1
いつからか、結婚なんてまったくひと事だと思うようになっていた。女優という仕事がそう思わせたのかもしれない。
私が芸能界に入ったのは、もう十六年も前の話。当時、二十歳だった私は、モデルとして男性雑誌のグラビアを飾っていた。そんなモデル生活を送りながら、テレビのバラエティー番組にも何度か出たりしていた。
二十三のとき、ドラマ出演の話が来た。本格的なドラマ出演はそれが初めて。もちろん脇役だけど。
そのドラマは好評だった。その後、私にもドラマ出演の仕事がよく入り、お茶の間に顔が知られるようになった。私は、知らぬ間に、モデルから女優になっていた。
そして、二十六歳のとき、ついに主役。世は、トレンディードラマが流行りだしたころで、私もその波に乗った。ブームはいつしか下火になったけど、幸い、私は女優としての地位を築くことに成功した。
おかげで、三十六歳になったいまも、仕事には困らないでいる。もちろん、仕事はテレビがメインで、吉永小百合さんとか、大女優さんには遠く及ばない。でも、私はいまの仕事に満足している。あんまり、野心がないのよね。
ただ問題は、私生活の方。私はいまだに独身なのだ。仕事が女優だから、周りの人はなにも言わないけれど、世間一般で言うところの行き遅れってやつ。
じつは、行き遅れどころか、彼氏いない歴六年のけっこう寂しい女だったりする。つまり、三十路を過ぎてから、男性とはつき合っていない。いいえ、白状すると、男性経験そのものがほとんどないのだ。
たった二人。
私は変なところで奥手というか、古風というか、芸能人らしく派手に遊ぶことが出来ない性格で、芸能界で出会う男性とは肌が合わない。そんな性格だから、この世界ではなかなか恋人が出来ないわけ。自分でも分かっているんだけど、こればかりは仕方がない。
そうは言っても、やっぱり結婚願望みたいなのはあって、三十前は人並みにあせったりもした。ところが、ある時期を過ぎると、結婚なんて自分には関係のないことだと思うようになった。
別に、男性が苦手だとか、独りの方が気楽だとかって、理由があるわけじゃなく、自分には縁がないんだって漠然と思うようになったのだ。
まあ、無理に結婚にこだわる必要もないってこと。
ところが、そんな自分が百八十度変わってしまう日が訪れたのだ。
それは、ドラマの収録で、ある大学の研究室をロケ地に使わせてもらったときだ。その研究室の助教授が立ち会って下さったのだけど、私は、その助教授を見た瞬間、なんと、胸がときめいてしまった。まるで、女子高生に戻ったみたいに。
助教授の名は、川島宗一郎さんと言った。彼は物理学者で、なんでも量子力学が専門なのだとか。私にはなんのことかサッパリだけど、とにかく頭がいいのは間違いない。容姿もいかにも学者風。
でも、勘違いしないで欲しい。学者風と言ったって、ボサボサ頭でだらしない服装とかじゃない。とってもオシャレなのだ。少し長めの髪と丸いフレームの眼鏡がすごく知的な雰囲気。着ている服も、ブランドでこそないけど、清楚で好感が持てる。なんだか、そこに立っているだけで、気品が漂ってくるような人なのだ。
完全に一目惚れだった。
一目惚れなんて、本当にあるのかと自分でも感心した。自分でもまったく説明できない。まるで、魔法にかかったような気分。
宗一郎さんは(キャーッ、宗一郎さんだって!)、テレビ局のクルーが忙しく動き回っている研究室の隅で、彼らの動きをじっと観察していた。私は、高鳴る胸を押さえながら彼のそばに近寄った。
「あの、先生」
「はい」
宗一郎さんは私の顔を見てにっこりほほえんだ。かっこいい。ああ、気絶しそう。
そんな私を見て不審に思ったのか、宗一郎さんが首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「あっ、いえ!」
私は彼から視線をそらしながら言った。
「あの、申し訳ありません」
「なにがですか?」
「いえ、お仕事場をこんなにしてしまって……」
「とんでもない。場所を提供すると決定したのはうちの大学ですよ。これもぼくの仕事のうちです」
「ご迷惑をおかけしなければいいのですが……」
「テレビ局の方は気を使って下さっていますよ。でも、驚いたな」
「なにがです?」
「だって、浅野さんは主演女優でしょ? そんなことまで気を使われるんですか」
「あ、その……やっぱり気持ちよく仕事をしたいですから」
「そう言っていただけると、場所をご提供したかいがありますよ」
「ありがとうございます」
「いいえ、とんでもない」
「あの、先生……」
「その、先生ってヤツはやめにしませんか」
彼は照れくさそうに言った。
「どうも、先生って呼ばれるのは苦手でして」
ああ、やっぱりこの人は、見栄や権威なんてものとは無縁なんだわ。
「じゃあ、川島さん。でよろしいですか?」
「けっこうです」
私は、思い切って聞いてみた。
「あの、川島さんはおいくつなんですか?」
「三十八ですけど、それがなにか?」
「いえ、あの、すごくお若く見えるから……三十八で助教授というのは普通なんでしょうか?」
「そうですね。少し早い方かな」
「すごいですね」
「いいえ。決して誇れることではありません。研究に没頭した結果ですよ。おかげで家族には辛い思いをさせました」
家族? やだ、独身じゃないの!
