1
ぼくの両親は事故で死んだ。ぼくは中学生になったばかりだった。そのとき、祖父も祖母も亡くなっていたから、ぼくは東京の親戚に引き取られた。
幸いその親戚は割と裕福な家だったので、ぼくはそれほど肩身の狭い思いをしないですんだ。でもそれは、表面的なことで、ぼくは精神的に孤立していた。
たぶん、おじさんとおばさんにとって、ぼくはいい子だったと思う。ワガママを言ったことはないし、与えられた部屋だっていつもきれいに使っていた。家の手伝いもよくやった。
ぼくがいい子だったのは、ぼくがぼくの分をわきまえていたからだ。だって、しょせん、他人なのだ。本当の子供と同じというわけにはいかない。だから、その家の子供たちがみんな私立の高校に進学しても、ぼくはずっとレベルの低い都立を選んだ。ぼくの方がずっと頭が良かったのにだ。
そんなわけで、ぼくは何事にも控え目な性格になった。よく言えば物静かな子。悪く言えば根暗だ。自分で言うのもなんだけど、根暗の方が当たってると思う。とにかく、誰に対しても自分を主張することはなかった。
クラスでも、同級生たちの注目を集めることは皆無だった。運動神経もゼロに近かったからなおさらだ。いま思えば、イジメの対象にならなかったのが不思議なくらいだ。
そんなぼくが、一度だけ注目される事件が起こった。東大に合格したのだ。ぼくの通っている高校で東大に合格したのはたった一人。ぼくだけだ。しかも、ぼくは塾へなんか通っていなかった。
ぼくはほんの少しだけ自信が持てた。どんなハンサムだろうとスポーツマンだろうと、三流大学しか入れなくて、中小企業に就職するなら給料なんかたかが知れてる。でも、ぼくは東大だ。きっと一流企業に就職できるだろう。なんなら、役人になったっていい。どちらにしてもエリートコースだ。
だから、ぼくは十八年の人生で初めて勇気を出すことにした。同じクラスの葉山絵里に告白するんだ。
そう。ぼくの高校には二人の女神がいる。一人は同級生の葉山絵里。もう一人は一年後輩の小田島真穂。彼女は、有名な二枚目俳優小田島純一の一人娘だ。両親はとうの昔に離婚していて、父親の方に引き取られたらしい。でも、俳優の父親なんて、およそ親としてはいいかげんらしく、ほとんど家に帰っては来ないそうだ。そのせいか、小田島真穂についてもいい噂は聞かない。いろんな男子とつき合ってるとか、派手なかっこで遊び歩いてるとか……まあ、ぼくは小田島真穂に会ったことはないし、女の子の間の勝手な噂だから真相は分からないけど。
会ったこともない女の子はどうでもいい。ぼくが気になるのはただ一人、葉山絵里だけだ。彼女は、けっして頭がいい方ではないけど、すごく美人だ。性格もすごく明るい。もちろん、男子に人気があるのは言うまでもない。
ぼくは、彼女のことをいろいろ知っている。将来女優になりたがっていることも、三ヶ月前にボーイフレンドと別れたのも。
チャンスはいましかないと思った。いま告白しなきゃ、もうじき卒業するぼくらはきっと二度と会うことはないだろう。
ぼくは、彼女に告白した。
結果は、思い出したくないほど悲惨だった。振られたのはもちろんだけど、ぼくが告白したときの彼女の顔は一生忘れられない。けっして長い時間ではなかったけど、彼女の顔はなにか汚いものでも見るように歪んでいた。確かに、ぼくはハンサムじゃない。性格だって暗い。運動もできない。でも、あんな顔はないと思う……ショックだった。男は顔じゃないなんて誰が言った? 男も女もしょせん顔だよ。
たぶん葉山絵里も顔がいいだけで、本当は嫌な女なんだろう。ぼくは女を見る目がなかったのかも知れない。でも、きっと彼女は楽しい人生を送ると思う。もしかしたら、本当に女優になるかも知れない。ただ、美人というだけで。
ぼくは、なにもかもがイヤになった。ぼくの人生も性格もなにもかもすべて。もっと自由になりたい。もっといい男になりたい。もっともっと……
「贅沢な男だね、あんたは。五体満足で生まれただけで、幸せとは思えないのかね」
女が言った。その女は薄い布を体に巻き付けているだけで、宙に浮かんでいた。
「それに、女に振られたぐらいで放心して、その結果がこれかい?」
女は、道路の脇に倒れているぼくの体を指さした。
ぼくは車に引かれたのだ。葉山絵里に振られて、家に帰る途中、ドンと体に受けた衝撃を微かに覚えている。でも、気がついたら、ぼくはボロ雑巾のように倒れていて、そのぼくをぼく自身が上から見おろしていた。
「不男だろうとハンサムだろうと、頭が良かろうと悪かろうと、死んでしまえば同じだよ。たった十八歳のガキになにが分かるっていうんだい」
