はじめに
この小説は、まだスマートフォンが一般的ではなかったころに書かれた作品です。登場人物たちが使っているケータイは、いわゆるガラケーと呼ばれる古いタイプです。
また、ブログでの連載を目的にプロットが組まれているため、「節」の区分けが非常に細かくなっています。さらに途中で人称の対象が変わるときがあります。その場合は、節番号の後ろに「b」という記号がつきます。
それでは、どうぞお楽しみください。
プレイディ
001
「七瀬」
薄暗い路地の陰に隠れながら、宮下が聞いてきた。
「本当にここなんだろうな?」
「その質問、さっきから三度目よ」
あたしは、見張っている雑居ビルから目を離し、後ろの宮下をふり返った。
「そんなに、あたしを信じられないならもういいわよ。帰りなさいよ」
「そういう意味じゃなくてさ、マジでここだったらヤバイって」
「だから帰ればいいって言ってるのよ。意気地なし」
「ったくもう」
宮下は、やれやれと首をふった。
「叔父さんも、とんでもない仕事を押しつけてくれたもんだ」
「文句をいいたいのはあたしよ」
あたしは宮下をにらみつけてから、見張っていた雑居ビルに視線を戻した。
「ちゃんと探偵料を払うっていってるのに、あんたの叔父さん、ぜんぜん信じてくれないんだもん。ひどいわよ」
「信じてるよ」
「うそよ」
「うそじゃない。もし信じてないなら、オレを七瀬につけたりしない。ああ見えて、叔父さんの事務所って、けっこう忙しいんだぜ」
「それこそ信じられないわ」
「あのな七瀬。いっとくけど、探偵事務所って、漫画や小説に出てくるようなのじゃないんだぜ。会社のセキュリティの相談とか、いろいろ事務仕事が多いんだよ。叔父さん、つい最近、大きな仕事を受けたらしくって、ここんとこオレ、学校帰りにずっと手伝ってたんだ。まだ、かなり忙しいのに、オレを書類整理から外したってことは……それなりに心配してるんだよ」
「でも、あんたはやる気がないと」
「そういうわけじゃないけど……おまえ、親友が行方不明になって、頭に血が上ってるんだよ。もうちょい冷静になった方がいい。まあ、同情はするけど」
「だから、こうして付き合ってやってるんだっていいたいわけ?」
あたしは、また宮下をふり返った。
「まあ、それも理由ではあるな」
「ふん。同情してくれって頼んだ覚えはないわ。もう帰って。あんたといるとイライラしてくる」
「悪いがそういうわけにはいかない。約束は約束だ」
「いつ、あたしがあんたと約束したっていうのよ。まるっきり覚えがないわ」
「オレと叔父さんとの約束だ。七瀬は気にするな」
「気にするわよ。どんな約束?」
「あと二ヶ月、仕事を手伝う契約をした。どんな仕事でも、文句をいわずに手伝うのが約束だ」
「文句言ってるじゃない」
「言ってないよ。叔父さんにはな」
「なんにしても、いまはあたしが、あんたのクライアントよね?」
「まあ……間接的だけど、そうなるかな」
「じゃあ、命令するわ」
「どうぞ」
「あたしが許可するまで、もう一言も口を利かないで」
「やれやれ」
宮下は、首をふりながら黙り込んだ。
なんで、あたしがこんなことをしてるかって? そもそもの発端は、二週間前、親友の涼子が行方不明になったこと。そして直接の原因は三日前のことだった。
002
三日前。あたしは新宿にある汚いビルの前に立っていた。その三階の窓には『宮下探偵事務所』と書かれていた。そこが六軒目だった。最初はインターネットで調べた探偵事務所に行った。きれいなビルに入っている、けっこう大きな探偵事務所で、探偵だか事務員だかわからないけど、とにかく対応に出てきた女性が、あたしの制服姿を見るなり、話も聞かずに、お引き取りくださいといった。
二軒目も同じだった。三軒目はさすがに私服に着替えて行ったけど、けっきょく同じだった。四軒目は、とても探偵とは思えないヤクザみたいな男が出てきて、怖くなってこっちから逃げ出した。五軒目は電話帳で調べて、女性が応対したから行ってみたけど、やっぱり門前払いだった。
そして六軒目。ネットで調べたわけでも、電話帳で調べたわけでもなく、ただ、途方に暮れて歩いていたら目についたところ。
もう疲れていた。足は棒のようだし、気力も尽きかけていた。だから、ここを最後にしよう。ここでダメだったらもう諦めよう。そう思って、その探偵事務所のドアをノックした。ビルと同じくらい汚いドアだった。本当に営業してるのか疑うくらい。
ところが、中から声が聞こえた。
「はい、どうぞ。開いてますよ」
おジイさんみたいな声だった。あたしは、もう六軒も探偵事務所を回っていたから、躊躇することなく、ドアを開けて中に入った。
そのとたん。
あたしは、不思議な感覚に捕らわれた。そこは、いままで行った探偵事務所のどことも違っていた。壁は黄ばんでいて、ところどころひび割れていた。ずいぶん使い古した来客用ソファ。やっぱり使い古した木製の事務机。そして、さびが浮いたスチール製の書類ラック。まるで五〇年ぐらいタイムスリップしたみたい。大正とまではいわないけど昭和初期なのは間違いないわ。
そうか……
あたしは事務所を見渡して気がついた。なんで不思議な感覚に捕らわれたか。ここは、いままで見てきたどの探偵事務所よりも、探偵事務所らしいんだ。もしも、ただ興味本位でここにきたとしたら、そうそう、テレビドラマの探偵事務所ってこんな感じ~。なんて、はしゃいだかもしれない。
なのに、なのに! ああ、一つだけ欠けているものがあるのよ!
「なにかご用かね、お嬢さん」
事務机に座っているおジイさんが、老眼鏡を外しながら、もごもごといった。
いやだ~。事務所とおんなじくらい、探偵さんも古くなってるぅ~。こんなの反則だよぉ。ロマンスグレーの探偵さんがいそうな事務所なのに、ロマンスじゃなくて黄昏てるし、グレーじゃなくてツルピカだよぉ~。還暦をとっくに超えてそうな、ハゲの探偵さんって存在していいわけ?
「あ、あのぉ」
それでもあたしは、一縷の望みをかけて聞いてみた。
「仕事をお願いしたくてきたんですが……あなたが探偵さんですか?」
「はあ?」
と、おジイさんは耳に手を当てた。
「なんですって? 最近耳が遠くてねえ。もっと大きな声でいってもらえんかね?」
あたしは、思わず腰が砕けそうになった。負けちゃダメよ美緒。ここでズッコケたら、吉本新喜劇になっちゃうわ。
「あなたが!」
あたしは、大きな声を張り上げた。
「ここの探偵さんですか!」
「うわっ!」
と、おジイさんがのけぞった。
「ビックリしたなあ。そんな大きな声を出さなくても聞こえとるよ」
ガクッ!
あたしはついにズッコケてしまった。
「大きな声でいえっていったじゃない!」
「ものには限度というものがある。近頃の若いもんは、かげんを知らなくて困る」
「こんなところでお説教されたくないわ」
「聞こえとるよ」
「聞こえるようにいったんです!」
「うわっ、性格悪。男にモテんぞ、そんな性格じゃ」
「大きなお世話です!」
「おおそうじゃ。お世話といえば、なにしにきたんじゃね、お嬢さん」
「だから!」
と、また大きな声を出しそうになって、あたしは言葉を切った。ヤバイ、ヤバイ。すっかりおジイさんのペースにハマってるわ。落ち着け美緒。
あたしは、深呼吸して気を静めると、ふつうの会話より大きめの声でいった。
「仕事を頼みたいんです。あなたが探偵さんですか」
「いかにも」
と、おジイさん。
「探偵歴五〇年じゃ」
「五〇年?」
それって、すごくない?
「おジイさん……じゃなくて、探偵さんって、おいくつなんですか?」
「七十二じゃ。まだまだ現役バリバリじゃよ」
「探偵って定年はないんですか?」
「フリーランスに、定年もボーナスも社会保険もへったくれもあるもんかい」
へ、へったくれってなに? って聞きたい衝動に駆られたけど、あたしはただ、うなずき返しただけだった。ここで探偵のおジイさんの気を悪くさせたらマズイと思ったから。でも、このおジイさんの口から、フリーランスなんて言葉が出ると変な感じだなあ。
そのとき。
「ただいま」
黒いスーツに、ネクタイをしてない白いシャツを来た男の人が事務所に入ってきた。三十の後半ぐらいかしら? ロマンスグレーには早いけど、けっこういい男かも。この人こそ探偵って感じだけど……そう見えるのは、あたしの願望のせいかな?
003
「おっ、お客さんか」
その男の人は、あたしを見てから、おジイさんに言った。
「大家さん、お客さんが来てるなら、ケータイ鳴らしてくれればよかったのに」
「このお嬢さんは、たったいま、いらっしゃったところじゃよ」
「え、あの?」
あたしは、事務机に座るおジイさんと、その男の人を交互に見た。
「大家さんって、どういうこと?」
すると。
「うほほ」
おジイさんが笑いながら立ち上がった。
「わしゃ、ただの留守番じゃよ、お嬢ちゃん。からかって悪かったな」
ガクッ!
あたしはまたズッコケてしまった。
「またやったのかよ」
男の人が、おジイさんにため息をついた。
「あんまり悪ふざけがすぎると、もう頼まないぜ」
「うはは。そう言いなさんな。こんなことしか楽しみがないんでな」
おジイさんは、笑いながら事務所を出て行った。
なんなのいったい?
「失礼」
男の人は、肩をすくめた。
「わたしが当事務所の宮下輝です。いまのはこの雑居ビルのオーナーでね。毎日、暇でしょうがないというので、わたしが事務所を空けるとき、電話番を頼んでいるんです。あのイタズラ癖がなければ、人のいいジイさんなんだが」
「は、はあ……」
あたしは、あいまいにうなずいた。
「それで?」
と探偵さんが聞いた。
「なんのご用かな?」
「あ!」
あたしは、ここへ来た目的を思い出した。
「あ、あの! あたし仕事を頼みたいんです! とっても重要なことなんです! お願いします!」
「失礼だが」
探偵さんの表情が少し厳しくなった。
「お嬢さん。あなたの年はいくつですか?」
「えっと……」
あたしは、言葉につまった。いままで行った探偵事務所でいわれてきた言葉を思い出したからだ。どこも同じ。未成年の依頼は受け付けません。そういわれて門前払い。
あたしは、軽くタメ息をついた。どうせ、ここも同じだ。カッコいい探偵さんだからちょっと期待しちゃったけど……
「十六です」
あたしは、どこかサバサバした気持ちで答えた。嘘を付いてもしょうがない。さあどうぞ。いつものセリフであたしを追い出しなさいよ。
「十六」
探偵さんの顔が、いよいよ厳しくなった。ほらね。
ところが……
「そうか。十六か。まあ、たしかにそのくらいの年齢に見えるが、近頃の子は発育がいいので、少し期待してしまった」
「は?」
あたしは、探偵さんのいってる意味がわからなかった。
「期待って、なにを?」
「お嬢さんが十四だったらよかったと思ってね」
あたしは、思わず一歩あとずさった。まさか、この人ロリコン? ヤバイよそれ。
「なにか、大きな誤解を抱いているようだね」
探偵さんは苦笑を浮かべた。あたしの考えてることがわかったらしい。
「いままで、わたしが受けた仕事の依頼人は、十五歳が最年少でね。お嬢さんが、もしも、十四歳だったら記録更新だったというわけだよ。いや、残念」
「なんですって!」
あたしは、思わず勢い込んだ。
「未成年の依頼も受けてくれるんですか!」
「まあ、そうあわてないで」
探偵さんは、そういって事務机に回ると、ゆっくり腰を下ろした。
「お嬢さんが、行方不明になったポチを探してくれというのでなかったら、話を聞こうじゃないか」
「ポチじゃありません! うちの犬の名前はノンちゃん……じゃなくって! 行方不明になったのは、あたしの友だちなんです!」
あたしは、夢中になって叫んでいた。仕事をしてもらえるかも!
「その友だちは、人間かな?」
「もちろんです!」
「人捜しか。よろしい。では、座りなさい」
探偵さんは、あたしに来客用の椅子を勧めた。
「はい!」
あたしは、探偵さんの気が変わらないうちに、あわてて腰掛けた。
「悪いが、アシスタントは、まだ出社してなくてね。お茶は勘弁してくれたまえ」
「い、いえ……お構いなく」
アシスタント? さっきのおジイさんのこと? なんか違う人のことを言ってる気がするけど、事務所のさびれた雰囲気からは、とても人を雇っているようには見えない……まあいいけど。
004
「さて」
と、探偵さんが切り出した。
「わたしの名前は先ほど紹介したね。まずは、お嬢さんの名前からお聞きしよう」
「あたしは、七瀬といいます」
「フルネームを」
「七瀬美緒です」
「七瀬美緒……」
探偵さんは、ちょっと首をかしげた。
「もう一度、年齢をお聞きしたい」
「十六です」
「高校生だね」
「はい」
「近くの学校かな?」
「ええ」
あたしはうなずいてから、軽く肩をすくめて見せた。
「調べてもらいたいのは、あたしのことじゃありません。行方不明になった友人のことなんですよ」
「せっかちだね」
探偵さんは、また苦笑を浮かべた。
「おそらく、どこかの探偵事務所で門前払いをされて苛立っているのだろうが、なにごとにも順序というものがある。わかるね?」
「え、ええ。すいません」
あたしは、素直にうなずいた。この探偵さん、切れ者かもしれない。あたしが、ほかの探偵事務所で門前払いをされたの推理したよ。
「というわけで」
探偵さんが続けた。
「わかっていると思うが、わたしもこの仕事を道楽でやっているわけじゃない。弁護士と違って、話を聞くだけで法外な料金を請求するつもりはないが、仕事をするとなると探偵料をいただくことになる」
「わかってます」
あたしは、うなずいた。
「いますぐ用意できるのは五万円しかないんですけど、もし友人を探し出してくれたら、残りは必ず払います」
「どうやって?」
「アルバイトでもなんでもします」
「ずいぶん気楽にいってくれるが、探偵料がいくらか知っているかな?」
「え? い、いえ……知りません」
そうだった。あたしったら、とにかく探偵事務所を探すのに夢中で、お金のことまで気が回らなかった。すっごいバカ。
「一般的にいって」
と、探偵さんは、疲れたように首をふった。
「情報収集調査の場合、時間五千円から六千円の間だよ。つまり、お嬢さんの手持ちの資金では、十時間もわたしを雇えない。もしも、お嬢さんの依頼を受けて、一日十二時間動いて、二週間かかったとすると……八十四万円かかる計算だ」
「はちじゅう……」
た、高い……
「そんなにするんですか?」
「そう。しかも、いまの計算は、経費を含めていない。人捜しのような、時間のかかる仕事を頼むときは、百万円ぐらいは覚悟していただきたい」
「そうですか……」
あたしは、うなだれた。
「探偵さんが前に依頼を受けた十五歳の人って、お金持ちだったんですね」
「さあ、どうだったかな」
探偵さんは肩をすくめた。
「依頼人のことをベラベラしゃべるようになったら、探偵も廃業だ。まあいい。ここからは探偵としてではなく、一人の大人として提案しよう。お嬢さん。きみはまだ子供だ。おっと、怒らないでくれたまえよ。わたしは、きみの倍以上生きているのでね」
「べつに怒りませんよ。で、子供のあたしがなんですか?」
あたしは、ちょっとムッとしながら問い返した。
「子供のきみが、大人のわたしに助けを求めている。だから、もしも、わたしにできることがあれば手助けしよう。しかし、話を聞いて、きみの親の方が、あるいは学校の先生の方が、きみを助けるのにふさわしいと思ったら、ここを出ていってもらう。これでいいかな?」
「それでいいです。とにかく話を聞いてください」
あたしは、探偵さんの提案に、安心感を覚えた。結局のところ助けてはもらえないかもしれないけど、言ってることはすごくマトモで、だから信じられる気がした。それに、仮にも専門家なのだから、なにかアドバイスぐらいもらえるかもしれない。
「よろしい。話したまえ」
「はい。これを見てください」
あたしは、ケータイを取り出して、探偵さんに見せた。
「すごいストラップだね。携帯電話より重そうだ」
探偵さんは、また苦笑を浮かべた。
あたしのケータイには、いろんなストラップがたくさんついていた。でも、それを見てもらいたいわけじゃない。あたしは探偵さんの言葉を無視して、二週間前、涼子から送られてきた、写メを表示した。
005
「これです」
「どれ」
探偵さんは、あたしのケータイの画面を覗き込んだ。
「ボヤけた写真だな。で、これがどうした?」
「左に写っているのは、涼子のお兄さんです」
その写真には、ふたりの男が写っていた。彼らが、新宿の暴力団の事務所に入っていく写真だった。
「涼子?」
「あ、ごめんなさい。探してほしい友だちの名前です。相沢涼子といいます。中学校からの同級生です」
「それで?」
「はい。これは十日前に涼子が送ってきたメールです。左に写っているのが涼子のお兄さんで、右に写っているのは、そのお兄さんの先輩だそうです」
「だそうです?」
「涼子からメールに、そう書いてあったんです。彼らが入っていくビルは、新宿の山田組っていう暴力団の事務所だそうです」
「ふむ……いわれてみれば、山田組のビルの入り口のようだね」
「知ってるんですか?」
「それなりに知識はある。山田組は、数ある暴力団の中でも、最悪の部類だ」
「さ、最悪……」
あたしは、思わず唾を飲み込んだ。ヤバイよ、それ。
「えっと、とにかく、彼女のメールを読んでください」
あたしは、メールの本文を表示した。
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美緒! お兄ちゃんがヤバイことになってるの! いま詳しくは話せないけど、この写メが証拠なんだ! 研究所の先輩と山田組っていう暴力団の事務所に入るところよ! ごめん、あたしにもしものことがあったら、この写メを警察に見せて!
-------
「緊迫の内容だね」
「でしょ!」
あたしは、思わず椅子から立ち上がった。
「涼子は、このメールを送ったあとに行方不明になったんです!」
「だから?」
「だからって、読んだ通りじゃない!」
「お嬢さんの友人は、なにか事件に巻き込まれたといいたいのかな?」
「ふつう、そう思うじゃないですか!」
「思うのは勝手だが、なぜ探偵に、その話をするんだ。話すべき相手はべつにいるだろう。たとえば警察とか」
「警察に話したわ!」
あたしは、興奮を抑えきれなかった。
「なのに、ぜんぜん取り合ってくれないんだもん!」
「その友人の親には?」
「もちろん話した。警察より先に」
あたしは、少し落ち着きを取り戻した。
「なのに、涼子のお母さんも、まともに取り合ってくれない。どうして? 娘と息子が行方不明になったのに、なんで落ち着いてるの? あたし、ぜんぜんわからない。理解できない」
「息子? 彼女の兄も行方不明なんだね」
「はい」
あたしは、うなずいた。
「やっと話が見えてきた」
探偵さんは、難しい顔で腕を組んだ。
「これは意外と根の深い問題かもしれない」
「でしょ! ああ、よかった! やっと話の通じる人がいたよ!」
あたしは、また大きな声を出してしまった。だって、本当に涼子と連絡が取れなくなってから、頭がおかしくなりそうなくらい、悩んでいたから、本当に本当に、やっと話を聞いてくれる人がいて、どうしようもなく、うれしくなっちゃったんだもん。
「いくつか質問がある」
探偵さんには、あたしの興奮がぜんぜん伝染してなくて、冷静な声でいった。
「きみは、その失踪した友人の兄とも親交があるのか?」
「いいえ」
あたしも、また少し落ち着きを取り戻して答えた。
「話に聞いていただけで、会ったことはありません」
「兄の失踪を知った理由は?」
「警察も母親も当てにならないから、お兄さんの職場に電話をかけたんです。勤務先の名前は、涼子から聞いたことがあったから。そしたら、やっぱり涼子と連絡が取れなくなったのと同じ日に、いなくなってました」
「写真に写っている先輩というのもか?」
「そうらしいです。二人とも」
「その勤務先とは、メールに書いてある研究所というやつかな」
「はい。国立微生物研究所です」
「微生物……彼はそこの研究者なのか?」
「そうらしいです。涼子の話では、自分と違って、兄はすごく頭がいいって言ってました」
「ふうむ。この写真とメールを研究所の職員に見せたか?」
「見せました。研究所から警察に話をしてもらおうと思って。でも、この写真は不鮮明でなにが写っているのかよくわからないと言われて、取り合ってもらえないんです」
「それもまた、ひどい話だな。ところで、わざわざ職場に電話をしたというのは、兄と妹は同居してないってことか?」
「はい。涼子の両親は離婚してるんです。涼子は母親に、お兄さんは父親に引き取られたそうです」
「なるほどな」
探偵さんは、また腕を組んだ。
「こいつは、いよいよ根が深そうだ」
「あの……」
あたしは、探偵さんの顔を覗き込むように言った。
「涼子は、お母さんとあんまり仲がよくないんです。とくに最近、母親に男ができたらしくって、それがなんかヤクザみたいな男だって言ってました。だから、よけい母親との関係が悪くなっていたみたいで……」
「母親にこだわるな」
「だって、涼子のお母さんは、涼子のことなんかどうでもよかったんだわ。養育費が欲しくて涼子を引き取っただけ。男ができて、急に涼子が邪魔になったのかも」
「母親が、娘を始末した?」
「ちょっと!」
あたしは、また椅子から飛び上がった。
「縁起でもないこといわないでください!」
「しかし、母親が疑わしいのだろ?」
「そうだけど、始末なんてひどい!」
「まあ、落ち着いて。座りなさい」
探偵さんは、また腕を組んだ。
「たしかに、きみが言うように、子供の行方不明では、親が犯人の場合が多い。だがそれは幼児の場合だ」
「でも」
あたしは、涼子のことを思って、涙が出そうになってきた。
「悪いこと考えたくないけど、母親が怪しいって考えれば、涼子がいなくなっても、あわてない態度に説明がつくから」
「つかないね」
探偵さんは首をふった。
「もし母親が犯人なら、真っ先に自分から警察に捜索願を出すだろう。そうしないと疑われるからね。しかし、そういう様子はないのだろ?」
「え、ええ。たしかに」
あたしは、思わずうなずいた。探偵さんの言う通りって気がする。
「それで?」
探偵さんは続けた。
「けっきょく、その母親は娘の捜索願を出したのか?」
「はい。三日前になってやっと」
「つまり、娘と連絡が取れなくなってから一週間後か」
「こんなこと年中で、三日や四日帰ってこないことはざらにあるって言って、なかなか捜索願を出さなかったそうです」
「きみも、平気で家を空けるタイプかい?」
「いいえ」
あたしは首をふった。
「涼子とは母親との二人暮らしって境遇が似ているから、中学のときから気があって、よくつるんで遊ぶけど、あたしは外泊は滅多にしません。たまに、友人の家に一泊することはあるけど、それだけ」
「きみ自身の家のことが話に出たから聞きたいんだが、きみが友人のために奔走していることを、きみの母親は知っているのか?」
「知ってます。最初に警察に行ったとき、うちの母にも一緒に行ってもらったから」
「きみのうちは協力的なんだな」
「あたしのこと信用してくれてます。でも、探偵事務所に相談したいって言ったら、さすがに反対されました。もうこれ以上、深入りしちゃダメだって怒られた」
「娘のことを心配すれば、当然の反応だ」
「あたしもそう思う。でも、涼子の母親はちがう。娘のことなんか、きっとどうでもいいんだ。付き合ってる男がヤクザみたいだって言ってたし、さっきの写メだって暴力団の事務所だし……」
あたしは涼子のことを思って、涙が出てきた。
「警察も当てにならない。あたし、どうしたらいいのか、ホントにいろいろ考えて、けっきょく探偵事務所に行くしか思い浮かばなかった。だから母に黙って、探偵事務所を探して、五軒断られて……ここが六軒目です」
「なぜ、うちだったのかな?」
「べつに」
あたしは、涙を拭ってから首をふった。
「こういったら怒るかもしれないけど、五軒目で断られて、途方に暮れてたら、目の前にこの事務所があったの。ダメもとよ」
「なるほど。人生とは、まったくおもしろいねえ」
探偵さんは、そういってクスクス笑った。
「ちょっと。ぜんぜん、おもしろくなんかないわよ!」
「これは失礼」
探偵さんが、あたしの文句に肩をすくめたときだった。ドアがガチャリと開く音がした。
「叔父さん、こんちは」
男の声だった。それも、どこかで聞いたことがあるような……
「アシスタントが出社してきたようだ」
探偵さんがニヤリと笑った。
つぎの瞬間。事務所に入ってきた、その男を見て、あたしは声を上げていた。
「宮下じゃない!」
そう。その男は、同級生の宮下だった。
「七瀬?」
コンビニの買い物袋を下げた宮下も、あたしを見て声を上げた。
「おまえ、なんでこんなところにいるんだよ!」
「それは、あたしのセリフよ! なんであなたが――」
あたしは言葉を切って、ハッと気がついた。ここは宮下探偵事務所……ってことは。
「まさか! あんた探偵さんの親戚?」
「その通り」
探偵さんが、楽しそうに笑っていた。
「純一は、わたしの甥だよ。まったく、人生とはおもしろい」
あたしと宮下は、あっけにとられた顔で、探偵さんの顔を見たのだった。この人もさっきのおジイさんを笑えないよ。あたしが甥の同級生かも知れないって気づいても、いままで黙ってたんだから!
006
張り込みをはじめて二時間が経とうとしていた。もう夜の七時だ。お腹すいたなあ。今日はお昼も食べてないのに。
いま見張っているビルは、涼子の写メに写ってた山田組っていう暴力団の事務所なんだ。探偵さんの指示で、張り込みをしている。
なんでこんなことになったのか……って、文句をいってもしょうがない。だって、あたし、お金がないんだもん。まさか、探偵さんを雇うのに、百万円近くもかかるなんて知らなかったよ。払えるわけないじゃん、そんなの。
だから、探偵さんは、調査のアドバイスはするけど、自分で調べなさいっていった。うちはボランティア事務所じゃないからって。まあ、そりゃそうだろうけどさ……
そんなこんなで、探偵さんの事務所を訪れてから三日後の今日から活動開始ってわけ。ちなみに、なんで三日後かって言うと、今日が土曜日だから。なんで土曜日から始めるのかって探偵さんに聞いたら、調査の初日は疲れるだろうから、明日が日曜日で、学校が休みの方がいいだろうだって。なんか、やっぱりあたし子供扱い?
あたしは、タメ息をついた。子供扱いされるのはイヤだけど、正直いって怖い。さっき、ぶつぶつ文句をいう宮下のこと怒ったけど、本当は、こいつがいてくれて心強いんだ。まあ、宮下だからってわけじゃなくて、だれかいてくれるだけで心強いって意味だけど。
その宮下は、あたしの命令どおり、もう文句をいうこともなく黙っていた。
思えば……あたし、宮下のことなんにも知らない。べつに好みの顔でもないし、クラスで目立ってるわけでもないから、気にしたことなんて一度もなかった。だから、こいつの叔父さんがやってる探偵事務所に、宮下と書いてあっても、ぜんぜん、こいつの顔すら思い出さなかった。
遺伝子ってさあ、けっこうアバウトだよね。探偵さんは、切れ者って顔なのにさ、甥っ子のこいつは、どこか、ふにゃとした顔してるのよね。太ってるとか、そういう意味じゃなくて、なんていうかなあ。緊張感がないというか、ボケっとしてるっていうか。とにかく、あの探偵さんと血が繋がっているようには思えないんだよね。強いて言えば、目元がちょっと似ているくらいかな。
「ねえ」
あたしは、見張っているビルから目をそらさずにいった。
「なんで、探偵さんのアシスタントをしてるの?」
「しゃべっていいのか?」
「あのね、そうじゃなかったら、声かけるわけないじゃん」
「わがままなクライアントだな」
宮下が苦笑した。
なによこいつ。ふにゃっとした顔してるくせに、態度でかいんだから!