「ご結婚なさっていらっしゃるんですか?」
「ええ。娘がいます。妻とは六年前に離婚しました」
「あ……ご、ごめんなさい。あの……」
「お気になさらないで下さい。ぼくの方こそ、変な話をしてしまって申し訳ない」
「とんでもありません」
私は首を振った。
私は、彼についてずいぶんと情報を得た。そうか、娘さんがいるのね。でも、いまは独身なんだ。ふむふむ、いい感じ。
「浅野さんは、ご結婚はまだなんですか?」
「はい!」
あっと、いけない。つい大きな声を……
「え、ええ。まだです。もらってくれる相手がいないんです」
ああ、私ったら、なんてマヌケな答え。
「ハハ、まさか」
彼は、さわやかに笑った。
「浅野さんのように素敵な方なら引く手あまたでしょう」
「そんなことないです!」
あっ、また大きな声を、私ったら。
「いえ、そんなことありません。私は……」
と、そのとき。アシスタントディレクターの佐藤君が私を呼びに来た。
「浅野さん、スタイリストさんが探してましたよ。そろそろ、ロケバスの方でメイクに入っていただけませんか?」
「あっ、はい」
ううう、残念。もっと、宗一郎さんとお話がしたいよ~
2
ぼくが結婚したのは、二十歳のときだ。学生結婚だった。妻は、同じ大学の学生でフランス文学を専攻していた。
この結婚は、完全に失敗だった。ぼくは、理論物理学の研究者で、はっきり言ってお金に縁がない。その上、余りにも若すぎたから経済的に家庭を支えることが出来なかった。
だから、結婚して二年目に娘が生まれても、もっぱら、妻の翻訳業に収入を頼っていた。
ぼくがなんとか収入を得られるようになったのは、結婚六年目のことだ。大学の講師のになれたのだ。残念なことに、そのときはすでに遅かった。妻はとっくの昔にぼくに愛想を尽かし、夫婦の関係は冷却しきっていた。
妻は、仕事で外国に行くことが多くなった。特にフランスだ。いま思えば、仕事だけでなかったのは間違いない。
けっきょく、十年目の結婚記念日を迎えることなく、ぼくらは離婚した。彼女は、フランス人の恋人と再婚し、いまはフランスにいるらしい。
ぼくは、当時、八歳だった娘を引き取り、なんとか一人で育てた。まあ、よい父親ではなかったと思う。なるべく、娘のために時間を割いたつもりだが、学者として脂が乗り始めた時期でもあり、どうしても、娘に寂しい思いをさせることが多かった。
ところが、親がなくとも子は育つというか、ダメな親にはしっかり者の子供が出来るというか、娘はまっすぐないい子に育ってくれた。おかげで、ぼくは娘に頭が上がらないのだが……
娘は家事のすべてを取り仕切っている。炊事も洗濯も娘の仕事だ。なんでも、ぼくが手伝うより、一人でやった方が十倍能率的なんだそうである。ぼくの仕事はせいぜい食器を洗うことだけだ。
それだけじゃない。娘は、とてもオシャレにうるさくて、ぼくがだらしないかっこをするのをすごく嫌う。ぼくの髪型も眼鏡のフレームもみんな娘のコーディネイトだ。もちろん、ぼくの着ている服もそうだ。パンツ一枚に至るまで、娘の趣味。さすが、フランス文学者を母に持つだけのことはある。まあ、高校生になったいまは、娘がわが家のボスと言ってもいい。
そんな娘が、最近、ぼくに再婚を進めるようになった。母親が欲しいのかい? と、聞いてみたが、あたしはパパのことを心配しているのよ。と、切りかえされた。まったく、娘にそんなことを言われるなんて、よっぽどぼくは頼りないんだな。
でも、ぼくには再婚の意志はなかった。結婚に臆病になっていたせいもあるが、いまさら、他人をわが家に迎えてギクシャクするのは嫌だ。だから、ぼくはずっと独身を通すつもりだった。
ところが、そんな自分が百八十度変わってしまう日が訪れた。
その日、ぼくは、大学が研究室をドラマの撮影に貸し出すというので、立ち会いという仕事を仰せつかった。テレビ局の人が、ワークステーションなどの高価な機械を傷つけないように、気を配るわけだ。ようは、ただ見ているだけなのだが。
そこで、浅野祐子という女優に出会った。ぼくは、彼女のドラマを見たことはなかったが、顔だけは知っていた。実物を見るのはもちろん初めてだ。
なんと、胸が高鳴った。たぶん、一目惚れだと思う。まさかこの歳で、と、自分を疑ったが高鳴る胸を抑えることは出来なかった。まるで、魔法にでもかかった気分だ。
ぼくは、研究室の隅で彼女をそっと見ていた。すると、彼女の方からぼくに近寄ってきた。
「あの、先生」
「はい」
ぼくは、彼女を見た。胸の内を悟られないよう注意しながらほほえむ。ところが、彼女は、ぼくの顔を見て驚いたように口を開けた。
「どうかなさいましたか?」
ぼくは、あわてて聞いた。
「あっ、いえ!」
彼女はぼくから視線をそらした。
「あの、申し訳ありません」
「は? なにがですか?」
困った。ぼくは、なにかヘマをしたのだろうか。自慢じゃないが、ぼくは物理の法則なら得意だが、女心はとんと理解できない。
「いえ、お仕事場をこんなにしてしまって……」
彼女はすまなそうに言った。
「とんでもない。場所を提供すると決定したのはうちの大学ですよ。これもぼくの仕事のうちです」
「ご迷惑をおかけしなければいいのですが……」
「テレビ局の方は気を使って下さっていますよ。でも、驚いたな」
そう、ぼくは驚いていた。彼女は女優だ。それが、なんと謙虚なことだろうか。
「なにがです?」
と、彼女。
「だって、浅野さんは主演女優でしょ? そんなことまで気を使われるんですか?」
「あ、その……やっぱり気持ちよく仕事をしたいですから」
「そう言っていただけると、場所をご提供したかいがありますよ」
ああ、この人は、女優である前に、しっかりした大人なのだ。ぼくはなんだかうれしくなった。
「ありがとうございます」
と、彼女。
「いいえ、とんでもない」
「あの、先生……」
「その、先生ってヤツはやめにしませんか」
ぼくは言った。彼女に先生なんて呼ばれたくない。
「どうも、先生って呼ばれるのは苦手でして」
「じゃあ、川島さん。でよろしいですか?」
「けっこうです」
「あの、川島さんはおいくつなんですか?」
「三十八ですけど、それがなにか?」
「いえ、あの、すごくお若く見えるから……三十八で助教授というのは普通なんでしょうか?」
「そうですね。少し早い方かな」
「すごいですね」
「いいえ。決して誇れることではありません。研究に没頭した結果ですよ。おかげで家族には辛い思いをさせました」
ぼくは、正直な気持ちを話した。こんなこと言ったのは彼女が初めてだ。
「ご結婚なさっていらっしゃるんですか?」
「ええ。娘がいます。妻とは六年前に離婚しました」
「あ……ご、ごめんなさい。あの……」
「お気になさらないで下さい。ぼくの方こそ、変な話をしてしまって申し訳ない」
ぼくは、後悔した。これから仕事をする浅野さんに、変な気を使わせてしまった。
「とんでもありません」彼女は首を振った。
ぼくは、話題を変えようと思った。
「浅野さんは、ご結婚はまだなんですか?」
な、なんてこと聞くんだ、ぼくは! ああ、本当にぼくはダメだな。女優さんに質問することじゃないだろ、結婚なんて!