女は相変わらず、ふわふわと宙に浮かびながら続けた。ブルーの瞳は宝石のように美しく、長い金髪の髪が水草のように漂っている。ミロのビーナスのような美しい容姿と口の悪さがすごくアンバランスだった。
「あなたは誰ですか?」
ぼくは訊いた。不思議な感じだった。声を出したつもりだけど、それは音にならなかった。たぶん、言葉ですらなかったと思う。イメージだけが伝わった感じだ。そういえば、女の言葉も音ではない。ぼくの頭に直接イメージが伝わってくるのだ。
「あたしが誰だって?」
女は苦笑いした。
「訊いても無駄だと思うよ」
「天使?」
「違うよ。あたしはアシュレモーナ」
「アシュ……なんですって?」
「アシュレモーナ。モーナでいいよ」
「もしかして悪魔とか?」
「それも違うね。まあ、なんとでも好きに思えばいいさ。そんなことより時間がない。あたしについておいで」
「どこへ? 天国ですか? あっ、地獄かな……」
「どっちでもないよ。さあ早く」
モーナはぼくの手を引っ張った。そのとたん、映画のシーンが変わるように、辺りの景色が一変した。そこは病室だった。
「ほら、男が寝てるだろ?」
モーナは病室のベットを指さした。そこには、男が酸素マスクを付けられて横たわっていた。
「この男は小田島純一っていうんだ。知ってるだろ?」
「ええ。映画俳優ですよね。小田島真穂の父親だ」
「一週間前、撮影で事故に遭ってこのざまさ。この男とあんたの違いはなんだと思う?」
「彼はハンサム。ぼくは不男」
「バカ。そんなことじゃない」
モーナはぼくを睨んだ。
「あんたみたいなヤツがいるからあたしの仕事が増えるんだよ」
「仕事? モーナの仕事ってなに?」
「簡単には説明できないね。でも、今日は機嫌がいいから簡単に説明してあげよう」
ぼくはモーナがとても機嫌がいいとは思えなかったが、まあ、本人がそういうならそうなんだろう。
「あたしの仕事はね」
モーナが続けた。
「人間の願いを叶えることさ」
「それって、神様の仕事でしょ?」
ぼくは聞き返した。
「違うってば。どうして人間は短絡的な考えしかできないのかね。まあいい。とにかく時間がないんだよ。いいかい、さっきこの男とあんたの違いはなんだって訊いたろ。その答えはこうさ。この男の体は死んでいない。でも、魂はもう消えてるんだよ。あんたは体は死んでるけど、魂は消えていない。分かった?」
「へえ……」
「まったく、魂がないのに体が死なないんだから大したもんだよ」
モーナは感心したように小田島純一を見おろした。
「よっぽど強い願いだったんだねえ」
「え? なんですって?」
「こっちの話だよ。さあ、あんたこの体に入んな」
「えっ?」
「この男の、いや、この体の魂になるんだよ。残りの人生は小田島純一として生きるんだ」
「ぼ、ぼくが?」
「ほかに誰がいる」
「で、でも、そうするとぼくはどうなるの? ぼくはぼくじゃなくなって……」
「ごちゃごちゃ言ってないで早くしなよ。時間がないんだよ。あんたの魂だってこのままじゃすぐ消えちまうんだから」
「でも、あの……」
モーナはぼくの頭をつかむと、強引に小田島純一の体に押しつけた。
「今日は機嫌がいいから、最後に忠告してあげるよ。願いはたった一度しか叶わないからね。新しい人生を楽しむんだよ、いいね」
モーナの声がぼんやりと聞こえた。それきりぼくは意識を失った。
目が覚めた。そこは病室だった。車に引かれたことは覚えている。そして、あの変な夢も。
ぼくは放心したように天井を眺めていた。ドアが開く音がした。そして、足音。ぼくはドアの方向に首を向けた。
看護婦だった。彼女はカルテを挟んだボードを抱えるように持っていた。どうやら、ぼくに気づいていない。いや、正確には、ぼくが寝覚めているのに気づいていない。看護婦はベットの脇にある機械をのぞき込んだ。なにかを確認している様子だ。機械とカルテを交互に見ている。ぼくは、声をかけようと思った。そのとき、看護婦の方が視線を移してくれた。
目があった。とたん、看護婦は、持っていたペンとカルテのボードを落っことしたまま、どこかにすっ飛んでいった。
ぼくは、深呼吸して上半身を起こしてみた。どこか怪我でもしているかと思ったが、そんな形跡はなさそうだ。ふと、看護婦がのぞいていた機械を見ると、モニターに波の模様が流れるように映っている。ご丁寧にピコンピコンとか音まで出てる。ああ、これだ。この胸についてる電極が機械につながってるんだ。それが、唯一治療らしい形跡だった。
それにしても、えらく物々しい感じだと思った。ぼくは医者じゃないからよく分からないけど、こんな機械を繋げる患者なんて、そうとうな重傷なんじゃないか?
