花嫁の理由

1


 ぼくは、その年の春に一浪して入った大学を卒業すると、世間が夏休みで浮かれている頃には、しがないフリーターになっていた。いわゆる就職難民ってやつ。
 フリーターに成り下がったぼくには、実はもう一つの選択肢があった。それは家を継ぐことだ。実際、親父はしつこく家を継げと言っているが、正直それだけはごめんだ。むしろ、親父の跡を継がずに済むなら、一生フリーターの身の上でもいいとさえ思っているくらいなのだ。
 そんな、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
 ぼくはバイトが終わったあと、家の近くの夜遅くまでやっている本屋で、好きなハードボイルド小説を探していた。好きな作家はあらかた読んでしまっているが、まだフィリップ・マーローのシリーズで、読んでいないのが三冊ほどあるはずだった。
 そのとき。
「あの…… すみません」
 ぼくは、ヴァイオリンの響きのように美しい声に呼び止められた。そして、ぼくが振り返ったそこには、声と同じように、いやそれ以上に美しい女性がたたずんでいた。
 ぼくの目は彼女に釘付けになった。もし、現代の世に、深窓の令嬢というのが存在するとしたら、今、目の前にいる女性がまさにそれだった。清楚な夏服に包まれた肌は透き通るように白く、腰まで伸びた長い黒髪は漆のように艶やかだった。まるで、『美』という言葉が彼女のためにあるようだ。
「申し訳ありません」
 彼女は言った。
「棚の上にある本を取っていただけないでしょうか? 高くて手が届かないのです」
 即座に、『お安いご用です』と答えるべきだった。だが、ぼくは答えなかった。あまりにも美しいその女性に魅せられて、言葉を失っていたのだ。
「ごめんなさい、勝手なお願いをしてしまって」
 ぼくが答えなかったものだから、彼女は慌てて頭を下げた。
「と、とんでもない!」
 今度、慌てるのはぼくの方だった。
「ちょっと、考え事をしてまして…… ええと、どの本です?」
「一番上の右端です」
 ぼくは彼女の言った位置に手を差し伸べた。手に取ったハードカバーは、数カ月前に出版された、ぼくの好きなハードボイルド小説だった。
 実は、ぼく自身この作家の本は特に好きで、この本も出版されてすぐに読んでいた。内容はまさに本格ハードボイルド。ぼくの勝手な偏見で言うと、若い女性が読むにしては、いささか似つかわしくない気がする。
「原寮ですね」
 ぼくは作家の名を告げながら彼女にハードカバーを渡した。
「はい。好きなんです。この作家」
 彼女は上品な笑顔でぼくに答えた。
「珍しいですね、女性がハードボイルドなんて」
 ぼくは彼女の笑顔にドギマギしながら言った。
「そうかもしれませんね」
 彼女は答えながら、ふとぼくを見つめた。そのとき彼女の瞳が微かに光ったような気がした。もちろん、気のせいだろう。
「ハードボイルド、よくお読みになるんですか?」
 ぼくは聞いた。少しでも彼女と会話を続けたいという気持ちが強かったのだ。
「はい。わたしの知っているある人が好きなものですから。わたしも影響されて読み始めたのです」
 彼女はそう言って少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
 ぼくは彼女の言う『わたしの知っているある人』というのが、彼女にとって大切な男性のことだと思った。つまり恋人。それ以外に考えられない。
「そうですか」
 ぼくは、こんな美しい女性に男がいないわけないと、勝手に落胆すると、そんな気持ちを悟られる前に彼女の前から消えようと思った。
「ええと…… じゃあ、ぼくはこれで」
 ところが、彼女は慌ててぼくを引き留めた。
「あの。わたしったら、まだお礼を申し上げていませんでした」
「お礼?」
「はい。本を取っていただきましたから」
「お礼なんて大げさですよ」
「いいえ。とても助かりました。ありがとうございます」
 彼女は丁寧に頭を下げた。逆に恐縮してしまうとは、まさにこういう状況だろう。
「いえいえ、こんなことでしたらいつでも……」
 ぼくは、二度と会うこともない人についマヌケな受け答えをしてしまった。だが、つぎに彼女の口から発せられた言葉は、ぼくに、もっとマヌケな受け答えをさせるほど意外なものだった。
「あの、もしよろしかったら、わたしの家にいらっしゃいませんか?」
「はあ?」
 ぼくの声は、本当にマヌケだった。たぶん、ポカンと口を開けてさえいただろう。
「ご迷惑でなければ、ご一緒にお茶でもいかがでしょう?」
 彼女は、まるで期待を込めたような瞳で続けた。
「はあ……」
 ぼくはあいまいにうなずいた。もしかしたら、彼女はものすごいお嬢さまなのかもしれない。つまり、驚くほどの世間知らず。だって、ただ本屋で棚の上にある本を取ってもらっただけの男を、お礼ですと言ってお茶に誘う女性がこの世に何人いるだろうか?
 あるいは、新手のナンパ?
 いやいや、まさか。これほど美しい女性が自分からナンパする必要などないはずだ。百歩譲って仮にあったとしても、こんなどこにでもいるような風貌のぼくをその相手に選ぶはずもなかった。いや待て。お嬢さまだからこそ、怪しげな趣味を持っているのかもしれないぞ。ぼくの頭の中は、ぐるぐるといろんな考えが駆けめぐって、混乱していた。
「やっぱり…… ご迷惑ですよね」
 ぼくの返答が遅かったから、彼女の顔が曇った。
「そんな、まさか!」
 ぼくは自分でも信じられないが叫んでしまった。
「ぜひ伺いますとも!」
「まあ、うれしい」
 彼女の顔に花のような明るさが戻った。





 ぼくはすぐ後悔することになった。本屋の前には、大きな黒塗りの車が停まっていたのだ。確かセンチュリーとか言う、トヨタ自動車の中で一番高級な車だ。そして、車の脇には、少し背中の曲がった背の低い運転手が立っていた。
「お嬢さま~ ご用は~ お済みですか~」
 運転手は間延びした低い声で言った。
「ええ、佐藤。待たせてしまってごめんなさい」
「とんでも~ ございません~」
 運転手は彼女のためにドアを開けた。なんか、妙に顔色の悪い運転手だ。ちょっと不気味。でも、問題はそんな事じゃない。もう、これはただ事ではないのだ。いや、言葉を換えると彼女がただ者ではないと言うことだ。いったい彼女は何者?
「どうぞ。お乗りになって下さい」
 彼女は笑顔でぼくを促した。
「は、はあ。あの、でも」
「すみません、こんな車しかなくて。ロールスロイスの方がよろしかったですよね?」
 彼女は戸惑っているぼくに、申し訳なさそうな声で言った。
 ぼくはたまげた。
「い、いえ、そういう意味ではないんです。けど……」
 ぼくの声はしどろもどろだった。
「けど、なんでしょう?」
 彼女は、ぼくを見つめながら言った。
 ああ、これってどう言うこと? なにが起こってるの? どーして? なんで?
 ぼくの頭は混乱を通り越して錯乱し始めていた。初めて会った美しい女性にお茶に誘われ、しかも彼女は運転手つきのリムジンに乗るお嬢さま。まさか、新手の美人局か?
「あの……」
 彼女は、不安げな眼差しでぼくを見つめた。瞳がうるうるしている。
「どうか、なんでもおっしゃって下さい。わたし、なにかおかしなことを申し上げたでしょうか?」
 ぼくはその瞳を見ていると、まるで魔法にかかったように、この不可解きわまりない事態が、もうどうでもよくなってきた。そうさ、まさか取って食われることはあるまい。毒を食らわば皿まで。後悔は先に立たず。転ばぬ先に杖はなしだ!
 だからぼくは言った。
「いいえ。どこもおかしくありません」
 ぼくは、リムジンに乗り込んだ。
 そんなわけで。
 生まれて初めて乗ったリムジンの中で、ぼくたちは初めて自己紹介をした。彼女の名は水木珠美。(ルビ:みずきたまみ)ぼくの名は森川光彦。(ルビ:もりかわみつひこ)
「では、森川さんは二十四歳なんですね。わたしも同じ歳です」
 珠美さんはうれしそうに言った。
「ええ。ぼくの方は二十四にもなってフリーターです。情けないですよ」
 ぼくは苦笑いしながら答えた。
「そんな。そんなことないです。森川さんはとてもご立派ですわ」
 珠美さんは真剣な顔でぼくの言葉を否定した。その顔があまりにも真剣なので、『ご立派』という言葉に皮肉の色はなかった。
 ぼくはふと、彼女とは初対面じゃない気がしてきた。でも、そう思ったとたん、ぼくは首を振ってその考えを否定した。だって、ぼくはアルツハイマーじゃない。いくらなんでも珠美さんのような美人を忘れるわけないじゃないか。
「どうしました?」
 珠美さんは、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「いえ、なんでも…… それより、水木さんのお宅はどちらなんですか?」
「田園調布です。もうすぐです」
 やっぱり、田園調布なのね。と、ぼくは思った。と、同時にひとつの疑問がわいてきてぼくはそれを聞かずにはいられなかった。
「田園調布と言えば、さっきの本屋とは少し離れていますね」
「ええ」
「どうしてあの本屋に?」
「り、理由はありません。ちょうど今夜読む本が欲しかったから立ち寄りました。たまたま通りかかったものですから」
「そうですか」
 ぼくは納得できなかったけど、それ以上質問しなかった。納得できなかったのは、彼女が少しドモって答えたから。これ以上質問しなかったのは、同じ答えしか返ってこないと思ったから。
 そのとき。
「お嬢さま~」
 運転手がバックミラーを見ながら、やっぱり間延びした低い声で言った。
「もうすぐ~ 着きますが~」
「ありがとう佐藤。裏門につけて下さい」
「本当に~ よろしいんですか~」
「ええ。もちろんよ」
「ですが~」
「お願いよ佐藤。正門には回らないで」
「はい~ お嬢さまが~ そう~ おっしゃるなら~」
 運転手は納得したようだった。それにしても、なんか変な会話じゃないか? すると、ぼくの不審を感じたのか、珠美さんは笑顔でぼくに言った。
「実は、父と母には内緒なんです。こんな時間に男の方をお茶にお誘いしたと知ったら、二人とも驚きますから」
 珠美さんは言い終わると、ちょっとしたイタズラをしている子供のようにクスッと笑った。それだけでぼくの不審感は吹き飛んでしまった。と、同時にお茶以上のアバンチュールを密かに期待してしまう、不心得なぼくなのであった。





 ここが裏門?
 ぼくはリムジンを降りると腰が抜けそうになった。ここが裏門だと言うなら、正門はどんなものだろう。それほど、この裏門は立派だった。
「すごい家ですね」
 ぼくは言った。
「お父さんは、なにをやっている方なんですか?」
「普段は、貿易を営んでおります」
「普段?」
「い、いえ。どうぞ、こちらです」
 珠美さんは先に立って、勝手口と書かれた、高級料亭の玄関のような引き戸をくぐった。とにかくすごく豪華な純和風のお屋敷だ。
 彼女に続いて屋敷に入ると、ぼくの背筋に冷気が走った。座敷わらしでも出そうな薄暗い廊下がそう感じさせたのか、あるいはすごく性能のいいクーラーが取り付けられているのか……
 ぼくは彼女の後について長い廊下を歩いた。ところどころに蝋燭が立てられているだけで本当に薄暗い。でも、目が慣れてくると、それほど不気味な感じもしなくなってきた。だいたい、子供じゃあるまいし、この歳で幽霊を恐がるほどバカじゃない。それにしたって、今どき蝋燭はいただけないとは思う。
「もうすぐですから」
 珠美さんが振り返った。
「この大広間を抜けたら茶室があります」
「そうですか。それにしても広いお屋敷ですね」
「広いだけです。暮らすのには不便ですね」
 珠美さんはそう言って笑った。たぶん、謙遜ではなく事実なんだろう。
 ぼくらは大広間の前の廊下を歩き始めた。障子で仕切られているので大広間の中は見えないが、柱の数でその広さがうかがえる。たぶん百畳はあるだろう。
 すると。
 ドンドコドンドコドンドコドン。
 太鼓の音が大広間から聞こえてきた。
「あれはなんです?」
 ぼくは聞いた。
「ご、ごめんなさい!」
 珠美さんは突然顔を青ざめた。
「父に見つかったようです。今日はお帰りになって……」
 ところが、珠美さんが言い終わらないうちに、お大広間の中がパーッと明るくなった。障子の陰が廊下にこぼれる。
 ドンドコドンドコドンドコドン。
 太鼓の音がいよいよ大きくなったと思うと、障子がガバッと開かれた。
「お父さま!」
 珠美さんは叫んだ。彼女が父と呼んだ人物は、ハカマを着た、五十代ぐらいの格幅のいいオジサンだった。
「珠美!」
 珠美さんの父が叫んだ。
 こりゃ、とんでもないことになった。ぼくは、お嬢さまの火遊びの相手に間違えられているに違いない。いや、もしかしたら本当にそうなっていた可能性もないわけではないわけで…… つまり、非常にマズイ状況であった。
「お父さま。お願い、勘違いなさらないで」
 珠美さんは懇願するような声で言った。
「勘違いだと?」
 お父さんは、ぼくをギロリと睨んだ。
 あちゃ~ こりゃ、一発殴られるぐらいは覚悟しなきゃ。
 ところが。
「偉い!」
 お父さんが叫んだ。
「珠美が男を連れてくるとは、わたしはうれしい!」
 なぬ?
「めでたい!」
 へっ?
「もう、無茶苦茶めでたい!」
 どーして?
 ぼくはただ口をポカンと開けてたたずんでいた。
「うーむ。君か、珠美の男は。ちょっと情けない顔をしてるが、この際なんでもいい」
 この際?
「さあさあ、二人とも、なにを突っ立っておる。早く広間に入らんか。おーい、かーさん。珠美の男だぞーっ!」
 お父さんは、ぼくと珠美さんの腕をむんずと掴むと、強引に大広間の中に引き込んだのだった。





 気が付くと、ぼくと珠美さんは高砂の席に座らされていた。まるで新郎と新婦だ。そして、屋敷の使用人たちがわらわらと集まってきて、宴会の準備が始まった。大広間にはでかでかと垂れ幕が掛けられた。そこに『熱烈歓迎』とか『満員御礼』とか『感謝感激』とか書かれていた。なんか、一部意味不明だ。
「まあまあまあ! 素敵な殿方じゃないのォ!」
 着物がよく似合う四十半ばぐらいの女性がぼくたちの前にやってきた。すごく綺麗なオバサンだ。もしかしたら、珠美さんのお母さん?
「お母さま」
 珠美さんがオバサンに言った。やっぱり。
「よかったわァ。珠美ったら、ホントに奥手で心配してたけど、やるときはやるわねえ。母さんうれしいわァ」
「お母さま、お願い。話を聞いて下さい」
 珠美さんが懇願した。
 だが、お母さんは聞く耳持たず、ぼくに語りかけてきた。
「まだお名前を聞いていませんでしたねえ」
「は、はい。あの、森川光彦です」
 ぼくは思わず答えてしまった。
「あらァ、いい名前だわァ。これからあたしのことはお母さんと呼んで下さいな」
「あの、ちょっと待って下さい」
 ぼくは戸惑った声を出した。
「やったね、お姉ちゃん。よかったね!」
 今度は、高校生ぐらいの女の子が現れた。
「冬美。違うのよ。あなたまで誤解しないで」
 珠美さんが言う。どうやら、妹のようだ。
「またまた、お姉ちゃんったら、照れちゃってえ。いいなあ、あたしもボーイフレンド欲しいよ」
「こらこら、冬美にはまだ早い」
 お父さんが割って入ってきた。
「そんなことより光彦君。わたしは、涙が出るほどうれしい。よくぞ、珠美を見初めて下さった。もうホントに、今度のことではどうなることかと冷や冷やしてたんだ」
「ホントですよねえ、お父さん。光彦さんに来ていただいて、一安心ですわァ」
「ですから、ぼくは」
 と、ぼくが言いかけたとき、今度はお爺さんとお婆さんが、血相を変えてやって来た。
「権蔵!」
 お爺さんが叫んだ。どうやら、珠美さんのお父さんは権蔵(ルビ:ごんぞう)という名前らしい。
「珠美が男を連れてきたちゅうのはホントか!」
「そうなんだよ親父。彼が光彦君だ」
「おーっ、そうか! いや、よかったのう。これでやっとわしも往生できるわい! なあバアさんや」
「ホントにねえ。よかったですよォ、お爺さん。あたしゃこの日をどんなに待ち望んだことか。珠美が幸せになってくれればあたしゃもう……」
 そう言ってお婆さんはさめざめと泣き始めた。
「旦那さま」
 番頭みたいな格好の男がやってきた。
「宴会の準備が整いましてございます」
「そうか! よし、今夜は飲むぞーっ! かーさん、今夜だけは止めてくれるな!」
「もちろんですよ、お父さん。ご存分にお飲みなさいな」
「わしも飲むぞ、バアさん! こんな日に高血圧なんぞ気にしておれんわい!」
「ええ、ええ、いいですともお爺さん。もうポックリ逝っちゃって下さいな。わたしも頂きますよ。だってもうなーんにも思い残すことはありませんもの」
「よっしゃ! 酒じゃーっ!」
 お爺さんが叫んだ。
「はい、大旦那さま!」
 番頭さんが、元気よく返事をした。
 すると、どこから沸いてきたのか使用人たちが、わーっと樽酒を持ってきた。
「親父、いっちょやるか!」
「よっしゃ!」
 お父さんとお爺さんはハッピを羽織ると、小槌を持ち上げて樽酒のフタを割った。
 パカーン!
 パチパチパチと使用人たちが拍手をした。
「お嬢さま、おめでとうございます!」
 みんなが口々に言う。
「お嬢さま~ わたしは~ うれしゅう~ ございます~」
 例の運転手さんもいた。
「今夜は無礼講だ。みんなもどんどんやりなさい!」
 お父さんが屋敷のみんなに言った。
「そうだわァ」
 と、お母さん。
「ご近所にもお酒を振る舞いましょうかねえ」
「そりゃあいい」
 お父さんも上機嫌で言った。
「そういやあ、鯛のお頭があったな。あれ持って近所を回るか!」
「あら、忙しい。そうとなったら、お赤飯も炊かなきゃいけないわァ!」
「どれ、小夜さん。あたしも手伝いましょうかねえ」
 お婆さんも浮かれた顔で言った。
「あたしも手伝う! カキ氷作るよ!」
 妹さんも言った。なんでカキ氷なんだかしらないが。
 ふと気が付くと、ぼくと珠美さんは完全に無視されていた。





 意味が分からなかった。
 なにがって、ぼくの置かれている状況のだ。ぼくは、ほんの一時間前に本屋でハードボイルド小説を探していただけなんじゃないのか?
 なのに。
 今ぼくの目の前では大宴会が催されていた。いつしか近所の人たちも混じって、どんちゃん騒ぎをしている人の数は…… もう、数えられない!
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 珠美さんが消え入りそうな声でつぶやいていた。
「ああ、わたしどうしたらいいの? こんなことに森川さんを巻き込んでしまって」
「説明して下さい」
 ぼくは言った。高砂の席に座らされたぼくらは、無理矢理『お祝い』の杯を飲まされただけで、幸いにも宴会の主役(?)の割に影が薄かったのだ。
「それは……」
 珠美さんは言葉に詰まった。
「水木さん。お願いです、話して下さい。あなたが本屋でぼくを誘ったのは、ただお礼がしたかったわけではないんでしょう?」
 珠美さんは沈痛な面もちで顔を伏せていたが、やがてコクリとうなずいた。
「そうです。わたしは初めからあなたを知っていました」
「そんな気はしました。でも、ぼくは水木さんを知らない」
「ええ。そうだと思います。あなたは覚えておいでじゃないでしょうね」
「どこかで会ったことがある?」
「はい」
「いつ?」
「それは……」
 彼女は、それきりまた黙ってしまった。
「水木さん」
 ぼくは珠美さんを促した。
 だが。
「うい~」
 酔っぱらったお爺さんがやってきた。
「珠美ぃ。よかったのう。これであの忌々しいヤツのとこに行かんで済むのう。わしもなあ、可愛い孫娘が、あんな毛むくじゃらの嫁になるのは我慢ならん」
「お爺さま! お願い、それ以上おっしゃらないで!」
 珠美さんは、叫ぶようにお爺さんの言葉を遮った。
「うい? なんでじゃあ?」
「森川さんには…… 話してないの。あのことは、なにも……」
「ほうかい。うい~ まあ、なんでもいいんじゃ。わしゃ相手が人間だろうとなんだろうと、珠美が惚れた男と夫婦(ルビ:めおと)になってくれりゃ、なーんも不満はありゃあせん」
「夫婦ですって!」
 今度、叫んだのはぼくだった。
「うい? そうじゃあ。そういやあ、わしも四百年ぐらい前にバアさんと結婚した頃は、若旦那と呼ばれて、ぶいぶい言わせておったもんじゃ。ウヒヒ」
 四百年前? だめだ。このお爺さんは完全に酔っぱらってる。
「うい~。あの頃の日本はおもしろかったのう」
 お爺さんは続けた。
「まだ家康も若造でのう。わしゃ、あの策士が日本を牛耳るような大物になるとは思ってもみなかったもんじゃ。ほんに、あの頃はおもしろかったわい。うい~」
「お爺さん、酔っぱらってるね」
 ぼくは珠美さんに耳打ちした。
「え、ええ…… そうですね」
 珠美さんにはひきつった顔で答えた。
「こりゃ。なにをひそひそ言っとるんじゃ。このスケベ。うい~。酔った! わしゃ酔ったぞ! ウヒヒ」
「お爺さま。もうお休みになった方が」
 珠美さんは心配そうに言った。
「うい~。まだまだじゃ。わしゃ飲むぞ。飲むったら飲む」
 と、お爺さんは答えたが……
「ぐう。むにゃむにゃ」
 とたんにお爺さんは寝てしまった。まるでバッテリの切れたオモチャだ。
「お爺さま。こんなところで寝たらお風邪を引きますよ」
 珠美さんは高砂から降りてお爺さんの肩を揺すった。
「ぐう。バアさんや…… ウヒヒ。むにゃむにゃ」
 お爺さんはどんな夢を見ているのか、幸せそうによだれを垂らしていた。
「お爺さまったら」
 珠美さんは軽く溜息を付いた。
「水木さん」
 ぼくも高砂から降りた。
「お爺さんを寝室まで運びましょうか?」
「えっ、そんな。森川さんにそんなことして頂くわけにはいきません。誰か家の者が」
 珠美さんは大広間を見渡した。だが、例外なくみんな酔っぱらっていて、お爺さんを背負って歩ける状態の人はいなかった。
「ぼくが背負って運びますよ。それに、ここから出たいしね」
「ごめんなさい、こんなことまで」
 珠美さんは恐縮したように頭を下げた。
「とんでもない。これぐらい」
 ぼくはお爺さんを背負うと、珠美さんと大広間を出た。
「こちらです。お爺さまたちの隠居所はちょっと遠くて」
「大丈夫。軽いですよお爺さん」
 ぼくは言った。それは事実だった。お爺さんの体は本当に軽かった。
「それより水木さん。さっきの話の続きですけど」
「はい」
「ぼくには話していないことがあるようですね」
「ごめんなさい」
「もう謝らなくていいです。今からでも話してもらえれば。そして、みなさんの誤解が解けさえすればね」
「ええ。父たちの誤解は、わたしが必ず解きます。どうぞ、そのことはご心配なさらないで下さい」
 ぼくはその言葉に、正直言ってホッとした。確かに珠美さんのような美人と結ばれるとしたら夢のような話だけど、こんな不可解で理不尽な状況では……
 そのとき。
 ぼくは突然、背中に重みを感じた。
「どうしました?」
 歩みを止めたぼくに珠美さんが聞いた。
「いや、なんだかお爺さんが重くなってきたような」
「い、いやだ、お爺さまったら!」
 珠美さんの顔が青ざめた。
「なんです? どうしたんですか?」
 珠美さんは、ぼくの問いに答えなかった。しかし、血相を変えて叫んだのだ。
「森川さん! 早くお爺さまを背中から降ろして下さい!」
「えっ?」
「早く!」
「わかりました」
 ぼくは不審に思いながらも、珠美さんの言う通りに…… できなかった! お爺さんを背中から降ろすことができないのだ! まるで粘着テープで貼り付いたように、お爺さんはぼくの背中に密着していた。それどころか、どんどんその重みが増していく。
「お、おおおおお、重い!」
「森川さん! ああ、どうしましょう!」
 ぼくは重みに耐えかねてヒザを突いた。お爺さんはなおも重くなってくる。
「うおーっ! 重い!」
 ぼくは叫んだ。
「なんじゃね。どうなさった?」
 先に隠居所に戻ったお婆さんが、ぼくの声を聞きつけて駆けてきた。元気のいいお婆さんだ。って、そんなこと言ってる場合じゃない。もう、お爺さんは巨大な石のような重さになっているのだ。ぼくはその重みでうつ伏せに倒れ、胸が圧迫されて呼吸さえ困難になりかけていた。
「お婆さま! お爺さまが、お爺さまが! ああ、森川さんが!」
 珠美さんは取り乱していた。
「落ちつきんしゃい、珠美」
 お婆さんはそう言って、どこからか笊(ルビ:ざる)を取り出すと、中に手を突っ込んで、なにかをぼくとお爺さんに巻いた。
「うぷっ」
 ぼくは思わず目をつぶった。お婆さんの巻いたモノが口に入ってジャリジャリ音を立てた。これは、砂だ!
「こりゃ、爺さんや。目を覚ましんしゃい」
 お婆さんは、なおも砂を振りかけ続けた。
 突然、背中が軽くなった。
「おや? ここはどこじゃ?」
 お爺さんが目覚めたのだった。
「いやですよォ、お爺さん。年甲斐もなくバカ飲みするんだから」
「おう? そうかそうか。わしゃ、寝込んでしまったのか。いや、こりゃすまんこったなァ」
「けほっ、けほっ」
 ぼくはやっと自由に呼吸が出来るようになったので、口に入った砂を少し吸い込んでしまってムセた。
「大丈夫ですか、森川さん」
 珠美さんがぼくの背中をさすってくれた。
「ええ、平気です。それより、なにが起こったんです?」
 ぼくは聞いた。
「どうもなにも」
 お爺さんがケロッとした顔で言った。
「わしゃ、子泣きジジイじゃよ。つい癖で重くなってしもうた」
「ああ…… お爺さま」
 珠美さんは悲しそうに顔を伏せた。
「とうとう、しゃべってしまわれた」
 ぼくは目を丸くして珠美さんを見た。
「あたしゃ砂掛けババアですよ」
 今度はお婆さんがニコニコした顔で言った。
「ワハハ! 若い頃は子泣きジジイと砂掛けババアの黄金カップルと言われてのう。そりゃあもう、ずいぶんともてはやされたもんじゃよ」
 ぼくの思考はたっぷり十秒は停止した。それにしても、若い頃の子泣きジジイと砂掛けババアって、いったい……
「え、ええと。なにかの冗談ですよね?」
 ぼくは珠美さんに聞いた。だが、彼女は顔を伏せるだけでなにも答えなかった。
 そのとき。
 ぼくの背後から、すさまじい冷気が襲ってきた。
「どうしたのォ? みんなで騒いじゃって?」
 見ると、白い着物に着替えた妹さんが立っていた。なぜか、このすさまじい冷気は彼女から発せられている気がした。
「冬美はなあ」
 と、お爺さん。
「雪女なんじゃ」
 まさか!
「どうした。なにごとだ」
 今度は、ドカドカと歩いてくるお父さんの声が聞こえた。ぼくは声の方を振り返った。そこにいたのは、ハカマを着た烏(ルビ:からす)だった。
「息子は烏天狗じゃ」
 お爺さんが得意げに言った。
「どうしましたァ」
 お母さんの声が聞こえた。ぼくはもう、ただ反射的に声の方を振り返った。そこにいたのは、首だけがにょろにょろと伸びた……
「嫁はろくろ首じゃ」
 言うまでもないことだが、ぼくはすでに気絶していた。





