私は、勤めていた大手の出版社を二十八回目の誕生日に辞めた。それからは、フリーのジャーナリストとして身を立てている。この仕事も、今年で四年目。つまり、私は今年三十二歳になった。最近はよくしたもので、女が三十を過ぎて独身でも、世間の風が冷たいこともない。もちろん、この歳まで男を知らないわけじゃないし、同姓に興味があるわけでもない。ただ、男と肌を合わせても、どこか冷めている自分がいて、結婚を考えたことはなかったのだ。
そんなある日。
私は、久しぶりに旅に出てみることにした。少しばかり、日常の生活に疲れていたからだ。女の気軽な一人旅。いくつか行き先の候補はあったけど、友人の旅行記者に静かな温泉旅館を紹介してもらって、ゆっくり、疲れた精神を癒すことにした。
「いらっしゃいま……」
私がその、知る人ぞ知るという趣の旅館に足を踏み入れると、年老いた女将が迎えてくれた。ところが、女将は私の顔を見るなり、こわばった表情で言葉をと切らせたのだった。
「あの。どうしました?」
私は女将の顔を伺った。
「い、いえ。申し訳ございません。ご予約いただいた上村様でございますね」
「そうです」
「どうぞこちらに」
女将は何事もなかったように、私を旅館の奥に通した。私は、女将の態度を不審に思ったが、特に問いただす気にはなれなかった。
私は、女将の案内で旅館の廊下を歩き始めた。この旅館は、古い屋敷という表現がピッタリだ。実際に、以前は民家だった物を改造したと思われた。もちろん、元がかなり大きなお屋敷だったのは間違いない。
「お客様。東京からですか?」
女将が、屋敷の廊下を先に歩きながら聞いてきた。
「そうです」
「遠いところわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「実は、堀田さんの紹介なんですよ。彼女、よくここを利用してるそうですね」
「ああ、そうでしたの。あの方は、年に二、三度お見えになって、ごひいきにしていただいております」
「彼女がとても静かで落ち着ける温泉宿だって言ってましたけど、本当にそうですね。失礼ですけど、今、私のほかにお客さんは、何人泊まっているのですか?」
「今週末にお一組ご予約が入っておりますけど、それまでは、お客様だけでございます」
「私だけ?」
「はい。貸し切りでございますわね」
女将は、にっこりと言った。
「それはうれしいですね」
私も笑顔で応じた。
「温泉も立派だと聞いていますから、貸し切りで入れるなんてうれしいわ」
「二十四時間、開いておりますから、お好きなときにお入りくださいな」
「ええ。そうさせていただきます」
私がそう答えたとき、女将が立ち止まった。
「こちらがお部屋でございます」
私は、何気なく部屋の名前が書かれた札を見た。そこには『女郎花』と書かれていた。旅館の部屋に付けられた名前にしてはいささか…… いや、だいぶ変わっている。
「おみなえし。と呼びますのよ」
女将が、私の疑問を察したように言った。
「みなさん、『じょろうばな』とお間違えになるけど」
「そうですね。私も今、そう読んでしまいました。その…… ちょっと変わった名前ですね」
「女郎という言葉がでございましょう?」
「ええ、まあ。もしかして花の名前ですか?」
「そうでございます。ちょうど今頃の時期に花を咲かせますわ」
「ああ、思い出したわ。陰暦で七月の異称が『おみなえしづき』でしたね」
「あら。お若いのによくご存じでいらしゃいますこと」
「一応、物書きなんですよ」
私は少し照れた笑いを浮かべて言った。
「それで、『おみなえし』って、どんな花なんですか?」
「淡黄色の小花を傘のようにつける綺麗な草です。部屋の花瓶に飾ってございますわ」
「草なんですか?」
「ええ。山野に自生しておりますの。たぶん、お花屋さんではお求めになれませんわね。さあ、どうぞ」
女将は、部屋の引き戸を開けた。
私は部屋に通されると、まず、花瓶に生けられた女郎花に目がいった。確かに花屋で売るにしては地味すぎるだろう。でも、不思議と安らぎのある可憐な花だった。私は、なぜかその花に魅入られて、しばらく見つめていた。