「はい! え、ええ。まだです。もらってくれる相手がいないんです」
彼女は答えた。なんていい人なんだろうか。ぼくのマヌケな質問に答えてくれた。
「ハハ、まさか」
ぼくは、彼女の気分を壊さないように言った。
「浅野さんのように素敵な方なら引く手あまたでしょう」
「そんなことないです!」
彼女が大きな声を出した。どこまでも謙虚だ。
「いえ、そんなことありません。私は……」
と、そのとき。テレビ局の人が彼女を呼びに来た。
「浅野さん、スタイリストさんが探してましたよ。そろそろ、ロケバスの方でメイクに入っていただけませんか?」
「あっ、はい」
彼女は、ぼくに頭を下げるとロケバスに走っていった。ううむ、残念。もっと、浅野さんと話がしたかったな。
3
ドラマの収録は無事終わった。ああ、なんてこと。あれから、宗一郎さんとお話する機会がなかった。いくら、つぎの仕事が控えてたって、挨拶もしないでテレビ局に移動しなくてもいいじゃない! もう、マネージャーも気がきかないったらありゃしない。
はあ……もう、三日も経つのに、こんなことじゃ仕事が手に付かないわ。今日も、NGを十二回も出してしまって、ディレクターに睨まれるし……
もう一度会いたいなァ。なんで電話番号くらい聞いておかなかったんだろう。そうすれば電話して……
ちょっと待って。そうよ、電話番号くらい、すぐ調べられるじゃない。宗一郎さんの大学も分かってるんだから、そんなの簡単! うん。善は急げよ。
待った、待った。電話番号を調べるのはいいとして、電話してどうするの?
『この間はありがとうございました。今度、お茶でもいかが?』
ダメよ。バカだと思われるわ。
『おかげさまでドラマがうまく収録できました。お礼にお食事でも』
なにそれ? 私はテレビ局の人?
『宗一郎さん。あなたを一目見て好きになってしまいました。私を奥さんにして下さい』
ダメーッ! そんなこと言ったら、頭がおかしいと思われるわ!
ああ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。こんなとき、恋愛経験が少ないのが恨めしいわ。ホントに私は女優なのかしら。なんで、こんなに想像力が貧困なんだろう。
そうだわ。想像力が貧困なら、他人に助けてもらいましょう! これから、恋愛小説を片っ端から読んで、いい知恵を拝借する。うん、それいいかも。って、そんなの読んでる時間はないわ。どうしよう……
そうだ! 漫画ならどう? 漫画ならすぐ読めるわ。うん、私って頭いい。よし、買いに行くぞ!
そんなわけで、真夜中のコンビニに来たけど、女の子向けの漫画雑誌ってすごい数があるのね。どれを買ったらいいのか……この、『マーガレット』とか『リボン』とかはダメね。子供向けすぎるわ。『花とゆめ』もパス。やっぱり、レディースコミックかしら。いいや、あるだけ買っていこう。三冊、四冊、五冊……うっ。重い! レジが遠く感じるわ。
コンビニの店員さんが私に気づいたみたい。ここはにっこり笑って、なに食わぬ顔、なに食わぬ顔と。きっと、この店員さん、明日みんなに話すわね。浅野祐子が、夜中にレディースコミックを買いあさりに来たって。ああ、どうか、役作りのためとか、誤解してくれますように。
やっと家に帰り着いた。ああ、重かった。腕がちぎれるかと思ったわ。さあ、読もう。
ええと、ふむふむ。あら、学校の先生が主人公だわ。廊下で生徒とぶつかって、教科書を落とす。う~ん、ありがち。この生徒と恋に落ちるのね。って、言ってるそばから、もうベッドイン? まだ十ページ目よ。こりゃダメだわ。
はい、つぎ。ああ、いきなりダメ。不倫ものじゃあねえ……ダメよ奥さん。旦那様が仕事で忙しいからって、酒屋のご用聞きと……あらら、すごい体位ね。
つぎつぎ。あら、これは、割とまともね。仕事一筋の独身係長と、取引先のキャリアウーマン。うん、これはいいかも。キャーッ、ダメよこんなの! なんで、いきなり縄で縛るのよォ! ロ、ローソクに火なんか点けるんじゃない! まともだと思ったのに!
うわあ、でもすごい。こんなことホントにするの? 熱くないのかしら? やだ、食い込んでる……痛そうだわ。ああ、そうか、痛いからやるのか。変な人たちよね。ううむ。三十六年生きてきて、こればっかりは未知の世界だわ。でも、もしかして、気持ちよかったりして?
もし、もしもよ。宗一郎さんが縛りたいって言い出したらどうしよう。いやだ、私、困るわ~ でも、でも、宗一郎さんになら、なにをされてもいいかも……
わ、わ、わ、私ったら、なんてことを! 宗一郎さんがそんなことするわけないじゃない! レディースコミックなんか読んだのが間違いだった。私ってホントにバカね。そうよ、やっぱり『マーガレット』を買ってくるんだったわ。
4
「どうしたの、パパ?」
「あ?」
「あ? じゃないわよ。最近のパパ、すっごい変よ」
「そ、そうか? そんなことないだろ」
「あるわよ。ドラマの収録があった日からおかしいわ」
「き、き、気のせいだよ」
「うろたえてる。怪しい」
「うっ……」
「だいたい、浅野さんにサインをもらってきてって頼んであったのに、それも忘れちゃうしさ」
「だから、時間がなかったんだよォ」
「でも、話はしたんでしょ、浅野さんと」
「した……」
「そのとき、もらえば良かったのよ」
「でも、収録の前だったし……」
「気の使いすぎよ。娘がファンなんですって言えば、すぐもらえたのに。あたし、マジで楽しみにしてたんだよ」
「ごめん……」
「まあ、いいや。それより、早く食べてよ。食器が片づかないわ」
「ぼくが洗うよ」
「ええ、お願いしたいんですけどね。パパ、この三日で何枚お皿割ったか覚えてる?」
「三枚? いや、四枚かな?」
「六枚よ。コップを二個。ウェッジウッドのカップが一個」
「す、すみません……」
「分かったら、早く食べて。あたし、八時から見たいドラマがあるのよ」
「う、うん」
「浅野さんのドラマだよ。こないだ収録に来たヤツ。今日からなんだ」
「そ、そうなのか?」
「ほら、どうせ、知らないと思ったわ」
ぼくは、あわてて夕飯を腹に詰め込んだ。み、見なければ!
