ゴーストパワーズ




 二十五年生きてきて、幽霊なんてモノを信じたことは一度もなかった。金縛りにあったこともないし、枕元になにかを見ちゃったこともない。テレビなんかで、その手の番組が放映されても、バカバカしいと思うだけだった。
 だった……
 そう。過去形なのだ。いまのぼくは幽霊の存在を信じている。いやが上にも信じなけれならない状況になってしまったのだ。なぜなら、幽霊に取り憑かれてしまったから。それもかなり濃いヤツに。
「おうおうおうおう。なに、しけた面してやがんだ」
 幽霊が、洗面所でひげを剃っているぼくの背中をドンと叩いた。
「あ、危ないなあ!」
 ぼくは、危うく剃刀で顔を切りそうになった。
「顔を切っちゃうところだったぞ!」
「なんでい、怒ることねえじゃねえか。人が元気づけてやろうってときによう」
 ああもう……
 ぼくは頭を抱えた。確かにぼくは、半年付き合った女の子にふられた。そのせいで落ち込んでるのは事実だ。でも、この幽霊が憑いているせいで、もっと気分が落ち込んでいるのを理解してもらえないようだ。
 彼の名は遠山金四郎。人呼んで遊び人の金さん。
 と、本人は自己申告している。幽霊にとりつかれたって事実だけでも信じられないことなのに、その幽霊が遠山の金さんだなんて、どうして信じられるだろう。確かにちょんまげを結ってる幽霊なんて珍しいんだろうが、彼が本物の金さんなら、ぼくはもうネス湖のネッシーだってツチノコだって、なんでも信じちゃうぞ。
「おうおうおうおう。まだシケた面してやがんな。女にふられたぐらいなんでい。男がそんなことでクヨクヨするたあ、どういう了見だ」
「どうもこうも、朝からブルーな気分にさせてるのは、あんたじゃないか」
「ブルーってなんでい? 食いモンかい?」
「青って意味だよ!」
「青? なんでいそりゃ。なんで気分が青なんだ」
「もういい。少し黙ってくれ。こんなことしてたら会社に遅れちゃうよ」
「やれやれ。肝っ玉の小せい野郎だぜ。だから女にふられるんだな」
 金さんは、ぶつぶつ言いながらぼくの背中から消えた。





 ことの起こりは三日前だ。半年付き合った彼女に別れの言葉を告げられたとき。そんなに真剣に好きだった相手ではないから、衝撃的と言うほどのショックは受けなかった。それでも落ち込んだのは事実だ。ほかに好きな人ができたから。なんて理由で別れを告げられて、喜ぶ男はこの世にいないだろう。
 で、失意のままアパートに戻ると、金さんと名乗る幽霊がコタツで熱燗を飲んでいた。その幽霊は、驚きで声も出ないぼくに対してこう言った。
「おう。けえったか。おりゃあ、おまえさんに取り憑くことになった幽霊だ。今日からよろしくな」
 こんなバカな話あるか!
 いや、あるんだよ。あるんだから仕方ない。現に、ちょんまげを結った幽霊がぼくの背中に取り憑いてるんだから。
 失意がどん底まで落ちたぼくなんだけど、それでもまあ、金さんは別にぼくを取り殺そうとか、そういうダークな目的はないようだった。だいたい、人に殺されるようなことをした覚えはないし、それが江戸時代の人間ならなおさらだ。あの暑苦しい顔を毎日見なきゃいけないのはつらいけど……
「おう。順坊」
 仕事が終わって会社を出たぼくに、金さんが声をかけてきた。もちろん背中から。
「金さん。その順坊ってやめてくれって言ってるじゃないか」
「なんで。順坊は順坊だろうに」
「順治だよ。ぼくの名前は」
「だから順坊だ。オレから見れば、おまえなんてただのガキだぜ」
「そりゃ、あんたが本当に江戸時代の人間なら、いま生きてる人はみんなガキだろうさ」
「まだ信じてねえのかよ。おりゃあ、間違いなく遠山金四郎だぜ」
「わかったよ。それでなに?」
「そうだった。どうでい。一杯ひっかけていかねえか?」
「そんな気分じゃないよ」
「まあ、そういうねい。熱燗がうまい季節だぜ」
「勝手に飲んでればいいじゃないか。自由に出せるんだろ。ポワンって魔法みたいに」
「そりゃそうだけどよ。ひとりで飲んでもつまんないじゃねえか。付き合えって言ってんだよ」
「だから、そんな気分じゃないってば」
「どんな気分なんでい。まだ、あの鼻の頭がお天道さん向いた女に未練があんのかよ。あんな性悪女のことなんかきれいさっぱり忘れちまいな」
「簡単に言うなよ」
「もともと、そんなに好きでもなかったんだろ。え、違うか?」
「まあ、そうだけど」
「だったらいいじゃねえか。矢場でも繰り出そうぜ」
「矢場? なにそれ?」
「なんだよ順坊。矢場も知らねえのか」
「知らないよ、そんなの」
「かーっ。これだからガキは困っちゃうね。矢場ってのはな。弓をシュッと引いてよ。的に当たると、赤い小袖を着たねえちゃんたちが、あた~り~って…… おまえ、ホントに知らねえの?」
「つまり、キャバレーみたいなもんだな」
「へえ。いまはキャバレーって言うのかい。こいつはいいこと聞いたぜ」
「あんた、本当に金さんかよ」
「なんで?」
「金さんは正義の味方だろ」
「それがどうした。え、正義の味方が女を好きになっちゃいけねえのか?」
「そうじゃないけどさあ、もっとこう、礼儀正しくてもよさそうなもんだ」
「ガタガタ言ってんじゃねえよ。ほら行くぞ」
「ダメだって。給料日まで、まだ十日もあるんだ」
「給料?」
「お金だよ。お金!」
「ああ。俸禄のことか。しみったれてるなあ。しょうがねえヤツだ。まあいい。一杯飲み屋で我慢してやるよ」
「ねえ金さん」
「なんでい」
「早く成仏してくれよ」
「やなこった」
「なんで?」
「そりゃおめえ、未練があるからに決まってんじゃねえか」
「どんな未練?」
「そりゃ秘密だな」
「どうしてさ。話してくれたら、金さんの未練を解決してあげられるかもしれないじゃないか。そういえば、いままで聞いてなかったけど、なんでぼくに取り憑くんだよ。それと金さんの未練と関係があるのか?」
「ま、いろいろ、あらあな。それよか、未練を解決ってのは気に入ったぜ順坊。さっそく解決してもらおうじゃねえか」
「いいよ。それで成仏してくれるなら」
「おう。そいつはおまえさんしだいだな」
「なにをすればいい?」
「簡単なこった。一杯、ひっかけに行きゃあいいんだよ」
「飲みたいだけじゃないか!」
「そんなこと言ってると、一生取り憑いたままだぜ。いいのかよ。え、順坊」
「ちくしょう。人の足下見やがって」
「いいよなァ。足があってよ。オレも自分の足下見てみたいぜ」
「ダメだこりゃ……」
 ぼくはタメ息を付きながら、飲屋街の方へ足を向けた。確かに、自分の足があるってことは幸せかもしれないけどね。





「金さん」
 仕方なく、行きつけの店に向かいながら、ぼくは金さんに声をかけた。
「なんでい?」
「前から聞きたかったんだけど、なんでぼくに取り憑いたのさ」
「まあ、いろいろあらあな」
「またそうやってごまかす」
「ごまかしちゃいねえよ。言ってみれば因縁ってヤツだな。こいつばかりは、人間の自由にはいかねえ。お天道様しか知らねえこった」
「ぼくと金さんに因縁が?」
「そういうこったな。順坊、はっきり言って、おまえさんは幸せだぜ」
「なんで?」
「取り憑いたのがオレだからさ」
「自分で言うか、そういうこと」
「じゃ、考えてもみろよ。取り憑いたのがバスコダガマのほうがよかったか? カメハメハ大王とか」
「なんで、バスコダガマが出てくるんだよ。そんなの外人に取り憑くに決まってるじゃないか」
「わかんねえぜ。因縁ってヤツはよ。それに、同じ日本人なら、織田信長なんかに取り憑かれてみろ。大変だぜえ」
「まあ、そうかもしれないけど」
「おうよ。ナポレオンとかいう外人さんも、織田信長に取り憑かれてああなっちまったんだからよ」
「えっ! それホント?」
「おりゃあ、バカは言っても嘘は言わねえよ。信長のダンナ、ナポレオンのあとは、明治維新の大久保利通に取り憑いてよ、最後はけっきょく暗殺だもんな。ま、どっちみち信長に取り憑かれたら人生五十年ってわけよ。くわばらくわばら」
「へえ…… 歴史の裏ってすごいんだな」
「まあな。軽いところじゃ、あの直木賞を取った志茂田景樹とかいう作家。あいつにも取り憑いてんだぜ」
「ええっ! 志茂田景樹に織田信長が?」
「バカ。違う。軽いところって言っただろ」
「だれ?」
「インコだよ、インコ」
「インコ? 鳥の?」
「おうよ。だから、ああなっちまったわけよ」
「そ、それはすごいというか、たまらないというか」
「だろ。だから、おめえさんは、オレが取り憑いて幸せだって言ってんだ」
「ううむ。納得してしまいそうな自分が怖いな」
「納得しろって。おっと。そんな話してる間に、目的地に着いたようだぜ」
「どこに? お店はまだ先だよ」
「いや、ここでいいんだ」
「路地しかないじゃないか」
「おうよ。ここで間違いねえ。順坊。ちょいと、その路地を覗いてみな」
「なんで?」
「いいから、言われたとおりにしろって」
「わかったよ」
 ぼくは、金さんに言われるまま、路地裏を覗き込んだ。そこには、高校生ぐらいの女の子と、鼻にピアスをした男がいた。なにかヤバイ雰囲気だ。
「なあ、いいだろ。やらせろよ」
 ピアスをした男が女の子の肩に手をかけた。
「触んないでよ、バカ!」
 女の子はその手を拒む。
「こいつはいけねえな」
 金さんがぼくの背中で言った。
「おい順坊。あの子を助けてやりな」
「ぼくが?」
「ほかにだれがいる」
「待てよ。ぼくはケンカなんかしたことない」
「なに肝っ玉の小せいこと抜かしてやがる。女がいやがってるじゃねえか。見て見ぬ振りをするつもりか」
「見せたのはあんたじゃないか!」
「見ちまったのはおめえさんだろうに」
「金さんが見ろって言うからだ!」
「うるせえなあ。ラチがあかないぜ」
「警察を呼んでこよう」
「バカ言ってんじゃねえよ。町奉行なんか当てになるもんかい」
「あんたも奉行だろ!」
「おっと、こりゃ失敬。死んで何百年も経つと、つい忘れちまうぜ。ま、どうせ月番じゃねえからいいけどよ」
「月番ってなに? じゃなくて、とにかく警察だ」
「おい順坊。どうやら、そんな時間はなさそうだぜ」
 見ると、ピアスをした男が女の子を強引に引っ張っていこうとするところだった。
「さあ順坊。どうする?」
「どうするって…… ええと」
 ぼくは辺りを見回した。人通りはあるが、みんな見て見ぬ振りをして通り過ぎようとする。関わり合いになりたくないのだ。ぼくだってそうだ。いまの若者は怖い。ナイフで刺されるかもしれない。
「ええい、もう。見てらんねえぜ!」
 金さんはそういうと、ふいにぼくの背中から離れた。そして驚いたことに、ぼくの鼻の中にシューッと入り込んできたのだ。想像してくれ。ちょんまげの脂ぎったオッサンが鼻の中に入っていく様子を。気持ち悪いことこの上なし。
「うわっ!」
 と声を上げるまもなく、金さんはぼくの身体の中に入ってしまった。すると。足が勝手に動き出す。身体を金さんに乗っ取られたのだ。
 金さん、やめてくれ!
 ぼくは叫んだ。だが声にならなかった。なにせ身体を乗っ取られているので、まったく自分の意志に身体が反応しないのだ。
「いいからいいから。悪いようにはしねえよ」
 金さんが答える。彼にはぼくの心の声が聞こえているようだ。
 危ないことしないでくれよ!
「少し黙ってな順坊。これから見せどころだからよ」
 金さんはそういって、ピアスの男に近づいた。
「なんだてめえ」
 ピアスの男がぼくを(というか金さんを)睨む。
 すると、金さんはニヤリと笑ってから言った。
「おうおうおうおう。騒ぐんじゃねえよ。埃が立たあな」
 なんだそれ……
「バカじゃねえのか、おまえ」
 とピアスの男。ぼくもそう思う。
 だが金さんは、男にひるむことなく、右足を、ダン!っと一歩前に出した。
「悪事千里を走ると言うが、走りすぎるのが悪の道。お天道様が見逃しても、この桜吹雪が逃しゃあしねえよ」
 金さんは、右の肩を出そうとして、それが不可能なことに気づく。
「なんでい、この服は。袖が通らねえじゃねえか」
 当たり前だーっ!
「ちょいと待ってな」
 金さんはスーツを脱いで、道ばたに捨てた。
 こら、スーツを脱ぎ捨てるなよ! 汚れるじゃないか!
「ガタガタうるせーな。頭ん中で騒ぐんじゃねえよ。埃が立たあな」
 頭の中に埃が立つか!
「揚げ足取るんじゃねえよ。いや待て。取られる足があるってのはいいもんだな」
 ぼくの足だ!
「わかってるって。すぐ返してやるから待ってな」
 金さんは、そう言ってシャツのボタンをはずす。
「おうおうおうおう。もう一回、やり直すぜ。悪事千里を走ると言うが、走りすぎるのが悪の道。お天道様が見逃しても」
 ここで、シャツをバッと脱ぎ去る。
「この桜吹雪が…… ありゃ、桜吹雪がねえぞ!」
 あるわけないだろ!
「やんなっちゃうなあ。萎えるなあ。桜吹雪がねえんじゃ、話になんねえ。じゃあ、あばよ。あとは任せたぜ順坊」
 えっ?
 突然、ぼくの身体が自由になった。
「ちょっと金さん!」
 金さんはどこにもいなかった。
「バカーッ! タンカ切っていなくなるなーっ!」





