Sweet Generations

　プロローグ

　横浜ベイブリッチは、うねうねと波打つように傾き、所々崩れ落ちていた。この橋を渡る者は、もう誰もいない。
　その、かつて美しかった橋の上で、魔物と二人の男が対峙していた。
　空には夕闇が迫り、遠方に見える陸地に、ぽつぽつと街の明かりが灯り始めている。
　魔物は女の姿をしていた。長く伸びたプラチナ色の髪が、強い風になびき、純白の肌と彫像のように整った顔立は、この上もなく美しく、そして、冷たかった。
　魔物と対峙する二人の男は、一人は人間。そしてもう一人は、ケンタウロスであった。ケンタウロスとは、上半身が人間で下半身が馬の生き物である。
「智子を返せ、イザナミ！」
　人間の男は、鋭い長剣を構えながら魔物に迫った。
　イザナミと呼ばれた魔物は、人間に応じた。
「わたくしの提案を受け入れるならば、いつでもお返ししましょう」
「バカな！」
　ケンタウロスが、イザナミを睨み付けた。
「黄泉の世界を支配するなぞ、正気の沙汰ではない！」
「おまえに、訊いているのではない」
　魔物は、いかにも興味がないといった感じでケンタウロスの言葉を退けた。
　人間の男は言った。
「オレには黄泉の軍勢を相手にする気などない」
　人間はそう言いながらも、油断なく魔物との間合いをつめていた。
　魔物の瞳が冷たく光る。
「妻の命が失われることになっても？」
「くっ……」
　人間は、ぐっと奥歯をかみしめた。
「なんと、悪逆非道な！」
　ケンタウロスは、当惑と怒りで声を震わせた。
「もう、おわかりでしょう」
　魔物は急に声を和らげた。
「妻の命を失うか、わたくしと黄泉の世界を支配するか、どちらがあなたにとって有益な選択であることか……」
「どちらも無益だ！」
　人間はそう叫ぶと、突然魔物に襲いかかった。彼の動きは、一瞬何が起こったか分からないほど速い。しかし、魔物もさっと素早い動きで剣をよける。
　人間が剣を構え直すと、ふいに剣が光を放った。
「そう、その力……」
　魔物は、まばゆく光る剣を見て言った。
「わたくしはおまえの力が欲しい」
「きさまの思うとおりにはさせんぞ！」
　人間は、立て続けに切りかかった。
　魔物は懸命に人間の攻撃から身を守った。
　一方、ケンタウロスはウロウロと困惑していた。彼は弓の名手であったが、仲間と魔物の動きがあまりにも速すぎて、狙いが付けられずにいたのだ。
　しかし、人間に手助けは不要だった。興奮しているように見えても、彼の動きは超一流であった。その剣さばきは、ある意味で芸術にも近い。
　魔物は確実に追い詰められていた。
「愚かな……」
　魔物は忌々しそうに言い放った。
「なぜ、その力を冒険者などつまらん事にしか使わないのだ。この現世などより遥かに広大な世界を手に入れられるというのに」
「さあ、智子を返せ」
　人間は、魔物の言葉にまったく耳を貸さなかった。
「そうすれば命までは取らん」
「誰もわたくしを殺すことなどできない」
　魔物は人間を睨んだ。
「ならば、試してみるか」
　人間はふたたび剣を構えた。
「くだらんことだ……」
　魔物は、そう言うと懐から黒い石を出した。
　突然、魔物の周りに漆黒の闇が現れた。その闇は、真っ黒な穴のようにも見える。
「に、逃げるのか、イザナミ！」
　人間が叫ぶ。
　魔物は顔をしかめた。しかし、なにも言わず、闇の中に体を滑り込ませる。そして、穴に落ちるように消えていった。
　ケンタウロスが、あわてて人間のそばに寄った。
「た、卓也、どうする！　これでは智ちゃんを助け出せないぞ！」
「追いかけるさ」
　人間は、冷静に言った。
「お、追いかけるだって！」
　ケンタウロスは、心底驚いた表情で仲間を見た。
「イザナミの入った穴はまだ消えていない。今なら黄泉の世界に行ける」
　と、人間。
「バカな！　死にに行くようなものだぞ、卓也！」
　ケンタウロスは叫んだ。
「心配するな、ライアス。生きて帰ってくるさ。智子を連れてな」
「待て、卓也。考え直せ！」
「オレは、考えるのが苦手だ」
　人間はそう言って、両手を大げさに広げてみせた。
「考え直すのはもっと苦手だよ」
「卓也……」
　ケンタウロスは、これ以上、彼を説得しても無駄だと悟った。仲間の男は、こうと決めたことは必ず実行する男である。そのことはケンタウロス自身が誰よりもよく知っていた。
　ケンタウロスは意を決した。
「わかった。オレも行く」
「ダメだ！」
　人間は、ケンタウロスの言葉を予期していた。
「オレは妻を……　自分の女を助けに行くんだ。ライアス。おまえの女房は、家でおまえの帰りを待っているじゃないか」
「仲間を見捨てて一人だけ残れるものか！」
　ケンタウロスは強い口調で言った。
「オレも智ちゃんを助けにいくぞ！」
「ああ、おまえは仲間だよ。最高のな」
　人間は、ケンタウロスの腕を握った。
「ライアス、お願いだ。オレは必ず戻る。だから、それまで息子の……　一也の面倒を頼む」
「な、なにを言う」
　ケンタウロスは戸惑った。
「ケンタウロスに育てられた人間なんて、聞いたこともない」
「ははは」
　人間は笑った。
「ヘラクレスはケンタウロスに教えを請うたそうじゃないか」
　神話を持ち出されるまでもなく、ケンタウロスにとって、仲間の子供の面倒を見ることは、なんの問題もないし躊躇もない。だが、それを承知することは、仲間を一人で黄泉の国に行かせることになるのだ。
　魔物の入った穴が消え始めた。人間はあわてて、穴に体を滑り込ませる。
「後は頼むぞ、ライアス！」
「卓也！」
　ケンタウロスも後に続こうとした。だが、穴は人間が入った直後に消えた。
「た、卓也ー！」
　なにもない空間に向かって、ケンタウロスは叫んだ。

　１　冒険者学校

　時は、西暦二〇四六年。所は日本。
　草木も眠る丑三つ時……
　月明かりが、うっすらと寺の境内を照らしていた。そこには、海底に堆積したヘドロのように、どんよりと不気味な妖気が漂っている。昼間うるさいほど鳴いていたセミたちは、すっかりなりを潜め、耐え難い静寂だけが、境内を支配していた。
　ピョコ。
　境内に植えられた神木の陰から、一人の青年が顔を出した。
　ピョコ。
　続いて、青年と同い年くらいの女の子が顔を出す。
　ピョコ、ピョコ。
　またまた、別の男女が顔を出す。
　四人の若者は、一段と強い妖気を発する本堂をうかがっていた。蒸して湿った空気が、ねっとりと彼らの肌にまとわりつき、にじんだ汗が頬をつたって、あごの先からポタリと落ちる。
「こ、こわいよゥ～」
　ヘンテコな形の杖を持った女の子が、青年の腕にしがみついた。まるで、捨てられた子猫のように震えている。
　彼女の名はスセリ。歳は十六歳。赤毛の髪をショートカットにして、快活な印象を与える女の子だ。が、よく見ると、耳がエルフと人間の中間ぐらいの長さである。実はこの子、ハーフエルフなのである。ちなみに、お母さんがエルフで、お父さんが普通の日本人だ。
「だ、大丈夫だよ、たぶん……」
　スセリにしがみつかれた青年は、当然ながら悪い気はしない。だが、今はそれどころではなかった。自分自身、体が震え出すのをこらえているのだ。
　彼の名は一也。種族は人間。スセリと同じ十六歳。見た目は、ジーンズ姿のごく普通の若者だが、サバイバルナイフを大きくしたような長剣を構えていた。それは、偽物ではないと主張しているかのように、冷たく輝いている。
「ふん、まったく修行がたりんな！」
　一也の後ろにいる青年がぶっきらぼうに言った。威勢はいいが、ひざが震えているのが情けない。名はシルビオ。彼も同じく十六歳。種族は人間。名前から察する通り、純粋なイタリア人である。しかし、育ちは日本なので流暢な日本語を話す。
　彼もまた普通ではない。なんと、山伏のような格好をしているのだ。ご丁寧に数珠まで持っている。意外なことにラテンの濃い顔と山伏の格好が似合っている。そういえば、スパゲッティーと明太子もよく合う。
「シ、シ、シルビオだって、声が震えてるじゃないさ」
　しんがりの女の子が、自分も震えた声で言った。
　名は麗香。これまた十六歳の人間である。麗香はスセリとうって変わって、長い髪の艶やかな美人である。自慢の黒髪は、月明かりの下でも艶を失うことはなく、スリムのジーンズが形の良いヒップと長い足を強調している。顔立ちもプロポーションに負けておらず、すっと通った鼻筋と薄く形の良い唇は、美人の典型と言ってもよいほどであった。
　と、そんな四人なのだが……
「ねえ、やっぱ止めようよゥ～」
　スセリは、泣きそうな声で一也にしがみついた。
「う、うん、それがいいかもしんない」
　一也も情ない声を出す。
「だーっ！　おめーら、いい加減にしろっ！」
　シルビオが一也の後ろで怒鳴った。ただし、小さい声で。
「また、単位落としたいのかよ。オレたちゃ、もう後がないんだぞ！」
「だから、あんたもひざが震えてるってば、シルビオ」
　くどいようだが、そう言う麗香のひざだって震えている。
「と、とにかくだ、いつまでもここに隠れてたって、しょーがねえだろ」
　シルビオは早く行けよと、一也をせっついた。
「バ、バカ、押すなよ！」
「だから、早く行けってば！」
「先鋒になる身にもなれよな！」
「んな、こと言ったって、剣士はおまえだけだろーが」
「そういうシルビオこそ法師だろ！　寺は専門じゃないか！」
「あのね、剣士が先鋒になるってのがロールプレイングゲームの定石なんだよ」
「これはゲームなんかじゃない。現実だぞ」
　一也はシルビオに抗議する。
　だが。シルビオはひるむことなく言い足した。
「一也。おまえはリーダーだろ。違うか？」
　麗香もコクコクとうなずいている。スセリは一言、「こわいよゥ～」と涙ぐんだ。
「チェッ、こんな時ばっか、リーダー扱いするんだもんなァ」
　一也は舌打ちすると、剣の輝きを確かめながら柄を握り直した。そして、大きく深呼吸したあと、意を決して神木の陰からサッと身を乗り出した。
「さあ！　どこからでも掛かってこい妖怪ども！」
　一也が威勢よく叫んだとき。どこからともなく鐘の音が！
　ゴオ～ンンンンンンン
「キャーッ！」
　スセリが悲鳴をあげた。
「や、やばい！　逃げろーっ！」
　一也はスセリの手をとると、一目散に逃げ出した。
「ままま、待ってくれー！」
　シルビオもあわてて一也たちの後を追う。
「ちょっと、やだ！　あたし、走れないってばァ！」
　いや、けっこう速いぞ、麗香。

　東京は市ヶ谷に冒険者を養成する学校がある。その名を、市ヶ谷冒険者養成高等学校という。なんだ、そのまんまじゃないかと思われるだろうが、できれば、そっとしておいて頂きたい。
　ところで、なぜ、冒険者を養成する学校があるかというと、話は今を去ること、四十六年前に遡る。
　西暦二〇〇〇年七月。いつも通りの夏であった。しかし、その日、なんの前触れもなく地球全土に大異変が起きたのである。
　カッ！　と、大気を切り裂く音がしたかと思うと、空に黒い染みのようなものが現れた。それは見る見るうちに膨らんで、渦を巻きながら成長していった。
　渦は全天を覆いつくすまで成長すると、その中心から無数のなにかを降り注ぎ始めた。
　最初、点にしか見えなかったそれは、なんとモンスターであった。伝説やおとぎ話で慣れ親しんだ怪物たちである。もっとも、それは、幻でもかぶり物でもない、本物であった。
　モンスターが地表に降り立つと、それはもう、大騒ぎであった。ゴーレムやミノタウロスなどの筋肉系モンスターは、喜々として人間の町を破壊し、世界中の都市は瞬く間に破壊されてしまったのである。
　後でわかったことだが、彼らモンスターは、それぞれ、彼ら自身の世界で渦にすい込まれ、気がつくと地球にいたのである。ゴーレムとミノタウロスはもともと別の世界に住んでいたのだが、地球では意気投合して人間の敵となった。
　もちろん、人間は応戦した。だが、モンスターと人間は体の構造が違いすぎて、人間が人間を殺すために作った兵器は、ほとんど役に立たなかったのである。
　このまま人間は絶滅するかに思われた。しかし、人間は滅びなかった。邪悪なモンスターを排除したいと願ったのは、人間だけではなかったのだ。モンスターの中には極めて理性的で善良な者も多く、彼らが邪悪なモンスターに対抗したのである。
　まず、代表格といえるのが、エルフ。エルフは精霊魔法が使える。精霊魔法とは、自然界に存在する精霊を呼び出し、その力を借りて魔法をかけるのである。
　あるいは、ケンタウロス。彼らは、気高い精神の持ち主で弓の名手でもある。ケンタウロス自身には魔法の力はないが、彼らの作る弓の矢には特殊な力が宿り、それをもって邪悪なモンスターを退治した。
　そのうち、人間だって、まんざらでもないことがわかった。少数だが、もともと人間の中にもモンスターに対抗できるだけの魔法を秘めた者がいたのだ。以前から、超能力と呼ばれていた力である。そういった人間の眠っていた能力を、エルフたちが精霊の力を借りて引き出すことに成功したのだ。人間にも魔法が使える事がわかると、彼らの才能を伸ばすため、すぐに学校がつくられた。
　もちろん、魔法を使うことのできない人間も、指をくわえて見ていたわけではない。ケンタウロスの矢のように、魔法のかかった武器ならば、モンスターを倒すことができるのだ。そうなると、ミサイルや戦車に魔法をかけたくなるのが人間の常である。だが、そうはうまくいかない。魔法をかけられるのは、剣や矢などの小さい物だけで、また、都合の悪いことに小さすぎるもの（ピストルの弾とか）には、魔法の力が十分にかからず、使い物にならないのだ。つまり、昔ながらの剣や矢が、モンスターに対してもっとも有効な武器なのである。ずいぶん都合のいい話だと思われるだろうが、そっとしておいて頂きたい。
　ともかく。こうして、剣士が誕生することになった。彼ら剣士たちもエルフやケンタウロスの元で技を磨いた。
　この学校は、まったく正解であった。卒業生が増えるに従い、モンスターとの戦争は、しだいに収束していったのである。こうして、世界は徐々に安定を取り戻していったのである。のちに、その学校は冒険者学校と呼ばれるようになる。

　市ヶ谷冒険者学校は、モンスターの現れた翌年の、西暦二〇〇一年に創立された伝統ある学校である。今までに、優秀な冒険者を数多く輩出している。
　一也たちは、その市ヶ谷冒険者高等学校の現役の生徒であった。しかし今、職員室に呼び出され、非常にやばい状況に追い込まれていた。
「で、モンスターの姿も見ずに逃げてきたって訳ね」
　イオリイ先生はメガネを拭きながら言った。
　イオリイ先生は人間ではない。エルフである。エルフは耳も長いが、寿命もなが～い種族である。イオリイ先生も、一見、二十代半ばぐらいに見えるが、本当は百五十歳を越えているのである。エルフとしては若い方だが、人間の基準ではりっぱなお婆さんである。
「でも、イオリイ先生。すごい妖気だったんですよ！」
　一也が必死に弁解した。
「モンスターが妖気を発するのは当たり前です！」
　イオリイ先生はピシャリと言った。厳しい先生なのである。もっとも、おととい、お気に入りの自転車が故障して、ちょっとご機嫌斜めなのも事実ではある。
「まったく……　どうして、あなたたちは夜行性モンスターに弱いのかしら？」
　イオリイ先生はメガネをかけ直すと、一也たちを見てタメ息をついた。
　そう、一也たちはそろいもそろって、夜行性モンスターが苦手なのである。昼間のモンスターに関しては、なんとか合格ラインなのであるが、どうも、怪談調には弱い。
「こんなことでは、とても合格は無理ねェ……」
　一也たちは、イオリイ先生の言葉に青くなった。中間テストを落とすのは、非常にマズイのである。貴重な夏休みが補習に消えてしまうのだ。なんとかしなければ！
「先生、お願いです！」
　一也は、いちるの望みをかけてイオリイ先生に懇願した。
「もう一回、追試をして下さい！」
「何度やっても、同じことでしょう？」
　イオリイ先生は、やれやれといった感じで、頭を振った。
「んな、ことねーよ！　試験の方が悪いんだ！」
　ただでさえ口の悪いシルビオが、イオリイ先生に突っかかる。
　イオリイ先生の右の眉がぴくりと上がった。本格的に怒り出す前触れである。
「お、おまえは黙ってろって！」
　一也は、シルビオがこれ以上、状況を悪化させないように、早口でまくし立てた。
「確かにきのうは失敗しました。でも、ボクたちは夜行性モンスターは専門じゃないんです！　昼間だったらあんなモンスター簡単に倒せます！　だから、もう一度チャンスを下さい！　今度こそ合格して見せます！　ホントです！」
「でもね、一也君」
　イオリイは、一也を諭すように言った。
「モンスターは夜行性も多いのですよ。昼間だけでは、冒険者として頼りなさすぎます」
　ごもっともである。
「え、えーっと、そう！」
　一也は、作戦を変えた。
「昼間のモンスターで経験を積めば、夜行性だってきっと倒せます！　だから、お願いです、もう一度追試して下さい！」
　イオリイ先生は、ふたたびタメ息をついた。
　一也は『おまえたちも言えよ！』という目で仲間を見る。
　スセリは、一瞬キョトンとしたが、すぐに一也の意を理解した。
「イオリイ先生。今度こそうまくやります。お願いです、追試の追試して下さい！」
　麗香も加わった。
「先生、お願い。もう一度、もう一度だけ、ね、ねっ！」
　シルビオも試験に合格して、楽しい夏休みを送りたいのは同じである。彼にしてみれば丁寧な言葉で言った。
「先生、今度はうまくやるからさァ、頼むよ！」
「お願いします！」
　最後を一也がしめくくった。
「しょうがないわねェ、あなたたちは」
　と、言いつつ、バカな子ほど可愛いというのはエルフ族も同じようで、イオリイ先生は、一也たちを少しだけ可愛いと思った。
　一也たちは、期待に輝く瞳で、イオリイ先生の言葉を待った。
「本当に、これが最後ですよ」
「ありがとうございま～す！」
　四人のバカ者は、じゃなくて若者たちは、ハモリながらにんまり笑った。

　２　滝沢旅館の怪

「暑いわねえ……」
　麗香は、うなぎ弁当のフタをうちわ代わりにして、パタパタと自分を扇いでいた。
「まったく、よりによってクーラーが休んでる電車に、乗らなくたっていいじゃないさ」
「わざわざ、乗ったわけじゃないよ」
　もぐもぐ。
「たまたま、クーラーが休みだったんだってば」
　もぐもぐ。
　一也は冷凍ミカンを食べていた。
「わかってるわよ、そんなこと」
　麗香はぶつぶつ言った。あまりにも当たり前のことを言われると、かえってイライラするものである。
「カズヤ、冷凍ミカンっておいしいねェ」
　スセリは、一也の隣で、うれしそうに冷凍ミカンをほおばっていた。
「レイカも食べる？」
「いらないわよ！」
　一也たちは東海道本線の車中にいた。今は、西暦二〇四六年である。とっくの昔にリニアモーターカーが走っていてもおかしくない。だが、機械文明はモンスターによってズタズタにされたのだ。ＪＲの東海道線本線も八年前にやっと復旧したのである。それも、蒸気機関車である。
　これには、もっともな理由がある。新しい蒸気機関車は、石炭を燃料にしているわけではなく、炎の精霊が水を蒸気に変えているのだ。むかし騒がれた環境破壊はまったくないし、初任給二十五万円のこの仕事は、炎の精霊にとって魅力的な就職先だった。車内の冷房は、風の精霊のアルバイトである。ちなみに時給千二百円。結構いい。
　ところで、一也たちが東海道線に乗っている理由は、遊びに行くためではない。イオリイ先生の追試の追試を受けるため熱海に向かっているのだ。イオリイ先生によると、熱海の温泉街に土蜘蛛が出没して、町を破壊したとのことである。もっとも、一也たちの課題は、土蜘蛛を退治することではない。モンスターが発生した場合、地元の警察が冒険者協会に連絡して、速やかに冒険者が派遣されるのだ。当然、熱海の土蜘蛛も他の冒険者によってすぐに退治されているはずである。
　と、いうわけで。一也たちの仕事は町の復興の手伝いであった。冒険者がなんでそんなことを。と思ってはいけない。冒険者だって下積みは大切なのである。それに、『市民に愛される冒険者』というのがイオリイ先生の教育方針でもあるのだ。
　一也たちは、七月いっぱい復興を手伝ってテスト合格である。夏休みが少しつぶれるが贅沢は言えないのであった。
「今度はモンスター退治じゃないから楽だよな」
　と、一也。いささか情けない。
「まあね。肉体労働には違いないけど」
　麗香は、おもしろくなさそうに言った。
「だいじょーぶよ、レイカ」
　スセリは、ニッコリ笑った。
「肉体労働は男の仕事だもん。ねっ、カズヤ！」
「ええっ、そりゃないよ！」
　一也は飛び上がった。
「あはは、かんばってね。一也！」
　麗香も、愉快そうに笑った。
「ひどいなあ～」
　ぶつぶつと、一也。
「へへっ、疲れたら、あたしが介抱してあげるって」
　スセリは、よく動くグリーンがかった瞳で一也にほほえんだ。ちょっと小悪魔的な笑顔。
　ドキッ！
　一也は心臓が高鳴った。スセリはたまに、冗談とも本気ともつかないようなことを言う。
「よし、わかった！」
　珍しく（ホントに珍しく）静かに本を読んでいたシルビオが、急に大声で叫んだ。
「ビ、ビックリしたァ！」
　スセリは三個目の冷凍ミカンを落としそうになった。
　シルビオはそんなことお構いなしに、不敵な笑みを浮かべた。
「フフフ、おまえたちがくっちゃべってる間、オレがなにをしていたと思う？」
「寝てたんじゃないのか？」
　なにを今更と、一也。
「ちがーう！」
「だって、シルビオが静かなのって、なんか食べてるときか、寝てるときじゃないか」
　事実であった。
「うっ……　ま、まあ、聞けよ。おまえら土蜘蛛の弱点を知りたくないか？」
「火だろ？」
　と、一也。
「へっ？　一也、なんで知ってんだァ？」
「あーっ！」
　スセリが叫ぶ。
「シルビオ、こないだの授業、居眠りしてたでしょ！」
「うっ……」
　ふたたび、事実であった。
「それにさあ」
　一也は言った。
「オレたち、土蜘蛛を退治しに行くわけじゃないぜ」
「うっ……」
　一也たちは、シルビオがどんなフォローをするか待った。
　シルビオは思慮深く腕を組むと、遠い目をしながら言った。
「むう。色即是空、過ぎたるは及ばざるがごとし……か」
　うんうんと、一人うなずく。
　麗香が冷ややかな眼差しで言った。
「バカ……」

　そんな一也たちを見つめる目があった。暗い部屋で水晶球を眺める女性。イザナミである。一也たちの姿は、イザナミの見つめる水晶球に映っていた。
「これが息子か……」
　イザナミは一也を凝視していた。
「父親とは比べ物にならぬな」
　イザナミは、パンパンと手をたたいた。
「猫姫、猫姫はおらぬか！」
「は、はい。お呼びですか」
　三人の若い女が、どこからともなく表れた。猫の瞳と耳、そして、尻尾を持った娘たちである。けっこう可愛い娘たちだが、イザナミの前ではどこか怯えているように見えた。
「これをご覧なさい」
　イザナミは、猫姫たちに水晶球を見るよう、うながした。
　猫姫たちは水晶球を覗き込んだ。
　イザナミは、一也を指さす。
「この人間は、卓也の息子なのです」
「あの、イザナミ様……」
　猫姫たちは、縮こまりながら訊ねた。
「あの男の息子を、どうされるおつもりですか？」
「囚えなさい」
　イザナミは冷たく言い放った。
「ええっ！」
　猫姫たちは、イザナミの命令にうろたえた。
「安心なさい。彼は父親のような力を持っていません」
　イザナミはそう言うと、冷たい瞳に憎悪のかげりを見せた。
「そう、あの男のような力はない」
「で、でも、イザナミ様。息子を捕まえてどうするんですか？」
「ふん、卓也もさぞや喜ぶだろう」
　イザナミの顔に冷たい笑みが浮かんだ。
「もうずいぶんと、息子には会っていないから……」
「あの～、イザナミ様。お言葉ですが、卓也ってやつは妻を人質にされても言うこと聞かないんですよ。息子を人質にとったところで……」
　猫姫たちはいぶかしげに言った。
「妻といっても、しょせんは赤の他人」
　イザナミの瞳が残忍な輝きを増した。
「でも、人質が血を分けた息子ならどうかしらね？」
「なるほど、さすがイザナミ様」
　猫姫たちはうなずきあった。
　イザナミは、卵ぐらいの大きさの黒い石を取り出した。
「さあ、この宝生石 を使って現世の世界に行くのです」
　猫姫たちが石を覗き込む。
「ええと、これに念を加えれば現世への扉が開くんでしたね」
「そう。わかっているなら早く行きなさい」
「はい！」
　猫姫たちは消えた。
　イザナミは、猫姫が消えたあと一人つぶやいた。
「必ず、卓也をわたくしのもとにひざまずかせてみせる……」
　その瞳には残忍な炎が燃えていた。

　その頃、一也たちは、自分たちを観察する者がいるなど夢にも思わず、どこまでも緊張感のないまま、熱海駅に降り立った。
　熱海も四十七年前の大異変でモンスターによって瓦礫の山と化したのは例外ではない。だが、熱海の温泉は不滅であった。住民の努力と冒険者たちのおかげで、見事に復興したのである。なにしろ、善良なモンスターたちも温泉が好きだったのである。
「な、なんか想像してたのと違うなァ……」
　一也は、ホームに降り立つと、拍子抜けた声を出した。
　土蜘蛛が発生して、熱海駅は閑散としていると思っていたのである。ところが、湯治客と観光客で熱海駅はいつも通りの賑わいであった。
「避難してきた人たちかしら？」
　と、スセリ。
「それにしちゃあ、なんか楽しそうに笑ってるぜ、あのバアさんども」
　シルビオはホームを見渡しながら言った。
「土蜘蛛が出たのって、すっごい山奥の方なんじゃない？」
　麗香も不思議そうに言った。
「う～ん」
　一也は、唸った。
「まあ、とにかく、温泉協会に行ってみよう」
　一也たちは、湯治のお客たちをかき分けながら、改札口を目指した。
「いや～、よく来て下さった！」
　改札を出ると、突然、はっぴを着たお爺さんが話しかけてきた。はっぴには滝沢旅館と染め抜かれている。
「あ、あのォ……」
　一也は、お爺さんに訊いた。
「失礼ですが、温泉協会の方ですか？」
「おお、自己紹介が遅れてしもうた。わしは、温泉協会の会長をやっとる滝沢源三郎という者じゃ。いや、ほんに、よく来て下さったのう」
「か、会長さんですか！」
　一也は、あわててお辞儀をした。スセリもペコッと頭を下げる。
「オレたち、あ、いや、ボクたちの方から協会に行くつもりだったんですが、まさか、会長さんが迎えに来てくれるなんて……」
　一也は、恐縮した。
　源三郎じいさんはヒラヒラと手を振った。
「いやいや、わしが勝手に迎えに来たんじゃ。あー、イ、イオ、イオ、おや？　なに先生じゃったかな？」
「イオリイ先生！」
　スセリが、もどかしげに叫んだ。
「そう、その先生が向かわせますって、言ってたんじゃが、待ちきれんでのう。駅まで来てしまったわい。わっはっはっは！」
　源三郎じいさんは豪快に笑った。
「元気だなァ、じいさん」
　シルビオがお約束の悪態をついた。
「コロッと逝っちまっても知らねえぞ」
　一也とスセリは〈あっちゃ～〉と、顔をしかめた。
　パカン！
　麗香がシルビオの頭を殴った。
「バカ！　会長さんになんてこと言うの！」
「いって～なあ、もう」
　シルビオは頭を抱えた。
「わっはっはっ、孫にもよく言われるわい！」
　源三郎じいさんは、シルビオの言葉を気にした風もなく、豪快に言った。
「あのォ、早速なんですが」
　一也は源三郎じいさんの機嫌のいいうちに切り出した。
「駅の様子だと、町が土蜘蛛に破壊されたようには見えないんですけど？」
「う、うむ、そのことじゃが……」
　源三郎じいさんは、それまでの明るさとはうって変わって、急に深刻な表情を見せた。
　一也たちは源三郎じいさんの変わりように驚いた。いやな予感がする。
「実は……」
　源三郎じいさんは、老人特有のしわを、さらに深くした。
〈ゴクッ〉
　一也たちは、唾を飲み込んで、源三郎じいさんの言葉を待った。
「わっはっはっは！　立ち話もなんじゃ、わしの旅館で一服ついてからにしよう！　うまい地酒があるんじゃ！」
　源三郎じいさんは豪快に笑った。
　ガクッ！
　一也たちはついに絶えきれず、吉本新喜劇のノリでズッコケた。
「なにしとる、こっちじゃ」
　源三郎じいさんは、振り返った。
「駅のすぐ近くなんじゃ。歩いて十分、走って三分じゃ！」
「コロッとどころか、あと百年ぐらい死にそうもねえな、あのジジイ！」
　シルビオが言うまでもなく、今度は、みな同じ気持ちであった。