「お夕食は何時がよろしいでしょうか?」
「あっ……」
私は、女将の言葉で、我に返った。
「ええと。七時頃でいいでしょうか?」
「もちろんです。どうぞ、温泉につかって、お体をお休めください」
「ありがとうございます」
女将は、お茶の用意だけすると、頭を下げて、部屋を出ていった。
「ふーっ」
私は、一人になると、思わず畳に上で大の字になった。畳の部屋なんて久しぶり。一人旅のいいところは、大の字になって寝ころんでも、誰にも女のくせになんて、注意されないことだ。私は、短い休みを満喫することに決めた。
温泉につかって、浴衣に着替えると、電車に揺られてきた疲れもだいぶ癒えてきた。と、同時に、お腹が空いてくる。まるで私のお腹を計ったように、夕食の時間になった。
「いいお湯でした」
私は、夕食を運んできた女将に言った。
「ありがとうございます」
「ねえ、女将さん。この旅館って、昔は民家だったんですか?」
「はい。江戸時代は大黒屋(だいこくや)という庄屋の屋敷でした」
「江戸ですか。すごく歴史があるんですね」
「いえいえ。京都の方なんかに言わせれば、歴史というのもおこがましい程度でございますよ」
「あそこは特殊ですからね」
私は笑いながら言った。
「もしかして、女将さんは大黒(おおぐろ)さんとおっしゃるとか?」
「ええ。そうですわ。六十年前に嫁いできましたのよ」
「えっ。そうすると、女将さんおいくつ?」
「今年、七十六ですわ」
「とても、そんなお歳には見えませんね」
「ありがとうございます。主人に先立たれてから、一人でこの宿を切り盛りしておりますから、歳なんか取っている暇はございませんわ」
「忙しさが。若さの秘訣ですね」
「失礼ですが、お客様も、お独り?」
「ええ。いい男がいませんから」
「最近の男性は頼りないという話ですからね。それに、私の時代と違って、今は女性も働き口が多くございますから、お独りでもご不自由はございませんでしょ?」
「ええ。そのせいで独りなんですよ」
私は苦笑いで答えた。
「お客様でしたら、器量もようございますもの。近いうちに、よい縁談がございますわよ」
「ふふふ。お世辞でも、そう言われるとうれしいですね」
「お世辞じゃございませんわよ。あら、ずいぶん話し込んじゃって。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいな」
「ありがとうございます」
女将は、夕食の準備を整えると、部屋を出ていった。
夕食を終えると、私はもう一度、温泉に入りに行った。上げ膳据え膳で、好きなときに温泉につかる。まったく、日本人に生まれて良かったなあ。って思う瞬間だ。私は、体がふやける前に温泉を出ると、部屋に戻って、持ってきた単行本を開いた。こうして、ゆっくり読書が出来るのも、わざわざ休みを取ってきた甲斐があるというものだ。
ところが。普段は夜鷹な私も、さすがに早起きをしてここに来たせいか、夜も十時を過ぎる頃には、なんとなく眠気がおそってきた。きっと、体が正常な時間のパターンに戻ろうとしているのだろう。私は睡魔に逆らうことなく、床に入った。
その日。私は夢を見た。
それは、どこか田舎の屋敷だった。女と男が、小さなお膳を囲んで食事をしていた。二人とも着物姿だ。どうも私は、江戸時代の夢を見ているらしい。男は髷を結い、女は髪を簪で束ねていた。
私は、時代劇でも見るように、自分の夢を見ていた。
女は背を向けて座っていた。男は、優しい笑顔で、女の作った質素な食事をおいしそうに食べていた。
お静……
男が、女をそう呼んでいる気がした。実際には、音として私の耳に聞こえたわけではない。いや、そもそも夢なんだから、聞こえるってこと自体がおかしいのかもしれないけど。
お静……
男がまた呼んだ。私は夢の中で『はい』と答えた。なぜ私自身が答えたのかわからない。ただ、答える必要があるように感じたのだ。そのとき。背を向けて座っていた女が振り返った。その顔は、私自身だった。
私は、思わず目が覚めた。そこは、旅館の部屋で何事も変化はなかった。
「なんか…… 変な夢……」
私はつぶやいていた。少しからだが震えている。そして、もう一度床についたが、なかなか寝付かれなかった。