 そのあとのことは語りたくない。簡単に言うとボコボコに殴られた。まあ、ナイフで刺されなかっただけマシと思うことにしよう。
「痛てて」
 ぼくは殴られた頬をさすった。
「あの…… ありがとうございました」
 男に絡まれていた女の子が、金さんの脱ぎ捨てたスーツとシャツを拾ってくれた。
 そう。なんとぼくは彼女を助けてしまったのだ。というか、ぼくを殴った男は、暴れて気分がスッとしたらしく、女の子を置いてどこかへ消えてしまったのだ。むしゃくしゃしていただけなんだろう。それはそれで、いい迷惑だが……
「どうやらうまくいったみてえだな」
 金さんがぼくの背中に戻ってきた。
「金さん!」
 ぼくは叫んだ。
「え? あたしの名前は薫ですけど」
 女の子がキョトンとした。そうだった。金さんはぼくにしか見えないのだ。
「あ、いや。なんでもないんだ」
 ぼくは彼女から服を受け取った。
「いやあ、よかった。万事解決だぜ。これで、おめえさんの未来も明るいってもんだ」
 と金さん。
 ぼくの未来? まさか金さんは、ふられたばっかりのぼくに、新しい彼女との出会いを取り持ってくれたのだろうか。そういえば、いま助けた女の子はぼくの好みだ。
「順坊。あとはうまくやるんだぜ」
 と金さん。
 うわあ。やっぱりそうなんだ。
「ありがとう金さん!」
「なあに。礼には及ばねえよ」
「これで成仏してくれたら言うことないんだけどな」
「一言多いよおめえは」
 ところが。
「薫。どうしたんだよ、こんなところで」
 表通りの方から声がした。背の高い、ちょっとキムタクに似たハンサムな男だった。
「あ、卓也!」
 女の子は、そのハンサムな男に駆け寄っていった。
「なにしてたのよう。約束の時間に遅れないでよね」
「悪い悪い。それより、どうしたんだ? この裸の男はなんだよ?」
「うん。この人が、なんかよくわかんないけど、服脱いで変なことになったのよ」
 はあ?
「おいおい。変なことされなかったか?」
「大丈夫よ。それより早く行こ。ライブ始まっちゃうよ」
「そうだな」
「じゃあね、オジサン。ありがと。バイバイ」
 女の子は、ハンサムな男と去っていった。
「金さん!」
 ぼくは叫んだ。
 二十五歳でオジサンと呼ばれたことにも腹が立つが、それよりこの状況はいったいどういうことなんだ。服の脱ぎ損…… 違う。殴られ損じゃないか!
「金さん! どういうことだよこれ!」
「おいおい。怒鳴るなよ」
「あの子とぼくの出会いを作ってくれたんじゃないのか!」
「なんだそりゃ。そんなこと、おりゃあ、言ってねえぜ」
「あんたって人は…… なにが礼には及ばないだ。及ばないどころか、お呼びじゃないって言うんだよ、こういうのは!」
「ワハハハ! おもしれえこといいやがる。気に入ったぜ順坊!」
 いまどき、植木等のギャグで笑うとは、さすが江戸時代人だ。などと感心している場合ではない。
「さっさと成仏しろ。バカ! 嘘つき!」
「おうおうおう。嘘つきたあ聞き捨てならねえな。おりゃあ、バカは言っても嘘は言わねえよ。その証拠に、ほれ」
 と、金さんが言ったとき。
「間宮くん」
 表通りから、OLスーツを着た女性が駆け寄ってきた。
「大原さん!」
 ぼくは驚いた。彼女はうちの会社の秘書課に勤務する女性だ。ぼくより二年先輩なんだけど、ぼくを含め、男性社員の憧れの的。わが社のマドンナだ。
「大原さん、あの、どうしてここに?」
「よく飲みに行くお店が近くにあるのよ。それより大丈夫? 早く服を着ないと風邪をひくわよ」
「あっ……」
 ぼくはまだ裸だった。あわててシャツを着る。
「あの、これはですね。別に酔ったわけではなくて」
「わかってるわ」
 大原さんはニコッと笑った。
「最初から見てたのよ。間宮くんが、あの子を助けるところ」
「えっ、最初から?」
 ということは、例の桜吹雪のタンカ切ってるところからってことだよな。
「ごめんなさい」
 と、大原さん。
「警察を呼びに行けばよかったんだけど、なんだか間宮くん、自信満々でタンカ切ってたから、余計なことしちゃ悪いかなと思って」
 やっぱり。恥ずかしーい!
「あの、その、とんだところを見られちゃって……」
「ううん。カッコよかったよ。でも残念ね。あの子に彼氏がいて」
「違うんです! 別にぼくはそんなつもりじゃ!」
 期待したのは事実だが、そんなつもりで殴られたのではないのも事実だ。
「ごめんごめん。冗談よ」
 大原さんはハンカチを出して、ぼくの口から流れる血をふき取ってくれた。
「すいません。ハンカチ、洗って返します」
「気にしないで」
 大原さんはニッコリほほ笑んだ。
「わたし、間宮くんのこと見直しちゃった。会社ではあまり目立たないけど、勇気があるのね」
「いや、そんな、勇気だなんて」
 ワォ。なんかいい雰囲気じゃないか?
「でも、あんまり時代劇の見過ぎはよくないかもね」
「うっ」
 ダメだこれは…… バカにされてる。
「うふふ。ホントはね、わたしも時代劇って大好きなのよ。間宮くんとは趣味が合いそうだわ」
 おっ、やっぱりいい感じだ。飲みに誘おうか。
 と思ったとき。
「いけない。もうこんな時間。ごめんね。友だちが待ってるの。ねえ間宮くん。もし殴られたところが痛むようなら、病院に行った方がいいわよ」
「えっ、あ、はい」
「じゃあね。また明日」
 大原さんはそう言って、表通りの方へ去っていった。
 なんだァ。けっきょくこれで終わりかよ。
「どうでい」
 金さんが現れた。
「おりゃあ、嘘は言わねえだろ」
「どこが。あれで終わりじゃないか」
「そうかい? いままで目もかけられなかった高嶺の花と、ちょいと親しくなれたじゃねえか。あとは、おまえさんしだいだぜ」
「そうかな」
「おうおうおう。おめえも男だろ。ガツンと一発かましたれ」
「下品だな。言い方が」
「いちいち、うるせえ野郎だぜ。ま、いいや。これでオレの出番は終わりだ。せいぜいがんばんな」
「出番?」
「おうよ。やっぱ人助けは気持ちがいいぜ。じゃ、あばよ順坊」
 金さんはふっと消えた。
 え?
「金さん」
 ぼくは辺りを見渡した。
「金さん!」
 だが、金さんはどこにもいなかった。
 えーっ、成仏しちゃったのォ?