　滝沢旅館は、源三郎じいさんが言うとおり駅に近かった。その旅館は、趣があるというか伝統があるというか、とにかくすごかった。
「怪物どもが出てきたときも、奇跡的にうちだけ壊されなかったんじゃ」
　源三郎じいさんは一也たちを部屋に案内しながら言った。
「壊されたほうがよかったんじゃねえか？」
　と、シルビオ。
「マッチ一本で全焼しちまうぞ、このぼろ家……」
「わっはっは！　今はこういうのがウケるんじゃ！」
　案内された部屋もすごかった。座敷童が出てきそうな部屋である。
「まあ、ゆっくりしてて下され」源三郎じいさんは一也たちを部屋に案内すると、いったん出て行った。
　部屋に取り残された一也たちはまんじりともせずに部屋を見渡した。解読不能な文字が書かれた掛け軸が、なんとも不気味に見えてしまう。まあ、掛け軸というのは大抵読めないものではあるが……
「なんだか、すごい旅館ねェ……」
　麗香は扇風機を独り占めしながら言った。言うまでもないがクーラーはいない。
「こないだのお寺を思い出しちゃうよゥ～」
　スセリは一也のそばに、にじり寄った。
「あ、暑いよ、スセリ」
　と、一也。ホントは、ちょっとうれしい。
「むっ、妖気を感じる……」
　シルビオがいきなり数珠を取り出した。
「ええーっ！」
　一也たちは驚いた。
　シルビオは驚く仲間を無視したまま、数珠を持った手を床の間にかざし、「南無～ぅ、カツ！」と、力を込める。
　一也たちは、シルビオの奇怪な行動をかたずを飲んで見守っていた。
「な～んちゃってな」
　シルビオはおどけた。
　ガクッ。
「ちょっとー、脅かさないでよ！」
　と、スセリ。
「まったく、いい加減にしなさいよ！」
　麗香がシルビオを睨む。
「ホント、悪い冗談だぜ！」
　一也も、冷や汗をふきながら言った。
　と、その時。すーっと音もなくふすまが開いた。
　ギックゥ！
　あまりのタイミングに、一也たちの寿命が三年ほど縮まった。だが、よく見れば、なんのことはない。旅館の人がお茶を持ってきただけであった。まったく心臓に悪い！
「いらっしゃいませ。遠いところをようこそ」
　入ってきた女性は、見たところ二十五～二十六歳だろうか。真夏にも関わらず、汗一つかかずに着物を着こなしている。そのせいか、見た目のわりには古風な印象で、佳人といった趣である。
　シルビオの目がキラリと光った。そして、その女性に抜け目なく近寄る。
「お嬢さん、お名前は？」
　シルビオが、いつもとトーンの違う声で訊いた。ラテンの血が騒いでいるようだ。
　一也たちは、〈また、始まった……〉と頭を振った。
　その女性は、自分より年下の男性に、お嬢さんと呼ばれて、戸惑いの表情を見せたが、すぐにニッコリとほほえんだ。
「節子と申します」
　女性は答えた。
「いい名だ、節子さん」
　と、シルビオ。すでにナンパモードに突入している。
「まあ、ありがとうございます」
「こらこらこら、所かまわず口説くなよ！」
　一也が、ついにたまらず言った。
「なんだよ。名前を訊いただけじゃないか」
　シルビオはそう言うと、ふたたび節子さんに向き直った。
「節子さん。仕事が終わったら、御前崎にドライブに行きませんか？」
　パカン！　麗香がおぼんでシルビオの後頭部を殴った。
「バカ、結局、口説いてるんじゃない！」
「いってえー」
　シルビオは、頭を抱えた。
　節子さんは、シルビオと麗香の様子を見て、クスッとおかしそうに笑った。
　と、今度は勢いよく、ふすまが開いた。
「おお、待たせたのう！」
　源三郎じいさんであった。源三郎じいさんは、戻ってくるなりどかっと座り込んだ。
「いやあ、これを探すのに手間取ったわい」そう言って、ドン！　と、日本酒を置く。
　お酒のラベルには『熱海灘』と書かれていた。なにか勘違いしているようなネーミングであった。
「これがうまいんじゃ！」
　源三郎じいさんは、うれしそうにフタを開けた。
「あなた、お若い人にあまりお酒を勧めてはダメよ」
　節子さんが、源三郎じいさんをたしなめた。この時代も、未成年は喫煙飲酒ともにご法度である。
「堅いこと言うな節子。わっはっはっ！」
　一也たちは一瞬考えた。ちょっと待て、今、節子さんは源三郎じいさんを『あなた』と呼ばなかったか？
「あの、もしもし……」
　シルビオが訊いた。
「節子さん、このジジイのことを『あなた』って呼びませんでした？」
「あっ！」
　節子さんは、ハッと、手で口を押さえた。
「わっはっはっ！」
　源三郎じいさんは、我が意を得たりとばかり得意満面に笑う。
「節子はわしの妻じゃ！」
　一瞬の間。
「ええーーーっ！」一也たちの驚きの声が、ぼろ屋の壁をビリビリと震わせた。
「ま、ま、まさか、ジジイ！」
　シルビオが叫んだ。
「節子さんの弱みを握って無理矢理！」
「こら！　なんてこと言うんだシルビオ！」
　一也があわててシルビオをたしなめる。
「魔が差したってこともあるだろう！　もちろん、節子さんの方が！」
　フォローになってないぞ、一也。
「そ、そうよ、なにかの間違いってこともあるわ！」
　どういう間違いだ、麗香。
「おじいちゃん、すっご～い！　どうやってダマしたの！」
　そこまで言うか、スセリ。
　と、まったくもって、失礼な若者たちであった。
「わっはっはっ。まだまだ、若い者には負けんぞい！」
　源三郎じいさんは豪快に笑った。
　このじいさんも、ただ者ではなかった。
「あなた、冗談はおよしになって」
　節子さんが困ったように言った。
「ほっほっほっ、すまん、すまん」
　源三郎じいさんは毛のない頭を掻いた。
「ごめんなさいね。主人たら若いころからこんな性格で……」
「わ、若いころからって……」
　一也が怪訝な顔をする。
「さてはジジイ、節子さんが子供のころから目ぇつけてたな！」
　と、シルビオ。
「ち、違うんですよ」
　節子さんは、あわてて否定した。
「たしかに、主人とは幼なじみでしたけど……」
「はぁ？」
　一也たちの頭の上に『？』マークが浮かぶ。一也たちの記憶に間違いがなければ、『幼なじみ』とは、お互いが子供のころからの友だちを指す言葉である。
　節子さんは、助けを求めるように源三郎じいさんを見た。
「うむ」
　源三郎じいさんはうなずいた。
「ほれ、節子の後ろをよく見てみい」
　と、節子さんの後ろの畳を、トントンと叩いた。
　一也たちは、われ先に節子さんの後ろに回る。
　しばし観察する一也たちの顔から、サーッと血の気が引いていった。
「かかかか！」
　一也たちは、ざざざーっと、後ろに下がり、壁にへばりついて震えた。
「か、影がなーい！」
　そのとおり！　節子さんには影がなかった！
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏！」
　シルビオは、目をつぶって念仏を唱えた。
　とたんに、節子さんは苦しみ……　出すどころか、「あらあら、驚かしてしまって、どうしましょう」と、心配そうに一也たちを見ていた。
「驚いたか、驚いたろう！　わっはっはっ！」
　源三郎じいさんは楽しそうに笑った。
　
　節子さんは霊体であった。むかし風に言えば幽霊というやつである。ただし、いわゆる足がない「うらめしや～」を想像してはいけない。節子さんはちゃんと足もあるし、いや、それどころか、実体そのものがあるのだ。一見、生きた人間と変わりないのが霊体の特徴なのである。影がないのと鏡に映らないのを除いてはだが……
　かれこれ小一時間ほど狼狽しまくっていた一也たちであったが、節子さんから邪悪な妖気がまったく感じられないので、落ち着きを取り戻していた。
「節子さんが霊体だったとはなァ」
　一也は、節子さんが入れ直してくれたお茶を、ずずっと飲んだ。
「ごめんなさいね」
　節子さんは、すまなそうに謝った。
「脅かすつもりはなかってんですが……」
「節子さんは悪くねえよ」
　シルビオは、ジロリと源三郎じいさんを睨んだ。
　一也たちの視線が、源三郎じいさんに集中する。
　源三郎じいさんは、自分を指さして言った。
「ん？　わしかァ？」
「わかってんじゃねえか、ジジイ！」
　と、シルビオ。
「わっはっはっ！　まあ、そう怒るな。まま、一杯」源三郎じいさんは、まったく悪びれた様子もなくシルビオの湯のみに『熱海灘』を注いだ。
　思わず、ぐびっと飲むシルビオ。
「うえっ、なんだこれ……」
「どうじゃ、純米大吟醸じゃぞ。うまいじゃろ」
　源三郎じいさんが、うれしそうに訊く。
「そ、そうか～あ？」
　シルビオは顔をしかめた。
「これならワンカップの方がうまいぞ」
「ワンカップじゃと！」
　源三郎じいさんは叫んだ。
「まったく、最近の若いもんは酒の味を知らんのう」
　どうでもいいが、未成年がお酒の味を知っていてはダメなのである。だいたい、シルビオがワンカップの味を知っていることも、問題なのである。
「ねえねえ、そんなことよりさァ」
　スセリは、興味津々といった感じで節子さんに訊いた。
「節子さんって、ホントはいくつなの？」
　節子さんは、歳を聞かれて恥ずかしそうに答えた。
「八十二になります」
「は、はちじゅうにいィ～」
　シルビオは、唸った。実は、八十二の婆さんをナンパしようとしていたのである。
「節子はわしと同い年の、昭和三十九年生まれじゃ。東京オリンピックの年じゃよ」
　源三郎じいさんが補足した。
「ふ～ん。でも、どうして節子さんは若く見えるの？」
　スセリが、不思議そうに訊いた。
「そういえば……」
　麗香が言った。
「心霊科の丹波先生が言ってたわ。霊体は、生前その人が一番輝いていた頃の姿に戻るんだって」
「その通りじゃ」
　源三郎じいさんは、うれしそうに言った。
「いまの節子は、わしと結婚した頃の姿じゃな。ホッホッホッ」
　節子さんは、クスッと笑った。
「さあ、あなた。そんなことより、そろそろ、ご説明して上げてくださいな」
　と、源三郎じいさんを諭す。
「そうですよ、会長さん」
　一也が身を乗り出した。
「さっきから、土蜘蛛のことも気になってるんですから」
「ああ、ありゃ、ウソじゃ」
　源三郎じいさんは、ケロッと言い放った。
「いや～ァ、イオなんとか先生に、本当のことを話すのがめんどうでなァ。つい、口から出任せをポロッとなァ」
　源三郎じいさんは、毛のない頭をポリポリ掻いた。
　なんとも、憎めないじいさんではあるが、さすがに一也たちは、あきれてしまった。
「じゃあ、今度こそ、ホントのことを聞かしてもらおーじゃねえか！」
　シルビオは源三郎じいさんに詰め寄った。
「途中で『わっはっはっ！』は、なしでね」
　一也が付け加えた。
「ふむ」
　源三郎じいさんは『熱海灘』を、もう一杯ぐっと飲み干すと、珍しく真面目な顔になる。
「さて、どこから話したもんかのう……」
「時間はたっぷりあるぜ」
　シルビオも熱海灘をチビリと飲みながら言った。
　源三郎じいさんは、ぽつぽつと、話し始めた。
「わしらには娘が一人おってのう。結婚してからも、わしらと同居して、娘婿と旅館を手伝ってくれておった。そのうち、娘夫婦の間に木ノ葉という女の子が生まれたんじゃ。そりゃ、喜んだもんじゃ。じゃが、その木ノ葉がまだ幼い頃、娘夫婦は組合の会合に出たきり、帰ってはこなかったんじゃ……」
　一也たちは、源三郎じいさんの話に聞き入っていた。
「その年はモンスターの当たり年での、娘夫婦も十分気を付けていたとは思うが、会合の帰り道で運悪くのう……」
　節子さんは、当時を思い出すように、しんみりと話を聞いていた。
「それから、わしらは木ノ葉を引き取ったんじゃ。いくら幼いとはいえ、木ノ葉にはずいぶんとショックじゃったろう。まあ、わしらとは、生まれたときから、一緒に暮らしておったから、じき、明るさを取り戻して、いい子に育ってくれたんじゃが……」
　そこまで話すと、源三郎じいさんは辛そうに節子さんを見た。節子さんも悲しい瞳でそれに応える。
「ま、まさか、その木ノ葉さんも？」
　一也が神妙な面持ちで訊ねる。
「ん？　いや、木ノ葉は元気じゃぞ」
　源三郎じいさんはケロッと答えた。
「ビ、ビックリしたァ」
　スセリが胸をなで下ろした。
「おじいちゃんの話し方だと、コノハさんも死んじゃったみたいなんだもん」
「おお、すまんすまん。今は学校に行っておるんじゃよ。ピチピチの女子高生じゃ」
　一也たちは、拍子抜けしつつも心底ホッとしていた。
「その子は……」
　シルビオは、ちらっと節子さんを見る。
「お婆ちゃん似か？」
「そうじゃのう」
　源三郎じいさんが答える。
「どちらかといえば、節子に似ておるかのう」
「そいつは結構！」
　シルビオは、源三郎じいさんの答えに満足した。
「シルビオ、話をまぜっかえすなよ」
　と、一也。
「会長さん、話の続きをお願いします」
「おお、そうじゃった、それでのう……」
　源三郎じいさんが話の続きを始めようとすると、誰かが玄関で叫んだ。
「会長さーん！　大変だ！　大変だ！」
「ん？　なんじゃいったい」
　源三郎じいさんは怪訝な表情で玄関に向かった。一也たちも、ただならぬ気配に源三郎じいさんの後に続く。
　玄関では、中年の男性が血相を変えて叫んでいた。
「ああ、会長さん、どうしよう、大変だ！」
「なんじゃい、どうした？」
「い、いま、駅前にでっかい蜘のモンスターが出てるんです！」
「ななな、なんじゃと！」
　みな、ビックリ！
「じいさん！　土蜘蛛はウソじゃなかったのかよ！」
　シルビオが源三郎じいさんを睨んだ。
「ううむ……」
　源三郎じいさんは右手で拳を作ると、左の掌でポンと叩いた。
「これがホントの、ウソから出た真じゃな！」
　ガクッ！　一也たちはズッコケた。

　３　木ノ葉救出

「う～ん、シ・ア・ワ・セ」
　木ノ葉は、学校の帰り道、友だちの紀子と駅前の喫茶店で、チョコレートパフェを食べていた。そこはビルの一階にあり、通りがわの壁がガラス張りになっている、なかなかオシャレなお店であった。
「木ノ葉ったら、ホントに好きねェ」
　紀子は、しげしげと木ノ葉を見た。
「だって～　おいしいんだもん」
　木ノ葉が、幸せそうに答える。
「ねえ、ねえ、ところでさァ、木ノ葉知ってるゥ？」
　紀子は、身を乗り出した。
「なによ？」
「夏美がね、二組の斎藤君とつき合ってるんだって！」
「うっそー！」
　木ノ葉は、大きな声を出した。
「ホント、ホント！」
　紀子がうなずいた。
「えーっ、ショックゥ！　あたしも斎藤君好きだったのに～」
　木ノ葉は、ガクッと肩を落とした。
「木ノ葉、好きだもんねえ、スポーツバカ」
「あのねえ、それを言うならスポーツ万能よ！」
　木ノ葉は、ツンと言った。
「アハハ、ごめんごめん」
　と、そんな会話をしていると、木ノ葉たちは、軽い揺れを感じた。
「地震かしら？」
　木ノ葉と紀子は、顔を見合わせた。
　揺れはだんだんと激しさを増し、喫茶店のガラスがビリビリと震えた。そして、ゴゴゴゴと地鳴りがしたかと思うと、駅前のアスファルトがボコッと盛り上がった。アスファルトは下から押し上げられる力に絶え切れなくなり、ざくろを割ったようにバックリと割れた。そして全長五メートルはあるかという、巨大なクモが姿を現す。土蜘蛛であった。
　駅前は逃げまどう人々で騒然と化した。土蜘蛛は、二匹、三匹とアスファルトの下から姿を現す。
「木ノ葉、逃げなきゃ！」
　紀子が叫ぶ。
「う、うん……」
　木ノ葉は、モンスターを目の当たりにするのは、これが初めてだった。足が竦む。
「何してんの！　早く！」
　紀子は、木ノ葉の手を取ると、店の入り口に駆け出した。
　とたん。ゴーン！　という轟音とともに、店の出入口が破壊された。
「キャーッ！」
　木ノ葉たちは、間一髪、崩れ落ちるコンクリートの下敷きになるのを免れたが、激しい揺れに、床に叩きつけられるように倒れた。ガラスの破片が飛び散り、木ノ葉たちの上に降りそそぐ。破壊された出口は、もうもうと、煙のような塵が舞った。
「紀子、大丈夫！」
　木ノ葉は叫んだ。
「あ、足くじいた……」
　紀子は、足を押さえながらうつむいた。
　もうもうと、舞う塵の中から、ガサガサと不気味な音が聞こえる。そして、うっすらと黒く巨大な影が見えた。
「紀子がんばって！」
　木ノ葉は、紀子の肩を抱くと、店の奥へと逃げた。
「キッチンの奥に行けば、裏口があるはずよ！」
　木ノ葉のひざからも、血がにじんでいる。ガラスの破片で切ったのだ。でも、いまは恐ろしさのあまり、痛みさえ感じなかった。木ノ葉は力を振り絞った。一秒でも早く、一歩でも遠くへ！
「あった！」
　木ノ葉は、裏口を見つけると、ドアのノブに取りついた。
「あ、開かない！」
　ドアには鍵がかかっていた。極度の緊張で、木ノ葉はそのことに気がつかない。
　その時、ドーンという轟音とともに土蜘蛛がキッチンに入ってきた。店全体がぐらぐら揺れる。キッチンの狭い入り口は完全に破壊されていた。
「キシャーッ」
　土蜘蛛のかん高い鳴き声が、木ノ葉たちの背後から迫る。
　木ノ葉は無我夢中で、ドアのノブを回す。
「開いてー！」
　ノブを回す手は、真っ赤に充血している。
「いやー！」
　紀子が木ノ葉にしがみつく。
「木ノ葉！　もうダメ！」
　紀子は、木ノ葉にしがみついたまま、泣き崩れた。木ノ葉もガクガクとひざを突いて座り込む。そして、恐る恐る振り返った。
　土蜘蛛はすでに五メートル程のところに迫っていた。土蜘蛛の複眼が、不気味に木ノ葉たちを見つめている。土蜘蛛はゆっくりと近づきながら、ねっとりとした唾液をダラダラと垂らして、醜い口を開けた。
〈ああ、あたしもモンスターに殺されるんだ……〉
　木ノ葉は恐怖の中で思った。父も母もモンスターに殺された。そして、次は自分の番なんだと。
　木ノ葉は紀子と抱き合うと、目をつぶってその時を待った。
「キシャーッ」
　土蜘蛛の鳴き声がする。木ノ葉は全身を硬直させた。時間がものすごくゆっくり流れているような気がする。
　ズン！　と、鈍い音がして床が震えた。
「大丈夫かい！」
　人の声がした。
「えっ？」
　木ノ葉は目を開けた。
　土蜘蛛が倒れて息絶えていた。そして、その上に見知らぬ青年が立っている。一也であった。
「危ないところだったね」
　一也は、木ノ葉たちに声をかけた。
　木ノ葉は、突然現れた青年を見上げた。その青年が冒険者とわかると、体からふっと緊張が抜けていくのを感じた。
　木ノ葉は改めて青年を見上げた。自分とそう歳が離れていないように見える。こんな若い剣士を見るのは初めてだった。
「ここは危ないよ。立てる？」
　一也は、土蜘蛛に差した剣を抜き取ると、土蜘蛛から飛び降りた。
　木ノ葉は、一也の軽やかな仕草に、思わずときめいてしまった。こうなると声まで格好よく聞こえてしまう。ここで、一也の八重歯がキラリと光ろうものなら完ぺきである。もちろん、金歯でもない限り歯が光るなんてことはなし、ここはマンガの世界でもない。
　一也は、てきぱきと動いた。まず、木ノ葉の隣で気絶している、紀子の様子を見る。
「やだ、紀子！　どうしたの！」
　木ノ葉もやっと、友人が気を失っているのに気づいた。
「大丈夫。気を失っているだけだみたいだ」
　と、一也。
「よかった」
　木ノ葉は、ホッとした。
「君も血が出てるじゃないか」
　一也は、木ノ葉の足から血がにじんでいるのを見ると、すぐに傷の様子を調べた。
「あっ！」
　木ノ葉は、ドキッと心臓が高鳴った。
「なんとか歩けるかい？」
　一也が、優しく声をかける。
「は、はい！」
　木ノ葉は答えた。
「よし。この店、もうじき崩れそうだ。早く出よう」
　一也は紀子を抱きかかえると、裏口を蹴破った。
　木ノ葉は、びくともしなかったドアを、簡単に蹴破った青年に驚いた。もう、どこまでも格好よく見えてしまう。実は、店自体がきしんで、鍵が外れていたのである。いまなら、木ノ葉でも簡単に蹴破ることができたであろう。さらに、土蜘蛛がレベルの低いモンスターであることも木ノ葉は知らなかった。
　一也たちが外に出ると、さらに三匹の土蜘蛛が暴れ回っていた。
「カズヤ！　大丈夫？」
　スセリは、女の子を抱きかかえた一也を見て、駆け寄った。
「ああ、この子たちが中にいたんだ。間一髪だったよ」
「この子どうしたの！」
「心配ない。気を失ってるだけだよ」
「やだ、そっちの子も、ひざから血が出てるじゃない！」
　スセリが叫ぶ。
「うん。麗香はどこだい？」
　一也は、辺りを見渡す。
「シルビオと一緒に、土蜘蛛退治してるわ」
「わかった。呼んでくるから、スセリはこの子たちを見ていてくれ」
　一也は、そっと紀子を地面に下ろした。
「あ、あの！」
　木ノ葉は、一也に礼を言おうとした。しかし、一也は木ノ葉の言葉より先に駆け出していた。
「カズヤ、がんばって！　あたしもすぐ行くからね！」
　スセリが声をかける。
「おう！」
　一也は、ちらっと振り返ってスセリに答えた。
〈あの人、カズヤっていうんだ〉
　木ノ葉は、心の中でつぶやいた。モンスターに駆け寄る一也の姿が、カッコよかった。と、木ノ葉は思った。

「キシャーッ」
　土蜘蛛が鳴き声を上げ、シルビオたちに迫っていた。
「麗香ァ、防御の呪文頼むぜ！」
「オッケイ！」
　麗香は防御の呪文を朗詠した。
「万物の根源を司る大いなる意思をもって、われ祈り願う。いま、数刻のとき、彼の者を包み守り賜え！」
　シルビオの体を青い光りが包み込んだ。
「終わったか！」
「バッチリよ。でも、気をつけて！」
「わかった！」
「キシャーッ」
　土蜘蛛は、醜い口をいっぱいに開いて、シルビオを威嚇している。
「へへ、土蜘蛛ちゃん、いま退治してやるぜえ！」
　シルビオは土蜘蛛との距離を二、三歩詰めて「南無ぅ～」と、数珠を持つ手に力を込める。そして、カッと、目を見開いて叫んだ。
「火炎爆裂！」
　突然、巨大な火の玉が炸裂し、土蜘蛛を炎の渦が包み込んだ。
「ギシャーッ！」
　土蜘蛛は、ひときわ激しい声を上げてもだえ苦しんだ。
　火炎爆裂はシルビオ得意の術である。その特徴は、見た目がハデ。その割には効果が弱い、である。
　案の定、シルビオの火炎では完全に仕留めることができなかった。土蜘蛛はブスブスと肉を焼く悪臭を漂わせて、シルビオに向かってくる。
「むむっ、往生際の悪いやつだ！」
　土蜘蛛は手負いの虎のごとく、猛然と突っ込んできた。シルビオは、ふたたび数珠をかざした。だが、土蜘蛛のスピードは思いのほか早く、呪文が間に合わない。
「や、やばい！」
　土蜘蛛の鋭い前足がシルビオを襲った。
「シルビオ、逃げてー！」
　麗香が叫んだ。
　と、その時。土蜘蛛の前足がスパッと切れて、黄色い体液が飛び散った。
　一也が寸でのところで、土蜘蛛の前足を切断したのだ。一也はそのままジャンプすると、鋭い長剣を土蜘蛛の首筋に突き刺した。一也は満身の力で剣を深く沈み込ませた。
「ギギーッ！　ギギ、ギ……」
　土蜘蛛は、ドッと倒れて息絶えた。
「か、一也、グットタイミング！」
　麗香が、ホッと胸をなで下ろす。
「昼間のモンスターならバッチリさ！」
　一也は、土蜘蛛からひらりと下りた。
「チェッ、おいしいとこ持っていきやがって」
　そう言いながらも、シルビオは、全身から冷や汗が、ドッと流れるのを感じていた。
「剣士が主役っていうのは定石なんだよ」
　と、一也。
「へいへい、そーでしょうとも」
　シルビオが、おもしろくなさそうに答えた。
　くどいようだが、土蜘蛛はレベルが低いのである。冒険者なら、普通倒せるのである。
「ところで、麗香」
　一也は、麗香に言った。
「駅ビルの前に怪我してる子がいるから、回復呪文をかけてやってくれないか」
「ええ、わかったわ。一也の防御はまだかかってる？」
「うん。まだ大丈夫だよ」
「じゃァ、行くわ。二人とも無茶しないでよ！」
　麗香は、駅ビルの方に駆けて行った。
　一也は、シルビオに向き直った。
「さってと、あと二匹かたずけようぜ、シルビオ！」
「おう！　どっちから行く？」
　シルビオは、いい気になって暴れている土蜘蛛を見た。
「あの薬屋の前で暴れてるやつからだ」
　と、一也。
「オッケイ！　とっとと片づけようぜ一也」
　一也とシルビオは走った。そして、土蜘蛛のバックを取る。
「シルビオ、呪文頼む！」
　一也は剣を構えた。
「おう、いくぜえ！」
　シルビオは、数珠を握りしめた。
「南無ぅ～、火炎爆裂！」
　炎の塊が炸裂し、土蜘蛛を包んだ。
「ギシャーッ！」
　シルビオの炎が弱まると、一也が飛び込んだ。土蜘蛛の首筋に剣を突き立てる。
「うおーっ！」
　グサッ！
「ギシャーッ！」
　土蜘蛛はドッと倒れた。
「ナイスコンビネーション！」
　シルビオが一也に声をかけた。
　一也も親指を立てて、ガッツポーズ。
「カズヤー！　うしろーっ！」
　スセリの声だった。
　一也がハッと振り向くと、すでに、もう一匹の土蜘蛛が迫っていた。
「しまった！」
　土蜘蛛の鋭い前足が一也を襲う。一也は、寸でのところで転がり落ちた。
「ファイヤーアロー！」
　スセリは杖を高らかに上げて、攻撃魔法の呪文を叫んだ。ファイヤーアローはシルビオの火炎爆裂と同じ炎系の呪文だ。
　とたん、杖の先がかすかに輝き、一本の炎が現れた。その炎は矢のような形になり、土蜘蛛に向かって飛ぶ！
「ギシャーッ！」
　土蜘蛛に、スセリの炎が命中した。
「いまだ！」
　一也が気を逃さず、土蜘蛛に飛びかかった。
「火炎爆裂！」
　同時にシルビオが火炎呪文をかける。
　当然、一也も炎に包まれた。
「あ、いけね！」
　と、シルビオ。
「あちっ、あちちちっ！」
　一也はあわてて火の粉を払い落とした。麗香の防御がかかっていなければ、こんがりウエルダンであった。
　土蜘蛛の方は、スセリのファイヤーアローとシルビオの火炎爆裂で、すでに火だるまになっていた。立て続けに火炎を浴びせられ、一也の出る幕もなく土蜘蛛は息絶えた。
「あ、あついよ、シルビオ！」
　一也は、文句を言った。
「わりいわりい、ワザとじゃないよ。ホントだよ」
　シルビオは、ポリポリと頭を掻いた。
「もう、二人ともなにやってんのよ！」
　スセリが駆け寄ってきた。
「火傷したよ～」
　一也は、「ほらほら」と赤くなった腕をスセリに見せた。
「うわ。赤くなってる！」
　スセリは、一也の火傷を見て声をあげた。
「早くレイカに見てもらわなくちゃ！」
「ヒリヒリするよ～」
　一也は、情けない声を出した。