翌日。
私は、温泉と読書で一日を過ごした。だが、昨晩の夢がなんとなく頭にこびりついて離れないのも事実だった。特に『お静』という名の響きに、私の中の何かが反応している感じがしてならない。
「女将さん」
夕飯の支度をしに来た女将に私は聞いた。
「変なことを聞きますけど、ここのお屋敷に、お静さんって方はいらっしゃいました?」
とたん。女将は、手に持っていた茶碗を滑り落とした。
「あ、あら、ごめんなさい。ええと、なんですって?」
「お静さんです」
「いいえ。存じ上げませんわ」
女将は、それだけ言うと、そそくさと部屋を出ていってしまった。嘘の下手な人だ。と、私は思った。明日、もう少し問いただしてみよう。私はそう考えて、その日は、昨日と同じように、十時頃には床についたのだった。
お静…… お静……
またあの声だ。妙に懐かしく優しげな声。
お静…… お静……
その声は、昨日にも増して、ハッキリと私の意識に届いた。私は、昨日の夢の続きが始まるのかと、夢の中で思ったけど、ただただ、お静と呼ぶ声が私の意識に届くだけだった。
私は目を開けた。
とたん。
「ひっ……」
私は、小さな悲鳴を上げた。そこには、昨日の夢で見た男が立っていたのだ。
「だ、誰?」
私が言うと、その男は、すーっと壁の中に消えていった。
私はしばらくの間、体を動かすことさえ出来なかった。この歳になって、初めて幽霊という物を見たのだ。いや、そもそも、そんな物が存在するなんてまったく信じていなかったのに…… でも、自分自身が体験すると、あれが幽霊だったと思う以外にない。
私はその夜、日が昇るまで、まんじりともせずに、一夜を過ごした。
翌日。
「女将さん。お静さんのことを教えてください」
私は女将を朝一番で捕まえると、少し強い調子で問いただした。
「いやですよ、お客さん。そんな人はおりませんでした。昨日そう言ったじゃありませんか」
「本当のことを言ってください。私、頭がおかしいと思われるかもしれませんけど、夢で見たんです」
「夢?」
「そうです。男と女がいて、その男が女の事をお静と呼んでいたんです。こんな夢見たことないし、それに、その女の顔は、私に…… いえ、その、とにかく、何か隠していらっしゃるでしょう?」
「隠してなんかおりませんわ」
「だったら、なんで、私がこの旅館に来た最初の日に、私の顔を見て驚いたんですか? それに昨日だって、お静って名前を出したら、女将さん、ひどく動揺なさっておいででした」
「それはその……」
「話してください」
「きっと、ご気分の良いお話ではないと思いますわ」
「それでも聞きたいんです」
私は強い調子で言った。
女将は、軽くため息をついた。
「わかりました。それほどおっしゃるなら」
女将はつぶやくような声で語り始めた。
「実は、わたくしもこの家に嫁いだ頃から、お客さんと同じ夢を時折見るのです。その女性の顔が、あまりにもお客様に似ていた物だからわたくし、驚いてしまったのですわ」
「やっぱり」
「わたくしも、どういうことだろうと思って、当時まだお元気だったお姑さんにお聞きしたんです」
「ええ」
「お静さんは、三百年ほど前の方で、この家に奉公に来ていたお女中でした。 そのお静さんは、当時の若旦那の藤吉郎に見初められたんです。でも、所詮は女中と、将来当主になる者とでは身分が違います。今の時代ならいざ知らず、あの頃、二人の仲が、認められるわけもございませんでした」
「それで、仲を引き裂かれたんですね」
「ええ。それも、ひどくむごい方法で」
「と言うと?」
「お静さんは、何者かに殺されたのです。家の恥をさらすようですけど、たぶん、藤吉郎の父親が誰かに金を渡してそうさせたのでしょう。そして……」
「そして?」
「お静さんを失った藤吉郎は、世をはかなんで、自ら命を絶ったのです。この家は、藤吉郎の弟が継いだそうです」
私は絶句した。昨日の男は、藤吉郎だったのだ。それ以外に考えられなかった。そして、私はお静に生き写しなのだ。
「昨日……」
私はポツリと言った。
「藤吉郎さんに会いました」
「えっ!」
女将は、腰が抜けんばかりに驚いた。