 不思議なものだ。
 ぼくは家路につきながら思った。あんなにうっとうしく感じていた金さんだが、いざいなくなってみると、意外に寂しい。なんでぼくに取り憑いて、なんであんな簡単に成仏したのか釈然としないけど、まあ、べつに大した理由もなかったのだろう。因果がどうのこうのと言ってたけど、本当は適当に取り憑いて、適当に人助けをしたら未練がなくなったんだ。あの金さんならそうに違いない。
 ふう……
 ホント、迷惑な話だよ。突然現れて、突然消えることないじゃないか。もっと話がしたかったよ。いまにして思うと、酒も一緒に飲みたかったな。それに、大原さんとの仲を、もうちょっと取り持ってくれたってよさそうなもんだ。いや、他力本願はよくないな。金さんの言うとおり、大原さんとのことは自分でがんばってみよう。
 ぼくは、アパートの階段を上って、205号室のドアを開けた。思えば、三日前、金さんがコタツで酒を飲んでいたんだよな。ホント、あのときは驚いたっけ。
 そのとき。ズズーッ。と、なにか飲んでいるような音がした。
 えっ? ぼくはあわてて部屋の電気をつけた。
「金さん!」
 と、声を上げた瞬間、ぼくは言葉を失った。今度、コタツにいるのは金さんとは似てもにつかない老人だったのだ。
「おや。帰りましたか」
 老人は、飲んでいたお茶の湯飲みをコタツの上に置いた。
「え、あの、ええと、あなたは?」
 ぼくは戸惑ってはいたが、わりと冷静だった。幽霊だって二人目(?)ともなれば、それほど驚きはない。
「まあまあ、立ち話もなんです。お座りなさい」
 老人はニコニコ笑顔を浮かべていた。
「はあ。どうも」
 ぼくは念のためコタツの中を確認した。やっぱり、このジイさんも幽霊だ。足がない。
「どうやら」
 と、ジイさん。
「金四郎はうまくやったみたいですな。危なっかしい男じゃが、やるときはやるってことですかね」
「金さんを知ってるんですか?」
「知ってますとも。なにせ幽霊仲間ですからな。ほーっ、ほっほっほっ」
 ジイさんは高笑いをした。どうやら、このジイさんも、金さんに負けず劣らず変なヤツらしい。
「ジイさん、ジイさん」
 と、ぼく。
「いったい、あんたはだれなんですか?」
 そのとき。
 突然、二人の男が現れた。いかにも旅の途中という格好をした江戸時代人だ。もちろん二人とも足がない。
 男のひとりが叫んだ。
「ここにおわすお方を、ジイさんとは何事か!」
 この時点で、すでにこのジイさんが何者か予想が付いた。
「控えおろう! この印籠が目に入らぬか! このお方をどなたと心得る。先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」
 やっぱりね。
 すると、もうひとりが続けて叫ぶ。
「ご老公の御前である。頭が高い! 控えおろう!」
 ぼくは肩をすくめた。
 そんなぼくの態度を見た、助さんと格さん(でしょ?)は、顔を見合わせてから、困ったように言った。
「こら、そこの平民。頭が高いと言ってるだろ。控えんか」
「あのね」
 と、ぼく。
「ご老公だか副将軍だか知らないけど、いまは二十世紀だよ。人の上に人を作らず。人民のための人民による人民の政治なんだよ。わかる?」
 助さんと格さんは、また顔を見合わせた。二人の頭の上にハテナマークが浮かんでるのがわかる。
「まあまあ、助さん格さん」
 と、ジイさん。もといご老公。
「わしにもなんだかわからんが、時代が違うということじゃ。そんなところに突っ立てないでお座りなさい」
「はい。ご隠居」
 助さんと格さんは、渋々ながらコタツに入ってきた。
「ねえ格さん」
 ぼくは、格さんに声をかけた。なんだか楽しくなってきてる。
「なんだ」
 格さんは憮然とした顔で応えた。
「子供の頃からずっと思ってたんだけど、例のこの印籠が目に入らぬかってタンカ。あれを聞くと、そんなもの目に入るわけないだろ。ってつっこみたくなるんだよね。そう言われたことないですか?」
「無礼者! たわけたことを申すでない!」
 格さんは、真面目な顔で怒った。ううむ。ジョークの通じない人だ。
 ところが。
「ほーっ、ほっほっほっ」
 ご老公が高笑いをあげた。
「ところが、入るんじゃよ。ほれ、格さん印籠を貸してごらんなさい」
 ご老公は、印籠を格さんから受け取ると、自分の目の中にグニュっと入れたのだった。
「うわーっ、気持ち悪い!」
 ぼくは目を背けた。だってマジでスプラッタ映画顔負けなんだよ。
「ほーっ、ほっほっほっ。わしゃ幽霊じゃからな。こんなこと朝飯前じゃ。ほれ、この羊羹だって、丸ごと口に入るぞい。もごもご」
「ご隠居、ご隠居!」
 格さんが止めに入った。
「そうやって人心を惑わすようなことを、なさってはなりませぬ」
「格さんは堅いのう」
「ご隠居こそ、幽霊になられてから性格が壊れてますぞ」
「こりゃ格さん。壊れたとはなんですか、壊れたとは。せめて変わったと言いなさい」
「そんなことよりご隠居。早くこの男の未来を」
「しっ!」
 ご老公は、指を唇に当てて、格さんの言葉を遮った。
「それ以上、言うんじゃありませんぞ、格さん」
「ですがご隠居」
「しっ!」
「われわれは早く」
「しっ!」
「ご隠居。遊んでる場合ではないでしょうに」
「しっ、しっ、しっ!」
 なんか面白いぞ、この二人。
 すると、助さんの方が、ぼくの肩をポンと叩いた。
「どうもオースティンパワーズとかいう映画を見たらしくってな。まあ、あの二人はほっとこうぜ」
「はあ。そう言えば、こんなシーンがありましたね」
「そんなことより。おめえさん、女とうまくいってないんだって?」
「えっ? ああ三日前のことですか。あれはもういいんです。金さんが不本意な方法で慰めてくれましたからね」
「ふうん。新しい女を紹介してくれたってわけだな」
「まあ、紹介というかなんというか…… 一応、そういうことになるかな」
「で、どうなんだい。その女、気に入ったのか?」
「気に入るもなにも、ぼくなんかには高嶺の花ですよ」
「おいおい。まさか諦めるってわけじゃないだろうな」
「いえ。がんばってみますよ。ダメもとです」
「そうかい。そいつを聞いて安心したぜ」
 と、そのとき。またまた、別の幽霊が出現した。その幽霊は、現れるなり、ぼくになれなれしく話しかけてくる。
「そう言うことだったら、大船に乗ったつもりで大丈夫だぜ。この助さんに任せときゃあ。万事解決よお。女の扱いにかけちゃ、右に出る者はいねえぜ。なにせ千人切りの助っていやあ、日本全国で有名なんだからよ」
「こら八。なんてこと言いやがるんだ。人を助平みたいに言うんじゃねえ」
 助さんが、その幽霊をたしなめる。どうやら、こいつがうっかり八兵衛らしい。
 すると、またまた別の幽霊が出現。今度は女性。
「はっつあん! それホントなの?」
「うわ、お銀。おまえまで来たのかよ」
 と、助さん。
「なによ助さん。あたしが来ちゃ悪いって言うの? だいだい、はっつあんの言ったことは本当なんですか!」
「おいおい、お銀。八の言うことなんか真に受けるんじゃねえよ」
「え~っ、助さん、そりゃねえよ。おりゃあ、本当のことしか言ってねえぜ」
「バカ野郎! それが、一言多いって言うんだ、おまえは!」
「助さん!」
 お銀さんが助さんを睨む。
「本当はどっちなんですか!」
「いや、だから、それは」
 しどろもどろの助さん。
「おいおい、二人ともよさねえか」
 格さんが仲裁に入った。
「助さんもお銀も落ち着け。八も引っかき回すんじゃねえよ」
 なんだか、すごいことになってきた。と、ぼくは思った。そのころ作者は、こんなにキャラクターを出して、ちゃんと書き分けられるんだろうかと、途方に暮れていた。
 すると、ご隠居が高笑いをあげる。
「ほーっ、ほっほっほっ。助さんもお盛んですな。もうお銀とは一発かましましたか?」
「ご隠居!」
 助さんと格さんとお銀さんが、一斉に声を上げた。
「ほーっ、ほっほっほっ。幽霊とは楽しい家業ですな。ほーっ、ほっほっほっ」
「ご隠居」
 と、格さん。
「いいかげん、話を進めましょう。このままじゃ、夜が明けてしまいますぞ」
「うむ。そうでしたな。さて。そこの小僧さん」
「えっ?」
 ぼくは自分を指さした。
「小僧さんってぼくのことですか?」
「ほかに誰がおるかね」
「ぼくは、間宮順治です。小僧なんて名前じゃないですよ」
「わしから見れば小僧さんです。違いますかな?」
「いや、まあ……」
 ぼくは、眉をひそめた。まったく二十五にもなって小僧呼ばわりとはね。金さんの順坊の方がずっとマシだ。でもたぶん、反論しても無駄だろう。
「いいです。小僧でもガキでも、なんでも好きに呼んでください」
「ほっほっほっ。人間素直が一番ですな。ところで話は聞きましたぞ。どうでしょう。この旅のご隠居にすべてを任せてもらえないでしょうか」
「は、はあ。任すってなにをですか?」
 なんにしても、このジイさんには任せたくない。と思ったが、口には出さなかった。
「なに、大丈夫。すでに情報は集めておりますぞ」
 なにが大丈夫なんだと問う間もなく、突然、目の前になにかが飛んできて、柱の木にビビーンっと突き刺さった。
 風車だ!
「噂をすればなんとやら。弥七が来たようですな」
 ご隠居がニッコリと言う。
 すると、天井裏でゴソゴソ音がした。だが、現代のアパートの天井は江戸時代と違って簡単には開いたりしない。
「むう。弥七が降りてこられんようですな」
「そのようですね」
 ぼくも答えた。
「でも、弥七さんって人も幽霊でしょ? スーッと壁を突き抜けてくればよさそうなもんじゃないですか」
「それでは弥七の自尊心が許さんでしょう」
「そんなもんですか」
「そんなもんです」
 すると。
 ギーコギーコと、天井からノコギリが!
「わわわっ! ご隠居さん、弥七さんを止めてください!」
「こりゃ、困りましたな」
「なにを呑気な! 大家さんに怒られるのはぼくですよ!」
「いやはや。なんとも。弥七も頑固な男ですな」
「だから、早く止めてくださいってば!」
 などと言っているうちに、天井の隅っこに、パカッと穴が開いてしまった。
 その穴から、まるで猫が着地するように、音もなく、シュッと男が降りてくる。風車の弥七だ。なんか、歳食ってるけど。(というか、すでにこの人もジイさんだ)
「お待たせしました。ご隠居」
「うむ。ご苦労でしたな弥七。しかし、おぬしと会うのも久しぶりじゃのう。最近は、飛び猿に仕事を任せておったんじゃないのかね」
「へい。あっしもたまには登場しませんと、視聴者に忘れられますんで」
 作者が飛び猿の出ているシリーズを見ていないので、飛び猿ってヤツを書けないのは、ここだけの秘密であった。
「ん? いまなんか、変なナレーションが入ったような気がするが?」
 気にしないでください、ご隠居。と、作者は水戸黄門に耳打ちした。
「まあいいでしょう。で、弥七。首尾はどうですかな」
「へい。ちょいと天井に手こずりましたが、例の男の件で、面白いことがわかりました」
「ほう。どんなことですかな」
「じつは……」
 弥七さんは、ご隠居に、ひそひそと小声で耳打ちした。
「ほうほう。それは使えますな。ふむふむ」
 ご隠居も、満足そうにうなずく。
「お話中すいませんが」
 と、ぼく。
「あの天井の穴は、修理していってもらえるんでしょうね」
「そいつは、あっしに任せてもらいましょう! 親分の不始末は子分の不始末」
 八兵衛が、うれしそうに、弥七さんが開けた穴に向かって、ヒューッと浮かんでいった。さすが幽霊。こういうときは便利だ。
 と、思った瞬間。戸棚の隅っこに八兵衛の着物が引っかかった。とたん、ドンガラガッタンガシャンと、戸棚がひっくり返る。
 八兵衛は悪びれた様子もなく言った。
「こりゃ、うっかりだァ!」
 さすが、うっかり八兵衛。ベタなボケだ。などと感心している場合ではない。ぼくは断言する。同じ取り憑かれるなら、水戸黄門より、遠山の金さんのほうが百万倍もマシだ。
 金さん、カムバーック!





 翌朝。
 ぼくは、ご隠居と朝飯を食っていた。
「というわけで、小僧さん」
 ご隠居は、どこから出したのか知らないが、納豆ご飯を食べながら言った。
「本日はお日柄もいいので、この旅のご隠居が一肌脱いで差し上げますぞ」
「乾布摩擦でもしますか?」
「そう。タオルでゴシゴシ…… こりゃ。ボケてどうしますか」
「一番ボケてるのはご隠居って意見もありますけどね」
 ぼくはコーヒーを飲みながら答えた。はっきり言って、まだ眠い。きのうの晩、うっかり八兵衛がひっくり返した戸棚を片づけ、風車の弥七が開けた天井を修理し、そのあと、どういうわけか、助さんに一杯付き合わされて、寝たのは夜中の三時過ぎなのだ。で、やっと深い眠りに入ったころ、朝の早い老人にたたき起こされた。だいたい、幽霊が朝早く起きるってのは、どういう了見なんだろう。まったくこの世は、摩訶不思議。
「で、ご隠居」
 と、ぼく。
「いったい、なにをやろうって魂胆ですか?」
「なに、簡単なことです。小僧さんは、いつもの通り会社とか言う場所に行って、いつもの通り仕事をしなさい。ただし」
「ただし?」
「うむ。ここからが肝心じゃ。仕事が終わったあと…… うっ!」
 ご隠居は、急に言葉を詰まらせた。
「ど、どうしましたご隠居!」
「うーっ、うううう!」
 ご隠居は、バタバタと手足をバタつかせながら、ちゃぶ台の湯飲みを持って、お茶をごくりと飲み込んだ。足もないくせに足をバタバタさせるなんて、器用な人だ。
「う~っ。痰が絡みました。やれやれ」
「ご隠居…… さすがです。どんなときも細かいギャグを忘れないんですね」
「誉めとるのかね?」
「もちろんです。呆れるのを通り越して、感心してます」
「うむ。なんかバカにされとる気もするが、まあいいでしょう。では、そういうわけで、しかと言い渡しましたぞ」
「待ってくださいよ。まだ、なんにも言い渡されてませんってば」
「ほっ? そうでしたか?」
「仕事を終えてから、ってところで痰が絡んだんですよ。そのあと、ぼくはどうすればいいんですか?」
「うむ。ええと、それは、なんでしたかな?」
「ご隠居ォ。ボケないでくださいよォ」
「ほーっ、ほっほっほっ。冗談です。小僧さんは、仕事が終わったあと、長谷川とか言う専務の部屋に行きなさい」
「長谷川専務? あの人、次期社長って言われてるんですよ。そんな人の部屋に、用事もなく入れません」
「心配しなくてよろしい。部屋の前まで行けばいいんです」
「それだけ?」
「そう。それだけ…… うっ!」
 ご隠居は、またのどを詰まらせた。
 もう、付き合ってられないので、バタバタ騒がしいご隠居を残して、ぼくは会社に向かったのだった。





 仕事は終わった。本当は、五時までに終わらせたかったのだけど、ちょっと書類のミスを発見してしまって、手直ししているうちに六時をすぎてしまった。まあ、ご隠居に時間の指定をされたわけではないので、別にいいだろう。
 ぼくは、机の上を簡単に片づけてから、エレベーターホールに向かった。重役たちのオフィスがあるのは、上の階なのだ。でも確か、重役のオフィスがあるフロアには、社員でもアポイントメントの許可がなければ入れなかったような気がする。
 問題のフロアに上がると、やはり警備員に止められてしまった。
「待ちたまえ、きみ。所属と名前は?」
「商品企画課の間宮です」
「なんの用かね」
「ちょっと長谷川専務にご相談したいことがあって」
 ぼくがそう答えると、警備員は、記録帳をペラペラとめくった。
「そんな連絡は受けてないな。アポイントの許可を取ってないね」
「はあ、まあ」
「はあ、じゃないよ。きみ。社員なら、このフロアに入るには……」
 警備員は、そこで言葉を切った。そして、みるみる顔が青ざめてきて、そのままバタンと気絶してしまった。
「ほーっ、ほっほっほっ。たわいもない。これで警備員が聞いて呆れますな」
 ぼくの背中でご隠居の声がした。ぼくは振り返った。
 すると、そこにいたのはご隠居ではなく、世にも恐ろしい妖怪であった。口が耳まで裂け汚らしくよだれを垂らし、角が何本もにょきにょきと生えている。
「う、うわああああ!」
 さすがのぼくも、腰を抜かしそうになった。
 妖怪は、しゅるしゅると縮んでいき、最後にはご隠居の姿に戻る。
「こりゃ、小僧さん。おまえさんまで腰を抜かしてどうしますか!」
「は~っ、ビックリした。脅かさないでくださいよう。まだドキドキしてる」
「情けないのう。ほれ、そんなことより早く、専務の部屋に行かんか」
「は、はいはい」
 ぼくは、ご隠居に背中を押されて、まだ動悸の速い心臓を鎮めながら、専務のオフィスに向かった。こりゃ、このあとなにが起こるか、覚悟しておいた方がよさそうだ。
 ぼくは専務の部屋の前で立ち止まった。さて。これからどうすればいいのだろう。
 と、思った瞬間。ドアが勢いよく開いて、ぼくの顔にぶち当たった。
「痛てて!」
「間宮くん!」
 中から出てきたのは大原さんだった。
「大原さん?」
 ぼくは鼻をさすりながら、彼女を見た。どういうわけか、OLスーツが乱れている。
「あっ……」
 大原さんも、自分の服が乱れているのに気が付いた。
「これは、あの…… 違うの」
「へ?」
 ぼくは間抜けな声を出した。どうも事態を把握できない。
「大原くん!」
 部屋の中から専務の声がした。
「そこにいるんだろ。戻ってきなさい!」
「いや……」
 大原さんは、ブルブルと首を振って、エレベーターホールの方へ、逃げるように駆けていった。
「おい、大原くん!」
 また専務の声。ぼくは、専務の部屋を覗き込んだ。専務は上着を脱いで、ネクタイをゆるめていた。それどころか、ズボンのベルトまでゆるめている。
「き、きみは誰だ!」
「あの、商品企画課の間宮です」
「なんで、一般社員がこのフロアにいるのか聞いとるんだ!」
「はあ。なんででしょう?」
「もういい! 閉めろ!」
「は?」
「ドアを閉めろと言っとるんだ!」
「はい」
 ぼくはドアを閉めた。
 ええと…… これってつまり、セクハラ?
「バカ野郎!」
 ぼくは、ドンと背中を叩かれた。
「助さん!」
「助さん、じゃねえよ。早く追わねえか!」
「え?」
「あの女を追えって言ってるんだよ! おまえそれでも男かよ!」
「ああ、はい。でもあの、事態がよくわかってないんだけど」
「わかんねえだと? あれ見て、わかんねえのかよおめえは?」
「想像はつくけど」
「だったら、早く追いかけろ! 行って慰めてやれ、バカ野郎!」
「は、はい!」
 ぼくは、あわてて大原さんを追いかけた。