「ど、どうしたの? そこまであわてなくてもいいわよ」
「ぼ、ぼくも見るよ!」
「パパがテレビを? 嘘でしょ?」
「いいや、見るぞ。ぜったい見る!」
「わ、分かったから、ちゃんと噛んで食べなさいよ」
5
来てしまった。宗一郎さんの大学……もう一度、復習よ。ええと、宗一郎さんが出てきたら、『あら、川島さん。この間はどうも』と声を掛ける。宗一郎さんが、『浅野さん。どうしたんですか、こんなところで』と聞く。『いえ、偶然、近くを通ったんですよ』と答える。『そうですか。奇遇ですね』と宗一郎さんが言う。『ホントにそうですね』私はほほえみながら、『あのォ、今日は寒いですね』とさりげなく言う。『ええ、冷えますね』宗一郎さんはコートの襟を立てる。『あら、風邪を引いたら大変。近くでお茶でもして暖まりませんか?』と誘う。
完璧だわ。徹夜でコミックスを八冊も読破した成果ね。さりげなく、宗一郎さんの体を気遣ってるのがミソよ。さあ、宗一郎さん。いつでも出てらして。あたくし、いつでも準備OKですわよ。オホホ。やだ、口調が白鳥麗子になってしまった。
「浅野さん!」
女の子の声。あちゃーっ、関係ない子に見つかってしまった……
「浅野さんですよね?」
「ええ。そうですよ」
私はその女の子ににっこりほほえんだ。高校生ね。なんで、高校生が大学にいるのよ?うう、どうでもいいけど、宗一郎さん、早く出てきて……
「わあ、感激! あたし、浅野さんのファンなんです。昨日のドラマ見ました!」
「どうもありがとう」
「パパも面白いって言ってました」
「うれしいわ。親子で見ていただいたのね」
「はい。あの、サインを頂けませんか?」
「ええ、いいわよ」
「この間、パパにもらってきてって頼んだのに忘れてたんですよ。よかたァ。まさか、ご本人にお会いできるなんて思ってもみなかったです」
「あら……いつのことだったかしら?」
「あっ、ごめんなさい。自己紹介がまだでした。あたし川島可憐っていいます。川島宗一郎の娘です」
「な、な、な、なんですって!」
「あの、どうかなさいました?」
「い、い、いえ。なんでもないわ」
うっそー。この子が宗一郎さんの娘? すいぶん大きいじゃない。
「あなた……ええと、可憐さんでしたっけ?」
「はい」
「可憐さんって、おいくつ?」
「十六です」
「お父さんは、確か三十八よね」
「ええ。パパ、学生結婚だったんです」
「ああ、そうなの。それで」
そうだったのか。また、宗一郎さんのこと詳しくなっちゃった。なんかうれしい。って、ちょっと待って。この子が宗一郎さんの娘ってことは、つまり、無茶苦茶ラッキーってことじゃない?
「あ、あの、可憐さん」
「はい」
「今日は寒いわね」
「そうですか? ポカポカ陽気ですよ」
あれ?
「そ、そうね。で、でも、風邪を引いたら大変よ。近くでお茶でもして暖まらない?」
「あたし、アイスティーがいいな」
うっ……け、計画が……
「と、とにかく! アイスティーでもチョコレートパフェでもなんでもいいから、お茶しましょう! 私、可憐さんとお話ししたいわ!」
「はい、よろこんで」
可憐さんは、アイスティーを飲みながらホットケーキを食べて、そのあとチョコレートパフェを注文した。若いってすごい……
「パパったら、ひどいんですよ」
可憐さんは、パフェを食べながら言った。
「あら、なんで?」
「今日、うちの学校、開校記念日で休みなんです。よし、映画でも見に行くぞ。とか思ったとたん、見計らったように電話してきてお使いを頼むんですよォ」
「お使い?」
「ええ。パパ、今日は学会に行ってるんです。そしたら、他の先生の資料まで持って行っちゃったらしくて、あたし、学会までそれを取りに行って、大学に返しに来たんですよ。ホント、いい迷惑」
「そうだったの」
「そうなんですよォ。ひどいでしょ」
「なんだ、宗一郎さんいなかったのか……」
「え?」
「あ、いえ。川島さんもそんなことがあるのね」
「けっこう、おっちょこちょいですよ。お皿なんかよく割るし」
「ぷっ、ホントに?」
私は、思わず吹き出してしまった。宗一郎さんの意外な一面。なんだが、私と似てるわ。
「そう言えば、なんで浅野さん大学の前にいたんですか?」
「え? ああ、その、近くを通りがかったのよ」
「へえ、そうなんだ。パパのお使いも無駄じゃなかったな。こうして浅野さんと会えたし」
「そうね。あたしも無駄じゃなかったわ」
「なにがですか?」
「だって、宗一郎さんの娘さんと会えたんだもの」
「宗一郎さん?」
「あ……」
しまった! つい、ポロッと……
「パパの名前、知ってたんですか?」
「え、ええ。あの、その、お、お名刺を頂いたから、あの……」
「なんか、声がうわずってますけど」
「き、気のせいよ」
「パパとなにかあったんですか?」
「い、いいえ、なにもないわ」
「ふうん……でも、なんか変なのよね。収録のあった日から、パパもボーッとしてるし。滅多にテレビなんか見ないのに、浅野さんのドラマを食い入るように見てるし」
「それホント!」
「ホントですよ。ねえ、パパになにか言ったんですか?」
「い、言ってないわ。それより、なんであたしのドラマを見てくれているの? ねえ、なんで?」
「知りません。あたしが聞きたいくらいです」
「そ、それなら、お父さんに理由を聞いてもらえないかしら! ね、ね、お願い!」
「いいけど……どうして、そんなに気にするんですか?」
「ど、どうしてって……その、それは、あの……そう! 女優として当然でしょ?」
「まあ……それはそうかもしれないけど」
「ね、だから理由を聞いて欲しいの。それで、もしよければ、私の印象とかも聞いてもらえるとうれしいな」
「浅野さんの印象? どうして、そんなこと聞くの?」
「それは、その、あの、やっぱり、女優としては気になることで……」
「また、声がうわずってますよ」
「うっ……」
「浅野さん、本当に大学の前を通りがかっただけなんですか?」
「ど、どうして?」
「パパに会いに来たとか?」
ひぇ~ もうバレてしまった!