「勘違いじゃないだろうね、君」
「いいえ、先生! 確かに小田島さんは意識を回復してました!」
廊下で慌ただしい足音と話し声が聞こえた。さっきの看護婦が医者を連れて戻ってきたらしい。
病室のドアが開いた。
「お、驚いた……」
医者は、ぼくを見て目を丸くしている。だが、すぐに平静を取り戻したらしく、足早にベットに近づいてきた。
「小田島さん。ご気分はいかがですか?」
「ぼくは……」
「よかった。私の声が聞こえるんですね」
と、医者。
「はい」
ぼくは答えた。
「私はあなたの担当医です。いやあ、小田島さんの精神力はすばらしいですね。あなたは医学的に言ってたいへん危険な状態だったのですよ」
「はあ……」
「どこが痛むところはありますか?」
「いいえ」
「頭はどうです? 頭痛はしませんか?」
「いいえ」
「嘔吐は?」
「いいえ」
医者は満足そうにほほ笑むと、看護婦に言った。
「君、娘さんに連絡を取ってくれ。お父さんが意識を取り戻されたとね」
「はい、先生。真穂ちゃん、喜びますね」
看護婦もほほ笑みで答えると、病室を足早に出ていった。
ぼくは、部屋に残っている医者に恐る恐る聞いてみた。
「あの、先生……娘って、小田島純一のですか?」
「は? ええ、そうですが」
「ぼく、小田島純一じゃないんです。違う人間なんですよ」
医者はギョッとして目をむいた。だがそれは、ほんの一瞬のことですぐに冷静さを取り戻す。
「無理もない。おそらく、小田島さんは一時的に記憶を喪失されているんだと思います。なに、心配はありませんよ。すぐに良くなります」
記憶の喪失? ぼくは医者の言葉を頭の中で反復した。と、同時にものすごくあせった。医者は完全に誤解している。いや、小田島純一の記憶をぼくは持っていないから、その意味では記憶喪失に近いけど、でも、ぼくはぼくの記憶を持っている。つまり、違う人間なのだ。
「さあ、少し横になった方がいい」
医者が言った。
「先生、違うんです! ぼくは小田島純一じゃない。ぼくは彼の体に入っただけで、全くの別人なんですよ!」
「小田島さん。どうか落ちついて下さい。興奮なさっては体によくありません」
「先生、お願いですから訊いて下さい!」
「お気持ちは分かります。ですが、どうか不安をお持ちにならないで下さい。こうして意識を回復なさったのですから、手術は成功ですよ。なにも心配なさることはありません」
「だから、そうじゃなくて、モーナにここに連れてこられて、彼の体にぼくの魂を入れられたんです!」
「では、私も説明しましょう。小田島さんは事故に遭われたのです。そのとき、頭を打たれました。うちに運ばれた来たときにはすでに意識はなく、検査の結果、脳に小さな出血を見つけました。脳内出血です。それを手術で取り除いたのです。そのまま一週間、意識不明の重体でした」
「知ってますよ。ぼくだってテレビぐらい見る。だから、ぼくは……」
「とにかく、少し休まれた方がいい。さあ、横になって」
医者が看護婦になにか薬の名前を告げた。素人のぼくにはまったく分からない名前だ。
「先生訊いて下さい。ぼくは……」
医者がぼくの腕に注射をした。たぶん、その薬のせいだと思うが、ぼくは考えること自体がめんどくさくなって、そのまま目を閉じた。
また目が覚めた。
「パパ?」
女の子の声がした。初めて聞く声だ。
「目が覚めた?」
今度は顔も見えた。その子がぼくの顔をのぞき込んだからだ。
ぼくは急に意識がはっきりしてきた。その子の顔を見たとたん、胸が締め付けられるような不思議な感覚が襲ってきたのだ。ぼくはあわてて体を起こす。
「き、君は……あの……誰?」
女の子は、ぼくの言葉に目を丸くして驚いた。
「分からないの?」
「うん」
「あたし真穂よ」
「あっ。君が小田島純一の娘?」
「そうよ。本当に記憶をなくしてしまったのね」
真穂は無表情に言った。なんだか、親を心配しているという感じではない。ぼくはぼくで、彼女の言葉に答えなかった。というか、どう答えたものか分からなかったのだ。真実を告げても彼女が理解してくれるとは思えない。
それに……胸が締め付けられるような感覚がいっこうに収まらないのだ。なんだか、ものすごい悲しい気分って感じもする。
「しばらく、仕事はお休みだね」
真穂がぽつりと言った。
休むもなにも、ぼくに俳優なんてできるわけがない。と、そう心の中で思ったけど、真穂にはなにも答えずにいた。
「パパ。聞いてる?」
真穂は、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「聞いてるよ」
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
真穂は、初めて心配そうな顔を見せた。