「大原さん!」
 一階のロビーで彼女を捕まえた。
「待ってよ大原さん!」
「離して!」
 大原さんは、腕をつかんでいるぼくの手をふりほどこうとした。
「ダメだ。事情を話してくれなきゃ、このまま帰すわけにいかない」
「なんでよ。間宮くんには関係ないことじゃない!」
「あんなところを見るまではね」
 ぼくがそう言うと、大原さんは、さっきのことを思い出したらしく、恥じ入るように顔を伏せた。少し震えている。
「おい、きみ」
 警備員が近づいてきた。
「なにをやってるんだ」
「なんでもないんです」
 ぼくは答える。
「なんでもないことはないだろう。その女性をつかんでいる手を離したまえ」
「プライベートなことなんです。ほっといてください」
「そう言うわけにはいかん。女性が嫌がっているではないか」
 ぼくはタメ息を付きながら大原さんの腕を放した。
「大原さん。あなたが決めて下さい。このままぼくが警備員に連れて行かれるのがいいか。それとも事情を話してくれるか」
 大原さんは、一瞬戸惑った表情を浮かべたが、さすがに、ぼくが警備員に連れて行かれるのは悪いと思ったらしい。コクンとうなずいて、震えた声で答えた。
「いいわ」
 ぼくはホッとして、警備員に言う。
「というわけです。これでもまだ邪魔をする気ですか?」
「ったく。近頃の若いモンは。場所をわきまえてもらいたいね」
 警備員は悪態をつきながら、戻っていった。
「大原さん。近くの茶店に行きませんか? 落ち着ける場所があるんです」
 すると。
「おい。小僧」
 今度は、背中から格さんが声をかけてきた。
「ここからが、おめえさんの正念場だぜ。がんばんな」
「はい。わかってます」
 そう言えば、この格さんが一番マトモだな。
「え? なに?」
 大原さんがキョトンとした。
「い、いえ。なんでもないんです。さあ、行きましょう」





 ぼくたちは、会社の近くの喫茶店に移動した。あまりきれいとは言い難い店だが、席と席の間隔が広くて落ち着けるのだ。
 お互い、コーヒーを注文して、それが運ばれてくるまで無言のままだった。いや。運ばれてきてからも無言だった。こんなとき、なんて声をかけていいのかわからない。だから、ぼくの口をついて出た最初の言葉は、お世辞にも適切じゃなかったと思う。
「あれって、セクハラでしょ?」
 言ったあとで後悔した。でも、状況をハッキリと確認するには、これ以外にどんな言葉がある?
 大原さんは、無言のままコーヒーに口を付けると、ふっとタメ息を付いて静かにカップを戻した。そして、覚悟を決めたように答えた。
「見た通りよ」
「いつから?」
「あれが初めて」
「本当に?」
「本当よ。ねえ間宮くん。もういいでしょ? あなたに話したところでなんの解決にもならないわ」
「隠したい気持ちは分かるよ。笑って話せることじゃないからね。それにぼくが年下だから、頼りにならないと思われてるのもわかる」
「そんなことを言ってるんじゃないわ」
「大原さん。きのうの晩、ぼくの変なところを見られたよね。裸でタンカ切ってるとこ」
「ええ」
 大原さんの表情が少しだけゆるんだ。きのうのぼくのマヌケ面を思い出したのだろう。こんな状況でなかったら、ただ恥ずかしいだけだけど、いまは大原さんの気分が軽くなるなら、どんなバカな姿を思い出されてもいいと思った。
「きのう」
 と、ぼく。
「大原さんは、ぼくをちょっと見直したって言ってくれたよね。いまも、同じ気持ちになってはくれないのかな?」
「状況が違うわ。力づくで解決できることなら、どんなに楽か」
「専務を殴り倒せば解決するなんて、ぼくも思ってないよ」
「そうね…… ごめんなさい」
「大原さん。どうして、あんなことになったの?」
「どうしても聞くつもりなのね」
「話してくれるまで帰さない」
「困った人ね」
 大原さんはタメ息を付いた。
「もともとは、あたしのミスから始まったことなのよ」
「ミス?」
「ええ。詳しくは話せないけど、営業に関する書類を紛失してしまったの」
「誰にでもミスはあるよ」
「そうね。でも、すごく重要な書類だったのよ。ちゃんと管理してあったはずなんだけど、どうしてなくなったのか……」
 大原さんは、自分でも気づかないうちに爪をかんでいた。その仕草が妙に艶めかしく見えたが、いまはそれどころじゃない。
「で、そのミスを専務に問いつめられたのかな?」
「まあ、そんなとこ」
「それがエスカレートして、あんな行為を?」
「ええ。黙って言うとおりにしていれば、仕事の失敗は不問に付すって言われた」
「ひどいな。それって脅迫じゃないか」
「まあね。あんな人だとは思わなかった。でも、ミスが許されるなら、言うとおりにしてもいいかなって思っちゃった」
「まさか専務に?」
「ええ。一度だけなら……」
「バカな! そんなことダメだよ!」
 ぼくはガタッと席を立って大きな声で怒鳴ってしまった。さすがに店の客がぼくたちに注目する。ぼくは、あわてて座った。しばらく無言のまま店の客が、ぼくたちに興味を失うのを待った。
「ごめん」
 ぼくは大原さんに謝った。
「大きな声だしちゃって」
「ううん」
 大原さんは首を振った。
「ありがと。間宮くんが真剣だってわかった」
「当然だよ。あんなとこ見ちゃったら」
「うん」
 大原さんは、沈んだ表情で言った。
「一度だけならって思ったけど、専務がズボンのベルトをゆるめるのを見たら、ものすごく気持ち悪くなって…… 部屋を飛び出してしまったのよ」
「そこにぼくがいた」
「ええ」
 大原さんはうなずいて、ふと、気が付いたように言う。
「そう言えば、あのフロアは、秘書課以外の社員は簡単に入れないはずよ。どうしてあそこに…… いいえ、どうやって入ったの?」
 うっ。ごもっともな疑問。さて、どう答えるべきか。
「それはそのう…… なんというか。虫の知らせってヤツかも」
「あたしが真面目に答えてるのに、茶化すつもりなの?」
 大原さんの表情が険しくなった。
「違うよ。そうじゃない。ええと、そのう、あのう、常務に呼ばれてたんだ」
「どうせ嘘を付くつもりなら、もっとマシな嘘を付きなさい。あたしは秘書課の社員なのよ。あなたが常務に呼ばれていたのなら、あたしが知らないわけないでしょ」
「ごもっともです」
 マズイ。非常にマズイ。
「本当のことを言っても、たぶん信じてもらえない」
「あなた、さっきから人に話せ話せって言ってるじゃない。今度はあたしが言う番よ」
「わかったよ」
 ぼくは覚悟を決めた。
「最初に言っとくけど、大原さんをバカにするつもりも茶化すつもりもないんだ」
「いいから、話しなさいよ」
「ぼくには…… その、霊感があるらしい」
「霊感?」
「うん。幽霊を見ちゃうとか、その手のたぐいのヤツ」
「まさか」
 大原さんは、鼻で笑った。
「やっぱり、真面目に話すつもりはないみたいね」
 まいったな。これ以上、真面目な話はないのに。これじゃ、遠山の金さんと水戸黄門に取り憑かれてるなんて言ったら、水でもぶっかけられて、出て行かれるのがオチだな。
 ぼくは心の中で念じた。
 ご隠居! あなたが取り憑いてる男は、たったいま、すごくシリアスな状況に陥ってるんですよ! こういうときこそ、ぼくの背中に現れて、なにかアドバイスをするとか、大原さんが信じられるように、姿をちょっと見せるとかしてもいいんじゃないですか!
 返事はなかった。くそっ。頼りにならないジイさんだ。バカ。納豆をのどに詰まらせて死んじゃえ。って、もう死んでるか。
 ふう…… まいった。どうする?
「ま、ま、間宮くん」
 大原さんが震えた声を出した。
「なんですか?」
 ぼくがキョトンとすると、大原さんは、恐る恐る、ぼくの背中を指さした。ぼくは、大あわてで、後ろを振り返った。そこにはご隠居がプカプカ浮かんでいた。ご隠居は、ぼくと目が合うと、ニカッと笑ってVサインをした。
「ファンキーでしょ」
 ぼくは苦笑いを浮かべながら、大原さんに向き直った。
「え、ええ。もしかして、間宮くんのご先祖様?」
「違います。断じてこんなジイさんはぼくの先祖じゃありません」
「こりゃ! そりゃこっちのセリフじゃ。おまえさんなんぞ、わしの子孫じゃないわい」
「しゃしゃ、しゃべった!」
 大原さんは、目を丸くして驚いた。
「お嬢さん」
 と、ご隠居。
「幽霊だってしゃべりますぞ。それより、この旅のご隠居に免じて、この小僧さんを信じてやってはくれますまいか」
「は、はい。えっと、信じます」
 大原さんはうなずいた。そりゃ、これを見たら信じるしかないだろう。
「ほーっ、ほっほっほっ。よかったのう小僧さんや。これでもまだ、納豆をのどに詰まらせて死んだ方がいいですかな? もう死んどるが」
「とんでもありません。殺したって死なない人に、いや、死んでも死なない人に、二度とそんなことは言いません」
「なーんか、バカにされとる気がするんじゃが」
「してませんよ。用事が済んだらさっさと消えてください」
「やっぱりバカにしとるな。まあいいわい。年寄りは消えるとするかの。もうじき、火曜サスペンス劇場が始まる時間じゃしな。知っとるかね、小僧さん。今日はすごいぞ。花のOL湯煙温泉殺人事件。夫婦十年目の破局と愛憎。妻の死は果たして自殺か他殺か。秘湯の地を襲う恐怖と愛憎の迷路。OL探偵とズッコケ警部登場。どうじゃ、片平なぎさと大和田漠じゃぞ。うひひ。見たいじゃろ。録画しとくか?」
「けっこうです!」
「ほーっ、ほっほっほっ。そうか。見たいか。わかった。録画しとこう。ちなみに裏番組は水戸黄門じゃ」
 ご隠居は、そう言いながら消えた。
 まったく。出てきたと思ったらこれだもな。
 オホン。と、ぼくは咳払いをした。
「と、いうわけで。ご覧の通りです」
「本当に幽霊っているのね。ねえ。なんで、幽霊なんかに取り憑かれてるの?」
「因縁だそうです。けっこう取り憑かれてる人は多いらしいですよ。たとえば、志茂田景樹とか」
「直木賞作家の?」
「そう。彼にはインコの霊が取り憑いてるそうです」
「インコ?」
「そうなんですよ。それで、ああなっちゃったそうです」
「プッ」
 と、大原さんは吹き出した。
「まさかァ、嘘でしょ」
「本当ですよ。いや、幽霊がそう言ってるだけだから、なんとも言えないけど」
「幽霊も嘘をつくの?」
「人間と同じみたいですよ。待てよ。バカは言っても嘘は言わない幽霊もいますけど」
「誰?」
「遠山の金さん」
「いやだ。それって時代劇よ」
 そう言われても、本当にいるんだからしょうがないよね。
「アハハハ。間宮くんっておもしろい」
 大原さんは笑った。でも、ぼくが真剣な顔なのに気づいて、笑うのをやめる。
「まさか、本当なの?」
「本当なんですよ。きのうまで遠山の金さんに取り憑かれていたんです」
「じゃあ、いまのおジイさんは?」
「水戸黄門です」
「冗談でしょ?」
「冗談ならいいんですけどねえ」
 ふう。と、タメ息を漏らすぼく。
「すごい。信じられない。金さんとご隠居様に取り憑かれるなんて、間宮くんってすごい大物なんじゃないの?」
「まさか」
「ねえ。いつから取り憑かれてるの?」
「三日前からです」
「それまでは?」
「お盆にジイちゃんの幽霊にも会ったことありません」
「ふうん。どうして急にそんなことになったのかしらね」
「さあ? ぼくが知りたい。それはそうと大原さん」
「なに?」
「幽霊を見ても怖くないんですか?」
「ビックリはしたけど、火曜サスペンス劇場を録画する水戸黄門様じゃあ、怖がっていいものか、笑っていいものかわらかないわ」
「ごもっとも」
「でもね。きっと、間宮くんに取り憑いている幽霊だから怖くないのよ」
「どういう意味?」
「悪い幽霊が取り憑くとは思えないもの」
「それって、誉められてるのかな」
「そうよ。すごく誉めてるの」
 大原さんは、ニコッと笑った。
「なんか、喜んでいいのよくわからないけど、幽霊の存在を信じてもらえたところで話を元に戻していいですか?」
「いいわ」
 大原さんの表情は、もうすっかり明るくなっていた。
「間宮くんが、重役室のあるフロアに、なんでいたかってところからよね。もしかして、あなたに憑いているご隠居様が、専務の部屋に行けって言ったのかしら?」
「そうです。大原さんを助けたかったんですよ」
「あなたに憑いてるご隠居様が? あたしを?」
「違います。ぼくが。大原さんを」
「それってどういう意味?」
「言葉通りの意味です」
「でもあの……」
 大原さんは、さすがにぼくの気持ちに気づいて、ちょっとバツが悪そうに言った。
「別にあたしたち、親しいわけでもないし、間宮くんに、迷惑をかけたくないわ」
「迷惑だなんて思っていません。困っている大原さんを見過ごすことはできない」
「あたしにボーイフレンドがいても、同じように思ってくれる?」
「きのうの女の子を助けたときみたいにって意味? あの女の子にボーイフレンドがいなかったら、ぼくはあのまま彼女と付き合ってたかって意味?」
「ご、ごめんなさい…… そうね。あたし、なんか男性不信に陥ってるみたい。本当にごめなさい。失礼なこと言って」
「いいんです」
 おお。神よ許したまえ。きのうの子にボーイフレンドがいてガッカリしたのはぼくです。という懺悔の舌の根も乾かぬうちに、ぼくは大原さんに聞いた。
「でもあの、ボーイフレンドいるんですか?」
「プッ」
 と、大原さんは、また吹き出した。
「なによォ、言ってるそばから」
「いやあ、その、参考までにと思って」
「うふふ。特別に教えてあげる。いまはフリーよ」
 やった!
 と、思う気持ちが顔に出たらしい。大原さんは、またプッと吹き出した。だが、彼女はすぐに真面目な顔に戻った。
「でも、やっぱりダメ。間宮くんに迷惑はかけられない」
「大原さん! まだそんなこと!」
「違うの。聞いて。間宮くんの気持ちはうれしい。本当よ。いままで出会った男性の中で、一番素敵だわ」
 うっ、こんなこと言われたの初めてだ。ぼくは、とたんに顔が赤くなってきた。
「ふふ」
 大原さんは笑顔を浮かべた。うう。やっぱ年上だなあ。一枚上手。
「でもね間宮くん。だからこそ、あなたに迷惑をかけたくないのよ。あたし、バカだったわ。ほんの一瞬でも専務の言いなりになろうとした自分が許せない。こんなことで負けちゃダメなのよね。もっと強くならなきゃ。あなたみたいに」
「ぼくは強くなんかないですよ」
「強いわよ。いくら優しい幽霊だからって、取り憑かれてもひょうひょうとしてるんですもの」
「ううむ。そういうの強いって言うのかな。自覚がないなあ。鈍感なだけという気もするなあ」
「うふふ。そうかもね」
 大原さんは笑った。
「ありがとう間宮くん。さっきまでのブルーな気持ちが吹き飛んじゃった。それに、すっごく勇気が出てきた。明日、専務にキッチリ言うわ。仕事のミスはミスとして、ちゃんと処分は受ける。そのかわり、絶対にあなたの言いなりにはなりませんって」
 それでクビになったら? と、のどから出かかったけど、なんとか思いとどまった。
「うん。それがいいよ。そうするべきだ」
「ええ」
 大原さんは、凛とした表情でうなずいた。だが、すぐに表情を崩して続けた。
「でもォ。それでクビになったら、間宮くんのところに、永久就職させてもらっちゃおうかなァ。すっごく楽しそうだもの」
「えっ?」
「なんちゃって。冗談よ、冗談」
 大原さんはペロっと舌を出して、クスクス笑った。