「もういいよ。あんたとは気が合わない」
あたしは、きつい声で答えた。
「月並みな理由だよ」
宮下が肩をすくめた。
「自転車が欲しいんだ。本格的なマウンテンバイク。二ヶ月、叔父さんを手伝えば買える」
「ホントに月並みね」
「いいじゃんかべつに。おまえだって、欲しいモノがあればバイトするだろ」
「ええ。しっかり働いてるわよ。しかも、なけなしの五万円まで払ってね」
そう。探偵さんには、アドバイス料として、五万円はしっかり取られた。
「相沢か」
「そうよ。涼子の元気な姿を見るまで、欲しいモノどころの騒ぎじゃないわ」
「不思議だな。いくら友だちだからって、そこまでするか?」
「あんたにはわかんないわよ」
「べつに文句をいってるわけじゃない。感心してるんだよ。ふつう警察に任せるだろ」
「任せたいよ。でも、取り合ってくれないんだもん」
「そこだよ、オレが感心してるのは。皮肉じゃないぜ。叔父さんを手伝うようになって、警察の怠慢ってヤツをずいぶん見てきたから……おっと、おしゃべりは終わりだ。出てきたぜ」
「えっ!」
あたしは、驚いてビルに視線を戻した。
007
男が一人出てくるところだった。
「あいつなの?」
「ああ、間違いない。あいつが矢部だ。いこうぜ」
「うん」
あたしと宮下は、路地の陰から出て、矢部というヤクザを追った。探偵さんから、この男を探れば、糸口がつかめるかもしれないといわれていたんだ。顔は純一が知ってるからって。
「ねえ」
あたしは、横を歩く宮下に聞いた。
「なんで、あんたあいつの顔を知ってるの?」
「新宿って街は、思った以上にヤクザ絡みのいざこざが多いんだよ。叔父さんは、事務所がある通りの商店街からの依頼で、いつ問題が起きてもすぐに対処できるように、ヤクザの情報はこまめに集めてるんだ。だからオレも、山田組の構成員の資料は、イヤってほど見せられた」
「商店街もお客さんなの?」
「商店街っていうより、そこの商店会だな。叔父さんは商店会のみんなから、すごく信頼されてるんだ。過去に、何度か商店会とヤクザのトラブルを解決したことがあるんだってさ」
「ふうん……探偵って仕事も地道なのね」
「仕事は、みんな地道なもんだよ」
「偉そうなこというじゃない」
「オレの言葉じゃないよ。叔父さんが言ってた」
「ふうん」
あたしはニヤリと笑った。
「あんたって、けっこう叔父さんに影響されてるよね。将来は探偵になりたいんでしょ」
「う、うるさいな」
「あ、図星だ」
「だから、べらべらしゃべってると見失うぞ」
宮下は、いつもの偉そうな口調で、あたしから視線を外した。ったくもう。かわいくないヤツ。
もちろん、あたしは、しゃべってるだけじゃない。ちゃんと矢部というヤクザのことも見ていた。予想はしていたけれど、やっぱり矢部は、歌舞伎町の方へ……向かうと思った矢先、靖国通りでタクシーを拾った。
「やば」
と、宮下が眉をひそめた。
「七瀬。オレがタクシー拾うから、おまえ、あいつのタクシー見ててくれ」
「見てるって、なにを!」
あたしは面食らった。タクシーのなにを見るのよ? ナンバー?
「行き先だよ! つぎの交差点で曲がったとか真っ直ぐ行ったとか!」
「あ、そうか! わかった!」
あたしが返事をする前に、宮下は靖国通りに出て手をあげていた。幸いタクシーが多くなってくる時間だから、すぐに拾えた。
「七瀬! 乗れ!」
宮下がタクシーの後部座席に、身体半分入れながら叫んだ。あたしは、矢部が乗っているタクシーが、交差点を真っ直ぐ行ったのを確認してから、宮下の待つタクシーに飛び乗った。
「真っ直ぐ行ってください!」
あたしは、タクシーの運転手さんに叫んだ。
「真っ直ぐって、どちらまで?」
運転手さんは、怪訝な顔であたしたちをふり返った。
「とにかく真っ直ぐ!」
宮下が落ち着いた声で応えた。
「前を走る個人タクシーを追ってるんです。信号が赤になる前にアクセルを踏んでください。早く!」
「あ、はいはい」
運転手さんは、宮下が大声で急かしたせいか、文句をいわずにアクセルを踏んだ。でも、モタモタしているうちに、信号が黄色になってしまった。
「行ってください。早く!」
宮下はスピードが落ちかけたとたん、運転席に顔を突き出すように叫んだ。
「ったく、まいったな」
運転手さんは、肩をすくめたけど、もう赤になった信号を無視してくれた。
うーっ。ドキドキする。まるで映画みたいだよ!
「いた」
と、まだ運転席に顔を突き出している宮下がいった。
「いま中央車線によったグリーンのタクシーです。後ろにつけてください。できれば、間に一台車を入れてくれるとパーフェクトなんですけど」
「はいはい」
運転手さんは、諦めたように宮下の指示に従った。
「ふう……」
宮下は、息をついて、後部座席の背もたれに、ドサッと身体を預けた。
「慣れてるね」
あたしは、思わず宮下にいった。悔しいけど、ちょっと尊敬。あたしなんか、ドキドキハラハラで、頭が真っ白だったのに。
「まあね」
宮下は苦笑した。
「これでも探偵の助手だぜ」
「ほう」
運転手さんがバックミラーを見ながらいった。
「お客さん、探偵さんかね」
「違います」
宮下は首をふった。
「探偵の助手です。いま仕事で、前のタクシーに乗っている人物を追ってるんです」
宮下は意外なほど正直に答えた。
「へえ。浮気調査かなにかかね?」
「そんなようなもんですよ」
宮下は、さすがに肝心な部分をぼやかした。その間も、宮下は前を走るタクシーから目をそらすことはなかった。じっと前を見つめている。
あたしは、そんな宮下の横顔を見ながら、探偵さんがこいつをあたしにつけた理由がなんとなくわかってきた。ふにゃっとした顔のくせに、しっかりしてるじゃん。認めたくないけど、こいつ頼りになるかも。
008
「なんだよ?」
宮下が、あたしの視線に気づいた。
「べ、べつに」
あたしは、あわてて視線を外して、前のタクシーを見た。タクシーはすでに四谷四丁目の交差点をすぎていた。そのまま中央車線を走っている。
「三丁目の交差点を右折するかな」
と、宮下がつぶやいたとき。
「そうみたいだね」
運転手さんが応えた。
二人がいう通り、前のタクシーは三丁目の交差点を右折した。
「どこ行くのかな」
あたしは、宮下に聞いた。そのつぎの瞬間、どうせ『オレに聞くな』と答えるだろうなと思って、聞いたことを後悔した。
そしたら、宮下は、うーんと少し考えてから答えてくれた。
「青山かもしれない。あそこに山田組の息がかかったクラブがあったはずだ」
「へえ……よく知ってるね」
「資料をイヤってほど読まされたっていったろ。山田組は、新宿から渋谷の方まで勢力を伸ばそうとしてるらしいんだ。これから、ヤクザの抗争が多くなるかもね」
「ふうん……」
あたしは、宮下の話を聞いて、もやもやとした不安が、どんどん大きくなっていくのを感じていた。まるで別世界。あたしの知らない世界。でも涼子は、その世界に捕らわれてしまったんだ。
怖いな……本当に怖い。足がすくむ。
ふと見ると、宮下も額から汗を流していた。タクシーの中は冷房が効いて涼しいというのに。こいつも緊張してるのかな?
あたしがそう思ったとき、タクシーは青山通りに出た。
「間違いなさそうだ」
宮下がいった。
「タクシーが骨董通りに入ったらビンゴだよ」
あたしは、ゴクリとつばを飲みこんで、前のタクシーを注視した。手にはじっとりと汗をかいていた。そして、宮下のいった通り、タクシーは骨董通りに入って止まった。
「ダメ! そのまま追い越して!」
宮下が、運転手さんに叫んだ。運転手さんが、うかつにも、前のタクシーの真後ろに止めようとしたからだ。
「まだまだ、もうちょい前に行って」
宮下の声は、かなり緊張していた。
「七瀬。オレを見てる暇があったら、後ろのタクシーを見てろよ。矢部が降りるところ」
「う、うん」
あたしは、あわてて後ろをふり返った。タクシーのドアが開くところだった。
「ここでいいです」
宮下が、運転手さんにいった。車が止まった。あたしはその間も、ずっと後ろを見ていた。矢部はタクシーを降りて、こっちに歩き始めていた。
「七瀬降りろ。ゆっくりな。矢部に気づかれるな」
「うん」
あたしは、ドアが開いたので、矢部の方を見ないようにしながら降りた。宮下は、運転手さんにお金を渡して降りてきた。運転手さんが、お釣りは? といいながらあたしたちを見た。
「いりません」
宮下は運転手さんに軽く手をふると、突然、あたしの腰に手を回して密着してきた。
「きゃっ」
あたしは、小さい悲鳴を上げた。
「シッ」
宮下があたしの耳元でささやいた。
「矢部が横を通りすぎる。恋人らしい演技をしろ」
「う、うん」
あたしは、思わずうなずいた。
宮下がいう通り、矢部があたしたちの横を通りすぎた。あたしたちは、顔を寄せ合って、まるでキスでもしているように装った。
009
「ヤバかった。顔を見られるところだったな」
宮下は、心底ホッとしたようにいった。そして、矢部を追って歩きはじめた。
「ホント……心臓が破裂するかと思った」
あたしも、宮下の横を歩きながらうなずいた。
「どうする。まだやるか? この先、心臓が破裂しそうなことばっかりかもよ」
「やめられるなら、いますぐやめたいわよ」
あたしは、まだ、あたしの腰を触っている宮下の手を、ピシャっと叩いた。
「でも、やめられない。ぜったい涼子を見つけてみせる」
「七瀬には負けるよ」
宮下は、やれやれと首をふった。
「こっちこそ、心臓が破裂しそうなんだぜ」
「情けないこといわないでよ。あんたが頼りなんだから」
「おっ、さっきといってること違うじゃんか」
「うるさいわね。あんたの方が経験あるんだからしょうがないでしょ」
「ないよ、経験なんて。だれかを尾行したのは今日がはじめてだ」
「うそ。ずいぶん慣れてる感じじゃない」
「たしかに、叔父さんからイロハは教わってるよ。でも、実践ははじめてだ」
「なんだ、ルーキーか。頼りないなあ」
「頼りにされたり、頼りにされなかったり、今夜は忙しいぜ」
宮下がそういって肩をすくめたとき、矢部が立ち止まった。
そのとたん。
「ヤバ!」
宮下が、あたしの手を引っ張った。あたしたちは、あわててビルの陰に隠れた。
ふう。間一髪。危ないところだった。矢部は、立ち止まってから、神経質そうに辺りをキョロキョロと見回した。宮下が、とっさにビルに隠れなかったら、見つかっていたかも。緊張するなあ、もう……
矢部は、辺りを見渡したあと、骨董通りぞいの、高級そうなビルの地下に降りる階段を降りていった。
「あそこが、クラブなの?」
あたしは宮下に聞いた。
「ああ」
宮下はうなずいた。
「どうするかな。困ったな」
「どうするって、また出てくるまで張り込むしかないじゃん」
「そうだけど……中が気になる。きっとなんかある」
「なんでそう思うの?」
「勘だよ」
「そんなの当てにならない」
「そうか? さっきの矢部を見ただろ? ずいぶん神経質そうに周りを気にしてた。いかにも、なんかありそうじゃんか」
「いわれてみれば……」
あたしは、ゴクリとつばを飲んだ。
矢部の降りていったクラブになにかある……あたしは、ただでさえドキドキしていた心臓が、また一段と鼓動を早めるのを感じた。
宮下は、隠れていたビルの陰から出ると、自分と、そしてあたしの身体を見てからタメ息をついた。
「まずいよなあ。オレたちのカッコじゃ、いくらなんでも入れないよなあ」
あたしたちは、制服こそ着ていなかったけど、どう見ても、高そうなクラブに入れそうもない服装だった。宮下は、Tシャツにジーンズ。あたしも似たようなものだ。タンクトップにジーンズ。こりゃダメだわ……
010
「入れないね」
あたしは、ため息をついた。
「で、どうするの? とりあえず張り込みをする?」
「待ってくれ。相談してみる」
宮下は、そういってジーンズのポケットから、ケータイを出した。どこにかけるのかなんて聞くほど、あたしもバカじゃない。探偵さんに決まってる。
「あ、叔父さん」
宮下がケータイで話しはじめた。
「矢部を尾行してたら、青山のクラブに入っていった。これからどうしたらいいかな。え、なんだって? マジ?」
宮下は、探偵さんの返答に驚いている様子だった。
「まいるなあ。いつもながら、叔父さんの慧眼には恐れ入るよ。わかった。会ってみる。大丈夫、無理はしないって。じゃあ、あとで連絡するから」
宮下はケータイを切った。
「なんだって?」
あたしは、勢い込んで聞いた。
「探偵さんの慧眼ってなによ」
「そんなことも知らないのかよ。慧眼ってのは、物事をよく見抜く、すぐれた眼力のことだ」
「バカ! そんなこと知ってるわよ!」
「へえ。意外と頭いいじゃん」
「あんた、あたしに殴られたいわけ?」
あたしは、本気で腕を振り上げた。
「冗談だってば!」
宮下は、あわてて、降参といいたげに両手を挙げた。
「叔父さんは、矢部がクラブに行くことはわかってたみたいだ。というか、前からこのクラブのことを調べているらしい」
「探偵さんが?」
「ああ。それで、以前から、店の子に情報をもらってるんだってさ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
あたしは、ちょっと頭が混乱してきた。
「なんで探偵さんは、クラブのこと調べてるわけ? まさか、涼子のことなにか知ってるんじゃないでしょうね?」
「オレも一瞬そう思った。でも違う」
「なにが、どう違うのよ!」
「落ち着けって」
宮下は、あたしの剣幕に苦笑を浮かべた。
これが、落ち着いてられますか! と、怒鳴ろうと思ったけど、またバカにされそうだから、あたしはわざと、大きく深呼吸をして見せた。
「さあ、落ち着いたわよ。話して」
「成長したね、七瀬くん」
宮下は、探偵さんの口真似をしてから、クスッと笑って続けた。
「叔父さんは、山田組の動きを、かなり綿密に調べているらしいんだ。できることなら、なにか犯罪の証拠を見つけて、山田組をつぶしたいらしい」
「なんですって?」
「商店会の話しはしたよな。ここのところ、山田組から所場代を払えって脅されてる店が多いらしいんだ。だから叔父さんは、悪臭を元から断ちたいんだよ」
「つまり……」
あたしは、自分でも、頭に血が上ってくるのがわかった。
「あたしは探偵さんに利用されてるってこと?」
「利害が一致したって、叔父さんは言ってたよ」
「なにが利害の一致よ!」
あたしは、ついに爆発した。
「涼子のこと体よく利用してるだけじゃない! あたしのことも! なけなしの五万円払ったのはこっちよ! 利用されるなら、お金払うどころか、バイト代を請求するのはあたしのほうじゃない!」
「いいよ。叔父さんにそういって五万円返してもらえよ。じゃ、オレは人と会う約束があるんで、ここでさよならだ。バイ」
宮下は、軽く手をあげて、クラブのあるビルの裏側に歩いていった。
011
「待ってよ!」
あたしは、宮下を追いかけた。
「いったい、だれに会うっていうのよ!」
「さっき、叔父さんが店の子から情報をもらってるっていったろ。いまからその子に会う……いや、子ってことはないか。たぶんオレより歳上だから」
「涼子のこと聞くの?」
「聞くよ。それが目的だろ」
「じゃあ、あたしも行く」
「バイト代は出ないぜ」
「あんたのバイト代から払ってもらうわ」
「バカいうな。なんでオレが……」
宮下は、言葉を切った。ビルの裏手に、白いブラウスと、黒のストレッチパンツを履いた女性がタバコを吸っているのが見えたからだ。
「七瀬」
宮下が、小声でいった。
「たぶん彼女がそうだと思う。相沢のこといろいろ聞きたいと思うけど、ここは黙ってオレに任せてくれ」
あたしは、宮下の言葉にどう答えるべきか悩んだ。でも、けっきょく黙ってうなずいた。あたしより宮下の方が経験がある……ううん。経験はないかもしれないけど、こういうときどうするべきかという知識があるはずだから。
あたしは、その女性に向かって歩いていく宮下を見た。かなり緊張しているように見えた。宮下は、宮下なりに必死なんだ。そう。さっきから、宮下の緊張が伝わってきている。軽口をたたいて、リラックスしているように見せていても、額から流れている汗は、暑いからだけじゃない。
そう思うと、こんなことに巻き込んだのは、けっきょくあたしなんだと思って、ちょっとだけ胸が痛んだ。
でも……
もう止まらない。探偵さんが、本当はなにを考えているのかわからない。でもでも、もし探偵さんが、あたしを利用しているだけだとしても、結果的に涼子を見つけられるなら、あたしはこの舞台から降りる気はなかった。
012
あたしたちは、その女性の前に立った。見たところ二十代の半ばくらいかな? 化粧が濃いからそう見えるだけかもしれないけど。
「ユリアさんですか?」
宮下が、ちょっと遠慮がちに声をかけた。
「そうよ」
ユリアと呼ばれた女性は、タバコを捨てて足でもみ消けすと、怪訝な顔でいった。
「あんたが助手? バカに若いわね」
「甥なんです。事情があって、仕事を手伝ってます」
「あら!」
ユリアさんは、宮下が探偵さんの甥だといったとたん、表情が明るくなった。
「そうなんだ。へえ、輝の甥っ子なんだ。あんまり似てないわね」
「叔父さんは、ジイちゃん似なんですよ。オレ……じゃなくて、えっと、ぼくはどっちかというとお袋の家系に似てるんです」
宮下の方も、ちょっと緊張が解けたみたいだった。
「ふうん」
ユリアさんは、まじまじと宮下を見た。
「でも目元がちょっと似てるね。あと十年ぐらいしたら、あんたも、けっこういい男になるかもよ」
「ははは」
宮下は、困ったように笑った。
「ありがとうございます。叔父さんを見習って、がんばりますよ」
「変なことは見習わなくていいわよ。とくに女癖とかね」
ユリアさんは、あたしをちらっと見て苦笑した。
なによいまの? まさか、あたしが宮下のガールフレンドだと誤解してる? そりゃそうと、探偵さんの女癖ってなに? あー、もう。気になる!
「そんなことより」
ユリアさんは声のトーンを落とした。
「探偵さんに伝えておいて。矢部に関わるのはヤバイよって」
「なにがヤバイんですか?」
宮下の表情も、また緊張を増した。言うまでもない、あたしもだけど。
「薬だよ」
ユリアさんは、まわりを警戒するように見てから続けた。
「それも、ふつうのヤクじゃないみたい。なんとか研究所とか言うところから調達しているらしいんだ」
「それって」
あたしは、ユリアさんと同じように、小声で言った。
「もしかしたら、国立微生物研究所ですか?」
「え?」
ユリアさんは、驚いた顔であたしを見た。
「あんた、なんでそれを知ってるの?」
「オレも聞きたいね」
宮下もあたしの顔を振り返った。
「涼子のお兄さんが勤めている研究所よ」
「待てよ。そう言う話は事前にしといてもらいたいな」
「探偵さんには話した」
「オレは聞いてない」
「それは、あたしのせいじゃない」
「ああ言えば、こういう。可愛くない」
「それはこっちのセリフでしょ」
「ちょっと」
ユリアさんが、わたしたちの会話を遮った。
「仲がいいのはわかったから、人の話を聞きなさいよ」
「仲なんかよくありません!」
あたしは、思わず声を荒げてしまった。
「シーッ!」
ユリアさんは、人差し指を唇に当てた。
「大きな声を出さないでよ。あたしいま、タバコ吸いに行くって休憩をもらったんだから。だれかと話しているのが聞こえたらヤバイのよ」
「す、すいません」
あたしは、あわてて謝った。
「それで」
ユリアさんは、またタバコを出して火をつけた。
「さっきの話だけど、その研究所から新しい薬を調達して、このクラブの客に使わせてるみたいなんだ。クラブでの評判を見てから、市場にも流すつもりらしい。どういう成分なのかは知らないけど、矢部が絡んでるんだから、まさか風邪薬ってことはないわよね」
「そうですね」
うなずいたのは宮下だった。
「微生物研究所というのが気になる。すぐ叔父さんに報告しておきます。情報ありがとう」
「いいのよ。あんたの叔父さんには、たっぷりもらってるから」
ユリアさんは、右手でお金のマークを作って見せた。あたしは、こういうときの情報料っていくらなのか聞いてみたい衝動に駆られたけど、ぐっと我慢した。
「それから」
とユリアさんが続けた。
「輝に言っといて。あたしも、この店を辞めることにした。このままだと、マジやばい気がしてね。輝には悪いけど、情報提供はこれが最後だよ」
「賢明ですよ」
宮下は神妙な顔でうなずいた。
「ヤクザの店なんか辞めた方がいいです。それに、たとえ警察が動かなくても、叔父さんがなんとかしますよ」
「叔父さんが、あんたのヒーローってわけね」
ユリアさんは、そういって笑うと、タバコを捨てた。
「あたしも、どこかに白馬の王子様がいるといいんだけど……なんて、バカな話はこれで終わり。仕事に戻らなきゃ」
「最後に一つだけ聞かせてください」
「なに?」
「相沢涼子って名前を聞いたことありますか?」
宮下が涼子の名を口にして、あたしは心臓がドクンと大きく鳴った。忘れていたわけじゃないけど、薬のこととか研究所のこととか、頭が混乱してる。
「知らないわ」
ユリアさんは首を振った。
「ぼくらと同じくらいの高校生なんですけど」
宮下はなおも聞いた。
「矢部の事務所に入ったらしいんですけど、行方がわからなくなっているんです」
「ごめん。ホントに知らない」
ユリアさんも、また首を振った。
「そうですか」
宮下は、少し肩を落としたように見えたけど、あたしの気のせいかも知れない。
「ありがとうございました」
宮下がユリアさんに頭を下げたので、あたしも、あわてて言った。
「ユリアさん。いま、こいつが聞いた涼子って子、あたしの友人なんです。もう連絡が取れなくなって二週間です。脅かすわけじゃないけど、マジで危険かも。十分に気をつけてください」
「そうなんだ」
ユリアさんは、自分で自分の体を抱くように腕を組んだ。
「ホントに早く辞めなきゃ。辞める前に、その子のこと調べられたら調べておくね」
「ありがとう!」
あたしは力強くうなずいた。
「でもホントに気をつけてくださいね。もしユリアさんの身になにかあったら大変だから」
「ええ、わかってる。あたしだって、この世界長いんだから。あ、いけない。もうホントに戻らないと。じゃあね、輝によろしく」
「はい」
あたしと宮下が同時に答えると、ユリアさんは裏口から店の中に入っていった。
「さて」
宮下が言った。
「ここで矢部を張るのは危険だな。叔父さんに報告して指示を仰ごう」
「賛成」
あたしは、はじめて宮下と意見が合った気がした。だからって、べつにうれしくもないけど。
013
探偵さんの指示は簡単だった。ユリアさんからの情報を伝えたあと、探偵さんの指示を聞く宮下は、うんうんと二回くらいうなずいてケータイを切った。
「もう帰れってさ」
宮下は、少し残念そうに肩をすくめた。怖いけど、はじめた冒険を最後までやり遂げたいって顔だった。あたしは冒険したいとは思わないけど、涼子のことがぜんぜんわかってないんだから、やっぱりこのまま終わるのは残念だった。
「ま、仕方ないか」
宮下も、あたしの気持ちを察したのか、腕時計を見ながら言った。
「もう八時すぎだ。今日はお開きにしようぜ。家まで送るよ」
「いいわよ、一人で帰れる」
あたしは眉をひそめた。
「命令なんだ」
宮下は肩をすくめた。
「七瀬を、ちゃんと家まで送っていけって」
「でも……」
あたしは、チラッと宮下の目を見てから、すぐに視線を外した。
「あんた、それでホントにいいの? このまま帰っちゃって」
「そりゃ、いろいろ気になってるけど、仕方ないだろ。さっき七瀬がユリアさんに言ってたじゃないか。マジで危険かも知れないって」
「そ、そうだけど……」
「大丈夫だよ」
宮下は、ちょっと優しい声になった。
「この先のことは、叔父さんがちゃんと考えてくれてるって。プロなんだから」
「うん」
あたしはうなずいた。たしかに宮下の言うとおりだ。それに、これ以上帰りが遅くなると、うちの親が心配する。
「わかった。帰ろう。でもホント、マジで一人で帰れるから」
「ダメだ。命令なんだから送ってく。ほら行くぞ」
宮下は、あたしの手を強引にとって駅の方へ引っぱった。
「ちょ、ちょっと離してよ!」
「オレに送らせるか?」
「わかった。わかったってば」
「オッケイ」
宮下は、あたしの手を離した。
「もう。強引なんだから。こんなところは探偵さんに似てるのかも」
あたしは、宮下に握られた手をさすった。べつに痛かったわけじゃないけど、すごい力が強かった。こいつホワンとした顔してるくせに、やっぱり男なんだ。仕方ない。たまには素直に言うこと聞いてやるか。
そんなわけで、あたしたちは電車に乗った。
もう帰宅ラッシュの時間じゃないけど、電車はけっこう混んでいて、あたしたちはドアの近くで立っていた。うちは中野だから、新宿からならすぐ。だからいつもなら座りたいとも思わないのに、今日は違った。本気で疲れたんだと思う。とくに精神的に。
「けっこうマスクしてる人いるな」
宮下が言った。
「え?」
あたしは、うつむいていたから、宮下の声で顔を上げた。
「あ、ああ。そうだね。インフルエンザのおかげで、マスクが売り切れらしいよ」
「かかったって、どうってことないらしいのにな」
「でも、非国民扱いされてひどいらしいよ」
「知ってる。日本人は、そういうとこ最低だよ」
「そうだね」
あたしは宮下にうなずいたけど、正直インフルエンザなんてどうでもよかった。インフルエンザは薬で退治できるけど、ヤクザはそう言うわけにいかない。涼子はいまごろどこにいるんだろう……あたしが助けに来るって信じて待ってるだろうか。
「なあ」
宮下がまた声をかけてきた。
「ひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「相沢のこと。あいつ、七瀬と違って、けっこう遊んでる風じゃん。だから七瀬と相沢が親友だって言われても、なんかピンとこなくてさ」
「涼子が遊んでるの否定はしないよ」
あたしは、軽くため息をついた。
「でも根はいい子なんだよ。あたしたち、どっちも母親だけだからさ。中学のとき親しくなって、最初のころは、けっこうお互いの家にも遊びに行ってたんだ。正直言って、高校入ってからは、前みたいに一緒にいることが少なくなったけど、でもメールは毎日交換してるし、それに……」
あたしは涼子のこと思い出して、胸が熱くなってきた。
「それに?」
宮下が促した。
「それに……涼子はあたししか頼れる子がいなかったんだよ。だから、余計になんとかしてあげたくって」
「やっぱな」
宮下はマジメな顔であたしを見た。
「思った通りだ。七瀬って、人がいいっていうか、そういうとこクソまじめだから、突っ走っちゃうタイプなんだ」
「ふん。悪かったわね、突っ走るタイプで」
「いやオレが言いたいのは――」
宮下が言いかけたとき、電車は中野に着いた。
013b ユリア視点
あたしの名前はユリア。本名は違うけど、べつに本名なんて必要ない。あたしが住んでいるのはそう言う世界だ。この世界で、いろんな仕事を転々とした。中には人に言えないような仕事もあった。いまはクラブのホステス。ヤクザの店だって知ってたけど、居酒屋でバイトするわけじゃあるまいし、そんなこと気にしていられない。
あたしは、輝の甥っ子と、そのガールフレンドと別れて店に戻った。クラブのフロアに戻る前にトイレに行って、口臭防止の薬でうがいをする。
「ユリア」
トイレを出たところで、あたしは矢部に呼び止められた。さっき、あんな話をしていたから、柄にもなく心臓の鼓動が早くなった。
「はい」
あたしは、動揺を悟られないように、精一杯の笑顔を浮かべて振り返った。
「どこ行ってたんだ。探したぞ」
矢部は、あたしのことをにらみつけた。
「ごめんなさい。ちょっと外にタバコを吸いに」
「まだ吸ってんのかよ」
矢部は顔をしかめた。
「肺の中、真っ黒じゃねえのか。やだやだ」
矢部はヤクザには珍しく、タバコを吸わない。だからって、腹の中が真っ黒な男に、あたしの肺のこと心配されたくないよ。
「まあいいや」
矢部は軽く肩をすくめてから続けた。
「ちょっと事務所に来い。おめえに頼みたいことがある」
「あ、はい」
あたしは矢部のあとに続いて事務所に入った。なんだかイヤな予感がする。
事務所に入ると、矢部は金庫の鍵を開けた。いまどき丸いダイヤルをクルクル回して、番号を会わせるタイプの金庫だ。電子ロックは当てにならないって言うのが矢部の口癖。バカじゃない。ケータイ電話もろくに使えない機械音痴のくせに。
矢部は、その金庫の中から、青い色のカプセルを出した。あたしは、それが例の薬だって直感した。
「なんですかそれ?」
あたしは、とぼけた声を出した。
「ふん。おめえは、まだ知らなくていい」
矢部は鼻を鳴らしてから、不気味な笑顔を浮かべた。
「今日な、アケミが例の先生と同伴してくる。そしたら、おめえも、あのスケベオヤジについて、これ飲ませろ」
「ま、待ってください」
あたしは、ちょっとあわてた。
「なんの薬か知らないけど、なんでアケミにやらせないんですか?」
「あいつはダメだ。頭の中からっぽだからな。なにをしでかすかわかったもんじゃねえ。その点おめえは、お水にしちゃあ頭がいい」
お水ってなによ。事務所の金庫と同じくらい、こいつの頭の中もレトロなんだ。ああ、もう最悪。すぐ辞めたい。いま辞めたい。
「わかりました」
あたしは、わざと肩をすくめて見せて、矢部から薬を受け取った。
「なんか風邪薬みたい。新しい強壮剤とか言って飲ませてみます」
「任せる」
矢部は事務所のソファにどっと腰を下ろした。下品に足を広げて、まるでチンピラみたい。
「その薬な。まだほかの子には黙っとけよ。アケミみたいなバカ娘は、自分で飲んじまいそうだからな。本格的に売り出す前に下手打ったら、組長にどやされるのはオレだ。もしそんなことになったら、おめえも、そのきれいな顔が無事だと思うなよ」
あたしは、少し足が震えてきた。
「一つだけ聞かせて。これ飲んだら、どうなるんですか?」
「バーカ。なんて顔してんだ。死にゃしねえよ。ちょいと気持ちよくなるだけだ。副作用もねえ」
矢部はそこまで言って、急に心配そうな顔になった。
「おいおい。だからって、自分で飲むんじゃねえぞ。まだ数がねえんだ。一粒でもなくなったら大事だからよ」
「飲みませんよ」
あたしは、ムッとした顔をして見せた。
「あたしがほしいのはニコチンだけ。ほかの薬はやったこともない」
「そうか。だったらいい。そろそろ先生がご到着するぜ。うまくやるんだぞ」
「はい」
あたしは、矢部に軽く頭を下げて事務所を出た。
とたん。
なんか泣きたくなってきた。こんなこと慣れてるはずなのに、なんでだろう。さっき、あの子たちの純粋な目を見ちゃったからかな。世間のこと、なんにも知らないガキっていえばそれまでだけど、あたしにも、あんな目をしたときがあっただろうか。
014
中野の駅から歩いて十二、三分のところにある築二十年のマンション。ここがあたしの家だ。小学校を卒業する前に父が他界したあと、当時住んでいた横浜のマンションを売って、ここへ越してきた。母の実家が近かったから。だから、中学で涼子と出会ったんだ。そう思うと、人生って不思議な感じがする。あのまま横浜に住んでいたら、あたしの人生は変わっていたんだろうから。
「なによ?」
あたしは、うちのマンションの中にまで入ってこようとする宮下に言った。
「うちに上がっていく気? 悪いけどお茶なんか出さないわよ」
「ドアまでだ」
宮下はめんどくさそうに答えた。なんか、わざとイヤそうな態度を取ってるように見えるのは気のせいかな?