　一也たちを見つめる六つの目があった。猫姫たちである。
「やはり、あの男の息子ね。一筋縄ではいかないわ」
　長女のヘスが言う。
「モンスター騒ぎの間に、一也って子を捕まえようと思ったのに……」
「そうよ、思ったのに……」
　次女のペリが姉に続ける。
「うん、思ったわ……」
　末っ子のデースも姉たちに続けた。
「こうなったら、もっと強いモンスターと闘わせるのよ！」
　と、ヘス。
「まあ！　さすが姉さん。すばらしい作戦だわ！」
「すごいわ、姉さん！」
「おーほほほ。次こそは、みてらっしゃい！」
　猫姫たちは高らかに笑った。
　どうやら、三人そろって、あまり頭はよくないらしい。

　熱海の駅前はだいぶ破壊されてしまった。だが、幸いなことに数人の怪我人が出ただけで、人的被害は最小限にとどめられた。モンスター退治としては上出来である。
「う～ん、やったなあ」
　と、シルビオが誇らしげに腕を組んで言った。
「ああ。こんなうまくいったのは初めてだ。火傷したけど……」
　と、一也。
「やっほー、みんな」
　麗香が戻ってきた。
「やったね、すごいじゃない！」
「おう。ちょろいもんだ」
　と、シルビオ。
「それより、レイカ。カズヤが怪我してるの。見てあげて」
　スセリが言った。
「あら、たいへん。どれ……」
　麗香が無造作に一也の腕を取った。
「い、いたいよ、麗香」
　一也が顔をしかめた。
「我慢しなさいよ。なんだ、たいしたことないわ。これならすぐ治る……　ん？　なんであんた火傷してんのよ？」
「火炎爆裂って意外とよく効くよ。なっ、シルビオ！」
　一也はシルビオを睨んだ。
「だから、ワザとじゃないってばよう～」
「まったく、なにやってんだか、あんたたちは……」
　麗香は呆れた顔で癒しの呪文を唱えた。
「万物を司る大いなる意思をもって、我祈り願う。この傷つきたるバカ者を癒し賜え」
　一也の腕が青白く光ると、火傷がウソのように消えていく。
「よかったァ、すぐ治って」
　スセリがホッと息をついた。
「ありがと、麗香。呪文のバカ者ってのがちょっと気になるけど……」
　と、一也。
「あら、呪文は臨機応変にかけなきゃ」
　麗香は楽しそうに言った。
「だから、よく効いたでしょ？」
「チェッ、ひどいなァ……」
「そういえばレイカ。駅前の女の子たちは？」
　スセリが訊いた。
「ああ、心配ないわ。怪我もすぐ治ったし。お巡りさんが非難させから、たぶん家に帰ったんじゃない？」
「そうか。よかった」
　一也はうなずいた。
「ちょーっと待て。女の子ってなんだよ？」
　シルビオが訊いた。
「駅前の茶店で、女の子が二人、土蜘蛛に襲われてたんだよ」
　一也が答える。
「なに、二人もか！」
　シルビオが叫ぶ。
「一也。おまえが助けたのか？」
「うん」
　と、一也。
「くそーっ！　なんでそう言う美味しいとこ、とっといてくんないんだよ！」
「とっとけるわけないよ。大福じゃあるまいし……」
「なに？　大福みたいな女の子か？」
「いや、どっちかっていうと、シュークリームみたいな子だったなァ」
　パカン！　パカン！　麗香がシルビオの頭を、スセリが一也の頭を同時に殴った。
「いってーっ！」
　一也とシルビオは頭を抱えた。
「まったく、男ってやつは！」
　スセリと麗香は、またまた、同時に怒鳴った。

　その頃、源三郎じいさんは温泉協会の若い衆とともに、温泉街復興本部を組織していた。さすがに手回しがいい。といっても、駅前に簡易テントを張っただけだが。
「いや、そうですか」
　一人の若者が源三郎じいさんに言った。
「あの方たちは、会長さんが呼んだ冒険者でしたか」
「うむ。そうなんじゃ。バッチグーなタイミングじゃったのう」
　源三郎じいさんは、昔の流行語で答えた。
「まったくです。助かりましたね」
　と、若者。しかし、ふと気がついたように訊く。
「でも、会長さん。なんで冒険者を呼んだんですか？」
「ああ、それはその、なんじゃ」
　源三郎じいさんは、もごもごと口ごもった。
「まあ、いろいろとなあ。うん」
「はあ？」
「しかし、なんじゃな～」
　源三郎じいさんは話題をそらした。
「まだ、若い冒険者じゃが、なかなか見所があるのう」
「ははは。人は見掛けによりませんね」
「わっはっはっ！　わしもそう思うぞい」
「誰が見掛けによらないってェ？」
　声の主はシルビオであった。
　一也たちは、駅前に張られたテントを発見して入ってきたのである。
「おお、おぬしら！　よくやってくれたのう。温泉協会を代表して礼を言うぞい」
　それは源三郎じいさんの偽りない気持ちであった。
「ふふふ。恐れ入ったかジジイ！」
　と、シルビオがふんぞり返る。おだてると、どこまでも調子に乗るタイプである。
　パカン！　麗香がシルビオの後頭部を殴った。
「いってえなあ。もう～」
　シルビオは、頭を抱えた。
「すいません、会長さん。こいつホントに口が悪くて」
　麗香が源三郎じいさんに謝った。
「あはは。こいつの先祖はマフィアなんですよ」
　一也が茶々を入れた。
「なんだそりゃ」
　シルビオが言った。
「オレの家は、じいさんの代から寺の住職だぞ」
　事実であった。まったく、変わったイタリア人である。
「わっはっはっ！　よいぞよいぞ。今夜は宴会じゃな！」
　源三郎じいさんは、一也たちの活躍に、ことのほか上機嫌だった。
「みなの衆。後は頼んだぞい。わしゃ、これから帰って宴会の準備じゃ！　みなも、仕事が片づいたら一杯引っかけに来てくれ」
　その場にいる者が一同に、「おお！」と声をあげた。

　源三郎じいさんは、一也たちを連れて滝沢旅館に戻った。
「今、帰ったぞい！」
「はーい！　おじいちゃん、お帰りなさーい」
　奥から声がしてパタパタと足音がすると、木ノ葉が玄関に出てきた。
「あっ！　一也さん！」
　木ノ葉は、一也を見て声をあげた。
「あれれ、君は！」
　一也も驚いた。
「ええーっ、まさか！」
　スセリも驚く。
「あ、あなたが木ノ葉ちゃんだったの！」
　麗香も驚いた。
「女の子って、この子のことか！」
　シルビオが叫んだ。
「一也、てめえ～、可愛い子じゃねえか！」
「えっ、そ、そうか？」
　一也はなぜか、スセリをちらっと見た。
　スセリは、ちょっと面白くなさそうに、ツンと顔を外らした。
「わしゃ、わけがわからんぞい？」
　源三郎じいさんは、頭の上に『？』マークが浮かんでいた。
「なんで、お主ら知り合いなんじゃ？」
「うん、あのね」
　木ノ葉が説明した。
「駅前の喫茶店にいたらモンスターが出て、それで一也さんが、あたしと紀子を助けてくれたの」
「なんと、そうじゃったのか！　いやはや、孫まで助けてもろうたとは、わしゃあ、感謝の言葉もないぞい」
　源三郎じいさんは、木ノ葉と一也を、交互に見た。
「それに、紹介する手間がはぶけたしのう。わっはっはっ！」
「まてまて、オレは初対面だよ！」
　と、シルビオ。
「さあ、入った入った。今夜は飲むぞい！」
「だから、紹介しろってばよう！」
「おお、すまんすまん。孫の木ノ葉じゃ。紹介終わり」
　ガクッ。シルビオはズッコケた。
「そ、そんだけかジジイ！」
「わしゃ、めんどいのは嫌いじゃ」
　と、源三郎じいさん。
「さあ、宴会じゃ！」

　その晩は滝沢旅館で宴会が催された。宴会がはじまる前に一也たちは源三郎じいさんに、「節子のことは他言無用じゃ」
　と、くぎを刺されていた。理由を訊くと、源三郎じいさんは詳しいことは明日話すと言っただけだった。
　当の節子さんは、最初、宴会の準備をしていたが、いつの間にかどこかに姿を消してしまった。そのかわり、木ノ葉が忙しく働いていた。
　一也たちは、なにか納得いかないものがあったが、とりあえず温泉につかり、汗を流した。浴衣に着替えて、あとは寝るだけ。ならよかったが、いよいよ宴会である。
　宴会が始まると、一也はとたんに閉口した。町の人が次々とグラスにお酒を注ぎに来るのである。一也はお酒に強くないのであった。それにひきかえ、シルビオは強い。グラスに注がれるお酒を、苦もなく空にしていく。
　だが、もっともすごいのはスセリである。底無しである。ウワバミである。もともと、エルフはお酒に強いのである。ハーフエルフのスセリも、それを受け継いでいた。ウィスキーを水のように飲む姿は、ちょっと恐いものがある。
　かたや、人気があるのは麗香だった。お酒は人並みだが、なにせ、もとが美形である。お酒が少し入って、頬にほんのり赤みがさすと、なんとも色気が増す。浴衣姿がまた効果抜群であった。
　そんなこんなで、宴会は盛り上がっていた。

「ふう……」
　麗香が宴会の大広間から出てきた。顔はかなりお酒が入って、赤くなっている。麗香は中庭に面した縁側に座り込んだ。火照った体に夜風が心地よい。
　滝沢旅館は、建物はぼろいが、庭はちょっとした日本庭園である。浴衣姿の麗香が縁側に座っていると、蚊取り線香のコマーシャルを彷彿させるものがあった。
　麗香は、ふと廊下にいる人影に気がついた。
「あら、木ノ葉ちゃん。どうしたの？」
「あの……」
　木ノ葉は麗香のそばに寄った。
「さっきのお礼を言いたくって」
「やあねえ、そんな気にしないでよ」
　麗香は優しく言った。
「モンスター退治があたしたちの仕事だもの」
「ええ、でも……」
　木ノ葉は、もじもじと、なにか言いたげに身をよじった。
「なに？」
　麗香がうながす。
　木ノ葉は、思い切って訊いた。
「あの、一也さんって麗香さんの恋人ですか？」
「ええっ！」
　麗香は意外な質問に驚いた。
　木ノ葉の表情は真剣だった。
　麗香は、なにか深刻な事態になっていると感じた。
「ま、まあ、座りなさいな木ノ葉ちゃん」
　木ノ葉は、ちょこんと麗香のとなりに座ると、麗香の答えを待った。
「その、あたしは、一也の恋人じゃないわ」
　麗香は言った。
「あいつは大切な仲間だけど、恋人になろうと思ったことはないわね」
「そうですか！」
　木ノ葉は、麗香の答えに満足げに瞳を輝かせた。
「あっ、でもね」
　麗香はあわてて続けた。
「その、スセリが……」
「スセリさん？」
　木ノ葉は麗香の顔を覗き込んだ。
　麗香はどう答えようか迷った。実は、本人から直接聞いたことはないが、スセリが一也のことを好きなのを知っている。木ノ葉は、意外と積極的そうだから、うまく言っとかないと、あとあと、スセリに文句を言われるハメになるかもしれない。
「やあ、二人とも」
　一也が縁側に出てきた。飛んで火に入る夏の虫！
「いいところに来たわ！　一也！」
　麗香は、これ幸いと立ち上がった。
「木ノ葉ちゃんと話をしてあげてよ！」
「な、なんだ、なんだ」
　一也は、わけもわからず、木ノ葉の隣に座らされた。
「あの、麗香さん。あた、あた、あたし……」
　木ノ葉はうろたえた。
「まあまあ、本人に直接訊きなさいな！」
　麗香は木ノ葉にそう言うと、そそくさと宴会場に戻っていった
　木ノ葉は一也と二人きりになった。
「なんなんだ、麗香のやつ」
　一也は怪訝そうに首を振った。
「な、なんなんでしょうねえ」
　木ノ葉は引きつった笑いで答えた。
〈うえ～ん、麗香さんひどいよ～〉
　木ノ葉は心の中で悪態をついた。
「それで、話ってなに？」
　一也は無邪気に訊いた。明らかに事態を把握していない。
「あ、あの、風が気持ちいいですね」
　木ノ葉は、うろたえながら言った。
「そうだねェ」
　と、一也。夜風は本当に気持ちよかった。
「あ、あの、麗香さんって綺麗ですね」
　木ノ葉は話の核心に、少し近づいた。
「うん」
　一也はうなずいた。
「つき合いが長いせいか、あんまり感じないけど、美人だと思うよ。あれで、しとやかな性格だったらもっとモテるんだろうけど」
「むかしからのお友達なんですか？」
「麗香とシルビオとは幼なじみなんだ。腐れ縁ってやつだよ」
　一也は、ちょっとおどけてみせた。
「特にシルビオとはね」
　クスッと、木ノ葉は笑った。少し緊張が解ける。
「スセリさんとは？」
　木ノ葉は、いよいよ核心に迫る。
「スセリとは高校に入ってから知り合ったんだ」
「高校って、冒険者学校？」
「うん」
　一也はうなずいた。
「スセリはハーフエルフなんだけど、攻撃魔法が得意なんだ。変わってるだろ？」
「あの～」
　木ノ葉は、遠慮がちに言う。
「私、魔法のこと詳しくなくって……」
「あっ、ごめん。えっとね、エルフって、精霊魔法が得意なんだ。だから、ハーフエルフも普通はそうなんだけど、どういうわけか、スセリは精霊魔法がからっきしダメでねえ。でもさ、そこが可愛いとこでもあるんだけどね」
　一也は、楽しそうに言った。
「そうなんですか……」
　木ノ葉は、一也がスセリに好意をもっていると感じた。ちょっとつまらない。木ノ葉は話題を変えたくなった。
「あの、一也さんはどうして冒険者になろうと思ったんですか？」
「う～ん」
　一也は、ちょっと考えた。
「親父とお袋も冒険者だったからね」
「ご両親とも、冒険者なんですか」
〈血筋なのね〉
　と、木ノ葉は思った。
　一也は、片時も離すことのない剣を木ノ葉に見せた。
「この剣、親父のだったんだ」
「だった？」
「形見ってとこかな。親父もお袋もボクが小学校の頃、その……　いなくなったんだ」
「あっ！　ご、ごめんなさい」
　木ノ葉は、あわてた。
「あたし、その、鈍感で……」
　木ノ葉はその時、一也の言う『いなくなった』を、両親が死んだことだと理解した。
「あはは、全然気にしてないよ。もう、ずいぶん前の話だし。それに木ノ葉ちゃんだって……」
　一也は、言葉を切った。
「その、会長さんから聞いたんだ。木ノ葉ちゃんのご両親の話。ごめんね、黙ってって」
「えっ、いえ、そんなこと」
　木ノ葉は、首を振った。
「そうなんだ。一也さんのご両親も……」
　木ノ葉は、急に一也が身近な存在に感じられた。
「ホント言うと、この剣は親父からもらったわけじゃなくて、ボクが冒険者学校に入るとき、ライアスおじさんが、むかし親父が使ってた剣を渡してくれた物なんだ」
「ライアスおじさん？」
「ああ、ごめん。ボクは親父の仲間だった、ライアスおじさんに引き取られたんだ」
　一也は、そこまで話すとクスッと笑った。
「ねえ、木ノ葉ちゃん。ライアスおじさんってどんな人だと思う？」
「えっ？」
　木ノ葉は、意味が分からず首を振った。
「ケンタウロスなんだよ。ライアスおじさんは！」
「えーっ、ホントに！」
「ホントだよ」
　一也は木ノ葉の驚きに、満足そうにうなずいた。
「すっごい優しい人でね。奥さんのジュリアおばさんもいい人なんだ。二人とも子供がいなかったから、ボクのことを、ほんとの子供みたいに可愛がってくれてる」
　ケンタウロスは、もともと温厚な性格で有名なのだが、木ノ葉は、一也の話し方で、ケンタウロスのライアスおじさんが、どんなに素晴らしい人か容易に想像できる気がした。
「一也さんって、それで、やさしい喋り方をするんですね」
　木ノ葉は言った。
「えっ、そうかな」
　一也はちょっと戸惑った。やさしい喋り方をするなんて言われたのは始めてだった。
「でも、すごいなァ」
　木ノ葉は一也を見つめた。
「お父さんの遺志を継ぐなんて」
「そ、そんなことないよ」
　一也は木ノ葉の言葉に、軽くタメ息をついた。
「正直に言うとね、冒険者学校に入りたいって言ったとき、おじさんもおばさんも、すごく反対したんだ。二人とも、心配したんだと思う。たぶん、その……」
　一也は、言葉を切って考え込んだ。
　木ノ葉は、一也が急に黙り込んだので心配になった。
「じつは」
　一也は、どこか遠い目で話を続けた。
「親父たちは死んだわけじゃないんだ」
「えっ！」
　木ノ葉は、一也の意外な言葉に驚いた。
　一也は話を続けた。お酒が入っているせいか、普段より雄弁になっている。
「お袋が黄泉の世界に連れ去られてしまって、親父はお袋を助けに黄泉の世界に行ったらしいんだ……　ライアスおじさんは、いまでも親父が帰ってくるって信じてる」
「黄泉の世界に行ったって、どうやって？」
　木ノ葉は、当初の目的と話の話題がだいぶ違うが、一也の話には強い興味をそそられる。
「わからない」
　一也は首を振った。
「ライアスおじさんは、そのことになると、あんまり話してくれないんだ。でも、きっと方法があるんだと思う。ボクが、冒険者になろうと思った本当の理由は、その方法を知りたかったからなんだ。だから、たぶん……　ライアスおじさんは、それを知ってて、ボクが冒険者になるのを反対したんだと思う」
　木ノ葉は、一也の話に興奮気味に言った。
「一也さん、あの、もしも、もしもその方法がわかったら……」
　木ノ葉は、一瞬ためらったが、言わずにはおれなかった。
「おばあちゃんを、おばあちゃんを助けてください！」
「ええっ！」
　今度は一也が驚いた。
「助けるって、節子さんを？」
「はい。おじいちゃんもおばあちゃんも、私には何も言ってくれないけど、私わかるんです！」
　木ノ葉は、心に押し込めていた感情を吐き出すように喋った。
「あたし、おばあちゃんが帰ってきてくれて最初はうれしかったけど、でも、ホントはいけないことなんです。きっと、おばあちゃんはすごい無理をして、霊体になったんだと思います。それで、理由はわからないけど、黄泉の国に帰れないんじゃないかって。だから、もし、黄泉の世界に行く方法があるのなら、おばあちゃんも助けて欲しいんです！」
「木ノ葉ちゃん……」
　一也は、言葉に詰まった。
　木ノ葉はいつの間にか、自分が泣いているのに気がついた。
　と、その時。どかどかと忙しない足音がした。
「あーっ、カズヤ！　こんなとこで、なにしてんのようゥ！」
　スセリであった。声が酔っている。
　木ノ葉は、サッと立ち上がると涙を拭った。
「あの、一也さん。いろいろ話してくれてありがとうございました」
　木ノ葉は、ペコッとお辞儀をすると、台所の方へ駆けて行った。
「あっ、木ノ葉ちゃん！」
　一也は、木ノ葉を追いかけようとしたが、なぜかためらった。
「なに？　木ノ葉ちゃんどうしたのォ？」
　スセリが怪訝な顔で訊いた。
「いや、べつに……」
　一也は、考え込んでしまった。
「あによゥ、なんの話してたのよゥ！」
　スセリが問い詰める。
「う、うん……」
　一也は、どう説明したものか迷った。
「そう。あたしには言えない話なんだ」
　スセリの声が、急に悲しそうになった。
「ち、ちがうよ！」
　一也はあわてた。
「節子さんのことを話してたんだよ！」
「ホント？」
　スセリが、グリーンの瞳で一也を見つめた。瞳が少し潤んでいる。
　ドキッ！　一也の心臓の鼓動が早くなった。一也は、たまにスセリがものすごく可愛いと思うときがある。たとえば、今みたいに。
「ホホホ、ホントだよ」
　一也は思わず、どもってしまった。
「ふ～ん……　まあ、いいけど」
　スセリは、なんとなく不満だったが、それ以上は聞かなかった。
「そんなことより、カズヤ！　主役がいなくなっちゃダメでしょ！」
「ちょ、ちょっと風に当たりたかったんだよ」
「なんでよゥ」
「なんでって、少し酔ったからさ」
「やあだ、あれっぽっちでェ～」
　スセリはイタズラっぽく、一也を覗き込んだ。
「こらこら。スセリと一緒にするなってば。オレは普通の人間なんだ」
「ちょっとォ、人をウワバミみたいに言わないでよォ」
「み、みたいじゃないと思うぞ……」
「やあねえ、カズヤの鍛え方が足りないのよ。さあ、立って！」
　スセリは無理やり一也の腕を引っぱった。
「ひぇ～、もう飲めないってば～」
　抗議もむなしく、一也はスセリに連れ去られてしまった。

　一也とスセリが大広間に戻ったころ、宴会はそろそろ佳境を迎えていた。
「はいはい、カズヤ座って！」
　スセリは一也を座らせると、ウィスキーをグラスになみなみと注いだ。
「スセリ、すごいなァ」
　一也があきれた声を出した。
「なにがァ？」
　スセリは一也にほほえんだ。
「だって、それ飲むんだろ？」
　一也はウィスキーがストレートで注がれているグラスを指さした。
「うん！　カズヤがね！」
　スセリは楽しそうに答えた。
「ええっー！」
　一也は飛び上がった。
「カズヤも少しは鍛えなきゃ」
　スセリはケロッと言った。
「おう、まったくだ」
　シルビオがニヤニヤしながら茶々を入れた。
「リーダーが下戸じゃ格好つかないもんな！」
「あんたたちが、強すぎるのよ」
　麗香がシルビオとスセリに言った。
「さあ、カズヤもお酒に強くなろう！」
　スセリは嬉しそうに叫んだ。
「ままま、待ってよ！　未成年がお酒を鍛えてどうするんだよォ」
　一也は情けない声を出すと、ズリズリと後ずさりした。
　まったく、一也の言うとおりであった。良い子は絶対に真似をしてはいけないのである。
「やあねェ、カズヤったら」
　スセリはクスクスと可笑しそうに笑った。
「冗談だってば、ちゃんと水で薄めてあげるわよ」
　と、その時。突然大広間のふすまがガバッと、勢いよく開いた。
　一也たちは一斉に振り返った。なんと、入ってきたのはイオリイ先生であった。なぜかキオスクの紙袋を持っている。
「イオリイ先生！」
　一也たちは驚きの声をあげた。
「ああ、よかった。無事だったのね！」
　イオリイ先生は一也たちの姿を見ると、ホッとした様子で胸をなで下ろした。
「イオリイ先生、どうしてここに？」
　と、一也。
「あなたたちのことが心配だったのよ。それで、様子を見に来たら土蜘蛛が発生したっていうじゃない。もう、先生ビックリしちゃって」
「やあねェ、先生。あたしたちってそんなに心配？」
　スセリが不満の声を上げた。
「当たり前でしょ。いくら土蜘蛛のレベルが低いからって……」
　イオリイ先生は言葉を切った。
「ちょっと待ちなさい。あなたたち、何を飲んでるの？」
「あっ」
　一也たちのカップには、言うまでもなくお酒が注がれていた。
「まあ！　なんですか、お酒なんか飲んで！」
　イオリイ先生の眉がピクリと上がった。
　源三郎じいさんが近寄ってきた。
「おお、あなたが、イオなんとか先生ですな！」
「イオリイです！」
　イオリイ先生は、源三郎じいさんをキッと睨んだ。
「あなたこそ、どなたですか！」
　源三郎じいさんは胸を張った。
「わしが温泉協会、会長の滝沢源三郎ですじゃ」
「あら、先日はお電話で失礼しました」
　と、イオリイ先生は、一応礼儀正しい素振りを見せた。だが、すぐに、源三郎じいさんに負けじと言った。
「わたしがこの子たちの担任のイーリア・クオン・イオリイです」
　イオリイ先生は持っていた紙袋から、東京駅で買ったお菓子の包みを出した。
「これ、つまらないものですが……」
「おお、これはご丁寧に、すみませんな」
「ところで、滝沢さん」
　イオリイ先生の声が凄味を増した。
「未成年にお酒を飲ませるとは、どういうことですか。ぜひ、ご説明していただきたいですわね」
　さすがは源三郎じいさん。イオリイ先生の声に少しもひるむ様子はない。
「わっはっは！　これはお祝いですじゃ。イオなんとか先生」
「イオリイです！」　
「おお、そうでした。イオリイ先生。彼らが土蜘蛛を退治してくれましてのう。それにわしの孫娘も助けてくれたんですじゃ！」
「えっ！　ホントですか！」
　イオリイ先生は驚いた。
「ホントだよ先生」
　えへん。とシルビオ。
「町の人、一人も死ななかったんだぜ！」
「ホントに、あなたたちが退治したの？」
　イオリイ先生は、まだ半信半疑である。
「そうですじゃ」
　源三郎じいさんが答える。
「彼らがいてくれなんだら、大変なことになっておったでしょうな。と、そんなわけで、今宵は宴会ですじゃ！」
「オレたちだって、やるときゃやるんだよ先生」
　シルビオが胸を張った。
「あらまあ……　先生、驚いちゃったわ」
　イオリイ先生は、驚きながらも笑顔を見せた。ところが、すぐに顔をしかめる。
「でもね、お酒はいけませんよ！」
「まま、そうおっしゃらず、先生も一杯」
　源三郎じいさんは『熱海灘』をグラスに注いで、イオリイ先生に渡した。どうもこのじいさん、『熱海灘』を人に飲ませるのが趣味らしい。
　イオリイ先生は眉をひそめたが、
「まあ、お祝いですから……　でも、一杯だけですよ」
　と、『熱海灘』を口にした。
「あら、おいしい」
　イオリイ先生の瞳が輝いた。
「おお！　さすが先生」
　とたん、源三郎じいさんの瞳も輝いた。
「いや、最近の若いもんは酒の味がわからんで、嘆いておったところでしてな！」
「じいさん」
　シルビオが真面目な顔で、源三郎じいさんに言った。
「イオリイ先生を侮っちゃいけねえよ。見た目は若いが、酸いも甘いもかみわけすぎた、ババアなんだぜ」
　パカン！　パカン！　イオリイ先生がシルビオの後頭部を連打した。
「い、いってえー！」
　シルビオは、頭を抱えた。
「おほほ。このお酒は若い子にはもったいないですわ」
「うむ。違いのわかる先生じゃ。まま、もう一献」
「あら、ダメですよ。滝沢さん」
　と言いつつ、
「そうですか、じゃあもう一杯」
　と、完全に源三郎じいさんのペースにはまるイオリイ先生であった。