 ぼくは、ぼんやりと目を開けた。
 ゆらゆらと蝋燭の明かりで照らされた天井が揺らいでいた。
 チリーン。
 風鈴?
 とたん。ぼくの意識は覚醒を始めた。
「うわーっ!」
 ぼくは、さっき見た光景を思い出して、寝かされていた布団から飛び起きた。
「森川さん」
 珠美さんの悲しげな声が聞こえた。
「もう大丈夫ですから」
「あの、あの、ぼくは、ええと……」
 突然、ぼくは今までのことが夢だった気がしてうろたえた。もう、なにが現実でなにが夢なのか自分でも区別が付かない。
「もう大丈夫ですから」
 珠美さんが繰り返した。
 ぼくの寝かされていたところは、縁側に面した部屋だった。障子は開けられていて、庭から涼しい風が入ってくる。
 チリーン。
 また風鈴が小さく音を立てた。
 見ると、珠美さんはウチワを持っていた。どうやら、寝ていたぼくをあおってくれていたらしい。さすがに浴衣まで着ているわけではないが、こんな風情のある和室で、珠美さんに冷えた日本酒でも注いでもらったら、さぞ美味しいだろう。
 って、そんな場合じゃない!
「冷たいお茶でもお持ちします」
 珠美さんはそう言って立ち上がった。
「い、いや、大丈夫です。それより、ここにいて下さい」
 ぼくは懇願した。とにかく珠美さんにいて欲しかった。もっと正確に言うと、一人にされたくなかったのだ。だって、恐いもん!
 チリーン。
 また風鈴がなった。もう、風鈴の音さえ、不気味に感じる。
「はい。わかりました」
 珠美さんは素直に座ってくれた。
 しばらく沈黙が続いた。珠美さんはうつむいたまま。ぼくは震えだしそうな体を必死に押さえつけて沈黙を続けた。
「あの」
 ついに耐えきれなくなったのは、ぼくの方だった。
「珠美さんのご家族のことなんですけど」
「はい……」
 珠美さんは顔を上げると、弱々しい声で返事をした。
「さっきのアレは、やっぱり冗談ですよね?」
 ぼくはひきつった顔で聞いた。
「いいえ」
 珠美さんは首を振った。
「こうなった以上、すべてお話しする必要がありますね。ただ、森川さんがお聞きになりたくないのなら、それに越したことはありませんけど」
 そう言って、珠美さんは力無く笑った。
 つまりそれは、『聞いて欲しくない』と言うことなのだろう。正直なところ、ぼくは聞きたい気持ちが半分。聞きたくない気持ちが半分だった。もし、今聞き逃したら、ぼくはこの体験が夢か現実か一生悩み続けるだろう。それが聞きたい気持ちの理由。そして、聞いてしまったら、今以上に複雑怪奇な状況に追い込まれそうな恐さがあった。これが聞きたくない理由だった。
 ぼくはなんと返答すべきか迷った。究極の選択を迫られている気分だ。
 そのとき。
「珠美。婿殿は起きたかね?」
 なんと、烏天狗のお父さんが襖の向こうから声を掛けてきたのだ。
 ぼくは、心臓が緊急停止しそうなほど驚いた。
「お父さま。森川さんはもう大丈夫よ」
 珠美さんが『森川さん』の部分を強調しながら襖の向こう側に言った。
「そうか、そりゃよかった」
 お父さんはそう言って襖を開けようとした。
「待って!」
 珠美さんは慌てて襖を押さえた。
「お願い、お父さま。今はそっとしておいて下さい」
「だが…… いや、わかった。珠美に任せる。なんか、わたしたちが驚かせたようで申し訳なくってな」
 少し冷静になって聞くと、烏天狗のお父さんの声は、本当にぼくを気遣ってくれているような優しげなものに聞こえた。ただし『婿殿』というのがすごーく引っかかるが。
「ねえ、珠美」
 ろくろ首のお母さんの声も聞こえた。
「冷たい麦茶をここに置いておくわ。光彦さんに飲んでもらって頂戴ね」
「ありがとう。お母さま」
 やや間があって、二人が遠ざかっていく足音が聞こえた。
 珠美さんは襖を開けた。そこには、麦茶の入ったピッチャーとコップが二つお盆に乗って置いてあった。
「お飲みになりますか? あの、もしよろしかったらですけど……」
「ええ。いただきます」
「はい」
 珠美さんは、ぼくの返答に少しだけ明るさを取り戻して、麦茶を注いでくれた。
 それはごく普通の麦茶だった。冷たくて美味しい。実は喉がカラカラだったぼくは、一気に飲み干してしまったのだった。珠美さんはすぐにもう一杯注いでくれた。
 二杯目の麦茶を半分ほど飲むと、ぼくは先ほど途中になってしまった究極の選択に戻った。だが、そのときには不思議と冷静な気分になっていて、ぼくの口は自然と、さも当然のことを言うように動いたのだった。
「聞かせて下さい。珠美さんの家族のことを。そして、あなたのことを」





「ご覧になったとおり」
 珠美さんは、ためらいがちに語り始めた。
「わたしの父は烏天狗です。母はろくろ首。妹は雪女です」
「そして」
 と、ぼくは珠美さんの後に続けた。
「お爺さんは子泣きジジで、お婆さんは砂掛けババア?」
「はい。父方の祖父と祖母です」
 父方? そうか。普通、祖父と祖母は四人いるよな。生きてるかはともかく。
「すると、母方のお爺さんとお婆さんもいらっしゃる?」
 ぼくは恐る恐る聞いた。
「母の実家は四国の徳島です。最近はお正月にご挨拶に伺うだけですけど、お二人ともお元気です」
「と言うことはその……」
 ぼくは上目遣いに珠美さんを見た。彼女はすぐにぼくの聞きたいことを察した。
「母方の祖父は天邪鬼(ルビ:あまのじゃく)です。祖母は猫股。二人ともとても、お優しいです。ただ、お爺さまは天邪鬼ですから、お話するのが大変ですけど」
「そうですか…… ハハ、やっぱりね」
 ぼくは、また気が遠くなりそうなのを必死にこらえた。
 そして。
 つぎの質問をぼくの方からするのは非常にためらわれた。そう。まだ肝心の珠美さん自身が何者なのか聞いていなかったのだ。彼女は烏天狗とろくろ首の夫婦に拾われた人間の子供。というのが、ぼくにとって一番望ましい答えなのだが、希望というのは叶えられなことになっているのだ。それに、こうして事態を掌握し始めてみると、彼女の美しさが人間離れしているとさえ思えてくる。つまり、やっぱり彼女も妖怪……
 ああ、なんか聞きたくなくなってきた。どうしよう。
「わたしですね」
 珠美さんは、ぼくを見つめた。
 ぼくは答えなかった。答えられなかった。
 珠美さん自身も悩んでいる様子だった。彼女の表情に苦悩にも似た葛藤の影が浮かんでいるように見える。たぶん、彼女の心の中では、ぼくに正体を明かすべきかどうか、ぼく以上に究極の選択がせめぎあっているのだろう。
 やがて、彼女は決心したように言った。
「お見せします。でも、どうか驚きにならないで下さいね」
 珠美さんは、ぼくをリラックスさせようとするようにほほえんだ。それはとても悲しい笑顔に見えた。
 ぼくも覚悟を決めてうなずいた。だって、彼女が恐ろしげな妖怪に変わってしまうことなんてあり得ない。いや、見た目はともかく…… とにかく、心だけは今の珠美さんと同じはずだ! と、思うけど……
 珠美さんは立ち上がった。すると、彼女の体の周りに、青白い光がまとわり始めたのだ。オーラの光のようだけど、この場合は燐光と言うべきなのかもしれない。まさか、鬼火じゃあるまいな?
 珠美さんの頭からにょきっと何かが出てきた。
 ぼくはギクッとなって、その何かを見た。角かと疑ったけど違った。それは耳だった。ふさふさした猫の耳だ。
 さらに、彼女の瞳の色が、茶色から黄金色に変化し始めた。よく見ると瞳孔の形も変わっていた。人間の円形から猫科の動物と同じ円錐形になっている。続いて、髪の色も変わり始めた。艶やかだった黒髪が緑色に変化したのだ。輝くグリーンの髪は、まるでエメラルドのようだった。やがて、彼女の周りから青白い燐光が消えていった。起こった変化はこれだけだった。
 珠美さんはうっすらと汗をかいて、ふーっと、短い深呼吸をした。
 そして静かに言う。
「これが、わたしの本当の姿です」
 ぼくはもう、彼女から一瞬も目を離せなかった。
 人間の姿の珠美さんでさえ人間離れした美しさと思っていたのに、今の彼女は、文字どおり人間を超越した美しさだった。ぼくは確信した。彼女は、人間に化けているとき、自分をわざと醜く見せていたのだと。
「あなたは…… いったい……」
 ぼくはやっとのことで声を出した。
「妖怪猫娘。それが、あなたがた人間がわたしに付けた名前です」





 反則だ! と、ぼくは心の中で叫んでいた。
 鬼に変わるか蛇に変わるかと、覚悟を決めていたぼくはなんだったんだ。人間のときでさえあんなに美しかったのに、今の珠美さんは、それすら越えた美しさだ。でも、だからこそ、彼女が妖怪である事実は否定しようもなくなってしまった。
 妖怪猫娘だって!
 ぼくは、心を落ちつかせようと、コップに半分残っていた麦茶を飲み干した。すると、妖怪猫娘になった(戻った?)珠美さんが、人間の姿のときと同じように、しとやかな手つきで麦茶を注ぎ足してくれた。
 ぼくは急に落ちついた。もちろん、麦茶に鎮静作用があるわけじゃない。うまく説明できないけど、目の前にいる妖怪猫娘は、あの珠美さんであることに変わりはないと思えるようになったのだ。麦茶を注いでくれる手つき、遠慮がちに足を崩して座る物腰…… それらすべてが、彼女の心には、なんの変化もないことを物語っていた。
「さぞ、驚かれたでしょうね」
 珠美さんは黄金色の瞳を伏せた。
「驚かなかったと言ったら、ぼくは嘘つきです」
「ごめんなさい。こんなことになるなんて」
「いいえ。驚いたけど、もう恐くはないですから」
「よかった…… そう言っていただいて、少しホッとしました」
 珠美さんはスカートのポケットから白いハンカチを出すと、額に浮いた汗をそっとぬぐい取った。
「わたしも麦茶頂きます。喉が渇いてしまって」
 珠美さんはそう言って、もう一つあるコップに麦茶を注いだ。上品な仕草でコップを口に運ぶ。彼女の喉が麦茶の流れにそって、コクッと微かに上下した。
 本当にお嬢さまなんだなァ。それも古風な。ぼくはそう思った。妖怪猫娘の姿は、とても日本人とは思えない。だって、深い緑色の髪に黄金の瞳だもん。でも、彼女の物言いや仕草は、まさに古風な日本のお嬢さまそのものだ。
 ふーっと、ぼくは大きく息を吸った。そう。いつまでも彼女を観察しているわけにはいかない。聞くべきことを聞かなければ。
「これでやっと最初の質問に戻れます」
 ぼくは言った。
 珠美さんは麦茶のコップをお盆の上に置いて、ぼくの質問を待った。
「あなたはぼくのことを知っていたとおっしゃいましたよね。そして、この屋敷に呼んだのが、本を取ってもらったお礼ではないとも」
「はい」
「話してくれますよね?」
「もちろんです。わたしの正体を明かした以上、森川さんのお知りになりたいことはすべてお話しします」
 珠美さんは一呼吸つくと、ぼくのことを見つめ、ゆっくりと語り始めた。
「あれはもう十八年ぐらい前のことです。わたしはまだ六才の少女でした」
 彼女はぼくと同い年だから、十八年前にはぼくも六才だった。
「わたしはご覧のとおり猫娘として生まれました。当時のわたしには人間に化ける力はありませんでした。でも……」
「でも?」
「人間には化けられませんでしたけど、普通の猫には化けられました」
「猫? 猫って、普通の猫のことですか?」
「そうです。不思議に思われるかもしれませんけど、耳を隠したりして、姿を人間に似せるより猫に化ける方がずっと簡単なんです」
 納得できなかった。だって、見た目には珠美さんは人間にずっと近い。いや、造形という意味ではほとんど人間だ。猫に変化するほうがよっほど難しいんじゃないか? それに、大きさが全然違うじゃないか。物理学の質量保存の法則って学校で習ったぞ。
「そういうものなんですか?」
 ぼくは念を押すように聞いた。
「そういうものなんです」
 ぼくは納得することにした。なにせ、本人が言うんだから間違いあるまい。
「わたしはこんな姿なので、人間に化けられるようになるまで一歩も外に出ることはできませんでした。実際、外に出ることは父と母に固く禁じられていました」
「そうでしょうね」
「ええ。でも、六才の子供が、いくら広い屋敷とは言え、ずっと家にこもっていることができるでしょうか?」
「難しいでしょうね。少なくともぼくにはできそうもない」
「わたしもできなかったのです」
 珠美さんはほほえんだ。
「外の世界が見たくて仕方ありませんでした。そんなある日。わたしは猫の姿に化けて屋敷を飛び出してしまいました。誰が見ても、わたしは子猫にしか見えなかったはずです」
 珠美さんが化けた子猫。それは、さぞ可愛かったろうなと、ぼくは思った。
「でもわたしは、すぐに後悔することになりました。いえ、屋敷の周りの住宅街を歩いている頃はよかったのです。でも、駅の方に近づくにつれ、だんだんと恐怖を感じるようになっていました。外の世界はとても恐ろしかった。人は皆忙しく歩き回り、車は我が物顔で道を走っていました」
 子猫の目に映る東京の町がぼくには想像できた。
「わたしはすっかり動揺してしまいました。もう、一刻も早く家に帰りたかった。幸い、屋敷からそんなに離れたわけではなかったので、わたしは引き返そうと思いました。ところが、自分で思う以上に動揺していたのでしょう。わたしは来た道をすっかり忘れてしまっていて、気が付くと迷子になっていたのです」
「それで? どうしたんです?」
 ぼくはすっかり彼女の話に引き込まれていた。
「とても心細かった。わたしは泣きながら歩いていました。でも、子猫でしかないわたしを助けてくれる人などいません。いいえ、それどころかちょうどイタズラ盛りの子供たちに見つかってしまったのです」
 イタズラ盛りの子供?
 この言葉を聞いたとき。ふと、ぼくの記憶の何かがささやくような気がした。なにか思い出しそうなんだけど思い出せない。
 珠美さんはぼくの表情を伺うように話を続けた。
「わたしを見つけた男の子の一人がわたしを棒でつつきました。わたしは泣きました。すると男の子たちは余計おもしろがって、わたしにイタズラしました。石を投げる子さえいました」
 その光景がぼんやりとぼくの脳裏に映った。いや、これは想像なんかじゃない。まるでぼくの記憶の中にあったものが蘇ってくるような感覚だった。
「殺されてしまうかもしれない。わたしは子供心にそう思いました。子猫の姿ではあるけれど、わたしにはイタズラしている子供たちと同じように心配してくれる親も祖父たちもいます。わたしは本当に悲しかった。そして恐かった……」
 ああ、そうだ。確かにそんなことがあった! ぼくの記憶は蘇った。
「思い出しました?」
 珠美さんが言った。
「ええ。たった今」
 ぼくは答えた。
「あのときの子猫があなただったんですね」
「そうです」
 珠美さんは満面の笑顔を浮かべた。
「あのとき…… わたしを助けてくれたのが森川さんだったんです」





 それは、ぼくがまだ六才のときだった。
 家の近くで子猫にイタズラしている奴等がいた。その頃のぼくは親父の影響で『か弱きもの』は守らなければならないと信じていた。六才のぼくにとって、子猫はまさに守るべき『か弱もの』に見えた。
 子猫にイタズラしていた連中はぼくより体がでかかった。たぶん、七歳か八歳ぐらいだと思う。子供の頃の一、二年の差は結構大きいのだ。しかも、向こうは三人もいた。
「ずいぶん殴られたでしょう?」
 珠美さんが言った。その声は、まるで昨日のことを話すように心配げだった。
「いや、どうだったかな」
 ぼくはあいまいに答えた。
「いいえ。口から血が出ていたもの。でも、あなたは、男の子たちが、どんなに殴ろうとも蹴ろうとも、抱きしめたわたしを離さなかった」
 そうなのだ。あのときのぼくは、お世辞にもカッコ良くなんかなかった。ただ子猫を抱きしめてうずくまっていただけなのだ。悪ガキたちがぼくと子猫に興味を失ってくれるのをひたすら待ちながら。
 ぼくはもうすっかり思い出していた。結局、子猫を抱きしめたぼくは、最後まで守りきったわけではないのだ。
 それは、大きな車が停まって、中から大人が出てきたからだ。まあ、子供が車を運転するわけないので、あたりまえだけど。とにかく、そのとき大人は怒鳴り声を上げて、悪ガキたちを叱りつけた。とたん、悪ガキたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていったのを覚えている。そして、その大人はぼくの腕から子猫を奪うように取り上げると、慌ててどこかに走り去ったのだ。
 まてよ…… そう言えば、あのとき怒鳴っていた大人の声は、妙に低い声で、間延びしていたかもしれない。
「もしかして、あのとき迎えに来たのは佐藤さん?」
 ぼくは珠美さんに聞いた。
「そうです。屋敷の方では、わたしがいなくなったので必死に探していたようです。あのあと、父にひどく叱られました」
「でしょうね」
 ぼくは苦笑いした。
 珠美さんもつられるように苦笑いした。
「それで、あのときの礼を言うために、ぼくをここに?」
 ぼくは聞いた。
「いいえ。違います」
 珠美さんはキッパリと否定した。
「だって、自分の正体を明かす気なんてありませんでしたから」
「なるほど」
 ぼくはうなずいた。だが、それだと彼女がぼくをこの屋敷に呼んだ理由がわからない。
「じゃあ、なんでぼくをここに?」
「それは…… お話がしたかったからです。本当にそれだけなんです」
「話ってどんな?」
「特にどんなお話をなんて考えていませんでした。ただ雑談でよかったんです」
「ハハ」
 ぼくは苦笑いした。
「じゃあ、目的は達成されましたね」
「えっ?」
「だって、お互いこうして麦茶を飲みながら話をしているから」
 ぼくは麦茶のコップをかかげて見せた。
「そうですね」
 珠美さんはほほえんだ。でもそれは、やっぱり悲しげな笑顔だった。
 なんだかぼくは、振り出しに戻った気がした。そう。あの本屋で彼女に誘われたときにだ。問題は、彼女とお茶を飲んで楽しくお話ではなく、じつに奇怪な話に終始していたことだろう。なんたって、妖怪一家だもんねえ……
 そのとき。
 再び、廊下から足音が聞こえてきた。
「お父さん。もう少し二人きりにして上げた方がよろしいですよォ」
 ろくろ首のお母さんのお声が聞こえた。
「かーさん。そうは言ってもなあ。心配じゃないか」
 烏天狗のお父さんだ。
「それはそうですけどねえ」
 ぼくはクスッと笑ってしまった。だって、ろくろ首と烏天狗だよあの二人は。なのに今の会話ときたら、えらく普通の『親父さんとお袋さん』と変わりない。
 ぼくが笑ったのは珠美さんも見ていた。そして、彼女もクスッと笑っていた。
 足音が襖の向こうで止まった。
「珠美。様子はどうだ?」
「お父さま。心配ありません」
 珠美さんが答えた。
「そうか。しかしなあ。できたらここを開けてはくれんか?」
 珠美さんはぼくの顔を伺った。
 ぼくはうなずいた。
「お父さま、お母さま」
 珠美さんは言った。
「どうぞお入りになって」
「おお、そうか!」
 襖が開いた。入ってきたのは、人間のお父さんと、首の伸びていないお母さんだった。ぼくを気遣って、また人間に化け直しているのだろう。
「おっ」
 お父さんは娘を見て短い驚きの声を上げた。彼女は今、妖怪猫娘の姿なのだ。お父さんはすぐさま、ぼくに視線を移した。そして、平然とした顔で座っているぼくを見て安堵の溜息をもらした。それはお母さんも同じだった。
「ちゃんと話したのね珠美」
 お母さんが言った。
「ええ。お母さまの実家の話もしました」
「やれやれ。一安心だ」
 お父さんはドカッと座り込んだ。
「ホントにねえ。よかったですよォ」
 お母さんも座った。
「どうも」
 ぼくは、改めてという意味も込めて、二人に軽く頭を下げた。
「いや、悪かったなあ、光彦君。珠美がちゃんと話してるものとばかり思ってな」
「そうなんですよォ。ごめんなさいねえ、本当に」
「いえ。こちらそこ倒れちゃったりしてご迷惑をかけました」
 ぼくはもう一度頭を下げた。
 話している内容はともかく、今のぼくたちは、まったく普通の状態だった。なんか、説明が難しいけど、とにかく〝普通〟なのだ。つまり、妖怪一家も普通の家族とぜんぜん変わらない。そういうことなのだ。
 ところが。
 ぼくが本当の意味でこの奇怪な一家と関わりあいを持つことになるのは、まさにこんな普通の状態からだったのだ。
 昔の人は、本当に見識があった。いわく、後悔は先に立たないのである。


10


「娘から話は聞きました」
 お父さんが改まった口調で言った。
「十八年前、珠美が外に飛び出してしまった日。光彦君が助けてくれたんですな。いや、運転手の佐藤も珠美も、今の今まで、そのことを一言も話してくれませんでなあ。知っていれば、もっと早くお礼を申し上げたのに」
「そんな。助けただなんて大げさですよ」
 ぼくは首を振った。
「いいえ」
 今度はお母さんが言った。
「光彦さんがいて下さらなかったら、今ごろ珠美はどうなってたか知れませんわァ。本当にありがとうございました」
 お母さんは頭を深々と下げた。
「と、とんでもないです」
 ぼくも頭を深々と下げた。
「あれから十八年」
 お父さんがぼくを見つめた。
「珠美はずっと光彦君のことを想って……」
「お父さま!」
 珠美さんがお父さんを遮った。
「ああ、そうだった。この話はしちゃいけないんだったな」
 ぼくは、頭の上にクエッションマークを浮かべた。
「森川さん」
 珠美さんが立ち上がった。
「今日はとんだ騒動に巻き込んでしまって、本当に申し訳ありませんでした。もう、夜も更けましたから、ご自宅までお送りいたします」
 珠美さんは早々に話を切り上げたい様子だった。
「ええ。わかりました」
 ぼくも立ち上がった。
「さあ。こちらです」
 珠美さんは先に立って廊下に出た。
 ぼくは、ちらっとお父さんとお母さんを振り返った。二人は名残惜しそうな顔をして、ぼくを見ていた。なんか納得できない気持ちだったけど、ぼくは、珠美さんの後を追いかけた。
 そのとき。
「待ってくれ!」
 お父さんが叫んだ。
「やっぱりダメだ、珠美。頼むから光彦君に話をさせてくれ」
「お父さま! どうして約束をお破りになるの!」
 珠美さんは激しい表情で言った。
「だって、お前を救ってくれるのは光彦君以外にいないじゃないか」
「もう、それ以上おっしゃらないで!」
 珠美さんはぼくの腕を取った。
「さあ、森川さん。早くこの家から出ましょう」
「ま、待って下さい」
 ぼくは逆に珠美さんの腕を取って、彼女の歩みを止めた。
「いったい、なんの話です? あなたを救うってどういうことですか?」
 珠美さんは首を振った。
「いけません。それをお知りになったら、きっと森川さんは後悔なさいます」
「でも、このまま帰ったら同じことです。ぼくは聞かなかったことを後悔しますよ」
「そっちの方がずっといいです。同じ後悔でも」
 珠美さんは、ふっと悲しそうに顔を伏せた。
「珠美」
 今度はお母さんだ。
「どうしてそう思うの? 光彦さんに話してみなきゃわからないじゃない」
「お母さままで」
 珠美さんは顔を上げた。
「わたし、これ以上森川さんを巻き込みたくないの。わたしたちの勝手な事情でご迷惑をかけたくない」
「でもね、珠美」
 お母さんは困惑したように言った。
「それをお決めになるのは光彦さんでしょ? 話すだけ話してみればいいじゃない」
 珠美さんは激しく首を振った。そして、ぼくの腕を引っ張る。
「森川さん行きましょう。どうか、今日のことはお忘れになって下さい」
 ぼくは珠美さんの腕をふりほどいた。
「帰れませんよ。こんな状況で」
「森川さん」
 珠美さんは驚いたようにぼくを見た。
「お願い。変な気を起こさないで下さい。お聞きにならないで」
「でも、あなたのお母さんの言う通りかもしれませんよ。聞いてみなきゃわからない」
「いいえ。あなたは後悔なさるわ。きっと」
「とにかく。聞くだけ聞きます」
 ぼくは部屋の中に戻った。
「ああ……」
 珠美さんは顔を手で覆った。
「こんな、こんなことになるなんて…… わたしはなんて浅はかだったんだろう……」
 珠美さんはそう言うと、いたたまれないとでも言うように、屋敷の奥に駆けていってしまった。
「珠美さん!」
 ぼくは彼女の背中に声を掛けた。だが、彼女は止まらなかった。薄暗い廊下に、彼女の姿はすぐ見えなくなった。
 ぼくは溜息を付いた。とてもじゃないが彼女を追いかける気にはなれなかった。そもそも、妖怪屋敷の中を駆け回る自信がない。
 ぼくは諦めて部屋に戻った。