「ハハ。いままで死にかけていたんだから、顔色ぐらい悪くて当然さ」
ぼくは軽い口調で答えた。なんだか、彼女を心配させたくないのだ。
「でも、先生を呼んでくるわ。パパの目が覚めたら呼びなさいって言われてたから」
真穂は病室を出ていった。
..2
小田島純一の家は豪邸だった。ベットルームが六つもあるし、リビングもダイニングも品のいい家具が置かれていてオシャレだ。ついでに庭も広い。ガレージには車が三台。フェラーリにベンツにレンジローバー。車雑誌でしか見たことのない高級車ばかりだ。
ぼくは意識を取り戻してから十日間ほど検査を受けて、今日、退院が許された。やっと、病院から解放されたのだ。
正直言って、病院での十日間は忙しかった。検査もそうだが、それ以外の雑事に追われる日々だったのだ。マネージャーやら映画関係者やらがひっきりなしに見舞いに来たり、事故を起こした映画会社との補償問題を話し合ったり。まったく、その対応だけで具合が悪くなりそうだった。
ともかく、ぼくの記憶が戻るまで、俳優の仕事は一時休業と言うことで片が付いた。その辺のことは所属の事務所に任せておけばいい。もっとも、ぼくは俳優なんて仕事やったこともないし、これからやろうとも思わない。俳優、小田島純一は死んだのだ。賭けてもいい。小田島純一の記憶が戻ることは永遠にない。
そんなわけで、退院の日を迎えたのである。ぼくは、夕方になって、真穂の学校が終わってから彼女と一緒に家に戻った。
「昼間に、通いのメイドさんが来てくれるわ。料理も作ってくれるから、夕飯はチンするだけでいいのよ」
「へえ……いつもそうなのかい?」
「そうよ。パパが雇った人よ」
「なるほど」
「記憶喪失って、変な感じね」
真穂は少し不愉快そうだった。
「うん」
ぼくは苦笑いした。
「そうだね。変な感じだよ、自分でも……」
「そのメイドさんが作ってくれた食事が冷蔵庫にあるわ。お腹が空いたら適当に食べて」
「ああ。じゃ、一緒に食べようか」
真穂はぼくの言葉に驚いたようだった。
「パパ、どうしちゃったの? パパがそんなこと言うなんて……ああ、そうか。記憶がないんだものね……」
「ごめんよ。変なこと言ったかな?」
「いいえ。でも、あたしはいいわ。学校の帰りにハンバーガー食べたから」
「そう……」
まただ。ぼくの胸はまた締め付けられた。真穂の冷たい態度を見るたびにぼくは無性に悲しい気分になる。いったい、ぼくはどうしたのだろう?
「じゃ、あたし着替えるから……」
真穂は、そういって、二階に駆け上がっていった。
ぼくは一人で夕食を取った。なかなか美味しい。通いのメイドさんは料理が得意なんだろう。
それにしても。と、ぼくは考えた。小田島純一と真穂はどういう関係だったのか。いや、親子なのは分かっている。問題は、うまくいっていなかったのではないかと思えるところだ。
初めて真穂と病院で会ったとき、彼女はそれなりにぼくのことを心配しているようだった。でも、その日以来、今日ぼくが退院するまで、真穂は一度も病院に来なかった。看護婦に訊くと、ぼくが意識不明の間、彼女は毎日見舞いに通っていたというのにだ。
だから、彼女が病院に来なくなったのは、ぼくの意識が回復して、映画関係者が出入りするようになったので遠慮していると思ったものだ。
だが、それは勘違いだったようだ。真穂の態度は、どこかよそよそしい。そりゃ、ぼくが記憶喪失なんで、なにを話したらいいのか戸惑っているだけかも知れないが……
それに、ぼくの胸の痛みも不思議だ。真穂のことを考えると、胸が痛くなる。もしかしたら、小田島純一の魂が少し残っているのかも知れない。でも、真実を知っているのはモーナだけだろう。ぼくには調べるすべはない。
ぼくは食べ終わった食器を流しに持っていき、きれいに洗った。ふきんで水をふき取って食器棚に戻す。そして、ふと、お茶を入れようかなと思った。キッチンの中を探すと、高級そうなカンの中から紅茶の葉っぱが出てきた。
ぼくはお茶を入れる前に二階に上がった。ドアがいくつもある。
「真穂!」
ぼくは少し大きな声で言った。
「なによ?」
三つ目のドアが開いた。
「あの、お茶を入れようと思うけど、真穂も飲むかい?」
「パパがお茶を?」
「うん」
「記憶喪失ってホントに変ね……ううん。いらないわ。あたし出かけるから」
「いまからかい?」
「そうよ」
真穂はそう言って部屋から出てきた。少し派手な服を着ている。
「じゃあね」
真穂は階段を下りると玄関の方へ駆けていった。
「何時ごろ戻るんだい?」
ぼくは声をかけた。
「わかんないわよ」
真穂は出ていった。
ぼくはしかたなく下に降りると、もう、お茶を飲む気がなくなっていた。そのかわり、リビングの戸棚からブランデーを出して、それを一杯飲んだ。
