの瓶を持たせて、おぬしに振りかけてもらうんじゃ」
「なに? そうするとぼくは……」
「その女を愛しちゃうわけじゃ」
「それの、どこが解決策だ!」
「考えてもみなされ。おまえさんが、いま辛いのは、その女が嫌いだからじゃろう? 癇に障るんじゃろう? 態度が我慢ならんのじゃろう?」
「それどころか、怖いぐらいだ!」
「だったら、なおさら、その女を愛した方が楽じゃな」
「待て。言いたいことはわかった。でもそんなの、根本的な解決でも何でもないぞ」
「だれが、根本的な解決と言ったかね。ほかに方法がないと言っとるんじゃ」
「うっ……」
それも一理あると思う広一だった。
「納得したようじゃな。ほれ。この薬もくれてやる。金なんぞ取ったら、また詐欺師呼ばわりじゃからな」
「本当に、それしかないのか……方法は……」
「なにをしようと、その女がおぬしを愛する気持ちは変わらんよ。究極のストーカーじゃな。逃げても無駄じゃ。逆に飛び込むしかなかろう。それが一番幸せじゃ」
「ぼくも、あんな狂った状態になるのか」
「おぬしの性格なら、まともな精神を保ちつつ、その女の行動が、みな愛くるしく見えるようになるだけじゃろう。そう、心配せんでもいいんじゃないか?」
「本当かよ」
「そう思うしかなかろうに。ほれ。商売の邪魔じゃ。薬をもって、さっさと帰っておくれ」
易者は惚れ薬を広一に押しつけた。
「なんてこった」
広一は、諦めたように小瓶をポケットに入れて、とぼとぼとアパートに帰って行った。
「うひひ」
広一の背中を見ながら、易者が笑った。
「これじゃから、人の人生をもてあそぶのはやめられんわい。あの男、いよいよ不幸になりそうじゃな。うひひ」
易者は笑いながら、商売道具を片づけ始めた。目には見えないのだが、街灯が照らす彼の影には、先端が矢印のようになった尻尾が映っていた。そして易者は消えた。ポワンと。煙のように。
広一は、アパートのドアを開けた。
「どこ行ってたの? 寂しかったわ」
真奈美が抱きついてきた。いつものようにキスを求める。
広一は、おざなりに真奈美のキスに応えた。
「もう、どこへも行かないで。愛してるわ。愛してる。愛してるのよ」
真奈美の言葉が、広一の頭にこだまする。愛してる……冗談じゃない。こんな異常者になりたくない。ぜったいに、ごめんだ。そうだよ。惚れ薬でこいつを愛すより、もっといい方法がある。
「真奈美」
と、広一は妻を引き離した。
「なあに?」
真奈美はトロンと、死んだ魚のような瞳を向ける。
「今日は、星が見えるよ。一緒に見に行かないか?」
「外でしてくれるの?」
「ああ。何度でもしてあげるさ」
「うれしい。愛してるわ」
「ぼくもだ」
だが、そう答えた広一の心には、どす黒い感情が渦巻いていた。
広一は真奈美を連れてアパートの屋上に出た。星は見えなかった。でもそんなことは、どうでもよかった。
「ここでしてくれるの?」
「そうだよ。ほら、フェンスのところに手をついて、腰をこっちに向けな」
「いいわよ」
真奈美は腰ぐらいの高さのフェンスに手をついて、広一にお尻を向けると、ストリップダンサーのように振ってみせた。
「うふふ。さあ早く。動物みたいに犯して」
「わかった」
広一は、真奈美の両足をつかむと、そのままぐいと持ち上げて、フェンスの向こう側に放り投げた。
「あっ」
と、真奈美は声をあげた。だがつぎの瞬間には落下していた。
ドサッという音が聞こえる。
広一はフェンスの上から下をのぞいた。六階建てのアパートだ。生きているはずはない。そしてそのとおり、真奈美は車にひかれたカエルのような姿で、コンクリートの上に叩きつけられていた。黒っぽく見える血が、飛び散っている。
広一は、ゴクリとつばを飲み込んで、足早に部屋に戻った。
大丈夫だ。だれもぼくが殺したなんて思わない。引っ越しの挨拶で、ほかのアパートの部屋を回ったとき、みんなにぼくらがラブラブだと思われたはずだ。真奈美が、ぼくの腕をずっと抱いていたから。じっさい、隣の部屋の奥さんには、新婚さんは仲がよくっていいわねと、笑われたぐらいだ。そうさ。大丈夫。ぼくが殺したなんて思われない。
広一は、部屋に戻るとコップに水を入れて、一気に飲んだ。手が震えている。
ああ……殺してしまった。人を殺してしまった。でも、あれしか方法はなかった。ぼくにとっても真奈美にとっても、これが一番幸せな結末なはずだ。ぼくは異常者から解放され、真奈美は薬で変わってしまった人生から解放されたんだから。
そのとき。
がちゃりとドアノブが回る音がして、広一は心臓が止まりそうになった。そして、そのドアが開くと、本当にキッチリ十秒は心臓が止まった。
「アナタ……」
それは真奈美だった。全身、真っ赤な血に染まっていた。顔面はぐちゃりと潰れ、右腕の形もおかしい。どう見ても骨が折れている。
「アナタ……」
顔が潰れているから、声もおかしい。真奈美は、血を滴らせながら、ヒョコヒョコと足を曲げて、部屋に入ってきた。足の骨も折れている。
「ひっ……」
広一は、その場にへたり込んだ。腰が抜けたのだ。
「アナタ……アイシテル……」
真奈美は広一に抱きついた。その拍子に、左の目の玉がズルッと、広一の股間の辺りに落ちた。
広一は易者の言葉を思い出した。
『惚れ薬を振りかけられた相手は、とことん、なにがあってもおぬしを愛し続ける。しかも、薬の効果が切れることはない』
そうか。死んでもダメなのか。こいつは、ずっとぼくを愛し続けるのか……
広一はズボンのポケットに入れた惚れ薬を取り出した。
このバケモノから逃げられないなら、いっそこれを使ってしまうか。いや、バケモノだからこそ、惚れ薬で好きになってしまわなければ、こっちの気が狂う。
でも……広一は手を止めて、惚れ薬の瓶を見つめた。
さあ、どうする?
おわり。