11


 ぼくは、珠美さんの両親と向かい合って座っていた。
「珠美は十八年間、ずっと君のことを想い続けておったそうです」
 お父さんが言った。
「十歳になって、人間に化けることが出来るようになってからは、佐藤の暇を見ては君の家の近くに送ってもらっていたそうだ」
「ぼくの家まで?」
「うむ。だが、君に会うことはなかった。珠美はずっと陰から君を見ていただけだ」
「どうしてそんなことを?」
「わたしにはわかりますよォ」
 お母さんが言った。
「あの子は妖怪なんですものォ。好きな子が人間の男の子じゃあねえ。声もかけられませんわァ。もし、自分が妖怪だってわかったら嫌われるに決まってるし、たとえ黙ってお付き合いしたところで、いつかはわかってしまうことですものォ。それで嫌われでもしたら、そっちの方が女にとってずっと辛いことですわァ」
「うむ。付き合いが長くなればなるほど、妖怪とわかって嫌われたときのショックは大きいだろうからな」
 お父さんはそう言ってうなずいた。
「それにしても、さっき珠美から話を聞かされるまで、気づかなかったわたしらも親として失格だが、珠美も、我が子ながら律儀というかなんというか…… そんな気持ちを、光彦君どころか、わたしたち親にも隠し通してきたんだ。わたしは胸が痛いよ」
「ホントにねえ」
 お母さんもうなずいた。
 そして二人は、しんみりと顔を見合わせた。
 ぼくは本屋で出会ったときの珠美さんの言葉を思い出していた。ハードボイルド小説を読むようになったきっかけは、『わたしの知っているある人』が好きだから。珠美さんはそう言って笑った。あれは、ぼくのことだったのだ。
 それを思い出すと、なんとも胸が締め付けられた。ぼくの知らないところで、ずっとぼくを想ってくれている人がいたなんて。それも、決して打ち明けられない想いをだ。
「でも」
 と、ぼく。
「今日、ぼくは珠美さんに誘われてここへ来たんです。珠美さんはぼくと話をしたいと言ってました。なぜ、急にそう思ったんでしょう?」
 ぼくがそう言うと、お父さんとお母さんは、ふーっと溜息をもらした。
「実は」
 お父さんが重い口を開いた。
「珠美は一ヶ月後に、トランシルバニアに嫁ぐことになっているんだ」
「な、なんですって!」
 ぼくは叫んだ。トランシルバニアだって? 冗談だろ? 日本の妖怪が、なんでドラキュラのところなんかに?
「ドラキュラではない」
 お父さんがぼくの疑問を察して言った。
「じゃあ、なんです?」
「狼男だ」
「オオカミオトコ……」
 ぼくは開いた口がふさがらなかった。百歩、いや千歩、いやいや、一万歩譲ってドラキュラならまだしも、毛むくじゃらの狼男が珠美さんの夫になるなんて!
「どうして、そんなことになったんですか!」
 ぼくは勢い込んで聞いた。
「うむ」
 お父さんは眉間にしわを寄せた。
「君は知らんだろうが、日本の妖怪は古来から奥ゆかしい性格なのだよ。事実、人間に悪さする妖怪など、本当に数えるぐらいしかいない」
「そうなんですか?」
「そうとも。人間にも殺人を犯したりヤクザになったりする者がおるだろう。それに比べたら、妖怪など可愛いものだ。たとえ、人を食らう妖怪がいても、そいつは悪しき心を持った人間だけを狙うはずだ」
「それが事実として…… いえ、信じますよ、もちろん。それで、その話と狼男はどう繋がるんです?」
「実は、その狼男は、ドラキュラの息子なのだ」
「ドラキュラの息子が狼男? それって変じゃ……」
 ぼくは言いかけて、そう言えば、珠美さんの家族もえらく変な関係だと思った。
 ええと…… 子泣きジジと砂掛けババアの息子が烏天狗で、その烏天狗とろくろ首の娘たちが猫娘と雪女。これってすごく変! どうして今まで気が付かなかったのかって思うぐらい変!
「変じゃない」
 と、お父さん。
「それが普通なのだ。別にどの妖怪からどの妖怪が生まれてもおかしくない」
「そういうもんなんですか?」
「そういうもんだ」
「つまり、遺伝の法則はないと?」
「ない」
 お父さんはキッパリ断言した。
 ううむ。納得いかないぞ。納得いかないけど、妖怪ご本人が言うんだから間違いないんだろう。ここは、無理矢理にでも納得するしかないようだった。
「わかりました。その点は納得します。もう聞きません」
「賢明な判断だ」
「どうも。それで、狼男がドラキュラの息子だからってどうなんです?」
「それが問題なのだ。これは君も知ってるだろうが、ドラキュラは西洋の妖怪の中ではもっとも実力がある。まさにキング・オブ・ヨウカイなのだ」
「まあ、そんな気はしますね」
「うむ。つまり、ドラキュラには多くの部下がいて、いつも他の国の妖怪を支配しようと企んでおる。日本は島国という立地条件で今まで侵略の手から逃れておったが、ここまで交通機関が発達した現代では、そんな条件は無きに等しい」
「飛行機で来るんですか?」
「来る」
「はあ…… なるほど」
「そして、ついに恐れていたことが起こったのだ。ドラキュラのバカタレは、日本を侵略しようと思い立ってしまったのだよ」
「思い立ちましたか」
「立った」
「はあ…… なるほど」
 妖怪大戦争ってか? なんか、話が胡散臭いような気がしないでもないけど……
「問題はその後だ。ドラキュラのバカタレ、日本の妖怪の代表であるわたしのところに宣戦布告に来たのだ」
「えっ! お父さんって、日本の妖怪の代表なんですか?」
「うむ。わたしは、日本妖怪振興会の会長だ。代々、わが家の家長がその任に当たることになっている。わたしは、珠美が生まれた年に親父から跡を継いだのだ」
「はあ…… なるほど」
 そうかあ。珠美さんって、日本の妖怪の中でも、指折りのお嬢さまなんだ。どうりで物腰なんかも華族的な上品さがあるわけだ。
「ところがだ。ドラキュラのバカタレが息子を連れてきたから話がややこしくなった。あの毛むくじゃら、こともあろうに珠美を見初めおったのだ。ドラキュラも人の親…… 違うな。妖怪の親だ。息子かわいさで、珠美を息子の嫁に差し出せば、日本は侵略しないと言ってきおった」
「なるほど」
 ぼくはやっと事態が飲み込めてきた。
「つまり、政略結婚ですね」
「そうだ。わたしは日本妖怪振興会の会長として日本の妖怪を守る義務がある。自分の娘を差し出すことで平和が得られるのであればと、思わないこともない。だが、わたしとて人の親。違うな。妖怪の親だ。珠美の幸せを願うのは誰にも負けないつもりだよ」
「事態はだいぶ把握できました」
「うむ」
「でも、それで、ぼくが珠美さんを救うってのはどうしてです?」
「そこだ!」
 烏天狗のお父さんが叫んだ。どこだ! などと心の中でボケを噛ましている場合ではないのは明らかだった。
「もしも、もしもだよ光彦君」
 お父さんが、ずずいっとぼくに近づいてきた。
「珠美に好きな男がいて、そいつと結婚しちまったらどうなると思う?」
「え? え? え? どうなるって、ヤバイんじゃないですか?」
「そりゃあもう、政略結婚は破棄だ。なにせ、あの西洋の化け物どもときたら、処女しか受け付けないってんだから、大笑いじゃないかね?」
「はあ……」
 そう言えば、ドラキュラは処女の血が大好物だったような気もする。
「もちろん、珠美が処女じゃないぐらい、政略結婚を破棄するには条件が充分ではない。珠美と結婚して、ラブラブの結婚生活を送ってくれるような男がいれば完璧だ。な、な、な。光彦君もそう思うだろう?」
「はあ……」
 さっきからぼくは『はあ……』ばっかりだ。
「でも、お父さん。その場合、日本は侵略されちゃうんじゃないんですか?」
「うむ」
「いや、うむ。じゃなくって! それじゃあ困るじゃないですか!」
「確かに困る。困るが、珠美がイヤな男と結婚するよりかは困らんよ」
「どういう意味です? 親の立場を優先するってことですか?」
「それもある。だが、もともとわたしは開戦派なのだ。たとえ、珠美の犠牲で一時の平和を成就してもその後はどうなる? 第二第三の侵略者が日本を狙うに決まっておる。それならばいっそ、最初から闘うべきだ。侵略されるにせよ守り通すにせよ、日本の妖怪としてのプライドを捨てるよりずっといい」
「なんか、昔の軍国主義っぽいですね」
「それは誤解だよ。わたしは開戦派ではあるが、好戦派ではない。他国を侵略しようなどと考えたことは一度もないし、これからもないだろう。初めに、日本の妖怪は奥ゆかしいと言ったはずだ」
 あなたも奥ゆかしい? と聞きたかったがそれはやめておいた。
「よくわかりました。でも、だったらそうすればいいじゃないですか。なぜ、珠美さんが慌てて結婚する必要があるんです? その…… たとえ、彼女がぼくのことを好きだったとしてもです」
「珠美の性格を、君も少しは知っておるだろう」
 あっ…… ぼくはその一言ですべてを理解した。
「自分を犠牲にする?」
「そう。あれはそういう子だ。まったく誰に似たんだか……」
 お父さんじゃないですね。とぼくは思った。少なくとも顔は違う。
「それともう一つ、珠美が好きな男と結婚するのには重要な意味がある」
「なんです?」
「我々、日本の妖怪の結束だ。中には闘わずして平和が得られるならという弱気な妖怪もいる。もちろん、それは個人の考えだからわたしは何も言わん。だが、結束を固めるという意味では無視できない考えだ。珠美が結婚してくれれば、そういう消極派の勢力も開戦に傾かざるおえないだろう」
「結局は政治ですね」
「まさにそうだ。一言もないよ。だが、わたしの本当の気持ちは珠美の幸せにある」
「わかってます」
「わかってくれるか!」
 お父さんがぼくの手を握った。
「かーさん! 光彦くんは承知してくれたぞ!」
 えっ?
「まあまあまあ! よかったわァ。わたしもやっと息子ができるんですねえ!」
 えっ?
「祝言の日取りはいつがいいかな、かーさん」
 えーっ!
「お父さん。そりゃあもう、大安の日曜日ですよォ。確か今月の二十八日が大安で、しかも日曜日ですわァ」
「いや、忙しい。あと二十日じゃないか!」
「さっそく、準備しましょうねえ」
「ちょ、ちょーっと待った!」
 ぼくは叫んだ。
 ところが、お父さんとお母さんはぼくを無視して、大騒ぎしながら屋敷の奥に入っていってしまったのだった。
 ど、どーして、こうなる!


12


 妖怪屋敷にポツンと取り残されたぼくは、まんじりともしない気持ちで座り続けていた。一度、誰かを呼びにいこうと部屋を出たが、すぐに諦めて引き返してきた。だって、薄暗いし広いし、ぼくの方向感覚では、どこかでのたれ死んでしまいそうだったからだ。
 パタパタパタ。
 足音が聞こえた。子供が走るような音だ。ぼくはとっさに廊下を見た。そこには誰もいなかった。
 ゾ~ッ。
 嫌いだよ、こういうの! ぼくは慌てて襖を閉めてしまった。
 またしばらく時間が過ぎた。一時間ぐらいに感じたけど、たぶん、五分ぐらいだろう。
 すると、襖がすーっと音もなく開いた。さすがにこれは心臓に悪い。いくら慣れてきたって言っても。
「若旦那さま~」
 襖を開けたのは運転手の佐藤さんだった。
「若旦那さま?」
 ぼくは辺りを見回した。もちろん、ぼく以外に誰もいない。
「ぼく?」
「はい~ 今日から~ そう呼ばせて~ いただきます~」
「ううう」
 ぼくは頭を抱えた。
「そ、それはともかく、お父さんとお母さん…… いや、珠美さんを呼んできてもらえないでしょうか?」
「はい~ お嬢さまが~ お呼びです~」
「珠美さんが?」
「そうです~ どうぞ~ こちらです~ 若旦那さま~」
 ぼくは佐藤さんの後について廊下に出た。
「ねえ、佐藤さん」
 ぼくは、前を歩く佐藤さんに声を掛けた。
「はい~ 若旦那さま~」
「なんでもいいけど、その若旦那さまはやめてもらえません?」
「え~ どうして~ ですか~」
「だって、若旦那じゃないですから、ぼくは」
「え~ どうして~ ですか~」
「いや、どうしてって。ぼくは珠美さんと結婚したわけじゃありませんよ」
「そんな~」
 佐藤さんが振り返った。
「ひどい~ お嬢さまが~ かわいそう~」
「い、いや、その」
 佐藤さんは、ぼくの足に取りすがってきた。
「わわわ! 佐藤さん、なにするんですか!」
「お嬢さまが~ かわいそう~ かわいそう~ かわいそう~」
「わ、わかりましたから、足を離して下さい!」
「若旦那さまと~ 呼んで~ いいですか~」
「いいです、いいですから!」
「はい~ 若旦那さま~」
「はあ……」
 ぼくは深い溜息を付いて、佐藤さんとの会話を諦めた。
 そして、しばらく黙って暗い廊下を歩いていると、どこか遠くの方で、また子供の走る足音が聞こえてきた。
「あの、佐藤さん」
「はい~ 若旦那さま~」
「今、聞こえました?」
「なにが~ ですか~」
「子供の足音ですよ。さっきも聞こえたんですけど、小さいお子さんがいるんですか?」
「いいえ~ おりませんが~」
「じゃあ、なんの音?」
「たぶん~ 座敷わらしです~」
「座敷わらし? あの有名な?」
「はい~ 大人には~ 姿が見えません~」
「なるほど。ホントにいるんですね」
「はい~ たくさんいます~」
「その…… やっぱり佐藤さんも妖怪なんですか?」
「はい~ わたしは~ ぬらりひょんです~」
「ぬらりひょん?」
「なめくじの~ 妖怪です~」
「納得しました」
 ぼくは、ぬらりひょんの佐藤さんに頭を下げた。
 と、そんなこんなで、歩くこと約十分。ぼくらはやっと、珠美さんの寝室の前に到着した。いや、別にぬらりひょんの佐藤さんの歩みが我慢できないほど遅いわけではない。それだけこの屋敷が広いと言うことなのだ。やっぱり、あの部屋を一人で出ていかなくてよかった。
「お嬢さま~」
 佐藤さんが声を掛けた。
 すーっと襖が開いた。
 そこには、人間の姿に戻った、いや、化けた珠美さんが立っていた。
「ありがとう佐藤。あなたにはいつも迷惑を掛けますね」
「いいえ~ わたしは~ お嬢さまの~ 味方です~」
 珠美さんは佐藤さんにほほえむと、ぼくに視線を移した。
「どうぞ、森川さん。お入りになって下さい」
「お邪魔します」
 ぼくは、珠美さんの寝室に入った。
 女の子らしい部屋。と、言いたいところだが、そうでもなかった。少なくともベッドとか、ピンクのカーテンとか、そういうものはない。それに、いかにも女の子ぶりっこな物があったら、逆に、珠美さんのイメージにそぐわなくて戸惑ったことだろう。
 と、そういう意味で、珠美さんの寝室は、まさにイメージ通りだった。造りはまさしく純和風で、一瞬、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。きっと、江戸城に住んでいたお姫さまは、こんな部屋で生活していたんだろう。
「どうぞ、お座りになって下さい」
 ぼくは促されたとおり、ちゃぶ台の前に座った。
 珠美さんもぼくの前に座ると、ポットのお湯を急須に入れた。
「本当は、ちゃんとお茶を立てて差し上げたかったのですけど」
 珠美さんはそう言いながら、ぼくの前に湯飲みを置いて、急須からお茶を注いだ。
「頂きます」
 ぼくはお茶を飲んだ。とても美味しい日本茶だった。
「お聞きになってしまわれたのですね」
 珠美さんは静かに言った。
「ええ。聞いちゃいました」
「人間の森川さんには関係のないことです。どうぞ、お忘れになって下さい」
「でも……」
「相手は西洋の妖怪です。わたしたち日本の妖怪と違って、とても野蛮だと聞いています。そんな危険なことに森川さんを巻き込みたくありません」
「珠美さんは」
 ぼくは言った。ふと、彼女を名前で呼んでいる自分に気が付いたが、修正する必要もないだろう。
「ええと、珠美さん」
 ぼくは改めて言った。
「あなたはその狼男に会ったことはあるんですか?」
「いいえ」
 珠美さんは首を振った。
「それどころか、日本の妖怪以外に会ったことはありません」
「じゃあ、狼男はドラキュラの親父と日本に来たとき、珠美さんをどこで見初めたんでしょうか?」
「写真を見たのでしょう。以前、父と母に言われて、無理にお見合写真を撮らされたことがあるのです。それを父ったら、客間に飾ってあるのです。たぶん、それだと思います」
 お見合写真とは…… ますます人間と変わらないじゃないか。
「そうですか。災難ですね」
「そうとも決めつけられません」
 珠美さんは真面目な顔で言った。
「そのおかげで日本の妖怪が平和に暮らせるなら、むしろ幸運だったと思います」
「それは、珠美さんの犠牲があるからでしょ?」
「犠牲とは思いません」
「義務? それとも使命?」
「わかりません…… でも、わたし一人が我慢すれば済むことですから」
「その我慢は一生ですよ。一生、トランシルバニアで暮らすことになる」
「ええ……」
 珠美さんは唇を噛んだ。だが、すぐに気丈な顔に戻って言ったのだ。
「トランシルバニアという地名は、森のむこう。という意味なのだそうです。こう聞くと、とても神秘的で、わたしのような妖怪が住むには良い場所だと思います。それに、住めば都と言いますからね。どこでだって生きてゆけます」
 珠美さんは多弁に語った。まるで、自分で自分を説得しているようだ。
「あなたは強い人ですね」
 ぼくは言った。
「でも、ぼくはお父さんの考えにも一理あると思いました。たとえ、ドラキュラの侵略が防げても、きっとつぎの脅威があるでしょう。珠美さんの犠牲は報われませんよ」
「いいえ。そうは思いません」
「なぜ?」
「ドラキュラ伯爵はとても実力のある妖怪だそうです。そして、わたしが嫁ぐ相手はその息子です。日本の妖怪とドラキュラ家に強い血縁関係が築ければ、強力な後ろ盾ができることになります。きっと日本も侵略されることはなくなります」
「驚いた」
 ぼくは言った。事実、驚いていた。
「珠美さん。あなたはそこまで考えていたのですか」
「はい。わたしだって父の子です。少しぐらい政治のことはわかります」
 ううむ。日本妖怪振興会の会長の娘だもんな。
「ふう」
 ぼくは溜息を付いた。どうやら珠美さんを説得するのは無理なようだ。いや、もちろん、彼女と結婚したいから説得しようと思ったわけじゃない。ぼくは差別主義者では断じてないけど、妖怪と人間ではあまりにも種族が違いすぎる。ただ、それでも珠美さんというぼくのことを少なからず想ってくれていた女性が、不本意な結婚をするのに我慢がならなかったからだ。
「珠美さんの考えを変えることはできないようですね」
「ええ。わたしはもう決めましたから」
「あなたが言ったとおりだ」
「えっ?」
「ぼくはこんな話、聞かなきゃよかった。すごく後悔しています」
「ごめんなさい…… そもそも、わたしが悪いのです。森川さんをお誘いしたばかりに」
「最後に聞かせて下さい」
「はい」
「どうして、今日に限ってぼくを誘ったりしたのですか? それに、本当はどんな話をするつもりだったんですか?」
「別に今日でも明日でもよかったのです。ただ……」
「ただ?」
「わたし、森川さんと一度だけでいいからお話がしたかった。本当にお話の内容はどうでもよかったのです。日本を離れる前に、一度だけお話ができればそれで」
 ぼくはキュンと胸が締め付けられた。
 珠美さんは笑顔で言った。
「でも、こうしてお話しすることができました。これでいつでもトランシルバニアに行けます」
 ぼくには珠美さんの笑顔が、精いっぱいの強がりに見えて仕方がなかった。


13


 実は……
 これは言いたくないのだけど、ぼくには珠美さんのお父さんの考えとも、珠美さん自身の考えとも違う、第三の方法を考えていた。それは、珠美さんが不本意な結婚をしなくて済み、うまくすれば日本が侵略されることもない素晴らしい方法だった。
 なのに、なぜ言いたくないか? 理由は、ぼく自身に危険が及ぶからだ。正直に言ってぼくは死にたくない。第一、妖怪のために死んだなんて言っても、誰も誉めてくれないだろう。
 ぼくは臆病者だろうか?
 いいや、そうは思わない。誰だって、ぼくと同じように考えるはずだから。そうさ、誰だって自分の命は大切だ。誰だって……
 ちくしょう! なのに、なんでこんなに心がざわつくんだよ!
「暗いから気を付けて下さい」
 珠美さんが言った。
 ぼくは、珠美さんと手をつなぎながら屋敷の裏の土蔵の前を歩いていた。手をつないでいるのは暗がりで珠美さんに誘導してもらうためだ。別段、それ以上の意味はない。
 そう。意味はないのだが…… 彼女の手の温もりが、否応なしにぼくに伝わってくる。その温かさは、まるで心の中にまで進入してきそうなほどだった。
「この先の井戸を抜ければ少し明るくなりますから」
 珠美さんは言った。
「ええ」
 ぼくは答えた。本当は、ずっと手を握っていたい。
 やがて、ぼくらは古い井戸のある前を抜けた。すると、高い木の数が減って、月明かりが充分地面を照らす広場に出た。
 手を離す頃あいだ。
 ぼくは、手の力を緩めようと思った。でも、そう思っただけで、実際は緩めなかった。それは珠美さんも同じだった。彼女もぼくの手を離す気配はまるでなかった。だから、ぼくたちはずっと手を握ったまま歩き続けた。
 もちろん、そんな時間がずっと続くわけじゃなかった。
 珠美さんが立ち止まった。
「ここです」
 ぼくらは、どちらともなく手を離した。
 ここは屋敷の裏庭。ぼくらの前には、人が一人通れそうな穴の開いた垣根があった。
「この垣根をくぐれば表に出られます。五十メートルほど行くと大きな通りに出るはずです。そこに佐藤が待っています」
 珠美さんはぼくが逃げ出す算段をしてくれたのだ。
「もしかして」
 と、ぼく。
「この垣根は、珠美さんが六才の時、表に出たところですか?」
「ええ」
 珠美さんはほほえんだ。
「また役に立つとは思いませんでした」
「珠美さん」
 ぼくは彼女を見つめた。そして、申し訳なさそうな声を出した。
「こんな形で失礼するのは本意じゃないんですけど」
「とんでもない」
 珠美さんは首を振った。
「それをおっしゃるなら、わたしの方こそ本意ではありません。お客さまにご迷惑を掛けたばかりか、こんな泥棒みたいな真似までさせて」
 珠美さんはぼくのことを『お客さま』と言った。このよそよそしさが、かえって珠美さんの心を表している気がする。
「けっきょく」
 と、ぼく。
「お父さんとお母さんには、いらぬ期待を抱かせてしまったようで申し訳なく思います」
「いいえ。父と母が勝手に早合点しているだけです。ううん。わざとそうしてるのだと思います。どうかお気になさらないで」
「しかし」
「大丈夫。わたしがちゃんと話しますから。父も母もわかってくれます。きっと」
「今でも、珠美さんの気持ちに変わりはないんですね」
「はい。もう決めたことです」
 これで終わりだった。ぼくにはもうなにもできない。そして、会話を続ける材料さえなかった。ただ、ぼくらは、ほんのしばらく見つめ合っていた。
 やがて、珠美さんが口を開いた。
「さあ…… もう行って下さい。父と母に見つかると、また厄介ですから」
「ええ」
 ぼくは垣根に手を掛けた。
「珠美さん。こんなことしか言えないけど…… どうかお元気で」
「ありがとうございます」
 珠美さんは笑った。
「森川さんもお元気で」
 ぼくは、後ろ髪を断ちきる思いで、珠美さんに背を向けた。そして、垣根をくぐるために、腰を落とす。
 ぼくは、一歩踏み出した。たぶん、この妖怪屋敷には、二度と足を踏み入れることはないだろう。
 そのとき。
 ほんの微か、珠美さんのつぶやきが聞こえたような気がした。そのつぶやきは、さようなら。と言っていた。
 ぼくは、もう一度。もう一度だけ珠美さんの顔を見たかった。だからぼくは、振り返えってしまったのだ。
 とたん。
「あっ……」
 と、珠美さんは小さく驚きの声を上げて、慌てて顔を背けた。珠美さんの頬から、キラキラと輝くものが宙に舞った。
 涙だった。
 珠美さんは泣いていたのだ。そして、それを見られないように顔を背けたのだった。珠美さんに会ってまだ数時間だけど、彼女の表情はいろいろ見てきた。上品な笑顔。困惑した顔。申し訳なさそうな顔。ホッとしたときの顔。悩んでいる顔。でも、涙を流している姿は今が初めてだ。そしてぼくは、今までの人生で知らなかったことを知った。涙に魔力があることを……
 子供から大人になる頃、自然と紡がれてしまった『事なかれ主義』という糸。それがぼくの身体をがんじがらめにしていた。でも、たった今、涙の魔力でそれが切れたのだ。もう、ぼくを押し止めるものは何もなかった。
「珠美さん!」
 ぼくは珠美さんを抱きしめていた。
「キャッ」
 彼女はぼくの胸の中で驚きの声を上げた。
「森川さん。は、離して下さい」
「いいや、離さない」
「だめ。どうかお願いだから…… もうこれ以上あなたのことを知りたくない」
 珠美さんはぼくの腕から逃れようともがいた。ぼくは、彼女を逃すまいと、いっそう力を込めて抱きしめた。
「珠美さん。ぼくを信じてくれますか?」
「えっ?」
 彼女の動きが止まった。
「こんな、もう何年も人のために何かするなんてこと忘れた男でも信じてくれますか?」
 珠美さんは何も答えなかった。
 ぼくは、珠美さんを腕から離すと、彼女の目を見てもう一度言った。
「ぼくを信じてくれますか?」
 この言葉には、主語もなければ前後の脈略さえなかった。ただ『ぼくを信じるか?』と聞いているだけなのだ。あまりにも強引な問いだった。でも、ぼくは繰り返した。
「信じてくれますか?」
 やや間があって、珠美さんはコクリとうなずいた。
「言葉で言って下さい。ぼくを信じると」
「もちろん、信じます。でも、森川さん。わたしは」
 ぼくは、珠美さんの唇に指を当てた。彼女は黙った。
「ドラキュラを倒す方法があるはずです。今は正確にわかりませんが、必ずその方法を見つけます。当てはあるんです」
「待って。たとえ、その方法がわかっても、危険なことに変わりはありません」
「だから、ぼくを信じるかと聞いたんです。そして、珠美さんは信じると答えてくれた」
「あれは…… そういう意味で答えたのではありません」
「いいや、もう遅い。ぼくは、ぼくを信じてくれたあなたを守ります。今度は、子供の頃とは違って、最後まで守り抜きます」
「いけません。そんなこと」
「残念ながら、もう決めました」
 つぎの瞬間。
 ぼくは自分でも信じられないことに、強引に珠美さんの唇を奪っていた。そして、もっと信じられないことに、珠美さんは、一瞬、体を硬直させたけれど、逃げなかったのだ。
 五秒? それとも十秒?
 時間の感覚はなかった。ぼくはゆっくりと彼女から唇を離した。
「あなたはバカです」
 珠美さんはぼくの腕の中でつぶやいた。
「知ってます。最近、ちょっとお利口さんになったつもりでしたけどね」
「また、お利口さんにお戻りになれないの?」
「無理でしょう。本来バカなんですから。六才の頃からね」
「では、わたしも同じですね。六才の頃からずっと」
「そうかもね」
 ぼくは、腕の力を抜いて、彼女の瞳を見つめた。
「ぼくたち、けっこう、お似合いのカップルだと思うな。なーんて言ったら、ぼくの思い上がりかな?」
「いいえ。でもきっと、わたしはあなたに相応しくない」
「ぼくなんかには、もったいない美人だから?」
「違います!」
「じゃあ、何が問題?」
「だってわたし。妖怪です」
「妖怪と人間が結ばれてはいけないなんて法律はない」
 ぼくはキッパリと言った。
「森川さん。本気でおっしゃっているの?」
「光彦です。そう呼んで下さい」
 とたん。
 珠美さんの瞳が潤んできた。
「あなたの…… あなたのその言葉が、本気だと思ってしまうのは、わたしの思い上がりでしょうか?」
「確かめてみたらどうです?」
「どうやって?」
「ぼくにキスを。もし、ぼくが逃げなかったら、本気だという証明です」
 どわっ! なにを言ってるんだぼくは! つい、雰囲気で口が滑ってしまった!
 だが、珠美さんは微かにほほえむと、意を決したようにうなずいた。
 ぼくはドキドキしながら珠美さんの行動を待った。珠美さんの唇を奪い、あれだけキザなセリフを吐いた割に、実は小心者のぼくなのだ。
 珠美さんは、ぼくの唇に、自分の唇を近づけてきた。だが、今にも触れようという距離で、彼女は止まった。でも止まったのは、ほんの一瞬だった。彼女は、ためらうような軽いキスをした。もちろん、ぼくは逃げなかった。