ぼくはお酒に弱い。いや、正月のおとそしか飲んだことないけど、それでもおとそで酔ってしまうぐらい弱い。だから、酔っぱらって寝てしまおうと思ったのだ。
ところが、まったく酔わなかった。二杯飲んでも、三杯飲んでも酔えない。ぼくは、小田島純一がお酒に強いことを知った。すると、別の興味がわいてきた。ぼくはバスルームに行った。そこで大きな鏡に自分の姿を映してみる。間違いなく、映画で見た小田島純一がそこに映っていた。いや、病院にいるときだって鏡を覗いてみたことはある。でも、こんなにまじまじと見たのは今日が初めてだ。
ハンサムだ。背も高い。それに若い。とても高校生の娘がいるとは思えない。まあ、それも当然かも知れない。だって、小田島純一はまだ三十六歳なのだ。真穂は、彼が二十歳のときの娘だ。
ぼくは服を脱いだ。上半身は適度に筋肉がついてたくましかった。本当のぼくとはえらい違い。ためしに腕立て伏せをしてみる。軽い。軽い。
ぼくは服を着ると、今度は家の外に出た。この辺は閑静な住宅街なので夜ともなると、人通りも少なくとても静かだ。ぼくは思いっきり走ってみた。
速い! 体が羽のようだ。ぼくは心ゆくまで新しい体を楽しんだ。汗が吹き出てすごくすがすがしかった。
このとき、モーナが人の願いを叶えるのが仕事だと言った意味が分かった。ぼくは、こんな体を望んでいたんだ。ハンサムで背が高くてたくましい。ぼくは、モーナに感謝した。これから新しい人生が待っている気がした。
つぎの日。
ぼくが起きると、真穂はもう学校に行っていた。ぼくはホッとした。あの子がいるとどうも調子が悪いからだ。小田島純一の魂がそうさせるのか知らないが、無性に胸が締め付けられる。そんなことぼくには関係ない。もう、この体はぼくのモノだ。ぼくはぼくの人生を楽しまなきゃ。
今日の計画はもう練ってある。車を運転するんだ。もちろん生まれて初めての経験だけど、きっとなんとかなるだろう。ぼくはウキウキしてきた。顔を洗ってTシャツとジーンズに着替える。こんなラフな格好がまた似合うのだ。
ぼくはガレージのドアを開けて、フェラーリを選んだ。ダッシュボードにサングラスが入っていた。完璧だね。
エンジンをかける。すごい音。思った通り、運転はすぐにできるようになった。体が覚えるって言葉は本当だ。運転の経験がないぼくが簡単にフェラーリを操っているのだ。気分爽快。
ぼくはしばらく車の運転を堪能すると、そのまま銀行に行った。小田島純一の口座からお金を引き落とす。彼の口座には、一生遊んで暮らしても十分なくらいの貯金があった。最高だ。東大に進学するよりはるかにすばらしい。
ふと、気がつくと、銀行にいる人たちがぼくを見ていた。そのうちの一人、大学生ぐらいの女の人がぼくに近づいてきた。
「あの、小田島さんですよね?」
「ええ。そうですよ」
「お体はもういいんですか?」
「ご覧の通りです。ピンピンしてますよ」
「わあ! 退院おめでとうございます。私、小田島さんのファンなんです!」
「ありがとう」
ぼくがほほ笑むと、その女の人はほんのりと頬を染めた。
「あの、サインして下さいませんか?」
「それはできない。ぼくは記憶をなくしてしまってね。サインの仕方も忘れちゃったんだよ」
「まあ……ニュースは本当だったんですね。小田島さん、かわいそう」
「なに、気にしてませんよ。じゃあ、さようならお嬢さん」
ぼくは自分でもキザだと思ったが、女の人にウィンクした。彼女は天にも昇ろうかという顔でぼくを見つめていた。
いやあ、最高の気分。ぼくは笑顔のままで銀行を出た。
そろそろお昼になる時間だった。どこかのレストランで食事でもしようか。いや、止めた。いったん家に戻ろう。通いのメイドさんに会っておきたい。
家につくと、メイドさんが来ていた。
「あっ! お帰りまさいませ、旦那様」
「やあ、初めまして……じゃないか。ごめん、記憶がなくってね」
「はい。お嬢様からうかがってます」
通いのメイドさんは五十過ぎぐらいのおばさんだった。まあ、若い娘を期待はしてなかったけど、ちょっとショックだ。こんなことなら、どこかで食事をすませて来るんだった。
「あの、病み上がりでお出かけになられて平気なんですか」
「大丈夫だよ。体は元気なんだ。ちょっと、頭が悪くなっただけでね」
ぼくは笑いながら言った。メイドさんもつられて笑う。どうも、体が変わってから性格も変わったようだ。以前のぼくなら、こんな気の利いたジョークなんて言えるはずなかった。
「お食事の用意をいたしましょうか?」
「うん。頼むよ。ああ、そうそう。きのうあなたの作った晩御飯を食べたけど美味しかったよ」
「まあ、ありがとうございます。そんなこと言っていただいたのは初めてです」
「ふうん。ぼくの舌も変わっちゃったのかな」