「ま、まさか、図星ですか?」
ああ、ダメだわ。私って嘘がつけないのよね。
「あの……じつは……そうなの」
「う、うっそー! 信じらんない! なんで、なんで? どうして、どうして?」
「か、可憐さん。声が大きい……」
「あっ、ごめんなさい。でも、なんで?」
「だって……会いたかったんだもん」
「だから、なんで?」
ううう。どうしよう……このさい、言っちゃう?
「宗一郎さんが、その……ああ、ダメ! やっぱり言えない!」
「やだあ、そんな風に言われたらもっと聞きたくなる! ねえ、誰にも言わないから教えて下さい。ね、いいでしょ?」
「ホントに、誰にも言わない?」
「うん!」
「ホントにホント?」
「約束します!」
「あの……ひ、一目惚れなのよ。私、宗一郎さんのことが好きになってしまったの」
ああ、言っちゃった。とうとう……やっぱり、可憐さんが絶句してるわ。言うんじゃなかった……
「あ、浅野さん」
「はい……」
「気は確か?」
「うん」
「パパのどこがいいの?」
「だって、かっこいいんだもの」
「ま、まあ、ハンサムの素質はありますけど……パパにその話しました?」
「ううん、してない。まずは、お友達から始めようかな、なんて思ったりして……」
「お、お友達って……いまどき、中学生だってそんなこと言いませんけど」
「そうなの?」
「そうですよ。学校で男の子とキスする子だっていますよ」
「す、進んでるのね……私って、バカかしら?」
「ううん。そんなことありません。とっても可愛いと思います」
「あ、ありがと……」
高校生に、可愛いとか言われてしまった。私って、やっぱりバカなんだわ。
「そうか。浅野さんって、パパの好みかも」
「え!」
「うん、そうよ。それですべて分かったわ」
「な、なにが?」
「パパがボーッとしてた理由。パパも浅野さんのこと好きなんだわ」
「う、うっそー」
宗一郎さんが、私のことを好き? うそうそ、そんなことあるわけないわ。でも、もし、もしもそうなら……ああ、ダメ。そう思っただけで、頭がクラクラしちゃう。
「浅野さん? 大丈夫?」
「へ?」
「なんか、遠くを見てましたよ」
「や、やだわ、私ったら……ね、ねえ、それより、ホントに宗一郎さんが私のことを好きだと思う?」
「たぶん。いいえ、それ以外考えられないわ。浅野さんのドラマを見てたんだってそうですよ」
「ああ、信じられない……」
「それは、あたしのセリフですけど……まあいいや。それで、パパが浅野さんを好きだったらどうします? パパとつき合う?」
「うん! おつき合いしたい!」
私は思わず答えてしまった。とたん、可憐さんの顔が真面目になる。私、なにかまずいこと言ったかしら……
「だったら、一つ約束して下さい」
可憐さんは私を見つめた。
「は、はい」
「浅野さんを信じてないわけじゃないけど、遊びで、パパとつき合ったりしないで欲しいんです」
ああ、そうだ。可憐さんは宗一郎さんの娘なんだ。私ったら、一人で舞い上がっていた。彼女の気持ちも考えず……
「パパって本当に真面目なんです。再婚もしないであたしを一人で育ててくれました。あたし、パパが悲しむ顔は見たくありません」
「可憐さん。私、遊びで男の人とつき合ったことなんてないわ。それに、こんな気持ちになったのは生まれて初めてなの」
「よかった。それを聞いて安心しました。ごめんなさい、生意気なこと言っちゃって」
「ううん。私こそごめんなさい。自分ばかり舞い上がっちゃって」
「あたし、うれしいです。浅野さんみたいな素敵な人がパパを好きになってくれて。パパには幸せになってもらいたいもの」
私は胸が熱くなった。やっぱり、宗一郎さんの娘だわ。ホントにいい子なのね。
「可憐さん」
私は、可憐さんの手を握った。
「私、あなたを失望させることはしないわ。可憐さんとなら、うまくやっていけると思うの」
「はい。あたしもそう思います。あたし、なんでも協力しますよ」
「あ、ありがとう!」
「ねえ、浅野さん。もう一つ、お願いがあるんですけど」
「なあに。なんでも言って」
「フルーツパフェも注文していい?」
6
「ただいま」
ぼくは家に戻った。今日はポカをやってしまった。女性(しかも芸能人)のことで頭がいっぱいだったなんて、誰にも言えないよ。学者失格だな。その前に、父親失格か? そう言えば、可憐の怒りが収まっているといいのだが。お使いを頼んだとき、怒っていたからなァ……
「おかえりなさい」
可憐がわざわざ玄関に出てきた。こんなこと滅多にない。ああ、悪い予感がする。
「パパ、疲れたでしょ。お夕飯できてるよ。それともお風呂が先?」
「え? あの、怒ってない?」
「なにが?」
「いや、昼間、お使いを頼んだときは……」
「ああ、別に怒ってなんかいないわよ」
「それはよかった」
「でも、そう何度もパパのポカにつき合ってはいられませんけどね」
「ごめん。以後、気をつけます」
「なら、よろしい」
可憐はにっこり笑った。よかった。機嫌が直ってる。
ぼくは可憐と一緒に夕食を食べた。可憐は終始にこやかで、どうやら、機嫌が直ったのは、なにか良いことがあったらしかった。なにがあったか分かったのは、食後のお茶を飲んでいるときだった。
「ねえパパ。いいもの見せてあげようか」
そらきた。やっぱりなにかあったんだ。
「うん。見たいね」
「ジャーン! これなんだ?」
可憐は、なにやら判読不能の文字が書かれた色紙を出した。
「なんだいそれ」
「見て分からない?」
「象形文字みたいだな」
「サインよ」
「誰の?」
「浅野祐子」
「ふうん。えっ! な、なんだって!」
「今日ね、大学の前で会ったのよ。ばったり」
「大学って、どこの?」
「やだ、パパの大学に決まってるじゃない」
「な、なんで、そんなところに浅野さんがいるんだ?」
「偶然通りがかったんだって」
「へえ……そ、そりゃ、よかったね。それで念願のサインが手には入ったわけだ」
「うん。しかも、それだけじゃないのよ。一緒に喫茶店に行ったの」
「へえ……そ、そりゃ、すごい。ファン思いの人だね」
「違うのよ。パパの娘だって言ったら連れていってくれたの」
「な、なんで、ぼくの娘だと喫茶店に連れていってくれるんだ? どうして?」