14


 珠美さんとぼくは、二人で垣根をくぐって屋敷の外に出た。そして、小走りで表の通りに向かった。
「お嬢さま~ 若旦那さま~」
 佐藤さんがぼくらを呼び止めた。
「お待たせしました佐藤さん」
 ぼくは言った。
「いいえ~ ですが~ どうして~ お嬢さまも~」
「佐藤。そのことは後で説明します」
 珠美さんは言った。
「それより佐藤。行き先が変わりました」
「若旦那さまの~ アパートでは~ ないんですか~」
「ええ」
 と、ぼく。
「ぼくの実家までお願いします。場所はご存じですよね?」
「はい~ よく存じてます~」
「じゃあ、さっそく行きましょう」
 ぼくと珠美さんがリムジンに乗り込むと、佐藤さんは、魔法の絨毯みたいな乗り心地でリムジンをスタートさせた。さすが、なめくじ。運転手に向いてるかも。
「もう十二時近いです」
 珠美さんが、外を流れる街の灯を見ながら言った。
「本当に、こんな時間にお邪魔してよろしいのでしょうか?」
「大丈夫。親父は夜型なんですよ。まったく、なにもかも型破りな男で、なんでぼくみたいに品行方正な息子が育ったのか不思議なくらいだ」
 珠美さんはクスクス笑った。
「存じてます。お会いしたことはないですけど」
「そう言えば、珠美さん、ぼくの実家にちょくちょく来ていたんでしたっけね」
「ええ。ごめんなさい。なんだかわたしストーカーみたいですよね」
「ハハハ」
 ぼくは笑った。
「それなら、もっとぼくにわかるように出没してくれなきゃ」
「うふふ」
 珠美さんも笑った。
「そうですね。これからはそうします」
 ぼくは思った。なんだが、彼女の表情が生き生きしてきたようだ。
 このとき。ふと、ぼくはあることに気が付いた。
「そう言えば、珠美さん。ぼくの親父に会うのは大丈夫なんですか?」
「えっ? ああ」
 珠美さんは、合点がいったらしく、にっこりと笑った。
「そういうことでしたら、ご心配には及びません。わたし、日本の妖怪ですから」
「それはよかった」
 ぼくはホッとした。
 それから五分後には、ぼくらを乗せたリムジンは、ぼくの実家に到着した。うちの実家と珠美さんの屋敷は近いのだ。もっとも、深夜なので道が空いていたのもあるが。
「行きましょう」
「はい」
 ぼくは、彼女と一緒にリムジンを降りて、親父の職場に向かった。実家の表側が親父の職場なのだ。逆に言うと、職場の裏が実家である。
 思った通り、職場の方には、まだ中に明かりが灯っていた。
 ぼくは、重く大きな扉を押した。キキキッと、油が切れた音を立てて扉は開いた。
「親父!」
 ぼくは奥に声を掛けた。
 返答はなかった。
「居眠りでもしてるかな?」
 ぼくは後ろにいる珠美さんに、おどけた声で言った。
「ふふ」
 珠美さんは笑った。
「ねえ、光彦さん」
 彼女は建物の中を見回した。
「立派なステンドグラスですね。朝、光が当たったら、さぞ綺麗でしょうね」
「実際はホコリが溜まってるって知ってます?」
「まあ、光彦さんたら」
 彼女はクスッと笑った。
「でも、この教会はとてもすばらしいわ。きっと素敵な精霊が宿っているのですね」
「精霊?」
「はい」
 珠美さんは胸に手を当てて瞳を閉じた。
 ドキッ!
 ぼくの心臓が大きな鼓動をひとつ打った。精霊が恐いから心臓が高鳴ったんじゃない。胸に手を当てて瞳を閉じた珠美さんが、あんまり綺麗なもんだからドキッとなったのだ。そもそも妖怪という言葉のイメージが悪いんだよな。たぶん、妖怪も精霊も同じなんだ、きっと。
「ほら。微かに感じますよ」
「えっ?」
「精霊です。みんなとってもいい子みたい」
 珠美さんは目を開けた。
 ぼくは珠美さんをじっと見ていた。
「あの…… わたし変なことを言いましたでしょうか?」
「そうじゃなくて、なんて言うかその。珠美さんこそ精霊みたいだ。すごく綺麗で」
 ぼくは自然と口が動いてしまった。
 あがが…… 言ったはいいけど、お、奥歯が…… ちょっと浮いたかも……
「い、いやだ。光彦さんたら」
 珠美さんはポッと顔を赤らめた。
 そのとき。
「誰かいるのか」
 教会の奥の事務所から、丸い眼鏡を掛けた神父が出てきた。ちなみに、カソリックは神父。プロテスタントは牧師と言う。ためになった?
「親父。ぼくだ」
「なんだ光彦か。どうした、こんな時間に」
「悪い。ちょっと聞きたいことがるんだ」
「ほう。おまえがオレに質問とは珍しい。ん?」
 親父は、ぼくの隣にいる女性に気が付いた。親父は、つかつかとぼくらの方に近づいてきて、珠美さんを観察した。今の珠美さんは人間に化けているから問題ないはずだ。
 珠美さんはペコッと頭を下げた。
 親父は、険しい表情で珠美さんを観察し続けた。まさか、妖怪だってバレた?
 ところが。
「こりゃまた、えらいべっぴんさんだな」
 親父はそう言って、ビシッと小指を一本立てた。
「おまえのコレか?」
「あのねえ! 神父のくせに、どうしてそういう聞き方をするんだよ!」
「なんだ、違うのか」
「いや、違わないけどさ」
「ほう! こりゃ驚いた。おまえもやるな」
「あの……」
 珠美さんがぼくにささやいた。
「先ほどの小指はどういう意味でしょうか?」
「ええと、その…… 恋人かって意味です」
 とたん。珠美さんは顔を赤くした。もっと正確に説明していたら、卒倒するんじゃなかろうか?
「とにかく、紹介する。彼女は水木珠美さんだ」
 珠美さんは、慌てて頭を下げた。
「水木です。初めましてお父さま」
「お父さまだと?」
 親父はニヤリとした。
「おまえら、そんな仲なのか。まさか、もうガキがいるってんじゃないだろうな」
「親父!」
「わーかった、わーかった。夜中にそんな怒鳴るな。ちょっとプリティなジョークを言っただけだ」
「親父。一度聞こうと思ってたんだけどな」
「なんだ?」
「あんた、本当に神父か?」
「バカなことを言うな。オレが牧師に見えるか?」
「見えない」
「だから神父だ」
「つまり、消去法で神父なんだな」
「言うようになったな息子よ。で、オレに質問とはなんだ」
「そうだった」
 ぼくは親父のペースから自分のペースに戻すため、一呼吸置いた。
「実は、こんなこと聞いたらバカにされそうなんだけど。ドラキュラの倒し方を教えて欲しいんだ」
「ドラキュラ?」
「そう」
「あの処女の血を吸うドラキュラ?」
「そう」
「おまえ、気は確かか?」
 やっぱりな。半分予想していた返答ではあった。
「夜中に邪魔したな、親父。文献を当たってみるよ。行こう珠美さん」
「待て待て早まるな。そういう意味じゃない。本当にドラキュラなんかと闘う気なのかって聞いたんだ」
 ぼくは、足を止めて親父を振り返った。
「知ってるのか?」
「ふう」
 親父は珍しく溜息を付いた。
「まさか、おまえにこの話をするときが来るとはな」
「な、なんだよ、もったいぶって」
 ぼくはそう言いながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「実はな」
 親父は眉間にしわを寄せて話し始めた。
「オレは昔、ドラキュラ・スレイヤーと呼ばれた男だ」
「なぬ?」
「おまえが生まれる前は、これでもヨーロッパに修行に出ててな。その頃、ずいぶん性悪なドラキュラを退治したもんだ。もっとも、オレは女のドラキュラ専門だったけどな。男の魅力で女ドラキュラを惹きつけて…… おっと、これはかーさんには内緒だぞ」
「ホントかよ、親父!」
 ぼくは、もろに疑いの眼差しで親父を見た。
「おうよ。ドラキュラをばったばったとなぎ倒し、狼男の胸に銀の玉をぶちこみ、フランケンシュタインに百万ボルトの電流をお見舞いし」
「もういい」
「なんで? ここからおもしろいのに」
「まあ、話を百分の一に縮小しても、取りあえず、ドラキュラを倒す方法だけは知ってるんだな」
「我が息子ながら可愛げのないヤツだ」
「うるさいな。時間がないんだ。さっさと知ってることをしゃべってもらおう」
「いいだろう。だが、その前にいきさつを話せ」
「長くなる」
「いいから話せ」
「わかったよ」
 ぼくは、なるべく要点だけに絞って今までのいきさつを話した。
「妖怪? この子が?」
 親父は話を聞き終わると、珠美さんを再び観察した。
「はい…… わたし妖怪猫娘です」
 珠美さんは、少しためらいがちに答えた。
「ふ~ん。妖怪猫娘っていやあ、超美人ってもっぱらの噂だぜ。それが光彦に惚れるなんてなァ。世の中わからん」
「ちょっと待て親父。その噂ってなんだよ、噂って」
「なんだ、おまえ知らんのか? オレたち神父の間じゃ、世界妖怪日報って業界紙があってな。そこに書いてあった」
「業界紙? 世界妖怪日報?」
「おうよ。世界の妖怪を紹介してる」
「ホントかよ~」
「おまえも疑り深いなァ。それでも神に仕える者の息子か」
「ぼく自身が神に仕えてるわけじゃない」
「ちっ。まだ、家を継ぐ気にはならんか」
「だから、それは話が違うだろ。それに、教会って世襲制でいいのかよ」
「理屈を言うな。オレだって、おまえにやりたいことがあるなら何も言わん。ただ、フリーターなんてバカな人生を送るぐらいなら、頭を丸めて修行しろと言ってるんだ」
「頭を丸めるのは仏教だ」
「理屈を言うな」
「事実を言っただけだ」
「まったく、口ばっかり達者になりおって」
 ぼくは頭が痛くなってきた。親父と話をするといつもこれだ。
「まあ、いい」
 親父は首を振った。
「おまえの進路については、またつぎの機会にしよう。それより、この娘さんの問題を解決する方が先だな」
「たまには、いいこと言うな」
「いつも言っとる。さて、ドラキュラだが。おまえ、本気でやるつもりか?」
「もちろんだ」
「神に誓えるか?」
「いいや。ぼくは珠美さんに誓う」
「くわーっ。キザ! すかしてるゥ~ 言ってて恥ずかしくない?」
「親父! 茶化すなよ!」
 ぼくはそう怒鳴りながら、実際、顔が真っ赤になっていた。
「お嬢さん。こんなバカ息子のどこがいいんです?」
 親父はぼくを無視して珠美さんに聞いた。
「こんなところがです」
 珠美さんはニコニコしながら答えた。
「ふうん。お嬢さんもずいぶん変わり者ですな」
「あのねえ」
 と、ぼく。
「そんなこと、親父に言われたくないよ。自分こそ変わり者のくせに」
「こら。オレのどこが変わり者だって言うんだ」
「全部。もう、変わり者を通り越して、変態かも」
「おまえ、自分の親にそういうこと言うか、普通」
「そっちこそ、息子のガールフレンドに言うか、普通」
「アハハハハ」
 珠美さんがお腹を抱えて笑い出した。
 ぼくはビックリした。あの珠美さんが、お腹を抱えて笑ってる。うそでしょ?
「ご、ごめんなさい」
 珠美さんは、笑い涙を拭きながら言った。
「お二人とも、とっても仲がよろしいんですね。まるでお友達みたい」
「冗談!」
 ぼくと親父は同時に叫んだ。叫んだあと顔を見合わせた。それを見た珠美さんは、またプッと吹きだした。
 まあ、いい。ともかく。あの珠美さんを笑わせたんだから、よしとしよう。
「親父。ぼくはあんたと漫才をやってる時間はないんだ」
「オレもだ」
「だったら、話を進めろよ」
「わかった。おまえがあそこまで恥ずかしげもなく言うなら仕方ない。なんだっけ? 珠美さんに誓う?」
「お、おやじい~」
 ぼくは親父を睨んだ。
「わかった、わかった。恐い顔するな。とにかく、おまえが本気ならドラキュラ退治の方法を教えよう」
「最初から、そう言ってくれよ」
 ぼくはすでに疲れていた。
「うむ。しかしな、息子よ。一朝一夕にはいかんぞ。ドラキュラを退治するには、血の滲むような修行が必要だ」
「修行?」
「そうだ」
「血が滲むような?」
「そうだ。辛いぞ。大変だぞ。苦しいぞ」
「親父もその修行をしたのか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、問題ない」
「どういう意味だ」
「聞いたとおりの意味だ」
「ホント、おまえって可愛くないな。まあいい。今日はもう遅いから、このお嬢さんを送ってこい。修行は明日からだ。ビシビシいくぞ」
「親父。ホントに、ドラキュラを倒せるんだろうな」
「もちろんだ」
 親父はそう言ったあとニヤリと笑った。
「ただし。すべておまえ次第だがな」


15


 ぼくらは親父の教会を出た。
「さっきは、ごめんなさい」
 珠美さんがぼくに言った。
「さっきって?」
「笑ってしまったときです」
「ああ、あれね」
「わたし、今まで一人で思い悩んでいたのが嘘みたいです。なんだか、今は、とっても気分がよくって」
「う~ん。それを言うならぼくもそうかな。なんか、クソ親父のパワーに感化されたら、ドラキュラなんか恐くなくなってきた」
「いいお父さまですね」
「頭の痛い親父だよ」
「うふふ。そういえば、今思ったんですけど、光彦さんのお父さまと、うちの父って気が合いそうだと思いません?」
「うん。ああいう親を持つと、お互い子供は苦労するよね」
「ええ。ホントに」
 ぼくらはそう言って笑い合った。
「お嬢さま~ 若旦那さま~」
 ぼくらの笑い声を聞きつけた佐藤さんが、リムジンから降りてきた。
「楽しそう~ なにが~ あったんですか~」
「うふふ。佐藤にもあとで話していいですか?」
「ええ。もちろん」
「では~ 若旦那さま~ アパートまで~ お送りします~」
「えっ、もう?」
 珠美さんは佐藤さんに言った。
「はい~ もう~ 夜も~ 遅いです~」
「そう…… そうね。佐藤の言うとおりだわ。では、光彦さん。アパートまでお送りします」
 珠美さんはちょっと寂しそうに言った。
「いや。今日は久しぶりに実家に泊まるよ」
「そうですか。では、ここでお別れですね」
「今夜はね」
「ええ。今夜は」
 珠美さんはニコッと笑った。
「では、明日の朝、こちらに参ります」
「ハハ。ぼくがしごかれるところを見に来てよ」
「本当に大変なんでしょうか?」
 ふと、珠美さんの顔が曇る。
「さあ。あの親父がどこまで本気なのか…… まあ、明日になればわかるよ」
「そうですね」
「お嬢さま~ どうぞ~」
 佐藤さんは、リムジンのドアを開けた。
「ありがとう佐藤」
 珠美さんはリムジンに乗りかけると、ふと、足を止めた。
「そうだ。光彦さん」
「なに?」
「さっき、光彦さんが言ったこと」
「ぼくが?」
「ええ。あの…… わたしに誓うって」
「ああ」
 ぼくは赤面した。
「あれはその。ええと、ぼくは神様ってのを信じてないから。やだなあ、珠美さんまで、茶化さないでよ」
「違うんです」
 珠美さんは首を振った。
「あの言葉を聞いたとき。わたし、すごくうれしかった」
 珠美さんは、ちょっと赤面しながら言った。
「ありがとう光彦さん。わたしも光彦さんに誓います。ずっと信じ続けるって」
「う、うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 珠美さんは、とろけるような笑顔を残してリムジンに乗り込んだ。
 ぼくは、珠美さんのリムジンが見えなくなるまで見送った。
 それにしても…… 彼女って最高!


16


「秩父の山だって?」
 ぼくは、ご飯粒を飛ばしながら言った。久しぶりにお袋の作った朝飯を食べていたのだ。
「こら、光彦」
 お袋が怒鳴った。
「食べながらしゃべるんじゃありません」
「ご、ごめん。それより親父。なんで秩父なんかに行かなきゃいけないんだよ」
「そりゃ、おまえ。修行のために決まってるだろ」
 親父は納豆ご飯を食べながら答えた。
「わかってるけど、なんで秩父の山なんだよ」
「ヒヒヒヒ」
 変な笑い声を上げたのは、まだ大学生の弟だった。
「聞いたぜ、兄貴。ガールフレンドのために修行するんだって?」
「うるさい。黙ってろ、直樹」
「へいへい。ま、がんばってくれよ。これでも応援してるんだぜ」
「どこが」
「だってさ。兄貴に春が来たわけジャン。今度でやっと二度目の春かな?」
「ふん。ぼくは一点豪華主義なんだよ。おまえみたいに、年中発情期のヤツと一緒にするな。こないだの女の子とも三ヶ月で別れたんだろ?」
「なんですって!」
 それを聞いたお袋が、弟を睨んだ。
「直樹。おまえって子は、どーしてそうフラフラしてるの!」
「うへっ」
 直樹は肩をすくめた。
「ひどいよ、兄貴。かーさんには黙っててくれって言ったのに」
「自業自得だ」
「おい、直樹」
 親父が七宝焼の湯飲みでお茶をすすりながら言った。
「なんでもいいがな。ちゃんと避妊はしろよ」
「あなた! それでもカソリックの神父ですか!」
 お袋が叫んだ。
 まったく、カソリックの神父が避妊を勧めるようになったら世も末だ。それにしても、うちの家族って、いったい……
 だが。
 ピンポーン。と、インターフォンが鳴ったとき。ぼくは直感的に嫌な予感がした。もう一組、頭の痛い家族がわが家にやってきたのであった。
「お邪魔いたします」
「失礼いたしますゥ」
「おじゃましまーす!」
 玄関に現れたのは、言うまでもなく、烏天狗のお父さんに、ろくろ首のお母さんに、雪女の妹さんだった。もちろん、みんな人間に化けている。
「おはようございます」
 彼らの最後に珠美さんが入ってきた。
「あらあら、みなさん」
 対応に出たお袋が頭を下げた。
「主人と息子から、お話は伺いましたわ」
「初めまして。珠美の父です。朝早くから押し掛けまして」
 烏天狗のお父さんは頭を下げた。
「珠美の母です。どうぞォ。これ、つまらないものですが」
 ろくろ首のお母さんは、のし紙の付いた箱をお袋に渡した。大きさから見て、カステラと見た。
「まあ。そんなお気遣いなく」
 お袋は、いったんカステラの受け取りを拒否した。
「いいえェ。娘がすっかりご迷惑をおかけしましてえ」
 ろくろ首のお母さんは、深々と頭を下げた。
「とんでもございませんわ。ご丁寧にどうも。さあ、どうぞ、狭いところですが」
 お袋はカステラを受け取ると、妖怪家族をうちに引き入れた。
 なんか、その…… 日本的な風景だよなァ。
「光彦さん」
 最後に上がった珠美さんがぼくに耳打ちした。
「ごめんなさい。父たちに事情を話したら、どうしてもご挨拶するってきかなくて」
「ううむ。遅かれ早かれ、こういう事態になるとは思ってたけど」
「ええ」
 珠美さんもうなずいた。
「ところで、お爺さんたちは?」
「はい。昨日、お酒を飲み過ぎましたので休んでいます」
「ふう…… こう言っては失礼だけど、不幸中の幸いだな」
 珠美さんはクスッと笑った。
「わたしもそう思います」
「そう言えば、珠美さんこそ、昨日は休めた?」
「ええ。久しぶりに眠れました」
「それはなにより」
「光彦さんは?」
「ぼくも、あれからすぐ寝たよ。バッチリね」
「よかった」
 いつの間にか話し込んでいるぼくらを、家の奥からお袋が呼んだ。
「光彦。なにしてるの!」
「今行く!」
 ぼくは叫んだ。
「珠美さん。こうなったら、せめてぼくらだけでも、気をしっかり持とう」
「はい。光彦さんのおっしゃるとおりです」
 ぼくらは、顔を見合わせてうなずきあった。


17


「さあ、こちらへどうぞ。主人がお待ちしております」
 お袋は、客間に烏天狗のお父さんたちを案内した。
 うちの客間には、二つの家族が勢揃いした。
「あ、兄貴」
 直樹がぼくに耳打ちしてきた。
「珠美さんって、すっごい美人ジャン。残り物には福があるってホントだな」
「誰が残り物だ、誰が」
「へへへっ。でもさあ、オレはあの妹さんの方が好みだなァ。お姉さんみたいに超が付く美人じゃないけど、けっこうイカス」
「おまえ、半端な気持ちで言ってるなら、ぶん殴るぞ」
「ち、違うよ。なんかさ。オレ、マジで惚れそう。こんな気持ち初めてだよ」
 ぼくは溜息を付いた。兄弟で姉妹をゲットってのは、ちと、ヤバくないか?
「なあ、直樹。おまえ冬は好きか?」
「は? いや、夏の方が好きだな」
「じゃあ、諦めろ」
「なんで?」
「なんでも!」
 とか言いながら、妹の冬美さんも、直樹をちらちら見ているのに、ぼくは気が付いた。
 おいおい、雪女と付き合った日には…… ん? クーラーつけなくていいから、電気代が助かるか? まあいいや。ぼくは知ーらないっと。
「このたびは、うちの珠美がえらいご迷惑をお掛けすることになりまして」
 お父さんが口火を切って挨拶をした。
「いや。こちらこそ、うちの愚息がお世話になりまして」
 親父が言った。
「森川さんがうらやましいですわァ」
 お母さんがうちのお袋に言った。
「ホントにねえ。いい、息子さんをお持ちになられて」
「とんでもない」
 お袋が応じた。
「水木さんこそ、素敵な娘さんをお持ちでうらやましいわ。わたしも娘が欲しかったわ」
「あらァ。娘ばかりも大変ですわよォ」
「あら。男ばっかりも、むさ苦しいだけですわよ」
 お袋とろくろ首のお母さんは、ホホホと笑いあった。オバサンだなァ。
 ぼくはハッとした。いかん。このままホームドラマを続けてる場合じゃない。
「みなさん!」
 ぼくは主役の面目を保つために叫んだ。
「ここでのんびり挨拶をしてる場合じゃありません。一刻も早くドラキュラ退治の準備を始めなければ」
「うむ」
 親父がうなずいた。
「バカ息子の言う通りです。もっとも、準備をするのは、このバカだけですがね」
「おやじい~」
「怒るな。ホントのことだ。そういうわけで水木さん。このバカ息子には三日ほど秩父の山奥にこもって修行をさせます」
「そうかあ」
 と、烏天狗のお父さん。
「すまんなあ、光彦君。珠美のために。わたしにできることはなんでも言ってくれ」
「いやいや、水木さん」
 と、親父。
「なにせ修行ですからね。手助けは禁物です」
「しかし、森川さん。秩父の山と言えば、わたしら妖怪も沢山住んでおります。ぜひ、お手伝いさせていただきたい」
「ふむ。でしたらお言葉に甘えて、食事なんぞのまかないをお願いできますかな。いや、バカ息子なんぞどうでもいいんですが、わたしも一緒にこもりますんで」
「お、おやじい!」
「怒るなって。なにも、飯を食わせないとは言ってない」
「あい、わかりました」
 烏天狗のお父さんが言った。
「そんなことでよろしかったら、どんどん言いつけて下さい。おい、かーさん。携帯電話あったか?」
「はい、お父さん」
 ろくろ首のお母さんは、ハンドバックから携帯電話を出した。
「うむ」
 お父さんは、ピポパとボタンを押した。
「あー。わたしだ。これからそっちに、わたしの大事な客人が向かわれる。うん、そうだ。その件だ。たぶん珠美も行くだろう」
 お父さんは電話しながら珠美さんを伺った。珠美さんはうなずいた。
「ああ、行くそうだ。わたしは仕事があるんで行けないが、よろしくはからって欲しい。おお、そうか。頼んだぞ」
 お父さんは電話を切った。
「あの」
 ぼくは聞いた。
「今、どちらに電話を?」
「うむ。日本妖怪振興会の秩父支部だよ光彦君。あちらのことはなにも心配せんでいい」
「よし」
 親父が立ち上がった。
「話も付いたところで、さっそく行くとするか」
 ぼくも立ち上がった。珠美さんも立ち上がった。
「兄貴。がんばれよ」
 直樹がぼくに言う。
「お姉ちゃんもしっかりね」
 冬美さんも言った。二人はいつの間にか、隣あって座っていた。いいのかなあ?