「いえ。旦那様は、ほとんど家にお戻りになりませんから、私の食事も召し上がったことはないと思います」
「じゃあ、真穂はいつも一人だったんだ」
「ええ。きっと、お寂しい思いをされていると思いますよ」
「どうかな? 真穂はぼくのことを嫌っているみたいだよ」
「そんなことありませんよ。旦那様のお出になってる映画はぜんぶご覧になってますもの」
「へえ……意外だね」
まただ。真穂のことを聞いて胸が痛みだした。
「この機会に、お嬢様とお話しする時間を増やして差し上げたらいかがですか?」
「なにを話すって言うんだ。記憶がないんだぞ」
ぼくは、少しイラついた口調で答えた。
「あっ……失礼しました。勝手なことを申しましてすいません」
「それより、はやく昼飯にしてくれないかな」
「はい。ただいま」
メイドさんはキッチンに消えた。
その日の夜、真穂が帰ってきたのは十一時を過ぎていた。高校生のご帰宅にしては遅い時間だ。けっきょくぼくは真穂と一言も言葉を交わさなかった。
で、つぎの日。やっぱり、ぼくが起きると真穂はもういなかった。完全なすれ違い親子だ。まあ、ぼくの責任ではないが……
ところで、今日の予定も決まっている。今日は、精神科医のカウンセリングを受けなければならないのだ。なにせ、ぼくは記憶喪失。カウンセリングは重要な治療手段なんだそうだ。つき合ってられない。と、思うが、そうもいかない。しばらくは医者の言うことを素直に聞いておいた方がいい。
今度は、ベンツを選んで病院に向かった。ぼくの入院していた大きな大学病院だ。これから毎週木曜日にはここに通わなければいけない。
「初めまして、小田島さん」
精神科医が言った。
「わたくしは佐伯志津子といいます」
「どうも」
悪くないぞ。ぼくはその医者に会って思った。女医さんだったのだ。しかもけっこう美人だ。これはツイてる。これで、退屈な治療も少しは楽しくなるというものだ。
「さっそくですけど、変化はありましたか?」
「変化?」
「ええ。ご自宅に戻られてなにか思い出されたとか」
「いいえ。まったく思い出しませんね」
「娘さんはどうです? ええと、確か、真穂さんでしたよね。彼女と話し合われたと思いますが、その結果は?」
「なにも変化なし。というか、彼女とはほとんど話をしていません」
「そうですか……真穂さんも戸惑っているのかも知れませんね。まあ、こういう症状は時間がかかります。あせらず、のんびり行きましょうか」
「ええ。ぼくはあせってませんよ。別にこのまま記憶が戻らなくてもいい」
「それはいけませんわね。思いだそうという意志はつねにお持ちになって下さい。私たちにできることは、小田島さんが思い出そうとする手助けだけなんです」
「分かりました」
ぼくは、神妙に答えた。形だけ。
「では、いくつか質問を……」
と、こんな感じで、ぼくは一時間ほどで解放された。まあ、めんどくさい(しかも、絶対に効果のない)治療だが、美人女医に会えると思えば、それほど苦じゃないか。
ぼくは家に戻った。本物の小田島純一ならどこかに遊びに行くのだろうが、さすがに元根暗のぼくは、遊びに行く場所を知らない。さっきの女医じゃないけど、これこそゆっくり覚えていけばいいさ。
「お帰りなさいませ」
メイドさんがぼくを迎えた。
「ただいま」
「あの、治療はいかがでした?」
「よかったよ。あ、いや。どうかな? まあ、ゆっくり時間をかけましょうってさ」
「そうですか。がんばって下さい」
「はいはい。がんばりますよ」
と、そのとき。リビングの電話が鳴った。メイドさんが電話に出る。
「はい。小田島でございます。あら、これはどうも。はい。いらっしゃいます。少しお待ち下さい」
メイドさんが受話器を保留にした。
「旦那様。お嬢様の学校の先生からです。どうしましょうか?」
「学校? 真穂になにかあったのかい」
「いえ。そういうことではないようですが」
メイドさんは答えづらそうだった。なにか知っている様子だ。
「ふうん。まあいいや。出てみよう」
ぼくは受話器を取った。
「もしもし。小田島ですが」
『初めまして。わたくし、小田島真穂さんの担任で如月と申します』
「どうも」
ぼくはその声の主を知っていた。なにせ、ぼくは真穂と同じ高校の生徒なのだ。如月先生は、授業がうまくていい先生だ。中年の男だけどね。
『いや、ぶしつけとは思いましたが、ニュースで小田島さんが仕事を休業されると聞きましてお電話差し上げた次第です』
「はあ、そうですか。で、ご用件は?」
『ええ。真穂さんのことでご相談したいことがありまして』
「すいません先生。ぼく記憶をなくしてまして」
『はい。存じ上げています。ですが、問題はこれからのことなんですよ』
「これからですか?」
『そうです。真穂さん、最近帰りが遅いとかそう言ったことはないですか?』