　４　熱海サンビーチ

　翌朝、一也が起きたのは十時をまわっていた。シルビオはまだ寝ていたが、一也は起こさなかった。いくら強いとはいえ、きのうあれだけ飲んだのだ。一也は、もう少し寝かせておいてあげようと思った。
　食堂には、すでにスセリと麗香がいた。
「やっと起きたわね、一也」
　と、麗香。少しだるそうだ。
「カズヤ、おはよう！」
　スセリは、元気一杯であった。
「うん。おはよう」
　一也は、二日酔いで元気がなかった。
「おはようございます。一也さん」
　節子さんであった。
「いま朝食の準備をしますね」
「どうもすいません」
　一也はテーブルについた。節子さんを見て、昨晩の木ノ葉の話を思い出す。このさい、イオリイ先生に相談した方がいいだろうと思った。
「あれ、イオリイ先生は？」
　一也は、辺りを見回した。
「まだ寝てるわ」
　麗香が答える。
「結局朝まで飲んでたみたいよ、会長さんと」
「なんだ、けっこう好きなんだなあイオリイ先生も」
「それよりさァ、カズヤ～」
　スセリが甘ったるい声を出した。
　なにかある！　一也はピンと来た。
「あのね、熱海サンビーチってのがあるんだってェ」
　スセリが瞳を輝かせた。
「ご飯食べたら泳ぎに行こうよ」
「うう～ん。でも、ちょっと二日酔いかも」
「ダメ？」
　スセリのグリーンの瞳が一也を見つめる。
「あたしの水着姿なんか見たくない？」
「まさか！」
　一也は答えていた。
「すっごく見たい！」
　正直なのであった。

　そんなわけで、朝食が済むと、一也はスセリと熱海サンビーチに行くことになった。なんだか重要な話が済んでいない気がするが、源三郎じいさんもイオリイ先生もシルビオもまだ寝ているので、しょうがないのである。
「うわーっ、最高！」
　スセリは、海岸に出ると太陽を一杯に浴びようと手を広げた。
　スセリが、Ｔシャツを脱いだ。花柄で淡いピンク色のビキニを着ている。
　ドッキィーン！　一也は思わず目を外らしたが、スセリがキュロットスカートを脱ぐところをチラリと覗く。
　ドキドキドキ。
「うふふ。今年の初泳ぎよォ。なんかウキウキしてこない？」
「う、うん！　するする！」
　一也は、ドキドキしていた。
　明るい太陽の下で、スセリは本当に輝いて見える。一也はなんとなくスセリを正視できなかった。
〈ううう、スセリってやっぱりカワイイ！〉
「どうしたの？　カズヤ」
「えっ、べ、べつに！」
　一也はあたふたと、自分もジーンズを脱いだ。
「わーい！　泳ごうー！」
「待った、スセリ。剣を小さくしてくれよ」
「あっ、そっか」
　スセリはペロッと舌を出した。
　一也は、親父さんの長剣を、スセリは、魔法の杖を持っている。このアイテムは、お互い片時も離さないのだ。
　スセリは魔法の杖を高らかに上げて叫んだ。
「スモール！」
　すると、一也の剣が微かに光って、シュッっと小さくなった。一也はつま楊枝くらいの大きさになった剣を、水着に縛りつける。スセリも同じように魔法の杖を小さくした。便利な魔法である。
「よし、準備万端！　カズヤ、泳ごうー！」
　スセリは一也の手を引っぱった。浮輪を持っているところが、なんとも可愛らしい。
　最初は、二日酔いだった一也も、すっかりウキウキドキドキである。やはり高校生なのである。若いのである。

　そんな二人を、例の猫姫たちが見ていた。
「姉さん。いまは二人だけみたいよ」
　と、次女のペリ。
「二人きりよ」
　と、末っ子のデース。
「ええ。こんなチャンスはないわね」
　と、長女のヘス。
「チャンスだわ」
「チャンスよ」
「さてと、どのモンスターにしようかしら？」
「どのモンスターにする？」
「どれにする？」
「そうだ！　海だったら牛鬼がいいわね！」
「そうね。牛鬼ならいいわ！」
「それ、いいわ！」
　と、猫姫たちは、ガヤガヤと物騒な相談をしていた。
　危うし、一也とスセリ！　本人たちは、そんなこととは露知らずであった。
「カズヤ！　こっち見て！」
　一也がスセリを見ると、スセリは海水をバシャっと、はね飛ばした。
「わっ！　やったなあ～」
　一也もスセリに海水をかける。
「アハハハハ」
　二人は楽しそうに笑った。しかし、人はなぜ、海に入ると水をかけっこするのであろうか？　人類永遠のなぞであるが、いまは、そんなことはどうでもいいのである。
「ねえ、カズヤ」
　スセリは、浮輪でぷかぷか浮かびながら言った。
「きのうの夜さァ、木ノ葉ちゃんとなに話してたの？」
「な、なにって、だから、節子さんの話だよ」
「ふ～ん」
　スセリは、それ以上なにも聞かず、ばしゃばしゃと足をバタつかせて泳いで行った。
　一也は、考えた。きのうの木ノ葉との会話は、スセリに全部話しておいた方がいいような気がする。
「ねえ、スセリ」
　一也は、スセリの隣にならんだ。
「節子さんのことなんだけどさ」
　スセリは、プイと顔を外らした。
「なにさ、きのうから節子さん節子さんって。だいたい、木ノ葉ちゃんの前でデレーッとした顔しちゃってさ！」
　スセリの顔はプーっとふくれていた。
「そ、そんな顔してないよ！　オレはただ」
　一也はあわてた。
　スセリが、一也の言葉を無視して言う。
「カズヤってさァ、けっこう、鈍……」
　と、ふいに、スセリの言葉がとぎれる。
「鈍、ってなんだよ？」
　一也は、スセリに問いかけた。
　ところが、スセリは沖の方を凝視していた。
「カズヤ、あれなに？」
「えっ？」
　一也は、スセリの視線を追う。そこにはぶくぶくと、あぶくが上がっていた。そのあぶくは一也たちの方に向かってくる。
「スセリ、海から出よう！」
　一也はスセリの手を取って岸に急いだ。
　なんだか胸騒ぎがする。
　あぶくはスピードを上げて一也たちに近づく。岸に近づくにつれ海面から牛の角が表れた。次に牛の頭が、そして、その下は人間の体であった。
「な、なによあいつ！」
「ミ、ミノタウロスか！」
　岸に上がった一也たちは、牛の頭と人間の体を持つモンスターに仰天した。牛鬼とミノタウロスはまったく違うモンスターなのだが、一也の言うとおり見分けがつかないほどよく似ている。
　海岸は突然のモンスター発生に騒然となった。
「スセリ、剣を元に戻して！」
「うん！」
　スセリは小さくなった魔法の杖で呪文を叫ぶ。
「ディスペル、スモール！」
　剣と杖が元に戻った。
「カズヤ、イオリイ先生たちを呼んでこなくちゃ！」
「ガーッ！」
　牛鬼は叫び声を上げた。体長三メートルはあろうかという牛鬼は一也たちに気がつくと、のっしのっしと向かってきた。血走ったすごい形相をしている。
「そんな暇はなさそうだ！　スセリ、呪文頼む！」
「ええっ、なんの呪文をかければいいのよゥ！」
「海だからやっぱ火だろ！」
「わかったわ！」
　スセリは火炎系攻撃魔法を唱える。
「ファイヤーアロー！」
　牛鬼を炎の矢が襲った。
「やったか？」
　牛鬼はケロッとしていた。
「き、効かないよゥ！」
　うろたえる、スセリ。
「じゃあ、電撃だ！」
「う、うん。サンダーボルト！」
　スセリが電撃系魔法を唱えると、ビカッと、牛鬼に雷が落ちた。しかし、牛鬼はぶるっと震えただけで、まったく効いている様子はなかった。だらしなくよだれを垂らす牛の口が、ニヤリと笑ったような気がした。
「わーん、効かないーっ！」
「くそっ！」
　一也は、剣を握りしめた。
「スセリ、下がってろ！」
「逃げよう！　カズヤ！」
　スセリは、一也の腕をつかんで叫んだ。
「ダメだ！　いま逃げたら他の人が危ない！」
「でもでも！」
　スセリは今にも泣きそうだ。
「麗香の防御魔法も掛かってないのに、戦えないよ！」
　牛鬼との距離は、もうわずかしかない。
「早く！　オレが食い止めてる間に、イオリイ先生を呼んできてくれ！」
　一也は、スセリの腕を振りほどくと、牛鬼の進路に立ちふさがる。
「いや！」
　スセリは、叫ぶ。
「カズヤが逃げないなら、一緒に闘う！」
「スセリ！」
「だってだって！」
　もう、話をしている余裕はなかった。牛鬼は目前である。一也は、一か八か牛鬼に飛びかかった。
「ガーッ！」
　牛鬼は太い腕で一也の剣を払いのけた。
「うわーっ！」
　そのあまりの力に、一也は剣とともに弾き飛ばされた。今は麗香の防御魔法がかかっていないのだ。弾き飛ばされたのが砂浜だからよかったものの、それでも全身が痛む。
　牛鬼は倒れている一也の胸を、すかさず蹴り上げた。
　ボカッ！　ボキボキ！
　一也の胸から鈍い音がする。肋骨が二、三本折れたようだ。
「キャーッ！　カズヤー！」
　スセリは悲鳴をあげた。骨の折れる音がスセリにも聞こえたのだ。
「ぐっ」
　一也は奥歯をかみしめた。あまりの痛みに動けない。
　牛鬼は、ふんと鼻を鳴らした。そして、スセリに目をつける。
「い、いやーっ！」
　スセリは、なす術もない。でも、一也を残して逃げる気になどなれなかった。
　一也は、スセリを襲う牛鬼を見て、カッと頭に血がのぼった。
「うおーっ！」
　一也は立ち上がった。無我夢中で牛鬼の背後から剣を奮う。ちょうど牛鬼の腰あたりに剣が刺さった。
　緑色の血が飛んだ。だが、分厚い筋肉に阻まれ、思ったほど深く刺さらない。牛鬼は、振り向きざま剣を払う。しかし、今度は一也も牛鬼の腕をうまく避けた。
　一也は態勢を立て直して叫んだ。
「さあ、相手はこっちだぜ、バケモン！」
「ガーッ！」
　一也の挑発が分かったのか、牛鬼は目標をふたたび一也に変えた。
「カ、カズヤ！」
　スセリはモンスターに立ち向かう一也を見て、涙がこぼれ落ちそうになった。
〈ダメ！　泣いてる場合じゃない！〉
　スセリは気を取り直すと、必死にまだ唱えていない魔法を考えた。そして、冷却系魔法を唱えていないことに気づく。
「ア、アイスバースト！」
　スセリは冷却系魔法を唱えた。今までにないほど精神力を注ぎ込む。すると、牛鬼のまわりに薄い霜が降りて牛鬼の体を凍りつかせる。牛鬼の動きが止まった。
「や、やったー、成功！」
　スセリはピョンと飛び上がった。
「うまいぞ、スセリ！」
　一也は、満身の力を込めて牛鬼の心臓に剣を突き立てた。
「ガーッ！」
　牛鬼は体を激しく震わせた。体を覆った氷がはげ落ちる。そして、一也の剣を引き抜くと、一也ごとほおり投げた。
「うわっ！」
　一也は二メートルほど飛ばされる。
「ガーッ！」
　牛鬼は胸から緑色の血を流しながら、なおも狂ったように、一也に向かってくる。
「スセリ！　呪文もう一回！」
　一也は立ち上がって叫ぶ。
「うん！」
　スセリは、精神を集中した。
「アイスバースト！」
　再び牛鬼は凍りついた。
「よし、今度こそ！」
　一也は、さっきより、少し右にずれたところを狙って剣を突き刺す。
　手ごたえがあった。
「ガフッ……」
　牛鬼は、口から緑色の血を吐いた。
　牛鬼は、剣を引き抜こうとしたが、それより早く、一也はさっと剣を抜いた。牛鬼の手が剣のあった空間を虚しく踊る。そして、バランスを崩し前かがみになった。一也は機を逃さなかった。牛鬼の首を思いっきり切りつける。
「うおーっ！」
　一也は渾身の力を込めて、牛鬼の頚動脈を切った。
「ギ、ギャーッ！」
　牛鬼は首から血を吹き出してドッと倒れた。そして、一度ぴくりと痙攣すると、もう動かなくなった。
「や、やった……」
　一也は、緊張が一気に抜けていった。気がつくと、胸がものすごく痛い。一也は胸を押さえてうずくまった。
「カ、カズヤー！」
　スセリが一也にすがった。
「カズヤ、カズヤ、しっかりしてー！」
　スセリは泣きじゃくっていた。
「だ、大丈夫だよ……」
　一也は、痛みをこらえてスセリに言った。

　一方、猫姫たちは大あわてであった。
「姉さん！　牛鬼もやられっちゃったよ！」
「やられちゃった！」
「ううう、うるさいわね！　見りゃ、わかるわよ！」
「ご、ごめんなさい。姉さん」
「こうなったら、あたしたちが直接行くしかないわね」
「そうよ、行くしかないわ」
「うん、行くしかないわ」
「そうと決まれば、早速行くよ！」
　猫姫たちはうなずき合った。

　一也はスセリに抱かれて横たわっていた。肋骨が折れて動けないのである。かなり痛むのだが、スセリの温もりが、うれしくって心地よい。これなら、たまに怪我をするのも悪くないな。などと考えてしまう一也であった。
　スセリの方はまだ泣いていた。
「ごめんね、ごめんね。あたしが泳ぎなんかに誘ったから……」
　グスン。とスセリ。
「違うよ、スセリのせいじゃない」
　一也は、優しく答えた。
「でもでもォ……」
　グスン。
「モンスターと戦うのがオレたちの仕事だろ」
　一也は、スセリを慰めようと言った。
「それに、スセリが居てくれなかったら、怪我どころじゃなかったよ」
　それは本音である。
「そんな、そんなことないよ。カズヤ強かったもん！　あたしこそ、一也が居なかったら死んでたもん！」
　涙を一杯にためるスセリ。
　一也は、スセリがたまらなく可愛く思えた。
「ハハハ。スセリに褒めてもらえるなら、怪我をするのも悪くないな」
　一也は、少しおどけて言う。
「バカ……」
　スセリの顔に、少し笑顔が戻った。
「もう、泣かないでよ、スセリ」
　一也は手を伸ばして、スセリの髪を優しくなでた。
「うん」
　スセリは、そっと一也の手を握り返した。
「ねえ……　さっきのカズヤ、すごくカッコよかったよ」
「ああ。自分でもそう思う」
　一也はおどけて答える。
「もう、カズヤったら」
　スセリは、クスッと笑った。
　一也は、スセリの笑顔を見てホッとした。と、同時にいままで押さえていた感情が溢れ出すのを感じた。モンスターとの闘いで気分が高揚しているのか？　いや、断じてそうではない。一也は、もう自分の気持ちを隠してはおけなかった。
　一也はスセリの瞳を見つめた。心臓が高鳴る。一也は、思い切って言った。
「スセリ、好きだよ。その、ずっと前から……」
　スセリの体が、一瞬こわばった。しかし、すぐに緊張を解く。
「カズヤ」
　スセリの、せっかく渇きかけた瞳からまた涙が溢れ出す。スセリは、ずっと一也に求めていた言葉を、いま聞いたのだ。
「あたしもあなたが好き。大好きよ！」
　スセリは涙を一杯にためて言った。
　二人はついに、思いを打ち明けた。まるで、時間が止まってしまったように、見つめ合っていた。
　一也は怪我の痛みなどまったく感じなくなっていた。今までにこんなすてきな時間があっただろうか。この時間を得るために怪我をしたのだとしたら、何という幸運だろう。
　一也は、自分の気持ちを確かめるように、スセリの髪をいとおしくなでた。そして、スセリの顔がもっと近づくように、そっと腕に力を込める。
「あっ」
　スセリが小さい声を出す。しかし、抵抗するどころか、一也に覆いかぶさるように顔を寄せた。
　そして、二人は静かに唇を近づけた。
　その時である。真っ黒い空間が一也たちの前に出現した。その空間から三人の女が出てきた。猫姫たちである。
「オホン！　あー、お取り込み中、悪いんだけど」
　猫姫の長女ヘスが、空間から出てくるなり言った。
「な、なんだおまえたちは！」
　一也は、反射的にスセリから体を離した。
　猫姫たちがニヤニヤと、一也とスセリをうかがっている。
「カズヤ」
　スセリは、一也の腕にしがみついた。
　一也は怒りが込み上げてきた。
〈よりによってこんな時に！〉
　一也の怒りには二つの理由があった。一つは、スセリとのキスを邪魔されたこと、もう一つは、怪我の痛みで体が自由に動かないことであった。もちろん、体が動かない方が、深刻な問題である。
　一也は立ち上がろうとした。
「ううっ！」
　一也は怪我の痛みで胸を押さえた。全身から脂汗が出る。
「おやおや、痛そうねェ」
　猫姫の長女ヘスが、一也を見てニヤリと笑った。
「骨が折れちゃったかい？」
「カズヤ！」
　スセリは、あわてて一也を支えた。
「大丈夫……だよ」
　一也は、スセリの腕を振りほどこうとした。
「ダメダメ！　起きちゃダメ！」
　スセリの瞳に、ふたたび涙が溢れてくる。そして、涙の一杯たまった瞳で猫姫たちをキッと睨んだ。
「どっか行ってよ！　あたしたちにかまわないで！」
「なによ、このハーフエルフ」
　猫姫たちは顔をしかめた。
「おまえなんかに用はないわ」
　猫姫たちは、じりじりと一也に近づいた。
「それ以上、近づかないで！」
　スセリは、杖を握って呪文を唱える態勢をとった。
「へへーん。やろうって言うの、お嬢ちゃん」
　猫姫たちの爪が、まさに猫のように伸びる。
「あたいたち三人に同時に魔法をかけられるなら、やってみな！」
　勝負はわかっていた。スセリのレベルでは複数のモンスターに同時に呪文をかけることができない。
「スセリ、やめるんだ……」
　一也は、スセリを止めようと無理に立ち上がった。
「あらあら、無理しちゃダメよゥ」
　ヘスが言う。
「黄泉の世界に行って、ゆっくり治しなさいな」
「なんですって！」
　スセリが叫ぶ。
「ど、どういう意味だ……」
　一也は、胸を押さえながら猫姫たちを睨んだ。
「あたしたちにも事情ってのがあるのよ」
　猫姫たちは一也に、また一歩近づいた。
「素直に捕まってくれれば、手荒なことはしないし、もちろん、そのお嬢ちゃんにも指一本触れないわ」
「じょ、冗談じゃないわ！　いやよ！　カズヤをどこへも行かせない！」
「だったら！　あたいたちも手加減しないよ！」
　猫姫たちの爪が、シャキーンと金属的な音を立てた。
「やめろーっ！」
　一也はスセリの腕を振りほどいて剣を構えた。
「ううっ！」
　胸に激痛が走った。あまりの痛みに、一也は気を失いそうになって、ガクッと膝をついた。
「キヤーッ！　カズヤ！」
　スセリの顔が青ざめた。
「だっから、無理するなって言ってるのに」
　ヘスは、あきれたように言った。
「まっ、気絶しててくれた方が好都合だけどね」
「だ、だれが気絶なんかするものか」
　一也は剣を杖のように使いながら、再び立ち上がる。
「うわ、さすが冒険者。根性だけはあるわ」
　猫姫たちは呆れた声を出した。
　と、その時。猫姫たちの背後から叫び声が聞こえた。
「一也！　スセリ！」
　声の主は、シルビオであった。麗香とイオリイ先生もいる。
　猫姫たちの動きが止まった。
「おまえたち、その子たちから離れなさい！」
　イオリイ先生が叫んだ。
「チッ、しまった。おしゃべりがすぎたか！」
　ヘスの顔が険しくなる。
「くそーっ！　いったん引くよ、おまえたち！」
　ヘスは、黒い穴に飛び込んだ。
「待ってよ、姉さん！」
「待ってー！」
　妹たちも姉の後に続いて、黒い穴に消えていった。
「なっ、なんなんだあいつら？」
　シルビオが、猫姫たちの消えた穴を覗き込んだ。
「シルビオ君！」
　イオリイ先生は厳しい口調で叫んだ。
「その穴に近づかないで！」
「えっ！」
　シルビオは、ビクッと穴から離れる。
「イオリイ先生！」
　スセリは、一也を抱きかかえながら叫んだ。
「カズヤが、カズヤが大変なの！」
　一也は、すでに気を失っていた。シルビオの声を聞いて気力がつきたのである。顔面蒼白で、唇も紫色に変わっている。
「麗香さん、早く一也君に治癒の呪文を！」
　イオリイ先生は、麗香に指示した。
「はい、先生！」
　麗香は、一也に駆け寄った。
　シルビオも一也に駆け寄る。
「お、おい、マジでやばいぜ、こりゃあ……」
　さすがのシルビオも、一也の様子を見てうろたえた。
「イオリイ先生も、治癒の呪文かけてやってくれよ！」
「あのねえ、エルフは治癒の呪文を使えないのよ。授業でやったでしょ！」
　イオリイ先生はシルビオを睨んだ。
「なんだ」
　シルビオはイオリイ先生に聞こえないように悪態をついた。
「まったく、肝心なときに頼りにならねえなァ」
「レイカ、お願い、早くカズヤを治して！」
　スセリは麗香に訴えた。一也を抱きしめたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼしている。
「スセリ。落ち着いてよ。大丈夫だから」
　麗香は、一也の胸に手を当てると、癒しの呪文を朗詠した。
「万物の根源を司る大いなる意思をもって、われ祈り願う。この闘い傷つきたる者を癒し賜え……」
　麗香の手が青く光る。麗香は、いつになく精神力を注いでいるよで、額から汗が流れる。
　徐々に一也の顔に赤みが戻ってきた。
「う……　ス、スセリ……」
　一也が、うわごとを言う。
「カズヤ、しっかりして！」
　スセリは、一也の手を握った。
「ふう、取り合えずこれで大丈夫よ」
　麗香の手から光が消える。
「シルビオ、一也を運んであげて」
「おう」
　シルビオは、一也を抱き上げた。
「そっとよ、そっと！」
　スセリは、シルビオに言った。
「わかってるって」
　スセリは、ずっと一也の手を握りしめていた。

　５　黄泉の世界

「で、なんだよ、あの猫娘たちは？」
　シルビオは滝沢旅館に戻るなり、イオリイ先生に詰め寄った。
「さ、さあ、私にもよくわからないわ」
　イオリイ先生は歯切れ悪く言った。
「じゃあ、あの黒い穴はなんだよ！」
「な、なにかしらねェ」
　イオリイ先生はまたも、うやむやに首を振った。
「先生、近寄るなって言ったじゃないか、知ってるんだろ！」
「それは、なにか危険な予感がしたからよ……」
「ホントかよォ」
　シルビオは疑わしげに言った。
「たぶん、その黒い穴は、黄泉の世界へ行く扉だと思います」
　節子さんが答えた。
「えっ！」
　シルビオたちは、思わず声をあげて、節子さんを見た。横になっていた一也も起き上がる。
「ちょ、ちょっと待って、その話は……」
　イオリイ先生はあわてて節子さんを制した。
「やっぱり、なんか知ってんだな先生！」
　と、シルビオ。
「あっ」
　イオリイ先生は、しまった、といった感じで口に手を当てた。
「先生！　まさか、親父と関係があるんですか！」
　一也が訊いた。
「そ、それは……　その……」
　イオリイ先生は、戸惑ったようにうつむいた。
「イオリイ先生、もう、一也は襲われてんだぜ！　理由を知ってんなら教えてくれよ！」
　シルビオはすごい剣幕でまくし立てた。
「そうね」
　イオリイ先生はタメ息をついた。
「確かに、シルビオ君の言うとおりかもしれない」
　イオリイ先生は、少し考え込むと、ついに重い口を開いた。
「みんな、パラレルワールドと呼ばれる、沢山の平行世界があるのは知っているわね」
　一也たちはうなずいた。今、世界中にいるモンスターは、数あるパラレルワールドから四十七年前の大異変でこの世界に来たのだ。イオリイ先生もその一人である。
　イオリイ先生は続けた。
「そのパラレルワールドは、それぞれが二つの世界でセットになっているのよ」
「セット？　くっついてるってことか」
　と、シルビオ。
「そう、簡単に言えばね。つまり、今いる世界を正とすると、負の世界が黄泉なの」
　イオリイ先生がうなずく。
　麗香が聞いた。
「つまり、わたしたちの世界には、わたしたちの黄泉があって、別の世界には、その世界の黄泉があるってことですね」
「その通りよ。正の世界で死んだ者は霊体となって黄泉に行く」
　イオリイ先生は節子さんに向き直った。
「お見かけするところ、あなたも霊体のようですね」
「はい」
　節子さんは少し怯えた口調で答えた。
「私も黄泉の世界から舞い戻ってきたのです」
　節子さんは、傍らで聞き入っていた源三郎じいさんをうかがう。
「うむ」
　源三郎じいさんはうなずいた。
「節子。いい機会じゃ。すべてを話そう。例の話をしてあげなさい」
　節子さんも黙ってうなずくと、話を始めた。
「私、一也さんのお父様のお噂を、黄泉の世界で聞きました」
「えっ！　噂ですって！」
　一也が、飛び上がる。
「はい」
　節子さんは続けた。
「黄泉の世界にはイザナミという力の強い魔物がいます。彼女は、黄泉の世界を支配したがっているようなのです。ですが、自分の力だけでは黄泉の魔物全てを支配できず、一也さんのお父さまを仲間に引き入れようとしているそうです。それで奥様を人質にとって……」
「イザナミ」
　一也はつぶやいた。
「それで、親父は黄泉の世界に行ったのか」
「ごめんなさい、一也君」
　イオリイ先生は一也に言った。
「この話はライアスさんに話さないようにって頼まれていたの」
「やっぱりそうでしたか」
　一也はイオリイ先生を見て、首を振った。
「そんな気がしてました」
「カズヤ」
　スセリが心配そうに一也に寄り添う。
「じゃあ、あの猫娘たちはイザナミの手下ってことかしら？」
　と、麗香。
「たぶんそうね」
　イオリイ先生はそう答えると、節子さんに訊いた。
「ところで、あなた方が一也君を呼んだ本当のわけはなんなのですか？」
　今度は、源三郎じいさんが口を開いた。
「節子は、魍魎 と契約をしたんですじゃ」
「魍魎？」
　一也たちの顔に疑問符が浮かぶ。
「人の魂が好物の魔物です」
　節子さんが答える。
「こ、好物って、食っちまうのか？」
　シルビオが驚いて訊く。
「はい。ですが、魍魎とて好き勝手に人の魂を食べれるわけではありません。黄泉の世界には黄泉の世界の法律がありますから」
「その、魍魎とどんな契約をしたんですか？」
　一也は訊いた。
「実は、黄泉の世界と、私たち現世の世界を繋ぐ扉があるのです。その扉を開くことができるのは魍魎とイザナミだけなのです。私は、一年間こちらの世界に帰してやるかわり、魍魎に魂を捧げる契約を交わしました」
「ど、どうして、そんな無茶な契約を」
　一也は驚きを隠せなかった。
　節子さんは声を震わせながら言った。
「私、どうしても木ノ葉が心配だったのです。もう一度、木ノ葉にあって安心させられるなら、それでいいと思いました」
　源三郎じいさんが話を引き取る。
　「木ノ葉は両親が死んでから、わしらを本当の親のように慕ってくれておった。特に、節子にはよくなついておってのう。節子が病に倒れたときの落ち込みようは、それはひどいもんじゃった」
　節子さんは、辛そうにじっとうつむいていた。
「そんな契約、無視しちまえばいいじゃねえか！」
　シルビオが叫んだ。
「ダメなんじゃ」
　源三郎じいさんは忌々しそうに言った。
「節子には召還の呪文がかけられておる」
「なんだそれ？」
「一定の時間が過ぎると、呪文をかけた者の下に強制的に戻される呪文よ」
　イオリイ先生が答えた。
「イオリイ先生、呪文を解く方法はないんですか？」
　一也が訊く。
「召還をかけた者が自ら解くか、あるいは、その者を退治するしかないわね」
「そうなんじゃ」
　源三郎じいさんは一也たちに言った。
「頼む。魍魎を退治してくれ。額に三日月の傷があるやつじゃ」
「ま、待て待て！　三日月の傷って、魍魎ってのはなん匹いるんだよ！」
　と、シルビオ。
「沢山います」
　節子さんが答える。
「げげっ、なんってこった！」
　シルビオは、思わず叫んだ。
　イオリイ先生はタメ息をついた。
「まあ、そんなことだろうと思いました。それで、息子の一也君を探して、私に電話してきたのですね」
「そうですじゃ、先生。魍魎を退治できるのは卓也殿の息子以外いないと思いましたからのう」
「で、でも、オレは……」
　一也が当惑した声を出す。
「イザナミとたった一人で闘っておる男。その息子じゃ！」
　源三郎じいさんは言い切った。
「まって、勝手に話を進めないで！」
　スセリが叫んだ。
「カズヤはカズヤよ！　お父さんとは違うわ！」
「わかっておるよ」
　源三郎じいさんは、タメ息混じりに言った。
「じゃが、わしらには他に方法がないんじゃ。それにもう、時間もない。呪文が有効になるのは五日後なんじゃ。節子が召還される時、黄泉の世界に行く扉が開くはずじゃ。そこから黄泉の世界に行って……」
「ダメです！」
　イオリイ先生は源三郎じいさんの言葉を遮った。
「お気持ちはわかります。ですが、一也君たちに魍魎と闘わせるわけにはいきません」
「じゃが、先生……」
　源三郎じいさんが口を挟もうとした。
「なんとおっしゃられてもダメです。彼らのレベルでは魍魎を倒せません。それに……」
　イオリイ先生は一也たちを見つめた。
「この子たちはわたしの大切な生徒なのです」