「さあ? とにかく、アイスティーとホットケーキとチョコレートパフェとフルーツパフェをご馳走になったわ」
「そんなに? それでさっき夕飯も食べたの? いや、そうじゃなくて、おまえ、全部おごってもらったのか?」
「うん。でも、浅野さんって変なんだよ」
「どこが?」
「喫茶店でね、パパのことばっかり聞くの。どんな女性が好みなのかとか、いまつき合ってる恋人はいるのかとか」
「へ、へえ……不思議だね」
「ね、変でしょ。しかも、パパの話をしてるとき、瞳が輝いてるんだよ。頬なんかポッとか赤く染めちゃってさ」
「う、嘘だろ。大人をからかってはいけない」
「からかってなんかいないよォ。ホントのことだもん。きっと、浅野さん、パパのこと好きなんだよ。大学の前を通りがかったなんて言うのも、案外、パパに会いたかったからだったりしてね」
「まさか。そんなことあり得ない」
「なんでよ?」
「だって、相手は女優さんだよ。それが、冴えない学者を好きになるわけがない。しかも、一度しか会ったことがないのに」
「じゃあ、仮定の話をしましょう。もしも、浅野さんがパパを好きだとしたらどうする?」
「仮定の話には答えられないよ」
「なによ、仮説を立てるのがパパの仕事じゃない。ねえ、答えて。浅野さんに好かれたらうれしい?」
「そりゃ、悪い気はしないさ」
「浅野さんとつき合う?」
「だ、だから、大人をからかってはいけません」
「ふうん。じゃ、いいこと教えてあげようかと思ったけどやめた」
「な、なに?」
「知りたい?」
「うん。知りたい」
「じつは、今度の日曜日、浅野さんと会う約束したんだ。ぜひ、ぜひ、お父さんもご一緒にって言ってたよ」
「あ、会ってどうするんだ?」
「別に。ただお話しするだけでもいいじゃない。それとも、パパ、日曜日予定ある?」
「ない! なんにもない!」
「じゃ、決まりね」
7
日曜日。今日は、パパにとって、とっても大切な日になりそうな予感がする。いいえ、大切な日にしなきゃいけないのよね。
パパは、相変わらず、浅野さんのことが好きだとは白状しないけど、前の日に床屋さんに行ったし、滅多につけないオーデコロンなんかつけてるし、相当、意識しているのは間違いない。いい傾向ね。
浅野さんは浅野さんでもう大変。日曜日、パパも行くって電話したら、その喜びようったらなかった。あんまり喜ぶから、あたしもうれしくなっちゃった。
そのあと、パパの好みそうな洋服を買いに行くことになって、あたしもお供した。自慢じゃないけど、パパのこと一番知ってるのはあたしだもん。まあ、アドバイス料として、あたしも一着買ってもらったから得したけどね。そうそう、靴とコートも買ってもらっちゃった。浅野さん太っ腹。いえ、ホントに太ってるわけじゃないのよ。
「パパちょっと早すぎるよ。約束の時間まで二十分もあるよ」
「いや、待たせるより、待った方がいい」
「まあね」
嘘ばっかり。ホントはいても立ってもいられなかったくせに。あたしとパパは、待ち合わせの喫茶店に入った。なんと、浅野さんはすでに来ていた。浅野さんもパパと同じ心理状態だったみたいね。二人ともちょっと変。
「わあ、浅野さん。早いですね」
と、あたし。
「え、ええ。おはよう可憐さん」
浅野さんはほほえんだ。うんうん。あたしのアドバイス通り、薄化粧で来たのね。バッチリ、パパの好みだよ。さすが女優。薄化粧でもきれいだわ。でもね浅野さん。緊張してるのが口元で分かるよ。ひきつってるもん。
「パパ、なにしてんの」
あたしはパパをつついた。だって、ボケッと浅野さんに見とれたままなんだもの。
「ど、どうも。おはようございます。浅野さん」
「お、おはようございます。川島さん」
二人は緊張しながら挨拶した。まったく、ウブというか、シャイというか。困った大人たちだこと。
「パパ座りなよ」
「うん」
二人は、じっと黙ったままうつむいていた。しょうがないなあ。そんなに緊張しなくてもいいと思わない? しょうがない。きっかけを作ってあげるか。
「パパ、この間のお礼を言ってよ」
と、あたし。
「あ、ああ、そうだった。ええと、この間は、娘がご馳走になったそうで、申し訳ありません」
「いいえ、とんでもない」
「なんか、いろいろ注文したそうで。いやはや、まったく遠慮がないというか、困った子です」
「そんなことありませんわ。可憐さんとってもいい子ですよ。さすが、川島さんの娘さんですわ」
「いや、お恥ずかしい」
それっきり、また沈黙。二人ともそわそわお茶を飲んでるだけ。ああ、もう! 最近の大人は世話が焼ける。
「ねえ、天気もいいしさ。みんなでどこかに行こうよ。いいでしょ、浅野さん?」
「え、ええ。いいわね」
「パパもいいでしょ?」
「そうだね。でも、どこへ行くんだ可憐?」
「知らないわよ。二人で決めて」
「そう言われても……そうだ。可憐、遊園地にでも行くか?」
ちょ、ちょっと止めてよ、小学生じゃあるまいし……
「わあ、いいですね、遊園地」
浅野さんがうれしそうに言った。
「ねえ、可憐さん。行きましょ」
マジ? 二人とも精神年齢低すぎない?
「う、うん、まあ、いいよ」
あたしはひきつりながら答えた。ま、いっか。今日は二人につき合ってあげよう。
で、遊園地。いやァ、なんだかんだ言って、ウキウキして来るな。考えてみれば、パパと遊園地に来たことなんか数えるぐらいしかないもんね。
「パパ! ジェットコースター乗ろうよ!」
「うん。浅野さんはどうします?」
「浅野さん一緒に乗ろうよ。いいでしょ?」
「ええ。いいわよ」
浅野さんは笑いながら答えた。へえ、こういう顔はやっぱり大人だな。
あたしたちはジェットコースター乗り場に行った。しめしめ。三人掛けだ。
「パパ、真ん中ね」
「か、可憐、おまえ真ん中に座れよ」
「ダメよ。パパが真ん中じゃなきゃ、女の子が二人つかまれないじゃない」
「女の子?」
「あたしと浅野さんだよ。ねえ、浅野さん。パパが真ん中がいいよね」
「え、ええ。可憐さんがそう言うなら……」
あー、もう。いつまでもあたしをだしにしてちゃダメだよ。
ジェットコースターが動き出す。
「キャーッ!」
あたしはわざとパパにつかまった。ほら、浅野さんチャンスよ! パパに思いっきりしがみついて! って、目をつぶってうつむいてるんじゃない! もう!