「叔父さんに言われた」
宮下は頭をかきながら続けた。
「七瀬が、自分ちのドアを開けて、中に入るまで見届けろって」
「ひどい。探偵さん、あたしのこと信用してないんだ」
「違うって。叔父さんも、七瀬に危険なことさせたから、心配なんだよ。おまえだって、一応女の子なんだから」
「一応ってなによ、一応って」
「とにかく、ドアまでいく。そこで引き返すから心配するな」
宮下はそういって、ずかずかマンションのエレベーターホールまで歩いて行った。
「ホント、あんたたちの家系って強引だよね」
あたしは肩をすくめて、エレベーターの上ボタンを押した。エレベータが降りてきて、あたしたちはケージに乗り、あたしは五階を押した。
「ねえ」
あたしは宮下に聞いた。
「あんた、家はどこなの?」
「そんなに離れてない。中野坂上だから。チャリなら、こっから十分ぐらいだ」
「へえ、そうなんだ。探偵さんも近くに住んでるの?」
「え?」
宮下は、一瞬キョトンとした。
「叔父さん? あれ、まいったな。マジかよ」
「もしかして知らないの?」
「知らない。事務所でしか会ったことないから、どこに住んでるのか知らないや」
「なによそれ。仮にも叔父さんでしょ」
「考えてみたらオレ、叔父さんの私生活をぜんぜん知らないや」
「どこが尊敬してるんだか」
「尊敬じゃない。嫌いじゃないだけだ」
「素直じゃないわね」
「うるさいな。それはオレのセリフだ」
エレベーターが五階について、あたしたちは降りた。エレベーターホールを右に曲がって、まっすぐ行った突き当たりが、あたしのうち。宮下は律儀にドアの前まで着いてきた。これは本当に、あたしがドアを開けて、中に入るまで見届けるつもりだわ。さっき、あたしのことクソまじめだなんて言ってたけど、それって自分のことじゃないの? あたしは、やれやれと首をふってから、バッグから鍵を出してドアを開けた。
とたん。
チョコレート色のトイプードルが、リビングから駆けてきた。名前はノンちゃん。あたしが帰ってくると、ものすごくうれしそうに尻尾を振って、玄関までお出迎えにきてくれるの。ホント、マジでチョーかわいい子なんだよ。ちなみに男の子なんだ。
いつもだったらここで、ノンちゃんを抱きかかえて玄関を上がるんだけど、今日は違った。玄関に、見慣れない男物の靴を発見したから。しかも、ママの楽しそうな笑い声が聞こえてきたから。
「人が来てる」
宮下が玄関に脱いである、男物の靴を指差しながら言った。
「男だな。もしかして、お母さんの彼氏?」
「やめてよ。ママに彼氏なんかいない」
なんて、否定してみたものの、じゃあ、だれなんだろう? あたしは、こんな時間に尋ねてくる男の人に心当たりなんかない。
マジ? まさかホントに彼氏とか?
考えてみれば、うちのママだって、父が亡くなってもう五年近い。それにまだ四十代だし、彼氏がいてもおかしくないかも。
いやだママ~。こんなときに、あたしに彼氏を紹介しようって言うんじゃないでしょうね。やめてよ~、こんなときに。
「なんかイヤな予感がする」
宮下が言った。
「ちょっと! それどういう意味よ!」
あたしは、気持ちを見透かされたと思って、宮下のことをにらんだ。そしたら、宮下は宮下で、べつのことを考えていた。
「この靴に見覚えがある。オレの知っている人物である可能性が高い気がしてきた」
「え? なにそれ? だれ?」
「七瀬とも共通の知り合いだ。予定変更、ちょっとオレもお邪魔する」
宮下はそう言って、玄関の中に入ってきた。あたしも宮下の言ってる意味がわかった。この状況で、宮下と共通の知り合いと言ったら、一人しかいない。
マジ? なんで、ここにいるわけ?
015
「あら、おかえり」
リビングで、男の人と楽しそうに話し込んでいる母が、あたしを見て言った。
「うわさの彼氏も一緒ね。ちょうど、二人のことを話していたところよ」
思った通り、母の話し相手は探偵さんだった。いつもはネクタイなんかしてないのに、今日はいかにもシルクですって感じの光沢があるネクタイなんかしちゃってる。
「おかえり」
探偵さんは、爽やかな笑顔を浮かべた。
「電話を切ってから、すぐに戻ってきたようだな。感心、感心」
「ボディガードの純一くんのおかげね」
ママも爽やかに笑った。こんな笑顔を見るのは久しぶり。
「いやいや」
と探偵さんがママに言った。
「お嬢さんは、しっかりしてますよ。七瀬さんの教育がいいんですね」
「いやだわ、そんなことありませんのよ。なんというか、うちは放任主義で、娘の好きにやらせちゃってますから」
「だったら遺伝かな。性格も顔も、お母さんによく似たんでしょう。とくに顔はよく似てますね。二人とも美人だ」
「いやだわ、探偵さんたら。さっきから、ホントにお上手なんだから」
ママは、そう言ってまんざらでもない笑顔を浮かべていた。
「ちょっと」
あたしは、あたしのとなりに硬直して立っている宮下に小声で言った。
「これがユリアさんの言ってた、探偵さんの女癖ってヤツ?」
「し、知らないよ。私生活は知らないって言っただろ」
「どーでもいいけど、あたしのママを相手にやめてほしいんですけど」
「やめてほしいと言えば、おまえの犬に人の足を噛むのもやめさせてほしい」
「え?」
あたしは宮下の足元を見た。そしたらノンちゃんが、ガブッって感じで宮下の足にかみついていた。人のこと噛んでるノンちゃんを見たのは久しぶり。おかしいなあ。この子、人なつっこいし、子供のころのかみ癖はすっかり治ったはずなのに。
ん?
ノンちゃん、もしかして、こいつのことあたしの彼氏と間違えて、焼きもち焼いてるとか? なんて、まさかね。
あたしが、果敢に宮下を撃退しようとしているノンちゃんを抱きかかえようとしたときだった。ママがあたしたちに声をかけた。
「ちょっと、二人ともなに固まってるの、こっちいらっしゃい」
「あ、うん」
あたしはノンちゃんを抱えて、ママたちが談笑しているソファに近づいた。宮下もついてきた。
「お茶入れましょうね」
ママがそう言って立ち上がろうとしたとき。
「いや、七瀬さん。どうぞお構いなく」
探偵さんが、ママを止めた。
「純一がちゃんと娘さんを送ってきたので、これでもう失礼しますから」
「あら、お茶ぐらい入れさせてください、かわいいボディーガードも、きっと喉が渇いてるでしょうから」
「か、かわいいって、オレのことですか?」
宮下は、思わず自分を指差したので、あたしはプッと吹き出してしまった。
「純一」
探偵さんが眉をひそめた。
「オレとはなんだ、オレとは。友だちと話してるんじゃないんだぞ。わたしとか、ぼくとか言えないのか」
「あ、うん。ごめん」
宮下はバツが悪そうに肩をすくめた。うん。たしかに、かわいいかも。ママも、そんな宮下の様子にクスクス笑いながら、キッチンへお茶を入れに行った。
「そりゃそうと叔父さん」
宮下が小声で探偵さんに言った。
「なんで七瀬の家にいるんだよ。聞いてないよこんなの」
「サプライズだ。楽しいだろ」
「楽しくない」
と答えたのはあたし。
「なんでここにいるのか説明してください」
「不可抗力とは言え、夜になるまで高校生を働かせたんだ。保護者への説明責任を果たさなければならないと思ってね」
「不可抗力?」
あたしは首をかしげた。
「自分で情報収集しろって言ったのは探偵さんですよ」
「だから不可抗力だ。きみが、この事件を持ち込んだのは、わたしが望んだせいではないからね」
「それって詭弁」
「なんとでも言いたまえ」
「美緒」
ママがお茶を持って戻ってきた。
「宮下さんの言う通りよ。もう危ないことはしないでちょうだい」
「だから、それをやらせたのは探偵さん……」
あたしは、そこまで言って、口をつぐんだ。ママに危ないことをやってるって言ってるようなものだから。
「違うのよ」
ママはソファテーブルに、お茶のカップを置きながら言った。
「じつはね、三日前に宮下さんから電話があって、美緒が事務所にお邪魔した話を聞いていたの」
「えっ! ママ知ってたの!」
あたしはビックリした。三日前って、探偵さんの事務所に行った日だ。
「ええ。連絡をもらって驚いたわ。いくらクラスメートの叔父さんの事務所とはいえ、本当に探偵事務所に行くなんて、思ってなかったから」
「うっ」
あたしは、思わず言葉に詰まった。クラスメートの叔父さんだったのは、ただの偶然なんだよね。探偵さんを見ると、軽くウィンクしたから、そのことは黙っててくれたみたい。
「わたしから説明しよう」
探偵さんが言った。
「あの日の美緒くんの様子を見て、たとえ門前払いしても、さらに危険な道へ進んでいく可能性を危惧した。指定暴力団、とくに山田組が絡んでいるとなると、プロのわたしでも、うかつなことはできない。言うまでもなく、高校生が対処できる問題ではないんだよ」
「じゃあ、なんで尾行なんかさせたの?」
「今日一日で、自分がどれほど危険な世界に接しているか理解できただろ?」
探偵さんはニヤリと笑った。
「ま、まさか、それをわからせたくて、わざと――」
あたしは探偵さんから、宮下に視線を移した。
「あんたもグルだったのね!」
「ち、違うよ!」
宮下はあわてて首をふった。
「こんな話、マジで聞いてない!」
「そうだ」
探偵さんがうなずいた。
「純一は、どうもお人好しなところがあってね。こういうことは、すぐ顔に出る」
「ちぇっ。どーせオレはお人好しですよ」
宮下はおもしろくなさそうに肩をすくめた。
「その点」
とママが笑った。
「わたしは、お人好しじゃなかったみたい。探偵さんから計画を聞かされていたけど、顔には出なかったでしょ?」
「ぜんぜん、出てなかったよ。すっかり騙された」
あたしは、ママをちょっとにらんだ。ホント人が悪いよ。わが母親ながら。
「それはそうと」
ママが言った。
「二人とも、立ってないで座りなさい。お茶が冷めるわよ」
「あ、うん」
あたしと宮下はソファに腰を下ろした。ママと二人暮らしの家だから、そんなに広いリビングじゃないし、もちろんソファだって小さい。あたしと宮下は、密着して座らなきゃならなかった。
「宮下さんから話を聞いたときは、正直迷ったわ」
ママが言った。
「いくら純一くんがついていると言っても、娘に危険なことをさせたい母親なんているわけないでしょ」
「う、うん……ごめん」
あたしは思わず小さくなった。だから知られたくなかったのに。
「でもね」
とママが続けた。
「宮下さんに言われたの。娘さんは、なんとしても友人を助けようとしますよって。たしかに、その通りだと思った。美緒のことは、わたしが一番よく知ってる。だから、宮下さんは、美緒のことを理解して助言してくださってるって感じたわ」
「そこで提案したのだ」
こんどは探偵さんだ。
「まず、美緒くんと純一には、自分たちがどんな世界と接しているのか、身をもって感じてもらいたかった。二人とも、今日は手に汗を握ったはずだ。こんな経験をすれば、無茶なことやバカなことをする気にならないだろう」
「うん」
あたしはうなずいた。
「だからこそ、心配の種が増えちゃったよ。涼子は、あんな世界に連れて行かれちゃったんだ。早く助けなきゃ」
「その通りだ」
探偵さんはうなずいた。
「涼子くんが失踪して、すでに二週間が経過している。ハッキリいって、救出までの時間はあまり残されていないだろう。可及的すみやかに情報を収集して、警察に重い腰を上げさせなければならない。そのために、わたしはしばらく、この件に専念するつもりだ」
「請け負ってくれるの!」
わたしはソファから飛び上がった。
「だったら、最初からそう言ってくれればいいのに!」
「美緒」
ママが怖い顔であたしをにらんだ。
「なんですか、その言葉遣いは。いつも言ってるでしょ、丁寧な言葉を使いなさいって」
「そんなこと言ってる場合じゃ――」
「話は終わりじゃないよ」
あたしがママの文句に文句を言おうとしたとき、探偵さんが割り込んできた。
「涼子くんの捜索となれば、だれかから探偵料をいただくことになるが、まあ、そういうわけにもいかないだろう」
「宮下さん」
ママが訴えるような目で探偵さんを見た。
「何度申し上げてもむだでしょうけど、美緒たちがいるからもう一度言います。探偵料の全額は無理ですけど、美緒がご迷惑をかけた分くらいは払わせてください」
「いいえ、何度も申し上げたとおり、美緒くんからいただいた五万円で十分です。七瀬さんから探偵料の一部でもいただくわけにはいかない」
うっ……あたしは、心の中で絶句した。なによそれ。そんなこと言われたら、五万円返せって言えないじゃない。なんかショック。
「しかし」
と探偵さんが続けた。
「そもそも山田組とは、うちの事務所がある商店会の関係で、前から因縁がある。ヤツらをなんとかしたいと思っていたのが、わたしがこの件に関わる動機です。そう考えれば、七瀬さんも探偵料を支払う気にはならないでしょう」
「商売っ気のない方ね」
「金持ちになりたければ、こんな商売はしてませんよ」
「うふふ。そうかもしれませんね」
探偵さんとママは、そう言って笑いあった。なんか、すごく気があってるんですけどこの二人!
「ちょっと待ってよ」
あたしは、ママと探偵さんの間に割り込んだ。
「いまの話は宮下から聞いてたよ。過去にも山田組とのトラブルを解決したことがあるって。それで思ったんだけど、探偵さん、あたしのこと利用してるんじゃないの?」
「利害の一致は認めるが、指定暴力団とのトラブルで、高校生を利用しようと思ったことは過去に一度もないし、将来もないだろう」
「そうよ美緒」
ママが、またあたしをにらんだ。
「失礼なこと言うんじゃありません。宮下さんが、そんなことするわけないでしょ」
「いえ、そうは言っても現実は厳しいのです」
探偵さんは、ママに答えてからあたしを見た。
「美緒くんも知っての通り、うちの事務所は零細だ。この件に専念するとなると人手が足りない。純一とわたしでは無理だ。もう一人アシスタントがほしい」
探偵さんはここで言葉を切って、あたしを見た。
「言っている意味はわかるね?」
「え? な、なに? もしかして、あたし?」
「そうだ。美緒くんにも手伝ってもらう。ただし、学業に影響が出ない範囲内でだ。また言うまでもないことだが、危険なことはさせない。そのことを、きみのお母さんに約束したところだよ」
あたしは探偵さんからママに視線を移した。
「ええ」
ママはうなずいた。
「あなたのことだから、涼子ちゃんのこと気になって、勉強どころじゃないでしょ。それどころか、無茶なことするかも知れない。宮下さんに言われたの。だったら、積極的に関わらせた方がいいって。危険というのは、それを知っているからこそ、回避できるもので、なにも知らずにいるのが、一番危ないんですよって。おっしゃるとおりだと思うわ。だから、宮下さんにお任せすることにしたの」
「やった!」
あたしは、またソファから飛び上がった。これで正々堂々と、涼子のこと探せるんだ!
「喜ぶのは早い」
探偵さんが厳しい声で言った。まるで、携帯電話会社の宣伝に出てくる、白い犬のお父さんみたいな言い方。
「だからこそ、危険な世界を垣間見せたんだ。くれぐれも、軽率な行動はしないように。二人とも、わたしの指示を守るんだぞ。いいね?」
「うん」
あたしは、素直にうなずいた。涼子を助けるためだったらなんでもする。
「それってさあ」
宮下がやっと口を開いた。
「けっきょく、いつも通りってことじゃないか。どーせ叔父さんの命令は絶対なんだから」
「そうだ」
探偵さんが宮下を見てニヤリと笑った。
「指示を守らなかったら、バイト代はなしだ。マウンテンバイクは諦めろ」
「はいはい。わかりましたよ」
宮下は肩をすくめた。
015b ユリア視点
あたしはタバコを吸う手が震えていた。また店の裏口に出てタバコを吸ってるんだけど、タバコの味がしない。ニコチンが身体に回らない。なにをしても気が静まらない。
だって……
矢部に言われたとおり、店に来たハゲ頭の議員先生に、うまく薬を飲ませたんだけど、ただでさえ気持ち悪いスケベオヤジの顔が、すごいことになっちゃったんだ。薬を飲んで十分もすると、あのオヤジは白目をむいて、一人でウヒウヒ笑いだし、そのうちに、舌もだらんと口から出たままになって、よだれでシャツがベトベトになった。それでも、相変わらずウヒウヒ笑ってるの。どうやら本人は、相当気持ちいいらしい。
ああ、いやだ。あの顔が頭から離れない。もしも、妖怪が本当にいるとしたら、きっとあんな顔じゃないかって思う。それくらい不気味だった。
もっと怖かったのは、となりで見ていたアケミの顔。薬でラリってるオヤジのことを、うらやましそうな顔で見ているの!
信じられない……
あの子、自分も飲んでみたくてしょうがないんだ。アケミが麻薬をやってるのは知ってるけど、一度、薬の快楽を知ってしまうと、人間って、どこまでも墜ちてしまう。それを、まざまざと見せつけられた感じ。ああ、イヤだ。あんな風になりたくない!
あたしはケータイを出して時間を見た。夜中の十二時。そろそろ店が終わる。今日はアフターなんか入れる気にならなかったから、すぐ家に戻って布団を被って寝てしまいたいけど、今夜はとても眠れそうにない。
あたしは、コンビニの前でたむろする高校生みたいに、店の裏口の前に座り込むと、二本目のタバコを出して火をつけた。
どうしよう。店が終わったら、どこかで飲んでいこうか……
そのとき。
ケータイがブルブル震えて、あたしは心臓をギュッとつかまれたように驚いた。バイブレータコールだ。ああ、脅かさないでよ。いったいだれ? こんな時間に。
折りたたみのケータイを開けると、そこには輝の名前が表示されていた。やったね。グッドタイミング。薬のこと、早く吐き出してしまわないと、こっちの頭が変になりそうだ。
「もしもし」
あたしは電話に出た。
『輝だ。いま少し話せるか?』
「話せるけど、そんなに長くは無理。そろそろ、店じまいの手伝いに行かないと。ねえ輝。時計を見ててよ」
『なぜ?』
「たぶん、一気にまくし立てるから、時間を忘れちゃいそう。五分経ったら教えて」
『また裏口でタバコを吸ってるんだな』
「ニコチンなんてカワイイものよ」
「そうかい?」
ん?
あたしは顔を上げた。だって、輝の声が電話口からじゃなくて、表通りの方から聞こえた気がしたから。まさか幻聴?
「て、輝」
あたしは絶句した。だって幻聴じゃなくて、本当に本人が立ってるんだもん。
「五分だったな」
輝はそう言って腕時計を見た。
「さあいいぞ。まくし立ててくれ。いったい、なにを見たんだ」
「妖怪」
あたしは、そう答えてから、輝に止められるまでキッチリ五分間、矢部に渡された薬の効能をまくし立てた。
「よくわかった」
輝は厳しい顔でうなずいた。
「事態は深刻度を増すばかりだな。ユリア。純一から店を辞めると聞いたが、その決心に変わりはないよな?」
「変わらないどころか強まった」
「それはなにより。たったいま辞めることを強くお勧めする」
「いま?」
あたしは輝の正気を疑った。
「もし、いま逃げ出したら、あたし矢部になにをされるかわかんないよ」
「矢部が刑務所に入れば問題は解決する」
「やめてよ」
あたしは肩をすくめた。
「本気で言ってるの? 下手したら、輝も東京湾に沈むことになるよ」
「コンクリート詰めにされてか?」
輝は苦笑いを浮かべた。
「ヤクザが、まだそんな古風なことをするとは思えないが、まあ、たしかに命の危険はあるだろう」
「わかってるなら、バカなこというのやめて」
「しかし、美緒の友人とその兄が、まだ生きているなら救いたい。それに、ユリアのことも救えるしな」
「あたし?」
「この世界から足を洗うチャンスだぞ。店を辞めるだけでなく、この世界から出て行くべきだ。それも、いますぐに」
「なによそれ。この世界から足を洗うってどういう意味? まるで、あたしがヤクザの構成員みたいな言い方じゃない」
「薬を客に飲ませていれば似たようなものだ」
「あれは、矢部に言われて仕方なくやったのよ」
「今日はそれですんだが、明日はもっと危険なことを要求されるぞ。だから、この店を早くやめたいんだろ」
「そうだけど……この店を辞めれば、矢部ともお別れよ」
「それはどうかな。また同じことの繰り返しだと思うね。少なくとも、いままではそうだったはずだ。わたしの知る限り」
「たった三年じゃない。出会ってから」
あたしはうつむいた。本当は輝の言うとおりだった。あたしは、いつもこんなことに巻き込まれる。いつもなにかに怯えて、いつもなにかから逃げている。それで、いままでにも輝に助けられたことがあった。
「ユリア」
輝は、うつむくあたしの顔を覗き込んだ。
「探偵の仕事で、もっとも重要なことはなんだと思う?」
「え?」
あたしは顔を上げた。
「な、なによ突然」
「話を聞くことだよ。人の話を聞くのが探偵の仕事だ。そして質問する。聞き上手、質問上手でなければ、探偵なんて仕事は続けられない」
「なにが言いたいの?」
「この三年間、きみの話をたくさん聞いてきた。そして質問もしてきた。その結果、わたしは確信した。きみにはいまの仕事が向いていないとね。早く負の連鎖から抜け出して、堂々と日の当たる道を歩いた方がいい」
「簡単にいわないで」
あたしは、自分を抱くように腕を組んだ。
「ずっとこの仕事で生きてきたんだよ。それが悪いことだって言うの?」
「べつに夜の仕事を軽蔑しているわけじゃない。きみには向いていないと言ってるんだ。毎日が辛くてしょうがないんだろ?」
「そ、そうだけど……」
あたしは、だんだん泣きたい気分になってきた。
「あたしを雇ってくれるところなんかないよ。履歴書になんて書くの? 高校中退して、少年院に半年いて、そのあと二年も保護観察を受けてたって書けばいいの?」
「うちの事務所がある商店街でよかったら、仕事を紹介できる。みんな気のいい連中だ。もっとも、器量はよくても金のない連中ばかりだから、いまの仕事に比べたら、収入は激減するだろうけどな」
輝はそう言って笑ったあと、マジメな顔になって続けた。
「ユリア。きみはまだ二十七だぞ。人生はこれからだ」
「で、でも……怖いよ。矢部に逆らうなんて」
「約束する。矢部には指一本触れさせない。わたしが必ず守る。信じてくれ」
「輝……」
あたしは、輝の瞳を見つめた。まっすぐな目。さっきの甥っ子と同じだ。
「もう十分以上経ってしまった」
輝は腕時計を見た。
「そろそろ、店じまいの手伝いに戻った方がいい。わたしは、表通りのコーヒーショップでコーヒーを飲んでいる。決心がついたら来てくれ」
あたしは、表通りに歩いて行く輝の後ろ姿が、見えなくなるまで立っていた。あたしは顔に血の気が戻ってくるのを感じていた。なんだか憑き物が落ちたみたい。やっと出口が見えてきた気がする。そう。決心はとうの昔についていたんだ。ただ、後押ししてくれる人がいなかっただけ。あたしは変われる。ううん、変わらなくっちゃいけない。
よし、がんばるぞ! なんだか元気が出てきたわ。
016
つぎの日曜日、あたしは朝から宮下探偵事務所に向かった。朝から来いって言われているわけじゃないけど、いてもたってもいられなくて、あたしは家を出ていた。まだ朝の六時なのに。宮下探偵事務所に着いたのは、それから三十分後だった。
宮下探偵事務所のある雑居ビルは、西新宿の商店街の外れで、一番日当たりの悪い場所にある。薄汚れた壁の五階建てで、探偵さんの事務所は三階。築何年なんだろ? 消防法とか建築法とか、いろんな法律を無視してる気がするから、高度成長期のどさくさで建てたのかも。ちなみに、一階はラーメン屋。でも営業しているところを見たことない。夜中しかやってないのかな?