　その頃、黄泉の世界では、猫姫たちがイザナミの前にひれ伏していた。
「も、申し訳ありません！　一也ってやつ、思った以上に強くて」
　ヘスが必死に弁明する。
「そうなんです、強くって」
　ペリも姉に続ける。
「強いんです」
　デースも縮こまりながら言った。
「愚か者め」
　イザナミは表情を崩さず言った。その声は、ぞっとするほど冷たい。
「もう一度、もう一度チャンスを下さい！」
　ヘスが懇願した。
　イザナミはなにも言わず、掌を猫姫たちに向けた。
「あああ、お許しを……」
　猫姫たちは恐怖に顔を歪めた。
　とたん、猫姫たちに電撃が走る。
　バリバリバリ！
「ギャーアアアア！」
　猫姫たちは激しく痙攣しながら悲鳴をあげた。
「お許しを！　お許しを、イザナミ様！　アアアッ！」
　ふっと電撃が止んだ。
　猫姫たちはぐったりと横になり、肩で息をした。体からは白い煙が上がっている。
「ふん、役立たずどもが」
　イザナミの声はどこまでも冷淡であった。
「感謝しろ、本来なら処刑しておるところだ」
「あ、ありが……　とうございます……」
　猫姫たちは、辛そうに言った。

　その夜。一也は滝沢旅館の縁側で、一人物思いにふけっていた。
「一也さん」
　いつの間にか、節子さんが脇に立っていた。
「どうぞ、先ほどの話は忘れてください。私は、覚悟の上で決めたことです。それで、一也さんたちにご迷惑をかけるわけにはいきません」
　一也は、なんと答えていいかわからなかった。
「本当に、お気になさらないで下さい。かえって未練が残ってしまいます」節子さんは軽くお辞儀をすると屋敷の奥に消えた。
「カズヤ」
　スセリが節子さんと入れ替わるように立っていた。
「ダメよ。変な気を起こしちゃ」
「うん」
　一也は、ぼんやりと答える。
　スセリは一也のとなりに寄り添うように座った。
「そりゃ、あたしだって、節子さんを助ける方法があればいいと思うけど。それはあたしたちにできることじゃないもの」
「うん」
「カズヤのご両親だって、きっと同じことを言うと思うわ」
「オレは」
　一也の声に急に力がこもった。
「黄泉の国に行って、親父たちを助けたい」
「ダメ！　それこそあたしたちが行ったって、なんにもできやしないわ！」
「それは……」
　一也の声から力が抜ける。
「そうかもしれないけど」
「カズヤ、お願い。さっき、猫姫に捕まりそうになったとき、あたし……」
　スセリは一也の腕を抱いた。
「あたし、カズヤと離れたくない」
　一也は胸が締めつけられた。たしかに両親を助けたいという気持ちに偽りはない。でも、それ同じぐらいスセリを悲しませたくない。
　と、その時。突然、黒い穴が出現した。猫姫たちが出てきたのと同じ穴。しかし、その穴から出てきたのはイザナミであった。
「おまえは！」
　一也は、スセリの腕を振りほどく。
「私はイザナミ」
　イザナミは冷たく言う。
「さあ、一也さん。お母さんがお待ちかねよ」
　一也はすかさず剣を抜いて構えた。
「おまえがイザナミか！」
「ダメ！　カズヤ！」
　スセリが一也を止めようとした。
　突然、イザナミの掌から光りが発せられた。その光りはあっと言う間に一也を包んだ。一也は身動きすらとれなかった。そして光りが体を包み込むと意識を失った。
　イザナミは苦もなく一也を抱えると、出てきた穴に消えた。
「カズヤー！」
　スセリは無我夢中でイザナミを追い、穴の中に飛び込んだ。
「なんだ、どうした！」
　シルビオと麗香が駆け込んでくる。ちょうどその時、スセリが穴に飛び込むのが見えた。
「や、やばいぜ！」
　シルビオは、瞬時に状況を理解した。
「イオリイ先生を呼んでこなくちゃ！」
　麗香が叫んだ。
「だめだ、間に合わない！　穴が消えていく！」
　シルビオと麗香は、お互いの顔を見るとうなずいた。そして、二人ともためらうことなく穴に飛び込んだ。

「ううっ」
　一也は頭を押さえた。とたん、スセリの心配そうな顔が目に飛び込んでくる。
「ああ、カズヤよかった！」
　スセリは一也を抱きしめた。
「なかなか目を覚まさないから、あたし心配で……」
　一也はスセリのやわらかい胸にドキドキしながら、かろうじて声を出した。
「スセリ、ここはどこだい？」
「どうやら、ここは……」
　答えたのは麗香だった。
「イザナミの屋敷らしいわ」
「麗香！」
　一也はそっとスセリの腕をほどくと、やっと辺りを見渡すことができた。その部屋にはシルビオもいる。
「みんな、捕まってしまったのか！」
　一也は叫んだ。
「いや、正確に言うとな」
　シルビオが答えた。
「おまえを追いかけたんだよ。オレたち」
「なんだって！」
　一也は驚いた。
「どうしてそんなことしたんだ！」
「だってあたし！」
　スセリが叫ぶ。
「カズヤが捕まったとき無我夢中で！」
　スセリはわっと一也に抱きついた。
「スセリ……」
　一也は胸が痛んだ。自分のせいでスセリを……　仲間たちを危険な目に合わせている。「ごめん、オレ……」
「さあさあ」
　麗香が軽く手をたたいた。
「お楽しみはお預けよ、お二人さん」
　一也とスセリは、パッと体を離した。
「とにかく」
　麗香が続ける。
「四人とも捕まってしまったんだから、覚悟して大人しくしているか、無駄と知りつつ逃げ出す努力をするか、どっちかに決めましょう」
「ヤボなこと訊くな麗香」
　シルビオがニヤリと笑った。
「この世に、無駄なことなんかあるものか。ん？　ここは、あの世か！」
　一也たちはシルビオの言葉に笑った。それは緊張を無理にほぐそうとしているような、少し不自然な笑いだった。
　そのとき。
「楽しそうで結構だわ」
　突然、イザナミの声が響いた。
　一也たちは、笑いをぴたりと止めた。見ると、部屋の中央にイザナミが立っている。それは、半透明のホログラフィーで、実体でないことは明らかだった。
「やっとお目覚めのようね。一也さん」
　と、イザナミの幻影。
「イザナミ！　オレたちをどうするつもりなんだ！」
　一也はイザナミの幻影に鋭い眼差しを向けた。
「ご安心なさい。おまえたちを傷つけるつもりはありません」
　イザナミは不敵な笑みを浮かべた。
「それどころか、大切なお客様としてお持て成しいたしますわ」
「てめえ、なに、企んでやがる！」
　シルビオが叫ぶ。
「別に、なにも」
　イザナミは興味なさそうにシルビオを見ると、一也に視線を移した。
「卓也殿のご子息をお持て成しするのは当然ですわ」
「ああ、そう言うことね」
　と、麗香。
「つまり、私たちは人質ってことよ」
「くーっ、姑息な野郎だ。それでも夜の帝王、違った、黄泉の帝王かよ」
　シルビオが悪態をつく。
「遠交近攻の策と言っていただきたいわ」
　イザナミはほほえんだ。その笑顔は少しも温かくない。
「母さんは、母さんはどこだ！」
　一也は人質という言葉で、自分の母の境遇を思い出した。
「会わせて差し上げますとも。時が来たらね」
　イザナミはそれだけ言うとすっと消えた。
　しばらく間があった。
　沈黙をシルビオが破る。
「さあて、これからどうする？」
「逃げよう」
　一也は答えた。
「でも、カズヤのお母さんはどうするの？」
　スセリが心配そうな顔で一也を見る。
「オレたちの力で助け出せるとは思えない」
　一也は必死に自分の感情を押さえていた。今は母よりも仲間の命が大切だった。
「ここから出て、父さんを探した方がいい」
「賛成」
　麗香が言った。
「ふふん、なんかリーダーらしいじゃねえか、一也」
　シルビオが鼻を鳴らす。
「ただ問題は、どうやって逃げ出すかだな」
　一也たちは、閉じ込められている部屋を見渡した。そこはまるで、ホテルのスウィートルームみたいで、わりとオシャレな造りだった。いわゆる牢屋のイメージはない。しかし、窓がなかったので閉じ込められているという閉鎖感はあった。
「ダメだな」
　シルビオが、ドアのノブに手を回して言った。
「やっぱ、鍵がかかってる」
「壊せないか？」
　一也が問う。
「無理だろうな。普通の鍵じゃなくて、魔法の封印みたいだ。それもえらく強力なヤツ」
「そうか」
　一也はがっかりした。
　一也たちは、しばらく脱出方法を考えたが、いいアイデアは浮かばなかった。
「なんか、腹が減ったなァ」
　シルビオが、ふと気づいたように言う。
　たしかに、一也たちは空腹感を感じていた。すでに、閉じ込められてから、数時間が経過している。
　その時、ドアの鍵がカチリと開く音がした。一也たちは一斉にドアを見る。
　ドアが開き、猫姫たちが料理の乗ったワゴンを押して入ってきた。
「あんたたち、食事だよ」
　長女のヘスが言う。
「お、おまえは！」
　一也が声をあげた。
「やっぱり、イザナミの手下だったのか！」
「そうよ。あたいたちはイザナミ様の右腕さ」
　ヘスが言った。
「ふん、それがホントなら、イザナミは左利きだろうぜ！」
　シルビオが悪態をついた。
「な、なんだって！」
　猫姫たちの毛が逆立つ。
「ちょっと、シルビオ、問題を悪化させないでよ」
　麗香がシルビオをたしなめた。
「まったく、なんでこんなやつらに食事させなきゃならないんだ」
　ヘスがぶつぶつ言った。
「毒でも入ってんじゃねえか？」
　シルビオが挑発する。
「そんなことするもんか！」
　ヘスは怒鳴った。
「大丈夫だと思うわ」
　麗香が言う。
「私たちを毒殺するつもりなら、とっくの昔に殺しているでしょう。それより、あたしたちを懐柔したいのよ、きっと」
「へえ、あんた頭いいね！」
　末っ子のデースが感心した声をあげた。
「デース！　人間に感心してどうするのさ！」
　ヘスがデースを睨み付ける。
「ご、ごめんなさい、姉さん」
　デースはシュンと小さくなった。
　イザナミが一也たちを持て成すと言ったのは、まんざらウソでもないようであった。猫姫たちが運んできた料理は、高級レストラン顔負けの豪華さで、量もたっぷりとあった。
「不本意ながら、うまそうだ」
　シルビオがわざと残念そうに言った。
「ねえねえ」
　スセリが、赤いソースのかかった魚の姿煮を指さして、猫姫たちに訊いた。
「こんなお魚見たことないけど、何て言う魚なの？」
「それは、ソラソラ魚さ！」
　末っ子のデースが、瞳孔を大きく開いて答えた。
「ソラソラ魚？」
「うん。いつも飛び回ってるから捕まえるのが大変なんだ。でも、この時期のソラソラ魚ときたら、身がしまってて脂がのってて、ほんのり甘みがあって……」
　デースの顔がうっとりとしてきた。聞いている姉たちも、今にもよだれがこぼれそうであった。
「はは～ん」
　シルビオが勝ち誇った目で猫姫たちを見た。
「おまえら、ホントは食いたいんだろ」
「バ、バカ言うんじゃないよ！」
　ヘスがハッと我に返る。
「シルビオ、あんまり挑発するなよ」
　一也は小声でシルビオにささやいた。
「へへん、いい気味だ」
「そうだ！」
　麗香が急に大きな声を出した。
「ねえ、猫姫さんたち、私たちのかわりにこの料理を食べない？」
「な、なに言い出すんだ、麗香！」
　シルビオが驚く。
「あら、お近づきのしるしよ」
　麗香はしれっと答えた。
「よく、引っ越しソバってあるじゃない」
「お、おい、オレたちは引っ越してきたわけじゃねえぜ」
　シルビオが抗議した。
「でも、ここに長くいることになりそうだし……」
　麗香は、一也に合図を送るようにちらっと視線を移した。
　一也は麗香の仕草に気がついた。猫姫に気づかれないように麗香の視線の先を追う。そこはドアだった。なんと開けっぱなし。一也は麗香の考えを理解した。
「うん。麗香の言うとおりだ。さあ、どうぞ、ええと、きみの名前は？」
　一也は猫姫の長女を見た。
「ヘスよ」
　猫姫の長女が答える。
「どうぞ、ヘスさん。妹さんたちも」
　一也は自らヘスに席を譲った。
　ヘスは、ためらいながらもうれしそうに、
「そ、そうか、まあ、おまえたちがそう言うなら」
　と、テーブルについた。
「おい、一也！　おまえまでなんだよ！」
　シルビオは一也を睨んだ。
「いいからいいから、さあスセリも猫姫さんたちに席を譲れよ」
　一也はシルビオとスセリを急き立てた。
「う、うん」
　スセリはちょっと惜しそうに料理を見たが、すぐに一也に従う。
「チェッ、なんだってんだよ」
　シルビオもしぶしぶ従った。
「あんたたちって、けっこういいやつだなァ」
　末っ子のデースがうれしそうに料理を口に運ぶ。
「うわォ！　美味しい！」
　猫姫たちは無我夢中で料理にありついた。普段の食生活がうかがい知れる。
「さあ、いまのうちよ」
　麗香がドアを指さして、小声で言った。
「ああ、な～るほど」
　シルビオは、やっと合点がいった。
　一也たちは、そろりそろりと部屋を出た。料理に夢中の猫姫たちが気づく様子はない。
　部屋を出ると、薄暗く長い廊下が続いていた。部屋を出たのはいいが、この建物の出口がわからない。
「ここからが問題だな」
　一也はスセリの手をとって先頭に立った。
「イザナミの手下が猫姫だけとは思えないし」
「それにな」
　シルビオが付け加える。
「あいつらほどバカとは限らんぞ」
　一也たちは、なるべく音を立てないように注意しながら進んだ。幸いなのかどうかわからないが、廊下は一本道で、今のところ迷うことはない。
「しかしなんだな」
　シルビオが言った。
「敵の真っ只中にいると、かえって落ち着いていられるもんだなァ」
「そういえば」
　麗香も同意する。
「不思議と足が竦まないわねェ」
「オレたちも少しは成長したってことかな」
　一也は、仲間たちを振り返った。
「あたしはカズヤと一緒なら、どこだって平気よ」
　スセリが言う。
　一也は顔が赤くなった。浜辺で思いを打ち明けてから、スセリは自分の気持ちを隠すことがなくなった。一也をからかう仕草も見せない。時として女の子の方が大胆になるのだな。と、一也は思った。もちろんそれは、いやなことではない。
「おまえらさあ」
　シルビオが一也をつついた。
「いつから、そういう関係になってんだ？」
「あら、シルビオも鈍感ねェ」
　麗香がクスッと笑った。
「あたし前から気がついてたわよ。いつかこうなるってね！」
　一也はますます顔が赤くなった。
　しばらく進むと廊下が三つ又に別れていた。
「げっ、別れ道になってやがる」
　シルビオが言った。
「それも三つ又だぜ」
　見ると、それぞれ別れ道の壁にはプレートが埋め込まれていた。しかし、そこにはなにも書かれていない。
「なにかしらこれ？」
　スセリが、何げなくプレートを触った。とたん、ビクッと感電でもしたように、プレートから手を放した。
「どうした、スセリ！」
　一也があわてて、スセリを引き寄せた。
「カ、カズヤ、いま、これが喋ったァー！」
　スセリはプレートを指さす。
「なんだって？」
　一也は、恐る恐るプレートに触れた。すると、なにかが頭の中に語りかけてくる。
〈この道は、賢者の道。汝、真に賢 ければ道は開かれん……〉
「この道は、賢者の道って言ってるぞ」
　一也は仲間たちに言った。
「こっちも喋るわよ」
　麗香が、隣のプレートに触れた。
〈この道は、勇気の道。汝、真に強い意思あれば道は開かれん……〉
「うひゃ、なんか気持ち悪りいなァ」
　シルビオが、三枚目のプレートを触る。
〈この道は、裁きの道。汝、真に誠実なれば道は開かれん……〉
「賢者に、勇気に、裁きか……」
　一也が唸った。
「麗香、賢者の道を通る自信あるか？」
「ある。と、言いたいとこだけど……」
　麗香は肩をすくめた。
「スセリは？」
「ないよゥ……」
　スセリは首を振った。
「そうか、オレも自信ないな」
　一也は考え込んだ。
「おい！」
　シルビオが一也を睨んだ。
「なんで、オレには訊かねえんだよ！」
「ああ悪い、シルビオ。じゃあ訊くけど、裁きの道を通る自信あるか？」
　と、一也。
「なんで、オレに訊くんだよ！　自慢じゃないが、あるわきゃ、ねえだろ！」
「ホントに、自慢じゃないわねェ」
　麗香はあきれた声で言った。
「よし、決まったな」
　一也は決断した。
「消去法で勇気の道を通ろう！」
　一也たちは勇気の道を選んだ。消去法で勇気の道を選ぶというのがなんだが……
　しばらく勇気の廊下を進むと、奥から人の気配を感じた。一也たちは立ち止まって警戒した。すると、薄暗い廊下の奥から、一人の女の子が歩いてくる。深いスリットの入ったチャイナドレスを着ているが、歳は一也たちと、そう離れていないようだ。
「あっ！」
　女の子のが一也たちに気づき、驚きの声をあげた。
「あなたたち、どうしてこんな所にいるの！」
　一也は油断なく剣を抜いた。
「君こそ何者だ！」
「ま、待って、あたしはあんたたちの敵ではないわ！」
　女の子はいきなり剣を抜かれて、あわてて言った。
「わたしもイザナミに捕まっているのよ！」
「なんだって？」
　一也は、少しだけ剣先を下ろした。
「この先にはケルベロスという魔物がいるわ。この館の出口を守っているの」
　女の子は少しでも早く自分のことを説明しようと、早口で説明した。
「あたしはケルベロスに餌をやる係りなの。そのために捕まって、もう何年もここで働かされているのよ！」
　一也は彼女の言葉を信じるべきか迷った。だが、どちらにしても女の子を切りつけることはできないだろう。
「わかった。君を信じるよ」
　一也は剣を鞘に納めた。
「ありがとう」
　女の子はホッと安堵の表情を見せた。
「ケルベロスはとても強い魔物よ。本当の勇者でなければ倒せないわ」
「へえ！」
　シルビオが一也を押しのけて、女の子の前に立った。
「だから、勇気の道なのかい？」
「ええ。そうよ」
　女の子がシルビオに答える。
「ねえ」
　麗香が女の子に訊いた。
「あなた、安全な出口は知らないの？」
「知ってるけど……」
　女の子はおずおずと訊ねる。
「あたしも、逃がしてくれる？」
「もちろんだよ！」
　シルビオが、間髪入れずに言った。
「当たり前じゃないか。君みたいな可愛い子を誰が置いていくもんか！」
「ありがとう！」
　女の子はシルビオを見て目を輝かせると、「こっちよ」と、ふたたび廊下の奥へ引き返した。
「そっちには、ケルベロスがいるんじゃないのか？」
　一也が怪訝に問う。
「大丈夫。あたしを信じて！」
　一也たちは女の子の後を追った。彼女はしばらく進むとふいになにもない壁に手をやる。すると、石の壁がゴゴゴと音を立てて自動ドアのように横にスライドした。
「避難用通路よ」
　女の子は一也たちが質問する前に答えた。
「ケルベロスが興奮すると、だれかれ見境なく攻撃するの。そんなときは、ここに入って避難するのよ。この通路は、屋敷の外にも通じているわ」
「ちょっと待って」
　麗香が油断なく訊いた。
「こんな通路があるなら、なんで今まで逃げ出さなかったの？」
「だって、あたし一人じゃ逃げられるわけない」
　女の子はよどみなく答える。
「外にも魔物がいるんですもの。でも、大丈夫よ。ケルベロスなんかより、ずっと弱い魔物だから、あなたたちならきっと倒せるわ」
　女の子はそう言って先を急いだ。
　しばらく進むと、二十畳ぐらいの広さの部屋に出た。そのとたん、入ってきた通路がゴゴゴと閉まる。一也たちはなんとも言い知れぬ不安を感じた。
「ふふふふ」
　通路が閉まると、少女は不敵な笑い声をあげた。
「ま、まさか！」
　一也は素早く剣を抜いた。
「だましたな！」
「バカねえ、あんたたち」
　女の子の瞳が魔女の輝きを帯びた。
「だまされる方が悪いのよ。世の中にうまい話なんてないんだからさァ」
　女の子が言い終わると、突然、一也たちの顔に恐怖の色が浮かんできた。
「うわーっ！」
　一也は、なにもない空間に向かって剣を振った。
「いやーっ、カズヤー！　助けて！」
　スセリが叫ぶ。
「キャーッ！」
　麗香も、悲鳴を上げてその場にうずくまった。
「な、なんだ、どうしたんだよ、みんな！」
　シルビオはうろたえた。シルビオには、なにも見えない。
「あんたの仲間は、あたしの幻術にかかったのさ。今は恐ろしい魔物を見せてやってる」
　女の子がシルビオに言った。
「これが勇気の道の本当の意味さ。真に強い意思をもった者は、幻術にかからないのものよ」
「そういうことか！」
　シルビオは、一也たちの奇怪な行動の理由がわかった。
「待てよ、ってことは、オレは強い意思をもってるってことか？」
「あら、違うわよ」
　女の子はニッコリと笑った。
「あんたには幻術をかけなかったのさ」
「なんだ、そうか」
　シルビオはちょっとがっかりした。しかし、すぐにそんな場合ではないと気づく。
「ちょっと待て、なんでオレだけ術をかけないんだ！」
「うふふ。あんたがあたしの部屋に来てくれたら教えてあげるよ」
　女の子は意味ありげにほほえんで見せた。
「へっ？」
　シルビオは、少女の意外な言葉に間抜けな声を出した。
「来てくれたら仲間の幻術も解いてあげる」
「なに企んでやがる！」
「ふふふ、来ればわかるさ」
　女の子はニヤリと笑った。
「ううむ」
　シルビオは少女の、いや、この魔女の真意がわからなかった。だが、逆らっても無駄だと思った。
「わかったよ、なんだか知らないが、行きゃいいんだろ！」
「そうこなくっちゃ」
　女の子の瞳がキラリと光った。
　すると、新しい通路が出現した。女の子はシルビオに手招きすると、通路に入っていった。シルビオはぶるっと身震いすると、意を決して女の子の後を追った。
　通路の先は、ごく普通の部屋だった。ソファーやテーブルなど、中華っぽいインテリアが置かれている。
「そこに、座ってて」
　女の子はシルビオにソファーに座るよう促すと、いそいそと部屋の奥に消えた。
　シルビオは、突然、誰かの家に招待されたような錯覚を覚えて、面食らっていた。しばらくすると、女の子が飲み物を持って戻ってきた。テーブルにコップを置き、シルビオのとなりに座る。
「あ、あのなあ！」
　シルビオは、だんだん腹が立ってきた。
「悠長にお茶なんか飲んでる暇はねえんだよ！」
「あら、ヤボなこと言わないで。これ、お茶じゃないわ。お酒よ」
「おお、そうか」
　シルビオはコップに手を伸ばしかけて、ハタと気づいた。
「バカ、よけい悪いじゃねえか！」
「あはは、あんたって面白いね。ますます、気にいっちゃった！」
　女の子はうれしそうに笑った。
「あたしは紅玉 っていうの。あんた名前は？」
「シルビオだ」
　シルビオは思わず名を答えたが、すぐにいやな予感が走った。
「ん？　ちょっと待て、いまオレのことを気にいったとかなんとか……」
「あのね、あんたを助けたのは……」
　紅玉は、はにかみながら言った。
「あんたのこと好きになっちゃたからさ」
　シルビオ絶句。
　紅玉は艶かしくほほえんだ。
「あんたを一目見て、惚れちゃったよ。あたし」
「ほ、惚れちゃったって、おまえ……」
　シルビオは訳がわからなくなってきた。
「うふふ」
　紅玉は、シルビオに体を押しつけてきた。
「いい体してるねえ、あんた」
　シルビオはめまいがした。めまいの原因は紅玉の幻術ではない。それは、可愛い子に言い寄られたとき、男なら誰もが感じるものだった。
　しかし、シルビオはすぐに首を振った。
「冗談じゃねえ、おまえはイザナミの手下じゃねえか！」
　紅玉は、パッとシルビオから離れた。
「バカ言ってんじゃないよ！　誰があんなやつの手下なものか！」
「えっ、違うの？」
　シルビオは、また間抜けな声を出した。
「言っただろ！　あたしもイザナミに捕まってるんだよ！」
　紅玉は忌々しそうに言った。
「ホ、ホントかよ？」
　シルビオは疑いの眼差しで紅玉を見た。
「本当だよ。イザナミに捕まって、勇気の道の門番をやらされてるんだよ！」
「それなら話は簡単じゃねーか！　一緒に逃げようぜ！」
　シルビオは叫んだ。
「ダメだよ！」
　紅玉はシルビオの言葉を遮った。
「イザナミから逃げられっこない！」
「やってみなきゃ、わかんねえだろうが！」
「わかるさ。あいつの強さは半端じゃないからね」
　紅玉は声のトーンを落として言った。
「おい、だったらイザナミの手下と変わらんじゃないか！」
　シルビオが怒鳴った。
　突然、紅玉はシルビオに抱きつくと、熱いキスでシルビオの口をふさいだ。
　シルビオは驚きながらも逆らえなかった。いや、逆らわなかった。
　紅玉がゆっくり唇を離す。
「そんな、死に急ぐことないじゃない。ねえ、ここであたしと暮らそうよ」
　シルビオは頭がボーッとなった。実は、女の子とキスをするのは初めてなのだ。
　紅玉はとても魅力的で可愛い。
〈こんな子と暮らせたら、きっと幸せだろうなァ〉
　ふと、シルビオの心にそんな考えが浮かぶ。
　紅玉はシルビオの心の変化を逃さなかった。
「イザナミの目的はあの剣士だろ。だったら、あんたは見逃してくれるさ。それに、仲間の女たちも助けるようにイザナミに話してあげるよ」
　これは失敗だった。シルビオに仲間のことを思い出させたのだ！　
「い、いやだ！」
　シルビオは紅玉を押しのけた。
　紅玉はシルビオを睨んだ。
「フン！　なにさ男なんて！　幻術を使う女なんて、気味が悪いんだろうよ！」
「ちょっと待て、そんなこと言ってねえぞ！」
　シルビオは断言した。
「おまえみたいな可愛い子は大好きだ」
「えっ？」
　紅玉は、不意をつかれたような声を出す。
「オレはただ、仲間を売ってまで助かりたかねえんだよ！」
「それ、ホント？」
「もちろんだ」
　シルビオは腕を組んで言った。
「あいつらとはケンカもずいぶんしてるが、みんな大事な親友なんだ」
「違うよ」
　紅玉は、熱い眼差しでシルビオを見つめた。
「あたしが聞きたいのは、あたしのこと、可愛いって言ったことさ」
「おお。ホントだぜ。おまえカワイイよ」
　紅玉は、ジ～ンと胸を打たれた。
「あたしが幻術使いと知った男で、そんなこと言ってくれたの、あんたが初めてだよ」
「なんだい、男運が悪かったんじゃねえのか？」
「あはは、そうかもね！」
　紅玉は笑った。そして、自分を奮い立たせるように言った。
「わかった。あんたも、あんたの仲間も助けてあげる。そのかわり、あたしも連れてってくれるかい？」
　シルビオは間髪を入れず言った。
「あたりめえだろ、だれが置いていくもんか！」
「うれしい！」
　紅玉はシルビオに抱きついた。