「ええと……そうですねぇ……昨日はけっこう遅かったな。いや、いつもなのかも知れないけど」
『やはりそうですか。いや、私の思い過ごしならいいんですが、真穂さん、最近、不良グループとつき合っているという噂がありましてね』
「ふうん。なるほど……」
ぼくは、またも胸が痛み始めた。
『小田島さん。一度、学校においで頂けませんか。その辺をご相談申し上げたいんです』
「そうですねえ……」
ぼくは断ろうかと思った。だが、なんとなくそんな気になれないのだ。
「分かりました。いつがいいですか?」
『いつでもけっこうです。できれば、早い方がいいと思います。ご都合がつけば、春休みが始まる前にお会いしたいのですが』
「では、明日はどうです」
『けっこうです。三時ぐらいはいかがでしょう』
「分かりました。うかがいます」
『ええと、職員室はですね、入り口を入りまして右に』
「知ってますよ」
『は?』
「あ、いや。分かると思います。とにかく、三時にうかがいますから」
ぼくは電話を切った。
「林さん」
ぼくはメイドさんを呼んだ。
「真穂のこと知ってた?」
「いいえ、詳しくは……ただ、たまに学校から通知が来ていたようですよ」
「ぼくはそれを見たことある?」
「はい。二、三度ご覧になっていたようです」
「ぼくは、真穂になにか言った?」
「さあ、そこまでは分かりません。私は夕方に失礼させていただきますから。たぶん、なにもおっしゃっていないと思いますが」
「そうか……いや、悪いね。家庭のことまで心配させちゃって」
「いいえ、とんでもない。ところで、お夕飯の献立はどうしましょうか?」
「え? なに?」
ぼくはメイドさんの言葉を聞いていなかった。真穂のことを考えていたからだ。
「お夕飯です。なにか食べたいものはございませんか?」
「ああ、晩飯ね。そうだな……」
ぼくは急にひらめいた。
「夕飯の準備はいいよ。ぼくが自分でやる」
「はい?」
「ぼくが作るよ。確か、近くにスーパーがあったよね。いまから材料の買い出しに行ってくるよ」
「あの、旦那様……」
ぼくは、メイドさんがなにか言い出す前に家を飛び出した。なぜか、頭の中は真穂のことで一杯だった。
夜十時。玄関の開く音がした。ぼくはあわてて走った。昨日のようにすれ違いになってはまずい。
「おかえり、真穂!」
真穂は、ぼくの姿を見て目を丸くした。
「なにやってるのパパ?」
ぼくはエプロンをしていた。
「晩御飯を作ってるんだ。ビーフシチューだよ」
「パパが料理?」
「うん。初めての挑戦。だと、思う……ぼくは料理を作ったことないよね?」
「あたしの知る限りはね」
「じゃ、やっぱり初めてだ。でも、けっこういけると思うな」
「バ、バカみたい……」
真穂は呆れた声を出した。
「まあ、そう言うなよ」
ぼくは真穂の手をひっぱった。
「さあ、ちょっと味見してみてくれよ」
「やだ、ひっぱらないで」
「だって、鍋がふきこぼれちゃうよ」
「分かったわよ」
真穂はしぶしぶぼくについてキッチンに向かった。
「どうかな?」
と、ぼく。
真穂は小皿に取ったシチューをペロッとなめた。
「味が薄い……」
「ええっ、おかしいなあ……料理の本に書いてあるとおり作ったのに」
「パパ、ホントに書いてあるとおりにした? ちょっとタマネギの量が多いんじゃない」
「だって、タマネギが余っちゃったんだよ。捨てるのもったいないし……ダメだったかな」
「ううん。ダメってことないけど……パパ、ルーの余りはある?」
「もうないよ。買ってきたのは全部使っちゃった」
「ダメよ。味を見ながら調整しなきゃ」
「ああ、なるほど。料理って奥が深いなァ」
「どうするのよ、これ」
「ううむ。ちょっとルーを買いに行ってくるよ。コンビニに売ってるよね?」
「さあ、どうかしら……あっ、待って! そういえば、冷蔵庫にデミグラスソースが冷凍してあったわ」
「デミ……なにソースだって?」
「ビーフシチューの元よ。ほら、あった。これを入れればいいわ」
「じゃあ、後は任せた」
「なによ、パパが作り始めたんでしょ。最後まで責任持ってよね」
「ぼくはテーブルをセットするよ。ワインも買ってきたんだ。二丁目の飯田屋酒店のお勧めだよ。真穂も飲むだろ?」
「未成年にお酒を飲ませるつもりなの?」
「ぼくだって未成年……」
「なに?」
「いや、たまにはいいだろ。子供だってお正月にはおとそを飲むんだからさ」
「変なパパね」
真穂は笑った。
「あっ」
ぼくは、思わず声を出してしまった。だって、真穂が笑ったのだ。初めて見る笑顔だ。
「なによ、どうかした?」
「な、なんでもないよ」
ぼくはあわててワインを取りにいった。胸の痛みがすっかり消えて、ものすごくうれしい気分だった。真穂が笑ったのだ。これが喜ばずにいられるか!