18


 秩父に到着したのはお昼過ぎだった。
「どうでもいいが、親父」
 ぼくは言った。
「なんだ?」
 親父がノンキな声で聞く。
「こんなものが、ホントに存在していいのか!」
 ぼくは、山道の入り口に掲げられた看板を指さした。そこには、『全日本格闘神父養成センター。秩父山訓練所』と書かれていたのだ。
「あるんだからしょうがないだろう」
 親父は言った。
「ううう。ぼくはもう、何を信じて生きていけばいいんだ」
 ぼくは頭を抱えた。
「泣くなよ~ こんなことで」
 そのとき。
 周りの森林がザワザワと音を立て始めた。
「な、なんだ!」
 ぼくは気を取り直して、とっさに珠美さんをかばった。
「お嬢さま!」
 ぴゅこん。と、小さな男が森の中から出てきた。その男は、笊を持って腰ミノを巻いていた。
「あら、近藤さん」
 珠美さんは懐かしそうな声を出した。
「近藤さん?」
 ぼくは、拍子抜けしてた。
「小豆洗いの近藤さんです」
 と、珠美さん。
「近藤さんは、秩父支部の班長さんなんですよ」
「はあ。そうなんですか」
「お久しぶりです、近藤さん。奥様はお元気ですか?」
「ええ。相変わらずですわ」
 近藤さんは言った。
「いやあ、それにしても、よくおいで下さいましたなあ。ずいぶん大きくなられて」
「すいません。ご無沙汰しちゃって」
「いやいや。こちらこそ。しばらく見ないうちに、また一段とお美しくなられた」
「まあ、近藤さんったら」
 すると、近藤さんに続いて、わらわらと、森の中から妖怪が出てきた。こんな山奥に人が入ってくることはないせいか、みなさん、人間に化けてはいなかった。もっとも、ぼくの乏しい知識では、誰がなんの妖怪かわからない。
「こりゃすごい」
 親父が言った。
「こんなに大勢の妖怪に会ったのは、オレも初めてだ」
「親父、誰がなんの妖怪かわかるのか?」
「バカにするな。ざっと見ただけでも、油赤子に一反木綿に鬼火に河童に黒坊主に不知火に袖ひき小僧に高入道に百目鬼に塗壁に…… ぷぱーっ、息が切れた。まだ続けるか?」
「もういい。どうせ覚えられない」
 見ると、珠美さんは、妖怪の仲間たちに囲まれていた。
「お嬢さま、よかったですねえ」
「ホントによかった」
「おめでとう、お嬢さま」
 珠美さんは、その一言一言にありがとうと笑顔で返事を返していた。珠美さんって、すごく慕われてるんだなァ。なんか、ぼくも誇らしい気分だ。
 だが。
「おまえも大変だよなァ。オレ、ちょっと同情しちゃうかも」
 と、親父が言った。
「なんで?」
「だってさ」
 と、親父が答える前に、珠美さんを囲んでいた妖怪がぼくの方に向かってきた。
「おうおうおう。あんたが若旦那さまかい」
 妖怪たちが、ぼくにガンを飛ばした。
「なんでもいいけどよう、お嬢さんをよろしく頼むよ」
「お嬢さんを泣かしたら、オレらが許さないぞ」
「そうだそうだ。お嬢さまを大切にしろよ」
 わわわ。これって、なにごと!
 ぼくがたじろいでいると、親父が哀れみの表情でぼくを見て一言。
「な?」
 親父の言った意味がやっとわかった。


19


 修行が始まった。
「お、おやじい!」
 ぼくは叫んだ。
「ホントに、こんなことが必要なのか!」
 ぼくは、まるで山伏の修行よろしく、白い浴衣みたいなのを着て滝に打たれていた。
「文句言うな」
「でも、だって、これって、どういう意味があるんだよ!」
「それが文句と言う。ドラキュラを倒したくないのか、バカタレ」
「うっ……」
 あとで覚えてろ。とは思ったが、今は親父の言う通りにするしかなかった。
「光彦。アホ面で滝に打たれてないで、念仏でも唱えろ」
「なんで念仏なんだよ!」
「じゃあ、アーメンでもいいや」
「どっちだよ!」
「ギャーギャーうるさいな。精神を統一しろと言ってるんだ。今は煩悩を捨て去れ」
「だったら、ぼくの前から消えてくれ!」
 ぼくは、今まで以上の声で叫んだ。
「なんで?」
 と、親父。
「わかんないのかよ!」
 クソ親父は、ぼくの目の前で、妖怪さんたちと宴会を催していた。ドンチャン乱痴気騒ぎが繰り広げられているのだ。
「情けない。これぐらいなんだ」
「クソ親父!」
「ま、がんばれや。ときに、息子よ。この秩父名物、秩父饅頭って旨いな」
「ううう」
「酒も旨いし、言うことなしだぜ、おい」
「わざとやってるだろ?」
「あっ。わかる?」
「バカヤロー!」
「やれやれ。こりゃ、当分帰れそうもないな。この程度で動じるな」
 くそーっ。くそーっ。耐えてやる。絶対、耐え抜いてみせる! ぼくはそれきり、一心不乱に外界の雑音をシャットアウトした。
 それからぼくは、日が暮れるまで滝に打たれ続けたのだった。


20


「ふーっ」
 ぼくは安堵の吐息をもらした。
 闘う神父の訓練所なんてイカレタ施設ではあるが、一応、ユースホステルみたいに普通の部屋があるのはありがたい。ぼくは、ベッドの上に倒れ込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「うん。まあ、なんとか」
 珠美さんは、滝に打たれたぼくの肩を、やさしくさすってくれていた。彼女の手の温もりが伝わってきて気持ちがいい。
「わたし。こんなことしかできない自分が恨めしい」
「なにをバカなことを」
「でも…… 光彦さんがこんなに辛い思いをしているのに」
「辛くなんかないよ。って言ったら嘘になるな」
「ごめんなさい、光彦さん」
「もう謝らないでよ」
 ぼくは言った。
「なんかこう、爽やかな疲労なんだ。うまく説明できないけど、ここ何年も一所懸命になることってなかったからね。不思議な充実感って感じかな」
「本当にそう思っていただけるのですか?」
「うん」
 ぼくはニコッと笑った。それは真実だった。
「光彦さん」
 珠美さんは、そっとぼくの背中に抱きついてきた。
「うれしい…… わたしも、あなたのために何かしたい」
「もうしてくれてるよ。こうして、目的を与えてくれたから」
 ぼくは珠美さんの腕を取って、正面に引き寄せた。
「あっ」
 彼女の小さな悲鳴を聞きながら、ぼくは彼女の唇に……
 そのとき。
「息子よ!」
 親父が部屋に入ってきた。
「お、おやじ…… あんたって人は…… いいところで……」
 ぼくは歯ぎしりした。
「おう、バカ息子。元気か?」
「酔ってるな!」
「ワハハハ。酒がうまくてイカン。ん? おまえら何やってるんだ?」
 珠美さんは、ぼくに抱きつくような格好だった。いや、実際抱きついてたもんだから、慌ててぼくから離れた。
「お、おやじい……」
 ぼくは、クソ親父を睨みつけた。
「若いなァ。そんだけ体力があればじぇんじぇん、ノープロブレムじゃん」
「プロブレムはあんただろ!」
「ワハハ。お呼びでない? お呼びでない? ってか!」
「酔っぱらいめ……」
「若人よ励みたまえ! 産めよ増やせよ、若気の至り。なんちゃって。ガハハハハ」
 親父はそう言い残して去っていった。
 そんなこと言われて、励めるかーっ! バカーッ!


21


 翌日もぼくは滝に打たれていた。結局、昨日の晩は、親父のせいでムードぶち壊し状態になり、親父が去ったあと、珠美さんも早々に自分の部屋に帰っていったのだ。
 くそう。この恨み、晴らさでおくべきか。
 とか言いながら、二日目ともなると、だいぶ滝の打たれ方のコツがわかってきて、昨日よりだいぶ楽な気分になっていた。
 問題は、クソ親父が二日連ちゃんで宴会をやってることだ。なによりぼくが腹立たしいのは、珠美さんに酌をさせてること。ああイラつく!
「あの…… お父さま、あまりお飲みにならない方が」
 珠美さんは困惑した様子で酌をしていた。
「ワハハハ。こう見えても、オレは若い頃、ウワバミの狂ちゃんって言われた男ですぞ。この程度の酒、軽い軽い!」
 今でもウワバミだ、おのれは! ぼくは心の中で叫んだ。ちなみに親父は、狂史朗と言うふざけた名前である。
「いや、それにしても、嫁に酌してもらう酒はうまい!」
「お父さまったら、だいぶお酒が回っていらっしゃいますよ」
「ワハハハ。まあまあ、珠美さんも一杯どうかね?」
「ありがとうございます。でも、わたしお酒は……」
「なーんだ。あんた、下戸か?」
「いえ…… 光彦さんが修行なさっているときに、お酒なんて頂けません」
 珠美さんは、滝に打たれるぼくを見つめた。
「くうっ。泣かせる話じゃ!」
 と、親父。
 てめえが、泣かせてるんだろ!
「お父さま」
 珠美さんが真剣な顔で言った。
「このように宴会などなさらず、一刻も早く、光彦さんの修行をお進めいただけないでしょうか?」
「いやあ、オレも早く山を降りたいのは、ヤマヤマなんですがね」
 ぼくは一瞬思考が止まった。
「あれ? おもしろくない?」
 親父は珠美さんに聞いた。
「なにがですか?」
 と、珠美さん。
「いや、山とヤマヤマを掛けたんですけど」
「えっと……」
 珠美さんは少し考えてから、
「ああ!」
 と、合点がいったようだった。
「ワハハハ! 受けませんでしたな。ワハハハ!」
 お・ち・つ・け。
 落ちつくんだ光彦。これが親父の作戦なんだ。無視、無視。
 ぼくは、昨日と同じように、外界の雑音をシャットアウトすることに専念した。
 すると。
「やっぱり人間なんてダメさ」
 声が聞こえた。
「そうかなあ。ぼくは人間も捨てたもんじゃないと思うよ」
 また別の声がした。
 ぼくは薄目を開けてみた。すると、ぼくの目の前の滝壷に、河童が二匹プカプカ浮いていて、なにやら話し込んでいる様子だった。
「へえ。どうして君は、人間に肩入れするんだい?」
「うん。もう八十年ぐらい前の話だけどね」
 ぼくは、知らぬうちに河童の会話に聞き耳を立てていた。
「八十年前?」
「うん。ある日、おいらの住んでる沼に、人間の男がやってきてね。そいつが、沼に石を投げ込んでるんだよ」
「ほら見ろ。人間なんてろくでもない」
「いやいや、話は最後まで聞いてくれよ。まあ、おいらも最初頭にきてさ。その人間の男に注意したのさ」
「ふむ。そいつは河童を見てさぞ驚いたろうな」
「それが、おいらを見ても一向に動じないんだよ。それどころか、河童が住んでるとは思わなかった。石を投げこんだりして悪かったって言うんだ」
「ほう。それで?」
「そしたら、お詫びに酒でもどうかって言う」
「へえ!」
「こいつはいよいよ変わった人間だと思ってさ。おいら、酒をご馳走になることにしたんだよ」
「毒でも入ってたんじゃないかい?」
「まさか。だったらおいらもう死んでるよ」
「それはそうだ。で、それから?」
「うん。その男とさ、酒を飲んでいたら、そいつがポツリと言ったんだ。実は、この沼には身を投げに来たんだ。ってさ」
「自殺かい?」
「そう。おいら、たまげちゃってさ。何でそんなことをするのか、すっかり話して聞かせろって言ったんだ。どうも、その男は仕事に失敗したらしくてね。借金が返せなくて死ぬつもりになったんだと」
「ありがちだねえ」
「まあね。でもさ。おいら、酒をおごってもらった義理もあるし、ここは一肌脱いでやるかって気になったんだ」
「まったく、君は昔から河童好しだなあ」
「まあ、そう言うなよ。おいらの住んでる沼の底には、小判が落ちてたからさ。そいつを三枚ほど拾って、その男にくれてやっただけさ。どうせ、おいらには何の価値もない」
「そしたら?」
「いや、たいそう喜んで帰っていったよ」
「バカなことしたなァ君。そりゃ、また小判をせしめに戻って来たろう?」
「だから、話は最後まで聞きなよ。それから何年かして、今度は人間の女がおいらの沼にやってきたんだ」
「ほう」
「まあ、たまに人間が迷い込んでくるから、今度もそうだろうと思ったら、その女がおいらのことを呼ぶんだよ」
「へえ! そりゃまたなんで?」
「だろ? おいらもビックリしてさ。沼から顔を出したんだ。そしたら、いつぞやは主人が大変お世話になりましたって、お礼を言われちゃった」
「しっかりした女房だねえ」
「うん。でさ、おいらが旦那さん元気にしてるかって聞いたら、一月前に病気で死んだんだって言うのさ」
「おやおや」
「うん。でもさ、あの小判のおかげで、仕事も何とか持ち直したらしくてね。あとは息子が継いだらしいよ」
「そりゃ、よかった」
「うん。そんで、あの旦那。死に際にね、何年か前に世話になった河童がいるから、そいつに酒を届けてくれと、奥さんに頼んだらしいんだ。奥さんも、おいらの話を旦那に聞かされたときは、ビックリしたらしいけど」
「そりゃ、そうだろうとも」
「うん。でも、結局は旦那の話を信じて、おいらに酒を持ってきてくれたんだ」
「できた女房だねえ」
「うん。しかも、毎年、旦那の命日になると、酒を持ってきてくれてさあ。二十年以上続いたかな。奥さん、亡くなる前の年までね。いや、なんかうれしかったねえ」
「そうかい。そんなことがあったのかい」
「うん。あの旦那には気の毒したけどね。結局、病気じゃ仕方ないよ」
「そうさなあ。でもまあ、人間も悪くないじゃないか」
「だろ?」
「じゃあ、この滝に打たれてる人間も見込みがあるかね?」
「おいら、そう信じるよ」
「そうさなあ。君がそう言うなら信じてみるか」
「うん。それがいいよ。ところでどうだい、たまには、おいらたちも一杯やろうか」
「いいねえ。じゃあ、ひとつ君の沼に行こうじゃないか。その、人間が酒を持ってきてくれた沼にさ」
「ああ、行こう。あの旦那と奥さんに乾杯するとしようよ」
 河童たちは、ぽちゃんと滝壷の下に消えていった。
 へえ……
 なんかちょっといい話だったなァ。人間も捨てたもんじゃないけど、河童も、いいとこあるよね。


22


「よく耐えたな息子よ」
 四日目の朝。やっと親父から苦行の終わりを告げられた。
「これでおまえには免許皆伝、じゃなくて、精神の統一ができるようになった」
「ああ…… よかったわ」
 ぼくより先に言ったのは珠美さんだった。彼女はぼく以上にホッとしているようだった。やってる本人より、意外と周りで見てる者の方が辛いってこともある。
「ま、この程度でへこたれるようじゃ、修行なんて続きはしないがな」
 と、親父。
 ぼくはギクッとなった。
「まさか、これで終わりじゃないのか?」
「あたり前田のクラッカー」
「親父よ。歳のバレるギャグだな。しかもつまらん」
「うるさい。ほっとけ!」
 その日の昼過ぎ。ぼくらは珠美さんの屋敷に移動していた。
「つぎの修行は、この屋敷を使わせていただく」
 親父が宣言するように言った。
「で、なにをやるって言うんだよ」
「何をふてくされてるんだ光彦」
「別に」
「まったく、根性なしだな。まあいい。つぎはこの屋敷の大掃除だ」
「はあ?」
「聞こえなかった?」
「聞こえたよ!」
「じゃあ、さっそく取りかかれ、息子よ」
「ちょっと待て。今度こそ説明してもらうぞ。なんで、珠美さんの屋敷の大掃除をしなきゃいけないんだ。納得いく説明をしてもらおう」
「わからんか?」
「わかるか!」
「愚か者め。奉仕の心に決まってるだろうに。ドウ・ユー・アンダスタン?」
「下手な英語」
「うるさい。とにかく、文句言うな」
「わかったよ。奉仕の心を養えっていうんだろ!」
「イエース。ザッツ・ライト」
「だから、下手な英語やめろってば」
「お父さま」
 珠美さんが親父に言った。
「わたしも光彦さんを手伝わせて下さい」
「ちょ、ちょっと待った、珠美さん」
 ぼくは言った。
「手伝ってもらったら修行の意味がないよ」
「だって、お父さまは奉仕の心とおっしゃいました。それなら、わたしがお手伝いしてもいいはずです」
「いや、それとこれとは意味が違うと思うよ」
 と、ぼくが言うと、親父が首を振った。
「いいや。嫁の言う通りだ。二人で力を合わせてやるんだな」
 クソ親父は、意味ありげにニヤリと笑った。
「親父。待ってくれ。珠美さんはお嬢さまだぞ。まさか本気で掃除なんかやらせるつもりじゃないだろ?」
「光彦さん」
 珠美さんがぼくの腕を掴んだ。
「わたし、そんな風に言われたくありません。あなたにだけは、お嬢さまなんて呼んで欲しくない」
「うっ。それは、まあ」
 ぼくは言葉に詰まった。
「決まりだな。手を抜かず、しっかり掃除しろよ若人たち」
 親父はそう言って、雑巾を二つ投げてよこした。
 つまり、親父は最初から珠美さんも働かせるつもりだったのだ。
 まあ、しょうがない。こうなったら、珠美さんの分もぼくがやればいいだけの話だ。
 と、言うわけで。
「じゃあ、珠美さん。この廊下から拭いていこう」
「ええ。がんばりましょうね」
 珠美さんは笑顔で言った。どうやら、自分も修行に加われたのがうれしいらしい。ぼくはちょっと複雑な気分だ。
 けど…… 珠美さんのエプロン姿っていいかもしれない。そう。彼女は、エプロンをつけているのだ。なんか、こう妙に色っぽいって言うかなんと言うか。いやはや。
 ぼくは雑巾を絞って珠美さんに渡した。
「ありがとう光彦さん。でも、わたし自分でやります」
 珠美さんはぼくの絞った雑巾を受け取らずに、バケツの中に手を突っ込んだ。
「大丈夫?」
「ええ」
 珠美さんは雑巾をじゃぶじゃぶっと水につけると、それを絞った。ぼくは半分ハラハラした気持ちでそれを見ていたのだったが……
 珠美さんは慣れた手つきで雑巾を絞ると、やっぱり慣れた手つきで廊下を拭き始めた。
「驚いた」
 ぼくは思わずつぶやいていた。
「なにがです?」
 珠美さんは手を休めずに聞いた。
「だって、掃除するの慣れてる感じだから」
「いつもやっていますもの」
「えっ! そうなの?」
「はい。自分の部屋ぐらい、自分で掃除します」
「あっ、そうか。そうだよね」
「それにわたし、もともとお掃除って好きなんです。お庭とかよく掃除してるんですよ。朝方とか、とっても空気が澄んでいて気持ちいいです」
「でも、広いから大変じゃない?」
「ふふ。そうですね。でも、いい運動になります。わたしにとっては、お庭の掃除がジョギングの代わりですね」
「ハハハ。なんか珠美さんらしいや」
 ぼくはそう言って、床掃除の戦列に加わった。
 ところが、やっぱり問題は起きた。
 そう。例によってクソ親父が原因なのだ。ここでも親父が昼間っから宴会を始めやがったのだ。加えて、珠美さんのお父さんもいるもんだから宴会パワーも二倍である。いやいや、珠美さんのお爺さんもいるから三倍だ。
 これがまた、広間を汚すのなんのって、もう、大変。
「親父! 掃除した端から汚していくってのは、どういう了見だ!」
「ワハハ。汚した端から掃除していけばよいのだ」
「いい加減にしろ!」
 ぼくは親父に怒鳴った。
「だいたい、珠美さんのお父さんもお父さんですよ。なにも、うちのクソ親父と一緒になって汚すことないでしょうに!」
「いやあ、そうは言っても光彦君。君の父上は酒が強いねえ。わたしも飲みがいがあるって言うもんだよ。ギャハハ」
 ダメだ。人の話なんか聞いちゃいねえ。


23


「ねえねえ、お姉ちゃん」
 ぼくらが大広間の掃除を諦めて、厨房の掃除に切り替えたとき。妹の冬美ちゃんがやってきた。
「二人で大掃除してるってホント?」
「ええ。見た通りよ」
 珠美さんは答えた。
「ふうん。お姉ちゃんにピッタリの仕事だね。きれい好きだもん」
「そんなことないわ。女の子なら普通でしょ?」
 珠美さんは冬美ちゃんに問いかけるように答えた。
「ふ~んだ。どうせ、あたしはきれい好きじゃないですよ~だ」
「ふふふ。認識はしてるみたいね」
「もう。お姉ちゃんがきれい好きすぎるんだよ。お義兄さんもそう思わない?」
「お義兄さん?」
 ぼくは思わず聞き返した。
「そうよ。だって、二人は結婚するんでしょ?」
「いや、まあ、なんというか」
 ぼくはしどろもどろで珠美さんを伺った。
「冬美」
 珠美さんは、少し顔を赤らめて言った。
「光彦さんを困らせるようなこと言うんじゃありません」
「なんで困るわけ? ねえなんで?」
「もう、冬美ったら…… 人の邪魔をする暇があったら、あなたも自分の部屋ぐらいお掃除なさい」
「え~っ。お姉ちゃんたちが掃除してくれるんじゃないの?」
「当たり前です。あなたも女の子なのよ。だいたい、わたしが冬美の部屋に入れないのは知っているでしょうに」
「じゃあ、お義兄さんに掃除してもらおっと」
「いい加減にしなさい」
 珠美さんは冬美ちゃんを睨んだ。
「やだあ、冗談よ。あたしだってお義兄さんになる人に、そんなことさせるわけないじゃない」
「もう…… 冬美の場合は冗談に聞こえないから」
 珠美さんは溜息を付いた。
 ぼくは心の中で笑っていた。うちの兄弟も結構性格が違うが、珠美さんと冬美さんも正反対の性格らしい。
 それはともかく。ぼくはちょっと気になっていた。珠美さんが妹の部屋には入れないと言った言葉がだ。なんでだろうね?
「ねえ、お義兄さん」
 と、冬美ちゃん。
「時間は取らせないからさ。ちょっと付き合ってくれないかな?」
「冬美!」
「違うわよ、お姉ちゃん。ホントに掃除なんかしてもらうつもりないってば。少し相談に乗ってもらいたいことがあるんだ」
 ぼくはピンときた。たぶん、直樹のことだ。
「ねえ、ダメ?」
 冬美ちゃんはぼくを伺った。
「いいよ」
 ぼくは答えた。
「珠美さん。少し休憩しようか」
「ええ。光彦さんがそうおっしゃるなら」
 珠美さんは手を止めた。
「でも、冬美。光彦さんを困らせてはダメよ」
「はーい」
 冬美ちゃんは元気よく答えた。やっぱり、正反対だね、性格が。


24


「どうぞ。お義兄さん」
 冬美ちゃんは、自分の部屋の襖を開けた。
 とたん。ぼくは嫌な予感がした。なんと、開けた襖から、白い冷気が漂ってきたからだ。寒そう……
「何してるの? 早く入って」
「う、うん」
 まいったな。まあ、短時間なら大丈夫だろう。ぼくは、意を決して冬美ちゃんの部屋に入った。
「す、涼しいね」
 それは、かなり控えめな表現だった。実際は、冷凍庫の中にいるような感覚だ。いや、間違いなく氷点下だろう。吐く息は白いし、少し汗で湿っていたポロシャツが、ぱりぱりと凍り付いてきているのがわかる。
「ヘックション!」
 思わずくしゃみが出る。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと寒い?」
 ちょっと?
「い、いや。正直に言うと凍え死ぬかも」
「ごっめーん。待ってて」
 冬美ちゃんはそう言って、エアコンのリモコンスイッチみたいなのを押した。
「スイッチ切ったわ」
「ありがと。でも、すごいエアコンだね。こんなに冷たくできるなんて」
「やだあ、エアコンじゃないよ。あたしの部屋だけ特別なの。マグロの冷凍庫を改造してもらったんだ。マイナス四十度まで冷やせるのよ」
「納得しました」
 こりゃ、クーラーの電気代がかからないどころの騒ぎじゃないな。う~ん。珠美さんが雪女じゃないことに感謝。
 あっ、そうか! ぼくは突然ひらめいた。
「ねえ、冬美ちゃん」
「なに?」
「さっき、珠美さんが冬美ちゃんの部屋に入れないって言ってたじゃない」
「うん」
「あれって、彼女が猫娘だからかな?」
「そうだよ。お姉ちゃんって、寒いのダメなんだ。冬になるとコタツで丸くなるんだよ」
「ホント?」
「アハハ! うそうそ。でも、寒いのが苦手なのはホント」
「そうか。やっぱりね」
 ぼくは疑問が氷解したので、ついでに、ポロシャツに付いた霜も払いのけた。マジで凍ってるよ。風邪ひきそう。
「それにしても、ちゃんと片づいてるじゃない」
 ぼくは冷気が落ちついてきた部屋の中を見渡して言った。
「ねっ。あたしだってちゃんと片づけてるでしょ? お姉ちゃんが潔癖すぎるのよ」
「潔癖すぎるってことはないんじゃない?」
「ううん。お姉ちゃん猫娘だもん。ホントきれい好きよね。別に猫娘に戻っても、ホントの猫みたいに毛があるわけじゃないから、毛づくろいはしないけどね」
「またまた納得」
「ねえ、それよりお義兄さん。あのさあ、ちょっと聞くの恥ずかしいんだけど、直樹さんって、恋人とかいるのかなあ?」
 ビンゴ。やっぱり、直樹のことだった。
「今はいないんじゃないかな」
「ホント?」
 冬美ちゃんは、ピュンと飛び上がった。
「じゃあさ、じゃあさ。直樹さんの好みの女の子ってどんな子かな?」
「ううむ」
 ぼくはうなった。さすがに直樹は我が実弟である。この電気代だけで寝食つぶされそうな女の子との仲を取り持つのはちょっとね。
「その前にちょっと聞かせて欲しいんだけど」
「なになに。何でも聞いて」
「ええと。言いにくいんだけど、冬美ちゃんって、こういう部屋でないと生活できないのかな?」
「なーんだ。そんなことか」
 冬美ちゃんはケタケタと笑った。いやはや、ホントお姉さんとは違うわ。一応、この子もお嬢さまのはずなんだけどねえ。
「それなら、ぜーんぜん、問題ないよ。あたしね。子供の頃は体温の調節とかできなくって、この部屋を作ってもらったの。十歳ぐらいまで、冬以外はこの部屋から出ることもできなかったんだ」
「へえ、そうなんだ。なんか意外だな」
「どうして?」
「いや、冬美ちゃんって、その…… なんか健康的で明るいからさ。なんとなく夏の方が似合ってる感じだよ」
「アハハ。遊び好きって言いたいんでしょ、ホントは」
「深く追求しないように」
「はーい。でさ、さっきの話だけど、あたし今じゃ、自分でブリザードぐらい起こせるんだよ」
「ブリザード?」
「うん。雪あらし」
「さすが、雪女……」
「へへへ、すごいでしょ。だからね、ホントはこんな冷凍庫もう必要ないんだ。どんなに蒸し暑い夏でも、自分で体温調節して外に出ていられるんだよ。海にも行けるよ」
「じゃあ、どうしてこの部屋を今も使ってるの?」
「う~ん。やっぱり楽だから。でもでも、大丈夫だよ。あたし、普通の生活できるから」
 冬美ちゃんは珍しく真剣な顔で言った。
「よくわかったよ」
 ぼくは答えた。
「では、特別に直樹の好みがどんな女の子か教えて上げよう」
「うんうん」
「たぶん。冬美ちゃんなら、ばっちりオッケイじゃないかな」
「ホント!」
 冬美ちゃんは瞳を輝かせたが、
「でもさあ……」
 と、今度は瞳を曇らせた。なんか、表情がよく変わる子だ。
「あたしさあ。お姉ちゃんみたいに美人じゃないジャン。やっぱり、男の子って、美人がいいよねえ? お義兄さんもそうでしょ?」
「ぼくの好みはともかく」
 コホン。と、ぼくは咳払いをした。
「冬美ちゃんだって、充分すぎるぐらい可愛いよ。それに、あまりにも美人すぎると、かえって冷たい感じがするから嫌う男も多いんじゃないかな。くどいようだけど、ぼくの好みはともかく」
「直樹さんは?」
「この際、はっきり言っちゃおう」
「うん」
「直樹のヤツ。冬美ちゃんのこと好きだってさ」
「うっそーっ!」
「ホントだよ」
「キャーッ! やったーっ!」
 このとき。
 ぼくは信じられない光景を目の当たりにした。喜びに浮かれる冬美ちゃんの体から、猛烈な吹雪が襲ってきたのだ。たぶん、うれしさのあまりブリザードを発生させてしまったのだろう。
 気が付くと、ぼくはカチンカチンに凍り付いていた。いや、マジで。