ううむ。ジェットコースターは失敗だわ。と、なれば、定番のお化け屋敷よね。
「パパ。お化け屋敷入ろうよ」
「うん。浅野さんは……」
「あ、私も入ります」
「当然よ」
と、あたし。
よしよし。ゴンドラに乗るタイプだわ。
「はい。パパ、真ん中ね」
「うん」
ゴンドラが動き出す。
「キャーッ!」
あたしはわざと……わざとじゃない! ホントに恐いよ!
「キャーッ!」
これはあたしの悲鳴じゃないよ。浅野さんの声。おっと! 浅野さん、パパにしがみついてる。いい感じ。パパ、どんな顔してるかな? って、パパの顔なんか見てる場合じゃない! ひーっ、恐いよ! あたしもパパにしがみついた。
「あー、恐かったけど、面白かった」
と、あたし。
「悲鳴が、ステレオで聞こえたぞ」
と、パパ。
「ご、ごめんなさい! 恐くてつい……」
浅野さんがあわてて言った。
「と、とんでもない。浅野さんが謝ることなんかないですよ!」
「そうよ、そうよ。浅野さんって可愛いよね」
「おまえ、なんて失礼なこと言うんだ」
「アハハ、ごめん。でも、そう思わない?」
「いい大人に、可愛いはないだろ」
「そうかなァ。浅野さん可愛いって言われたら嫌ですか?」
「いいえ。そんなことないわ。うれしいわよ」
「ほら。ねえ、パパ。浅野さんって可愛いよね」
「う、うん。可愛い」
パパは顔を真っ赤にしながら言った。浅野さんも頬を染めてる。あたしに言わせれば、二人とも可愛い。なんだか、大正時代の子供みたい。
さて、つぎはなにに乗ろうかな。
「ねえ、可憐さん。観覧車に乗りたくない?」
と、浅野さん。
はいはい。乗りたいのね。
「いいよ。パパ行こう」
あたしたちは観覧車に乗った。
「ワオ! 高い!」
と、あたし。
「可憐さんったら、子供みたいね」
浅野さんはあたしを見て、にっこり笑った。そうかなァ。浅野さんの方が子供っぽいと思うけど。あ、でも、これは使える。
「えへへ」
と、あたし。
「だって、パパと遊園地に来たことなんかほとんどないんだもん」
「そうだね」
パパが申し訳なさそうに言った。
「可憐には寂しい思いをさせてきたかな……」
「ううん、そんなことないよ。でも、やっぱりうれしいな。こうして遊んでると」
「可憐……」
うっ、パパ、ごめんね。別に困らせたいわけじゃないのよ。作戦なの。我慢してね。ほら、浅野さんもパパのこと潤んだ目で見てるよ。
「ねえ、浅野さん」
と、あたし。
「あたしたちって、ホントの親子に見えないかな」
「もちろん見えるわよ。だって本当の親子ですもの」
「違う違う。あたしたち三人だよ。浅野さんがあたしの母親。見えるよ。ね、パパ。見えるよね」
「こ、こら。バカなこと言うもんじゃない」
あー、もう、素直じゃないなあ。もう一押ししてみるか。
「あたしね。ホントは、こうして親子で遊びに行くのが夢だったんだ。パパとママが別れっちゃったのは仕方ないけど。ちょっと寂しかった」
「可憐……ごめんよ」
「ううん。パパのせいじゃないよ。でもさ、またこうして三人で遊びたいよね。あっ、浅野さんは迷惑かな?」
「そんな、とんでもないわ。私もとっとも楽しいわよ」
「じゃあ、また遊んでくれる?」
「もちろんよ。私なんかでよければ、いつでも」
「ダメ。浅野さんがいいの。浅野さんじゃなきゃヤダ」
ひーっ、我ながら臭いセリフ。言ってて恥ずかしいよォ。でも、もう一押しよ!
「あたし……」
あたしは外を見てつぶやいた。
「浅野さんみたいなママが欲しいな」
「可憐。そんなこと言ったら、浅野さんが困るだろ」
「い、いいえ。とんでもない。私、あの……」
パパと浅野さんは見つめ合った。いい感じ。行け行け!
と、思ったとたん。ゴンドラが一周してしまった。係員が無情にもドアを開ける。ああ、いいところだったのにぃ~
ここで、お昼になった。あたしたちはお弁当を買って、芝生の上で食べることにした。パパはレストランに入ろうって言ったけど、あたしが芝生の上で食べたいってせがんだの。だって、ホントにそうしたかったんだもん。ううむ。あたしも幼児化してきたかな?
「なんだか、こういうのも素敵ですね」
浅野さんがお弁当を食べながら言った。
「そうですね」
と、パパ。
あたしは二人を見つめた。ふうん。こうして見るとパパもけっこういい男だな。浅野さんと並んで座っていても、ぜんぜん違和感ないよ。
ふと、気がつくと、周りの人たちがあたしたちをちらちらと見てる。きっと、浅野さんに気がついたのね。でも、浅野祐子に良く似た人だなと思ってるだけかもね。まさか本物の浅野祐子が、芝生の上で親子ごっこしてるとは思えないもんね。
あたしは、大声で叫びたくなった。この人は、正真正銘、浅野祐子さんよ。隣にいるのがあたしのパパ。二人は好き合ってるのよ。どう? うらやましいでしょ! ってね。
「可憐。早く食べないとお弁当が冷えるよ」
と、パパ。
「あっ、うん」
あたしは、あわててお弁当を食べた。
「あら、可憐さん。ごはんがついてるわよ」
「え? どこに?」
浅野さんは答える代わりに、あたしの口元に付いたご飯粒をつまむと、それをペロッと食べた。やだ、なんか、ホントのママみたい……
「どうしたの?」
と、浅野さん。
「う、ううん。なんでもない」
あたしは、なんだか、幸せな気分になってきた。困ったなァ。ん? 別に困ることなんかないか。
「ねえ、浅野さん。あたし思うんだけどさ」
「なに? 可憐さん」
「そう、それ。可憐さんって呼び方。『さん』なんてつけなくてもいいよ。可憐って呼んで欲しいな」
「そうね」
浅野さんはクスッと笑った。
「じゃあ、可憐ちゃんかな。どう?」
「うん、いいよ。あっ、浅野さん、その卵焼き食べないの?」
「ええ、可憐ちゃん食べていいわよ」
「わーい。いただきま~す」
あたしは、浅野さんのお弁当から卵焼きをつまんだ。
「まったく」
パパは笑いながら言った。
「食べることには見境ないな。誰に似たんだか」
浅野さんも笑った。もちろんあたしも。って、あたしバカにされたんじゃないかしら?