あたしは通路の一番奥にある階段を上った。エレベーターなんてないんだ。あっても乗りたくないけどね。
三階に上がると、事務所の前には宮下が立っていた。
「やっぱり七瀬も来たか」
「あんた、なにしてんの?」
「待ってるんだよ。叔父さんまだ来てない。ドアに鍵がかかってる」
「探偵さんは何時に来るの?」
「わかんねえよ。なにも言われてないんだから」
「どういうことよ? だったら、あんたなんでここに突っ立ってるわけ?」
「七瀬と同じ理由だろ」
「はあ? 意味わかんない」
「いてもたってもいられなくて、家を飛び出してきたんだよ。七瀬もそうだろ?」
「うっ……」
図星だ。
「だって、探偵さん言ってたジャン。残された時間は少ないって。可及的速やかに情報を集めるって。だから、朝から手伝った方がいいかなって思って」
「オレも同じ。日曜日にこんな早起きしたの久しぶりだ」
「あたしも。それより、探偵さんどこにいるの?」
「だから、知らねえってば」
「ケータイにかけてみればいいジャン」
「それが……」
宮下の表情が曇った。
「つながらないんだ。さっきから何度もかけてるんだけど」
「寝てるんじゃない?」
「まさか」
宮下が肩をすくめたとき。だれかが階段を上ってくる音がした。探偵さんかと思ったけど、違うみたい。登ってくる足音が、妙に間延びしてるっていうか、ゆっくりっていうか。大家のおジイさんかな? あたしはそう思った。
「大家さんだな」
宮下が言った。同じことを考えてたみたい。
「あたしもそう思う」
二人の推理は当たった。登ってきたのは、今年七十二歳のバリバリ現役の大家さん。
「おー、探偵さんの言うとおりじゃな」
大家さんは、あたしたちを見て笑った。
「朝早くからご苦労さん。少年探偵団の諸君」
「少年探偵団?」
あたしと宮下は、思わずハモっちゃった。あたしたちは、一瞬お互いの顔を見たあと、またつぎのセリフがハモっちゃった。
「なによそれ」
「なんだよそれ」
あたしと宮下は、またお互いの顔を見た。
「うはは。仲がよろしいことで」
大家さんは笑いながら、事務所の鍵を開けて中に入った。
「ちょっと、どういうこと?」
あたしも大家さんのあとに続いた。
「なんで大家さんが、ここにいるわけ?」
「昨日の夜、探偵から電話があったんじゃよ」
大家さんは事務所の電気を付けた。
「たぶん、朝早くから純坊とお嬢ちゃんが事務所に来ているだろうから、鍵を開けて中に入れてやってくれってな」
「純坊」
あたしは宮下を見た。こいつ大家さんに純坊って呼ばれてるんだ。
「いい呼び名だね。あたしもこれから純坊って呼ぶよ」
「バカ」
宮下はあたしをにらんだあと、やれやれって感じで首をふった。
「それにしても、叔父さんには、また見透かされてたな」
「うん。ちょっと悔しい」
「うはは。若いってのはいいね。がんばりたまえ、少年探偵団の諸君」
「それだよ、それ」
宮下が大家さんに言った。
「なんだよ少年探偵団って」
「ホントに知らんのか? 江戸川乱歩の明智小五郎シリーズを。そこに出てくる小林少年をリーダーにした探偵団の名前じゃよ」
「それは知ってるけど、オレたち、もう子供じゃないぜ」
「ある意味、まだまだ子供だと思うが、まあ、それはそれとして、べつに侮辱して言ってるわけじゃないぞ。わしは子供のころ、明智小五郎に憧れててな。そりゃもう、夢中になって読んだもんじゃ。正直、純坊たちがうらやましいよ。わしもあと六十年わかけりゃあなあ」
「相手は怪人二十面相じゃないよ」
あたしは大家さんに言った。
「ヤクザなんだよ。ぜんぜんうらやましくないよ。あたしの友だちは、ヤツらに捕まってるんだ」
「そうか。すまん、すまん。現実は物語のようにはいかんもんじゃな」
大家さんが、そう言って、髪の毛のない頭をなでたとき。事務所のドアが開いて、探偵さんが入ってきた。
「おはよう。少年探偵団の諸君。一人枯れたジイさんも混ざっているようだが」
「叔父さん!」
宮下が大きな声を出した。
「どこ行ってたんだよ! ずっと電話してたんだぜ!」
「声のボリュームを下げろ。徹夜で働いてきた頭に響く」
あ、やっぱり探偵さん、徹夜で仕事してたんだ。あたしがそう思ったとき。
「ユリア」
と探偵さんが事務所の外に声をかけた。
「騒々しいところだが入ってくれ」
「うん」
うなずく声が聞こえて、入ってきたのは昨日クラブの裏手で会ったユリアさんだった。
「おはよう。また会ったわね」
「あ……」
あたしと宮下は、ポカンと口を開けた。どういうこと?
すると大家さんが、ニヤけた顔で言った。
「こりゃまたきれいなネーチャンだな。こんな子をお持ち帰りとは、探偵も隅に置けないのう」
そーいう問題じゃ、ぜんぜんないと思う。たぶん……ね。
017
「これが問題の薬だ」
探偵さんは、ジャケットのポケットから、青いカプセルの入った小さなビニール袋を出して、事務机の上に投げ出した。
「成分はわからないが、おそらく、なんらかの細菌が生産したアルカロイドを単離したものだろう」
アルカロイド? なんか難しい言葉だけど、涼子のお兄さんが勤めてる、国立微生物研究所と関係がありそうなことは、あたしにもわかった。
「この薬がどーしたんじゃ?」
事情をなにも知らない大家さんは、ビニール袋をつまみ上げた。
「花粉症のときに飲む薬みたいじゃな」
「まだ市場に出回っていない新種の麻薬だ。ユリアの目撃証言によると、相当いい気分になれるらしい。大家さん、あんた試してみるかい?」
「なんでわしなんじゃ」
「若い子に飲ませて、なにかあったら困る」
「わしならいいんかい」
「もう棺桶に片足が入っているじゃないか。両足が入るまでの時間が、多少短縮されても、べつに困らないだろ?」
「困るわい!」
大家さんは、ビニール袋を、捨てるように事務机の上に投げ戻した。
「冗談だ」
探偵さんが肩をすくめると、そばで聞いていたユリアさんがクスクス笑った。
「ちょっと輝。笑えない冗談言うのやめて」
「笑っとるじゃないか」
「ごめんなさい」
ユリアさんはマジメな顔に戻った。
「冗談抜きで、ヤクザは、一回や二回飲んで、棺桶に入るような薬を売らないわ。あいつらが売るのは、飲んだら、それなしではいられなくなる薬。五年か十年先には、けっきょく棺桶に入るのかも知れないけど、それまでの間、お金をむしり取れる薬よ」
「そうだ」
探偵さんがユリアさんのあとを引き取った。
「だからヤツらは、常に新薬を探している。仕入れ値が安く、だれにでもよく効いて、しかも、一回の服用ですぐに習慣性が出る薬が望ましい」
「これがそう?」
あたしもビニール袋をつまみ上げて、中のカプセルをまじまじと見た。
「たぶんね。しかし成分がわからない以上、確信はない。だから、だれかに試してほしいんだが……」
探偵さんは、また大家さんを見た。
「大家さん、決心はついたかい?」
「まだ言うか探偵」
「それは残念」
探偵さんは苦笑を浮かべてから、あたしと宮下に視線を移した。
「純一と美緒。さっそく仕事だ。これからユリアの家に行って、彼女の荷物をまとめるのを手伝ってくれ」
「どういうことだよ。説明してくれよ叔父さん」
宮下が、突然の命令に文句を言った。
「ユリアには夜逃げをしてもらう。いや、もう朝逃げだな」
「説明になってないよ」
こんどは、あたしが文句を言った。
「詳しいことは、移動しながらユリアに聞いてくれ。とにかく時間がない。わたしは物証を持って警察へ行ってくる。大家さんには、引き続き留守番を頼みたいが、やってくれるかな?」
「棺桶に片足を突っ込みながらかね?」
「根に持つタイプだな。事件が解決したら、おもしろい物語が聞けるかもしれないよ」
「ふむ」
とたん、大家さんの瞳が輝いた気がした。本当に小林少年になりたかったのかも。
「まあ、なんじゃな。そう言うことなら、留守番くらいしてやるか」
「では、役割が決まったところで、それぞれの仕事に最善を尽くそう」
「はい」
あたしは、持っていたビニール袋を探偵さんに渡した。大切な物証だ。いよいよ本格的になってきた。一刻も早く、涼子を救い出さなきゃ!
018
ユリアさんの家は自由が丘だったから、あたしたちは新宿から山手線で渋谷へ出て、そこから東横線に乗り換えた。
「ちょっとした冒険だった」
電車の中で、ユリアさんは、昨日のことを話してくれた。
「昨日の晩、日付が変わるころに輝がクラブに来たの。薬を飲んだ店の客の様子があんまりひどいんで、マジで落ち込んでたのよね。矢部の命令とはいえ、あたしが飲ませた薬だからさ」
「そんなにひどかったんですか?」
宮下が眉をひそめながら聞いた。
「見てる方はね」
ユリアさんは肩をすくめた。
「でも、本人は気持ちいいんでしょ。ずっとヘラヘラ笑ってたから」
「いやだ」
あたしは、その様子を想像してしまった。
「そんな薬をなんで涼子のお兄さんの研究所が作ってるんだろ」
「それは、これから警察が調べるでしょ。とにかく、昨日の夜は本気でヤバイ状況だったんだ」
「ヤクザと薬に、涼子のお兄さんの研究所。それに涼子の失踪。これがやばくなかったら、なにがやばいんだって感じ」
「ホントね」
ユリアさんは、疲れたようにため息をついた。
「あたしも、わかってるつもりだったけど、けっきょく鈍感になってたんだね。こういうことに。昨日の晩、輝に言われたのよ。たったいま辞めろって」
「それで夜逃げか」
宮下がつぶやいた。
「それは違う」
ユリアさんが首をふった。
「いえ……まったく違うわけじゃないけど、これは輝の作戦でもあるのよ」
「作戦?」
あたしと宮下は、同時に首をかしげた。
「考えてみて」
ユリアさんは、あたしたちの様子に、ちょっと口元をゆるめてから続けた。
「輝は物証がほしかった。でも、クラブの事務所から、薬が数カプセルでもなくなったら、けっこう騒ぎになるわ」
「まさか!」
あたしは探偵さんの作戦がわかった気がした。
「ユリアさんが、薬を盗んだ犯人になるってこと?」
「ええ。簡単にいえば」
「それって、探偵さんに利用されてるってことじゃない」
あたしは、ちょっと興奮して言った。ホント探偵さんって、だれかのこと利用するのうまいよ。うますぎて、少し腹が立つ。
「美緒ちゃん」
ユリアさんが、意外そうな顔であたしを見た。
「たしかに、輝に利用されていると言えなくもないけど、それで、あなたがなんで怒るわけ? 美緒ちゃんこそ、友だちを助けたいんでしょ」
「そ、それはそうだけど……そのためにユリアさんに危険なことしてもらうのはおかしい気がする。だって、涼子も大切だけど、それはユリアさんだって同じだもん」
「へえ、輝が言ってたとおりね」
ユリアさん、まぶしそうに目を細めてあたしを見た。
「純一くんにしても、美緒ちゃんにしても、いまどきの子には珍しく、マジメすぎるくらいマジメだって言ってたよ」
「べつにうれしくないっスよ、マジメだって言われても」
宮下が、文字どおりおもしろくなさそうな顔で言った。
「そうでしょうね」
ユリアさんはうなずいた。
「あなたたちくらいの年齢だと、マジメじゃないことがカッコいいんだものね。あたしもそうだった。十代のころは、ホントにバカばっかやってて。気がついたら夜の世界でしか生きていけない大人になってたよ。もうちょっとマジメにやってれば、違う人生もあったはずなのに」
「いまからだって遅くないでしょ」
宮下が言った。
するとユリアさんは、宮下を見てほほ笑んだ。
「やっぱ甥っ子ね。血は争えない。それ、輝とおんなじセリフだよ」
「ちぇっ。先に言われてたか」
宮下は残念そうな顔をしたけど、心の中では逆のこと思ってるはず。探偵さんと同じセリフを言ってうれしいんだ。だんだん、宮下のことわかるようになってきたよ。べつにわかりたいわけじゃないけど。マジで。ホントに。こいつのことなんか、どーでもいいんだから。ホントだってば! 待ってよ。あたしだれに対してムキになってるんだろ。バカみたい。
「とにかく」
ユリアさんが続けた。
「輝の言うとおりなんだよ。新しい人生をはじめるなら、いましかないって思った。だから協力することにしたの」
「どういう計画なんですか?」
あたしは聞いた。
「簡単な計画よ。クラブの事務所から薬がなくなったら、矢部は大慌てよね。それで今夜、あたしが出勤しなかったら、あたしが犯人だと思われる。矢部は、あたしの部屋に飛んできて、家捜しするでしょう」
「それが狙いですね」
宮下が聞いた。
「そうよ。いま輝が警察に行って、事情を説明してる。あたしの部屋に矢部が侵入したところを捕まえてもらって、あとは警察お得意の余罪追及ってわけよ」
「なるほどね」
宮下がうなずいた。
「それにしても、よく薬を持ち出せましたね」
「あたし犯人じゃないんだよ。正確には共犯。実際に事務所の金庫を開けて盗んだのは輝だから」
「お、叔父さんが?」
宮下は、マジで驚いた声を出した。
「叔父さんが、事務所に忍び込んだって言うんですか? 昨日の晩に」
「そう。手引きしたのはあたし」
「そんなことしてたのか」
宮下はため息をついた。
「人には危険なことするなって言っといて、自分は泥棒のまねごとかよ。わが叔父ながら、呆れるって言うか、頭が痛いって言うか、困ったもんだ」
「あら、手際よかったよ」
ユリアさんはクスクス笑った。
「あれは絶対、過去になんかやってるね。手口がシロートじゃなかったもの。あたし金庫の番号まで知らなかったのに、輝は五分くらいで開けちゃった。少し驚いたわ」
「オレは驚かないぞ」
宮下は頭を抱えた。
「叔父さんが、むかしは銀行強盗だったって言われても、オレは驚かない」
「そう?」
あたしは宮下に首をかしげて見せた。
「あたしは詐欺師だって言われた方が驚かないな。いまも詐欺師みたいなもんだから」
「叔父さんに聞かせたいよ、そのセリフ」
宮下は、そう言って、またため息をついた。どうやら、甥っ子は甥っ子で、叔父さんのこと心配してるみたい。そりゃ、あたしだって探偵さんがヤクザに捕まったりしたら困るし、心配でもあるけど……たぶん、大丈夫だよ。そんな気がする。漠然とだけど。
019
ユリアさんの住まいは、おしゃれなデザイナーズマンションだった。十階建てで、ユリアさんの部屋は八階だった。けっこう高いけど、窓から見える風景は、あんまりよくなかった。だって、隣のマンションが見えるだけなんだもん。
「悪いけど、お茶は出さないわよ」
ユリアさんは髪を後ろに束ねながら言った。
「純一くんは、リビングのパソコンをお願い。美緒ちゃんは洗面台の化粧品をまとめておいて」
「はい」
あたしたちは、夜逃げの準備……じゃなくて、避難の準備を始めた。早ければ二、三日、遅くても一週間ぐらいで戻ってこれるって、探偵さんは言ってたそうだ。もし遅い方の一週間になったら、けっこう辛いよね。一週間も自宅へ戻れないなんて。
ん?
そういえば、ユリアさんの避難先を聞いてなかったっけ。どこへ行くんだろう。ホテルに泊まるのかな。もしかして、探偵さんの家なんて……まさかね。そんなことないよね。ないと思うけど、あるような気もしてきた。うーっ。気になる。気になり出したら、むちゃくちゃ気になる。
あたしは洗面台からリビングに戻った。ユリアさんはいなかった。ベッドルームで洋服をバッグに詰め込んでいるんだ。
「ねえ宮下」
あたしは、パソコンにつながったコードを抜いている宮下に近づいて、小声で聞いた。
「ユリアさんが、どこに避難するか聞いてる?」
「いや」
宮下も小声で答えた。
「オレも気になってたんだ。まさかとは思うけど……」
「探偵さんの家だったりして」
「うーん」
宮下はうなった。
「その可能性を捨てきれないんだよな」
「だよね。それ以前にさ、ユリアさんと探偵さんって、どーいう関係?」
「知らないって。叔父さんのプライベートは、ぜんぜん知らないって言っただろ」
「住んでる場所さえ知らないんだもんね」
「吉祥寺よ」
ユリアさんの声がして、あたしたちは、あわてて振り返った。
「輝の住んでるところ。甥っ子のくせに知らなかったのね」
「だって」
宮下はバツが悪そうに答えた。
「そういうこと、ぜんぜん話してくれないんだ。叔父さんは」
「あの、ユリアさん」
あたしは、そんな宮下を無視して言った。
「気になってたんですけど、このあとどこへ行くんですか?」
「輝のところだと思ったのね」
ユリアさんが笑った。
「ご希望に添えなくて悪いけど、ビジネスホテルよ。安心した?」
「ええ、ちょっと」
あたしは、そう答えてから、なんで安心したのか自分でもわからなかった。もしかして、ママが探偵さんと楽しそうに話をしていたから? えーっ、ちがうよ。探偵さんとママが親しくなるなんてあり得ない。ぜったいにダメ。ということは、ユリアさんと探偵さんが付き合ってくれた方がいいってことだよね。
「なに考えてんだよ」
宮下があたしの顔を怪訝そうに見た。変な顔してたかな?
「パソコンの方は終わったぜ。早く化粧品をもってこいよ」
「あ、うん」
あたしは、あわてて洗面台に戻った。
020
荷物を一通りそろえて、もちろん重いモノは宮下に全部もたせて、あたしたちはエレベーターに乗った。一階に着いてドアが開いたから、あたしはドアを開けておくボタンを押した。宮下が、軽くあたしに目配せして最初にエレベーターを降りた。
そのとたん!
なにかにはじき飛ばされたみたいに、宮下がケージの中に戻ってきた。続いて降りようとしていたユリアさんが、宮下の背中にドンと押されて、転びそうになったくらい。
「な、なによ」
と、あたしが言う間もなく、宮下が血の気の失せた顔で、エレベーターのドアを閉めるボタンを連打した。
ドアが閉まると、宮下は五階へ行くボタンを押しながら、震えた声を出した。
「矢部がいた。エントランスに入ってこようとしてた」
「う、うそ!」
とたん。あたしの顔からも、サーッと血の気が引いた。
「こんなこと嘘つくかよ」
「そんな……」
ユリアさんの顔からも血の気が失せていた。
「もうバレたって言うの? 矢部が事務所に出るのは午後からなのに。どうしよう」
「でもでも」
あたしもパニクった声を出した。
「なんで矢部はマンションに入ってこれるの? あの入り口って暗証番号打たなきゃ入れないじゃない」
「それは聞かないで」
ユリアさんが顔を伏せた。その一言で、いくら鈍感なあたしでも、すべてを悟った。矢部はもともとこのマンションに出入りしてたんだ。つまりユリアさんの部屋に。
「とにかく逃げよう」
宮下が緊迫した声で言った。
「非常階段から降りて外へ出るんだ」
「うん」
あたしは宮下にうなずいた。心臓のドキドキは、昨日の晩どころじゃなかった。
エレベーターが五階に着いた。宮下が開いたドアから顔だけ出して廊下を伺い、だれもいないのを確認してから外へ出た。
「こっちよ」
最後にエレベーターのケージを降りたユリアさんが、非常階段に走った。あたしたちもユリアさんの後に続く。
階段を駆け下りながら、宮下はケータイを取り出した。どこへ掛けるのかなんて聞くまでもない。探偵さんのとこに決まってる。
「くそっ!」
宮下がケータイのふたを乱暴に閉めた。
「出ない! 電波が届かないか電源が切れてるってさ!」
「なによ、肝心なときに! 探偵さんの役立たず!」
「ホントだよ! ケータイつながんなきゃ意味ねえジャン!」
今朝もさんざん電話してつながらなかったせいか、宮下は相当怒ってるみたい。そうでなくても、頭にくる。危険なことはさせないって言ったのだれよ!
あたしたちは一階まで降りた。ユリアさんは運動不足らしく、五階分の階段を一気に駆け下りて、けっこう辛そうだった。その点、あたしと宮下は、それほど息も荒れていなかった。こんなの短距離走に比べたら楽なモノよ。
宮下は、さっきエレベーターのドアから顔を出した時みたいに、一階の非常階段のドアをそっと開けて、エントランスを伺った。
「大丈夫だ。だれもいない」
宮下がそう言って、外へ出ようとしたとき。
「二人は先に行って」
ユリアさんが厳しい顔つきで言った。
あたしは一瞬、体がきつくて少し休みたいのかと思ったけど、そうじゃなかった。
「表に矢部の部下がいるかも知れない。あたしといたら、みんな捕まる。でも、あなたたち二人なら大丈夫。顔が知られてないから」
「あ……」
あたしと宮下は、顔を見合わせた。ユリアさんの言うとおりだ。
「で、でも、そしたらユリアさんはどうするの?」
「ケータイで教えて」
ユリアさんはバッグからケータイを出して、液晶に自分の番号を表示させた。
「この番号よ。覚えて。外に矢部の部下がいてもいなくても連絡して」
「もしいたら?」
宮下が聞いた。
「そのときは、自分で何とかする」
ユリアさんはグッと唇をかみしめた。
「そんなのダメだよ!」
あたしは、思わずユリアさんの手を握った。
「やっぱり、一緒に逃げよう。走って逃げればなんとかなるよ。ちょっと走れば繁華街なんだから、矢部の部下も追って来れないよ!」
「ダメよ」
ユリアさんが首をふった。
「そんなことしたら、あなたたちの顔がバレちゃう。いまはうまく逃げ切れても、あとあと厄介なことになるわ」
「でも……イヤだよ、あたし。ユリアさんを残していくなんて」
あたしは、懇願するように宮下を見た。お願い。ユリアさんも連れて行くって言って。
「ユリアさんの言うとおりだ」
宮下は、あたしの期待とは反対のことを言った。
「いまここで三人とも捕まったら、面倒が増えるだけだ。叔父さんの仕事が増えるのはいい気味だけど、七瀬の母親の悲しむ顔は見たくない」
「やめて、こんなときママのこと言わないで」
「七瀬、もし矢部の部下が外にいたら、急いで警官を呼ぼう。駅前に交番があったから、オレたちの足で走れば五分で行ける」
「お巡りさんになんて言うのよ。ヤクザがいますって言うつもり?」
「なんでもいいよ。うちのマンションの前に不審者がいるとか、女の人が暴行されてるとか」
「あ、そうか」
あたしはやっと落ち着きを取り戻した。
「そ、そうだね。その手は使えるかも」
「よし。じゃあ行こう」
「うん」
あたしがうなずいたとき。
「待って」
ユリアさんは、宮下が肩に担いでいる衣服の入った旅行鞄を取り上げた。
「これは置いて行きなさい。万が一のとき、大きな荷物を持ってたら走れないわ。あたしのケータイの番号は覚えてるでしょうね?」
「うん、それは大丈夫」
宮下がうなずいた。マジ? あたしはぜんぜん覚えてないよ。
「じゃあ早く行って。矢部が降りてくるかも。気をつけて」
「はい。ユリアさんも気をつけて」
宮下は、ユリアさんにうなずいてから、エントランスに出た。あたしも宮下の後に続いた。
「ねえ。ホントに大丈夫かな」
「わかんねえよ。でも、やるっきゃないだろ」
「そうだけど」
「七瀬。手をつなぐぞ」
「また、恋人の振り?」
「手をつなぐのがイヤなら、腕を組んでもいい」
「手でいいよ」
あたしは宮下の手を握った。人のことは言えないけど、宮下の手は汗で湿っていた。緊張の汗なのは間違いなかった。
021
マンションの外へ出ると、とくに変わった様子はなかった。矢部は一人で来たみたい。あたしはホッとした。
「宮下。早く中にいるユリアさんに電話して」
「まだだ。先の角を曲がるまで」
宮下の顔は、まだ緊張が解けていなかった。
「マンションの前には車が停められないだろ。停めてあるとしたら、その角を曲がった先だ」
「あ。うん、そうだね」
あたしも緊張が戻ってきた。つないだ宮下の手をギョッと握ると、宮下はあたしを見て軽くうなずいた。
角を曲がる。
路駐している車はあるけど、みんな小型車で、ヤクザが乗っている車って感じじゃなかった。それでもあたしたちは緊張を解かず、停まっている車の中を、それとなく探りながら通り過ぎた。どの車にも人は乗っていない。
「大丈夫そうだな」
宮下が少しホッとした声を出した。
「うん」
あたしもうなずいた。
「早く電話してあげて」
「ああ」
宮下がケータイ電話を取りだしたときだった。
「キャーッ!」
マンションの入り口の方からユリアさんの悲鳴が聞こえた。あたしと宮下は、一瞬顔を見合わせたあと、あわてて入り口の方へ戻った。
ちょうど、矢部に捕まったユリアさんが、むりやり外に出されるところだった。しかも、さっきはなかった黒塗りのベンツが止まってる!
「ちっ!」
宮下が舌打ちをしたのが聞こえた。
次の瞬間、宮下がユリアさんを助けにダッシュした。
あたしは、一瞬、頭が真っ白になったけど、すぐにハッとわれに返って、大声を出した。
「だれか! 助けて! だれかーっ!」
あたしが叫ぶ声で、通りがかりの人たちが振り返った。
「警察を呼んで! お願い!」
あたしはその人たちに叫ぶと、矢部とユリアさんの方へ駆け出した。ちょうど宮下が矢部につかみかかったとき、それを見たベンツの運転手が出てくるところだった。
「えい!」
あたしは持っていたバッグで、その運転手の頭を、思いっきり殴った。
「痛てえな!」
運転手はあたしを睨みつけた。
「なにすんだ、このクソガキ!」
こ、こわーい! まるでブルドッグみたいな顔!
「えい! えい!」
あたしは、バッグを振り回して、ヤクザを撃退しようとしたけど、三回目でバッグをつかまれた。
「や、やめねえか! バカ野郎!」
「バカはどっちよ!」
あたしはバッグを離して、こんどはヤクザにキックをお見舞いした。
「うっ」
ブルドッグ顔のヤクザは、その場にうずくまった。
やった!
男の急所って、ホントに急所なんだ! ノンちゃんのしか見たことないけど。そう。あたしはブルドッグの股間を蹴り上げたんだ。
「は、離せ小僧!」
その声で矢部の方を見ると、宮下が矢部と取っ組み合っていた。宮下も、そこそこ体格はいい方だけど、さすがにヤクザを相手にしたら分が悪いって感じ。でも、宮下に加勢している暇はない。
「ユリアさん!」
あたしは、地面にへたり込んでいるユリアさんの手を取って立たせた。
「行け!」
宮下が叫んだ。
「逃げろ! 早く!」
「う、うん!」
あたしがユリアさんの手を引っぱって走り出そうとしたとき。
「待って!」
ユリアさんは、あたしの手をふりほどいた。そしたら、落とした旅行鞄を拾い上げて、矢部の顔に押しつけた。
「やめて! この子たちに手を出さないで!」
「むぐっ」
矢部が一瞬ひるんだとき、宮下は矢部から離れて、あたしの手を取った。
「逃げるぞ!」
「うん!」
あたしたちは走った。ユリアさんは、ヒールの高いサンダルみたいなのを履いていたら、それを脱いで裸足で走った。
「待て! ユリア!」
矢部の怒鳴り声が聞こえた。
「助けて!」
あたしはまた叫んだ。
「だれか! 変質者に襲われる!」
駅前に向かって走っているから、人通りがすごく多くて、通りを行く人たちが、みんなあたしたちに注目した。なんだなんだって感じで見てる。中にはケータイで写真を撮ってる人もいた。
「くそっ!」
矢部が悪態をつく声が聞こえて、あたしは、後ろを振り返った。思った通り矢部は、走るのをやめていた。この往来では、これ以上追えないと悟ったみたい。目撃者が二、三十人はいるもんね!
「ユリア! このままですむと思うなよ!」
矢部が叫んだ。
「そのガキどももだ! 何者か知らねえが、顔は覚えたぜ。必ず見つけてやる!」
「それは、こっちのセリフだ」
宮下は、ケータイを出しながら言うと、矢部の悔しそうな顔を写メに撮った。カシャッっていうシャッターの擬音がケータイから鳴った。
「ちくしょう。覚えてやがれ!」
矢部は、そう言ってマンションの前に戻っていった。ホントに言うんだ、捨て台詞ってやつ。ママがたまに見てる時代劇の悪役しか言わないと思ってたけど。
「やった」
あたしは、腰が抜けるようにその場にへたり込んだ。
「逃げ切ったよ。あたしたち……」
「ああ」
宮下も、ホッと息を吐いた。
「寿命が縮んだ。叔父さんにバイト代の増額を要求する」
そのとき。
「ちょっと、あなたたち」
通りかかったオバサンが声を掛けてきた。
「大丈夫なの? 怪我はない? 救急車呼びましょうか?」
「あ!」
あたしは、オバサンの声でやるべきことを思い出した。腰を抜かしている場合じゃないわ。あたしは勢いよく立ち上がった。
「あの! みなさん! いまの男が暴行してるところの写真撮りましたか!」
あたしは、通りにいる人たちに叫んだ。
「もし写真撮ってたら、それ証拠ですから! あたしにください!」
ちょっと間があった。だれもいないのかしら? でも写真撮ってた人いたよ。走ってるとき見たもん。
「あの、ありますよ」
大学生風の男の人が、ケータイを持って、あたしたちに近づいてきた。
「ぼくのケータイ古いから、あんまり鮮明じゃないけど」
「ください」
あたしはケータイを出して、赤外線通信をオンにした。
それが合図だったみたい。
「オレも撮った」
「あたしも」
と、五人ぐらいの人が集まってきた。
「ありがとう! ありがとう!」
あたしは、みんなにお礼を言いながら、赤外線通信で、その写真を吸い出した。中には、あたしがブルドッグの股間に蹴りを入れている瞬間の、まさにナイスショットまであって、これはママには絶対に見せれないと思った。
「叔父さん」
宮下は、探偵さんに電話していた。
「やっとつながった。いままで、なにをしてたと思う? こんどばかりは、叔父さんも想像つかないと思うよ。オレは断固バイト代の増額を要求する。寿命が三年は縮んだからね。マジだって、ホント大変だったんだから。聞いたら腰抜かずぜ」
あたしは、探偵さんの驚く顔を想像して、クスッと笑った。
「ユリアさん」
ユリアさんは、まだ地面に座り込んでいた。
「大丈夫? あとで探偵さんに、うんと文句を言おうね」
「そうね」
ユリアさんは、やっと笑顔を浮かべた。
「あなたたち……とっても強いのね。あたし感心しちゃった」
「ううん」
あたしは首をふった。
「すごいのはユリアさんだよ。あたしたちを先に逃がしてくれたし、さっきだって宮下を見捨てなかった」
「え? そうだっけ? 必死だったから……よく覚えてない」
「火事場の馬鹿力ってヤツ?」
「そうかもね。なんだか体中の筋肉が痛いわ」
ユリアさんは、そう言って苦笑した。
022
ユリアさんのマンションの前には、だれかが呼んだお巡りさんが何人も集まっていた。だって、パトカーが三台も来ちゃったんだもん。ビックリ。こんな光景、テレビドラマでしか見たことないよ。今夜ニュースに出ちゃうかも!