 そのあとのぼくたちは、すっかりうち解けて、好きな映画の話とか、スポーツの話題とかで盛り上がった。彼女が本当に時代劇好きなのにはまいったが、それ以外は、けっこう趣味が合って、なんと、今度の休みに映画を一緒に見に行こうって約束までしてしまったのだ。うひゃあ。
 でもまあ、明日もあるんで、今日は酒を飲みに行くこともなく、彼女とは駅で別れた。それにしたって、気分は絶好調。
「うまいことやりなすったな。このスケベ」
 ご隠居が背中から声をかけてきた。
「ご隠居。テレビは見終わったんですか」
「ほーっ、ほっほっほっ」
 と、ご隠居は笑ったあと、けっ、とチンピラのように唾を吐いた。
「まったく。タイトルばかり大仰で、内容はからっきしですな。つまらん、つまらん。水戸黄門の方を見るんじゃった」
「そっちもつまらないと思いますよ」
「こりゃ、なんということを。ま、そんなこたあ、どうでもいいのです。ともかく、お嬢さんとの仲が進展してよかった。小僧さんのスケベの勝利ですな」
「あのね、ご隠居。スケベはないでしょスケベは」
「おや。違いましたかな?」
「いやまあ、あえて否定はしませんが、それは言わない約束ってヤツですよ」
「ま、男なんてそんなもんですな。どっちにしても、首尾よくいってよかった。姐さん女房は金のわらじを履いてでも探せっていいますからなァ」
「感謝してます」
「うむうむ。これで、わたしの出番も終わりですな」
「えっ? まさか金さんみたいに成仏しちゃうんですか?」
「金四郎が成仏? ふうむ。ま、それならそれでいいでしょう。わたしも似たようなものです」
「そうですかァ。なんか残念だなァ」
「顔にはうれしいって書いてありますぞ」
「いや、そういうわけじゃなくて…… まあ、八兵衛さんには、成仏して欲しいかも」
「ほーっ、ほっほっほっ。そりゃ同感じゃ。と、いうわけで、あとはうまくやりなさい」
「はい。ありがとうございました。あの世で金さんにもよろしく」
「うむ。しかし、ひとつだけ心残りがありますな」
「なんですか? ぼくにできることならなんでも言ってください。ご隠居の未練を解決できるなら、うれしいですよ」
「いやいや。わしの未練ではないのです。あの長谷川という専務ですよ」
「専務がどうしたんですか?」
「いえね。弥七の話によると、あの男が、大原のお嬢さんの書類をわざと捨てたらしいんですな」
「ええっー! じゃあ計画的だったんですか!」
「そういうことになりますな。さらに、あの男はかなりのワルらしいですぞ。いままでにも、何人か女子社員がヤツの毒牙に掛かっているらしいですな。はたして、大原のお嬢さんひとりで、あの男に対抗できるモノやら。心配ですなあ」
「待ってください、ご隠居。なんでそれをもっと早く話してくれないんですか。明日、大原さんは専務と会うんですよ!」
「そう言われても困りますな。わたしの仕事はここまでです」
「待って待って。ご隠居。この際、専務をキッチリやっつけてくださいよ。弥七さんが調べたことを公にすれば、専務は失脚するはずです」
「ほう。小僧さんは、幽霊に裁判の証人にでもなれと言うつもりですかな」
「いや…… それはマズイな。天下の印籠も意味ないしなあ。ううむ」
「小僧さん。だいたい弥七にしても、具体的な証拠があって言っているのではないのですよ。専務の独り言を聞いただけらしいのです。これでは、どうにもなりませんな」
「困ったな。どうしたらいいんだ」
「小僧さんが、なんとかするしかないでしょうなァ」
「そりゃ、なんとかしたいですよ。でも、証拠もなく専務を糾弾できない。ぼくがクビになるのがオチです」
「そうですなァ。この就職難に、せっかく入った大企業を辞めるのは辛いでしょうなァ」
「人ごとみたいに……」
「人ごとですからな」
「ぼくに取り憑いた幽霊でしょ!」
「だから、もうお役ご免です。では小僧さん。ごきげんよう」
「ちょっと、ご隠居! ご隠居ってば!」
 ご隠居の姿は跡形もなく消えた。
 ええーっ! そんなのないよォ! こんな中途半端で消えるなーっ!