それから、あたしは、二人をくっつける努力をやめた。別に諦めた訳じゃないのよ。だって、不自然に振る舞うより、自然がいいよね、やっぱり。
でも、白状すると、遊びの方に夢中になってしまったのがホント。メリーゴーランドに乗って(パパは外で見ていた)。ティーカップにも乗った(これは三人で)。う~ん、今日はいい日だな。
そんなこんなで、夕方になった。あたしたちは、さすがに遊び疲れて、広場のベンチで休むことにした。
夕日がきれい。人もまばらになってきたし、こんな感じなら、恋人と遊園地に来てもけっこういい雰囲気よね。
恋人? いっけない。あたしったら、大事なこと忘れてたわ。
「ねえ、パパ。あたし、ちょっとおみやげを見てくるわ」
「一緒に行こうか」
「ううん。一人で行ってくる。二人は休んでいていいよ」
あたしは、ちらりと浅野さんを見た。
「そうね。しばらく戻ってこないと思うな。三十分ぐらい。じゃあね」
あたしは、二人を残しておみやげ屋に走った。というのは嘘で。じつは、見えないところまで走って、そのあと、そっと二人の後ろに戻ってきたの。だって、気になるじゃない。
「川島さん」
と、浅野さん。
「はい」
「夕日がきれいですね」
「そうですね」
「可憐ちゃんって、本当にいい子ですね」
「ハハ。なんだか、生意気なだけの娘ですけどね」
悪かったわね。生意気で。
「そんなことないですわ。とっても優しい子だと思います」
「ありがとう」
「私、可憐ちゃんがちょっとうらやましいな」
「は? なんでですか?」
「だって、川島さんと……」
「ぼくと?」
おお、いい感じ。浅野さんがんばれ!
「いえ、なんでもないんです」
がっくり。
「浅野さん」
「川島さん」
二人が同時に言った。なんか、定番のボケね
「あ、川島さんからどうぞ」
「いえ、浅野さんからどうぞ」
もう、パパったら。
「川島さんって、モテるんじゃありませんか?」
「そ、そんなことありませんよ! ぼくみたいな子持ちはダメですよ」
「いいえ、そんなことありません。私、ぜんぜん気にしませんわ!」
「え?」
「あっ。いえ」
「あの、浅野さん。ぼくは……」
パパ! がんばって! もう一息よ!
「ぼくは、あ、あなたのことが、あの……いえ、なんでもないんです。すいません」
あああ、じれったい!
「川島さん。お願いです。最後までおっしゃって」
「いや、きっと笑われます」
「笑いません」
「でも、浅野さんは女優さんだし」
「それをおっしゃるなら、川島さんだって博士ですもの。私なんか」
「ぼ、ぼくは、そんな大した男じゃありません」
「私だって、大した女じゃありません」
なに、言ってるんだろ、この人たちは。
「あの、浅野さん」
「祐子と呼んで下さい」
お! いいぞ、浅野さん。これで告白しなきゃ男じゃないわよ、パパ!
「ゆ、祐子さん」
「はい」
「ぼ、ぼくは、あたなのことが好きです!」
や、たったー!
「ああ、うれしい。私も川島さんが好きです!」
「宗一郎と呼んで下さい」
「はい。宗一郎さん」
「祐子さん。こんな子持ちで良かったら、ぼくとつき合っていただけませんか」
「はい! よろこんで!」
二人は、静かになった。ううむ。キスでもしてるな。覗いてみたいよォ~ ああ、でもよかった。長い一日だったなァ。
あたしは、ふたりの後ろから離れた。もう、十分ぐらい時間をつぶしてから二人のところに戻ろう。へへへ、そのとき、どんな顔してるかな。
「どうやら、うまくいったみたいね」
あたしの前に、女の人が現れた。ポワンと。
「あら、モーナ。あんたいたの?」
「観察してたんだよ。どうだい、あたしの力は偉大だろ」
「冗談。あたしがどれだけ苦労したと思ってるのよ。半分は、自分で自分の願いを叶えたようなものよ」
「ハハ! 笑わせる。あたしの力を見くびっちゃいけないよ。あんたがなんにもしなくたって、二人はああなったさ」
「まあ、いいわ。結果的に願いは叶ったんだから」
「ふむ。それにしても、あんた口が悪い割に親想いだね。独身の父親に再婚相手を捜してくれなんてさ」
「誰でもいいってわけじゃないのよ。浅野さんが良かったの。だから、モーナに頼んだんだからね」
「それは、あんたが浅野祐子のファンだからだろ?」
「バカね。ホントにそう思ってたの?」
「違うのかい?」
「あたしの本当の願いは、芸能界にデビューすることよ。母親が女優なら、そんなの簡単じゃない」
「あ、あんた、それが目的で?」
「勘違いしないで。パパに再婚して欲しかったのも事実よ。つまり、二つの願いを同時に叶えたってわけ。願い事は一つしか叶えてくれないんでしょ?」
「まいった。負けたよ、あんたにゃ」
「どういたしまして。これでも学者の娘よ。頭は使わなきゃ」
「まあいいさ。とにかく、あたしの仕事は終わったよ。じゃあね、たぶん二度と会わないね」
「それはどうかしら? まだ、パパと新しいママの願い事が残ってるわ」
「それは、あんたの分じゃないよ。あの二人の分さ」
「パパも新しいママも、あたしのお願いなら聞いてくれると思うな。だから、あたしのかわりに、モーナにお願いしてもらえばいいのよね」
「あきれた。大した子だよ」
「ありがとう。もう、帰っていいよ。また会いましょうね」
「くわばら、くわばら」
モーナは消えた。
終わり。