とにかく、そんな感じで、お巡りさんから、いろいろ事情を聞かれているとき、屋根に赤いランプをのせた黒塗りの車がマンションの前に止まった。そのうしろに、ボロいステーションワゴンもついてきた。くすんだ黄色って言うか、濃いクリーム色って言うか、なんか微妙な色。
「ご苦労さん」
黒い車からは、いかにも刑事ですって感じの男の人が降りてきて、お巡りさんに声をかけていた。うしろのボロいワゴンからは、探偵さんが降りてきた。
「ユリア!」
探偵さんは、ユリアさんに駆け寄った。
「大丈夫か? 怪我は?」
「ええ、平気」
ユリアさんは、探偵さんに文句を言うどころか、心底ホッとしたように笑顔を浮かべた。もちろん、あたしは文句を言った。
「探偵さん。言うことあるでしょ、あたしたちに」
「話はあとだ。すぐ新宿に戻るぞ。おっと、その前に紹介しておこう」
探偵さんは、お巡りさんと話している刑事さんに声をかけた。
「ちょっといいか。甥っ子たちを紹介する」
「おう」
刑事さんは二人いた。一人はいかにも体育会系ですって感じのごつい人で、探偵さんに答えたのはその人だった。たぶん、探偵さんと同い年くらいかな。もう一人は、けっこう若い感じの刑事さん。
「純一と美緒だ。そして彼女がユリア」
探偵さんは、ごつい方の刑事さんに言った。
「話は聞いてる」
ごつい刑事さんは、宮下に右手を出した。
「新宿署の上田だ。高校生がやるべきことじゃないと説教したいところだが、お手柄だったな」
「あ、どうも」
宮下は、ごつい刑事さん……えっと上田さんか。と握手した。
「美緒くん、きみもよくやった。とくにあれだ、ヤクザの股間にストライクを入れた写真は傑作だったぜ」
上田さんは、そう言って、白い歯を見せて笑った。証拠で集めた写真は、探偵さんのケータイにメールで送ってあったんだ。例の写真もね。
「さあ、挨拶はこの辺でいいだろう」
探偵さんが言った。
「急いで新宿に戻ろう。まずは山田組の捜索だ」
「おいおい、探偵。それはオレのセリフだ」
上田さんは、苦笑を浮かべながら探偵さんに言った。
「こっからはオレたちに任せろ。言いたかないが、甥っ子たちが無事だったのは奇跡みたいなもんだぜ」
「ふん」
探偵さんは鼻を鳴らした。
「市民が襲われるまで重い腰を上げない公務員がよく言う。だいたい、こんな無駄話をしている暇があるのか?」
「わかった、わかった。赤灯を回すから、後についてこい」
「もちろんだ。ユリアたちも、わたしの車に」
探偵さんは、ボロいワゴンに向かった。
よく見ると、その車はボルボだった。あたし知ってる。ママの友だちが乗ってるから。スウェーデンの車だよね。ママの友だちのは、新しくてピカピカ。それに角が取れてカッコいいデザインなんだけど、探偵さんのは……うーん。なんだろ。角がカクカクしてて、まるで箱みたい。古いボルボって、こんな形なんだ。
ユリアさんが助手席に乗って、あたしと宮下は後ろの座席に乗った。
「すまなかった」
刑事さんの車についていきながら、探偵さんがユリアさんに言った。
「矢部に指一本触れさせないと約束したのに、本当にすまない」
「ううん」
ユリアさんは首をふった。
「午前中なら、絶対にバレないって言ったのはあたしだもの。輝は悪くないわ。それより、勇敢な助手くんたちのこと褒めてあげて」
「そうよ!」
あたしは声を張り上げた。
「なにか言うことあるわよね、探偵さん!」
「オレもある。バイト代の増額」
宮下も声を上げた。
「まるで、鬼の首を取ったようだな」
探偵さんはちらっと後ろを振り返った。
「仕方ない。正直に告白しよう。じつは、あの薬を見せただけでは、警察を動かすのは難しかった。成分の分析が終わるまで、山田組の捜索はできないと言われてね。上田刑事の口にカプセルを放り込んでやろうかと思ったが、おまえたちの活躍のおかげで、こうして迅速な行動に移ることが出来た。よくやった。お手柄だ」
「それで、バイト代は?」
「善処しよう」
「よっしゃ!」
宮下はガッツポーズを作った。
「あたしは? あたしのバイト代だって、ちゃんと増やしてよね」
「もちろん美緒の分もだ」
「やったね!」
あたしもガッツポーズ。
「よかったわね、二人とも」
ユリアさんは笑った。あたしたちを見てというより、ちょっと渋い顔をしている探偵さんの顔を見て笑っているみたいだった。
ああ、やっぱり気になるなあ。この二人って、どんな関係なんだろ。恋人には見えないけど……隠してるだけかな。どうしよう。恋人だったら、ちょっと困るな。だって、ママも探偵さんのこと気に入ってるみたいだし。
ん?
え?
なに?
待ってよ!
だから、違うって!
ママが探偵さんと付き合うなんてあり得ないって、さっきも思ったばっかじゃん!
ごめん、涼子。バカなこと考えちゃって。待っててね。いま助けに行くからね!
023
あたしたちの車は新宿に着いた。言うまでもなく、目的地は山田組の事務所が入っているビル。というか、このビルは山田組の自社ビルなんだって。自社ビルって言うのも変だけど、ホントに会社組織になっているらしい。
「す、すご……」
あたしは思わず絶句した。さっきユリアさんのマンションで、パトカーを三台見ただけですごいと思っていたのに、いま山田組の前に止まってるのは、パトカーが六台に、黒塗りの車が三台。ビルの前は交通規制まで敷かれてる! ひゃあ、すごい。それより、もっとすごいのは、ヤクザ顔負けって感じの顔の人たちが、大勢たむろしてること。あの人たちって、もしかして……
「組織犯罪対策部の刑事たちだ」
探偵さんが、あたしの疑問に答えるように言った。
「いわゆるマル暴って呼ばれる連中だよ。考えようによっては、本物のヤクザよりタチが悪い」
「ええ。友だちにはなりたくないわね」
ユリアさんが、探偵さんに苦笑した。そっか。ユリアさんは仕事柄、マル暴の刑事たちとは、いろいろあったんだろうな。
あたしが勝手に納得したとき。
上田さんが、ボルボの窓を叩いた。探偵さんは窓を下ろした。
「たったいま令状が取れた。探偵。おまえも来るか?」
「いいのか?」
「特別だ。証人として立ち会ってくれ」
「よろこんで」
探偵さんは、シートベルトを外して外へ出た。
「ユリア。純一たちも、車から出るなよ。流れ弾にでも当たったら困るからな」
「う、うん」
あたしはうなずいた。流れ弾だなんて、探偵さんは大げさに言ってるんだろうけど、この雰囲気に、すっかり圧倒されてるあたしは、上の空って感じだった。だって、ホントに映画でも見ているみたいなんだもん。妙に現実感がない。
と、思ったら……
外に出た探偵さんは、上着を脱いで、上田さんから渡された防弾チョッキを着込んだ。マジですか? ホントに撃たれるかもしれないの?
あたしは、背中に冷たい汗が流れてきた。さっき現実感がないと思ったけど、探偵さんが防弾チョッキを着ているところを見たら、急に現実に引き戻された。
「大丈夫かよ、叔父さん」
宮下も探偵さんを見て心配そうにつぶやいた。
あれ? でも待って。なんで民間人の探偵さんが中に入れるわけ?
「ねえ二人とも」
ユリアさんが、そんなあたしの疑問を察してか言った。
「輝がむかし警察官だったのは知ってる?」
「えっ!」
あたしは驚いた。
「うそ! 探偵さんが警察官?」
だって、もとは泥棒じゃないの? あれ? 銀行強盗だっけ? それは宮下が言ったんだ。そうだ。詐欺師だ、詐欺師。違う。それはあたしが言ったんだ。
ところが!
「ええ」
宮下がうなずいたのよ!
「子供のころ、制服を着た叔父さんを一度だけ見たことがあります」
「うそーっ!」
あたしは、またまた驚いた。
「探偵さんの制服姿なんて想像つかないよ」
「オレも、うっすら覚えてるだけだよ。たしか、オレが小学校に上がるころには、もう辞めてたはずだから」
「もう十一年も前だって」
ユリアさんが答えた。
「純一くんが五歳のころね。あたしも詳しくは知らないけど、本人が言うには、けっこう優秀な警官だったそうよ」
「どうだかねえ」
あたしは眉をひそめた。
「警官だったって言うのも怪しいのに。まだ信じられないよ」
「まあな」
宮下は肩をすくめた。
「でも、たぶん、本当に優秀だったんだと思う」
「ふーん。やっぱり叔父さんの肩を持つんだね」
「そりゃまあ、一応血がつながってるしな」
「純一くんが言う通りよ」
ユリアさんが言った。
「本当に優秀だったと思う。さっきの上田って刑事は、警官だったころの同僚じゃないかしら」
「あのごつい人?」
「ええ。たぶんね」
「なんで知ってるんですか?」
宮下がユリアさんに聞いた。
「叔父さんって、自分のことほとんど話さない人でしょ?」
「そうね」
ユリアさんは、苦笑いを浮かべながらうなずいた。
「去年の夏だったかな。珍しく輝が深酒をしてね。だいぶ酔っぱらって、むかしのことを少しだけ話してくれたのよ。警官だったころ、相棒と二人で、ずいぶん犯罪を検挙したそうよ。そのときの相棒が、自分とは正反対の、もろ体育会系の大男だって言ってたから」
「ふうん」
あたしは、上田さんの体格を思い出していた。スーツよりジャージが似合いそうな人なんだよね。顔はマル暴の刑事さんみたいに、ヤクザ顔じゃなかった……けど、目はすごく厳しい感じだった。あの目で、本気でにらまれたら怖いだろうな。
「そう言えばさ」
と、あたし。
「上田さんと探偵さんって、なんか友だちぽかったよね」
「ああ」
宮下も、思い出したように答えた。
「むかしなじみって感じのしゃべり方だったな」
なんて、話をしていると……
探偵さんと上田さんが、山田組の事務所から走って出てきた。
「ダメだ。ここにはいない」
探偵さんは運転席に座ると、シートベルトをする間もなく、エンジンを掛けた。
「ここにはいないって、矢部のこと? それとも涼子?」
あたしは聞いた。
「両方だ。これから矢部の自宅に行く。なにか手がかりがあることを祈ろう」
「涼子……」
あたしは文字通り、祈るみたいに手を胸の前で合わせた。探偵さんが言うとおり、手がかりがありますように……
と、思ったら! 手がかりどころの騒ぎじゃなかったの!
024
矢部の家は、六本木だった。高層マンション。探偵さんと上田さんは、マンションの前に車を止めると、すぐに飛び出していった。
「おまえは裏口を固めろ!」
上田さんは、部下の若い刑事さんに指示を出した。探偵さんは、そんなの知ったこっちゃないって感じで、勝手にマンションのエントランスに入っていった。ドアも壁も、みんなガラス張りだから、外からもエントランスがよく見える。
ん?
このマンションも暗証番号を打ち込むタイプのはずだけど、探偵さんはなんで入れたの? と、思ったら、管理人さんらしき人が出てきて、探偵さんにもお辞儀してる。そっか。刑事さんが事前に管理人さんに連絡しておいたんだね。
「また待ってるの?」
あたしは宮下に聞いた。探偵さんは、なにも言わずに飛び出して行っちゃったんだ。
「待つしかないだろ。オレたちが行ってなにができる?」
そういう宮下の顔にも、自分だって、待ってたくないと書いてあった。気持ちは同じなんだ。
まんじりともしない時間って、こんな感じなんだね。あたしたちは、だれも口を開かなかった。
何分経ったろう。五分? 十分? なんか一時間ぐらい待ってる感じ。
「宮下」
あたしは沈黙に耐えられなくなった。
「なんか言ってよ」
「なんかってなんだよ」
「わかんない」
「なんだよそれ」
「だって息が詰まる」
「深呼吸しろよ」
「宮下が二酸化炭素を出さなきゃいいんだよ」
「それ、死んじゃうだろ」
「エラ呼吸してみるとか」
「魚かよ」
「宮下が魚になったら不味そうだね」
「食べるのかよ」
「あたし魚を飼う趣味ないもん」
「水族館とか興味ないのかよ」
「あるよ。ママと行ったもん。葛西の水族館。マグロが美味しそうだった」
「だから、食べ物じゃないだろ」
「なんで? マグロ美味しいじゃん。嫌いなの?」
「いや、好きだけどさ」
「だったら、文句言わないでよ」
「おまえ変わってる」
「ふつうだよ」
「ちょっと二人とも」
ユリアさんが、こめかみをさすっていた。
「仲がいいのはわかったから、少し静かにしてくれない?」
「仲なんかよくないわよ」
「そうだよ。なんで、こんなのと仲良くしなきゃいけないんだ」
「こんなのとはなによ、こんなのとは」
「だから」
またユリアさんが、こめかみをさすった。
「口を閉じてればいいのよ。簡単でしょ、そんなこと」
「あ、うん。ごめん」
あたしは口をつぐんだ。
うーっ。でも、しゃべってないと、間が持たないよ。
涼子……無事でいてくれるかな。もし、なにかあったらどうしよう。
そのとき。
あたしは、エントランスにだれかが降りてくるのを見て、目をこらした。
「ちょっと!」
次の瞬間。あたしは飛び上がるほど驚いた。ううん。ホントに飛び上がっちゃって、車の屋根に頭をぶつけた。
「いたっ。ね、ねえ、見て見て! あれ、涼子じゃない!」
「えっ!」
宮下もビックリして、エントランスを凝視した。
「ホントだ。マジかよ」
「涼子だ!」
あたしはもう、なにも考えられなかった。車を飛び出してマンションの入り口に走った。後ろから、ユリアさんの気をつけてと叫ぶ声が聞こえた。
「涼子!」
あたしは、マンションの入り口から出てくる涼子を呼んだ。涼子に間違いなかった。よかった。無事だったんだ! やっと会えた!
ところが!
黒いバッグを抱えるように持っていた涼子は、あたしの顔を見て、まるで幽霊でも見たような驚いた顔をして、そのまま、六本木の駅の方へ走って行っちゃった!
「りょ、涼子! どうしたの!」
あたしはビックリして、一瞬立ち止まってしまった。でも、すぐ我に返って、涼子のことを追った。
「なんなんだよ!」
宮下も走ってきた。
「わかんない! わかんないよ!」
あたしは泣きたい気分だった。ずっと探していた涼子に、やっと会えたと思ったら、なんで逃げられちゃうの? あり得ないでしょ、こんなの!
025
「涼子! 待ってよ涼子!」
あたしと宮下は、涼子を追った。もともと、涼子はそんなに足が速くないし、バッグを胸に抱えてるから、追いつくのは難しくなかった。
「相沢!」
宮下の方が先に追いついて、涼子の腕をつかんだ。
「待てよ! なんで逃げるんだよ!」
「痛い! 離して!」
「理由を説明しろ」
「あんたなによ!」
「宮下だよ」
あたしも追いついて、宮下の隣に並んだ。
「同級生の。涼子の知ってるでしょ?」
「美緒……」
涼子は、あたしのことを悲しそうな顔で見た。
「なんで来たのよ。あたしのことはほっといて」
「ほっとけないよ!」
あたしは涼子に怒鳴ってしまった。
「二週間前、メールしてきたのは涼子じゃない! こんな危ないことして! やっと見つけたと思ったら、なんで逃げるのよ!」
「だから、ほっといてよ!」
涼子も怒鳴り返してきた。その声が悲痛な叫び声のように聞こえて、あたしは逆に落ち着きを取り戻した。
「涼子……なにがあったの? もしかして、脅されてるの?」
涼子は、あたしの問いにプイっと顔を背けた。
「そうなんだね。だったら大丈夫だよ。もう警察が動いてる。山田組の捜索もしてるし、矢部の自宅にだって、もうなにも怖がることないんだよ」
「わかってない」
涼子は首をふった。
「美緒はなんにもわかってないよ」
「だったら、わかるように説明してよ。みんな涼子の味方なんだから」
「お願い。あたしのことは忘れて。もう関わらないで」
「なに言ってるのよ!」
あたしは、また大きな声を出してしまった。
「みんな涼子のこと心配してるんだよ! なんで信用してくれないのよ!」
「頼んでないよ、あたし、そんなこと!」
「頼んだじゃない!」
「頼んでない! 離してよ!」
涼子は、宮下の手をふりほどこうともがいた。
「お、落ち着けよ、相沢」
宮下は、涼子が逃げないように、自分の方へ引き寄せようとした。
「七瀬の言う通りだ。おまえと、おまえの兄貴を救い出そうと、警官が何十人も動いてるんだ。それに変な薬まで出てきて、もう、おまえだけの問題じゃなくなってるんだよ」
「うるさい!」
涼子は、怒鳴ったあと、周りの通行人に向かって叫んだ。
「助けて! だれか助けて! こいつ頭おかしいよ! 助けて!」
「バ、バカ! やめろよ相沢!」
「やめて涼子!」
あたしも、涼子のことを押さえようとした。さっき矢部から逃げるときに使った手を、こんどは自分たちが使われるなんて、思ってもいなかった。もう、なにがなんだかわかんないけど、とにかく最悪。
そのとき。
「なにをやってるんだ!」
くたびれたスーツを着た髪の毛の薄いオッサンが、宮下の腕をつかんだ。
「やめろ! その子の腕を離しなさい!」
そのオッサンは、黒っぽいスーツを着た女性と一緒だった。あたしはその二人が補導員だと直感した。
「ち、違うんです!」
あたしは、あわてて叫んだ。
「この子は事件の被害者で、だれかに脅されてるみたいなんです!」
われながら、どーしようもない説明。この状況をみたら、あたしと宮下が脅している犯人そのものじゃない。
「なにを言ってるんだ。離しなさいと言ってるだろ!」
「だから、違うって言ってるでしょ!」
あたしは、宮下の腕をつかんでいるオッサンにつかみかかろうとした。
「やめなさい!」
こんどはスーツの女性が、あたしを捕まえた。すごい力。きっと私服の警官だ。
「もう! なんでわかってくれないのよ!」
あたしの叫び声もむなしく、涼子は宮下の手をすり抜けた。
「あっ!」
宮下は、逃げようとする涼子に腕を伸ばしたけど、オッサンの方がずっと上手で、宮下の腕を柔道の技みたいに、背中に回してひねりあげた。
「痛てててて!」
宮下が悲鳴に近い声を上げたとき。
「もう、あたしにかまわないで!」
涼子はあたしに叫ぶと、目の前にある地下鉄の階段を駆け下りて行った。
「痛てえ! 痛てえってば!」
宮下は、腕をひねりあげているオッサンに叫んだ。
「あんた、自分がなにしたのかわかってんのかよ! 重要な証人を逃がしちまったんだぞ!」
「うるさい。話は署で聞く」
オッサンがそう答えたとき。
「どうしたんだ!」
上田さんと、探偵さんが駆けてきた。
「探偵さん!」
あたしは叫んだ。
「涼子が逃げたの! いま地下鉄を降りて行った!」
「涼子?」
探偵さんは、一瞬怪訝な表情を浮かべたけれど、すぐに事態を察して、地下鉄の階段に猛ダッシュしていった。
「おい、あんた」
こんどは上田さんだ。胸のポケットから警察手帳を出した。
「わたしは新宿署の上田だ。その子を離してくれ」
「えっ!」
オッサンは、上田さんの警察手帳を見ると、反射的に宮下を離した。
「七瀬! オレたちも行こう!」
「うん!」
やっと解放された宮下とあたしは、地下鉄の階段を駆け下りた。もちろん、自動改札なんか強行突破。ちょうど探偵さんが、日比谷行きのホームに降りるのが見えたから、あたしと宮下は中目黒方面のホームへ降りた。ホームにいる人たちが、あたしたちの剣幕に驚いて道を空けた。
「クソッ!」
宮下が悪態をついた。
「いないぞ! どこ行ったんだ相沢のヤツ!」
そのとき、反対側のホームにいる探偵さんが、あたしたちに気づいて、大きな声をあげた。
「美緒! おまえは反対側の出口を調べろ!」
「あっ!」
あたしは、探偵さんに言われて、そういえば改札の反対側にべつの出口があるのを思い出した。
「一人で大丈夫か?」
宮下が心配そうな顔をあたしに向けた。
「大丈夫よ!」
あたしは、すぐ来た道を引き返して改札口に戻ると、またまた自動改札を強行突破して外へ出た。
「ちょっときみ!」
うしろで駅員さんが叫んだけど、そんなの気にしている場合じゃなかった。
改札の右側には、あたしたちが降りてきたのとは違う出口に続いていて、あたしはそっちに走った。考えてみれば、いえ、考えるまでもなく、さっきここで宮下と別れて、あたしは反対側の出口を探すべきだったんだ。ああ、あたしってバカ!
なんて、自己嫌悪してる場合じゃない!
あたしは、これまでの人生で、一番速いんじゃないかって言うぐらい、ホントに本気で猛ダッシュして、反対側の出口の階段を駆け上った。
歩道に出ると、すごく人がたくさんいて、見通しが悪かった。天気のいい日曜日の午後だから、六本木にどんどん人が集まってるみたい。
「涼子!」
あたしは叫んだ。たとえ近くにいても、答えてくれるわけないのに。
「涼子!」
もう一度叫んで歩道の人混みをかき分けながら走ったけど、涼子の姿は見えなかった。
026
さすがに疲れた……
あたしは肩で息をしながら、来た道を引き返して、地下鉄の改札口に降りた。そこには上田さんがいた。
「見失ったか?」
上田さんがあたしに聞いた。聞くまでもないじゃないそんなこと。って思ったから、あたしは、プイッと顔を背けた。
探偵さんと宮下もホームから戻ってきた。駅員さんが文句を言おうとしたけど、上田さんが警察手帳を見せたら、珍しい生き物でも見るような目であたしたちをジロジロ見てから、なにも言わず事務所の中に戻っていった。
それはそうと、探偵さんと宮下も疲れた顔をしていたから、聞くまでもなく、涼子を見失ったことが確定したみたい。
「ダメだったか」
上田さんが渋い顔で探偵さんに聞いた。あたしは、また心の中で、わかりきったこと聞かなくてもいいのにって思ったけど、探偵さんはちゃんと答えた。
「ご覧の通りだよ。日ごろの運動不足を確認しただけだった」
「しかしわからんな」
上田さんが、頭をかいた。
「なんで涼子が矢部のマンションにいたんだ」
「さあな」
探偵さんが肩をすくめたとき、あたしは言った。
「涼子はきっと矢部に脅されてるんだよ。そんな感じだったもん。お兄さんがどこかに監禁されてて、もし警察になにかしゃべったら、お兄さんの命が危ないとかさ」
「テレビドラマじゃあるまいし――」
探偵さんは、そこまで言うと、また肩をすくめた。
「と言いたいところだが、現時点で、われわれの持つ情報では、美緒の推理を否定することはできないな。肯定もできないが」
「絶対そうだよ。ねえ、それはそうと矢部はいなかったの?」
「もぬけの殻だった」
答えたのは上田さんだった。
「だが、インスタント食品の食べかすがゴミ箱に詰まっていた。だれかが生活していたのは間違いない」
「涼子だ」
「ああ」
上田さんはうなずいた。
「彼女が矢部のマンションから出てきたところを見ると、おそらくそうなんだろう。監禁されていたのか、自分の意志で留まっていたのかわからんが」
「ここで考えていても仕方ない」
探偵さんが言った。
「国立微生物研究所も捜査しよう。元は、あそこから出てきた薬だからな」
「おい待てよ。国の研究所だぞ。捜査するには手続きに時間がかかる。そんなこと説明しなくてもわかるだろ探偵」
「おまえの、お役人的言い訳は聞き飽きた」
探偵さんは、上田さんを無視して、地下鉄の出口に向かった。
「ったく」
上田さんは、やれやれと首をふった。
「あいつの偉そうな態度は、むかしっから、ちっとも変わってねえな」
「やっぱり、叔父さんと上田さんは、むかしの同僚なんですか?」
探偵さんの後を追いながら、宮下が聞いた。
「だれが言った? あいつがしゃべったのか?」
上田さんは、前を歩く探偵さんを指さした。
「いえ……」
宮下は、ちょっと考えてから正直に答えた。
「ユリアさんが、そうじゃないかって言ってただけです。だれも叔父さんのむかしのこと詳しく知らないんですよ」
「だろうな。あいつがしゃべるとは思えない」
「なんでですか?」
「さあな? ハードボイルドを気取ってるんだろうよ」
「うんうん」
宮下がうなずいた。
「それわかる。本人はあれでカッコいいつもりなんだよ」
「おい探偵」
上田さんは、前を歩く探偵さんに声をかけた。
「おまえの甥っ子は、よくわかってるみたいだぞ」
「うるさい」
探偵さんは、振り向かずに言った。
「さっきの質問に答えよう」
上田さんが続けた。
「オレと探偵は、たしかに警官時代の同僚だった。きみらの推理通りだな」
「あ、やっぱり」
と、あたし。
「ねえ、上田さん。探偵さんって、警官時代になにかあって辞めたんでしょ」
「これまた鋭い推理だな」
上田さんは笑った。
「まあ、それほどたいしたことじゃない。あいつの性格だから、組織に向いてなかったんだよ。何度も不正行為を繰り返す上司とやり合って辞めたんだ。あの日は、いま思い出しても傑作――」
「おい上田」
探偵さんが振り返って、上田さんの言葉をさえぎった。
「それ以上しゃべるなよ。おまえの過去もバラすぞ」
「過去ってなんだよ。人聞きの悪いこと言うな」
「おまえのミスをもみ消した」
「駐車違反を一回やっただけじゃないか」
「一回やれば十分だ」
「わかった、わかった」
上田さんは、降参とばかりに手を挙げた。
「まったく、むかしのことしつこく覚えてる野郎だぜ」
「おまえこそ、忘れろよ」
「なにを? おまえが上司をぶん殴ったことをか?」
「しゃべったな……」
探偵さんは、上田さんをにらんだ。
「おまえだって、オレの駐車違反をしゃべったぞ」
「しゃべったのは自分だろ。だいたい、駐車違反と上司への暴力行為では重みが違う。われながらバカげたことをした」
「あれ? 柄にもなく反省してるわけ?」
「してるに決まってるだろ。どんな理由があったにせよ、殴ったオレが全面的に悪い」
「若かったな」
上田さんが苦笑した。
「お互いに、若かったってことだよ。あのころはさ」
「まあな」
探偵さんは肩をすくめた。
なんだかんだいって、この二人は、いまも親友なんだろうな。あたしはそう思った。
027
あたしは、気持ちを切り替えることにした。とにかく涼子は無事だった。それがわかっただけでもいいじゃない。探偵さんがいうとおり、いまここで考えたって答えは出ないんだから。
地下鉄の駅から外へ出て、矢部のマンションに戻る途中、探偵さんはケータイ電話を出して、どこかに電話をかけ始めた。女性をかくまってほしいとか言ってるから、あたしは、探偵さんがどこに電話してるのかすっごく気になったけど、それより、さっきあたしたちを捕まえようとした補導員たちの方に気を取られた。だって、上田さんの同僚刑事たちと、なにか言い争いをしてるんだもん。
「だから」
と、オッサンの方。
「あの状況では、彼らの方が少女を一方的に責めているように見えて当然でしょう」
あたしは立ち止まった。やり過ごそうかと思ったけど、すっごいカチンと来たんだもん。オッサンの言い方!
「それって、ひどいじゃないですか!」
気づいたら、あたしは声を荒げていた。
「そりゃ、あたしも説明が下手だったのは認めるけど、それでも誤解を解こうと説明はしましたよ!」
「あんな説明で、わかるわけないでしょ」
こんどは女性の方が言った。この人にもカチンと来た! もう血圧上がりまくりだよ!