10


 さっきまでの有頂天はどこへやら。
 ぼくは、トボトボとアパートへの道を歩いていた。困った。またまた問題発生。しかも、問題はでかくなるばかり。どうしよう。大原さんを見捨てるなんて絶対にできないし、でも専務を糾弾する証拠もない。いっそクビを覚悟で専務をぶん殴るか? この就職難に路頭に迷おう。大原さんに食べさせてもらうのはぼくだったりして。なんて、できるわけないよなァ。困った。困った。証拠がなくて、やっつけられない相手をやっつける方法はないものか。ないよなあ。そんなうまい方法。などと、途方に暮れながら、ぼくは自分のアパートに到着した。
 そのとき。
 ふいに、チャララ~ンという音楽が聞こえてきたのだ。なんだ、いや、「今度は」なんだと思った。(毎度毎度、いろんなことがあるからねえ)
 すると、あたりにスモークが立ち上る。むむむ。さすがのぼくも、幽霊の存在を感じる。というか、初めて幽霊が出現するに相応しい雰囲気を味わっているような気がする。
 ゴクリと、つばを飲み込んだ瞬間。
「どうも~ お晩ですゥ」
 ガク。ぼくは腰が砕けた。バカに明るい声の幽霊が出現したのだ。ポンと軽い感じで。
「いやだよォ。なにシケた顔してんのよォ。もっとシャキっとしなさいよォ」
 今度の幽霊もしっかり江戸時代人だった。でも、いままでと違うのは、その幽霊が女性だと言うことだ。確かにお銀さんも女性だったけど、あれはご隠居のお供で出てきただけで、あくまでもぼくに取り憑いていたのは、男性であるご隠居だったのだ。
「どうも。初めまして」
 ぼくは、その幽霊に挨拶した。
「女性の幽霊に憑かれるのは初めてですよ。お名前はなんて言うんですか?」
「あたし? あたしは、お加代って言うんだよ。でもあんた、なんか勘違いしてるよ。あんたに取り憑いたのは、あたしじゃないもんね」
「えっ? じゃあ、いったい誰が?」
「もうじき現れるよ。ほら、スモークが濃くなってきただろ。ダンナったら、カッコつけ屋だからさ。こういう演出がないと出てこやしないのさ」
「ダンナ?」
「そっ。ほら、もうすぐだよ」
 すると。またまた、チャララ~ン。と音楽が聞こえてきた。スモークの向こう側にピカッとライトが光る。その中をシルエットになりながら、ひとりの幽霊が、足もないのに肩で風を切りながら歩いて(どうやってだ!)来たのだ。
「ダンナ。遅いじゃないのさ」
 お加代さんが、その幽霊に口をとがらせた。
「こんな演出してる暇があったら、さっさと登場しなさいよね」
「うるせえな。それより、お加代。こりゃどういうこった。なんでオレはこんなヤツに取り憑かなきゃいけねえんだ」
「あたしに聞いても知らないよォ。因果ってヤツじゃないのォ」
「因果か。まったく、おちおち死んでもいられねえな」
「あ、あの」
 ぼくは、その幽霊に恐る恐る声をかけた。
「あなたはもしかして、中村主水さんですか」
「だったらどうした」
「うわあ、すごい! 中村主水さんだ!」
「バカ野郎。人の名前をでかい声出して叫ぶんじゃねえ。見つかっちまうじゃねえか」
「すいません。でもホントに藤田まことにソックリなんですね」
「誰でい、そりゃ」
「いえ、こっちの話です。いやあ、そうかァ。必殺仕事人かあ。なんてグッドタイミングな人に取り憑かれたんだろう。素晴らしい」
「なにゴチャゴチャ言ってやがる」
「いえ。ぜひぜひ仕事をお願いしたいんですよ」
「ほう。そいつを早く言いな。で、いくら持ってんだい」
「え?」
「おゼゼだよ。おゼゼ」
 と、お加代さん。
「このダンナは、金が絡まないと動かないよ。ホント、けちんぼなんだから」
「ああ、お金ですか」
 ぼくは財布を出した。
「うっ…… すいません。二千五百円しか入ってません」
「二千五百円だあ?」
 と、主水さん。
「バカ野郎。今時、そんなはした金で仕事ができるか」
 そのとき。
「オレはやるぜ」
 と、声がした。また新しい幽霊だ。
「秀! あんたも来たのかい」
 お加代さんが驚く。
「あんたはてっきり、あの世に行ってるんだとばっかり思ってたよ」
「お加代」
 と、秀さん。
「さんざん人を殺めてきたオレたちが、あの世に行けるわけねえだろ」
「ヤなこと言うねえ。あたしゃ殺しなんてやってないよ」
「バカ。おめえも同罪だ。成仏してないのが、その証拠だろうに」
「ほっといておくれ。あたしゃ、この世が楽しいから化けて出てるんだよ」
「よく言うぜ」
「おいおい、やめねえか」
 主水さんが、割って入った。
「こんなところで生前の罪をどうこう言っても始まらねえだろ。それより仕事の話だ」
「そうだった。おい、あんた間宮とか言ったな」
 秀さんに名前を呼ばれて、ぼくは返事をした。
「はい。間宮順治です」
「ああ。話は聞いたぜ。好きな女を悪人から守りたいんだって?」
「そうなんです。ぼくの力ではどうしようもないんです。でも、どうしても彼女を助けたいんです」
「そうか。気に入ったぜ。その仕事受けた」
「ありがとうございます!」
「ケッ」
 主水さんが苦い顔を浮かべる。
「秀。おめえは甘すぎる。オレは金のねえヤツを助けるつもりはねえよ」
「主水さん」
 と、ぼく。
「いまはお金がありませんが、明日銀行からちゃんと降ろしてきます。だから、主水さんも仕事を受けて下さい。お願いします」
「ふん。いくら持ってくるんだ?」
「あんまり貯金はないんですけど、五万円ぐらいなら」
「五万か…… ま、いいだろう」
「やった!」
「そういやあ、お加代」
 と、主水さん。
「三味線屋はどうしたんだ」
「ああ、あの三味線屋なら、おおかた遊郭にでも入り浸ってんだろうさ」
 すると。
「ここにいるぜ」
 またまた、新しい幽霊が登場した。
「あ、あら、いやだァ、勇さん、いたの?」
「いたの。じゃねえよ。遊郭に入り浸ってるだと? 人のことをなんだと思ってんだ」
「やだよォ。軽い冗談じゃないか。冗談」
「おめえが言うと冗談に聞こえねえんだよ」
「おい、三味線屋」
 と、主水さん。
「そんなことより、おめえはどうすんだ。やるのかやらねえのか」
「やるぜ。前金ももらっといた」
 ふと見ると、ぼくの財布の中の二千五百円が消えていた。
「あ、いつの間に!」
「坊や。スリと置き引きには気をつけた方がいいぜ」
 勇次さんがニヤリと笑う。
「おいおい」
 と、主水さん。
「ガキじゃあるめえし、そんなはした金、スってんじゃねえよ」
 さすが主水さん。大人だ。
 と、思った瞬間。
「オレにも一枚よこせ」
 主水さんは、勇次さんから千円をかっさらった。
「あたしもあたしも!」
 今度は、お加代さん。
「おめえは五百円玉だな」
 と、主水さん。
「なんだい、ケチ」
「ま、これは、前金としていただいとくぜ。仕事が終わったら、残りをちゃんと払えよ」
「明日の朝、一番で降ろしてきます」
「よし。じゃあ仕事も、明日の午前中だな」
「えっ、幽霊が午前中に行動するんですか?」
「幽霊だからだ。この姿なら、真っ昼間だろうと、どこへでも忍び込んで行ける」
「なるほど……」
「じゃ、明日。おめえさんの会社で会おう。あばよ」
「じゃあねえ、坊や」
「あばよ」
 主水さんたちは消えた。
 そのあとぼくは、重要なことに気が付いた。


11


 翌朝。
 ぼくは、いつもより一時間も早く家を出て、まだ誰も出勤していないだろうオフィスに向かった。予想通り、まだ誰も出勤してきていなかったが、残念なことに、主水さんたちもいない。
 マズイ。ものすごくマズイ。主水さんたちを止めなければ。
 え? きのうと言ってることが違うじゃないかって? そう。そうなんだよ。きのうは勢いで仕事を頼んじゃったけど、主水さんたちが消えてから気が付いた。
 殺しちゃマズイじゃないか!
 だろ? そりゃ専務はとんでもないヤツだよ。でも殺人を犯したわけでもないし、いや、たとえ人殺しだって、現代は裁判を受ける権利がある。とにかく殺すのはマズイ。ああ、まいった。きのう財布にお金が入ってなかったら、前金を渡すこともなかったのに。
 ぼくは、まだ誰もいないオフィスで、まんじりともせず、主水さんたちが現れるのを待った。頼む。仕事を始める前に、ぼくの前に現れてくれ。そう心で念じながら。
 ところが、現れたのは別の人物だった。
「間宮くん?」
 大原さんだった。
「えっ、大原さん。どうしたの?」
 ぼくは驚いた。こんな朝早く彼女が出勤しているのも意外だけど、だいたい、ぼくの部署が入っているフロアに顔を出すこと自体が希なのだ。
「へへ」
 大原さんは、ペロッと舌を出した。かわいい。美人だけど性格はコケティッシュだったんだな。
「なんか気合いが入っちゃって、早く来すぎちゃったの。そしたら、なんか間宮くんが働いてるオフィスを見てみたくなっちゃって」
 うわァ。なんかすっごく、うれしくない? それって。
 待て。喜んでる場合ではない。
「でも、驚いた。まさか本人がいるなんて。ずいぶん早いじゃない」
「うん。ちょっと大事な用事があってね」
「重要な会議でもあるの? おっと、ごめん。同じ社員でも、部内のシークレットを聞いちゃいけないわよね」
「確かにシークレットだな」
 ぼくはつぶやいた。殺しの依頼を取り消しにきただなんて、口が裂けても言えない。
「じゃ、忙しいのね」
 大原さんは、ちょっと残念そうに言った。
「え? いや。いまは大丈夫だよ」
「ホント?」
 大原さんは、ニコッと笑って、オフィスの中に入ってきた。
「ここが間宮くんの机ね」
「うん」
「きれいに片づけてるじゃない」
「課長がうるさいんだよね。机を汚くしてると」
「ああ刈谷さんでしょ」
「そう」
「秘書課の佐藤さんって主任もそうなのよ。いやよねえ、ああいうの。お互いいい大人なんだから、机の整理なんてゴチャゴチャ言わなくてもいいのに」
「へえ。大原さんも、そんなふうに思うんだ」
「あら。あたしのこと、どんなふうに思ってたの?」
「大原さん自身が、気むずかしいのかと思ってた」
「ひどーい!」
「うそうそ。冗談だって」
 ぼくは笑った。
 おいおい。なに和んでんだ。そうじゃないだろ、そうじゃ。
「ねえ間宮くん」
 大原さんも真面目な顔になった。
 むっ。なにか気づかれたか。大原さんって勘が鋭いからなあ。
「な、なに?」
「今度の土曜日。映画なに見に行く?」
 ガク。
「なによう。いまガクッとかなったでしょ」
「なってない、なってない。ええと、スターウォーズ・エピソード1は?」
「うう~ん。まあ、いいよ」
「よくなさそうだね」
「ごめん。もう見ちゃった」
「そっか。じゃあ大原さんはなに見たいの?」
「あたし、恋に落ちたシェイクスピアが見たい!」
「わかりました」
「あら。やけにあっさり降参するじゃない」
「そんなふうに言われたら、ほかの映画なんて口に出せないよ。大原さんにはかなわないなあ」
 ぼくは苦笑いを浮かべた。
「ふふ。その代わり、夕食は間宮くんの食べたいものでいいわ」
「そういわれても特にない…… いや待てよ。銀座四丁目にナイルレストランっていうインド料理屋さんがあるんだけど、大原さん知ってる?」
「うん。名前だけは。店長がナイルさんって言うんでしょ」
「あ、そうなんだ。じつは、ぼくも行ったことないんだ。美味しいって噂だから、どうかなと思っただけ」
「いいよ。そこに行きましょ。でも本格的なインド料理だったら、つぎの日まで香辛料の臭いが身体についちゃって大変ね」
「あんまり好きじゃないの?」
「違う違う。そういう意味じゃないの。日曜日も、二人でカレーの臭いプンプンさせてるのを想像しちゃったのよ」
「えっと、それって…… 日曜日も二人でいるってこと?」
「あっ……」
 大原さんは、とたん耳が赤くなってきた。
「バカ。変なこと言わないでよ」
「ご、ごめん」
「バカ。謝らないでよ」
 おいおい。どーしろっていうんだ。
 すると、大原さんは、スッとぼくのそばに寄ってきた。そして、ぼくの胸におでこをコツンと当てて、そのまま顔を埋める。
「お、大原さん」
 ぼくは、ドギマギした。
「ごめん」
 と、大原さん。
「ちょっとだけ、こうさせて」
「う、うん」
「ホントはあたし、すごく怖いの」
「専務のこと?」
「うん。会社に早く来ちゃったのも緊張してたからなの」
 そうか。そうだよな普通。妙に明るいのはそのせいだったのか。
「わかるよ」
 ぼくは、そっと彼女の背中に手を回して、軽く抱きしめた。
「間宮くんのオフィスに来たら少し勇気が出るかなって思ったの。そしたら本人がいるんだもの。やっぱりご隠居様に言われて来たの?」
「違うよ。ご隠居はもう成敗…… 違う。成仏した」
「え?」
 大原さんは顔を上げた。
「どういうこと?」
「ぼくにもよくわからない。たぶん、大原さんとぼくが親しくなったのを見て安心したんじゃないかな」
「そっか。よかったね成仏できて」
 大原さんは、ほほ笑む。
「でも、ちょっと残念かな。ご隠居様が成仏したってことは、もう間宮くんは、あたしを助けに来てくれないってことだもんね」
「大原さん…… ぼくも一緒に行くよ」
「うそうそ、冗談よ。ごめん。弱気になっちゃった。もう大丈夫だから」
 ぼくは、そう言う大原さんの両肩に手を置いた。この体勢で、ぼくがなにをやろうとしているのか、彼女にもわかったはずだ。
 大原さんは、とまどいの表情を見せたが、それはほんの一瞬のことだった。すぐ、瞳を閉じてアゴを軽く前に突き出す。
 なんだか、弱気になっている彼女につけ込んでいるような気がしないでもないけど、支えになってあげたいと思う気持ちは本物だ。断じて、軽い気持ちで彼女と付き合おうと思ってるんじゃない。ぼくは、吸い込まれるように彼女と唇を合わせた。
 そのとき。
「おはよーっス」
 と、同僚が出勤してきた。
 ぼくと大原さんは、あわてて身体を離す。
「えっ……」
 と、同僚は、さすがに驚いた様子で、その場で固まった。
「じゃ、じゃあね、間宮くん。またあとで」
 大原さんは、照れくさそうに笑顔を浮かべると、ぼくの同僚にもおはようと声をかけながら、オフィスを出ていった。
 同僚とぼくは目が合う。
「なんだよ、おまえ! いつの間に大原さんとそういう関係になってたんだ!」
「たったいまさ」
 ぼくは苦笑いで答えた。
 まいったね。これでぼくらの関係が、会社中に知れ渡るのも時間に問題だ。ま、いいか。考えようによっては会社公認の恋人ってことだもんね。やったね。