「おい、一也、大丈夫か？」
　シルビオが一也を覗き込んだ。
「うわーっ！　って、あれ？」
　一也は我に返った。
「ど、どうなってるんだ？」
「カズヤー、こわいよゥ～、こわ……」
　スセリも我に返る。
「あら？」
「ななな、なによ」
　麗香は座り込んだまま、辺りを見渡した。
「これ、どうなてんの？」
「おまえら、紅玉の幻術にかかってたんだよ」
　シルビオが答える。
「紅玉ゥ？　幻術ゥ？」
　一也たちは、わけがわからない。
「ごめんよ」
　紅玉は、シルビオの陰に隠れながらあやまった。
「どういうことだ、いったい」
　一也は驚いて紅玉を見た。
「説明は後だ、それより、今はここから逃げようぜ」
　シルビオが言った。
「う、うん……」
　一也たちは、不審に思いながらもシルビオに従った。
「さあ、こっちよ」
　紅玉が先頭に立った。
　紅玉の案内でふたたび廊下を歩く。シルビオは歩きながら紅玉について説明した。紅玉との熱いキスについては省略したが……　
　そのうち、屋敷の外に出た。外は屋敷の中のように薄暗かった。
「夜か」
　一也がつぶやく。
「違うわ」
　紅玉が言った。
「黄泉の世界には夜も昼もないのよ」
「ってことは、いつもこんな薄暗いのかよ」
　シルビオが訊く。
「そうよ。黄泉の世界だもの、当たり前じゃない」
　紅玉はしれっと答えた。
「辛気臭いところねェ」
　麗香が顔をしかめながら言った。
「あたし、暗いのやだ」
　と、スセリ。
「それより、早く屋敷から離れなきゃ」
　紅玉が一也たちを急かす。
「ほかの魔物に見つかるわ！」
　一也たちは身震いした。紅玉の幻術でいやと言うほど、魔物を見せられたのだ。あの本物には絶対に会いたくないと思った。
　屋敷の外に出ると、イザナミの屋敷が巧妙な迷路によって、外界から隠されていることがわかった。実際、紅玉がいなかったら、一也たちだけで迷路を抜けるのは、不可能だったであろう。

　紅玉の案内で、首尾よく黄泉の世界の町に出たることができた。黄泉の世界の町とは、すなわち、死者の町である。とはいえ、ゾンビーが徘徊しているわけではない。死者の魂は、生前もっとも充実していた頃の姿に戻るのだ。だから、黄泉の町は若々しい者が多い。
　それよりも、一也たちが面食らったのは、黄泉の町の混雑ぶりというか、混乱ぶりであった。町全体の印象は、スラム街と近代建築が混在した感じであった。なにしろ、あらゆる時代の、あらゆる国の人間（の魂）たちが暮らしているのである。中世ヨーロッパ風の人もいれば、ちょんまげを結った人もいる。かと思えば、スーツを着たビジネスマンが歩いていたりする。さらに、妖怪魔物の類が人間に混じっている。砂かけババアや、小豆洗いとか一目でわかるのもいるが、たいていは見たこともない魔物が多い。
「あたし、頭が痛くなってきちゃった……」
　麗香が人混み（魂混み？）に、もまれながら言った。
　麗香でなくても、みな同じであった。とにかく、人が多い。加えて、なんでもありのチャンポン世界である。どうも、精神のバランスが壊れる。
　一也たちは人混みをかき分け、なんとか町の広場までたどり着いた。
「さあて、こんなとこで、どうやって一也の親父さんを捜そうか？」
　シルビオが仲間を見渡しながら言った。
「捜すって、誰をだい？」
　紅玉が訊いた。
「紅玉、卓也って男を聞いたことないか？」
　一也が逆に質問した。
「ええっ！」
　紅玉は驚いた。
「卓也って、あの卓也かい！」
　一也は、節子さんが黄泉の世界で、父の噂を聞いたというのを思い出した。
「うん。たぶん、その卓也だと思うけど」
「そうか、あんた、卓也の息子だったんだ。それでイザナミのやつ、あんたのこと捕まえたんだねェ……」
　紅玉は、一人納得したかのようにうなずいた。
「うふ。有名なのね。カズヤのお父さんって」
　スセリがクスッと笑った。
「そうみたいだね」
　一也は肩をすくめた。
「ねえ、シルビオ。小銭持ってる？」
　紅玉が突然言い出す。
「うん？」
　シルビオは懐を探った。
「ああ、あるけど？」
「貸して！」
「どうすんだよ、小銭なんて？」
「一一四番で卓也の家の電話番号を訊くんだよ」
「はぁ？」
　一也たちは、虚をつかれた。
「なに間抜けな顔してんのさ。あんたたちの世界だって、電話ぐらいあるだろ？」
「いや、あるけどさ……」
　紅玉は広場の電話ボックスに入ると、一一四番に電話をかけた。
「わかったよ」
　紅玉が電話ボックスから出てくる。
「黄泉六六の、への二五番だって」
「ホ、ホントに？」
　あまりの安直さに、一也たちは紅玉を疑った。
「なによ、電話会社がウソつくわけないじゃん！」
　紅玉が怒鳴る。
「う～ん」
　一也は唸った。
「黄泉の世界って、進歩してるなァ」
　とにかく、一也は電話をかけることにした。番号を間違えないように、慎重にダイアルを回す。だんだん、緊張が高まってきた。これで、もし本当に父さんが出たら！
　トゥルルルルル。呼び出し音が聞こえる。
　ガチャ！　つながった！
（はい。沢渡です……）
　それは、紛れもない、父の声であった。うっすらと覚えている父の声。どこか一也の声に似ている。いや、一也が父の声に似てきたのだ。
「あっ、あの、父さん！　か、一也です！」
　一也は緊張しながら言った。
（ただいま留守にしております。ご用のある方は、発信音の後にメッセージをどうぞ）
「る、留守番電話だァ！」
　ガクガクガクッ！　みんなズッコケた。
「ど、どうしよう……」
　一也はうろたえた。
「バカ！」
　紅玉が怒鳴る。
「早く、メッセージを入れなよ！」
「あ、ああ、父さん、一也です。いま黄泉の世界に来てます。ええと……」
「待って」
　紅玉が言った。
「四丁目のバー『不吉』で待ってるって言って！」
「えっ、あの、四丁目のバー『不吉』で待っています」
　一也は、紅玉に言われた通りメッセージを入れた。
「バー『不吉』ですって～」
　麗香が顔をしかめる。
「いやな名前ねェ」
「あら、二丁目の、カフェ『溺死体』よりいいと思うけど？」
　紅玉がしれっと答えた。

　６　魍魎

　バー『不吉』は繁盛していた。わりと広い店内に、人間、妖怪、魔物がたむろしている。ちょっと、すねに傷もつ連中の溜まり場と言った雰囲気である。
　一也たちが店に入ると、店にいるお客たちの視線が一斉に集中した。一也たちはビクッと身を硬くする。しかし、客たちは、すぐにもとのざわついた常態に戻った。
「なんか、こわい……」
　スセリは一也の腕にしがみついた。
「だ、大丈夫だよ」
　と、一也。実はちょっと恐かった。
「あはは、別にとって食やしないって」
　紅玉は陽気に笑った。
　一也たちはカウンターに座ることにした。空いている席はあったが、カウンターからだと店の出入口がよく見えるのだ。
　カウンターの奥には見たこともないお酒が並んでいる。ラベルには『汚水』とか『絶望』とか、いかにも、まずそうな名前が書かれていた。
　ここまで来て、まさか、なにも頼まないわけにはいかず、一也たちは、比較的抵抗の少ない『大往生』というお酒を頼んだ。もっとも、あまり飲む気はしない。
「匂いは普通の酒だな」
　シルビオはグラスに口をつけた。
「シルビオ、止めなさいよ」
　麗香がシルビオの腕を引っ張った。
「なんだよ、味見だよ、味見」
「あたしいやよ、この歳で大往生なんて」
　麗香は言った。
「じゃあ、あっちの『女殺し』にしようか？」
　シルビオは、真っ赤な色のビンを指さした。
　パカン！　麗香がシルビオの頭を殴った。
「いってえ～」
　シルビオは頭を抱えた。
「ちょっと、なにすんのよ！」
　紅玉が怒鳴った。
「あたしのシルビオになんてことすんのよ！」
「ええっ！」
　一也たちは驚いた。
「おい、シルビオ」
　一也がシルビオをつついた。
「おまえ、イザナミの屋敷で紅玉になにしたんだよ」
「いやァ、その、なんだ」
　シルビオは照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、色々とあったわけだ、これが」
「ほ～お」
　一也は、納得したようなあきれたような声を出した。
「ふん！」
　麗香はムッとした顔でそっぽを向いた。
「まったく、男ってやつは！」
　スセリは、そんな麗香を見てクスッと笑った。

　それから、一時間経ったか、それとも二時間か……　なぜか、店内には時計がなかった。もっとも、黄泉の世界では時間というものにあまり意味がないのかもしれない。
　とにかく、一也たちは辛抱強く卓也を待っていた。
「父さん、ホントに来てくれるかな」
　一也は、グラスを傾けて、飲んでいるふりをした。
「大丈夫よ」
　スセリはほほえんだ。
「きっと来てくれるわ」
「うん」
　一也は力なくうなずいた。
　その時、バーの扉が開いた。一也たちは一斉に扉を振り返った。
　しかし、バーに入ってきたのは卓也ではなかった。なんと三歳ぐらいの男の子たちである。五、六人はいる。
「親父、ビールだ！」
　子供たちはカウンターに向かって叫ぶと、空いているテーブルに座り、がやがやと騒がしく話を始めた。
　シルビオが紅玉をつついた。
「おい、こっちじゃ、あんなガキも酒を飲んでいいのか？」
　そういうシルビオたちも、未成年ではある。
「違うわ。あいつら、魍魎よ」
　一也たちは、思わず声をあげそうになった。
「も、魍魎って人の魂を食う、あの魍魎か？」
　シルビオが紅玉に念を押した。
「そうよ。シルビオ、よく知ってるじゃない」
「なんとまあ、あんな子供だったのか」
「カズヤ！　あ、あの！」
　スセリが大きな声を出しそうになって、思わず口に手を当てた。
「なんだよ、スセリ」
　と、一也。
「あ、あの壁ぎわにいる魍魎を見て！」
　一也たちはスセリの言う魍魎を観察した。
「あああ、あいつ！」
　一也は仰天した。
「額に三日月の傷があるわ！」
　と、麗香。
　一也たちは、魍魎に気づかれそうになりサッと視線を外す。
「おい、どうする一也？」
　シルビオが一也にささやいた。
「様子を見よう」
　一也も小声で答える。
「ちょっと、あんたたち」
　紅玉が心配そうに言った。
「なんだか知らないけど、魍魎なんかに関わると、ろくなことないわよ」
　そうこうするうち、その魍魎はビールを飲み終えて店を出て行った。
「紅玉！」
　一也は、紅玉に問う。
「あいつの住みかを知ってるか？」
「し、知らないわよ……」
「じゃあ、追いかけよう！」
　一也は、あわてて立ち上がった。
「待って、お父さんはどうするの？」
　スセリが訊いた。
「また、電話しとけばいいさ！」
「待ちなよ！」
　紅玉が叫んだ。
「いま出て行ったらイザナミに見つかるよ！」
　一也は、紅玉の言葉を聞かず、バーを飛び出していた。スセリと麗香も後に続く。
　シルビオは紅玉に言った。
「紅玉、世話になったな。おまえはイザナミに見つからないとこに逃げろ」
　そう言って、シルビオも一也の後を追った。
「シルビオ！　なにさ、あたしがいなきゃ何にもできやしないよ」
　紅玉もシルビオの後を追う。

　一也たちは、魍魎を尾行していた。人込みの中で尾行するのは大変だが、見つかる可能性も少なかった。
「ちょっと、あんたたち、あの魍魎をどうするつもりなんだい？」
　紅玉が訊いた。
「いやあ、ちょいと、知り合いがな、魍魎と契約しちまったんだよ」
　シルビオが答えた。
「なんだい、よくある話じゃないか」
　紅玉は興味なさそうに言う。
「あいつと契約する方が悪いのさ」
「とにかく話し合ってみよう」
　一也が言った。
「魍魎と話し合い？」
　紅玉は顔をしかめる。
「そんなの、絶対無理だよ」
「そんじゃあ、闘うことになるな」
　シルビオが肩をすくめた。
「ダメダメ、普通の方法じゃ……」
　紅玉は言いかけて言葉を切った。
「ってことは、普通じゃない方法があるわけ？」
　一也が抜け目なく訊く。
「そ、それは……」
　紅玉は黙り込んだ。
「あるんだな？」
　シルビオが訊いた。
　紅玉は顔を外らした。
「おい、紅玉、なんで黙ってんだよ！」
　シルビオは、紅玉を睨んだ。
「そ、そんな目で見ないでよ……」
　紅玉は悲しそうに、シルビオに訴えた。
　シルビオは作戦を変えた。今度は優しい声で紅玉に訊く。
「なあ、教えてくれよ。魍魎を倒す方法があるんだろ？」
「ダメ、言えない……」
　紅玉は、身をこわばらせた。
「なんでだよ？」
　シルビオは、なおも問い詰める。
「だって、ルール違反だもん！」
　紅玉は、たまらずに言った。
「ルール？」
「そうさ！　みんなで弱点を喋り回ったら、魔物は生きていけないじゃないか！」
　紅玉は真剣な目で訴えた。
「ううむ……」
　シルビオが唸る。
「なるほど、一理あるな」
「そうさ。あたしらだってバカじゃないもん……」
　紅玉は、シルビオの目を見ないようにうつむいた。
　一也たちは、これ以上、紅玉に訊くのは酷だと思った。黄泉の世界には黄泉の世界のルールがあるのだ。
「それなら」
　と、一也は決意した。
「やっぱり話し合おう」
「無理だと思うよ……」
　紅玉はタメ息をついた。

　魍魎は、町から少し離れた所に住んでいた。小さな一軒家に入っていく。
「あたしは、行かない」
　紅玉は、魍魎の家に入るのを拒否した。
「そうか」
　シルビオが言った。
「無理言ってすまなかったな。紅玉」
「ごめんよ、力になれなくて……」
　紅玉は悲しそうに言った。
　一也たちは、大きく深呼吸すると、魍魎の家のドアをノックした。
「開いてるよ。おバカさん」
　中から声がする。
　一也たちは中に入った。魍魎は小さなテーブルの小さな椅子に座っていて、一也たちを抜け目なく値踏みする。
「オレ様になんか用か？　バカ面ども」
　魍魎は、少年の可愛い顔に似つかわしくない言葉遣いで一也たちに言った。
　一也は単刀直入に話すことに決めた。
「節子さんという人を知ってるだろう」
「ああ、知ってるとも」
　少年の顔がいやらしく笑う。
「あの女なら、魂を食う前に、生気を抜いて動けなくしてから、一晩たっぷりと楽しむつもりだぜ」
　スセリと麗香は露骨にいやな顔をした。魍魎という魔物は、顔は可愛い少年だが、心は腐り切っている。
「て、てめえ！」
　シルビオは魍魎につかみかかろうとした。
「待て、シルビオ！」
　一也があわててシルビオを止める。
「まだ、話は終わってない」
「早く話せよ」
　魍魎は一也を睨んだ。
「おめえの脳みそが腐っちまう前にな！」
　一也は怒りを抑えて言った。
「節子さんの魂を食うのをやめてくれ」
「ギャハハハ！　なんだ、おまえ、とっくの昔に、脳みそが腐っちまってるんだな。それとも、もともと空っぽかァ？」
　魍魎は腹を抱えて笑った。
　一也は剣に手をかけた。
「もう一度言う。節子さんの魂を食うのをやめろ！」
「じゃあ、こうしよう」
　魍魎が楽しそうに提案した。
「おまえの後ろにいる女どもを、オレ様にくれたら、考えてやってもいいよ」
「な、なんだと！」
　一也は剣を抜いた。
「もう一度言ってみろ！」
「ゲヘヘヘッ」
　魍魎は下品な笑い声を上げた。
「可愛がってやるぜえ、お嬢ちゃんたち」
「シルビオ、スセリ！　呪文頼む！」
　一也は、たまらず叫んだ。
　魍魎に話し合いなど通じない！　こうなれば実力行使あるのみ！
「待ってましたあ！」
　シルビオが数珠をつかむ。
「ホントに、とんでもない下品な魔物ね！」
　スセリも魔法の杖を、高らかに上げた。
「ゲヘヘヘッ。バカ者どもに、いいことを教えてやろう」
　魍魎はひるむどころか、勝ち誇っていた。
「この家はなァ、呪文封じがしてあるんだよ！」
「呪文封じ！」
　麗香の顔が青ざめた。
「まずいわ、一也！　この家の中では呪文が使えない！」
「ハッタリだ！」
　シルビオが呪文を叫んだ。
「火炎爆裂！」
　しかし、なにも起こらなかった。たしかに、魍魎の家には呪文封じがかかっている。一也たちは、ひるんでしまった。
「待てよ」
　魍魎が一也の顔をしげしげと見る。
「そうか、おまえたちだな、イザナミがさらってきた人間ってのは……　ふ～ん、どうやって逃げてきたかは知らんが、おまえらが黄泉の世界の住人でないなら話は早い」
「どういう意味だ！」
　一也は叫びながら、スセリたちの下がっているよう合図した。
「つまり、おまえらは黄泉の世界の法に関係ねえわけだ。オレ様がおまえらを食らっても誰も文句を言わねえ」
　一也は、さっと剣を構える。
「食えるもんなら食ってみろ。呪文がダメでも、こっちには剣がある！」
「へへへっ、そんなものでオレ様を倒せるものか」
　魍魎はニタニタ笑っている。
　一也は魍魎に切りかかった。
　魍魎は素早く一也の剣をよけた。
「ムダムダ！　そんな動きじゃ、一億四千万年たったって、オレ様に指一本触れられるものか！」
　一也は、続けて切りかかった。魍魎は鼻歌交じりで剣をよける。
「くそーっ！」
　一也の剣は虚しく空を切るばかりだった。
　その時、音もなく一人の男が飛び込んできた。男は目にも止まらぬ早さで剣を振ると、見事に魍魎の首をはね落とした。
　あっけにとられる一也たち。だが、一也は、その男の面影に古い記憶が呼び戻される。
「と、父さん……？」
「一也。ずいぶんとでかくなったじゃないか」
　男はニヤリと笑った。
「父さん！」
　しかし、落ちて転がっている魍魎の首がニヤリと笑った。
　「無駄だっていっただろ」
　魍魎の首が言う。そして、首はふわっと浮かび上がると魍魎の胴体にくっついた。
「一也。今度はおまえがやれ」
　卓也は、目で息子をうながした。
「うん」
　一也は剣を構え、一旦呼吸を整えてから魍魎に切りかかった。
　魍魎がよける。
「一也！　ワルツを踊ってるんじゃないんだぞ！」
　卓也が檄を飛ばす。そうは言っても、魍魎の動きは速い。
「敵との間合いに三歩も四歩も使うやつがあるか！」
　卓也が飛び込んだ。そして、魍魎との間合いを一歩で詰めたかと思うと、その瞬間、魍魎の首は胴体を離れていた。
「おまえの動きは無駄が多すぎる」
　卓也は息子に諭した。
「間合いを詰めて、構えて、切る。これではダメだ。相手の懐に入ったときには、攻撃が終わっていなくてはいけない」
「キーッ！　あまえら、オレ様をバカにしてるだろ！」
　魍魎の首はふたたび胴体に戻っていた。
「もう一度やってみろ、一也」
「うん！」
　一也は剣を構えなおす。
「キーッ、やっぱりオレ様をバカにしてる！」
　魍魎が飛び込んできた。一也はとっさによけると、剣を振り上げながら魍魎との間合いを詰めた。そして切る。剣が魍魎をかすった。
「違う！」
　卓也が叫んだ。
「突くように切れ！」
「は、はい！」
　一也が答える。そして、魍魎の懐に飛び込んだ。
　バシュッ！　魍魎の首が飛んだ。
「できたじゃないか。一也」
「う、うん……」
　一也は、肩で息をしながら魍魎の首を見つめた。
　しかし、魍魎はしぶとい。
「キキキ。そうやって遊んでいるがいいさ。だがな、おまえたち人間はいつか疲れて動けなくなる！」
　一也は剣を構えた。
「待て」
　卓也が息子を制した。
「最後はオレがやろう」
　卓也が剣を構える。すると、剣が光を放ち始めた。
「うううっ」
　とたん、魍魎の顔が恐怖に歪む。
「そ、その剣は……　き、貴様！」
　バシュ！　卓也は躊躇なく魍魎の首をはね飛ばす。
　ゴトン。魍魎の首が落ちた。一瞬の出来事であった。
「父さん、その剣は……」
　一也が、父に声をかけようとしたとき、紅玉が飛び込んできた。
「シルビオ！　これを使って！」
　紅玉はシルビオに木の枝を渡した。
「なんだこりゃ？」
　シルビオは木の枝を見る。それは、柏の枝であった。
「これを魍魎の首に刺すんだよ！」
　紅玉は、だらんと舌を出して転がっている魍魎の首を指さした。
「これがあいつの弱点……　あら？」
「その必要はない。もう、死んでいる」
　卓也が言った。
「あ、あんたは！」
　紅玉は驚いた。
「あんたが卓也かい！」
　卓也は黙ってうなずいた。

　突然の再会であった。
「あの、えっと……」
　一也は父を前にして、なんだか急に言葉を失っていた。
「まあ、いつかこうなる予感はあったがな」
　口火を切ったのは父であった。
「それより、アワ食ったぞ。留守電を聞いて『不吉』に行ってみたら、おまえたちが魍魎を追いかけて出ていったっていうからなァ」
「ご、ごめん、父さん」
　一也は、かろうじてそれだけ言った。
「なァに、結果よければ全てよしだ」
　卓也は優しい目で息子を見つめると、シルビオたちに向き直った。
「シルビオに麗香だね？」
「は、はい」
　シルビオと麗香も緊張した声を出した。子供の頃、一也の家で卓也には何度か会ったことがある。
「みんな本当に大きくなったなあ」
　卓也は懐かしむように言う。
「シルビオは、もうスカートめくりは卒業したかい？」
「い、いつの話だよ、おじさん！」
　シルビオは、あわてて言った。
「今は、パンティ脱がしの方が好きだぜ！」
　パカン！　麗香がシルビオの頭を殴った。
「いってえー！」
　シルビオは、頭を抱えた。
「ちょっと、シルビオの頭、殴んないでよ！」
　紅玉が、シルビオの頭をなでながら文句を言った。
「これ以上、頭悪くなったらどうすんのよ！」
　一也たちは、思わず笑ってしまった。おかげで、場が少し和む。
「父さん、あの、さっきの剣だけど、なんで光ったの？」
　一也はやっと、気になっていた質問をすることができた。
「うむ。その前に、この子を紹介してくれないか、一也？」
　卓也はスセリを見て、息子に訊いた。
「あっ、う、うん」
　一也は、なぜかあわてた。
「えっと、スセリだよ。攻撃魔法の呪文使いなんだ。えっと、スセリとは冒険者学校で出会って、それで……」
　自分でもなにを言いたいのかよくわからない。
「はじめまして。スセリです」
　スセリは一也のそばに寄ると、ぺこりとお辞儀をした。
　卓也はスセリにうなずいた。そして、息子のうろたえぶりから、彼女がが息子にとって特別な友人だと察した。一也もそういう歳なのだ。最後に一也と会ったのはいつだったか。確か、まだ小学校に上がる前のことだ。それが今では、素敵な女の子を連れている。卓也は、どれほどの時間、息子と離れていたかを実感していた。
「さて、剣の話だったね」
　卓也はふっと我に返ったように言った。そして、剣を抜くと一也たちに見せる。
「これは、むかし、イオリイ先生に鍛えてもらった魔物封じの剣だ」
「魔物封じ？　イオリイ先生に？」
　一也たちは一同に声をあげる。
「ああ、使う者の精神力を、魔物封じに変える魔法がかけてある」
「そうか、それで、魍魎を倒せたんだね！」
　紅玉は一人納得した。
「うむ」
　卓也はうなずいた。
「でも、イオリイ先生が剣を鍛えたなんて話、聞いたことがないよ」
　一也が言った。
「だろうな……」
　卓也はうなずいた。
「これは、誰にでも使える物ではないからな。イオリイ先生も話さなかったんだろう」
「へえ」
　一也たちはしげしげと卓也の剣を見つめた。
「イオリイ先生って、いろんな事ができるのねェ」
　と、麗香が感心した。
「ううむ」
　シルビオは唸った。
「やっぱ、百五十年も生きてると、ただ者じゃなかったか」
「はははっ」
　卓也は笑った。
「イオリイ先生の前で、そんなこと言うなよ。意外と歳のこと気にしてるからな」
　一也たちは、うんうんと、うなずいた。
「ところでさァ」
　スセリが紅玉に言った。
「柏の枝はいらなかったね」
「そういやあ、紅玉」
　と、シルビオ。
「なんで、ルールを侵す気になったんだ？」
「だって」
　紅玉はモジモジしながら言った。
「あんたたちのことが心配でさ……」
　一也は、紅玉にほほえんだ。
「ありがとう紅玉。うれしいよ」
「えへへ」
　照れる紅玉。
「まったくだぜ、紅玉には世話になりっぱなしだな」
　と、シルビオ。
「そんな、あたしシルビオの役に立てたらうれしいよ」
　紅玉はポッと頬を染めた。
「そ、そうか……」
　今度はシルビオが照れた。
　一也たちはシルビオの様子を見て、可笑しそうに笑った。
　そんな中、卓也が切り出した。
「ところで、おまえたちを黄泉に連れてきたのはイザナミだね」
「う、うん」
　一也はうなずいた。
「どうやって、イザナミの屋敷から逃げ出したんだい？」
「それは、シルビオと紅玉のおかげなんだ！」
　と、一也。
　卓也は紅玉を見た。
「ふむ。君は、黄泉の世界の魔物だね」
「は、はい」
　紅玉は、ふいに身を硬くした。
「待ってよ、おじさん」
　シルビオが言った。
「紅玉は魔物なんかじゃないよ。魔女なんだ。幻術使いだぜ！」
「いや……」
　卓也は、なにか言いたげに口を開いたが、ふと、紅玉が目に止まる。
　紅玉はじっと身を硬くしてうつむいていた。
「うむ。そうか、そうだな。すまんシルビオ」
　卓也は、なにも言わずシルビオに謝った。
　紅玉はシルビオに悟られないように、体から緊張を解いた。
「それで、どうやって屋敷から出られたんだい？」
　卓也は改めて訊いた。
　一也は説明した。途中、紅玉との出合いはシルビオが説明する。もちろん、紅玉とキスをしたことは割愛した。イザナミの屋敷から逃げ出すところは、ふたたび一也が説明した。
「思ったとおりだな」
　卓也は、一也とシルビオの説明を聞き終えると、満足そうにうなずいた。
「やはり、イザナミの屋敷は迷宮になっていたか」
「イザナミの手下たちは絶対に秘密を漏らさないからね」
　紅玉が言った。
「君はどうだい？」
　卓也は紅玉に訊ねた。
「君の案内があれば、イザナミの屋敷に行くことができる」
　一也たちの視線が紅玉に集中した。
「こ、こうなったら、あたし、なんでもするよ！」
　紅玉は力強く言った。
「ありがたい」
　卓也はうなずいた。
「では、おまえたちの体力が消耗する前に急ぐとしよう」
「うん！」
　一也たちはうなずき合った。
　いよいよ、イザナミと対決である。いやが上にも緊迫感が高まっていく。
　その時、シルビオのお腹の虫がギュルルルと鳴った。体は正直であった。
「い、いやァ、まいったね」
　シルビオはさすがに赤面した。
「なんちゅうか、その、腹が減っては戦はできんってやつだな」
「父さん」
　一也が言った。
「その、まだ疲れてるわけじゃないけど、ボクたちここに来てからなにも食べてないんだ。一刻も早く母さんを助けに行きたいけど、その前に、少しでもなにか食べておいた方がいいと思う」
　一也は自分の考えが正しいと思った。『腹が減っては戦はできない』という言葉は、確かに正しい。食べれるときには、ちゃんと食べておく。なにが起こるか分からない戦場においては、重要な事であった。
「いや、それはダメだ」
　卓也は意外にも息子の意見を退けた。
「おまえの言うことは正しい。だが、今は急がねばならん」
「えっ、う、うん」
　一也は父の反応に、うやむやな返事をした。
　父の言うとおり、急ぐ必要はある。だが、軽い食事を取るぐらいの時間はあると思ったし、なにより仲間たちの体が心配だった
「我慢してくれ。こうなれば、一刻を争うのだ」
　卓也は強い口調で言った。
「分かったよ、父さん」
　一也は答えた。
　父には豊富な経験がある。きっと、自分の考えを否定したのも深い考えあっての事だろう。一也はそう思った。