「だったら聞きますけど!」
あたしは、女性の補導員をにらみつけた。
「涼子が一方的に責められているって確証が、あのときあったんですか!」
「いえ、だから、あの状況では、そう見えて当然だったって話をしているところよ」
「当然ってなによ、当然って! そんなあやふやな感覚で人の善悪を決めないでよ!」
「……」
女性が言葉に詰まったから、あたしは続けた。
「あの状況だったら、どっちが悪いかなんてわかんないじゃない。あたしは説明しようとしたのに、それを無視しておいて、当然なんていわないで」
「無視なんかしてないぞ。署で説明を聞くと言ったんだ」
こんどはオッサン。
「涼子からも?」
あたしは、このオッサンに向き直った。
「涼子からも聞くつもりだったんでしょうね? なのに、なんで涼子は逃がして、あたしたちは捕まえようとしたの?」
「それは、きみたちが抵抗したからだ」
「あなたたちは、二人いるじゃない!」
絶対に非を認めようとしないオッサンに、あたしはマジで切れた。
「なのに涼子を逃がした! あの子、いますごい問題を抱えていて、一刻も早く助けてあげなくちゃいけないのに、あなたたちのせいで、涼子はもっとやばいことになるかも知れないんだよ!」
「もういいよ」
宮下が、あたしの腕をつかんだ。
「だって! 宮下だって頭に来てるでしょ!」
「七瀬が言いたいこと全部言ってくれたから、スッキリした」
「あたしにだけ言わせないでよ」
「話に割り込む隙がなかった」
宮下はそう言って苦笑したあと、まじめな顔になった。
「でもさ、すんだことを悔やむより、これから先どうするかに知恵と神経を集中させようぜ」
「そりゃそうだけど……」
「行こう。置いていかれる」
宮下は、先を歩いている探偵さんを見た。
「あ、うん」
あたしは、補導員たちに、ベーッと舌を出してから探偵さんを追いかけた。
「美緒の言う通りだ」
探偵さんが、追いついたあたしに言った。
「あの補導員たちは、涼子も含めて、三人とも補導するべきだった」
「でしょ、でしょ!」
あたしは勢いづいた。
「探偵さんと上田さんも、あのオッサンに言ってやってよ!」
「報告書には書くよ」
上田さんが答えた。
「いまはそれで気を静めてくれ」
「あ、うん。わかりました」
あたしは、ふうと息を吐いた。探偵さんと上田さんに認めてもらって、少し落ち着いた。
矢部のマンションまで戻ると、また警官がたくさん集まってきていた。どこから来るのか知らないけど、いつも集まるのが遅いよ。
「輝」
ユリアさんが、車の外で心配そうな表情を浮かべていた。
「美緒ちゃんの友だち、見つからなかったのね」
「ああ」
「そう……残念」
「それよりユリア。きみを安全なところへ連れて行く」
「ホテルじゃなくて?」
「ホテルはキャンセルだ。矢部が捕まっていない以上、もっと安全な場所を用意した」
「いつ?」
「たったいまだ」
「遠いところ?」
「そうでもない。車に乗ってくれ。純一たちもだ」
「はい」
ユリアさんが助手席に乗ったので、あたしも後ろのドアを開けた。
そのとき。
「おい探偵」
と上田さん。
「国立微生物研究所に行くんじゃないのか?」
「捜査できるのか?」
「令状とって家宅捜査するわけにはいかんが、通常の捜査の延長として、関係者から話を聞く」
「わかった。あとで合流する」
「あとって、いつだ?」
「国立微生物研究所は三鷹だったな」
「ああ」
「じゃあ、一時間後に研究所の前で」
「おまえな。こっちのスケジュールを勝手に決めるなよ」
「では聞くが、ユリアを警察が保護してくれるのか?」
「もちろんだ。証人として保護する」
「いつ?」
「それは検察とも相談して……くそっ、わかってるよ。そんな暇はないって言うんだろ」
「わかってるなら聞くな。で、だれがだれのスケジュールを勝手に決めてるって?」
「わかった、わかった」
上田さんは、また降参って感じで手を挙げた。
「おまえには負けるよ。一時間後だぞ。一分でも遅れたら待たないからな」
「いいだろう」
探偵さんが車に乗ったので、あたしと宮下も後部座席に収まって、ドアを閉めた。
028
探偵さんが向かった先は吉祥寺だった。あたし、吉祥寺はちょっと詳しい。あたしの学校の女子の間では、渋谷が好きな子と、吉祥寺が好きな子って、わりとハッキリわかれてるんだよね。あたしは吉祥寺の方が好き。ママが中野の生まれで、若いころから吉祥寺が好きだってのもあるんだけどね。映画とか買い物とか、ママと出かけるときは、吉祥寺が多かったんだ。だから、高校生になって、一人で買い物に行ったり、友だちとつるんだりするようになっても、あたしは吉祥寺に行くことが多いんだ。
探偵さんは、築二十年ぐらいのマンションの前に車を止めた。うちのマンションと同じくらいかな。でも、ここは駅から近くて便利そう。駅から近いっていいよね。ちょっとうらやましい。
「ここだ」
探偵さんはシートベルトを外した。
「見た目は悪いが、下手なホテルより快適かも知れないよ」
「ここってもしかして……」
あたしはイヤな予感がした。
「もしかして、もしかすると、探偵さんのマンション?」
「正確には、わたしの部屋もあるマンションだ。わたしは、ここのオーナーではない」
「そんなことわかってるってば」
いちいち、人の揚げ足とるんだから。やっぱ性格悪いよ、探偵さん。
「行くぞ」
探偵さんは車を降りて、荷台からユリアさんのバッグを出した。
「叔父さん」
例によって、宮下が一番大きなバッグを抱えながら言った。
「ユリアさんに変なことするなよ」
「おまえまでなんだよ」
探偵さんは苦笑を浮かべながら、マンションの中に入った。
あたしも、その後についていきながら、ユリアさんに小声で聞いた。
「ねえユリアさん。ここ探偵さんのマンションだって知ってた?」
「いいえ」
ユリアさんは首をふったあと、クスッと笑った。
「それって微妙な質問ね。聞きたいことは、別のことなんじゃないの?」
ギクッ。み、見透かされてるよ……
「やっぱりね」
あたしの顔を見て、ユリアさんは、またクスッと笑った。そして、あたしにだけ聞こえるように、小さな声で言った。
「輝とは、美緒ちゃんが期待しているような関係になったことはないわ」
「べ、べつに期待してるわけじゃないですよ」
あたしも、すごく小さな声で言った。
「でも、そういうことなら気をつけてね。変なことされそうになったら、110番しちゃいなよ」
「なにもされないわよ」
ユリアさんは、軽く肩をすくめた。
そのとき、探偵さんが呼んだエレベーターが降りてきて、ドアが開いたから、あたしとユリアさんの会話も終わった。
探偵さんは、六階のボタンを押した。
「当面は、ここから出られない」
探偵さんは、マジメな顔でユリアさんに言った。
「必要なモノがあったら言ってくれ。あとで買ってこよう」
「ありがと」
ユリアさんは、ニコッと笑顔を浮かべた。
「長い一日だ」
宮下がポツリと言った。
「まだ昼の二時なのに、もう二、三日たったような気分だよ」
「そうだな」
探偵さんも、ふうって感じで息をついた。さすがに疲れてるみたい。そう言えば探偵さんとユリアさんは、昨日の夜は一睡もしてないんだっけ。
エレベーターが六階についてドアが開いた。外観と同様、うち廊下も、どこにでもありそうなマンション。探偵さんは、エレベーターから一番近い部屋のドアを開け……なかった。インターフォンを押したのよ!
あたしは、ちょっと驚いて、ドアの横の表札を見たら、草薙って書いてあった。
え?
なに?
こないだ、裸になっちゃったタレントと同じ名前ジャン。
宮下も、同じことを考えたみたいで、あたしと顔を見合わせた。でも、ユリアさんはべつに驚いている様子はなかった。
ドアが開いた。
「はい、いらっしゃい。待ってたぞ」
中から出てきたのはおジイさんだった。その人を見て、あたしは、またまた驚いた。
「大家さん!」
そう。その人は、探偵さんの事務所の大家さんだったのよ!
「なんで、大家さんがここにいるのよ! 事務所で留守番してるはずでしょ!」
「うはは」
大家さんは笑った。
「聞いてたとおり、元気な娘さんじゃのう。さあさあ、お入んなさい」
あたしと宮下は、また顔を見合わせた。二人してバカみたいに、口をポカンと開けながら。なんなのいったい? これって、どーいうこと?
029
「紹介しよう」
部屋の中に入ってから、探偵さんが言った。
「草薙さんは、このマンションのオーナーで、わたしの事務所のビルの大家さんとは双子の兄弟だ」
「えーっ!」
あたしと宮下は仰天した。
「大家さんって、二人いたんだ!」
「こりゃ」
と、ここの大家さんが、あたしに言った。
「二人じゃないわい。いくら双子でも別人じゃからな。ちなみに、わしが兄であっちが弟。そこんとこ、よろしく」
「よ、よろしくって言われても……」
「はいはい、みなさん。立ってないで、お座んなさい」
こんどは、おばあちゃんの声が聞こえた。台所から、お茶を持って出てきたのは、髪の毛が紫色のおばあちゃんだった。
「こちらが奥さんだ」
探偵さんは、そう言ってから、おばあちゃんに軽く頭を下げた。
「すいません、急なお願いでご迷惑をお掛けします」
「いいのよ」
おばあちゃん……じゃなくて奥さんは、お茶の乗ったお盆を、ソファテーブルに置きながら答えた。
「あんたには、うちの主人も世話になってますからね。少しでも協力できることがあって、よかったわ」
「そう言っていただけると助かります」
探偵さんは、奥さんにまた軽く頭を下げてからユリアさんに言った。
「ここに、しばらくかくまってもらう。ご覧の通り、気さくな人たちだ。あまり気を遣わずにすむと思う」
「ええ」
ユリアさんは、おジイさんとおばあさんに頭を下げた。
「ユリアです。お世話になります」
「うはは」
大家さんが笑った。
「まあ、堅苦しいことは抜きにしてな、一ヶ月でも二ヶ月でも、好きなだけいるといい」
「そうですよ」
奥さんも笑顔を浮かべた。
「部屋も余っててね。おジイさんと二人では、ここは広すぎるのよ。ユリアさんが来てくれて、ちょうどいいくらいだわ」
「さて」
と、探偵さんが腕時計を見た。いま気がついたけど、カシオのGショックだ。
「わたしはこれで失礼します。警察の捜査に合流しなければならない」
「あたしも行く!」
「オレも!」
あたしと宮下は、ソファに座りかけた腰を上げた。
「ダメだ」
あたしと宮下の提案は、すぐ却下された。
「こんどの捜査には連れて行けない。おまえたちも、ここで休ませてもらえ」
「疲れてない!」
「オレだって、体力有り余ってるぜ」
「そういう問題じゃない。研究所の捜査に、高校生を連れて行けるわけがないだろう」
「ちぇっ」
あたしは舌打ちをした。
「気持ちはわかるが、おまえたちも、もう矢部に顔を知られたんだ。うかつに外へ出るんじゃないぞ。おまえたちの行動が、ユリアや草薙さんたちにも危険を及ぼす。そのことを肝に銘じておけ」
「そ、そっか……」
あたしは、探偵さんに言われて、ことの重大さにやっと気づいた。あたしと宮下だって、もう安全じゃなかったんだ。
「夕方には戻る」
探偵さんは、そう言って部屋を出て行った。
「あーあ」
あたしは、ソファに腰を下ろした。
「とうとう仲間はずれにされちゃった」
「大丈夫よ」
ユリアさんが言った。
「これからも、ちゃんと経過を報告してくれるだろうし、あなたたちのことアシスタントとして頼りにもしてると思うわ」
「そうかなあ」
あたしは、ちょっと首をかしげてから、そーいえば、ユリアさんって、さっきから落ち着いてるなと思った。
「ねえユリアさん。大家さんのこと知ってたの?」
「いいえ」
ユリアさんは首をふった。
「双子だったのには驚いたわ」
「そーじゃなくて、この部屋のこと」
「それも知らなかったけど、まあ、輝の部屋ではないだろうとは思ってた。たまたま空き部屋があるとか、そんなオチかなって」
「ユリアさんは、予想してたってわけだ」
宮下もソファに腰を下ろした。
「叔父さんのことだから、てっきり、この機に乗じてって思ったのにな」
「わかってないわね純一くん」
ユリアさんは苦笑した。
「人の弱みにつけ込むようなことしないわよ。あなたの叔父さんは」
「そっか」
宮下は、納得したようにうなずいた。
「そうだよな。うん。だんだんわかってきたぞ、叔父さんの行動原理」
「べつに、わかりたくもないけど」
あたしは、宮下に答えてから、大きなあくびをした。
「やだ……落ち着いたら、なんか眠くなって来ちゃった」
「オレも」
宮下も大きなあくびをした。
「疲れたんでしょ。どっこらしょ」
奥さんがそう言って立ち上がった。
「和室にお布団敷いてあげるから、少し横になりなさい」
「え、いいですよ。そんな」
って、あたしは答えたけど、また大きなあくびが出ちゃった。
「遠慮しなくていいから」
奥さんは笑った。
「ユリアさんもね。奥の部屋を使ってちょうだい。ベッドがあるから、あなたも横になるといいわ」
「ありがとう。そうさせてもらいます」
ユリアさんは立ち上がった。
「ほら、あんた。荷物もって上げて」
「おう」
大家さんは、奥さんに言われて、ユリアさんの一番大きなバッグを持った。
「すいません」
ユリアさんは、大家さんに頭を下げた。
あたしは、その様子を見ながら、本格的に眠気が襲ってきた。いままでピンと張ってた糸が切れちゃったみたい。
だって……
ここはなんだか……
暖かくて、気持ちいいから……
030
目が覚めた。
あたしはソファの上で寝てしまっていた。よっぽど疲れてたみたい。体は大丈夫なんだけど、精神的にね。だって、今日は朝から生まれて初めての経験ばかりだもん。
それはそうと、なんか美味しそうなにおいがする。あたしは体を起こした。薄い毛布が掛けられてて、それがソファの下に落ちた。
あたしは毛布をたたんでソファの上に戻すと、台所に行ってみた。ホントに美味しそうなにおいなんだよ。なんだろ煮物かな?
「あら、起きた?」
ユリアさんだった。あたしはちょっと驚いた。
「ユ、ユリアさん、なにしてるの?」
「なにって、夕飯の支度よ」
ユリアさんは、奥さんと一緒に台所に立って、夕飯の準備をしてるのよ。それは見ればわかるけど、なんとなくユリアさんと台所ってイメージが結びつかなくて、あたしはポカンと口を開けたままだった。
「なんて顔してるのよ」
ユリアさんが笑った。
「しばらく厄介になるんだから、このくらいお手伝いしないとね」
「助かっちゃうわ」
奥さんが言った。
「最近の若い子は、料理なんてできないと思ってたのに、ユリアさんは、料理が得意なのねえ」
「これでも一人暮らしが長いですから」
ユリアさんはそう言って、また笑った。
「腹減った」
って、声が後ろからして、あたしは振り返った。宮下だった。こいつも寝てたみたい。髪に寝癖がついてる。
「宮下。どこで寝てたのよ」
「となりの和室だよ。すげえ、いいにおいがして目が覚めた。そう言えば、今日は昼飯食ってないよな」
「うん」
あたしが宮下にうなずいたら、奥さんが言った。
「二人ともお腹空いたでしょ。今日はうちで夕飯食べて行きなさい。たくさん作ったからね」
「やった、ラッキー」
宮下は無邪気に喜んだ。まったく脳天気なんだから。なんてね。じつは、あたしもちょっとうれしい。だって、お腹空いてるんだもん。
あれ?
「そう言えば、いま何時?」
あたしは宮下に聞いた。
「もうじき五時だよ。三時間近く爆睡しちまった」
「げっ。あたしママに電話しとこ」
あたしはケータイを取りにリビングに戻った。今日は動きやすいように、斜め掛けできるバッグを持って来たんだ。
ピンク色で、折りたたみ式のケータイを取り出して、あたしはママに電話した。でも出なかった。今日は探偵さんの手伝いをしてるの知ってるから、どーせ、あたしの帰りが遅くなると思って、のんきに映画でも見に行ったのかも知れないな。あたしはそう思って、ママにメールを打っておいた。
『ママ。涼子の無事がわかりました。まだ助けられないけど、探偵さんと刑事さんが捜査してます。それと、今日はご飯食べて帰ります。少し遅くなるかも知れないけど心配しないでね』
「これでよしっと」
あたしがメールを打ち終わったとき。
「おーい! いま帰ったぞ!」
大家さんが帰ってきた。あたしは、送信ボタンを押してメールを送ると、ケータイを閉じて、手に持ったまま玄関に行った。
「うわっ! な、なになに?」
ここでもサプライズ! 大家さんは一人じゃなかったのよ!
大家さんは、自分と同じようなお爺ちゃんたちを三人も連れて入ってきたの。
「おーっ、この子が美緒ちゃんかね。草薙が言うとおり、頭のよさそうな子じゃな」
おジイさんの一人があたしを見て言った。すると、ほかのおジイさんたちも、そうじゃなとか、わしの孫にしたいとか、ワイワイガヤガヤ言い始めた。
「な、なんだこりゃ? なにごとだよ」
宮下も玄関に来て、その光景にビックリした。
そしたら、またおジイさんたちの会話に花が咲いた。
「おーっ、この小僧が、探偵の甥っ子か。探偵に似て、生意気そうな顔しとるな」
「こんなのは孫にいらん」
「そうか? 一家に一台いたら便利そうじゃぞ」
「ふむ。言われてみれば、そうかもしれんな」
あたしと宮下は、爺ちゃんパワーに圧倒された。宮下なんか、小僧とか一台とか言われてるし。
「ちょっと、おジイさん!」
奥さんが出てきた。
「なに騒いでるの。美緒ちゃんたちがビックリしてるじゃない」
「すまん、すまん」
大家さんは、すっかり禿げ上がった頭をなでると、あたしたちに説明した。
「こいつらは、西新宿商店街の役員たちじゃよ。話をしたら、美緒ちゃんたちに会いたいと言いはじめてな。まあ、ボディガードは多い方がよかろうと思って連れてきたってわけじゃ。ちなみに、右から佐藤、鈴木、高橋じゃ」
「は、はあ。そーですか」
あたしと宮下は、またポカンと口を開けた。覚えやすいけど、忘れるのも早そうな名前ばっかり。
「ずいぶん、にぎやかね」
ユリアさんも出てきた。
「おーっ」
と、おジイさんたちの会話に花が咲いたのは言うまでもない。
「こりゃまた、話に聞いておったとおり、美人じゃなぁ」
「うむ。孫の嫁にほしい」
「おまえの孫の嫁? バカ言うなもったいない」
「探偵の嫁よりいいじゃろ」
「そりゃそうじゃ。探偵にはもったいなさすぎじゃ」
「あのォ」
ユリアさんは、困った顔で言った。
「勘違いされているようですけど、あたしと輝は、そういう関係じゃありませんから」
「そうかそうか。だったら、うちの孫の嫁にどうかね?」
「どうかねって言われても……どうでしょうね?」
ユリアさんは、苦笑いを浮かべた。
「それにしてもなあ」
おジイさんの一人が、あたしの頭をなでた。
「こんな若いのに、友だちを助けるためにヤクザと戦うなんてなあ。ホントに大したもんじゃ。本気でうちの孫にならんかね?」
「こりゃ」
と大家さん。
「なんじゃね。頭なんかなでて。子供扱いしちゃ美緒ちゃんに失礼じゃろ」
「うはは。そう怒りなさんな。なで心地がいい頭じゃぞ」
「なに? そんな頭ってあるのかね? どれ、わしも」
大家さんも、あたしの頭に手を伸ばした。
「ほほう。こりゃ頭蓋骨の形がいいんじゃな。中身がよく詰まってる証拠じゃ」
中身ってなによ~。スイカじゃないよ、あたしの頭は。
そしたら、わしも、わしもって、あたしはおジイさんたち全員に頭をなでられた。まるで犬だよ、あたしってばさ。
「まったく、しょうがない人たちだねえ」
奥さんがため息をついた。
「あんたたちの夕飯はありませんからね。どっかでお弁当でも買ってらっしゃい」
「夕飯なんかいらんよ」
大家さんが答えた。
「こいつらは、塩と酒があればいいんじゃ」
「よけい悪いわよ」
奥さんがまたため息をついた。
あたしも、この人たちがボディガードになるのかすごく疑問だ。
なんて思ったときだった。手の中でブルブルとケータイのバイブレーターが振動した。ママが掛けてきたのかと思ったら……
「りょ、涼子! 涼子からだよ!」
あたしは、ケータイの液晶に表示される名前を見て、本当にビックリしちゃって、目をまん丸にしながら、宮下にもケータイの表示を見せた。
「ま、マジかよ!」
宮下も目を見開いた。
「ああもう! なんで今日はこんなサプライズばっかりなの!」
「オレに言うなってば」
「出るよ」
あたしは、唾をゴクリと飲み込んで宮下に聞いた。
「ああ」
宮下がうなずくのを待って、あたしはゆっくりケータイを開いた。
031
「涼子? 涼子なの?」
あたしは、努めて優しい声で聞いた。宮下はもちろん、おジイさんたちも、息を潜めてその様子をうかがっていた。
『美緒……』
か細い声が聞こえた。
『あたし……ごめんね、ごめんね、ごめんね』
「いいのよ」
あたしはホッと息を吐いた。さっき逃げたことを謝ってると思ったから。よかった。いつもの涼子だ。
「あたしこそ怒鳴ったりしてごめん。涼子には事情があるはずだけど、それがわからないから、つい声を大きくしちゃった」
『あのね美緒……お願いがあるんだ』
「いいよ。なんでも言って」
『あのね、あのね……』
涼子の声から、すっごい葛藤が伝わってきた。悩んでる。
『ごめん! やっぱりいい! 忘れて!』
涼子はそう叫んで、ケータイを切った。
「りょ、涼子!」
あたしは彼女の名前を呼んでから、すぐに涼子のケータイに掛け直そうとした。
「待て!」
あたしの手を宮下が握った。
「相沢が電話を切ったのか?」
「うん! すっごく悩んでる声だった! 早く助けてあげなくちゃ!」
「まだ掛けるな」
「なんでよ!」
「叔父さんに連絡する。警察に相沢のケータイの位置を探ってもらおう」
「あっ、そうか!」
あたしは、宮下の機転に感心した。
すると。
「おーっ、さすが探偵の甥っ子じゃな」
「うむ。なかなか頭がいい」
「いやあ、まるでテレビドラマを見てるようじゃなあ」
って、おジイさんたちが、またガヤガヤ言い始めた。宮下は、おジイさんたちを無視して、自分のケータイを取り出した。
そのとき! またあたしのケータイが鳴ったの!
「涼子だ!」
あたしは、着信ボタンを押した。
「もしもし? 涼子? お願い切らないで」
『美緒』
涼子の声は泣きそうだった。
『五時半に渋谷に来て』
「渋谷のどこ?」
『また電話する』
涼子はケータイを切った。あたしは涼子の声に違和感を感じていた。だれかにむりやり言わされているような、そんな気がする。
「渋谷?」
宮下が、あたしの顔を見た。
「渋谷がどうしたって?」
「五時半に来るように言われた」
「マジかよ」
宮下は腕時計を見た。あ、いま気がついたけど、探偵さんと同じGショックだ。
「あと二十分ちょっとじゃないか。渋谷のどこだって?」
「言わなかった。また電話するって」
「なんだよそれ。イヤな感じだな。矢部の罠ぽい」
「あたしもそう思う。涼子の声が、なんか言わされてるぽかった」
「だとしたら、たぶんケータイの電源を切ってる。掛け直してみろよ」
「うん」
あたしは、言われたとおり涼子のケータイをコールした。宮下の推理通り、電波の届かない場所か、電源が切れているとアナウンスされた。
「切れてる」
「やっぱな。位置を探られたくないんだ」
「どうする? どうしたらいい?」
「叔父さんの指示を仰ごう」
宮下は探偵さんに電話した。でも次の瞬間、宮下はすごい怒った顔になった。
「チクショウ!」
宮下は、自分のケータイを床にたたきつけそうになったけど、さすがに思いとどまった。
「また出ない。ダメだあの人は。ホントに肝心なときに役に立たない」
「ねえ、どうするのよ?」
あたしは泣きそうになってきた。
「どうするって言われても……オレだってわかんねえよ」
宮下は歯ぎしりをした。
そのとき。
「行くしかないじゃろ」
答えたのは大家さんだった。
「たとえ罠でも、それが美緒ちゃんの友だちとの接点なんじゃ。うまくすれば、救出できるかも知れん」
とたん! 商店街のおジイさんたちの顔つきが変わったの!
「うむ。草薙、おまえいいこと言うじゃないか。いっちょやるかね」
「少年探偵団ならぬ、壮年探偵団じゃな」
「もう晩年じゃろ?」
「なにを言う。まだバリバリ現役なんじゃから、壮年でいいんじゃ」
「うむ。草薙はいいことを言う」
「うははーっ。いよいよアクションシーンじゃな。腕がなるわい」
「無理しなさんな。またギックリ腰になるぞ」
「なにを言う。わしやこう見えて空手三段じゃぞ」
「いつの話じゃ?」
「かれこれ四十年前じゃな」
「それ意味ないじゃろ」
「おまえのガス溶接の免許よりマシじゃ」
「ストップ、ストップ!」
宮下が、おジイさんたちのおしゃべりを止めた。
「冗談じゃなく、本当に行ってくれるんですか?」
「冗談なんか言わんよ」
大家さんはマジメな顔で答えると、隣のおジイさん――えっと佐藤さん?――を指差した。
「冗談は、こいつの顔だけで十分じゃからな」
「おまえな。人の顔のこと言えるかバカタレ」
「ストップ!」
宮下が、またおしゃべりを止めた。
「冗談でなければ、すぐに行きましょう。時間がない。とにかくぼくらは渋谷に移動して、その間にユリアさんに、叔父さんに連絡を取り続けてもらって、指示を待ちます」
「うん!」
あたしは、大きくうなずいた。
「それ賛成! とにかく行かなきゃ!」
「待って、待って!」
ユリアさんが、あたしの腕を取った。
「ダメよ二人とも! ここから出ちゃいけないって言われてるでしょ!」
「そうですよ」
奥さんも、厳しい顔をしていた。
「あなたたちのこと頼まれた以上、ここから出すわけには行きません」
「でも、これが涼子を助ける最後のチャンスかも知れない!」
あたしは、ユリアさんの手をふりほどいた。
「だれがなんと言っても、あたしは行きます。涼子を助けるためにはじめたんだから、最後までやり通します」
「おーっ!」
おジイさんたちが、あたしの言葉に拍手した。この人たちって、どこまで本気なんだろ。あたしがそう思ったとき、大家さんは拍手をやめて、奥さんに言った。
「これがな、本当に友だちを助ける最後のチャンスなのかもしれん。なあに、大丈夫じゃ。わしらがついておる。美緒ちゃんと探偵の甥っ子に、危険なことはさせんよ。ここは、わしらに任せてくれ」
「おジイさん……」
奥さんは、眉をひそめたけど、あたしたちを引き留めるのは無理だと悟ったのか、今日何度目かの大きなため息をついた。
「そうね……ここで諦めたら、一生悔いが残るかも知れないわね。わかった。くれぐれも、頼みましたよおジイさん」
「あいよ!」
大家さんは腕まくりをして、力こぶを作って見せた。
「ユリアさん」
宮下が言った。
「叔父さんに連絡を取り続けて。何度か電話しても出なかったら、新宿署に電話して、そこから上田刑事に連絡してもらってください。ぼくらは渋谷で指示を待ちます」
「ダメだってば!」
ユリアさんは、こんど宮下の腕を取った。
「考え直して。美緒ちゃんの友だちも心配だけど、あたしは、あなたたちこそ心配なのよ」
「ありがとう。でも行きます。行かなきゃ。最後までやり通したい」
「もう……」
ユリアさんは、諦めたように宮下の腕を離した。
「血は争えないってホントね。変なとこばっかり輝に似てるんだから」
「じゃ、連絡お願いします」
「わかった。その代わり、二人とも、絶対に帰ってくるって約束して」
「はい」
あたしと宮下は同時にうなずいた。
「いいわ」
ユリアさんは、両手を出して、あたしと宮下の手を握った。
「気をつけて。輝と連絡が取れるまで、絶対に勝手なことしちゃダメだからね」
「はい」
また、あたしと宮下は同時に返事をした。
さあ行かなきゃ!