12


 違う。そうじゃない。ぼくは、大原さんとラブシーンを演じたくて朝早く会社に来た訳じゃないんだ。ああもう、なんで、こうなっちゃうのかね。うれしいけど喜んでいる場合じゃない。このままじゃぼくは、殺人犯だ。実行犯ではないけど。
 問題は大原さんだ。もし専務が死んだら、大原さんは、真っ先にぼくを疑うだろう。正確には、ぼくに憑いている幽霊をだ。彼女は頭がいい。絶対にごまかしは利かない。中村主水に取り憑かれて、彼に専務の殺害を依頼したことを話さざるをえなくなる。いくらセクハラをされた当事者とは言え、そんなことで人を殺したとなれば、彼女自身悩むだろうし、ぼくを許しはしないだろう。なんとしても主水さんを止めなければ。そのためならクビになったっていい。殺人者のレッテルを貼られるより、無職になる方が、ぼくと彼女の将来はずっと明るいはずだ。
 十時になった。専務が出勤してくるだろう時間だ。ぼくは、午前中までに準備しておくように言われた会議の書類を放り出して(もともと書類は白紙のままだ。仕事なんかする精神的余裕はない)、オフィスを飛び出した。
 重役室のあるフロアに上がる。例によって例の警備員に呼び止められたが、彼はぼくの顔を見るやいなや、顔から血の気が失せて逃げてしまった。まさかと思って背中を振り返ったが、誰もいなかった。どうやらあの警備員は、「ぼく=化け物」という誤解をしているようだ。迷惑な話だが、いまは好都合だ。
 そのまま足早に専務の部屋に向かう。ふうと息を吐いてからドアをノックした。返事がない。まだ出勤していないのだろうか。そう思いながら、ドアを勝手に開けようとノブに手をかけたとき。
「きゃあ!」
 部屋の中から大原さんの悲鳴が聞こえた。
「大原さん!」
 ぼくは、ドアを開けようと…… むむ! 鍵が掛かっている!
「大原さん! 大原さん!」
 ぼくは、ドンドンとドアを叩いた。
「間宮くん! いやあ!」
 なんてことだ。いや、なんてヤツだ。まさか力ずくで大原さんをモノにしようとするなんて。そこまで頭の壊れた野郎だとは予想できなかった。
「専務! いや長谷川! 大原さんに指一本触れてみろ。ぼくが許さない。ここを開けろ。さもないと警察を呼ぶぞ!」
 カチャリ。とカギの開く音がした。ぼくは勢い込んでドアを開けた。そこには青ざめた顔の大原さんが立っていた。
「大丈夫か!」
 ぼくは叫んだ。だが、服が乱れている様子もない
「よかった。間に合ったようだね」
 ぼくはホッとした。
 ところが。
「ち、違うの……」
 大原さんは震えた声で言った。
「専務が。専務が……」
 ギクッ。
 ぼくは、あわてて部屋の中に入った。そこには、専務が倒れていた。
「い、いまさっき」
 大原さんが、ぼくの後ろで震えながら言う。
「あたし、あなたの言いなりにはなりません。って言ったら、急に専務が苦しみだして倒れてしまったの」
 なんということだ。ぼくは間に合わなかったのだ。間接的とは言え、ついに人を殺めてしまった。幽霊騒動の結末がこれだとは……
 それにしても最悪のタイミングだ。これでは大原さんに殺人の疑いが掛かってしまうではないか。なにが必殺仕事人だ。こんなの仕事でもなんでもない。無計画、無責任。バカ、マヌケ、アホ。どんなに罵倒しても足りない。あえて一言ですますなら『論外』だ!
「大原さん」
 ぼくは、彼女を振り返った。
「きみはここにいなかった」
「えっ?」
「さあ、秘書室に戻って。いま見たことはすべて忘れるんだ」
「な、なにを言ってるの? それより救急車を呼ばないと」
「無駄だよ。専務は死んでいる。すべてぼくの責任だ。ぼくが悪い」
「まさか、間宮くんの幽霊が?」
「うん」
 ぼくは、肩を落としながらうなずいた。
「浅はかだった。こんなことになるなんて」
 そのとき。
「ふん。大方そんなこったろうと思ったぜ」
 中村主水だった。
「主水さん!」
 ぼくは叫んだ。
「あんたは、あんたは、なんてことをしてくれたんだ!」
「オレは、おめえさんの依頼を実行しただけだぜ」
「それは…… クソッ。だからって、こんな状況でやることないじゃないか!」
 ところが、中村主水は、しれっとした顔で言った。
「だから、そんなこったろうと思ったんだ。世話の焼ける小僧だぜ」
「どういう意味だ!」
 ぼくが中村主水を睨み付けたとき。
「ううう」
 と、専務が頭をさすりながら起きあがった。
「専務!」
 ぼくは驚いた。死んでない!
「う~ん。なんだ。なにがどうなったんだ」
 専務は、訳がわからないという様子で立ち上がった。
「だからよ」
 と、中村主水。
「とどめは刺してねえ。どのみち、二千五百円じゃこの程度だな」
 ああ…… ぼくは脱力とともに、心の底からホッとした。
「なになに? 誰と話しているの?」
 大原さんが、ぼくの背広を引っ張った。彼女には中村主水が見えていないようだ。
 とたん。大原さんが、あっ。と声を上げる。
「中村主水だ…… 藤田まことソックリ」
 主水さんは、彼女にも姿が見えるようにしたらしい。おかげで説明が楽だ。
「そういうことなんだよ」
 と、ぼく。
「今度は必殺仕事人に取り憑かれちゃったってわけ。とにかく専務が無事でよかった。まったく、一時はどうなることかと思った」
「それで専務が死んだと思ったのね」
「うん。なにせ必殺仕事人だからね」
「おい、きみたち」
 専務がイライラしたように言った。
「どういうことだ。いったい、わたしになにをした」
「なにもしてませんよ。ぼくはね」
 ぼくは、肩をすくめた。
「なにもしていないだと」
 専務がぼくを睨む。
「どういう仕掛けか知らんが、わたしを殴り倒したのはきみだな。平社員のくせに会社の幹部を殴るとはどういうつもりだ。待て。それ以前にこれは犯罪だ。訴えてやる。ここを出て行け。言っておくが、この部屋を出て行けというだけの意味じゃないぞ。会社を出て行けという意味だ。つまりクビだよ。クビ」
「待ってください!」
 大原さんが叫んだ。
「間宮くんは、なにもしていません!」
「ほう。大原くん。きみもクビになりたいかね」
 専務がニヤリと笑う。
「仕事でミスを犯すだけならともかく、こんな男まで抱き込んでわたしを脅そうとするとはな。とんだあばずれだ」
「あばずれですって!」
「まあ、大原くんだけなら許してやってもいい。もちろん、どうすればいいか、きみもわかっているだろうね」
「なんて人なの! こんな会社、こっちから辞めてやるわ! 行きましょ間宮くん」
 大原さんがぼくの腕を引っ張った。
「待ちたまえ、大原くん。きみも共犯として訴えられたいのかね」
「どうぞ、ご自由に!」
「ふふん」
 専務は下品な笑い顔を浮かべる。
「そんな冴えない男はともかく、きみほどの才女が刑務所に入るとは、マスコミも喜ぶだろうね。たぶん、一生、まともな生活は送れなくなるだろうな。あとで泣きついてくる顔が見物だよ」
 大原さんは、グッと歯をかみしめて専務を睨んだ。
「絶対、あなたなんかに泣きついたりしない。そんなことで人を自由にできると思ったら大間違いよ。せいぜい幽霊に取り殺されないように注意することね」
「幽霊だと?」
 専務は大げさに両手を広げた。
「なにを言い出すかと思えば。慶応を卒業した才女がオカルト好きとはね」
「行きましょ、間宮くん」
 大原さんは、毅然とした態度で部屋を出ていこうとした。
「待った、大原さん」
 ぼくは、彼女を呼び止めた。
「訴えられるべきは専務…… いや長谷川の方だよ」
「えっ?」
 と、大原さんは足を止めた。
「なんだと?」
 長谷川も右の眉をピクリと上げる。
「ぼくは知ってるぞ。大原さんが管理していた書類を捨てたのはあんただ。最初から計画的に大原さんを狙っていたんだ」
「本当なの間宮くん?」
「ああ。ご隠居が弥七さんに調べさせたんだ。きのう、成仏する前に聞いた」
「なんてことを……」
 大原さんは、怒りを通り越して呆れたという顔で長谷川を見た。
「ふん」
 と、長谷川。
「そんな証拠がどこにあると言うんだね。どうやら、傷害罪だけでなく、名誉棄損も付け加えられたいらしいな」
「それだけじゃない。あんたは、同じような手口で、いままでに何人か女性社員にセクハラを繰り返していた」
「なにをバカな。頭までイカれてるらしい」
 長谷川は、やれやれと首を振った。
「調べればわかることだ。あんたにセクハラされた女の子だって、自分一人が被害者ではないことがわかれば、重い口を開くだろう」
「おめでたいヤツだ」
 長谷川は不敵な笑顔を浮かべた。
「もし仮に、きみの言うとおりだとしよう。それでもわたしは、彼女たちがなにも語らない方に賭けるね。それぞれ事情があってやったことだからな」
「その事情とやらは、おまえが作ったんだろ」
「あたしの書類を捨てたみたいにね」
 大原さんも、ぼくに加勢した。
「たとえ、ほかの子がしゃべらなくても、あたしが証言するわ。事実、あなたは、あたしの身体を求めてきたんですもの。これだけでも十分な証拠よ」
「身体を求める? きみはなにか勘違いしているようだね。あれはきみが自分から言ってきたことだ。仕事のミスをもみ消してもらう見返りにね」
「違うわ!」
「大原くん。よく考えてみたまえ。男と共謀してわたしを脅迫するような女と、社会的信用もあるわたしと、どちらの言葉が、より信憑性を持つか」
「社会的信用ですって? よく言うわ。まったくお笑いね」
「笑うのはわたしだよ。せいぜい、がんばりたまえ」
 長谷川はそう言って、デスクに向かった。
「さあ、仕事がある。もう出ていってくれ。ちなみに二人とも辞表を出す必要はないよ。解雇の手続きはわたしがやっておこう。ありがたく思いたまえ」
「くっ……」
 大原さんは唇をかんだ。
「行きましょ、間宮くん。こんな会社辞められてせいせいしたわ」
「待った」
 ぼくは、大原さんの腕をつかんだ。
「このままじゃ腹の虫が治まらない。それに、下手をすると長谷川の言うとおり、誰も証言してくれないかもしれない」
「それは、そうかもしれないけど……」
「ぼくに考えがある」
「なにをするつもり?」
「ここに必殺仕事人がいるのをお忘れなく」
「待ってよ。やっぱり殺すのはよくないわ」
「わかってる」
 ぼくは、大原さんにウィンクすると、ことの成り行きを黙ってみていた中村主水に声をかけた。
「主水さん。さっきとどめは刺さなかったって言いましたよね」
「冗談じゃねえ」
 と、主水さん。
「これ以上、面倒はごめんだぜ」
「まだ、なんにも言ってませんよ」
「ふん。どうせ、死なねえ程度に懲らしめろって言いたいんだろ」
「その通りです」
「だから、冗談じゃねえって言ってるんだ。おめえさん、なんか勘違いしてるぜ。オレは金にならねえ仕事はしねえよ」
「お金なら払います」
「いくら?」
「五万でお願いします」
「いま払え」
「銀行に行く暇がなかったんですよ。必ず払いますから」
「だったら倍の十万だ。一銭もまからねえよ」
「うわァ。自分に足がないからって、人の足下見なくたっていいじゃないですか」
「うるせえ」
「あたしも出すわ」
 と、大原さん。
「主水さん。間宮くんと折半でお金を払います。だからお願いします」
 すると。
「オレはやるぜ」
 と、秀さんが現れた。
「おめえは、そういうと思ったぜ。まったく、いつも情に流されやがって」
 と、主水さん。
「おい、どうする三味線屋。おめえも聞いてんだろ」
 三味線屋の勇次さんが現れる。
「いいじゃねえかダンナ。五万の仕事が十万だ。オレも乗るぜ」
「あたしもォ」
 と、お加代さん。
「聞いてりゃ、ひどい男じゃないかい。女の敵だね。こんなヤツ殺したってかまやしないよ」
「お加代さん」
 と、ぼく。
「殺すのは勘弁してくださいよ。ぼくと大原さんが犯人になっちゃう」
「そっか。そりゃマズイわよね」
「おい、きみたち」
 長谷川が怒鳴った。
「なにをゴチャゴチャ言ってるんだ。いい加減にしないと警備員を呼ぶぞ」
 長谷川には、主水さんたちが見えていないのだ。
「では、始めるか」
 そう言って、最初に動いたのは秀さんだった。
 懐からカンザシを取り出すと、長谷川の首の後ろにぷすっと刺す。
「痛い!」
 長谷川はデスクから飛び上がった。
「な、なんだ、なんだ」
 長谷川は、刺された首をさすりながら後ろを振り返る。もちろんヤツには秀さんは見えていない。
「おい、きさま! いまなにをやった」
 長谷川は、ぼくに怒鳴った。
「なにも」
 ぼくは両手を広げながら肩をすぼめた。アメリカ人がよくやるトボケ方だ。
「嘘をつけ!」
 長谷川は、デスクを離れると、すごい剣幕でぼくの胸ぐらをつかんだ。
「どんな手品を使ったか知らんが、こんなことでわたしが」
 と、言ったところで長谷川は、ぼくの胸ぐらをつかんでいる手を離した。というか、離さざるをえなくなった。なぜなら、秀さんが、またカンザシで刺したからだ。
「痛い! 痛い!」
 長谷川は飛び上がる。
「アハハハ!」
 大原さんは笑い出した。彼女には、ぼくと同じようにすべて見えているようだ。
「これおもしろい! 傑作だわ!」
「きさまらァ!」
 長谷川の目がつり上がる。
 このときぼくは、いいことを思いついた。
「おい長谷川。これが手品だと思うか?」
「なんだと?」
「この世には科学で説明できないことが、まだまだ沢山ある。これもその一つさ」
「間宮くん」
 大原さんが、笑いをこらえながら言う。
「どうせ言っても信じないよ。話すだけ無駄だって」
「どうかな。ぼくの超能力を肌で感じれば信じるようになるかもよ」
「超能力だと!」
「超能力ですって!」
 長谷川と大原さんが同時に叫んだ。
「あっ……」
 大原さんは、叫んだあと、すぐぼくの考えていることがわかったらしい。
「そうそう! そうなのよ。間宮くんって超能力者なのよね」
「バカな。そんな話を信じると思ってるのか」
「たぶん信じるよ」
 ぼくは、秀さんにウィンクした。すると秀さんは、ニヤリと笑ってうなずいた。彼もぼくの作戦に乗ってくれるようだ。
「ほら。ぼくがこうすると」
 ぼくは、人差し指で長谷川を指さす。そして、その指を長谷川に刺すマネをした。
 秀さんが、それに合わせてカンザシで刺す。
「痛い!」
「ね。わかったでしょ」
 ぼくはニッコリ笑顔を浮かべる。
「きゃーっ、かっこいいーっ!」
 大原さんが女子高生みたいな黄色い声を出した。
「間宮くん、すてき! 超人ロックみたい。ちなみに、アメリカのテレビ番組の方じゃなくて、日本のアニメの方ね」
「バ、バカな。そ、そんなことが……」
 長谷川は顔が青ざめてきた。
 すると、今度は三味線屋の勇次さんが、シュルシュルと、どこかから三味線の糸を取り出している姿が見えた。
「今度は、首を締めてやろう」
 と、ぼくは言って、手で首を絞めるマネをする。
 勇次さんが三味線の糸で長谷川の首を絞めた。
「うっ」
 長谷川は、急に首を圧迫されてうめき声を上げた。しきりに首をかきむしる。だがそこには、なにも存在しないのだ。長谷川にとっては。
「さあ、このまま殺してやろうか」
 ぼくは、わざと残忍に見えるように、上目遣いにニヤリと笑った。
「ううううっ。た、助けてくれ……」
 長谷川は、首をかきむしりながら、懇願してきた。もう一息だ。
 ぼくは、刀を抜く仕草をしながら、主水さんを見た。主水さんは、やってらんねえよ。という表情を浮かべた。
 大原さんが、長谷川に見つからないように、主水さんに手を合わせて拝んだ。声を出さず、お願いします、お願いします。協力してください。と言ってる。
「ちっ。仕方ねえ。乗りかかった船だ」
 主水さんは、刀を抜いた。さすがに、ぼくの物マネなんかより、はるかにサマになってる。当たり前か本物なんだから。
「これで最後だ、長谷川」
 ぼくはそういいながら、刀を振り下ろした。
 同時に主水さんが、ズバッと刀を振り下ろす。こっちは本当にかっこいい。
 すると。長谷川の額が、皮一枚だけ切れた。ツツーッと赤い糸のように血が滴る。
「おおーっ」
 パチパチパチ。ぼくと大原さんは、中村主水のみごとな剣さばきに、おもわず声を上げて拍手してしまった。
 ところが主水さんは、喜ぶどころか苦々しい顔で刀を納めた。
「ふん。こんな曲芸させやがって、ガキじゃあるめえし」
 クールだなあ、この人。なんか憧れちゃうなあ。
 と、そんなことは、つゆ知らない長谷川。
「ひえええええ!」
 ついに、膝をついて土下座した。
「助けてください! お願いします! どうか、殺さないでください!」
 ぼくと大原さんは、顔を見合わせてクスッと笑った。
「どうする間宮くん。あたしは、このまま殺しちゃった方がいいと思うんだけど」
「そんな! 大原くん。いや、大原さん、わたしが悪かった。いえ、悪かったです。どうか助けてください」
「そうだなあ」
 と、ぼく。
「でも、ぼくたちを訴えるって話だしなあ」
「あれは取り消します! 訴えるだなんて、めっそうもない!」
「それだけじゃないわ。あたしたちクビなのよね」
「まさか! クビだなんて、冗談ですよ、冗談!」
「う~ん。大原さんを陥れようとしたのを認めないしなあ」
「認めます、認めます。書類は捨ててないんです。ここにあります」
 長谷川は、自分のデスクに飛んでいって、机の引き出しから、大原さんが管理していた書類を取り出した。
「ほかの女の子たちにも、悪さをしてたのよね」
「もうしません! 金輪際、絶対にしません、誓います!」
「それだけじゃダメだね。全員に謝って、ちゃんと慰謝料を払わなきゃ」
「払います。いくらでも払います!」
 まあ、こんなところかな。ぼくは、どうする? と大原さんに問いかけた。だが、彼女はまだ腹の虫が治まらないらしい。和解金をつり上げた。
「今年のボーナスって去年と据え置きって話よね。でもあたし、新しいコートが欲しいのよね。旅行にも行きたいし」
「出します。特別ボーナス!」
「あなたがイタズラした女の子全員によ。慰謝料とは別に」
「わかりました!」
 ぼくも便乗することにした。
「そういえば、ぼくの給料も安いなあ」
「アップします! 三割アップ! いや五割アップ!」
「あっ、それいいわね。あたしもアップして」
「もちろんです!」
 ぼくと大原さんは、顔を見合わせて、うん。とうなずいた。
「よし、長谷川。今回だけは特別に許してやる。だけど、いま言った約束をひとつでも破ったらどうなるか、わかってるだろうな」
「はい! わかってます!」
 こうして事態は、九回の裏に逆転満塁ホームランで終わったのだった。