25


「ううう、寒い。悪寒が走る」
 ぼくは、布団の中で震えていた。我ながら、雪女に凍らされてこの程度ですむとは、呆れるような体力だとは思う。
 けど、熱は八度九分。もう完璧な夏風邪。まいった。
 襖が開いた。
「光彦さん」
 珠美さんだった。ぼくは彼女の屋敷に泊まっているのだ。
「お加減はいかがですか?」
「ハハ…… 大丈夫。一晩寝れば良くなるよ」
 ぼくは、精一杯、元気を装って言った。でも、このぶんじゃ、二、三日は起きるの無理だろうなァ。
「無理なさらないで」
 珠美さんは、ぼくの額に手を置いた。
「ああ、すごい熱! お薬飲んだのにぜんぜん下がっていないわ」
「飲んだばかりだからだよ。もうじき効いてくるさ」
「冬美には、きつく言っておきますから」
「彼女のせいじゃないよ」
 ぼくは少し布団から体を起こした。
「あれは、ぼくの不注意だった。できれば、怒らないで上げて欲しいな」
 あっ、やべ。本格的に頭がクラクラしてきた。
「優しいのね」
 そう言った珠美さんの声には、どことなく事務的な響きがあった。
「へ?」
 ぼくはマヌケな声を出した。彼女と会話できるのは楽しいが、さすがに体が辛い。
「少し妬けちゃいます。自分以外の女の子に優しくされると。冬美は自分の妹なのに、なんでこんな気持ちになるのかしら」
「ハハハ……」
 ぼくは、朦朧としつつある意識で笑った。
「嫌な女ですね。わたしって」
 彼女は苦笑いした。
「そんなことない…… 珠美さんに嫉妬されるなんて…… うれしいな」
「光彦さん?」
 彼女は、ぼくの声が夢うつつになっているのに気づいた。
「ご、ごめんなさい。こんなに話し込んでしまって」
「ううん…… うれしいよ……」
 ぼくの意識はほとんど途切れかかっていた。睡魔よりタチの悪い風邪の気怠さが、ぼくを眠りの縁に落とそうとしているのがわかる。
「光彦さん。今わたしが治して差し上げますから」
 珠美さんは、確かにそう言ったと思う。
 と、思うのだが…… ぼくの意識はもう夢の中を漂っていて、はたして本当にそう聞こえたのか自分でも定かじゃなかった。
 そして、つぎに見た光景は、今度こそ、今度こそ夢だと思う。
 そう…… これは夢だ……
 珠美さんは、蝋燭の火をフッと吹き消した。部屋が暗くなる。
 ぼくはただ、珠美さんが明かりを消してくれただけだと思った。だが、目を閉じてしばらくすると、ファスナーを降ろす音が聴こえてきて、ぼくは再び目を開けた。
 うっすらと、月明かりで珠美さんの後ろ姿が見えた。彼女は、背中に手を回して、ワンピースのファスナーを降ろしていた。
 蝶の模様のワンピースがストンと畳に落ちた。彼女の下着は白だった。
 ああ、なんて幸せな夢なんだろう。でも、この夢はまだ終わらなかった。
 彼女は、ブラジャーのヒモを肩から外すと、腕で胸を隠しながらブラジャーさえも畳に落とした。
 まだ、夢は続いた。
 彼女は、パンティに手を掛けると、するりと脱いだ。形のいいヒップがぼくの目に飛び込んできた。珠美さんはついに全裸になったのだ。
 つぎの瞬間。
 彼女の周りに青白い燐光が光った。ポウッと、珠美さんの体が夜の闇に浮かぶ。言葉では表現できない美しさだ。
 珠美さんの身体は変化を始めた。彼女は、本来の姿に戻っているのだ。猫の耳が現れ、髪の色が変わっていく。
 このときぼくは、以前、見せてもらったときには気づかなかった変化があるのを知った。彼女が今、全裸で、そしてぼくに背中を向けているからわかったのだ。そう。珠美さんには、尻尾もあったのだった。なんだか、すごい秘密を知った気分だ。
 前に見たときは、変化が終わると燐光も消えていたのだけど、今度の燐光は、以前にも増して明るく光り、消えてしまう気配はなかった。
 彼女は、くるりと体の向きを変えて、ぼくを振り返った。珠美さんは、形の良い胸も、ふさふさと深い緑色の毛が繁った、大切な部分さえも隠していなかった。
 彼女は、まったく足音を立てずに、ぼくのそばに寄った。そして、ゆっくりと腰を落とすと、ぼくの布団をはだけた。
 これは夢だ…… ぼくはもう一度、自分に言い聞かせていた。
 すると。
 珠美さんは、そっと、ぼくの浴衣を脱がした。
 夢だ…… 夢なんだ……
 彼女は、少しためらってから、ぼくのパンツに手を掛けた。ぼくは、驚いて起きあがろうとしたけど、体が動かなかった。
 珠美さんは、ぼくの股間に視線を向けないようにしながら、パンツを脱がした。
 ぼくも全裸になった。
 珠美さんの、黄金色の瞳がぼくを見つめていた。
「ああ…… こんなに汗をかいて……」
 彼女は言った。それはぼくに語りかけたのではなく、珠美さん自身の独り言のようだった。
「辛かったでしょう…… 今、治して差し上げますから……」
 彼女は、つぶやくと、ぼくに体をすり寄せるように横になった。珠美さんの体は、とても温かかった。人の肌の温もりが、こんなに温かく感じたことは初めてだった。
 燐光が、ぼくの体をも包み込んだ。
 今まで感じていた悪寒が、スーッと、消えていく。
「光彦さん…… 光彦さん……」
 彼女の囁きが、ぼくの意識に染み込んでくる。
「大好き…… あなたのことが…… 自分でもどうしようもないくらい……」
 夢が終わった。あるいは、ぼくは本当の眠りに落ちたのかもしれなかった。


26


 チュンチュン、チチチ。
 鳥の鳴き声?
 ゆっくりと目を開けてみた。部屋には、朝の澄んだ空気が満ちていた。
 ぼくは、目覚めるのと同時に、二つのことに気が付いていた。まずは、ぼくの息子がすごく元気だってこと。つまりその…… これは朝立ちという男特有の生理現象であって、別に不思議なことではない。で、もう一つがちょっと問題で、どうもぼくはパンツを履いていないと言うことだった。もちろん、浴衣は着ている。でもそれは、汗で湿ったものではなく、洗濯されたばかりの、真新しい感じだった。
 やっぱり、昨日のアレは、夢じゃなかった?
「お目覚めですか?」
 珠美さんの声が聞こえた。
 ぼくは体を起こした。
 彼女は、縁側に座って、体を庭の方に向けていた。今は、人間の姿だった。上半身をひねって、ぼくの方を振り返っている。たぶん、今まで庭を見ていたのだろう。
「ご気分はいかがですか?」
 珠美さんは立ち上がって、ぼくの布団のそばに歩いてきた。
「う、うん……」
 ぼくはあいまいにうなずいてから、昨日の出来事が夢じゃなかったのを確信し始めていた。アレは本当にあったことなのだ。
「すごいや。すっかり治っちゃった」
 ぼくは、自分の体を不思議がるように言った。
「よかった」
 珠美さんはにっこりとほほえんで、ぼくのそばに腰を下ろした。
「すごく気分がいいよ。風邪をひく前よりいいくらいだ。ありがとう」
「いいえ」
 彼女はうれしそうに首を振った。サラサラの黒髪がふわっとなびいた。
「治って、本当によかったです」
「その」
 と、ぼく。
「それにしてもさ、昨日のアレ。すごい、治療法だったよね」
 とたん。珠美さんは顔を赤らめた。
「わ、忘れて下さい。わたし、恥ずかしい……」
 うわーっ。カワイイ!
「ダメだね。絶対忘れられないよ」
 ぼくはニヤリと笑った。
「もう…… 光彦さんのイジワル」
「ハハハ。ごめん」
「あの。光彦さん?」
 珠美さんは、ちょっと上目遣いにぼくを見た。
「なに?」
「実は、お願いがあるのですけど」
「いいよ。なんでも言ってよ」
「昨日のことは、二人だけの秘密にして欲しいのです」
「風邪を治してくれたこと?」
「ええ」
「もちろん、珠美さんがそう言うなら誰にも言わないけど、どうして?」
「アレは四国のお婆さまが、わたしにだけ教えてくれたのです」
「猫股のお婆さんだっけ?」
「はい。将来、本当に好きな人ができて、その人が病気になったら治してお上げって。だからわたし、アレをやったのは昨日が初めてです」
 珠美さんは少し顔を赤らめた。
「うれしいね、それって」
 ぼくは答えた。
 珠美さんは一瞬、ニコッと笑ったが、すぐ真顔に戻って続けた。
「あのことは猫科の妖怪だけしか知りません。ですから、うちの家族も、わたしにあのような妖力があるのを知らないのです。わたし、お婆さまに、きつく言われたんです。たった一人を除いて、誰にも話してはいけないって」
「たった一人?」
「はい。本当に好きな人にだけ。その人に秘密を作ってはいけないから」
「ああ…… なるほど」
「だから、誰にもしゃべらないでください」
「わかった。約束するよ」
「ありがとうございます」
 珠美さんは、ホッとしたようだった。
「でも、ひとつ聞いていいかな?」
 と、ぼく。
「ええ、どうぞ」
「アレってさ。いったい、なにが起こったの?」
「なにが。と、おっしゃいますと?」
「つまり、どういう原理なのかと思ってさ。原理って言葉自体、もうおかしいかもしれないけど」
 珠美さんは、少し戸惑った顔で答えた。
「それはその…… わたしの力を差し上げたのです」
「えっ!」
 ぼくは驚いた。
「力って…… じゃあ、珠美さんの体は平気なの?」
「大丈夫です。むしろ、もっと差し上げたいと思っています」
「本当に平気? 無理してない?」
「心配して下さるのね」
「当たり前だよ!」
 ぼくは勢い込んで言った。
 すると。
「わたしの寿命」
 と、珠美さんはポツリとつぶやいた。
「寿命?」
「はい。わたしの寿命が、いったい、どのくらいあるかご存じですか?」
 ぼくはギクッとなった。
 そう言えば、彼女の寿命がどのくらいかなんて、考えてもみなかった。いや、考える余裕さえなかった。
 ぼくは、急にざわつき始めた心のまま、首を振った。
「わからない」
「千年以上です。猫科の妖怪は特に寿命が長いのです」
「す、すごいな」
 ぼくは、突然の告白に、正直、すごいショックを受けた。やはり、人間と妖怪が結ばれるなんて無理だったんだ。
「ぼくは…… 八十年も生きられないな、きっと」
「ううん」
 珠美さんは首を振った。
「もっと長生きして下さい。そう…… たぶん百二十歳くらいまで」
「無理だよ」
「いいえ。大丈夫です。わたしも光彦さんと一緒に歳をとっていきますから」
「でも、今さっき、千年って」
「だから、もっと差し上げたいんです」
「まさか!」
 ぼくは戦慄を覚えた。
「まさか、ぼくがもらったのは、珠美さんの寿命?」
「はい」
 珠美さんはにっこりと笑った。
 ぼくは、バカみたいにポカンと口を開けてしまった。
「ま、まいった。ぼくはどうしたらいいんだ。ちょっと風邪をひいたくらいで、珠美さんの寿命を縮めてしまうなんて」
「そんな風にお考えにならないで。わたし、光彦さんと同じ人生を送りたいんです。一緒に生きていきたい。だから、これからも、もっともっと、わたしの寿命を差し上げます。同じように歳をとっていけるように」
「でも……」
 ぼくはちょっと泣きたい気分だった。珠美さんの気持ちがうれしいと思うのと、彼女の寿命を縮めてしまうことの罪悪感で心が揺れた。
 すると。
「光彦さん」
 珠美さんがぼくを真っ直ぐ見つめた。
「わたし、昨日ハッキリとわかったんです。自分でも、もうどうしようもないくらい、あなたのことが好きだって。もし、ご迷惑でなければ、ずっと側に置いて下さい。お願いです。わたし、光彦さんと生きていきたい。そして、同じように老人になって、同じように大地に還っていきたいのです」
 珠美さんは、潤んだ瞳でぼくを見つめていた。
「愛しています。心から、あなたのことを」
 気が付くと、ぼくは珠美さんを抱きしめていた。
「君は、君って人は、本当にバカだね。人間なんかを好きになるなんてさ」
「お側に置いて下さるのですか?」
「うん。珠美さんが……」
 ぼくは言葉を切った。
 そして、彼女から『さん』を取ってもう一度言った。
「珠美がぼくに愛想を尽かすまで」
 珠美は、ギューッとぼくに抱きついてきた。
「うれしい…… ずっとずっと一緒にいて下さい」
「うん」
 たぶんぼくは、このとき彼女にプロポーズしたんだと思う。そしてもちろん、彼女の答えはイエスだったのだ。


27


「静かだね」
 ぼくは言った。
「ええ」
 珠美がぼくの腕の中でうなずいた。
「今、何時なんだろう?」
「たぶん。まだ五時前です」
「みんな寝てるね」
「ええ」
「じゃあ」
 ぼくは、珠美を腕から離した。
「親父たちが起き出す前に、今日も大掃除がんばろうか」
 珠美はニコッと笑った。
「はい。朝ならお掃除もはかどりそうですね」
「今日はどこから始めようか?」
「そうですね。やはり、大広間からでしょうか」
「大広間は最後にしよう。どうせ汚されるから」
「でしたら、納屋から始めましょう。あそこは屋敷の者もあまり掃除していませんので、大掃除にはもってこいです」
「ハハ。なんか、一所懸命、汚れてるところを探すって変な話だよね」
「ホント。おかしいですね」
 珠美は笑った。
 もう、ぼくたちの会話は、いつも通りに戻っていた。
「もしかして、お父さまたち、わざと大広間を汚してるのかしら?」
「たぶんね。ドラキュラを倒した暁には、首を締め上げて白状させよう」
「うふふ。そっちの方が、ドラキュラ退治より大変そう」
「言えてる」
 ぼくらはそう言って笑った。
「さて。そうとなったら、顔洗って着替えなきゃ」
 ぼくは立ち上がった。
 とたん。
「あっ…… そう言えば、着替えを持ってきてなかったっけ」
 そうなのだ。秩父の山から、直接この屋敷に来て、そのまま大掃除をさせられて、冬美ちゃんに凍らされたので、アパートに取りに帰っている暇がなかったのだ。
「あの、光彦さん」
 珠美が言った。どことなく、声が恥ずかしそうだ。
「わたし、光彦さんのお洋服を洗濯しておきましたから」
「えっ、いつの間に?」
「さっき、光彦さんが起きる前です」
「じゃあ、乾いてないの?」
「いえ。乾燥機で乾かしました」
「さっすが、珠美。要領いいね」
「洗面所に、タオルと一緒に置いてあります。場所はわかりますよね?」
「うん。昨日の大掃除で、だいぶこの屋敷の構造がわかったよ」
 ぼくは、そう言って、洗面所に向かった。
 そして。
 そこで珠美がなぜ恥ずかしそうな声で話していたのかわかった。彼女は、ぼくのパンツも洗濯してくれていたのだ。ぼくは浴衣をはだけてみた。もちろん、パンツは履いてなかった。
 まいったね、こりゃ。
 ぼくは、昨日の晩、珠美にパンツを脱がされたことを思い出して、今ごろ急に恥ずかしくなってきたのだった。


28


「うっそー!」
 珠美と二人で納屋の掃除をしていると、冬美ちゃんがやって来た。
「やあ。おはよう、冬美ちゃん」
「おはよう、冬美」
 ぼくと珠美は、雑巾を持つ手を止めた。
「う、うん。おはよう。でもでも、お義兄さん大丈夫なの?」
「冬美。まず言うことがあるでしょう」
 珠美が言った。
「あっ…… お義兄さん。昨日はごめんなさい。あたしすっかり興奮しちゃって」
「ハハハ。気にしてないよ」
 ぼくは笑いながら答えた。ホント言うと、ぼくは冬美ちゃんにすごく感謝しているのだ。珠美との仲がいっそう親密なものになったのは、冬美ちゃんのおかげだからね。もちろん、彼女はそんなこと知らないけど。
「すっごーい! お義兄さんって、超人だね!」
「超人?」
「うん。あたしに凍らされて、たった一晩で、ケロッと治っちゃうなんて初めてだよ」
「おいおい。ってことは、ぼく以外にも凍らせたことがあるんだな?」
「あっ、しまった」
「白状しろ。今までに何人、その毒牙にかけた?」
 ぼくはおどけた調子で言った。
「えへへ…… 実は、お父さんとお爺ちゃんを凍らせちゃったことがあったりして」
「あの二人を?」
「うふふ」
 珠美が笑い出した。
「あのときは大騒ぎだったんですよ」
「へえ、聞きたいな」
「うふふふ」
 珠美は笑いながら、妹に問うように言った。
「あれは、一昨年のお正月だったわよね、冬美」
「うん。あたしが高校に入学した年だよ。でもあれは、お父さんとお爺ちゃんが悪いんだよ。あたしにオトソなんか飲ませるから」
「もう、冬美ったら。最初は自分から飲んだくせに。それにアレはオトソじゃなくて日本酒でしたよ」
「えへへへ。バレてたか」
「当たり前です」
「それで、どうしたの?」
 と、ぼく。
「ええ。わたしとお母さまは、後かたづけで厨房に下がったんです。そうしたら、お父さまとお爺さまって、ああいう性格でしょ? 冬美にもいい気になって、お酒を飲ませてしまったんですよ」
「あの二人じゃ、やりそうなことだなァ」
「そうなんです。それで、わたしとお母さまが戻ってみると……」
「と?」
「うふふふ。顔を真っ赤にした冬美と、涼しげに凍られたお父さまとお爺さまがいらっしゃいました」
「涼しげ?」
「ええ。ご本人たちのお顔は『逃げ遅れた』って言う苦悶の表情でしたけどね」
「アハハハ!」
 ぼくは笑った。珠美が冗談混じりに言うくらいなのだ。さぞ、その光景はおもしろかったに違いない。
「えへへ。酔っぱらったら、体が熱くなちゃってさ。ついブリザード出しちゃった」
 冬美ちゃんは、ペロッと舌を出した。
「見たかったなァ、それ」
 と、ぼく。
「お義兄さんが見たいんなら、また凍らせてみようか?」
「もう、冬美ったら。あのあと、お父さまたち三日も寝込んで大変だったでしょ」
「だからお義兄さんってすごいよねえ。妖怪より強い人間なんて、いないよ普通」
「ハハハ……」
 ぼくは苦笑いした。
「ねえ、お義兄さん。これってやっぱり、遺伝?」
「遺伝?」
 ぼくは聞き返した。
「だって、お義兄さんのお父さんも、殺したって死にそうもないもん」
「こら、冬美。なんてこと言うんですか」
「だって、お姉ちゃんもそう思わない?」
「思いません」
「でもさあ、でもさあ。お義兄さんがそれだけ体力があるってことは、やっぱり、弟の直樹さんも強いってことよね」
 あちゃ~っ。やっぱりそう来るか。
 ところが。
「それって、どういう意味、冬美?」
 珠美はキョトンとして、冬美ちゃんに聞いた。
 代わりにぼくが答えた。
「冬美ちゃんはね、ぼくの弟が気に入ったみたいなんだよ」
「えっ。本当なの冬美?」
「えへへ」
 冬美ちゃんはちょっと照れながら言った。
「実はさ。お義兄さんを凍らせちゃったとき、その相談してたんだ」
「まあ。そうだったの」
 珠美はふうと溜息を付いた。
「わたしって鈍感ね。少しも気づかなかったわ」
「でもね」
 ぼくと珠美は同時に声を出した。言った言葉もまったく同じ「でもね」だった。
「な、なによ。二人して」
 と、冬美ちゃん。
「ごめんなさい、光彦さん。お先にどうぞ」
「うん。いや、なるべく凍らせちゃダメだよと、言いたかったわけ」
「わたしも同じです。ただ、『なるべく』ではなく、『絶対に』と言いたかったのですけど」
「でもさあ、お姉ちゃん」
 冬美ちゃんは笑顔で続けた。
「直樹さんだって、お義兄さんと同じ血を引いてるんだから、少々凍らされても平気だってことだよ。これはもう、雪女のボーイフレンドにぴったりだと思わない? ねえ、お義兄さん。そうだよね?」
「う、ううむ。それは……」
 ぼくはうなった。ここは兄として弟の安全のため、ぜひ誤解を解いて上げたいところではあるが……
「まあ」
 ぼくは答えた。
「たぶん、あいつも大丈夫じゃないかな」
「キャッホー。やっぱり!」
 冬美ちゃんはピョンと飛び上がった。
 許せ直樹。これも兄の愛の鞭と知れ。なんちゃって。なんか親父みたいだな、ぼく。
「もう。光彦さんたら」
 珠美はぼくに言った。
「そんな安請け合いして、知りませんよ」
「う~ん。あいつには、真夏でも防寒具を着てデートするように言っておこう」
「直樹さんも大変ねえ」
 珠美はふうと溜息を付いた。
「確かに」
 ぼくはうなずいた。
 考えてみると、おとぎ話の雪女も恐いけど、げに恐ろしきは、現代の『女子高生雪女』かもしれない。
 くわばら、くわばら。


29


 と、まあ。愚弟のことはともかく。
 あっと言う間に、時間は経った。ぼくは珠美の屋敷に来てからすでに十日にもになっていたのだ。
「残るは、この大広間だけだ」
「そうですね」
 ぼくと珠美は、すでに十日間も大掃除をし続けていたのだった。なにせ、広い屋敷である。たった二人で掃除するんだから、もう大変。
 そんなわけで、ぼくらはすっかり掃除のプロと化し、雑巾を握る手も、エプロン姿も様になってしまっているのだった。
「覚悟はいいか、珠美」
「はい。もう、すっかり」
「よし」
 ぼくは珠美にうなずいた。
 いよいよ、大問題の大広間を掃除するときがきたのだ。ここは、この一週間放ったらかしにして置いたので、中がどういう状況かわからない。
 ともかく。
 掃除するタイミングは、敵(親父たち)が寝ている隙をつくしかなかった。ぼくらは例によって、朝の四時に起きて、この最後の戦場に来たのである。
「行くぞ珠美」
「はい」
 ぼくは、恐る恐る大広間の障子を開けた。
「どわっ!」
 ぼくは一瞬引いた。
 むわ~っと、アルコールの匂いが漂ってきたのだ。
「い、今、マッチを擦ったら」
 珠美が口を押さえながら言った。
「すぐにでも引火しそうですね」
「ホント、よくここまで飲めるよなァ。呆れるのを通り越して、感心するよ」
「感心しないで下さい。まずは、換気しましょう。気持ちが悪くなりそうです」
「賛成」
 ぼくらは、縁側の雨戸を全部開けて、外の空気が入ってくるようにすると、続いて、広間の障子を全部外した。開けたのではない。外したのである。これで、さすがのアルコール臭も、急速に消えていった。
「やっと、お掃除できる体勢になりましたね」
「ああ。サクサク進めよう」
「はい」
 ぼくらは、すっかり慣れた手つきで、掃除を始めた。まずはゴミを片づけて、ほうきでざっと掃いたあと、丹念に畳や柱を拭いていく。おもに、畳は珠美の分担で、高い柱などは、ぼくの仕事だ。これはこの十日間で完成した、ぼくらのコンビネーションである。掃除にもチームワークが大切なのだ。
 しかし。このチームワークを持ってしても、広い大広間を掃除するのに五時間を要したのだった。
「やったー!」
 ぼくは、雑巾をバケツにほおり投げた。
「終わったぞー!」
「光彦さん!」
 珠美も喜びの声を上げた。
「おめでとうございます!」
「なに言ってるんだ珠美。これは二人の勝利だぞ」
「はい。わたしもうれしいです!」
 ぼくらは手を取り合って喜んだ。
 いやいや、ぼくらの会話を大げさと言うなかれ。十日間も掃除し続ければ、誰だってこうなるよ。
 ところが。
「ふふふふ。甘いわ息子よ」
「そうだぞ、娘よ」
 ぼくの親父と、珠美のお父さんが、不敵な笑みを浮かべ、あろうことか、一升瓶を抱えて立っていた。手には湯飲みまで持っている。
「親父!」
「お父さま!」
 ぼくと珠美は叫んだ。
「ふふふふ。そう簡単に掃除を終わらせると思ったか、バカ息子よ」
「てめえ~ あくまで邪魔する気だな」
「おうよ」
 親父と珠美のお父さんは、拭いたばかりの畳にどっかと腰を下ろした。
「では、始めますか」
「そうですな」
 二人は湯飲みに酒を注ぎあった。
「もう! お父さままでなんですか!」
 あの珠美が、自分の父に叫んだ。
「珠美よ。苦労は若いときにしておくもんだ」
「お父さま! いい加減になさい!」
「うっ……」
 珠美のお父さんは娘に怒鳴られて一瞬怯んだ。
「水木さん。ここで怯んではなりませんぞ」
 ぼくの親父が援護する。
「これは、敵の作戦です。父が娘に弱いのを利用しとるんですわ。常套手段ですな」
「おお。そうでした。危うく引っかかるところでした。ワハハハハ」
「あんたら、すでに目的を見失ってるな」
 ぼくは、親父たちを睨みつけた。
「ふふふ。手段を選ばないと言って欲しいなァ」
「くそう……」
 ぼくは歯ぎしりした。
 だが。
「こうなったら仕方ない。いよいよ奥の手を使うか」
 ぼくは珠美に言った。
「はい。やむをえませんね」
 珠美もうなずく。
「ん? 二人でなにをゴチャゴチャ言っとるか」
「ふふふ」
 今度、不敵な笑いを上げたのは、ぼくの方だった。
「親父たちよ。あんたらはすでに死んでいる」
「なに?」
 親父たちの手が止まった。
「ぼくらが、なんの準備もしないでここに来たと、本当に思ったか」
「光彦。きさま、なにを企んでいる?」
「今にわかる」
「お父さまがた」
 珠美が言った。
「最後の警告ですわ。速やかにここから出ていって下さい。ちなみに、お二人は当分の間、禁酒ですよ」
「なんか、性格変わりましたな、お宅の娘さん」
 と、親父。
「ええ。心なしか、女房に似てきた気が」
「いけませんな」
「まったくですな」
 親父たちはうんうんとうなずきあった。
「お父さまがた。ぶつぶつ言っている暇があったら、早く出ていって下さい」
「むう」
 親父たちはうなった。
 ところが。
「ふん。ハッタリだな」
 ぼくの親父は言い放った。
「なにかできるのもなら、やってもらおうじゃないか」
「ちっ。バカ親父め。素直じゃねえな。仕方ない。痛い目を見てもらおう」
 ぼくは、珠美にうなずいた。
 珠美もうなずき返し、屋敷の奥に向かって叫んだのだった。
「冬美ーっ! あなたの出番よーっ!」
「げっ。まさか!」
 珠美のお父さんが後ずさった。
「はーい。お姉ちゃん!」
 冬美ちゃんが、白い着物を来て現れた。やっぱ、雪女に白い着物はよく似合う。
「待て待て待て。珠美! おまえ本気で!」
「お父さま。わたしだって、伊達に光彦さんと辛いお掃除に耐えてきたわけではありませんよ」
「なんだ? なんだ?」
 ぼくの親父はわけがわからない様子だった。
「お義兄さん。ホントにいいの?」
 と、冬美ちゃん。
「うん。許可する。やってしまえ!」
「はーい」
 とたん。
 ブリザードが発生して、親父たちを襲った。
「どわーっ!」
 親父が叫んだ。
 十秒後。あんまり芸術的ではないオブジェが完成した。それは、逃げまどう親父たちが、カチンコチンに凍り付いた姿だった。
 ざまみろ。