　７　イザナミの館

　一也たちは、紅玉の案内でふたたびイザナミの屋敷に向かう事となった。今度は、最高レベルの冒険者と言われた卓也が一緒である。なんとも心強い。
「なるほど。こんな迷宮になっていたとはな」
　卓也は唸った。
「これでは、わからないわけだ……」
　迷宮の入り口は、町外れのなんてことはない小道であった。とは言え、卓也は黄泉の世界に来て十二年というもの、この広い世界を探索し続けてきた。当然、この小道も調べている。しかし、以前、卓也が調べたときは、さほど広くない原っぱに出るだけで、この小道に不審な点はなにも発見できなかった。
　迷宮の入り口には、迷妄の呪文がかけられていたのである。迷宮に足を踏み入れた者は入ったとたん、誤 った道をあたかも正しい道と信じ込み、決して真の迷宮にたどり着くことはない。迷妄の呪文は、強力かつ精密であった。いかな、卓也と言えども見破ることができなかったのだ。
　紅玉には、迷妄の呪文にかからない反呪文が、イザナミによってかけられていた。イザナミに囚われ、忠誠を誓わされた魔物には、みな反呪文がかけられている。だからこそ、イザナミの手下たちは迷宮を自由に通ることができるのである。
　今まで、イザナミを裏切り、迷宮の秘密を明かす魔物は誰もいなかった。イザナミの怒りをかい、命を落とすよりも、手下として働き続ける道を選んだのである。ただ一人、紅玉をのぞいては……
　紅玉が厳しい口調で言う。
「屋敷から出るのと違って、入るときは魔物たちに会わないわけにはいかないよ」
　一也たちは〈ゴクリ〉と、つばを飲んだ。
「おまえたち」
　卓也が言った。
「ここからは辛い闘いが始まるだろう。おまえたちは迷宮の外で待っていなさい」
「な、なに言い出すんだよ、父さん！」
　一也は驚きの声をあげた。
「仲間を危険にさらすことになるぞ」
　卓也は息子を見据えた。
「うっ」
　一也は言葉に詰まった。しかし、即座に決意する。
「わかった。スセリたちはここで待っていてくれ。オレは父さんと一緒に行く！」
「い、いやよ！　あたしも行く！」
　スセリが叫んだ。
「ここまで来てなに言ってやがんだ！」
　シルビオも怒鳴った。
「そうよ。あたしがいなかったら、誰が治癒の呪文をかけるのよ」
　麗香も決意を込めて言った。
「みんな……」
　一也は言葉が見つからなかった。
　シルビオが言った。
「おい、一也。二度とそんなこと言うな。オレたちは仲間だぜ！」
「シルビオ、カッコイイ！」
　紅玉がうっとりした瞳で叫んだ。
「ねえ、あたしも仲間だよね！」
「おう、もちろんだ。危険が迫ったら必ず助けてやる！」
「うん！　あたしがんばるよ！」
　紅玉は瞳を輝かせた。
「よおーし！」
　一也は胸に熱いものを感じていた。
「絶対、イザナミを倒して、母さんを助け出すぞ！」
「おお！」
　一也たちは、決意を新たに叫んだ。
　卓也は、息子たちの様子に黙ってうなずいていた。
　迷宮に入る前に、麗香が全員に防御の呪文をかけた。
「これで、二、三時間は大丈夫だと思うわ」
　呪文をかけ終わって麗香が言った。
「防御をかけてもらうのは久しぶりだな」
　卓也が感想をもらした。
「そうか、母さんは治癒魔法の呪文使いだったね」
　一也がぽつりとつぶやいた。
「ああ。母さんはとても強い呪文使いだよ」
　卓也はそう言って息子の肩をポンと叩いた。
「もっとも、おまえの仲間もいい線いってるぞ」
「おじさん、ありがとう」
　麗香は、うれしそうにほほえんだ。
「うむ」
　卓也は麗香にうなずくと言った。
「さあ、準備ができたら行くとするか」
　一也たちは、慎重にイザナミの迷宮に入っていった。
　イザナミの屋敷に続く迷路は巧妙に作られている。紅玉は魔物と会わずにすむように、懸命に道を探りながら一也たちを案内した。
「ストップ！」
　紅玉が急に緊張した声を出した。
「どうした、紅玉」
　シルビオが訊く。
「しっ！」
　紅玉は指を口に当てた。
「魔物の気配がするわ」
　すると、ズズズッと、なにかを引きずるような音が聞こえてきた。
「どうしよう、隠れるとこないよ！」
　紅玉はあたりを見渡してうろたえた。
「落ち着け」
　卓也は剣に手をかける。
　ズズズッと、音は近づいてくる。一也たちもそれぞれ攻撃の態勢をとった。
　ついに、音の主が姿を現した。それは、九つの頭を持った巨大な蛇の魔物であった。
「ヒュドラーよ！」
　紅玉が叫ぶ。
　一也は剣を抜いた。
「シルビオ、スセリ！　呪文頼む！」
「待て！」
　卓也が一也たちを制した。
「ええっ！」
　一也たちは驚いて卓也を見る。
　卓也は剣を抜こうともせず、じっとヒュドラーと対峙していた。ヒュドラーも闘う素振りを見せない。すると、ヒュドラーは、なにも見なかったというように、一也たちの前から消えていった。
「な、なんで、襲ってこなかったんだろう」
　一也が拍子抜けたように言った。
「ヒュドラーから、闘気を微塵も感じなかった。生気さえ感じられなかった」
　卓也が言う。
「どういうこと？」
　一也たちの視線が卓也に集中した。
「ヒュドラーから生気が感じられなかったのは、イザナミに支配されているからだろう。自由を奪われた者は、みなああなるものだ」
「そうか……　あたし、ヒュドラーの気持ちがわかる気がする」
　紅玉がうなずいた。
「それに、魔物にも理性がある」
　卓也は続けた。
「全てが魍魎と同じような魔物と思ってはいけない。いや、魔物という呼び名こそ、人間の傲りかもしれん」
　一也たちは黙って卓也の言葉を聞いていた。エルフやケンタウロスなどに囲まれて育っていても、人間とあまりに姿の違うモンスターは、つい敵と思ってしまう。
「すぐに闘いを始めてしまうのは、人間の、特に冒険者の悪いところだ。おまえたちも、無益な闘いをしてはならないぞ」
　卓也は厳しい口調で言った。
「は、はい！」
　一也たちは答えた。
　卓也はうなずいた。
「さあ、先を急ぐとしよう」

　ついに、イザナミの屋敷にたどり着いた。暗い空をバックにそびえ立つ屋敷は、侵入者を拒むように重々しい雰囲気を漂わせている。
「行くぞ」
　卓也が言った。
　一也たちは黙ってうなずく。
　意外にも扉が簡単に開いた。一也たちは、油断なく屋敷の中に入った。
　すると、三人の女が待ちかまえていた。猫姫である。
「あんたたち、よくもだましてくれたね！」
　ヘスが怒鳴る。
「いいじゃねえか、うまいもん食ったんだろ！」
　シルビオが応じた。
「くーっ、言わせておけば！」
　猫姫たちの毛が逆立つ。
「おいで、ケルベロス！」
　猫姫たちの背後から、三つの犬の頭を持ち、龍の頭の尻尾、背中にはあらゆる種類の蛇が生えている、巨大な魔物が姿を現した。
「ケ、ケルベロス！」
　紅玉の顔が青ざめた。
「あ、あいつには理性なんかないよ！」
「やっておしまい！」
　ヘスが叫んだ。
　ケルベロスは、いきなり三つの頭から火を吹いた。一也たちがよける。
「一也！」
　卓也が叫んだ。
「おまえはやつの尻尾を狙え！」
「はい！」
　二人の剣士は、ケルベロスの正面と背後に別れ、剣を構えた。シルビオとスセリは呪文を唱えるタイミングを待った。
　卓也が飛びかかる。ケルベロスの鋭い牙が卓也の剣をはじいた。さすがにケルベロス級の魔物になると、一撃で仕留めるわけにはいかない。
　一也は一也で尻尾の龍と苦戦していた。頭と同様、尻尾も炎を吐く。一也はなかなか飛び込むチャンスを作れなかった。
「キャーッ！」
　突然、スセリの悲鳴が屋敷に響いた。
　猫姫たちが三人掛かりで、スセリを囚えようとしている！
「しまった！」
　一也は叫んだ。ケルベロスに気を取られすぎた！
「いや、離してよ！」
　スセリが叫んだ。
「ええい、素直に捕まんな！」
　猫姫たちはスセリを押さえつけた。
「今度、失敗したら、あたいたちの命が危ないんだよ！」
「い、痛い！」
　スセリは腕を背中に回されて苦痛の声を出す。
「スセリー！」
　一也はスセリを助けに走った。しかし、ケルベロスの尻尾が、行く手をふさいだ。一也はケルベロスの攻撃から身を守るのが精いっぱいだった。
　卓也も、スセリを助ける余裕がなかった。シルビオもケルベロスの背中の蛇たちに呪文をかけて、紅玉と麗香と自分の身を守ることしかできなかった。
「いやー！」
　スセリが叫ぶ。
「うるさいね！」
　猫姫はスセリのみづおちを殴った
「うっ……」
　スセリはそのまま気を失った。
「ス、スセリー！」
　一也の叫びが虚しく響く。
「一也！　今はケルベロスを倒すことに集中しろ！」
　卓也が叫んだ。
「で、でも！　スセリが！」
「必ず助けるチャンスがある！」
「ううっ」
　一也は剣を握り直す。
「くっそー！」
　一也は狂ったようにケルベロスに向かって行った。

　気がつくと、スセリは広い部屋にいた。やわらかいソファーに寝かされている。
「気がついた？」
　ふいに声をかけられて、スセリはソファーから飛び起きた。
「どうか、心配なさらないで」
　優しそうな目をした女性が、かたわらに立っていた。
「理由は知りませんが、あなたもイザナミに囚われたのでしょう？」
　スセリは、ハッとした。
〈もしかして、この女性は……〉
「ごめんなさい、挨拶が遅れましたね」
　スセリの心を察したか、その女性は身を正した。
「私は沢渡智子といいます」
　スセリの憶測が確信に変わった。
「カ、カズヤのお母さんですね！」
「あら、息子をご存じなの？」
　智子は、少し驚いたように訊いた。
「ああ、やっぱり！」
　スセリは声をあげた。
「あなたは、どなたなのかしら？」
　智子がすまなそうに言う。
「私、事情が飲み込めなくて」
「あっ、すいません！」
　スセリは、急に緊張した。なぜか、一也の父に会ったときより緊張している。
「あ、あたし、カズヤの……」
　スセリは、一瞬間を置いた。
「その、友だちです」
「一也のお友だち？」
　智子は困惑した。智子の知る一也は、小学校にも行っていない男の子である。目の前にいる女の子は、高校生としか思えない。その女の子が友だちとは……　智子は、自分がイザナミの屋敷に幽閉されていたため、時間の感覚がかなり麻痺してることを知った。
　スセリは、智子が困惑している様子を見てとると、一気に説明した。
「あたし、あたしたち、イザナミに囚われたんです。あの、あたしたちって言うのは、カズヤとシルビオとレイカの四人で、いったん、イザナミから逃げて、カズヤのお父さんに会って、それで、その……」
「待って」
　智子は、スセリの説明を遮った。
「どうやら、私はずいぶんと長い間、ここに幽閉されているようね」
「はい。そうだと思います」
　スセリは答えた。
「では、もう一度、今度はゆっくりと説明してもらえるかしら？」
　智子は、スセリにほほえんだ。
「まずは、あなたのお名前から」
　スセリは、最初から説明した。冒険者学校で一也と出会ったこと。イオリイ先生の追試で熱海に来たこと。仲間たちと土蜘蛛を倒したこと。そして、一也が牛鬼と戦ったこと。スセリは、一也の活躍を話すとき、自然と言葉に力が入っていた。
　智子は、途中なんども、驚きの声をあげながらスセリの説明に聞き入った。そして、一也たちがイザナミに捕まってからのことをすべて聞き終えると、深いタメ息をついた。
「そう、一也がここに来ているのね」
　智子は、まだ見ぬ息子に思いを馳せた。いったい、どんな青年になっていることだろう……
　智子は、ふとスセリを見つめた。
「スセリさん。もし、間違っていたらごめんなさい。あなたは、一也のガールフレンドかしら？」
「えっ！」
　スセリは、突然の質問に驚いた。たしかに、自分は一也のガールフレンドだと思う。一也は、好きと言ってくれたし、自分も思いを打ち明けた……　
　スセリはおずおずと答えた。
「はい。あの、そうだと思います」
「まあ、やっぱり！」
　智子の表情が明るくなった。
「あなたの話を聞いていて、そうじゃないかと思ったの。うれしいわァ。スセリさんみたいに可愛い子が、一也の恋人で！」
　スセリはポッと顔が赤くなった。それにしても、一也のお母さんは、ずいぶんイメージと違うと思った。スセリは、もっと厳しい女性を想像していたのだ。実際は、こんなフワフワとした、綿菓子みたいな女性だったとは思いもよらなかった。
「私ね、あなたみたいな、娘が欲しかったのよ！」
　智子は、うれしそうにスセリの手をとった。
「ねえ、スセリさん。これからは私のこと、お義母さんと呼んでちょうだい」
「ええっ！」
　スセリは、いよいよ驚いてしまった。話の展開が早いというのか、強引と言うか、とにかく、一也のお母さんを、お義母と呼ぶということは、つまり……
　スセリはハッと、あることに気がついた。これはもしかしたら、強力な味方を作ったことになるのではないか？
「はい、お義母さま！」
　スセリは計らずとも答えていた。
「うふふ。約束よ。スセリさん」
　智子はほほえんだ。
「お話は、お済みかしら？」
　突然、冷たい声が部屋に響いた。イザナミである。それは、幻像ではなかった。
「いつ現れるかと、待っていたところですよ」
　智子がイザナミに向き直った。
「では、無駄話はやめて、単刀直入に言おう」
　イザナミの顔には、心なしか焦りの表情があった。
「おまえたちに、仲間を説得する機会を与える」
「説得？」
　智子の表情は厳しくなっていた。
「卓也は、なにがあっても正しいことをやり遂げる男です。息子もそうだと、信じています」
　智子は、スセリを見た。今の息子についてはスセリの方が、ずっと詳しい。
「はい。カズヤだってそうです！」
　スセリは、イザナミではなく智子に答えた。
「では、おまえたちの利用価値はすでにない」
　イザナミは、忌々しそうに言った。
「わたくしは、今すぐにでも、おまえたちの命を奪うことができる！」
　智子は、ピシャリと言った。
「そうすれば、卓也があなたを退治するのに、よりよい状況になるでしょうね。それが、最良の選択であれば、私は躊躇なくその道を選びます」
「むう」
　イザナミは智子の迫力に、言葉を失った。
　スセリは驚いていた。ついさっきまで、綿菓子のような女性だと思っていたのに、今はイザナミ相手に一歩も引かない。それどころか、人質にとられている身で精神的に優位にすら立っている。本当はとても強い女性なのだ。スセリは思った。自分が彼女の歳になったら、こんなにも強くなれるのだろうか、と。
　智子はスセリの手をとった。
「イザナミ、この子は帰してあげてちょうだい」
「えっ！　そんな、あたしも残ります！」
　スセリが驚きながら言う。
「ダメよ、スセリさん」
　智子は、やわらかい口調でスセリを制した。
　智子は、ふたたびイザナミに向き直った。
「あなたは、こんな子供まで利用するの？　それとも、ひとかけらのプライドさえないのかしら？」
　イザナミの美しい顔が引きつった。
「ふん、わたくしを挑発しようとしても無駄だ！」
「そのようね」
　智子は、なおも続けた。
「自尊心のない人に、なにを言っても無駄でしょう。私の夫を傷つけるのと同じくらいに……」
「いいだろう！」
　イザナミは、カッとなった。
「その言葉、覚えておくがいい！　必ずや後悔させてやる！」

　ケルベロスが息絶えて横たわっていた。一也たちは、やっとのことでケルベロスを倒したのだ。
「意外と、てこずったな」
　卓也は、剣についた血を拭いながら言った。
　一也は肩で息をしていた。想像以上にケルベロスとの戦いは激しかったのだ。
「大丈夫か、一也」
　卓也は、一也に声をかける。
「へ、平気だよ」
　一也は、必死に呼吸を整えた。
「そ、それより、早くスセリを助けなきゃ！」
「イザナミはこの奥にいるはずだよ！」
　紅玉が廊下の奥を指さした。
　一也は、はやる気持ちをなんとか押さえつけると、紅玉の指し示す道を進んだ。スセリのことが心配でならない。
　屋敷の奥に入ると、中央に大きなドアがあった。
「ここだよ！」
　紅玉は言った。
「ここにイザナミはいるはずだよ！」
　一也は、一も二もなくドアを開けた。そこは、大広間であった。
　中央にイザナミが立っていた。イザナミの左右には、スセリと智子が一人ずつ、クリスタルの牢屋に囚われている。
「ついに、ここまで来たか」
　と、イザナミ。
「スセリー！」
　一也が飛び出そうとした。
「落ち着け！」
　卓也は息子の腕をつかんだ。
「一也、あせりは禁物だ！」
　父の厳しい口調に、一也は踏みとどまる。
「もう、諦めたらどうだ、イザナミ」
　卓也は一歩前に踏み出した。
「笑止！」
　イザナミは表情を崩さなかった。
「今なら間に合うぞ。智子たちを返せばおまえの命は取らない」
「わたくしは命など惜しくはない」
　イザナミの声はゾッとするほど冷たい。
「今ここで、人質を殺し、おまえたちと闘っても良いのです」
「まったく、愚かな選択だ」
　卓也は厳しい表情で応じた。
　イザナミは卓也に答えず、一也に向き直った。
「一也。わたくしはおまえを過小評価していたようです。今は荒削りでも、経験を積めば父のような勇者になるでしょう」
「な、なにが言いたい！」
　一也が怒鳴った。
「父の代わりに、おまえがわたくしの仕事を手伝いなさい」
「な、なんだって！」
　一也はイザナミの言葉に驚いた。
「そうすれば、おまえの母も恋人も助けましょう」
「なっ！」
　一也は言葉を失った。
「考えることなどない」
　イザナミは続けた。
「おまえが父の代わりになれば、誰も傷つくことはないのですよ。だが、もしも拒めば、必ず血が流れるでしょう。必ずね」
「うっ」
　一也は心が揺れ動いた。確かに、もしここでイザナミの言うとおりにすれば、誰も傷つかずに済むかもしれない……
　一也は急に、自分の意志に自信が持てなくなっていた。一也は助けを求めて父を見た。しかし、卓也は息子を試すように。なにも言わなかった。
「ダメーッ！」
　叫んだのはスセリだった。
　スセリは、一也の迷いを振り払うように叫び続けた。
「こんなやつの言うことを聞いちゃダメ！　カズヤがイザナミの手下になるぐらいなら、あたし死んだ方がまし！」
「おだまり！」
　イザナミが叫んだ。
「スセリ！」
　一也の心から迷いが消えた。
「むむうっ」
　イザナミは、一也の迷いが消えていくのを感じ取ると、怒りの形相でスセリを睨み付けた。
　とたん、スセリの囚われているクリスタルの牢に電気が走った。
　バリバリバリ！
「キャーァァァァァ！」
　スセリの体が電気を受けて痙攣する。
「ス、スセリー！」
　一也は、飛び出した。
「待て、一也！」
　卓也は、一也を止めたが、間に合わなかった。
　一也はイザナミに突進した。もう、なにも考えられなくなっていた。
　イザナミは、飛び込んでくる一也に手をかざす。イザナミの掌が光った。
「や、やばい！」
　シルビオは、呪文を唱えた。
「火炎爆裂！」
　一也とイザナミは、火炎に包み込まれた。シルビオは自分の火炎に一也も包まれるのを承知していた。しかし、一也には麗香の防御がかかっている。少し火傷をするだろうが、なんとか耐えられるだろう。それよりも、イザナミの動きを止めるのが先決だったのだ。
　シルビオの思わくは当たった。炎に包まれたとき、イザナミは一瞬、一也を見失ったのだ。気がついたときには、懐に飛び込まれる寸前だった。
　イザナミは間一髪、一也の剣をよけた。確かに、イザナミは一也を過小評価していた。黄泉の国へ来てからのわずかな時間にも成長していたのだ。一也は今、持てる力の最後の一滴まで搾り取るように、全神経を剣に集中していた。
　すぐに、卓也も飛び込んできた。イザナミはよけきることができなかった。卓也の剣は瞬時に光を放ち、イザナミの美しい髪を切り裂いた。
「むう！」
　イザナミの顔が怒りに歪んだ。
　次は、一也が飛び込む。卓也と一也は、ステップを踏むように交互に攻撃をしかけた。
　一也が剣を振り下ろしたとき、イザナミはサッと手を振った。
「死ぬがよい！　愚か者！」
　イザナミがそう叫ぶと、なにかが飛んでくる気配がした。
　それは空気の矢だった。透明で目で見ることができない。一也は反射的に剣で空気の矢を払いのけた。
　キーン！　するどい金属音とともに一也の剣が折れる。
「しまった！」
　一也は叫んだ。
「死ね！」
　イザナミは空気の矢を立て続けに放った。
「爆風炸裂！」
　シルビオが呪文を唱えた。イザナミの前に小さな竜巻が起こる。空気の矢が吹き飛んだ。
「火炎爆裂！」
　シルビオは立て続けに呪文を唱えた。今度は得意の火炎呪文。ふたたび、イザナミを炎が包み込んだ。イザナミはシルビオの炎で、態勢を立て直すのが、ほんの一瞬遅れた。
　しかし、卓也にはそれで十分だった。卓也はイザナミの胴に剣を走らせる。
　バシュ！
「ガハッ！」
　イザナミは血を吐いた。血走った目で卓也を睨む。そのとたん、イザナミの腰の辺りがばっくりと割れた……
　イザナミの上半身がずるっと下半身からずれ、ドサッと床に落ちた。次の瞬間、残された下半身もゆっくりとひざをついて倒れた。
「やった！」
　シルビオが叫んだ。
　イザナミの上半身がぴくっと痙攣する。そして、すぐに動かなくなった。
　スセリと智子が捕らわれているクリスタルの牢が音もなく消えていく。それは、イザナミが生き絶えたことを知らせていた。
「スセリ！」
　一也はスセリに駆け寄った。麗香とシルビオもあわててスセリのそばに寄る。イザナミを倒した余韻どころではない。
　一也は、ぐったりと倒れているスセリを抱き起こした。
「カズヤ……」
　スセリは弱々しい声で一也の名を呼んだ。
「麗香！　スセリに回復呪文を！」
　一也は叫んだ。
「ええ！」
　麗香はスセリに手をかざした。
「私も手伝うわ」
　智子が麗香のとなりに座った。
　麗香と智子が回復の呪文を唱えた。二人の掌がかすかに光る。
「万物を司る大いなる意思に我祈り願う。彼の者の傷を癒し賜え」
　スセリの顔に赤みが戻ってきた。
「うん……　カズヤ」
　一也を呼ぶ声もしっかりとしてくる。
　智子と麗香は、スセリに当てていた掌をそっと放す。
「もう、大丈夫よ」
　智子はゆっくりと言った。
「スセリ」
　一也はスセリを抱きしめた。
「よかった……」
「カズヤこそ……」
　スセリは一也の胸の中でささいた。