これが、長い長い一日の、終わりの始まり。そんな気がする。
032
マンションを出たあたしたちは、吉祥寺駅から井の頭線に乗るために走っていた。おジイさんたちも、ひーひー言いながらついてきた。
「待て待て、そこのお子様たち。年寄りを大事にせんか」
「待ってる暇はありません。置いてきますよ」
宮下が大家さんを振り返っていった。
「ボディガードを置いてってどーする。いいから待ちなさい。こら、待てといっとるだろうに」
「あー、もう! イライラする! 早く来て!」
あたしは、大家さんの手を取って走った。
「わーっ、こら! 年寄りを殺す気か!」
「死にゃしないわよ!」
殺したってね。と、あたしは心の中で付け加えた。
あたしたちは、ちょうど出るところだった急行に飛び乗れた。
「ひーはー、ひーはー、わしゃ、もうダメじゃ~」
「わ、わしも腰が……」
おジイさんたちは、すでにお葬式一歩手前って感じだった。優先席に大学生が座っていたけど、大家さんたちの惨状を見て、さすがにどいた。
あたしはケータイのサイトで乗り換え案内を表示した。いま乗っている電車で、渋谷に着くのが何時なのか知りたかったから。
えっと……17時12分の急行に乗れたから……
「二十八分だ」
あたしが口に出すと、窓の外を見ていた宮下が振り返った。
「渋谷に着くのが?」
「うん」
「間に合うな。雨が降りそうだけど」
「マジ?」
あたしも窓の外を見た。昼間は晴れてたのに、空に黒い雲が増えてきた。
「もう最悪。なにがどうなってるんだか、サッパリわかんないし、雨は降りそうだし」
「叔父さんと連絡は取れないし」
宮下も最悪のレパートリーを増やした。
「わしゃ腰も痛いし」
大家さんの友だち――鈴木さんだったっけ?――も、増やしてくれた。
「七瀬」
宮下が難しい顔であたしを見た。
「なによ?」
「考えたんだけど……その……」
「待って」
あたしは首をふった。
「なんか、先を聞きたくない気がするんだけど」
「勘がいいな」
「やっぱりイヤなこと言うんだ。そんな顔してるもん」
「そんなふうに言うってことは、七瀬も同じこと考えてたな」
「考えてないよ。なんであんたと同じこと考えなきゃいけないのよ」
「だったら聞けよ」
「イヤよ」
「まじめな話だってば」
「だからイヤだって言ってるじゃない」
「こりゃ」
優先席で伸びてた大家さんが、あたしたちに言った。
「なにを深刻な顔で押し問答をしとるんじゃ」
「相沢のことですよ」
宮下はあたしから視線を背けた。
「これが本当に罠だとしたら、七瀬のこと裏切ったことになる」
「だから!」
あたしは宮下の腕をつかんで、こっちを向かせた。
「涼子は矢部に無理矢理やらされてるに決まってるでしょ!」
「だからだよ」
宮下は、あたしの目を見た。
「どんな理由があるのか知らないけど、相沢がこれからも矢部の言うことを聞かなきゃいけないなら、オレたちと敵対するかも知れないんだぞ」
「その前に助ける」
「もし助けられなかったら?」
「なんでいま、そんな悲観的なこと言うのよ!」
「そうじゃなくって、オレが心配してるのは……その……だから……七瀬が、いまよりもっと辛い思いをすることだ。おまえの悲しむ顔は見たくないんだよ」
「そんな……」
あたしは、宮下の腕を離した。
「そんなこと言われても……あたし、どうしていいかわかんないよ」
「これだけは言っとく」
こんどは宮下が、あたしの腕をつかんだ。
「もしも、相沢と七瀬のどちらかを救わなきゃいけないとしたら、オレは迷わず七瀬を救う。あとで文句を言うなよな」
「な、なによそれ。バカじゃない。カッコつけて」
こんど宮下の視線から逃れたのはあたしだった。
「青春しとるなあ」
大家さんがつぶやいた。
すると、おジイさんたちも口々に言った。
「うむ。青春じゃ」
「甘酸っぱいのう」
「おまえが言うと酢の物みたいじゃな」
「うるさいわい」
そんなおジイさんたちを見て、あたしと宮下は、シリアスになってたのが、急にバカバカしくなった。そしたら今度は、なんか笑いがこみ上げてきて、二人でクスクス笑っちゃった。もしかしたら、緊張と恐怖が混ざったときって、神経のバランスを保つために、笑っちゃうのかも知れない。そんな笑い方だった。あたしも宮下も。
033
井の頭線は、渋谷のひとつ手前の駅をすぎると、トンネルみたいなとこに入る。そのとき涼子から掛かってきたらヤダなと思っていたら、ホントに掛かってきた。
『美緒。渋谷に着いた?』
「まだ。いま電車。あとちょっとで着く」
『109に来……』
「なに?」
心配したとおり、電車がトンネルに入って、電波が途切れた。
「涼子? 涼子ってば? 聞こえる? ねえ涼子!」
ダメだった。ケータイの表示は、電波の圏外を表示していた。
「切れた」
あたしは首をふった。
「渋谷に着いたら掛け直そう」
宮下が答えた。
「うん。でも109って聞こえた。それが指示だと思う」
「109か……この時間だとすごい人混みだな」
「そんな所に呼び出して、どうするつもりなんだろ」
「たぶん、ただの中継点だよ。それより二本たったぞ。掛け直してみろよ」
あたしは宮下に言われてケータイを見た。まだトンネルを抜けていないけど、電波を示すバーが二本たっていた。あたしはすぐに涼子のケータイに掛け直したけど、例によって電源を切っているみたいだった。
「ダメ。また切れてる」
「聞こえたと思ってるんだな。109で正解だといいけど」
「ねえ探偵さんの方は?」
「いま掛けてみる」
宮下は大家さんの家に電話を掛けた。
「純一です。叔父さんと連絡とれましたか? そうですか……わかりました。オレたちは109に移動します。連絡が取れたら伝えておいてください」
宮下はケータイを切った。
「まだなの?」
あたしは聞いた。
「ああ。まだ連絡が取れない。新宿署の方にも掛けてるらしいけど、上田さんとも連絡が取れないらしい」
「なにやってんのよ、あの二人。ホントに頼りにならない」
「好意的に解釈すれば、研究所でも大変なのかも」
「こっちより?」
「まさか。こっちが一番に決まってるだろ」
渋谷に着いたので、あたしたちは電車を降りた。おジイさんたちもだいぶ回復してて遅れず着いてきた。
「いやあ、渋谷なんて何年ぶりじゃろ」
「若いころはよく来たもんじゃがな」
「おまえさんが行ってたのは、渋谷じゃなくて円山町じゃろうに」
「うひひ。若い娘さんに変なこと聞かせるんじゃないわい」
「ちょっと、大家さんたち!」
あたしは、おジイさんたちを振り返った。
「観光に来てるんじゃないのよ! もっとマジメにやってくれないと、奥さんにバラすからね!」
「バラすってなにを?」
「円山町のこと」
「な、なぬ? 美緒ちゃん知っとるのかね、あそこになにがあるか!」
「知ってるよ」
「えーっ! ま、まさか、その、美緒ちゃんも行ったことあるとか?」
「あたしはないけど、友だちが彼氏と行った話を聞いた」
「ひえーっ! いまの高校生は進んどるのう」
大家さんが驚くと、おジイさんたちは、またガヤガヤ言い始めた。
「それって進んでるって言うのかい?」
「そうじゃ、そうじゃ。風紀の乱れって言うんじゃ」
「まあ待て。わしらだって、ガキのころから、さんざん悪さしたじゃないか」
「進駐軍から金をくすねたりな」
「ありゃ生きるのに必死だったからじゃ」
「ヒロポンを裏でさばいたのもか?」
「そんなこともしたっけなぁ。やんちゃじゃった」
「若かったからのう」
「時代は変わったのう。わしらが子供のころ、この辺は焼け野原じゃったのに」
「宮下」
あたしは、首をふりながら宮下に言った。
「ダメだよ、大家さんたち。また同窓会が始まっちゃった」
「いいよ。もともと当てにしてないし」
「まあね」
あたしたちは井の頭線の改札を出て、JRの駅の方へ行く手前にあるエスカレーターを降りた。それからすぐ左に折れて、パチンコ屋と銀行の間の細い路地を抜けて、大きな通りに出た。そしたら109はもうすぐ目の前。あたしたちは、ビックカメラの前の交差点で信号を待った。
「きっと矢部がどこかで見てる」
宮下が言った。ビックカメラの宣伝の声がうるさいけど、宮下の声が妙にクリアに聞こえた。あたし、すっごく神経が張り詰めてる。
「う、うん」
あたしは唾をゴクリと飲み込んだ。
そのとき。
宮下があたしの手を握った。ギュッて強く。
あたしは宮下を見たけど、宮下は109から視線をそらさなかった。よく見ると、宮下の瞳は小刻みに動いていて、矢部のこと探してるんだとわかった。
こんなこと思うのシャクだけど、やっぱ宮下って頼りになるな。
あたしも宮下の手をギュッと握り返した。この手を離さなかったらきっと大丈夫。そうだよね。だれも怪我しないし、涼子も助けられるよね。あたしは心の底からそう願った。信号が青に変わるまでの、ほんの短い間だったけど……
034
信号が青に変わった。
あたしは宮下の手に引かれるように歩きはじめた。心臓がドキドキして破裂しそう。
「いない」
宮下が言った。
「きっと、ケータイが鳴るぞ」
その通りだった。あたしは宮下の手を離して、右手に持っていたケータイを開けた。
『こんどはパルコのパート1。五時五十分までに』
「涼子、近くに矢部がいるの?」
あたしは涼子に呼びかけたけど、すでにケータイは切れていた。
「こんどはどこだって?」
「パルコ。五時五十分までにだって」
「時間指定か。イヤな予感がする。行こう」
宮下はあたしの手を取った。
あたしたちは、道玄坂を横断して商店街の路地に入ると、ちょっと歩いて井の頭通りに出た。目の前がカフェのプロント。そこをハンズの方へ左折して、二つ目の路地を右に入って、スペイン坂を登った。この坂を登ったところがパルコだ。
あたしは、後ろについてくる大家さんたちをチラッと振り返ってから宮下に聞いた。
「なんで、こんなことするの?」
「オレと七瀬を二人だけにしたいんだ」
「どういうことよ?」
「矢部はオレたちが二人じゃないと思ってるんだよ。だから引き回して、孤立させるつもりなんだ」
「じゃあ、パルコも目的地じゃないってことね」
「だと思う」
「大家さんたち大丈夫かな?」
「叔父さんだったらこう言うな」
「待って、あたしが言う。棺桶に両足を入れるのが早まっても問題ない」
「そう言うこと」
「笑えないね、いまは」
「ああ、笑えない」
宮下が答えたとき、あたしはおでこに、ぽつんとなにか当たった気がした。
「雨?」
「降ってきた。ホント最悪だぜ」
あたしたちは坂を登り切って、パルコの前に立った。涼子はもちろん、矢部の姿も見えなかった。
「電話が掛かってこないね」
「ああ……」
宮下は油断なく周りを見ていた。
「矢部がどこかで見ているのか、それとも――」
宮下の言葉の途中でケータイが鳴った。
『つぎはNHK。五時五十五分までに』
「涼子、切らない――」
あたしは最後まで言えなかった。ぷつんって感じで切れた音がしたから。
「こんどは?」
宮下が聞いた。
「NHK。五十五分までに」
「急ごう。あと四分だ」
「うん」
あたしと宮下は、もうそれが自然って感じで手をつなぐと、NHKに向かって走った。全速力じゃないけど。パルコからNHKなら、小走りでも三分ぐらいだと思う。
「こりゃ!」
大家さんが後ろで叫んだ。
「また走るんかい!」
「NHKよ!」
あたしは振り返って叫び返した。宮下が言うとおり、最初から当てにしてないけど、こうして距離が離れていくと、やっぱり心細い。
「あっ、もしかして!」
宮下が急に声を上げた。
「ブルドッグみたいな顔のヤツがいたよな。ほら、ユリアさんのマンションの前で矢部ともみ合ったとき」
「あ、うん」
あたしが股間を蹴り上げたヤツだ。
「あいつだ。あいつがオレたちを監視してるんだ」
「でも、あの顔だと目立たない?」
「変装してるんだよ。帽子を被ってるとかさ。オレさっきから、矢部の顔ばっかり探してたけど、矢部はここにいないんだ」
「ブルドッグか……もう二度と会いたくないよ」
「ストライクだったもんな。七瀬のせいでオカマちゃんになってたらどうする?」
「やめてよ」
あたしは、リカちゃん人形の洋服を着たブルドッグ似のヤクザを想像してしまって、あわてて首をふった。
NHKの前に着いたのは、五時五十五分ちょうどだった。すぐにケータイが鳴った。
『六時五分。原宿駅』
涼子の指示は短かった。でも声が震えているのを感じる。やっぱり、ぜったいに矢部にやらされてる。間違いない。
「こんどは大変! 原宿駅に六時五分までに!」
「げっ! どんどん厳しくなる!」
あたしと宮下は、こんどこそ全速力に近いスピードで走った。ここから原宿駅までは、けっこうある。もう手をつないではいられない。それでも宮下は、ケータイで自分たちの向かう場所を、大家さんの家に伝え続けた。
原宿駅に着いたとき、あたしたちは、ぜーぜーと肩で息をしていた。
「自転車だ……はあはあ……」
宮下は、息を整えながら言った。
「ブルドックのヤツ、きっと自転車に乗ってる……でなきゃ、オレたちに追いつけない」
「う、うん……ホント、さすがにキツイ」
あたしもなんとか息を整えようと深呼吸をした。
そのときケータイが鳴った。
『表参道。十分後』
「涼子、もう無理だよ、あたし」
『走って!』
どうせ返事はないと思ったのに、涼子が返答して、あたしは少し驚いた。でもそれだけ。ケータイはすぐに切れた。
「表参道! あと十分!」
あたしは、また走った。そう、いまは走るしかない。だって涼子との接点はこれしかないんだから。
そのとき。
空がピカッと光った。ゴロゴロ雷の音まで。
あたしたちが表参道に着くころには、雨も本格的に降り始めた。
『青山霊園。十分後に』
「もうダメ……マジで……」
『来て』
涼子は、また返事を返した。
来て? なんだろ。なんか意味深じゃない。
「つぎは?」
宮下も、かなり辛そうな顔で聞いた。
「青山霊園だって……そこがゴールぽい」
「なんで?」
「涼子が『来て』って返事した」
「待ってるって感じだな……行こう。大丈夫か?」
「うん。大丈夫。まだ走れる」
本当は、もう体力も限界に近いけど、これが最後だと思えば、まだ大丈夫。あたしは、ケータイが雨に濡れて壊れないようにバッグに入れた。
宮下は走りながら、また大家さんの家に連絡を入れた。宮下のケータイ防水なんだ。いいな。こんどはあたしも防水のがほしい。
035
青山霊園は広い。そのどこに行ったらいいのか涼子は言わなかった。あたしたちは時間どおり霊園の中に入ったけど、ケータイは鳴らなかった。
「どこ?」
あたしは前髪をかき上げた。雨がしたたり落ちてきて気持ち悪いから。
「涼子、電話してきてよ。あたしたち、ここからどこへ行ったらいいの?」
あたしは、鳴らないケータイを見ながらつぶやいた。
「入れとけよ。壊れるぞ」
宮下が、あたしのケータイが濡れているのを見て言った。
「たしか霊園の真ん中当たりに十字路があったと思う。そこへ行ってみようぜ」
「うん」
あたしと宮下は、もう走ってなかった。また手をつないで、霊園の歩道を歩いた。傘を差した人が、すれ違うあたしたちを、チラチラ見てる。だって、二人ともずぶ濡れなんだもん。
あたしたちは十字路まで歩いてきた。ときおりタクシーが通り過ぎるだけで、涼子の姿は見えなかった。それどころか、もう人影がない。雷がいよいよひどくなってきた。
ピカッ! って空が光った。そのとたん、ドーンってすごい音が頭の上で響いた。
「やばい。真上だ。街路樹から離れたい」
宮下がつぶやいたとき。
「振り向くな」
背中から低い声がした。矢部の声じゃない。
でも『振り向くな』なんて言われて、振り向かないわけないじゃない! あたしと宮下は反射的に、同時に振り返った。
「ギャーッ!」
悲鳴を上げたのは宮下の方。あたしも悲鳴を上げたかったけど、ショックを受けて固まっちゃった。
「振り向くなって言っただろ!」
その男は銃を持っていた。それはそれでショックなんだけど……
男は例のブルドッグだった。宮下の推理は当たってたんだ。変装してたのも宮下の言う通りだった。それが、リカちゃんみたいなドレスだったから、宮下は悲鳴を上げたんだ。まさか、あたしの妄想まで当たってるなんて思いもよらずに、あたしは固まった。
「前を向け!」
ブルドッグが怒鳴った。顔はブルドッグで、衣装はリカちゃん。でも手にはピストル。ああもう、なにがなんだか……
「銃で狙ってるぞ。そのまま歩け」
「ヤ、ヤバイ……」
宮下は指示通り歩き始めてから、震えた声を出した。
「オレ、人生で最悪のもの見ちゃった。どーしよう。立ち直れない」
「ホントにオカマちゃんになっちゃったのかも」
「言うなよ。冗談だったんだから」
「なによ。宮下が言い始めたのに」
「ごめん。反省してる。マリアナ海溝より深く反省してる」
「嫌いなんだ。オカマちゃん」
「そうじゃないけど、ブルドッグのオカマは嫌いだ」
「あたしも。とくに銃を持ってるヤツは」
「おまえら!」
ブルドッグが、また怒鳴った。
「だまって歩け! ペチャクチャうるさいぞ!」
「わかったよ」
宮下はあたしの手を握った。宮下の声は落ち着いていたけど、手を握る力が痛いくらいだった。すっごく緊張しているのが伝わってくる。バカなことしゃべっていても、緊張は最高潮。あたしも心臓が破裂しそう……
「そこを右だ」
リカちゃんブルドッグが言った。
右に曲がると霊園の中に入った。空にはまだ明るさが残っている時間だけど、厚い雷雲のせいで、あたりはすっかり暗くなっていた。もしもブルドッグが銃を撃ってあたしたちを殺しても、その銃声は、雨と雷にかき消されて、だれも気づかない。あたしは、そんな最悪の事態を想像してしまった。
「ここで死んだら手間がないな。お墓に直行だ」
宮下が自虐的な冗談を言った。
「やっぱり探偵さんの甥だね。そんなジョークが思い浮かぶなんて」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めたんだよ」
「うそつけ」
「こら!」
ブルドッグが怒鳴った。
「おまえら、ホントにおしゃべりだな! だまって歩けって言っただろ!」
どのくらい歩いただろう。五十メートルくらい? 目の前に、外国の人のお墓が見える。英語でなんか書いてある。それがすごく大きいの。お墓じゃないのかな。なにかの記念碑かも。だって、まるで塗り壁みたいなんだもん。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪の。その前に差し掛かると、ブルドッグが言った。
「止まれ」
あたしたちは立ち止まった。また空がピカって光って、ドーンとすごい音がした。
ねえ神さま!
もしいるんだったら、ブルドッグに雷を落としてください。お願いします!
あたしが、いよいよ神さまに頼ろうとしたとき。
「ったく、手間を掛けさせやがって、このクソガキども」
外人さんのお墓の後ろから、矢部が出てきた。それには驚かない。予想してたから。でもあたしは、心の底から、本当に、いままでで一番驚いた。
「ママ!」
矢部は、ママの首を絞めるように抱えていた。それだけじゃない! ママの頭に銃口を突きつけていたの!
「マ、ママ!」
「美緒……」
ママは両手を後ろ手に縛られていた。
「ガキども」
矢部が勝ち誇ったように言った。
「オレは言ったよなあ。必ず見つけてやるって。どーだ、母親を人質に取られた気分は」
「マ、ママ……やだよ……ど、どうしてこんな……」
あたしは、いまにも泣き崩れそうだった。パパが死んで、あたしのたった一人の肉親。もしママになにかあったら、あたし、この世で一人っきりになっちゃう。
「相沢か」
宮下が歯ぎしりした。
「相沢がしゃべったんだな。七瀬の家族のこと」
あたしは、ハッとして宮下を見た。すごい怖い顔だった。なにも言えなかった。宮下が心配したことが現実になってしまったんだ。
「うるせえよ」
矢部は、急に冷淡な顔になった。さっきの勝ち誇った顔より、こっちの方がよほど不気味に感じた。
「わかるぞ。おまえらの考えていることが。いまおまえらは、この状況をどう打開しようか考えてるだろ。だがな。これが大人の世界だ。おめえらガキどもが、どーこーできるもんじゃねえんだよ」
そうなのかも知れない。あたしは矢部の言葉に打ちのめされた。けっきょく、あたしたちは無力だった。それどころかママまで巻き込んで、事態を悪くしただけ。
あたしは頭がクラクラしてきて、貧血のときみたいに倒れそうになった。
「七瀬!」
宮下があたしの身体を支えた。
「しっかりしろ! 大丈夫か!」
そのときママが叫んだ。
「美緒! 諦めちゃダメ! こんなヤツらに負けないで!」
「ママ」
あたしは、ママの言葉で、また意識が戻ってきた。
「ママ、ママ、ごめん! 絶対に助けるから!」
「うん。信じてるわ。美緒のこと」
そうだ。ここで諦めちゃダメだ。まだがんばれる。がんばらなきゃ!
あたしが気を取り直したとき。
「むだだって、言ってるだろうに」
矢部がまた勝ち誇った顔になった。
「でもまあ、チャンスはくれてやる。おいガキども。おまえらは自由にしてやるよ」
「どういう意味だ」
宮下が矢部をにらみつけた。
「言葉どおりの意味だよ。ここから出ていっていいと言ってる。だがな。お土産を持って帰って来てもらう」
「まさか」
宮下の顔が、サッと青ざめた気がした。あたしも矢部の言ってる意味がわかった。
「察しはいいようだな」
矢部が不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ。ユリアと探偵だ。おまえらが連れてこい。だが、このことをひと言でも話すんじゃねえぞ。警察にもだ。ユリアと探偵だけ連れてこい。そうすれば大事な大事なママは助けてやる」
「そうやって涼子も利用したのね!」
あたしは矢部に叫んだ。
「卑怯よ! あんたなんて人間じゃない!」
「おー、おー、元気だねえ。いまどきの高校生は」
矢部はそう言って笑った。
「むだなのはおまえの方だ」
宮下が言った。
「もう警察が捜査してるんだ。叔父さんとユリアさんを捕まえたって、もう遅いじゃないか。なんで、そんなむだなことするんだよ」
「ユリアはオレの女だ」
矢部の顔がまた冷酷になった。
「探偵は、ぶち殺さなきゃ気がすまねえ。あのやろう、むかしからオレの仕事を邪魔しやがって。しかもユリアまで……あいつだけは絶対に許さねえ」
「けっきょく殺すのか。叔父さんも、叔父さんを連れてきたぼくらも」
「その娘とママは助けてやるよ、坊や」
「うそだ」
「信じないなら、いまここで殺してもいいぜ。まず、その娘から」
矢部が言うと、あたしたちの後ろにいたブルドッグが、あたしの頭にピストルを突きつけた。
「わかった、わかった!」
宮下が両手を挙げた。
「あんたの勝ちだ。頼むから七瀬に銃を向けないでくれ」
「そうか」
矢部がニヤリと笑った。
「自由にするのは、坊や一人がいいかもな。その娘も人質に取っておこう」
「ま、待てよ」
宮下があわてて言った。
「そ、それは逆だろ。オレが人質になるから、七瀬を離してくれ。オレが自由になると、あんたに不利なことを画策するかも知れないぞ。なにせ、あんたが大嫌いな探偵の甥なんだから」
「ダメだよ!」
あたしは宮下の腕を握った。
「宮下が行って。巻き込んだのあたしだもん!」
「なに言ってんだ。七瀬のせいじゃない」
「でも、宮下の言う通りじゃん。涼子はあたしのこと……しゃべったんだ。あたしの友だちが原因なんだから……」
「違う。もともと叔父さんが矢部の邪魔をしてたんだ。オレはその甥なんだから、むしろ七瀬を巻き込んだのは、オレの方だ」
「違う、違うよ。いいから、あたしが人質になるから、宮下が行って!」
「おまえら……」
ブルドッグが、あたしの頭を狙っていたピストルを下げた。
「いい人間だな。ここで死ぬのは早すぎる。二人で行けよ」
「おい!」
矢部がブルドッグに叫んだ。
「亀井! てめえ、なに勝手なこと言ってやがんだ!」
「でも兄貴! こいつら、二人で行かせた方がいいっスよ。一人しかいないと、探偵が不審に思うじゃないですか!」
「おっ。なんだよ亀井。おめえにしては、気の利くこと言うじゃねえか」
あたしは少しだけホッとした。宮下と二人なら、この状況をなんとか打開できるかも知れない。神さま。ブルドッグさんに雷を落とさないでいてくれてありがとう。
そのとき。
「いやダメだ」
べつの声が後ろから聞こえて、あたしと宮下は振り返った。
「涼子!」
あたしは叫んだ。涼子が傘を差したスーツの男の隣に立っていたから。
「美緒……」
涼子は泣きそうな顔であたしを見た。
「ごめんね、ごめんね……」
「謝るな」
傘を差した男が言った。
「もう、おまえはふつうの高校生じゃない。わたしと一緒にこの世界で生きると誓ったんだからな」
「でもお兄ちゃん」
涼子が傘の男を見上げた。
「美緒はたった一人の親友なんだよ。美緒を巻き込むつもりなんかなかったのに……」
「いい試練だ。この試練を乗り越えろ、涼子」
「ひどい……ひどいよ、お兄ちゃん……そんなの無理だよ……」
「なんにせよ、もう後戻りはできない」
傘の男は涼子に言うと、あたしたちを見た。
「驚いたかい? わたしは涼子の兄だ。そして矢部のボスだよ」
あたしと宮下は、絶句した。
言葉が出ない。
涼子のお兄さんが黒幕だったなんて……
036
「きみたちは、思っていたよりずっと危険な存在だな」
涼子の兄が冷たい声で言った。
「正直言って、きみらにはハラハラさせられた。悪いが計画変更だ。ここで二人とも死んでもらうことにしよう」
「お兄ちゃん! 美緒だけは殺さないで!」
涼子が叫んだ。
「それは無理だ。彼女は重要な証人だ。警察に渡すわけにはいかない」
「やめろ!」
叫んだのは宮下だった。
「もう警察は捜査を始めてる! どうせあんたは捕まるんだ! だったら、これ以上罪を重ねるなよ! 殺人罪が加わったら、あんた死刑だぞ!」
「元気な坊やだ」
涼子の兄は、宮下を見て苦笑した。
「わたしが逃亡の準備をしていないとでも思っているのか? わたしの開発した薬はメキシコの麻薬カルテルが興味を示していてね。彼らの手引きで、国外に出る手はずは整えてあるんだよ」
「クソッ!」
宮下が悪態をついたとき。
「はははははは!」
涼子の兄が、笑い声を上げた。
「まったく、お笑いだな! 世間の怖さを知らないお子様ってやつは!」
「そうかね?」
大家さんの声がした。
次の瞬間!
「わしから見れば、おまえもお子様じゃ!」
大家さんが涼子のお兄さんに飛びかかった。すごい! 雨の音に紛れて、そっと忍び寄っていたんだ!
そしたら!
「わーっ!」
と、鈴木さんと佐藤さんと高橋さんも、墓石の陰から飛び出してきて、ブルドッグさんを押さえつけた。
そうだ! ママを助けなきゃ!
あたしがそう思ったときには、もう宮下が、矢部に向かって走っていた。
「止まれ!」
矢部が叫んだ。
「この女を殺すぞ!」
「うっ」
宮下は立ち止まった。あたしも宮下の隣に立った。
「ママを離して!」
「うるせえ! 下がれ、下がるんだ!」
「まるで手負いの虎じゃな」
大家さんも駆けつけた。
「まいったのう。こりゃ手がつけられんぞ」
「ど、どうしよう……」
あたしは、ママを人質にして、霊園から出ようとしている矢部を見ていることしかできなかった。
そのとき。
「ま、間に合ったか」
探偵さんの声だった。走ってきたらしく、息が荒い。
「お、叔父さん! どこ行ってたんだよ!」
宮下が叫んだ。
「それはこっちのセリフだ。勝手なことをして」
探偵さんは、宮下をちょっとにらみつけたあと、あたしたちの前に出た。
「矢部! 来てやったぞ! わたしに会いたかったんだろ!」
「探偵!」
矢部が叫んだ。
「いまごろご登場かよ! ずいぶんのんびりしてるじゃねえか!」
「捜査の途中で、七瀬さんも危険なことに気がついて保護しに行ってたんだよ。おまえに先を越されたが」
「はははは! ざまーねえな! それで、どーすんだ、どうやって決着をつける?」
「それは、こっちが聞きたいね」
探偵さんは、一歩、二歩と、矢部に近づいた。
「来るな! 来るんじゃねえ! 車を用意しろ! オレを逃がしたら、この女を解放してやる!」
「車は霊園の外に止めてある。知ってるだろ、わたしのボルボ」
探偵さんはズボンのポケットからキーを出して、矢部と自分の中間に投げた。
「ほら、自由に使え。ガソリンは半分入っている。名古屋くらいまでなら行けるだろ」
「上等じゃねえか!」
矢部は、じりじりって感じで、探偵さんが投げたキーの方へ近づいた。
「ユリアはいい女だな」
探偵さんが、なんかイヤらしい声で言った。
「楽しませてもらったよ。おまえなんかより、わたしの方が、ずっといいそうだ」
「て、てめえ……」
矢部が立ち止まって、探偵さんをにらみつけた。
「ああ、そう言えば」
探偵さんは続けた。
「おまえのって、小さいんだってな。ユリアが、おまえのじゃぜんぜん感じないってぼやいてたぞ。ずっと感じてるフリをしてたそうだ。かわいそうに。おまえ、あそこに真珠でも入れた方がいいんじゃないか?」
「うるせえ!」
矢部は、我慢の限界って感じで、銃口をあたしのママの頭から離して、こんどは探偵さんを狙った。
「撃てよ」
探偵さんは両手を広げた。
「おまえはオレを殺したいんだろ。やれよ。いましかチャンスはないぞ。オレを殺してから逃亡しろ」
「いいだろう! 望み通り殺してやる!」
矢部が叫んだ次の瞬間、銃声が鳴り響いた。
探偵さんが胸を押さえて倒れた。まるで、その光景はスローモーションのようだった。
「叔父さん!」
飛び出そうとした宮下の腕を、大家さんがつかんだ。
「行っちゃいかん!」
「で、でも! 叔父さんが!」
そのとき。また銃声が聞こえた。
あたしは反射的に、銃声がした方を見た。上田さんだった。上田さんが構える銃の先は矢部だった。
「げふっ……」
矢部が血を吐いて倒れた。
「ママ!」
あたしは、ママに駆け寄った。
「ママ! ママ! 大丈夫!」
「ええ」
ママは、ぺたんと座り込んだ。
「大丈夫よ。あたしより宮下さんを。早く救急車を呼んで」
「あっ!」
あたしは、探偵さんのことを思い出した。
すでに探偵さんの周りには、宮下と上田さんがいた。
「叔父さん!」
宮下が、うつぶせに倒れている探偵さんの体を、仰向けにした。すっごく苦しそうな顔してる!