30


「ヘックション」
 親父がくしゃみをした。
「あー、見事であった、息子よ」
 二日後。ぼくと珠美は、親父の教会にいた。
「あんた、タフだな」
 と、ぼく。
「珠美のお父さんは、まだ寝込んでるって言うのに、もう起きれるのか?」
「鍛え方が違う。ヘックション!」
「そうでもなさそうだな」
「バカタレ。オレは、ベトナム戦争で活躍した男だぞ」
「うそつき」
「お茶目なジョーダンだ。気にするな。アーメン」
 ううむ。ぼくは頭が痛い。
「アルコールを摂取しすぎて、親父の体液は、凍らなかったのかな」
「オレは、不凍液かい!」
「まさか」
 と、ぼく。
「不凍液の方が、よっぽどマシだよ。使い道があるもんな。親父の体液なんか欲しがるヤツはいない」
「ううむ。言うようになったな息子よ。座布団一枚」
「いらんわ!」
「そう言うな。十枚たまったら、ハワイ旅行だぞ」
「そんなこと言って、笑点だって、ハワイ旅行に行けた試しがないぞ」
「よく知ってるな。アレって詐欺だよな」
「うん。ぼくもそう思う」
「光彦さん、光彦さん」
 珠美がぼくの腕をつついた。
「お父さまのペースにハマってますよ」
「うっ…… 確かに」
 ぼくは反省した。
「親父。バカ話してないで、とっとと話を進めてもらおう」
「わかった」
 親父は、急に真面目な顔になって、祭壇の前に歩いていった。
「いよいよ、おまえにドラキュラ退治の方法を伝授しよう」
 ゴクッ。ぼくは唾を飲み込んだ。
 なんと、祭壇の前には、洋式の棺桶が置かれているのだ。
「まさか親父」
 ぼくは棺桶を指さした。
「これを練習に使うのか?」
「ん? ああ、これ」
 親父は、今、気が付いたと言うように自分の目の前の棺桶を触った。
「これはなあ。どっかの用水路で溺死した仏さんだ」
「キャーッ!」
 珠美がぼくにしがみついた。妖怪でも死体は恐いらしい。
「ななな、なんで、そんな物を練習に使うんだよォ」
 ぼくも震える声で言った。
「は? なんか勘違いしてないか、おまえら。こりゃ、身元がわからんもんだから、警察が一晩預かってくれって置いてっただけだ」
「なにげに言うな、そんなこと!」
「そんなこと言ったって、こちとら人死商売だぞ。仏さん恐がってたら、商売上がったりだぜ」
「ううう…… すごい言い方だけど、一理あるな」
「ちなみに、オレの小学校からの友達が、この近くで病院を経営しててな。おまえ、病院と教会が手を組んだら無敵だぜえ。需要と供給ってなもんだ」
「悪魔ーっ!」
「ワハハハ。肝っ玉の小さいやつめ!」
 ああ…… 神様仏様。どうかこのクソ親父に神罰でも仏罰でも、なんでもぶちかまして下さいませ。
「で、話の続きだが」
 親父はいきなり本題に戻った。
「息子よ。一番大切なのは聖水なのだ」
 ぼくも気を取り直して聞いた。
「聖水?」
「そうだ。おまえも聞いたことぐらいはあるだろう」
「まあな。そんなもの本当に存在するのか?」
「ある。オレが言うんだから間違いない」
「一番間違いがありそうだぞ」
「言うと思った。ま、信じる信じないはおまえの勝手」
「ちっ。人の足下見やがって」
「なんか言ったか?」
「なんにも!」
「まあ、いい。とにかく聖水が必要だ。その聖水に浸した杭で、ドラキュラの心臓を突くのだ。さすれば、ドラキュラは死に絶える」
「息子の狼男はどうするんだ?」
「狼男はもっと簡単だ。銀の弾を撃ち込めばいい」
「どうやって撃ち込むんだよ?」
「そりゃ、おまえ。拳銃に決まってるだろ」
「そんな物ないよ!」
「ある」
「どこに?」
「昔買ってやったじゃないか」
「は?」
「ほれ。おまえが中学のころ拳銃を欲しがっただろ」
「あれはモデルガンだ!」
「バカ言うな。ありゃ本物だよ。トカレフが安かったんでな」
「いくらなんでもそんな冗談信じると思うか?」
「う~ん。そうか。冗談にしておいた方がいいかもな」
「おい。マジかよ」
「マジなんだよ。弾を買ってくれば、いまでも撃てると思うぜ。よかったな光彦、拳銃の心配をしないですんだじゃないか」
「そういう問題じゃない! 銃刀法違反じゃないか!」
「気にするな。アーメン」
 もう、イヤ!


31


「聖水を作る材料?」
 ぼくは、棺桶にヒジをついて、鼻毛を抜いている親父に言った。
「そうだ。聖水を作るには、高級素材が必要なのだ」
「で、その材料ってなんだよ」
「うむ。かーさんがレシピを持ってるから、それを見て揃えろ」
「レシピ?」
「うむ」
「なんでお袋が?」
「いいから、早く行け」
「わかったよ」
 ぼくと珠美は、裏の実家へ回ることにした。
「あー、ひとつ言い忘れてた」
 親父が言ったのでぼくは振り返った。
「なに?」
「材料を揃えるのは二人でやればいいがな。聖水を作るのは嫁と相場が決まっておる」
「嫁?」
 ぼくは疑惑の眼差しで言った。
「嫁だ」
 と、親父は繰り返した。
「つまり、あの……」
 珠美が遠慮がちに言った。
「この場合は、わたしが作るということで、よろしいのでしょうか?」
「そうだよ。あんた以外に嫁はおらんだろうに。やっぱ、ああ言う物は、嫁が作らなきゃイカンのだな」
「ああ言う物?」
 と、ぼく。
「ごちゃごちゃ言っとらんで、早く行け」
「なんか、隠してるな親父。ああ言う物ってなんだ」
「だから、聖水だってば」
「それをなんで嫁が作るんだ? 理由を説明しろ」
 ぼくが詰め寄ろうとすると。
「ホントに、疑り深いなァ」
 親父はそう言いながら、棺桶の蓋を開けた。
「おーっ。なんだ、この仏さん、いい女じゃないか。片目が飛び出てるのがちょっとなんだがな。光彦、見ていくか?」
「早く閉めろ!」
「まあ、そう言うな、ほれほれ」
 親父は、棺桶を傾けて、ぼくらに中身を見せようとした。
「キャーッ!」
 珠美がぼくにしがみついた。
「わかったよ! さっさと行けばいいんだろ、行けば!」
 ぼくらは、教会から退散させられたのだった。
 それで、仕方なく実家の方に回ると、お袋がテレビを見ていた。
「お袋。聖水のレシピをくれ」
「聖水のレシピ?」
 お袋はテレビから顔を上げた。
「ああ、あれね。お父さんから言われて書いておいたわ」
「お袋が?」
「そうよ」
「なんで、お袋が聖水の作り方知ってるんだよ」
「あら。あたしはお父さんに言われて書いただけよ」
「なんか、怪しいな」
「イヤねえ。親を信じなさいよ」
 お袋はそう言って、冷蔵庫に磁石で止めてある広告を破った紙を持ってきた。
「はい。これよ」
「広告の裏に書くなよォ~」
「それしかなかったんだもの」
 ぼくはお袋から紙を受け取って、材料の欄に目を通した。
「ええと、なになに」
 珠美も紙をのぞき込んだ。
「昆布一枚。カツオ節五十グラム…… お袋! これじゃないよ!」
「あら。それで間違いないわよ」
「だって、どこの世界に、昆布を使って聖水を作るやつがいるんだよ」
「そんなこと言っても、お父さんのやることなんか、お母さんしらないわよ」
 そうであった。これはうちの親父が指示したメモなのだ。なにが書いてあっても不思議じゃない。
「どう思う珠美?」
 ぼくは珠美に聞いた。
 珠美は、ちょっと考えてから答えた。
「いささかの疑惑は感じますけど、今はお父さまのおっしゃるとおりにするしかないと思います」
「いささかの疑惑ねえ。つまり、本当はすごく疑ってるわけね、珠美も」
「ええと…… まあ、そうなりますね」
 ぼくらは苦笑いしあった。


32


 ともかく。
 親父がなにを企んでいるのかしらないが、今は、このレシピ通りに聖水を作るしか方法はないようだった。どうせ、教会の方に聞きに行ったって、目玉の飛び出た仏さんを見せられるのが関の山だ。
 そんなわけで、ぼくらは家の近くの商店街にいた。
 ぼくが乾物屋でメザシの干したのを見ていると、珠美が楽しそうな声でぼくを呼んだ。
「光彦さーん」
 彼女は、カツオ節の棚の前にいた。
「なに?」
「これって、どれを買い求めたらよろしいのでしょうね?」
「ん?」
 そこには何種類ものカツオ節が並んでいた。ぼくにわかるのは、はっきり言って値段の違いだけだ。
「う~ん。高いの買っておけばいいんじゃないかな?」
「やっぱりそうですよね」
「あのさあ、珠美」
「はい?」
「なんか、楽しそうだね」
「うふふ。だって、わたしこうしてお買いものするの初めてなんですもの。やっぱり、不謹慎かしら?」
「いや。そんなことないよ」
「よかった」
 珠美は、にっこり笑って、カツオ節を手に取った。そして乾物屋のオヤジに言った。
「すみません。これを一ついただけますか」
「はいよ、奥さん」
 オヤジが愛想良く言った。
「いやだ…… 奥さんだなんて」
 珠美はポッと顔を赤めた。まあ、この状況では、ぼくらが夫婦に見えるのはごく自然なんだけどね。
「奥さん、目が高いね。そりゃ、最高級品だよ」
 オヤジはニコニコした顔で続けた。
 そりゃそうだろうよ。一番値段が高いの取ったんだから。
 で、ぼくが財布を出そうとしたとき。
「ねえ、おじさん」
 と、珠美。
「わたし、なにかの本で読んだのですけど。こう言う場合は、マケて下さいなって言うのが礼儀なんですよね?」
「はあ?」
 オヤジはポカンと口を開けた。
「あら。違ったかしら?」
「いや、珠美。なにで読んだか知らないけど、礼儀ってことはないぞ」
「そうなんですか。ごめんなさい」
「ワハハ。変わった奥さんだな。おっと、失礼。いいよ、百円マケてやるよ」
「まあ、うれしい! ありがとうございます」
 珠美は乾物屋のオヤジに深々と頭を下げた。
「いやに礼儀正しい奥さんだなァ」
 乾物屋のオヤジが言った。
 う~ん。これはこれで、先が思いやられるなァ。と、思うぼくであった。
 結局、それからいくつか材料を買い求めたのだが、終始この調子で、珠美はすべてのお店でマケさせたのであった。もしかして珠美って、意外とちゃっかりしてるかも。


33


 ぼくらは、すべての材料を買い求めて家に戻った。
「珠美。この材料で…… いや、食材で聖水ができると思うか?」
「やっぱり、食材ですよね、これは」
「うん。どう見ても」
 ぼくらは、キッチンのテーブルに並べた材料を見て議論しているのであった。
「えーい! ごちゃごちゃ言っとらんで、早く作らんか」
 親父が叫んだ。
「あっ、はい。お父さま」
 珠美は、慌てて聖水作りを始めた。これが、聖水であればの話だが。
「ええと、まずはお湯を沸かすのね」
 珠美は、鍋に水を入れて火に掛けた。
「違うわよ、珠美さん」
 口を挟んだのはお袋だった。
「昆布を最初に入れなきゃダメよ。鍋の底に敷いてから火に掛けなさい」
「はい、お母さま」
 珠美は、お袋に言われたとおりにした。
「そう。昆布のダシは水から取るのよ」
「はい、お母さま」
「つぎは、カツオ節を準備しておきなさい」
「はい、お母さま」
「湯が沸き立ったら、カツオ節を入れてすぐに取り出すのよ」
「はい、お母さま」
 ううむ。これって聖水作りだろうか? どう見ても、姑が嫁に料理を教えているようにしか見えないんですけど……
「光彦さん」
 珠美が言った。
「わたし、がんばって美味しいの作りますから。待ってて下さいね」
「うん。まあ……」
 ぼくはひきつった笑いで答えた。珠美も初期の目的を忘れてるような気がする。まさか彼女は、美味しい聖水を作るつもりだろうか?
「ほらほら、珠美さん。お湯が沸いてるわよ」
「はい、お母さま」
「カツオ節をサッと入れなさい」
「はい、お母さま」
「あらあら。珠美さんって、意外と不器用ねえ」
「ご、ごめんなさい、お母さま。わたし、料理は得意じゃなくて」
「いいのよ。うまく作ろうなんて思わなくても。料理は愛情なんだから」
「はい、お母さま。わたし頑張ります」
 料理?
 ぼくは親父を睨んだ。ところが、親父は知らんぷりで新聞を読んでいるのであった。まったく、なにを企んでるんだ、このクソ親父。
「うふふ。なんだか、お父さんと結婚した当時を思い出すわね」
 お袋が言った。
「お母さまって、お料理は得意だったんですか?」
「そんなことないわよ。結婚当時は、よく実家の母に電話して聞いたものよ」
「そうなんですか。わたしの母は、あまり料理をしないので、聞きたくても聞けません」
「だったら、あたしが教えて上げるわよ」
「ホントですか、お母さま!」
「ええ。あたしこそ大歓迎よ。早く、光彦と結婚しちゃいなさいよ」
「やだ、お母さまったら!」
 ううむ。なんという会話だ。ローマ法王も聖水を作るとき、こんな風か?
「さあ。カツオ節を出したら、お味噌を入れましょ」
「はい、お母さま」
「火は止めてね。沸騰しているときに、お味噌を入れたらダメよ。香りが飛んじゃうから」
「はい、お母さま。あの、量はどのくらいですか?」
「あら、それじゃ多いわ。もっと少なくして。そう、そのくらいね。それから少しずつ入れていって、味をみながら調節するのよ」
「はい、お母さま」
 珠美は、お玉半分ぐらいの味噌を入れてから、味噌汁を小皿に取って味見をした。
「あっ、あつつ」
 珠美は舌を出して熱がった。
「大丈夫、珠美さん?」
「ごめんなさい。わたし猫舌なんです」
 そりゃそうだろう。ぼくは一人うなずいた。
 珠美は、小皿に取った味噌汁をフーフーして、もう一度味見をした。
「お母さま。少し薄いかしら?」
「どれどれ」
 お袋が味見した。
「いいえ、大丈夫よ。こういう味を見るときはね。ちょっと薄いかなっていうぐらいが丁度いいのよ」
「うわァ。勉強になります」
「ふふふ。珠美さんって素直ね。あたしたち、うまくやっていけそうだわ」
「まあ、お母さまったら」
 そう言って、珠美とお袋は、うふふと笑いあった。和気あいあい。
「じゃあ、お豆腐を入れましょうか」
「はい、お母さま」
「包丁で、手を切らないようにね」
「はい、お母さま」
「お豆腐を入れたら、もう一度火を入れて、沸騰寸前のところで止めてちょうだい」
「はい、お母さま」
「最後はネギよ。パラパラっと落としておしまい」
「はい、お母さま」
 珠美は、ネギを鍋に入れた。
「できました。お母さま」
「いいできよ、珠美さん。家庭によっていろいろ作り方はあるでしょうけど、これが森川家のお味噌汁。わかった?」
「はい、覚えました。お母さま」
「じゃあ、つぎは漬け物の漬け方教えてあげる」
「はい、お母さま」
「お袋! 料理教室やってるんじゃないぞ!」
 ぼくは叫んだ。
「あら、そうだったわ。じゃ、珠美さん。お父さんと光彦に、お味噌汁をよそって上げてちょうだい」
「はい、お母さま」
 ぼくは、親父の読んでいる新聞を取り上げた。
「親父。できたってさ」
「おう。そうか」
 珠美は、味噌汁のお椀に、今、自分が作った味噌汁をよそって、ぼくと親父の前に置いた。ぼくはもう、これが聖水だとは、絶対に思えなかった。
「うまい! 合格だ!」
 親父が言った。
「よかったァ」
 珠美がホッとする。そして、今度はぼくの方を見た。
 ぼくも、彼女が作った味噌汁を飲んだ。
「うん。おいしいよ」
「わあ! うれしい!」
 珠美は笑顔で言った。なんか、性格変わってきたなあ、珠美って。
 それはそれとして。
「で、親父」
 ぼくは言った。
「これのどこが聖水だって?」
「聖水? おまえ、なにバカなこと言っとる。こりゃ、味噌汁だぞ」
「わかってるわい、そんなこと!」
「おいおい。怒るなよ。血圧上がるぞ」
「たいがいにしとけよ親父。息子怒らすと恐いぞ。金属バット振り回しちゃうぞ」
「わーかった、わーかった。今度こそ、教えるよ!」
 親父は、両手を上げて、すぐに降参した。
 怪しい……


34


「なあ、光彦よォ」
 親父が味噌汁をすすりながら言った。
「本気で、聖水を作る気か?」
「あんたが、一番重要だって言ったんだぞ」
「そりゃそうだが。聖水はヤバイよ。危険だよ」
「なんで?」
「おまえ、マジで死んじゃうかもしれないよ」
「だから、なんで!」
「いやあ。聖水を作るには、二週間の断食が必要なんだよ」
「断食だって!」
 ぼくは叫んだ。
「そりゃ、どういうことだ親父!」
「まあ、ユダヤの古い教えでな。断食が必要なんだよ」
「なんでユダヤなわけ?」
「そりゃおめえ。キリスト教の元はユダヤ教だからだよ。そんなことも知らんのか?」
「悪かったな!」
「まあ、いい。とにかく断食が必要なんだよ。それにな、断食しても絶対にうまく聖水が作れるとはかぎらんのだ。ま、精神の統一と奉仕の心を修行したわけだから、大丈夫だとは思うがな」
「二週間か……」
 ぼくはつぶやいた。
「な。大変だぞ。やめとけ、やめとけ」
 ぼくが二週間とつぶやいたのは、親父が言うように断食の辛さを考えたからじゃない。文字どおり、時間を考えたのだ。ぼくらはもう、滝に打たれる修行と、屋敷の掃除とで、半月近くの時間を無駄(?)に過ごしているのだ。この上、二週間も断食するとなると、珠美が狼男に差し出される日までに、ほとんど猶予はない。
 だが。
 それが必要ならば、どんなにタイトなスケジュールであってもやらねばならないのだ。もちろんぼくは、断食ごときで怯む気はまったくない。
「親父。今度こそ冗談抜きだろうな」
「ああ。マジだよ」
「ホントだな? 二週間も断食して、冗談でしたじゃすまないぞ」
「バカ野郎。オレだって、ジョーダンで、実の息子に二週間も断食させるか」
「わかった。信じるよ」
「おいおい。マジでやめとけって」
「光彦さん……」
 珠美が、ぼくの腕を掴んでフルフルと首を振った。
「珠美。ここまで来て、はい、やめます。なんてぼくが言うと思うかい?」
「いいえ。ですが……」
「親父。ぼくはやるぞ」
「バカなヤツ。想像以上に苦しいぞ」
「いいや、やる。やると言ったら、絶対にやる」
「ふん。頑固者め」
「本日、ただ今から始める」
 ぼくは宣言した。
 が。
「まあ、その前に。珠美の作った味噌汁だけは飲んでおこう」
 ぼくは、目の前のお味噌汁を飲み干した。


35


 断食が始まった。
 二日目が辛かった。とにかく、腹が減る。水をいくら飲んだって腹の足しにならない。だいたい、水なんか、そんなにガブガブ飲めるもんじゃなかった。
「光彦さん。辛くなったら、いつでもやめて下さい」
 珠美が言った。その表情には悲壮感が漂っていた。
「ここまで来て、二週間ぐらいの断食でへこたれるもんか」
「だったら、わたしも一緒に断食します」
「ホントにそんなことしたら、マジで怒るぞ」
「でも、だって、わたし」
「頼むよ。そんなこと言わないでくれ」
 ぼくは珠美を抱きしめた。珠美は、じっと黙ってぼくの胸に顔を埋め続けていた。
 やがて、ぼくは言った。
「珠美。約束してくれ」
「なにをですか?」
「本当に、君まで断食なんかしないって」
 珠美は答えなかった。
「頼むよ。そうでないと、ぼくはそっちが気になって胃に穴が開いちゃうかも」
「はい」
 珠美は小さな声で答えた。
 三日目。
 空腹感はなくなっていた。それどころか、不思議なぐらい体の調子がいいのだ。体が軽い感じさえする。ぼくは、この日一日、珠美とおしゃべりして過ごした。珠美の顔からも悲壮感は消えていて、ごく平穏に一日が終わった。ちなみに、断食を始めた日から、珠美はうちに泊まり込んでいるのである。そんなわけで、一番はしゃいでいるのは、うちのお袋だった。
 四日目。
 この日も、ぼくの体の調子はすこぶる良かった。珠美もぼくの話し相手になる以外に、うちの手伝いをする余裕があった。むしろ、積極的に、お袋の手伝いをしているようだった。もっとも、料理の手伝いだけは、あまりやりたがらなかった。もちろん、ぼくが断食しているせいだろう。
 五日目。
 そろそろ、ぼくの体にマイナスの影響が出始めてきた。断食三日目から、あんなに軽いと感じ始めていた体が、今度は重くなりだした。もちろん、なにも食べていないわけだから、実際に重くなるわけがない。なんとなく、だるい。でも、まだ、それを顔に出さない余裕はあった。珠美はというと、掃除に励んでいた。いい加減なお袋の掃除と違って、珠美の掃除に手抜きはなかった。我が家は見違えるように綺麗になっていった。さすがのお袋も、これには舌を巻いているようだ。
 六日目。
 珠美の顔に、心配の色が浮かんでいた。もう、ぼく自身も、断食の辛さを隠し通す精神力が残っていないようだった。自分では、平静にしているつもりでも、珠美の表情から、ぼくの顔に『辛い』と書いてあるのがわかる。この日、珠美は家のことより、ぼくの側にいる時間が多かった。
 七日目。
 この日になると、珠美はぼくの側から一歩も離れなくなった。
「珠美」
 ぼくは言った。
「そろそろ、お昼だろ。食事をしておいでよ」
「いや」
「約束したじゃないか」
「食欲がありません」
「ソーメンぐらいなら食べられるだろ」
「食べたくありません」
「まったく…… 君はぼくより頑固だね」
 ぼくはしゃべるのもしんどくて、それ以上言葉を出す元気がなかった。でも言った。
「珠美。食事をしてきてくれ」
「いや」
 珠美は首を振った。
「ダメだって。珠美までへばったら、どうするんだ」
 ぼくは立ち上がった。一瞬立ち眩みがしたけど、なんとか我慢した。
「さあ、行ってくれ」
 ぼくはドアを開けた。
「でなきゃ、もう二度とこの部屋に入れないぞ」
「光彦さん」
 珠美は懇願するようにぼくを見て、首をフルフルと振った。
「はら、早く!」
 ぼくは、珠美の腕を取ると、嫌がる彼女を無理に立ち上がらせて、部屋から追い出した。たったこれだけのことで、この日は体力を使い果たした。
 八日目。
 ぼくはついに、ベッドで寝たきりになった。立ち上がる気力もなくなっていた。どうやら、珠美も、昨日の昼からなにも食べていないようだ。彼女は、ぼくのベッドの脇に座って、ずっとぼくの手を握りしめていた。
 さらに。
 親父が奇怪な行動を始めた。それ以前からも、ぼくの様子を見に来てはいたのだが、この日は童話の本を持ってきて、朗読し始めたのだ。どうして、この歳になって、親父にフランダースの犬を読んで聞かされなきゃならないんだ?
「こうしてネロの魂は」
 と、親父。
「パトラッシュと一緒に、天に昇っていったのでした。合掌」
 こら。神父が合掌とはなにごとだ、合掌とは。十字を切れ。と、突っ込みたかったが、ぼくにその気力はなかった。
 その、クソ親父は、朗読し終わると、珠美をチラチラと伺っていた。
「悲しいお話ですね、お父さま」
 珠美が親父の視線に気がついて、ポツリと言った。
「だろ? 悲しいよな。泣かせるよな。泣けるよな」
「ええ、とても」
「そういう割には、泣いてないね、君は」
「お父さまも、泣いていらっしゃいませんね」
「いや、そりゃそうだが…… ちっ。やっぱ、こんなんじゃダメか」
 親父はそう言い残して、ぼくの部屋を後にした。いったい、なにを考えてるんだ、あのクソ親父は。
 九日目。
 なんか、死期が近づいた老人の気分だ。もう、体中、カサカサ。油を全部燃焼させちゃったみたい。もともと太ってる方じゃないから、脂肪の蓄えがないのだ。こんなことなら、もっと太っておくんだった。
 珠美は相変わらず、ぼくの側を離れなかった。それどころか、むさ苦しい親父までもが、ぼくの部屋に居座って、出ていこうとしなくなった。
 十日目。
 ああ…… もしかして、マジで死ぬかも。ついに、意識さえもとぎれとぎれになっている気がする。自分では、起きているつもりなのだが……
「水」
 ぼくはポツリと言った。
「はい、光彦さん」
 珠美がそっとぼくの体を起こしてくれた。
「ゆっくり、お飲みになって」
 珠美は、ぼくの口に白湯の入った湯飲みを運びながら言う。
 情けない。これじゃ、寝たきり老人だ。
 ここが江戸の長屋だったら、さしずめ、『すまないねえ、珠美。おまえには苦労ばかりかけて』『それは言わない約束でしょ、お前さん。早く元気になっておくれよ』なんて、シーンだな。ああ、こんなときでも冗談が浮かんでしまう自分が呪わしい。
 がんばれ、がんばれ、光彦。あと四日だ。あと四日……
 ぼくはそう自分を叱咤したが、フッと意識が途切れてしまった。
「光彦さん! 光彦さん!」
 再び意識を取り戻すと、珠美が叫んでいた。ぼくは、珠美を安心させようと声を出したかったが、思うようにならなかった。
「ああ、お父さま! 救急車を!」
 珠美が叫んだ。
「いや、しかし、まだ断食の途中だぜ」
 親父が言った。
「そんなこと言っている場合じゃありません! 光彦さんが死んじゃう!」
「でもなあ……」
 親父はグズグズと答えた。
「わたしが呼んできます!」
 珠美は立ち上がろうとした。
 ぼくは、渾身の力を振り絞って、珠美の腕を掴んだ。
「光彦さん!」
「ダメだ…… あと四日なんだ……」
「いや!」
 珠美がぼくに抱きついた。
「お願いお願い。もうやめて。わたし、もう耐えられない」
「大丈夫…… だよ……」
「いやいやいやいや!」
 珠美は激しく首を振った。
「もういや! こんなことやめて! お願い、光彦さん。お願いだから!」
 珠美の瞳から、ツーッと涙がこぼれ落ちた。
「今だ!」
 叫んだのは親父だった。
「嫁よ! そのままじっとしていろ!」
 親父はなにを思ったのか、ポケットから、試験管を取り出すと、珠美の頬をつたう涙をすくい取るように試験管に入れた。
「よっしゃーっ、ゲットーッ! 聖水が取れたぞ!」
 なぬ?
「これぞ、超強力、本家乙女の涙! 聖水の原液だ!」
 原液?
「ワハハハハ! 息子よ、よく耐えた。もうなに食ってもいいぞ!」
 ぼくの意識は、そこで途切れた。