「万事、めでたしめでたし。ってところだな」
　そう、切り出したのはシルビオだった。
「うん」
　一也はうなずいた。スセリがぴったりと寄り添っている。
　卓也と智子は、温かい眼差しで一也たちを見つめていた。
「母さん、あの……」
　一也は言葉に詰まる。なにを話していいかわからない。
　智子が静かに言った。
「本当に大きくなったわね。一也」
「可愛い恋人もいるしな」
　卓也が妻にウィンクした。
　一也とスセリはパッと体を離した。二人とも顔が赤くなる。
「なんだい」
　シルビオがニヤリと笑った。
「今ごろ照れてら」
　卓也と智子は、にっこりほほえんだ。
「一也……」
　智子は息子を見つめ、手を広げた。
「さあ、私にもあなたを抱かせてちょうだい」
「母さん……」
　一也は、母の腕に身をゆだねた。
「母さん！」
「ああ、一也。本当にあなたなのね」
　智子は、自分よりも大きくなってしまった息子を抱いた。
「まるで、夢を見ているようだわ……」
「母さん……」
　一也は母の腕の中でうつむいた。胸に込み上げてくるものが瞳からこぼれ落ちそうになる。
「ラ、ライアスおじさんも元気だよ。ずっとやってたケンタウルスの研究が、やっと本になるって喜んでて。それに、ジュリアおばさんも、得意のラズベリィーパイを作ると、いつも母さんと一緒に作ってたって……」
　あまりにも沢山のことが頭に浮かんでくる。
「あの、その、みんな母さんたちのことを心配してて……」
　一也は、もう耐えることができなかった。涙が、涙が止まらない。仲間の前では、スセリの前では泣くまいと決めていたのに……
「カズヤ……」
　スセリも泣いた。大粒の涙がポロポロこぼれている。
　いつの間にか、シルビオも麗香も泣いていた。紅玉さえも……
　智子は、息子たちがこれまで体験したであろう冒険に思いを馳せた。彼らは力を合わせてここまで来たのだ。そう思うと、自分も涙が止まらなくなっていた。
　長い時間たって、智子は息子の体を解放した。シルビオたちが周りを囲んでいる。
「みんなありがとう」
　智子は、息子の仲間たち全員に言った。
「本当にあなた方のおかげよ」
「へへへっ。やだなァ、おばさん」
　シルビオが照れ笑いを浮かべた。
「やっぱ、葬式はうちの寺でやってくんなきゃ」
　パカン！　麗香がシルビオの頭を殴った。
「いってえー！」
　シルビオは、頭を抱えた。
「あーっ、また殴ったァ！」
　紅玉が叫んだ。
　一也たちは笑った。
「ううっ……」
　その時。唸るような声がかすかに聞こえた。一也たちは、イザナミの倒れているところに目をやった。
「ううううっ……」
　イザナミの体がうごめいている。
「ま、まさか。仕留めたはずだ」」
　卓也が眉間にしわを寄せた。
「グハッ！　ううっ！」
　イザナミの体が見る見る膨れ上がっていく。
　瞬く間にイザナミは変形していった。
　バキバキバキと、昆虫の足に似た物が何本も生える。美しかった面影はもうない。イザナミは鬼のような形相で、醜く開かれた口から長い舌がべろんと垂れ下がった。
「コロス……　コロス……」
　それは、もうイザナミではなかった。まるで、憎悪が執念によって具現化した肉の塊のように思える。
　卓也が剣を抜いた。
「これがイザナミの正体か。みんな下がれ！」
「と、父さん！　ぼくは……」
　一也は、うろたえた。先ほどの闘いで自分の剣を折ってしまっていたのだ。
「おまえも下がっていろ！」
　卓也が叫ぶ。
「コロス！」
　完全に変体を終えたイザナミが叫び声をあげた。巨大な昆虫のように足が何本も伸び、腕が鞭のごとくビュンと空気を切り裂いた。
　卓也は精神を集中した。剣が光を放ち始める。
　イザナミが卓也に襲いかかった。
「は、速い！」
　卓也は間一髪よけた。
　イザナミは姿形だけでなく、手負いの虎のごとく、その戦闘力が恐ろしいほど強くなっていた。しかも、体が鋼のように硬い。
「コロス、コロス……」
　イザナミは不気味に唸った。もはや理性はない。
　卓也はイザナミの懐に飛び込む。だが、卓也の攻撃は軽くかわされ、逆にイザナミの長く伸びた腕にはじき飛ばされる。卓也は空中でくるっと回転しながら、なんとか体制を崩さずに着地した。
　シルビオが加勢した。数珠を握り締め呪文を唱える。
「火炎爆裂！」
　スセリもシルビオと同時に呪文を唱えた。
「ファイアーアロー！」
　とたん、紅蓮の炎がイザナミを包み込んだ。
「グググッ」
　炎の中でイザナミが唸った。そして、醜い口を一杯に開いたかと思うと、ものすごい勢いで息を吹き出し、炎を飛ばす。
「じゅ、呪文が効かねえ！」
　シルビオが叫んだ。
　イザナミはその声に反応した。シルビオに向き直ったかと思うと、ガサガサガサと数本の足を動かしてものすごい勢いで突進した。
「う、うわーっ！」
　卓也がイザナミを止めようとした。だが、彼の剣は届かない。
「しまった！　間に合わん！」
　その瞬間。
「シルビオー、逃げてー！」
　紅玉がイザナミの前に立ちはだかった。
　グシャ！　鈍い音がした。紅玉の体がイザナミにはじき飛ばされたのだ。
　シルビオの体が、時間が止まったように硬直した。そして、腹の底から湧き出るように叫んだ。
「こ、こうぎょくうううっ！」
　イザナミは容赦なくシルビオに攻撃を加える。
　バシッ！　長い腕がしなり、シルビオの背中を打ちつけた。
「ぐわっ！」
　シルビオの背中から、血が飛び散る。そして、うつぶせに倒れた。
　イザナミが二発目をシルビオに向ける。
　キーン！　卓也の剣が寸でのところでそれを止めた。
「うおーっ！」
　卓也は一気に精神を剣に集中した。剣がひときわ輝きを増す。
　グサッ！　精神に感応した剣の破壊力は凄まじい。イザナミの鋼のような体に剣が刺さった。
　だが、イザナミは少し身をよじると、卓也の剣を自らの手で引き抜き、ほおり投げる。
　剣の力がまるで効いていない！　イザナミもまた、その精神力ではるかに強くなっているのだ。
「な、なんということだ！」
　卓也のこめかみから冷や汗が流れる。初めて恐怖を感じた。その時、卓也に隙ができた。イザナミの腕が卓也に振り下ろされた。
「ぐわっ！」
　イザナミに腕がまともに卓也の胸に入った。
　卓也はそのまま後ろに飛ばされ、後頭部を床に打ちつけて仰向けに倒れた。一瞬の隙を突かれ、まったく防御がとれなかった。
「あなた！」
「父さん！」
　智子と一也が同時に叫ぶ。
　卓也が、ガフッと血を吐く。完全に内臓がやられている。
「に、逃げろ、逃げるんだ……」
　卓也はもがきながら言う。それが限界だった。
「あなた！」
　智子が卓也に駆け寄った。
「く、くそーっ！」
　一也は、とっさに父の剣を拾い上げた。
「麗香！　シルビオと紅玉に治癒の呪文を！」
「わかったわ！」
　麗香が答える。
　一也はイザナミと対峙した。
「こい、イザナミ！　オレが相手だ！」
「あたしも闘う！」
　スセリが一也のとなりに並んだ。
　一也は、一瞬迷った。スセリを危険な目に合わせたくない。だが、なにを言っても、スセリは一歩の後に引かないだろうことも知っている。
「気をつけろよ！」
　一也は言った。
「うん！」
　スセリは魔法の杖をぎゅっと握り締めた。
　イザナミが、一也とスセリに向かってくる。イザナミは腕をビュンと振り上げ、一也に狙いを定めた。
　キィーン！　一也はイザナミの鋼の腕を剣で受け止めた。
「うわっ！」
　あまりの力に一也は後ろに飛ばされた。剣から手を放さないのがやっとだ。
「フリージング・コールド！」
　スセリはとっさに呪文を叫んだ。それは、スセリのレベルで唱えられる最高位の冷却系魔法だった。
　ビューッと白いもやが現れ、イザナミの体を極寒の冷気が覆う。しかし、イザナミの動きが鈍ることはなかった。
「き、効いてない……」
　スセリは肩で息をしていた。高位の呪文は精神力体力ともに激しく消耗する。
「こっちだ、バケモノ！」
　一也が叫ぶ。
「おまえの相手はオレだ！」
　イザナミは素早い動きで一也に向き直ると、振り上げた腕を一也に振り下ろした。
　キィーン！　キィーン！　一也は巧みに剣で受けた。しかし、それもすぐに限界に達した。イザナミの力は抗しがたいほど強い。
　ドカッ！　イザナミの腕が一也の腹に入る。一也は身を硬くして防御した。
「ぐはっ！」
　一也は前かがみになって倒れた。防御してなお、気の遠くなるような傷みが全身に走る。
　スセリはもう一度呪文を唱えた。今度は最高位の電撃系魔法。
「ライトニング・プレッシャー！」
　ピカッと、閃光が走った。そのとたん、イザナミの上に稲妻が落ちる。ものすごい電撃を受けて、イザナミの体が青白く光った。
「グワーッ！」
　イザナミは激しく痙攣した。スセリの電撃がかなり効いている。
「やった！　いいぞ、スセリ！」
　一也は痛みをこらえて叫んだ。
「う、うん」
　スセリは一也に答えた。だが、立て続けに最高位魔法を唱えて、立っているのがやっとだった。
「グググ……」
　イザナミがスセリを睨む。
「グワーッ！」イザナミは狙いをスセリに変えると、容赦なく腕を振り下ろした。
　キィーン！　一也が寸でのところで止めた。イザナミの力は弱くなっている。
「スセリ、いまのうちに逃げろ！」
　一也が叫ぶ。
　しかし、スセリはガクッと膝をついて倒れた。体力精神力ともすでに限界を越えていた。
「しっかりしろ！　スセリ！」
　イザナミの腕が振り下ろされた。キィーン！一也が剣で受け止める。
「くっそー！」
　一也は満身の力でイザナミの腕を振り払うと、スセリを抱きかかえた。
　しかし、イザナミは一也に逃げる余裕を与えなかった。イザナミの腕が一也の背中に直撃する。
　バシッ！　一也の服が裂け、切られた肉から血が飛び散った。
「ぐっ……！」
　一也は耐えた。
「カズヤ、あたしはいいから、逃げて……」
　スセリは力なく一也に言った。
「そんなことできるか！」
　バシッ！　イザナミの腕がふたたび一也の背中を襲う。肉がえぐれる。
「ううっ……」
　一也は奥歯をかみしめて必死に耐えた。
　バシッ！　もう一発。飛び散った一也の血が、スセリの頬に落ちた。
「いや……　カズヤ、死んじゃう……」
　スセリの瞳から、涙が溢れ出てくる。
「逃げて、お願い……　逃げて……」
　一也自身、こうしてスセリを抱いていても、無意味なことはよく分かっている。だが、たとえ死んでも、一人逃げ出すなんて、考えられなかった。
　バシッ！　イザナミはなぶるように一也の背中を打ち続けた。
　背中から血が溢れ出る。一也は少しずつ、意識が薄れていった。
〈もうダメだ……〉
　一也は死を予感した。父でさえ倒せなかったイザナミを自分が倒せるはずがない。実際、シルビオもスセリも動けない今、なす術もない……
「ごめんね、ごめんね……」
　スセリは一也の心がわかったのか、絶望のふちで切ない声を出した。
「あたし、なんの役にも立てなかった……」
　スセリは、一也の胸で声を殺しながら泣いた。
「ス、スセリ……」
　一也は、諦めかけた心にふいに新たな炎が芽生えた。
〈諦めちゃダメだ……　まだ、諦めるわけにはいかない！〉
　バシーッ！　イザナミの腕が一也の背中を打つ。背中の焼けるような痛みが、一也の心の炎を一段とあおる。
〈助けたい！　スセリを助けたい！　スセリの涙は見たくない！〉
　一也の思念を感じたのか、剣がうっすらと輝き始めた。
「け、剣が」
　一也は魅入られたように剣の柄を握った。
　そのとたん。剣が眩いほど輝きを増す。
「グワーッ！」
　イザナミが怯えたように、一歩身を引いた。
　一也はゆっくりと立ち上がった。
　剣の光は、見る見る強くなり、一也の体を包み込んだ。まるで、青白いオーラが炎のように燃えている。
　その時、卓也は、智子の治癒魔法の中にいた。少しずつ回復する意識の中で息子の姿を見ていた。
「一也……　おまえ……」
　卓也は驚いていた。卓也自身、イオリイ先生の鍛えた剣を、あそこまで輝かせたことはない。卓也は息子の動きをじっと見守った。
　一也は、自分の体が、信じられないほど軽く感じた。傷の痛みもない。剣も紙のように軽い。体中から力がみなぎる。今や、剣は完全に一也とシンクロしていた。
　一也はイザナミを見据えると剣を構えた。
「これ以上、おまえの好きにはさせない……」
「グッ、キ、キサマ……」
　イザナミは後ずさりした。
「うおおおーっ！」
　一也はイザナミに飛び込んだ。
「グワーッ！」
　イザナミは狂ったように腕を振り回す。
　キーン！　バシュッ！　一也はイザナミの鋼の腕を切り落とした。イザナミはもう片方の腕を振り下ろす。
　バシュッ！　一也は、イザナミの腕を切ると、そのままジャンプして巨大化しているイザナミの背中に乗る。
「これで最後だーっ！」
　一也はイザナミの首筋に剣を突き刺した。
「ギャーッ！」
「うおおおおーっ！」
　一也は満身の力を込めて、剣を深く押し込む。
　グググ、グサッ！　剣がイザナミの首を貫通した。
「グハッ！」
　イザナミは血を吐いた。
「い、いけーっ！」
　一也は精神力の全てを剣に注ぎ込んだ。
　剣が閃光を放つ！
「グギャアアアーッ！」
　イザナミは、断末魔の悲鳴をあげた。
　傷口に剣のオーラが入り込み、イザナミの体を焼いた。イザナミの体から水分が抜け、ミイラのようにしわくちゃになる。そして、土壁が崩れるように、ボロボロと崩れ始めた。
「ウウウウッ……　キ、キサマ……」
　イザナミは断末魔の中で、とぎれとぎれに言葉を紡いだ。
「ワタクシハ……　シニ……　ウッ！」
　ドサッ！　イザナミの体が完全に土塊に変わり、床に落ちた。
「か、勝った……」
　一也は、イザナミの残骸を見てつぶやいた。
　じんわりと勝利の喜びがこみ上げてくる。しかし、そんな思いはすぐに消し飛んだ。
「スセリ！」
　一也はスセリに駆け寄る。
「カズヤ……　よかった無事で……」
　スセリは横たわりながら大粒の涙を流していた。
「ああ、スセリ！」
　一也はスセリを抱きしめた。
「カズヤ、すごい怪我」
　スセリは一也の背中に気がつく。
「大丈夫だよ、これくらい」
「で、でも……」
「スセリこそ、早く回復をかけてもらわなきゃ」
「大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ……」
　スセリは、一也に心配させまいと健気にほほえんで見せた。
　一也はスセリを抱きかかえて、立ち上がった。
「キャッ」
　スセリが小さく悲鳴をあげる。
　一也は仲間を探した。すると、麗香と智子がぺたんと座り込んで憔悴し切っている。二人とも、相当辛そうだった。治癒呪文に精神力を使い切ったのだ。
「母さん！　麗香！」
　一也は、スセリを抱いたまま、智子たちのところに駆け寄った。
「一也」
　卓也が起き上がった。まだ、体が辛そうだ。
「父さん！　怪我は！」
「ああ、心配ない」
「ダメよ、あなた」
　智子が夫に寄りそった。
「まだ、起き上がらないで」
「シルビオは！」一也はシルビオを見た。
「だ、大丈夫よ」
　麗香が肩で息をしながら言った。
「ただ……」
　シルビオはまだ気を失っていたが、傷はほとんど治っていた。だが、紅玉だけが、息も絶え絶えに苦しそうに横たわっていた。
「ど、どうして紅玉だけ……」
　一也は麗香に訴える。
　麗香は悲しそうに首を横に振った。
「こ、紅玉……」
　シルビオがうわごとを言う。そして、ハッと気がつき、ガバッと起き上がった。
「シ、シルビオ……」
　紅玉が苦しそうにシルビオの名を呼ぶ。
「紅玉！」
　シルビオは、あわてて紅玉を抱き起こした。
「ああ……　シルビオ無事だったのね……」
　紅玉は苦しみながらもほほえんで見せた。
「麗香！　なんで、紅玉だけ治癒をかけてくれないんだ！」
　シルビオが麗香に怒鳴った。
「ごめん、シルビオ」
　麗香はうつむきながら言った。
「あたし、いろいろやってみたんだけど、黄泉の人には呪文が効かないみたいで……」
　智子もすまなそうに首を振った。
「ごめんなさい、シルビオ君……」
「そ、そんなバカな、そんなのってねえよ！」
　シルビオは、泣きそうな顔で紅玉を見つめた。
「そんな顔しないで……　シルビオ……」
　紅玉が弱々しく言った。
「喋るな紅玉！　現世に帰って、イオリイ先生に治してもらおう。イオリイ先生なら、きっと治せる！」
「ダメよ……　回復の呪文は……　あたしに効かない……」
「な、なに言ってんだ！」
「ご、ごめんね。あたし……　人間じゃないんだ……」
　紅玉は、薄れゆく意識の中で告白した。
「か、関係ねえよ、そんなこと！」
　シルビオは叫んだ。それは、心からの叫びだった。
「ありがと、シルビオ。でも、もう間に合わない……」
「そんなことあるか！」
「シルビオ、あんたに会えてよかったよ……」
　紅玉は、弱々しく手を伸ばすと、そっとシルビオの頬に触れた。
「紅玉……」
　シルビオも紅玉の手を握る。
　紅玉の体から白い煙が立ち込め始めた。
「こ、紅玉！」
「さよなら……　シルビオ……」
　紅玉の瞳から、涙がひとすじ流れた。
　ふっと、紅玉の手から力が抜けた。
「バ、バカ野郎！　死ぬなーっ！」
　紅玉の体が小さくなっていく。そして、ついに消えた。あとには、サソリが一匹死んでいた。
「サソリの精だったのね……」
　麗香がつぶやいた。
　もちろん、紅玉が人間であろうとなかろうと、そんなことは関係なかった。
「紅玉……　オレなんかのために……」
　シルビオは声を殺して泣いた。一也たちも、胸の締めつけられる思いに必死になって耐えていた。
　ゴゴゴゴゴ……
　その時、イザナミの屋敷が揺れ始めた。
「い、いかん、主がいなくなって崩れるぞ！」
　卓也が叫んだ。
「みんな、早くここから出るんだ！」
　一也はスセリを抱きかかえた。
「麗香、立てるか？」
　一也が訊く。
「う、うん、平気よ！」
　麗香は、立ち上がった。
「父さん、母さん！」
「うむ、オレたちは大丈夫だ」
　ゴゴゴゴゴ……
　一也たちは、イザナミの屋敷から出ようとした。しかし、シルビオだけがその場を動かなかった。
「早くしろ！　シルビオ！」
　一也が叫ぶ。
　シルビオはじっと、紅玉だったサソリを見つめていた。
「シルビオー！　早く！　時間がない！」
　一也は必死になって叫んでいた。
　シルビオは、サソリを大事そうに懐に入れると、やっと立ち上がった。
「よし、行こう！」
　一也は、シルビオが立つのを見届けると、出口に向かって走った。
　ゴゴゴゴゴ……
　イザナミの屋敷が音を立てて崩れ始めた。屋敷の中は入り組んでいたが、紅玉が最短の道を教えてくれていたので、迷うことはなかった。一也たちは、間一髪、表に出ることができた。
　ゴゴゴゴゴ……
　イザナミの屋敷が崩れていく。イザナミに囚われていた魔物たちが、次々と逃げ去っていく姿が見えた。
　一也たちはボロボロだった。しかし、その姿とは裏腹に、彼らの心は確実に成長していた。魍魎と闘い、イザナミを倒し、そして、紅玉の死……　一也たちは、崩れ落ちる屋敷を見ながら、それぞれの心に今までの冒険を刻み込んでいた。
　イザナミの屋敷は完全に崩れ落ちた。あたりが急に静かになる。
「さあ、終わった終わった。現世に帰ろうぜ！」
　シルビオが無理に明るく言った。
「イザナミ倒したって聞いたら、イオリイ先生腰抜かすぞ！」
「うん。帰ろう」
　一也は、仲間を見渡した。そして、最後に父と母を見る。
「ライアスおじさんも喜ぶよ」
「うむ……」
　卓也はうなずいた。
「ちょっと待って」
　麗香が言う。
「考えてみたら、どうやって帰るの？」
　その時、瓦礫の中からごそごそと猫姫たちが出てきた。
「ひゃあ、ビックリした、突然崩れるんだもの」
「あっ、おまえたち、無事だったのか！」
　一也が叫んだ。
「や、やあ、あんたたち」
　ヘスは、ばつが悪そうに言った。
「すごいねえ、イザナミ様じゃない、イザナミを倒しちまうなんてさァ」
「へえ～、ずいぶんと態度が違うじゃねえか」と、シルビオ。
「いやァ、あたいたちも、イザナミに無理やり働かされてたのさ」
　ヘスは妹たちを見て、
「ねっ、ねっ」
　と、同意を求めた。
「うん。そうなの。恐かったよね、姉さん」
　猫姫たちは、うなずきあった。
「ほお～、そうは見えなかったがなァ」
　シルビオが、うさん臭そうに猫姫たちを睨む。
「ホ、ホントだよ～、信じておくれよ～」
　猫姫たちは懇願した。
「シルビオ、あんまりいじめるなよ」
　一也が言った。
「どっちにしろ、彼女たちはもうオレたちの敵じゃないよ」
　猫姫たちは、うんうんと、うなずいた。
「おまえたち」
　卓也が猫姫たちに切り出した。
「現世への扉の開き方を知っているな」
「もちろんさ！」
　ヘスが自慢げに言う。
「では、扉を開けてくれ」
　卓也は猫姫たちを見据えた。
「あ、ああ、おやすい御用だよ！」
　ヘスは宝生石を出した。
「あっ！」
　猫姫たちが宝生石を見て驚きの声を上げる。
「は、灰色になってる！」
「どういうことだ？」
　卓也が訊いた。
「わかんないよ、宝生石って黒いはずなのに……」
　ヘスがうろたえながら答えた。
「ふむ」
　卓也が腕を組んで、考え込んだ。
「もしかしたら、イザナミが死んでその石の力が弱まっているのかもしれんな」
「ああ、そうか！　そう言えば石の力がどんどん弱くなってる」
　ヘスが同意した。
「あんたたち、現世に帰るなら今のうちだよ」
「やべえな、早いとこ扉を開いてくれよ」
　シルビオが言った。
「ああ、いくよ」
　猫姫たちが宝生石に精神を集中した。
　すると、なにもない空間に黒い穴が現れた。
「さあ、みんな入りなさい」
　卓也が、一也たちをうながす。
　一也たちは、黒い穴に近寄った。
「みんな」
　卓也が、突然言った。
「ここで、お別れだ」
　一也たちは、その声に驚いて振り返った。
「と、父さん、なに言ってるんだよ！」
　一也が父に叫ぶ。
「私たちは、戻れないのだよ」
　卓也は静かに言った。
「なぜ、ど、どうしてさ！」
「聞きなさい、一也」
　卓也は、諭すように言った。
「黄泉の世界の食べ物は、少しずつ体の構造を変えてしまうのだよ。そうなったが最後、黄泉の世界以外で生きていくことはできない」
「そ、そんな！」
　一也は愕然となった。
「元に戻る方法はないんですか！」
　スセリが叫んだ。
「もう、遅いのだよ」
　卓也は首を振った。
「私たちは、ここに留まるより他はない」
「そんな、そんなのってないよ！　やっと会えたのに！」
　一也は父に懇願した。
「一也」
　智子が言った。
「また、いつか必ず会えますよ」
「で、でも……」
　一也はうつむいた。
「カズヤ」
　スセリは、そっと一也の腕を抱いた。
　智子は息子たちを見つめた。
「あなたたちには、生きて沢山のことを学んで欲しいの。そしていつか、その人生が終わったとき。私たちに語って聞かせてね」
「か、母さん……」
　一也は泣きたかった。やっと、やっと会えたのに！
「さあ、早く行きなさい」
　卓也は、妻を引き寄せた。
「扉は長くはもつまい」
　もう、一也にはどうすることもできなかった。悲しいけれど、別れを告げねばならない。
「父さん、これを」
　一也は父の剣を差し出した。
「その剣は、おまえの物だ。持っていきなさい」
　卓也は首を振った。
「で、でも、これは父さんの……」
「おまえに使って欲しいのだ。そして、一日も早く、力をコントロールできるようになれ」
「父さん」
　一也は、複雑な思だった。父の期待に応えられるかわからない。
「大丈夫。おまえならきっとできる」
　卓也は息子の気持ちを察して力強く言った。
　智子もうなずいた。
「分かった。やってみるよ」
　一也は、父と母の期待に応えるように言った。
「早くして！」
　ヘスが叫んだ。
「もう、もたないよ！」
　一也は決意した。別れのときが来たのだ。
「さよなら、母さん、父さん」
　一也は、最後に父と母を見つめた。決して忘れることがないように。
「さようなら」
　スセリも涙を溜めながら別れを告げた。
　智子がスセリに言った。
「スセリさん。一也をお願いね。それと、あの約束もね」
「はい。お義母さん。お元気で……」
　スセリは答えた。
「おじさん、おばさん、さよなら」
　シルビオと麗香も別れの言葉を告げた。
　卓也と智子は、そっと寄り添うと、黙ってうなずいた。
　一也たちは、穴の中に入っていった。

　エピローグ

　イオリイ先生は、滝沢旅館の庭をぼんやりと眺めていた。自分がいながら、一也たちを助けることができなかった。そう思い、心底、落ち込んでいた。自然と、深いタメ息を出る。さっきから、その繰り返しだった。
　旅館の庭に、突然黒い穴が出現した。イオリイ先生は、とっさに身構えた。すると、穴の中から、一也とスセリが並んで出てきた。シルビオも麗香もいる。
「あ、あなたたち！」
　イオリイ先生は叫んだ。
「ただいま。イオリイ先生」
　一也たちは、落ち着いた口調で答えた。
「ぶ、無事だったのね！」
　イオリイ先生は、驚きと喜びの混ざった表情になった。
「あったり前よ」
　と、シルビオ。
「魍魎もイザナミもやっつけてきたぜ！」
「ええっ！」
　イオリイ先生が驚いた。
「う、嘘でしょう、シルビオ君」
「やっぱり、あんたが言っても信用ないわねェ」
　麗香がシルビオに言った。
「チェッ」
　シルビオは、舌打ちをする。
「本当なの？」
　イオリイ先生は一也を見た。
　一也は、力強くうなずいた。そして、父から受け継いだ剣を見せる。
「そ、その剣は……」
　イオリイ先生は、むかし、卓也に与えた剣を見て、一也たちの言葉に偽りがないことを悟った。
　騒ぎを聞きつけて、節子さんと木ノ葉が縁側に出てきた。源三郎じいさんも、バタバタと忙しなく駆けつける。
「おお、お主ら、元気じゃったか！」
　源三郎じいさんが叫ぶ。
「ああ、一也さん、よかった！」
　木ノ葉も喜びの声をあげる。
「みなさん、よくご無事で……」
　節子さんは瞳を潤ませながら言った。
「会長さん節子さん。そして木ノ葉ちゃんも。みんな安心してください」
　一也は、みんなを代表して言った。
「魍魎は退治してきました。もう、大丈夫ですよ」
「そうか、うんうん」
　源三郎じいさんはうなずいた。「わしゃ、必ずやってくれると、信じとったぞ！」
「まったく、調子いいなァ、じいさんは」
　と、シルビオ。
「オレたちは、イヤってほど苦労したんだぜ」
「わっはっはっ！　わしゃ、根が正直なんじゃ」
「ありがとうございます。みなさん」
　節子さんは、一也たちにお辞儀をする。
「まったく、とんでもない生徒だわ、あなたたちは」
　イオリイ先生が言った。瞳が少し潤んでいる。
「あら、そう言えば……」
　麗香がなにかに気づいた。
「どうした、麗香。忘れ物でもしたか？」
　シルビオが訊いた。
「バカ、あんたじゃないわよ！」
　麗香はシルビオを睨んだ。
「じゃ、なんだよ？」
「あのね、魍魎も倒しちゃったし、あの石も力がなくなったみたいだし、どうやって節子さんが黄泉の世界に帰るのかなと思って……」
「そういえば……」
　一也たちは顔を見合わせた。
「そのことなら、心配ないぞい」
　源三郎じいさんが自信ありげに言った。
「ど、どうするんですか、会長さん！」
　一也が訊く。源三郎じいさんは黄泉の世界に行く方法を知っているのかもしれない。もしそうなら、また父と母に会えるかも！
「なあに、簡単じゃ」
　源三郎じいさんは胸を張った。
「わしが死ぬとき、一緒に帰ればいいんじゃよ！」
　ガクッ。一也はズッコケた。
「おじいちゃん！」
　木ノ葉が叫んだ。
「やだよ、死んじゃ！」
「これこれ、木ノ葉。無理を言うんじゃない」
　と、源三郎じいさん。
「わしだって、あと五十年もすれば死ぬわい」
「五十年！」
　シルビオが叫んだ。
「じいさん、そりゃ、欲張りってもんだぜ！」
「わっはっはっ、わしゃ、ひひ孫の顔を見るまで、がんばるぞい！」
　節子さんはクスッと笑った。
「がんばりましょうね、あなた」
「おじいちゃん、おばあちゃん……」
　木ノ葉が潤んだ瞳で祖父たちを見つめた。
「木ノ葉」
　節子さんは木ノ葉にほほえんだ。
「そう言うわけだから、これからもよろしくね」
「おばあちゃん！」
　木ノ葉は節子さんの胸に飛び込んだ。
「あらあら、この子ったら……」
　節子さんは木ノ葉を抱いた。
　一也たちは、木ノ葉の様子を見て、自分たちの冒険が無駄ではなかったと知った。自然と胸が熱くなってくる。
「ねえ、カズヤ」
　スセリが一也にささやいた。
「これで、よかったんだよね」
「うん」
　一也はうなずいた。
「いろいろあったけど、よかったんだと思う……」
　一也はシルビオをちらっと見た。シルビオも一也の視線に気づく。
「ああ、よかったんだよ」
　シルビオは言った。
「あとは、紅玉の墓を造ってやるだけだ」
「そうだな」
　一也は静かに言った。
　麗香とスセリも黙ってうなずいた。
　一也たちは、紅玉を思い出して黙り込んだ。しばらくの間、沈黙が流れる。
　イオリイ先生が、彼らの沈黙を破った。
「さあさ、聞かせてちょうだい。あなたたちの冒険を！」

　一也たちは、熱海サンビーチで、夏休みを楽しんでいた。そう、晴れて追試に合格したのである。しかも、源三郎じいさんの好意で、夏休み中、旅館の滞在費及び食事代無料！
　そんなわけで、一也たちは熱海で夏を過ごすことにしたのである。
「ねえ、カズヤ」
　スセリは、浜辺で体を焼いている一也に声をかけた。
「なに、スセリ？」
　一也は、サングラスを外した。水着姿のスセリが目に飛び込んでくる。
「覚えてる？」
「な、なにを？」
「確か、あの辺よねえ、牛鬼と闘ったのは」
　スセリは、海に近い浜辺を指さした。
「うん。そうだったね」
　スセリは、一也のとなりに座った。
「その後のことも覚えてる？」
　スセリは、膝を抱えて一也を見つめた。
　ドキッ！　一也の心臓が高鳴った。
「も、もちろんだよ！」
「じゃあ、猫姫が現れる前のことは？」
　スセリが、イタズラっぽく訊く。
　忘れるわけがない！　あの時、一也はスセリを引き寄せて……
「わ、忘れるわけないよ」
　一也は答えた。この展開は期待できるかもしれない。
「そう。よかった」
　スセリは一也をじらすように視線を外した。
「その……」
　一也は、少しスセリに近寄る。
「あの時はさ、邪魔が入ったけど……」
「あたし、一也のお母さんと約束したんだ」
　スセリが視線を外したまま言った。
「えっ、ああ。そういえば、母さんと別れ際に、約束がどうとかって言ってたね」
「うん」
　スセリはクスッと笑った。
「どんな、約束？」
「うふふ。気になる？」
「そりゃ、気になるよ」
「それはね」
　スセリは、一也の耳に顔を近づけた。
「教えてあ～げない！」
　スセリはそう言って立ち上がると、海岸に駆けて行った。
「あっ、ずるい！」
　一也は、スセリの後を追った。そして、スセリが海に入る前に捕まえた。
「さあ、捕まえたぞ！」
　一也は、スセリを抱き寄せた。スセリは、まったく抵抗しなかった。
　穏やかな波が、一也たちの足に海水を運んでくる。
　一也とスセリの顔が近づいた。
「いつか」
　スセリが言った。
「いつか、本当にあたしを捕まえてくれたら、教えてあげる」
「こっちが捕まってるのかもね」
「バカ」
　一也はスセリを抱く手に、少し力を込めた。スセリもそれに応える。そして二人は、そっと、唇を重ねた。


終わり