「叔父さん! いま救急車呼ぶから! 死んじゃダメだ!」
そしたら。
「おい探偵」
上田さんが、のんきな声で言った。
「いつまで寝てるんだ。早く起きろ」
「む、むちゃ言うな」
探偵さんがうめいた。
「至近距離で撃たれたんだぞ。いくら防弾チョッキを着てても、本気で痛い」
「えっ……」
あたしと宮下は顔を見合わせた。
「あいたた。手を貸せよ純一。早くアイシングしないとアザになる」
「お、叔父さん……」
宮下は探偵さんが上半身を起こすのを手伝うと、無事だった喜びと、心配して損したって顔を同時に浮かべた。
「なんて顔してる」
探偵さんが、雨で濡れた宮下の髪の毛を、くしゃって感じで乱した。
「だ、だって……撃たれて……怪我したと思ったから」
「おまえこそ心配かけやがって。ユリアからおまえたちがマンションを出て行ったと聞かされたときは、心臓が止まるかと思ったぞ」
「ご、ごめん」
「宮下さん」
ママだった。縛られていた手をさすってる。大家さんが解いてくれたみたい。
「ご無事だったんですね。よかった」
「七瀬さん」
探偵さんは、宮下に手を借りながら立ち上がった。
「申し訳ありません。こんな危険な目に遭わせてしまって。いまは、この不手際をわびる言葉が思いつきません」
「待って!」
あたしは、探偵さんとママの間に割り込んだ。
「あたしと宮下は、安全なところにいたんだけど、探偵さんの指示を無視して来ちゃったんだよ!」
「わかってるわよ、あなたのことは」
ママは、あたしに答えてから探偵さんを見た。
「わたしこそ、ごめんなさい。連絡をもらったのに、逃げるのが遅れてしまって」
「いえ、わたしがもっと早く気づいていれば……本当に申し訳ない」
探偵さんは、恥じるように顔を伏せた。
「ホントはね」
ママが明るい笑顔を探偵さんに向けた。
「あの男に捕まってから、宮下さんに言う文句を考えてたんです。でも、みんな忘れちゃいました。こうして助けに来てくださったから」
「七瀬さん」
探偵さんは、ママの瞳を見つめた。
うっ、な、なに? この雰囲気? わが親ながら、ちょっと映画のワンシーンみたいで絵になってる……
「探偵」
上田さんが言った。
「相変わらず、女には手が早いな」
「こ、こら、上田! 七瀬さんが誤解するようなこと言うな!」
珍しく探偵さんが慌てた。
「ははは。誤解されろ。ま、そんなことより、早く終わらせようぜ。雨に濡れてるところ申し訳ないが、全員署に来て、調書を取らせていただきたい。タオルと、ジャージでよければ着替えと、熱いコーヒーぐらいはご提供しますので」
「あ……涼子は?」
あたしは涼子を探した。涼子は放心したように座り込んでいた。見ると、すでに警察官が何人もいて、おジイさんたちが捕まえていた、涼子のお兄さんと、ブルドッグさんに手錠を掛けていた。
「涼子!」
あたしは涼子に駆け寄ろうとした。
「待て」
探偵さんが、あたしの腕を取った。
「いまは行くな」
「なんで?」
「わたしが彼女の立場なら、気持ちの整理がつくまで、危険な目に遭わせた友人に会いたいとは思わない」
「で、でも……」
「大丈夫」
探偵さんは、あたしの髪の毛も、くしゃっと乱した。
「彼女が刑務所に入ることはない。二週間前まで、兄の行いを知らなかったのは事実だ。美緒の携帯電話に連絡してきたのが、その証拠になる。そのあと、兄に協力したのは心証が悪いが、それでも執行猶予がつくはずだ。彼女の気持ちが落ち着いたら、そのときは励ましてやるといい。きみたちの人生は、これからなんだから」
「う、うん」
あたしは涼子を見た。
警官に腕を持ち上げられるようにして立ち上がると、涼子は、あたしのことをチラッと見て、すぐに顔を背けた。
「涼子……」
あたしは、パトカーに連れて行かれる涼子を見守った。
「七瀬」
宮下が、あたしの手を握った。
「叔父さんの言う通りだ。相沢は大丈夫だよ。きっと立ち直る。オレが保証する」
「保証なんて、だれにもできないよ」
「できるさ。相沢には、世界一の親友がいるんだから」
あたしは宮下の顔を見た。
「なによ。またカッコつけちゃって」
「このくらいいいだろ。最後のいいとこ、叔父さんに持ってかれちゃったんだから」
「そうだね」
「見て」
ママが空を見上げた。
「雨がやんだわ」
終わったんだ……
そんな実感がこみ上げてきた。
そしたら、急に胸が詰まって涙が出てきた。雨がやんじゃったから、泣いてるってバレちゃう。あたしは涙を拭いたけどダメだった。あとからあとから、涙がこぼれてきて、あたしは、本当に不覚にも、宮下の胸に顔を埋めて泣いた。
宮下が、あたしのことを抱きしめてくれた。
なんか暖かい。
こんなこと考えたくないんだけど……
こいつって、こいつって……
ホント頼りになる……
037
翌日。
あたしたちは、西新宿にあるお寿司屋さんにいた。
「さあ、今日は貸し切りじゃよ!」
おジイさんの一人――えっと高橋さん?――が、ねじりはちまきでカウンターに立っていた。このお寿司屋さんのご主人なんだ。
「みんな、好きなもんを、じゃんじゃん言っておくれ。ぜんぶおごりだよ」
「じゃあ、さっそくウニを」
探偵さんが最初に声を上げた。
「こりゃ。好きなもんを注文していいのは、純坊と女性陣だけだ。探偵はカッパ巻でも食ってろ」
「すごい差別だな」
「おまえさん好きじゃろ、キュウリ」
「好きとか嫌いとか言う問題じゃないと思うんだが」
「じゃあ、わたしがウニを」
ママが言った。
「二人で分けて食べましょうね、宮下さん」
「あ、すいません。七瀬さん」
探偵さんは、柄にもなく照れたように、ママに頭を下げた。
迷惑を掛けたママに、恐縮しているように見えなくもないけど、ぜったい違うよね、この雰囲気。
「ねえ宮下。あんた、あれなんとかしてよ」
あたしが隣に座る宮下を見ると……
「ん? なに?」
宮下は太巻きを口にくわえていた。
「回らない寿司屋なんて、すげえ久しぶり。七瀬も早く食べろよ。うまいよ」
「脳天気なヤツ……」
あたしがタメ息をついたとき。
「爺ちゃんが言うとおり、なんでも注文してください」
カウンターにいる、もう一人の職人さんが、あたしとユリアさんに声を掛けた。
「今日の代金は商店街からのおごりですから、どうぞ遠慮なさらず」
「あの、もしかしてお孫さん?」
ユリアさんが聞いた。
「ええ」
その若い職人さんが、ユリアさんに白い歯を見せて笑った。
「爺ちゃんたちがお世話になりました。大変だったでしょ、みんな癖のある人たちばかりだから」
「いいえ」
ユリアさんも笑顔を見せた。
「とても楽しかった。あなたがうらやましいわ。すてきな家族がいて」
「いやあ、そうでもないんですよ。早く嫁をもらえってうるさくて」
「ふうん」
ユリアさんがつぶやく声を、あたしは聞き逃さなかった。
「お寿司屋さんの嫁か……ちょっといいかも。なんちゃって」
なんだかなあ。あっちも、こっちもピンク色だわ。
あたしは畳の席の方へ目を向けた。
「おーい! 酒もってこーい!」
大家さんたちは、ピンク色どころか、真っ赤な顔して、もう酔っぱらってるし。しかもダブル大家さんだよ。双子の兄と弟。ゆでだこみたいな顔して並ぶと、ぜんぜん見分けがつかない。そうでなくても、見分けられないけど。
「あー、もうなんでもいいや! あたしも食べる。いくらと、大トロと、アワビください!」
「すげ」
と宮下。
「オレは遠慮して太巻き食ってるのに、おまえ高いモノばっか」
「なによ。なんか文句ある?」
「ありません」
宮下は、ぶるぶると首をふった。
「あっ、そうだ!」
あたしは、急に思い出した。
「ねえねえ探偵さん。涼子のお兄さんが主犯だとわかったのっていつ?」
「矢部のマンションで、涼子が逃げたときから、漠然とした違和感はあった」
「漠然とした違和感?」
「ああ。予感があったと言うべきかな」
「それで?」
「上田と微生物研究所に入ろうとしたときに、ふと不安になって、七瀬さんに電話を入れたんだ。もしも涼子の兄が犯罪に関わっているとしたら、美緒の正体はすぐにバレる。そうすると、七瀬さんも危険ではないかと思ってね」
「ええ」
ママがうなずいた。
「宮下さんから電話をもらって、すぐに家を出ようとしたんだけど、タイミング悪く友人から電話が掛かって来ちゃったの。ご主人と離婚する相談だったら、電話を切るに切れなくて、逃げるのが遅れてしまった」
「微生物研究所では、おもしろいことがわかった。涼子の兄は、シュードモナス属と呼ばれる真正細菌の一種に、テトロドトキシンに似たアルカロイドを合成させる実験に成功していたんだ」
「テトロドトキシン?」
あたしは首をかしげた。
「ふぐ毒ですね」
カウンターのお孫さんが、あたしに大トロを出しながら言った。
「強力な神経毒ですよね、たしか」
「ああ」
探偵さんはうなずいた。
「毒というのは諸刃の刃でね。ごく微量なら薬にもなる。テトロドトキシンも、ごく微量なら鎮痛剤として使われている。涼子の兄が合成したのは、麻薬として作用するアルカロイドだった」
「それをヤクザに売ろうと思ったわけ?」
「そうだ。だが、シロウトが急に裏の世界と関係を持つのは難しい」
「うん、そうだよね」
あたしは、アワビを食べながらうなずいた。
「ところが」
探偵さんは、ママから譲ってもらった中トロをほおばった。
「彼のコンピューターの記録を調べていたら、不審な点があった。どうやら、研究者の立場を利用して、医師の処方がなければ手に入らない薬剤を、以前から、矢部に横流ししていたようなんだ」
「決定的だね」
宮下が、かんぴょう巻きを食べながら言った。さっきから安上がりなヤツ。
「相沢の兄さんは、もともとヤクザと付き合いがあったわけだ。それで叔父さんは、相沢の兄が主犯だって確信したんだね」
「確信したわけじゃないが、限りなく黒に近いと考えるのには十分だ。この時点でわたしは、七瀬さんが無事に家を出たか電話したんだが、彼女が電話に出ないので、かなり慌ててしまった」
「ごめんなさい」
ママが謝った。
「そのころ、口にガムテープを貼られて、車に押し込まれてました」
「わたしも純一たちに謝らないと。柄にもなく慌ててしまって、なんども携帯電話が鳴ったのに気づかなかった」
「それでか」
宮本は、お茶をすすった。
「ホント肝心なときに役に立たない人だって思ったよ」
「わたしも一言いわせてもらいたいが、じつのところ、純一たちのことは頭になかった。大家さんの家にいるので安全だと思っていたからね」
「うっ……やぶ蛇だった」
宮下が肩をすくめたので、全員が笑った。
「とにかく」
探偵さんが続けた。
「やっと電話に気づいて、ユリアから純一たちが渋谷に行ったと聞かされた。しかも七瀬さんとも連絡が取れない。これはすでに、事態が最悪の方向へ動いていると直感した」
あたしたちが、探偵さんのつぎの言葉を待ってるとき。
「ごめんよ」
と、お店のドアが開いて、上田さんが入ってきた。
「おっと、もう始まってますか。いまから参加してもいいかな?」
「グッドタイミングだ」
と、探偵さん。
「これから、われわれが昨日なにをしたか、解説するところだ」
「そいつは、たしかにグッドタイミング」
上田さんは、探偵さんに応えながら、ママの隣に腰掛けた。ママは探偵さんと刑事さんにサンドイッチされて、あら役得ねだって。
「だがその前に」
上田さんが、お手ふきで手を拭きながら言った。
「いまさっき相沢の供述で、竹芝の倉庫を調べてきた。その話を聞きたくないか?」
「聞きたいね。なにか出たか?」
「出たどころじゃねえよ」
上田さんは苦笑した。
「あいつら、研究所からくすねた実験装置で、例の薬を合成してやがった」
「あいつらということは、一緒に消えた同僚もいたんだな」
「ああ。倉庫にいるところを逮捕した」
「これで犯人は全員逮捕か」
「いや、まだだ。ブルドッグを締め上げて、山田組で関係したヤツを洗い出さなきゃ」
「ご苦労さん」
探偵さんが言うと、ママが上田さんのグラスに、ビールを注いだ。
「はい、どうぞ」
「お、すいません。美人に注いでもらうとビールもうまい」
「お上手ね、宮下さんといい、上田さんといい」
ママは笑った。
「ねえ」
あたしは、そんなママを無視して探偵さんに聞いた。
「さっきの話の続きは? ユリアさんと連絡が取れてから」
「ああ、そうだった」
探偵さんは、上田さんとグラスをカチンって合わせてから続けた。
「ユリアと連絡を取ったのは、すでに六時に近かった。わたしと上田は、そのときまだ七瀬さんの安否を確認するため、中野付近にいたから、上田に赤色灯を回してもらって、現場に急行した。純一が最後に連絡してきた青山霊園にね」
「純一くんの情報だけが頼りじゃない」
上田さんが話に割り込んだ。
「携帯電話の会社に連絡して、純一くんの携帯の位置を割り出した。それと青山霊園が一致したんで、こりゃ間違いないってことになったわけさ」
「それで、わたしと上田が到着したとき、ちょうど、大家さんが相沢の兄に飛びかかるところだった」
「ビックリしたなあれには」
上田さんが笑った。
「オレは一瞬、妖怪が出たのかと思ったぜ」
「こりゃ!」
カウンターの高橋爺ちゃんが言った。
「妖怪とはなんじゃ、妖怪とは。まあ草薙は、わしらの中で一番しわくちゃじゃが」
「いや、すいません。なにせ場所が墓だったんで」
「でもさ」
と、あたし。
「大家さんたち、よくあたしたちの場所わかったね」
「じつは美緒ちゃんたちは見失ったんじゃ」
お寿司屋のおジイさんは、お寿司を握りながら答えた。
「そしたら、自転車に乗った巨大なリカちゃんを見かけてな。いくらなんでも、見るからに怪しすぎるんで、もしやと思ってヤツを追っていったんじゃよ。巨大なリカちゃんは追いかけやすくてよかったわい」
「へえ。役に立ったんだ、ブルドッグさん。よかったね宮下」
「よくないよ。うーっ、また思い出しちゃった。あいつこそ妖怪だよ。場所がお墓でなくても」
宮下はブルブルと頭を振った。まだショックから立ち直ってないみたい。
「冗談はともかく」
探偵さんが続けた。
「矢部をいつでも撃てるよう、上田に待機してもらってから、わたしも純一たちの仲間に加わったというわけだ。その先はご存じの通り」
「宮下さん」
ママが探偵さんに聞いた。
「あのとき、矢部が胸ではなく、頭を撃つとは思わなかったんですか?」
「考えなかったと言えば嘘になりますが、ふつうは胸を狙うモノですよ」
「なぜ?」
「人間の体の中で一番大きい的ですから。頭を狙っても当たる確率は低い」
「でも危険はあった?」
「それはまあ……もちろんです」
「なのに、自分が標的になって、わたしを助けてくださったんですか?」
「もっとよい方法があったかも知れませんが、あのときは必死でした。お恥ずかしい限りです」
「いいえ。すごくカッコよかった。ねえ美緒。あなたもそう思うでしょ?」
「え?」
あたしは、ママに言われて、顔が引きつった。
「ま、まあね。ママがそう思うなら、それでいいんじゃない」
やばい。もう絶対この雰囲気はあれだよ、あれ。
まいったなもう。
でもまあ……いいか。
みんな無事だったし。終わりよければ、すべてよしってね。
めでたし、めでたし。
これで終わり?
ううん。まだ続きがあるんだ。
その事件は、つぎの日曜日に起こったの。
038
つぎの日曜日は、すごくいい天気だった。
あたしは、日曜日なのに、また早起きして、珍しく化粧なんかしてた。リップグロスを塗って唇を艶々にすると、アイシャドウなんかも入れちゃったりして。でも、問題は着ていく服なんだよね。あいつ新しい自転車で来るからさ。
そう。じつは、あたしも自転車買っちゃった。探偵さんからもらったバイト代で。
へへへ。十五万円ももらっちゃった。まあ、そのうちの五万円は返してもらったようなもんだけど。ついでに言うと、あたしのバイト代は、商店会に請求するらしい。探偵さんもちゃっかりしてるよ。
でね。そのお金で、白くてかわいい自転車買っちゃったんだ。でも一応スポーツバイクで、六段のギアもついてるんだよ。だって、あいつがさ、自転車でどっか行こうって言うから。ま、それもいいかなって思って。あいつのすごい自転車について行くには、ママチャリじゃ無理でしょ。というわけで、着ていく服に悩んでるわけ。
うーん。ホントどうしよう。なに着ていこうかな。かわいい服がいいけど、でも自転車に乗るから、動きやすくないと。
「美緒!」
ママが呼んだ。
「なに? いま忙しい!」
「もう九時よ! 彼が来ちゃうわよ!」
「彼じゃないよ!」
「まだ言ってる」
ママがあたしの部屋のドアを開けた。
「あんたも頑固ね。だれに似たのかしら」
「ママでしょ。似たのなら」
「そうかしら? あたしは着替えに手間取ったりしないわよ」
「なによ、ママだって――」
あたしはママを振り返った。ママもお出かけ用の服を着ていた。
「ん? なによ。ママも出かけるの?」
「ええ。出かけてくるわ。今日は夕飯作らないからね。彼と食べてきて」
「どこ行くの?」
「どこだっていいじゃない」
「気になる」
「なんで? いつもわたしがどこへ行くかなんて聞かないくせに」
「だって……」
「なんでもいいけど美緒。あんたいつまでパジャマでいるの?」
「あっ、そうだった! どうしよう。なに着ていこう」
「ポロシャツと、ジーンズでいいじゃない。自転車乗るんだから」
「ジーンズなんてかわいくない」
「かわいいわよ。美緒が着れば」
「人ごとだと思って!」
そのとき、インターフォンが鳴った。
「あー! やばい! 来ちゃった!」
「ごめんね」
ママがクスッと笑った。
「あなたの彼じゃないと思う」
「ま、まさか!」
あたしは、大急ぎでパジャマを脱ぐと、ポロシャツとジーンズをはいて、玄関に行くママを追った。
ママがドアを開けると、そこに立っていたのは、やっぱり探偵さんだった。
「おはよう。美沙子さん」
「み、み、み、美沙子さん!」
あたしは仰天した。いま探偵さん、ママのこと名前で呼んだ!
しかも、ノンちゃんまで出てきて、大喜びで尻尾を振りながら探偵さんに飛びついた。
「よしよし」
探偵さんはノンちゃんを抱き上げた。
「い、いつの間に……」
あたしは呆気にとられた。手が早いってホントかも。たった一週間で、ノンちゃんまで手なずけてるよ、この人は。ノンちゃんオスなのに。
「うふふ」
ママは笑いながら、あたしを振り返った。
「じゃあね美緒。行ってきます。あなたも楽しんでらっしゃい。彼氏とのデート」
「だから、彼氏じゃないってば」
「はいはい。いつまで、強情張ってられるかしらね」
「親子だね、よく似てる」
探偵さんは、笑いながら、あたしにノンちゃんを押しつけた。
「あら、わたし強情かしら?」
ママが探偵さんに聞いた。
「さあ、どうかな。それをこれから詳しく調査しよう」
「おあいにく様。簡単には教えませんよ」
「ほら、もう強情だ」
「うふふ」
探偵さんとママは、そう言って笑い合った。
なによ~、この大人の雰囲気。もしかして、これが一番の事件かも~。
「ママ……お願いだから娘の前でいちゃつかないでくれる?」
「いいじゃない。あなただってこれからデートなんだから」
「デートじゃないってば」
「じゃあ、いいこと教えてあげる」
ママは、あたしにウインクした。
「宮下さんから聞いたんだけど、あなたのクラスに、美緒のこと前から気になっていて、告白しようかどうしようか迷ってる男の子がいるんですって。その相談をされてたから、宮下さんは、あなたのこと、すぐにわかったみたいよ」
「え、え、え……それって、あの……」
あたしは心臓がドキッとなった。
「がんばってね。彼、いい子だから、ちゃんとゲットするのよ」
「ゲ、ゲットってなによ、ゲットって!」
あたしが言ったときには、もうドアが閉まっていた。あたしの腕に抱かれたノンちゃんが、寂しそうにク~ンって鳴いた。
うーっ。なんか悔しい。ママの、やっぱりこうなったわねって顔が。
それはそうと、そーだったんだ。あいつ、あたしのこと……なによ。だったら、もっと早く言ってくれてもいいのに。ぜんぜん気づかなかったよ。あいつも、探偵さんに似てポーカーフェイスなんだから。
そのとき、あたしのケータイが鳴った。メールのときの着信音。
「やばっ! こんどこそ来ちゃった!」
あたしはノンちゃんを下ろして、ジーンズのポケットに入れたケータイを出した。
『いま着いた。下で待ってる』
短い文面。絵文字もない。かわいくない。絵文字くらい使ってよね。同じauなんだからさあ。って、やばい、やばい、そんなこと考えてる場合じゃない。
どーしよう。いまから着替える時間は……ないよ。そもそも、なにを着ていくか決めてないし。
「ああ、もういいや、これで!」
あたしは、ポロシャツとジーンズのまま、ショルダーバッグを肩に斜めがけすると、ディズニーで買ったキャップをかぶって、下へ降りた。
「七瀬」
宮下が待っていた。心なしか青ざめてる。
「い、いま、七瀬のお母さんと叔父さんが、腕組んで歩いて行った……」
「知ってるわよ」
「すれ違うとき、七瀬のお母さんにウインクされた。あれって、どういう意味だ?」
「知らないわよ」
「意味深だったな」
「でしょうね」
「なんだよ。なにか知ってるって顔だぞ」
「知らないってば」
知ってるけど。
「それはそうと、これが自慢の新車?」
あたしは、宮下が乗ってきた自転車を見た。
「そうです! これですよ、これ!」
宮下は、まだピカピカのマウンテンバイクを、誇らしげに見せた。
「ふーん……あたし、自転車のことわかんないんですけど」
「でも、カッコいいだろ」
「カッコいいとは思うけど、二十万円には見えないね」
「まだ安い方だよ。高いのは五十万とか六十万とか平気でする」
「マジですか?」
「それより七瀬も買ったんだろ」
「あ、うん。待ってて」
あたしは、自転車置き場から、白い自転車を持って来た。
「どう? あたしのは三万円だけど」
「ブリヂストンのマークローザか。悪くない」
「詳しい……あんた自転車オタク?」
「調べたんだよ。ブリヂストンの買ったって言ってたから」
「マメだねえ。そういうとこ」
「これでも探偵の甥なんでね」
「そこが問題だけどね」
あたしは苦笑した。そのうちママに、ダブルデートしようなんて言われそう。
「ま、それもいいか」
「なに?」
「ううん。なんでもない。それより、どこへ行く?」
「どこへでも。自転車はどこにだって行ける」
「あたし、あんまり遠くに行けないよ」
「じゃあ、井の頭公園の方へ行ってみようぜ。吉祥寺で昼飯も食えるし」
「賛成!」
あたしたちは、自転車にまたがって走り始めた。
今日はすごく天気がよくて気持ちいい。
なんかいいな。こういうの。
ちょっと好きかも。
え?
宮下のことじゃないよ。
でもまあ……なんというか……その……
こいつのことも、ちょっと好きかもね!
終わり。
プレイデイを終えて 2009年06月30日
ブログでの連載小説はいかがだったでしょうか? 終わってみりゃあ、火曜サスペンス劇場みたいな小説になっちゃいましたが(苦笑)。
連載も終わったところで、ちょいと総括みたいなことを書いてみたいと思います。本当は、今回の実験を細かく分析して、エッセイにまとめようかと思ったけど、そこまで長い文章にはなりそうもないので、この「あとがき」を、エッセイの代わりにさせてください。
さて、Script1のトップページにリンクした導入ページには、「プレイデイ」というタイトルに深い意味はないって書きましたが、まあ、深くはなくても、少しぐらい意味はある。美緒たちが日常を離れて、まったく新しいことを始める日って意味と、毎日更新したいって希望を込めたわけなのです。とはいえ、毎日更新を約束するのは怖かったので(苦笑)、導入ページには、二、三日に一回更新なんて、弱気なこと書いてます。
でもまあブログですからね。毎日更新することを、密かに自分に課していました。結果的に、ほぼ毎日更新できたから、この課題は、なんとかクリアできたかなと。ただ、当初もくろんでいた実験は、ほとんどできなかったけどね。
以前「ブログについて」というエッセイにも書いたとおり、ブログで小説を連載するなら、ブログでやる意味があるモノにしたかった。具体的には、トラックバックによるリンクで、一人称小説をつなげたら、おもしろいんじゃないかなと。
なーんて、軽く考えたのが甘かったね。本当の本当は、美緒とユリアの一人称だけでなく、美緒ママも含め、主要な女性キャラの一人称を、すべて絡み合わせたかった。ところが、ふたを開けてみたら、そんなこと、ぜんぜんできなかったね。一応、そういう思惑の元、探偵というキャラがリンクのハブになるよう、三人全員と関わるように組んでおいたつもりだったんですけどねえ。
今ごろ気づくなよって怒られそうだけど、ぼくが考えたストーリー展開では、美緒以外のキャラの行動を知らせた時点で、ストーリー自体のネタバレになってしまう。それぞれに謎を残したまま、うまく書き分けられると思ってたんだけどなあ。ホント、これは考え方が甘かった。一人称同士のリンクは、それぞれが、伏線やミスリードになるような構成にするのがベストですな。あるいは、主人公だけが、なにも知らずに追い詰められていく話とかね。
そんなわけで、ぼくは、この実験のおかげで学びましたよ。いつかリベンジに挑戦したいと思います。リンクがあることで生きてくるようなストーリーを考えて、かつプロットをキチンと作れば、きっとおもしろい話が書けると思うんですよ。
もっとも、もうブログという形はとらないかも知れないけどね。なにせ、トラックバックに、変な広告が張られちゃうから。もう削除したけど、プレイデイにも、豊胸手術の勧誘と、歌舞伎町で、女の子の裸を見せるお店へのトラックバックが張られちゃった。山田組の陰謀かしら(苦笑)。
そろそろ、まとめますか。
今回の実験は中途半端に終わったけど、美緒と純一の活躍は、キッチリ書けたと思います。ジイさんたちも大活躍して、なにより、書いていて楽しい作品でした。読んでくださるみなさんも楽しんでいただけたとしたら、これに勝るよろこびはありません。
最後まで連載にお付き合いくださった読者のみなさま。ありがとうございました。とくに七転八起さんには、毎回コメントを投稿していただき、感謝感激です。もしかしたら、七転八起さんの投稿の方がおもしろかったかも(笑)。
あ、そうそう!
ブログとしてのプレイデイは、それほど遠くない未来に削除して、小説としてScript1のNovelページに移します。貴重なコメントがあるので、本当は消したくないんですが、ブログとして置いておくと、トラックバックに、変な広告が張られちゃうのですよ。残念なことです。
というわけで、ご愛読ありがとうございました!
この「あとがきコメント」は、ブログ連載時のものを、そのまま転記しました。