36


 ステーキとマーボー豆腐と野菜炒め定食の夢を見た。我ながら統一性のない夢だ。
 ぼくは目が覚めた
「光彦さん。ああ、よかった」
 珠美が安堵している表情でぼくをのぞき込んだ。
「珠美…… 聖水は?」
「はい。お父さまが持って行かれました」
「そうか。まさか珠美の涙が聖水だったとは……」
「ごめんなさい。もっと早く泣いておけばよかった」
「ハハハ……」
「光彦さん」
 珠美がにっこりと言った。
「ちょっと待っていて下さいね。お粥を温めてきますから」
「うん」
 珠美は、パタパタと台所に駆けていった。
 ううむ。それにしても涙が聖水の原液だったとはなァ。考えてみれば、ありがちなパターンだよな。なんで気が付かなかったんだろう。
 珠美が戻ってきた。
「お母さまに教わって作ったんです」
「珠美が?」
「はい。たぶん、味は大丈夫だと思います」
「へえ。楽しみ」
「うふふ」
 珠美はほほえみながらお粥の入った小鍋の蓋を開けた。
 ふわんと湯気が立って、美味しそうな匂いが漂ってきた。
「食べさせて上げますね」
「いいよ、自分で食べるから」
「ダメですよ。光彦さん体が弱ってるもの」
 珠美は、お粥を蓮華にすくい取ると、息を吹きかけて冷ましてくれた。
「ふーっ。ふーっ」
 一所懸命息を吹く姿は、ちょっとコケティッシュで可愛かった。
「ふーっ。ふーっ。ふーっ」
 でも、ちょっと長くないか?
「ふーっ。ふーっ。ふーっ」
 もう冷たくなってるんじゃ?
「ふーっ。ふーっ。ふーっ。さあ、いいわ。はい、光彦さん。あ~んして」
「あ~ん」
 ぼくは、思わず口を開けた。ちょっと恥ずかしい。
 それはともかく。
 やっぱり、お粥はすっかり冷えていた。珠美が自分を基準にして冷ますとこうなるわけだ。もし、将来珠美と結婚したら、ぼくは温かい料理が食べれるんだろうか?
「おいしい?」
 珠美が満面の笑顔で聞いた。
 その顔が、あんまり可愛くて、ぼくは「冷ましすぎ」と言うことができなかった。
「うん。おいしい」
「よかったァ」
 結局ぼくは、珠美に一口ずつ、冷たくしてもらったお粥を平らげた。


37


「おまえ、タフだな」
 親父が言った。
「なにが?」
「十日の断食で衰弱しきっとったのに、なんで、一晩でピンピンしとるんだ?」
「あんたの息子だからだろ」
「ワハハ! やはりそうか!」
 親父は笑った。
 そう。ぼくはたった一晩で完全回復しているのだ。その理由は今さら語る必要もないだろう。ぼくには珠美がいるんだもんね。へへへ。昨日の晩、例のアレをやってもらったのだ。これは、ぼくらだけの、ひ・み・つ。だよ。
「それで親父。聖水の方は大丈夫なんだろうな」
「うむ。久々に、極上の原液が取れたからな。超強力な聖水ができたわい」
「あの、お父さま」
 珠美が言った。
「本当に、わたしなんかの涙でよろしかったのでしょうか?」
「なんで?」
「だって、わたし妖怪ですから」
「ワハハハ! 嫁よ。なにを心配しておる。妖怪だろうと人間だろうと関係ない。要は愛があればいいのだ」
「愛?」
「そうだ。愛のある涙こそが聖水となるのだ。ちなみに、あんたの涙からは、五リットルも聖水ができたぞ」
「ご、五リットルですか?」
「うむ。普通は、三リットルぐらいなんだがな」
「親父。ってことは、珠美の涙をなにかで薄めたのか?」
「うむ。水で薄めるのだ。ちなみに、普通の水道水でよい」
「ありがたみが、あるんだかないんだか……」
「ワハハ。とにかく、杭も用意してあるからな。あとは、前の日に杭を聖水に漬け込んでおけば、準備万端だ」
「ふう。あと三日か」
「ま、のんびり待つしかないな。嫁とデートでもしてこい」
「ちょっと待て。ほかに準備しなくていいのかよ?」
「なにを?」
「なにをって、十字架とかニンニクとかさ」
「おまえ、迷信深いなァ」
「迷信なの?」
「あったり前だ。今どきのドラキュラなんか、平気な顔で餃子定食とか食べるぞ」
「餃子定食?」
 餃子定食を食べるドラキュラっていったい……
「でも、十字架は効くだろ?」
「甘いな、息子よ。あんなもん、信仰があってナンボのもんだ。お前みたいな小僧が持ったって、なんにもならん」
「親父が持ったら?」
「うっ…… まあ、なんだ。とにかく心配するな、息子よ」
「話を逸らすな」
「うるさいなァ。とにかく、心配しなくていいの!」
「なまくら神父め」
「うるさい! ごちゃごちゃ言うな!」
「でもさ、親父。たとえ、聖水に漬けた杭があっても、それをどうやって、ドラキュラの心臓に突き刺したらいいんだ?」
「ふっ。よく聞いてくれた、息子よ。まずは、アーメンキックをお見舞いして、そのあと、涅槃チョップでぶっ倒すのだ」
「今、思いついたろ、それ」
「わかる?」
「真面目に答えろーっ!」
「だからァ、心配するなって言ってるだろ。とっとと、映画でもディズニーランドでも行ってしまえ」
「なんで、映画とディズニーランドなんだよ!」
「デートの定番だろうが」
「だから、なんでデートなんだよ!」
「息子よ」
 親父は、ポンとぼくの肩に手を乗せた。
「女は最初が肝心だぞ。優しくリードしてな。うまいこと丸め込んで、ホテルに連れ込むんだ。そうなりゃ、こっちのもんよ」
「親父!」
「ワハハ! コンドームはラブホテルに備え付けてあるから心配するな!」
 ボカッ!
「いいかげんにしろ!」
 ぼくは親父の頭を殴った。
「い、痛ってえなァ。本気で殴るんだもんなァ。少しは尊属を敬えよォ」
「うるさい! このエロ親父!」
 ぼくは、珠美の手を取って、親父の教会を飛び出した。
 そして、その後。
 ぼくと珠美は、本当に映画を観に行ったのであった。


38


 ついに、運命の日がやって来た。
 ぼくらは、珠美の屋敷に集まっていた。ぼくらと言うのは、二つの家族全員である。ちなみに、夜遅い時間なので、珠美のお爺さんとお婆さんは欠席である。
「なんか、ピクニックに行くみたいねえ」
 ろくろ首のお母さんが言った。
 そうか?
 まあ、確かに、全員で庭にゴザ引いて座っているのではあるが、時間は、草木も眠る丑三つ時だ。どう考えても、ピクニックという感じじゃない。
 いや、それ以前に、ピクニックという状況じゃないだろうに!
「うむ。こうして全員勢揃いすると、やはり、アレだな」
 と、烏天狗のお父さん。
「そうですな。やはり、アレですな」
 と、親父。
「ちょっと待て」
 と、ぼく。
「まさか、宴会を始めるって言うんじゃないだろうな?」
「あっ。やっぱわかる?」
 親父が言った。
「この期に及んで、まだ言うか、その口が言うか、この口か!」
「わーっ。待て待て、息子よ! 興奮するな!」
「これから、ドラキュラが来るんだぞ!」
「わかってるって。おまえ、最近、怒りやすいよ」
「緊張してるんだよ!」
「だからァ。息子の緊張をほぐそうとだな」
「まだ言うか! この口か!」
「わーっ! 親の顔を引っぱるなーっ!」
「光彦さん!」
 珠美が、緊張した声でぼくの腕にすがりついた。
「空を見て下さい!」
「なに?」
 ぼくは、親父とじゃれるのをやめて、空を見上げた。
 すると。
 黒い雲がもくもくと現れ始めた。綺麗な満月を雲が隠していく。
「来たな」
 烏天狗のお父さんが言った。
 ゴクッ。ぼくは唾を飲み込んだ。ぼくの腕を掴んでいる珠美の手に力が入る。珠美は少し震えていた。
「大丈夫だ」
 ぼくは珠美に言った。
「はい……」
 だが、珠美は、いっそう手に力を込めた。
 いつの間にか、空はすっかり黒い雲で覆われてしまった。
 キーッ!
 なにかが奇声を上げて飛んできた。コウモリだ!
 キーッ! キーッ! キーッ!
 コウモリの数はどんどん増えていった。
「光彦さん…… わたし、恐い……」
「平気だ。心配するな」
 ぼくらは、ひしと抱き合った。
 ところが。
「いやねえ、向こうの妖怪さんたちはァ」
 ろくろ首のお母さんが言った。
「ホントになァ。演出に懲りすぎるよな」
 と、烏天狗のお父さん。
「まったくですな。こう、なんというか、風情がありませんな」
 と、親父。
「やっぱり、あれよね。柳の下でなま温かい風が吹くっていうのが定番よね」
 と、ぼくのお袋までが言った。
 ふと見ると、直樹と冬美ちゃんは、物陰の方で楽しそうに話し込んでいる。
「あ、あんたら、状況、わかってるのか?」
 と、ぼくが言ったとき。
「旦那さま~ お客様です~」
 佐藤さんが庭の方にやってきた。
「おお、来たか。お通ししなさい」
「はい~」
「誰ですか、こんなときに!」
 ぼくは叫んだ。
「誰って、ドラキュラだよ、ドラキュラ」
「へっ?」
「ヤダなァ、光彦君。そりゃ、彼らだってちゃんと玄関から入ってくるよ」
「お、お父さま」
 珠美が言った。
「では、このコウモリはどういうわけなんですか?」
「だから、演出だってば」
 へなへなへな。
 ぼくと珠美は、抱き合ったまま地面にへたり込んだ。


39


「こちらで~ ございます~」
 佐藤さんが、ドラキュラの家族を連れてきた。
 ぼくは気を取り直して立ち上がった。珠美もぼくの陰に隠れるように寄り添った。
 ドラキュラはまさにドラキュラであった。映画に出てくるそのまんまである。隣に寄り添っている女は、夜中だと言うのにサングラスをかけていた。屋敷の中なのに、大きな帽子をかぶっている。そして、狼男はやっぱり狼男だった。ただ、毛むくじゃらの体にちゃんとスーツを着ていた。ずいぶん、イメージが違う気がする……
 ドラキュラたちは、ぼくらの前で立ち止まった。
 いよいよだ。
 ぼくは、ジーンズの後ろのポケットに差しておいた杭と木槌を握りしめた。
「光彦さん……」
 珠美が囁いた。
「気をつけて」
 ぼくは珠美にうなずいた。
 すると。
「いよっ。ゴンちゃん、元気?」
 ドラキュラが烏天狗のお父さんに手を上げて言った。日本語で!
「よお、ドラちゃん。久しぶり」
 お父さんも気軽に答えた。
 はあ? どういうこと?
「いや、遠いところ悪かったねえ」
 と、お父さん。
「なになに。丁度、バカンスの時期で旅行がてら来たよ」
 ドラキュラは答えた。
「お久しぶりですわァ、ドラさん」
 ろくろ首のお母さんが言った。
「いやあ、奥さん。相変わらずお美しい」
「あなた」
 ドラキュラの隣の女性が、ドラキュラを睨んだ。
「バカ、おまえ。挨拶しただけだろ」
「そうじゃないわよ。ちゃんと紹介してちょうだい」
 女性が言った。
「そうだった。ゴンちゃん。えー、これがうちの女房のメリッサだ」
「初めまして、みなさま」
 女性が…… いや、ドラキュラの奥さんが頭を下げた。サングラスはしたままだ。
「ごめんなさいね。わたくし、メデューサなもんですから、サングラスは外せませんの」
「そうなんだよ。失礼は許してくれたまえ」
 ぼくは、彼女が帽子をかぶっているわけもわかった。きっと、髪の毛が蛇なんだ。
「いや、そりゃ残念ですな」
 うちの親父が言った。
「奥さんの美しい瞳が拝見できないとは」
「あなた!」
 お袋が親父の足をつねった。
「い、痛てえな、もう!」
「いやいや。うちの女房の目を見たら大変ですぞ」
 ドラキュラが言った。
「わたしなんか、何度、石にされたかわかりませんわ。特にね、ベッドの上で、励んでる最中なんかえらいこってすぞ。下半身ぶらぶらさせてカチンコチンですからな。情けないったらもう」
「あなたったら、もう」
 奥さんが顔を赤らめた。
「ワハハ。そんなとき、できたのが息子のジムですわ」
 ドラキュラは狼男を指さした。
「がう」
 狼男は言った。いや、吠えたあと、
「今日は、満月なもんで、こんな姿ですいません。がう」
 と、頭を下げて挨拶した。
「珠美」
 ぼくは珠美に囁いた。
「これって、どういうこと?」
 珠美も、わけがわからない様子で首を振った。
「あ、あの~」
 ぼくは、遠慮がちに声を出した。
「ちょっとその~ 事態が把握できないのですけど」
「おお。忘れとった」
 お父さんが言った。
「ドラちゃん。これがうちの長女と、その婚約者です」
「そうか。いや、美しい娘さんだねえ。うんうん。わたしらも仲人のしがいがあるってもんだよ。なあ、メリッサ」
「そうね、あなた」
「はあ?」
 ぼくと珠美は、同時にマヌケな声を出した。


40


「説明しよう」
 珠美のお父さんが言った。
「あれは、半年ほど前だった。運転手の佐藤が、神妙な顔でわたしに言ってきたのだ」
 ぼくと珠美は、黙って聞いていた。
「佐藤が言うには、珠美がどうも、人間の男に惚れたらしいってことだった。しかも、もう何年もその男のことを陰から見ているという。佐藤は口止めされておったようだが、珠美の一途さにたまりかねて、わたしらに話してくれたんだよ」
「まったくねえ」
 と、ろくろ首のお母さんが口を挟んだ。
「我が娘ながら、奥手すぎて、わたしは心配で心配で」
「そうなのだ。そこで、わたしとかーさんは、一計を案じたのだ」
 ぼくはこのあとの展開が、なんとなく読めてきた。
「旧友のドラちゃんに頼んで、この芝居をしてもらうことを思いついたのだよ」
「芝居たって、こちとら、なにもしてませんがね」
 ドラキュラが答えた。
「そうなのだ。彼には話の上で悪玉になってもらったわけだ。ちなみに狼男のジム君には、狼女のガールフレンドがいるそうで」
「ハハハ。そうなんですよ、がう」
 狼男が照れながら答えた。
 ぼくは、段々と怒りがこみ上げてきた。つまりこれは、親たちによって仕組まれたことだったのだ。と、言うことはつまり、ぼくの親父たちも……
 ぼくは親父を睨んだ。
 親父は、ぼくの視線に気がつくと、なんと、Vサインをしやがった。
「知ってたんだな、親父」
「そりゃそうだ。水木さんから相談されてな。そんで、珠美さんの写真を見たら、えらい美人ジャン。もう、かーさんも気に入ちゃってよ。ぜひ、うちの嫁になんて言い初めて大変だったんだぞ」
「そうなのか、お袋」
「そうよ。あんた、いつまでたっても甲斐性なしじゃ困るでしょ。ここらでお嫁さんをもらうのも悪くないと思ってね」
「まさか、直樹たちも」
「ごめんな、兄貴」
「ごめんね。お姉ちゃん」
 二人は悪びれた様子もなく答えた。
 ぼくは、怒りを爆発させる前に、親父に聞いた。
「それにしちゃ、親父よ。あの大掃除といい、断食といい、えらく念が入ってたな」
「そりゃおめえ。おもしろいからジャン」
「断食もおもしろかったか?」
「ありゃ、おまえがあそこまでやるとは思ってもみなくて…… まあ、怒るなって」
「ほう。この期に及んで、怒るななんて言うのか、あんたは」
「こら光彦。待て。親の話を聞け。尊属を敬え」
 ぼくが、親父をぶん殴ろうとしたとき。
「ひどい!」
 珠美が叫んだ。
「お父さまもお母さまも、わたしと光彦さんの心をもて遊んだのね!」
「待て、珠美。こうでもしなきゃ、おまえが人間の男に告白なんてできんだろうに。ここはひとつ、親の気持ちも汲んでもらってだな」
 珠美のお父さんは、懸命に娘に言った。
「いいえ! お父さまは、絶対、楽しんでおられたわ! お母さまだってそうよ! 光彦さんにあんな辛い思いをさせて!」
「いや、あれは光彦君がどこまで本気か確かめたくてな。悪気はないんだ」
「確かめる? 確かめるですって?」
 珠美がわなわなと震えだした。
「わわわ、怒るな珠美! あの話を聞いて逃げ出す男だったら、おまえも諦めがつくと思ったんだよ。それに、親としちゃ、やっぱ娘を本気で好いてくれる男でないとな」
「それが心をもて遊ぶってことよ! わたし許さない!」
 ぼくは心の中で冷や汗をかいていた。珠美って、怒ると迫力あるかも。
 とにかく。あの、大人しい珠美が大声を出して叫んでるものだから、ぼくはすっかり、自分の怒りをぶちまけるチャンスを失っていたのだった。
 それどころか。
「珠美。落ちつけ!」
 と、なだめる始末だった。
 とたん。
 珠美の体に燐光が光り始めた。
 うわあ、変身、始めてる!
 珠美は、みるみる妖怪猫娘の姿になっていった。
「ひゃーっ。すっごい綺麗。超美人ジャン」
 直樹が言った。
「ふん。なにさ、直樹さんたら。お姉ちゃんばっかり見て」
 冬美ちゃんが、ツンとすねた。
「ち、違うよ、冬美ちゃん。オレ、君だけだってば。ホントに」
 ええい! 勝手にやってろ!
 ぼくは心の中で、直樹たちに叫ぶと、変身を終えた珠美に言った。
「珠美。落ちつけよ」
「光彦さん」
 珠美が黄金色の瞳でぼくを見つめた。
「わたし、今日という今日は、頭にきました」
「うん。ぼくも頭にきてるけどね」
「そうでしょう。あんなに辛い思いをしたんですもの」
 珠美は泣きそうな顔でぼくに言った。
 つぎの瞬間。
 なんと、珠美は、ぼくを抱きかかえたのだ。しかも、軽々と。そして、ピョーンと、屋根に飛び上がった。
「わーっ! 珠美! よせ、やめろ!」
「大丈夫です。わたし、この姿のときは、力が出せるんです」
「そうじゃなくて!」
 珠美は、本当の猫のように、ピョーンピョーンと屋根を軽快に走った。ぼくを抱きかかえたままだ。珠美はカッコいいけど、ぼくは恥ずかしいよ、これ。
「降ろしてくれ珠美! ぼくに恥をかかせる気か!」
 とたん。
 珠美は、この言葉でピタツと足を止めた。
「ご、ごめんなさい!」
 珠美は、慌ててぼくを降ろした。
 ふう。
「あの…… わたし、光彦さんに恥をかかせる気なんて」
 珠美は、おろおろとした声で謝った。
「わかってるよ」
 ぼくは、屋根の上に腰を下ろした。
「珠美も座れよ」
「は、はい」
 珠美はぼくの隣に座った。


41


 空を見上げると、黒い雲はすっかり晴れていて、綺麗なお月様が、ぼくと珠美を照らしていた。
「まったく、無茶するなァ。屋根なんか登ってどうする気だったんだ」
「ごめんなさい。わたしなんだか夢中で…… なんで屋根に登ったんでしょうね?」
「ハハハ」
 ぼくは笑った。
「珠美の知られざる一面を発見したぞ」
「えっ?」
「怒ると、わけもなく屋根に登る習性があるんだな」
「もう、光彦さんったら…… こんなことしたの初めてです」
 珠美は、少しすねたように言った。
「しっかし、まいったよな」
 ぼくは言った。
「まさか、みんな親父たちの仕組んだことなんて」
「すみません。うちの父と母が悪いんです」
「いや。うちの親父とお袋も荷担したわけだし…… いや、修行なんてさせた親父が一番タチ悪いよ。とくに最後の断食は許しがたい」
「うちの父だって、あんな作り話をとくとくと話して、そのせいで、光彦さんはひどい目に遭うし、わたしだって、夜も眠れなくなるし」
「ひどいよなァ」
「ひどいです」
「あんな親を持つと、お互い苦労するよな」
「本当ですね」
 ここで、ぼくらはクスッと笑った。
「でも、珠美の両親は、本当に君のこと心配してたんだと思うよ」
「ええ。それはわかります」
「いろいろ、頭には来るけど、結局、ぼくと珠美がこうなるキッカケを作ってくれたのは、親たちなんだよな」
「ええ。確かに」
 珠美もうなずいた。
「そろそろ、許して上げようか?」
「そうですねえ……」
 珠美は考えていたが、
「許して上げましょうか」
 と、笑顔で言った。
 そのとき。
「珠美~」
 屋根の下で、お父さんの声が聞こえた。
「わたしが悪かった。な、許してくれ。頼むよ。そうだ、今度、新しいドレスを買ってやるから。な、機嫌を直してくれ」
「珠美」
 ぼくは言った。
「もう少しここにいよう」
「えっ、どうしてですか?」
「もうちょっと粘れば、宝石も買ってもらえるかもよ」
「ふふふ。そうですね。値段をつり上げることにしましょう」
 そう言って、ぼくらは笑いあった。


42


 一ヶ月後。
 話は、とんとん拍子に進んで、なんとぼくと珠美は結婚することになった。
「どうせ結婚するんだから、今日やるも一年後も同じだ」
 これが親父の意見である。なんていう親だまったく。
 仲人は、親父たちの思惑通り、ドラキュラとメデューサの夫婦に頼んだ。たぶん、こんな仲人の仲立ちで結婚する人間はぼくだけだろう。
「わお。お義兄さん、タキシード似合うジャン」
 冬美ちゃんが言った。
「そうかな?」
「うん。似合うよ。ねえ、それより早く早く!」
 冬美ちゃんがぼくの腕を引っぱった。
「おいおい。そんなに急がなくても」
「へへへ。心の準備はいい?」
 冬美ちゃんは、珠美がいる控え室の前で言った。
「あ、ああ。もちろん」
「ジャーン!」
 冬美ちゃんはドアを開けた。中には、純白のウエディングドレスを着た珠美が、恥ずかしげな表情を浮かべて座っていた。
「どう? お義兄さん」
 正直、ぼくは言葉を失っていた。
 珠美はうつむき加減にぼくを見つめた。
「珠美…… その…… 綺麗だよ」
「ありがとう。光彦さんも素敵です」
「へへへ。じゃ、式が始まるまでごゆっくり」
 冬美ちゃんはそう言って、部屋を出ていった。
「ごゆっくりたって」
 ぼくは時計を見た。
「式まで、あと十分じゃないか」
「冬美なりに気を利かせてくれたんです。この姿を、最初に見る男性はお義兄さんだって言ってましたから」
「いいとこあるな」
「ええ」
 ぼくらはほほえんだ。
「珠美」
 ぼくは、ちょっと改まって言った。
「なんか、バタバタと結婚まできちゃったけど、絶対、幸せにするから」
「はい」
 珠美はポッと顔を赤めた。
「でも、珠美。ひとつ気になってるんだけど」
「なんですか?」
「ドラキュラのドラさんって、教会に入れるのかな?」
「さあ…… どうなんでしょうか?」
「ううむ。今ごろ心配してもしかたないか」
「お義兄さん」
 冬美ちゃんがドアを開けた。
「そろそろ時間だって」
「う、うん」
 ぼくは話を中断した。
「じゃ、珠美。祭壇で待ってるよ」
 ぼくはウィンクして、控え室を出た。


43


「ぐわーっ! 苦しい!」
 心配は的中した。
「あなた。このくらい我慢なさい」
 ドラキュラの奥さんが言う。
「無茶言うなァ。わたしは、ドラキュラだぞ!」
「仲人するって張り切ってたのは、あなたでしょ」
「だって、教会式だとは思わなかったんだよォ。苦しいーっ!」
「困ったオッサンだな」
 ぼくの親父が言った。
「やっぱ、十字架はダメか」
「ダメダメ。もうダメ。苦しい。死んじゃう。いや、灰になっちゃう!」
「しょうがねえな」
 親父はそう言って、祭壇の前の十字架を外した。
「ふーっ…… 苦しかった」
 ドラさんは、ホッと息を付いた。
 親父は、また十字架を掛けた。
「ぐわーっ!」
 外した。
「ふーっ」
 掛けた。
「ぐわーっ!」
 外した。
「ふーっ」
「親父! なにやってるんだ!」
 ぼくは怒鳴った。
「いや、だって、このオッサンおもしろいぞ」
「真面目にやれ。息子の結婚式だぞ」
「ちぇっ。いい子ぶっちゃって」
「おやじい~」
「わかった、わかった。怒るな。では、新婦入場!」
 ジャジャジャジャーン!
 ウエディングマーチが教会に鳴り響いた。
 後ろのドアが開き、珠美とお父さんが入ってくる。
 パチパチパチ!
 教会に勢揃いした妖怪たちが一斉に拍手した。
「ほれ、光彦。嫁さんを迎えに行ってこい」
「ああ」
 ぼくは、バージンロードを、珠美とお父さんの前に歩いていった。
「光彦君。娘を頼みますぞ」
「はい」
 ぼくはうなずいて、珠美の腕を取った。
 ぼくらは、腕を組んで祭壇の前に歩いていった。
「んじゃまあ、ひとつお祈りなんぞするかね」
 と、親父。
「あーっ。今ここにいる若者たちは、いや、うちのバカ息子と妖怪のお嬢さんですが、この二人は神と観衆との前で結婚の誓いを立てようとしております。よくもまあ、こんな定職もないバカ息子と結婚しようなんて、奇特なお嬢さんが現れたもんだと神に感謝いたしますとともに、この二人を守り導いて下さい。アーメンっと」
「真面目にやってるか、親父?」
「うん。真面目真面目。では、結婚の誓いをするぞ。光彦。嫁さんのベールを上げろ」
「ああ」
 ぼくは、珠美のベールを上げた。
「よっしゃ。森川光彦」
「おう」
「汝、この女子と結婚し、以下略」
「親父!」
「へいへい。汝、この女子と結婚し、苦しいときもまたそうでないときも、固く節操を守り、命のある限り愛し続けることを誓うか?」
「誓う」
「よし。水木珠美」
「はい」
「汝、この男子と結婚し、苦しいときまたそうでないときも、固く節操を守り、命のある限り愛し続けることを誓うか?」
「はい。誓います」
「オッケイ。んじゃ、結婚指輪の交換」
 親父は、指輪をぼくに渡した。
「新郎から新婦へ。ほれ、早くせんか」
「やってるよ!」
「オッケイ。つぎ、新婦から新郎へ」
 珠美はぼくに指輪をはめた。
「普通ここで、キスの場面なんだか」
「省略しないぞ」
 ぼくは、親父の先手を打って言った。
「んじゃ、早くやれ」
 珠美はクスクス笑い出していた。
「キスするぞ、珠美」
「はい」
 珠美は笑顔で瞳を閉じた。
 ぼくは、ちゅっ。と、軽くキスをした。
「はい。おめでとさん。んじゃ、結婚宣言だ。あーっ。二人は神と観衆との前で永遠の愛を誓い合いました。ゆえにわたしは、この二人が夫婦であることをここに宣言します。神が結び合わせた者を、人が、もちろん妖怪も離してはならない。アーメンっと」
 教会に賛美歌がこだました。
 拍手がわき起こった。ドラキュラのうめき声もちょっと聞こえた。
 ぼくたちはこうして夫婦になったのだった。


終わり。