13


 そろそろお昼休みになる時間だったので、ぼくと大原さんは、オフィスには戻らず、銀行に行ってお金を降ろした。その足で会社に戻ると、一階のロビーで主水さんたちが待っていた。
「お待たせしました。お約束のお金です」
「やれやれ」
 主水さんは、本当にやれやれといった感じで、十万円を受け取る。
「これでやっと仕事が終わったぜ。オレが五万で、残りはおまえら適当に分けな」
「ダンナ。そりゃないよォ」
 お加代さんが抗議する。
「ちゃんと均等に分配するのが、あたしらの掟だったはずだよ」
「そんなこたあ、覚えてねえな。だいたい、この小僧に取り憑いてんのはオレなんだぜ。おまえらオマケなんだから、ガタガタ言うな」
「金のことになると汚ねえな」
 と、秀さん。
「ふん。おまえはいらないんだろ。とっとと消え失せろ」
「じゃあ、オレが四万もらおう」
 と、勇次さん。
「残りの六万をダンナとお加代が分けな」
「どうしてそうなる!」
 などと、痴話喧嘩を始めたが、十分ぐらいして、なんとか分配が決まった。
「まったく、とんでもねえ仕事だったぜ」
 主水さんは、お金を懐に収めながら言った。
「おい小僧。これでオレの出番は終わりだ。二度と世話かけるんじゃねえぞ」
「はい。ありがとうございました」
「あの……」
 と、大原さん。
「もしかして、主水さんも成仏しちゃうんですか?」
「まあな」
 と、主水さん。
「この世に化けて出るのは、もう飽きたぜ。そろそろ、あの世でゆっくり余生を過ごすのも悪くねえ」
「プッ」
 お加代さんが吹き出した。
「ダンナにそんなことできるのかね。あの口うるさいカミさんと、くそババアに怒鳴られるのがオチさ」
「うるせえな。行くぞおめえら」
「はいよ。じゃあね、お二人さん。仲良く暮らすんだよ」
 お加代さんが、ぼくらにウィンクした。
「じゃあな。幸せになりな」
 秀さんも手を振った。
「あばよ。達者でな」
 勇次さんはニヤリと笑った。
 こうして主水さんたちは消えた。
 が。
 そのあと、たったいま渡した十万円と、きのう渡した二千円がヒラヒラと落ちてきた。最後に、五百円玉がチャリンと転がる。
「あら」
 と、大原さん。
「あの世にお金は持っていけないみたいね」
「ラッキー」
 ぼくは、お金を拾った。
「よかったァ。土曜日のデート、お金がなくてどうしようかと思ってたんだ」
「もう、間宮くんったら」
 大原さんも笑いながらお金を拾う。
「給料もアップしたことだし、ちゃんと貯金しておいてよね」
「貯金なんかしたって、あの世にお金は……」
 ぼくは言いかけて、ふと大原さんの文法が気になった。「貯金しなさいよね」ならわかるけど、「貯金しておいてよね」って、変じゃないか?
「なに?」
 と、大原さん。
「あたし、なんか変なこと言った?」
「いや。なんでぼくの貯金を大原さんが気にするのかと思ってさ」
「これから、いろいろお金が掛かるでしょ」
「いろいろって?」
「いろいろよ」
「給料の三ヶ月分とか?」
「もう、バカ」
 とか言いつつ、大原さんは、ぼくに抱きついてきた。
「大好きよ間宮くん。あなたとなら、一生退屈しないですみそう」
「今度は織田信長に取り憑かれたらどうする?」
「かっこいいじゃない」
「人生五十年で終わっちゃうよ」
「じゃあ、徳川家康に取り憑かれて」
「う~ん。もう江戸時代人はイヤだなァ。でも、大原さんがクレオパトラに取り憑かれたら考えてもいいかな」
「まっ。ひどい。あたし鼻低くないわよ。もう怒った」
「冗談だよ。大原さんの鼻はとってもカワイイ」
「目は?」
「すてきだよ」
「唇は?」
「魅力的」
「ふふ。じゃあキスしてくれたら許してあげる」
 そのとき。昼休みで社員がロビーに大挙して降りてきた。
「大原さん、マズイよ」
「いいじゃない。どうせ噂になっちゃうんだから、見せつけてやりましょ」
「意外に大胆だな」
「超能力者にはかなわないわよ」
「言ったな。自分もノってたくせに」
 ぼくは、苦笑いを浮かべながら、彼女と熱いキスをした。片目を開けると、驚く社員たちと、やれやれと首を振る警備員の姿が見えた。


14


 土曜日。
 ぼくは、きれいに髭を剃った顔を鏡に映しながら、よし。と気合いを入れた。今日は千夏と初デートだ。おっと、そういえば、彼女の名前を言うのは、これが初めてだな。あれから、彼女に「大原さん」と呼ぶのを禁止されたのだ。これからは千夏と呼ぶ。ぼくは間宮くんではなく、順治だ。
 などと、地の文でくどくど説明している場合ではない。今日は最後まで決めるぞ。たぶん、千夏もそれを期待してるはずだ。映画を見て、食事に行って、そのあとは…… うひひ。いやが上にも気合いが入るってもんだぜ。
「この、スケコマシ」
 と、背中から声がした。
「え?」
 ぼくは、驚いて振り返った。
「き、金さん!」
 そう。そこには金さんがいたのだ。
「ど、どうしてここに! 成仏したんじゃないの?」
「バカ野郎。誰が成仏なんかするもんか。こんな面白いこと見逃すわけねえだろ」
「面白いこと?」
「ほーっ、ほっほっほっ。その通りですな」
 今度はご隠居だ。
「あの世なんて、ちーっとも面白くないですからな。まだまだ成仏なんぞ、する気にはなりませんわい」
 さらに、主水さんまで現れた。
「ちくしょう。あの世に金は持っていけねえのかよ。おちおち成仏もできやしねえ」
「あわわわ」
 ぼくは、開いた口が塞がらなかった。
「おい、順坊。なにマヌケな面してやがんだ」
「だって、これってどういうこと?」
「どうもこうも、これが因果ってヤツよ」
「そんな一言で片づけられても困んですけど」
「しょうがねえだろ、因果なんだからよう。そんなことより、デートに遅れるぞ」
「え?」
 ぼくは腕時計を見た。
「うわ、ヤバイ。もうこんな時間だ。じゃあ、行ってくるよ」
「なに寝ぼけてんだ。オレも行くに決まってるだろ」
「わたしも行きますぞ」
「しょうがねえ。オレも付き合うか」
 と、金さん、ご隠居、主水さんが、それぞれ言う。
「ま、待ってよ! 邪魔しないでくれよ!」
「邪魔?」
 と、金さん。
「邪魔だと? おめえさん、オレらを邪魔者扱いする気か?」
「いや、そういうわけじゃなくて、えっと、一応初デートなんで……」
「バカ野郎。だから憑いていってやる、じゃなくて、着いていってやるって言ってんじゃねえか。床の中で、どうやって女を喜ばせたらいいか、オレがみっちり教えてやるからよ。ありがたく思えよ」
「ほーっ、ほっほっほっ。楽しみですな。春画もいいですが、やっぱり本物にはかないませんからなあ」
「ま、暇つぶしにはなりそうだぜ」
 ぼくは、さーっと血の気が引いていく音が聞こえた。そしてこの、ありがたくも迷惑千万な幽霊たちに叫んだのだった。
「とっとと、成仏してくれーっ!」


 終わり。