「お静、お静って、名前を呼びながら、私の枕元に立っていたんです」
「ああ、なんという…… お客様。どうか、東京にお戻りください。いいえ、お代はすべてお返ししますから」
「そうですね。それがいいかもしれない」
私は、ぼんやりとそう答えていた。
だが、私はどうしても帰る気になれなかった。女将には、このことは絶対に口外しないと約束して、私はもう一晩、この宿に泊まることにした。どうして自分がそう言う気になったのかわからない。ただ、もう一目、藤吉郎に会いたくて仕方ないのだ。すでに、恐怖は全く感じていないのが不思議だった。
私はその夜、床に入って、藤吉郎を待った。絶対に現れるという確信があった。
お静……
藤吉郎が、淡い陽炎のように私の前に現れた。
「藤吉郎さん。私はお静さんではないのよ」
私は言った。
だが、藤吉郎は、優しい顔で首を振った。私は、徐々に恐怖とは違う心のざわめきを感じ始めていた。
藤吉郎の、陽炎のような姿が、少しずつ、元の形を取り戻し始めた。いつしか彼は、ハッキリとした人間の姿に変わっていった。
私は、どういう訳か藤吉郎の手を握りたいと思った。その衝動に近い感情を抑えきれない。
「藤吉郎さん」
私は彼の手を握っていた。とても大きく、温かい手。
「藤吉郎さん。成仏してくださいな。私のことは忘れて……」
私は、自分で自分のことをお静と認めるようなことを口にしていた。だが、私自身まったく違和感を感じなかった。
「お静」
藤吉郎の声が、ハッキリと声として聞こえた。
「会いたかった、お静」
私は、藤吉郎に抱きしめられた。
とたん。私の瞳に涙があふれ出てきた。
「ああ、藤吉郎さん…… 藤吉郎さん…… 私もお会いしたかった……」
私の口は自然に動いていた。このとき私は、自分がお静の生まれ変わりなのではないかと思った。私は、運命の糸にたぐり寄せられてここに来たのだ。
「お静」
「藤吉郎さん」
私たちは、自然と肌を重ね合った。藤吉郎の温もりは、ほかのどんな男に抱かれたときも感じなかったほど温かかった。私は、彼の優しい愛撫に身をゆだねた。そして、藤吉郎のすべての行動に、信じられないほどの愉悦を感じていた。彼が私の胸に舌をはわせるのも、私の秘部をまさぐる指も、私を喜び縁に導いていった。
「藤吉郎さん。お願い。もう……」
私は泣きそうな顔で彼に懇願していた。藤吉郎は、軽くうなづくと、私の中に、彼の物を挿入した。
「ああ!」
私は、自分でも信じられないほどの快楽を感じた。このときが、この喜びが、永遠に続けばと、心の底から思っていた。
だが、それは一時の喜びでしかなかった。絶頂を迎えた私と藤吉郎は、だた黙って抱き合っていた。そして、あれだけ温かかった藤吉郎の体が、再び陽炎のように消えていったのだ。
「藤吉郎さん!」
私は、泣き叫ぶように、藤吉郎の体に抱きついた。
「連れていって」
藤吉郎は、優しく首を振った。
だが、彼は、私の手を取ると、まるで導くように、部屋を出ていこうとした。 私は彼について行った。このまま、藤吉郎と涅槃の世界に行ってしまいたいと心から思っていた。
藤吉郎は、屋敷の庭に出ると、大きな木のほこらの前で止まった。そして、悲しげな目で私を見つめた。
「まさか、ここに私の…… お静の亡骸が?」
私は震える声で言った。
藤吉郎は、軽くうなづくと、すーっとほこらの中に消えていった。
「馬鹿な人」
私はつぶやいた。
「三百年も、一人の女を愛し続けるなんて」
私は泣いた。いつ果てるともしれない涙が、私の頬をつたい続けていた。
私は東京に戻り、女将との約束通り、誰にもあの体験を話すことはなかった。だが、慎重に固有名詞をさけ、あの宿のことが悟られないようにしながら、藤吉郎とお静の物語を書きつづろうと、原稿用紙に向かっていたのだ。
しかし。
三ヶ月後。私はその原稿を、ごみ箱に投げ入れた。それは、私が妊娠していることを知ったからだ。私のお腹には、藤吉郎の子供がいる。
私は、この子を育てるだろう。そして、この子が大きくなったら、この子にだけ、真実を語って聞かせるのだ。私が愛し、愛された男の話を。
私の本当の名はお静。三百年の時を経て、愛する男と結ばれた女……
終わり。