ちょっと待て。なんでぼくが喜ぶんだろう?
ともかく、その日は真穂と夕飯を一緒に食べた。ぼくはうれしかった。それに、真穂の方もまんざらではないようで、それがすごく幸せな気分だった。
つぎの日。ぼくは学校に向かった。この日は電車を使った。ぼくの持っている車はどれも派手なものなので、真穂の学校に乗り付けるのはためらわれたのだ。そんなことを気にするなんて、ぼくは変な気分だった。でも、気になるんだからしょうがない。どうでもいいことだけど、電車に乗って何人かにサインをねだられたが、すべて断った。
「わざわざすいません」
如月先生は、ぼくを来客用の応接室に通した。ぼくもこの学校の生徒だが、こんな部屋があるとはいままで知らなかった。
「こんな部屋があったんですね」
「え? 小田島さん、うちの学校にいらしたことあるんですか?」
「あっ……いや。ええと、こういう部屋があるんですね。と、申し上げたんですよ」
「ああ。なるほど」
「で、真穂が不良とつき合ってるとか?」
「ええ。お恥ずかしい話ですが、うちの学校にはちょっと問題のある生徒がおりましてね。そのグループとつき合っているらしいんです。私どもも注意したことはあるんですが、なにぶんこういった問題はご家庭でも十分認識していただかないと……」
「分かります」
ぼくは答えた。なにが分かると言うわけではないが、とにかくそう答えた。少なくともその不良グループのことは知っていたけど。
「そうですか。でしたら話は早い。真穂さんのような年齢はとても微妙なんですよ。いま道を踏み外すようなことがありますと、将来にけっしていい影響はありません」
そのあと、ぼくは如月先生から、親の取るべき態度について小一時間も説明された。親の心得その一。ってなもんである。もっとも、ぼくは如月先生をバカにしているわけじゃない。むしろその逆だ。とても参考になった。だって、ぼくはまだ十九歳の青年なんだよ。それが、十六歳の少女の親になる羽目になったのだ。如月先生の熱弁はけっこうありがたかったのだ。如月先生の方も、ぼくがあまりにも熱心に話を聞くので(質問までした)少し驚いているようだった。
ところで、親の心得以外に、如月先生は重要な情報を提供してくれた。それは、その不良グループがたむろする場所だ。案の定、それは渋谷だった。ぼくのような根暗青年には東急ハンズで買い物ぐらいしか縁のない街だ。とにかく、彼らは、夜な夜な渋谷の街を徘徊しているということだった。
ぼくは、如月先生に礼を言うと、応接室を出た。そこは、見慣れた校舎だ。ぼくはなんとなく学校の中を歩いてみたくなった。
三年B組。ぼくのクラスだ。教室の中には何人かの生徒が残っていた。卒業を間近にして、いろいろつもる話でもあるのだろう。その中に、あの葉山絵里がいた。彼女はぼくに気がついた。
「あの……」
葉山絵里は、ぼくに近づいてきた。
「小田島さんですか?」
「ええ。小田島真穂の父です」
「やっぱり!」
彼女はキャーッと、飛び上がった。
「私、あなたのファンなんです」
「ありがとう」
葉山絵里がぼくを見つめている。その瞳は、汚い物を見るどころか、羨望の眼差しと言ってもよかった。複雑な気分だ。
ふと、花の飾られている机が目についた。そう。ぼくの机だ。うっかり忘れていたけどぼくは死んだんだ。
「あの席は?」
ぼくは、葉山絵里に訊いた。
「ああ、彼、死んだんです。ええと、二週間ぐらい前だったかな」
「まだ若いのにかわいそうだね。事故かなにか?」
「さあ? あたし、よく知りません」
「先生が説明してくれなかったのかい?」
「そういえば、なんか説明してたかな。まあ、たぶん事故だと思いますよ」
驚いた。葉山絵里はぼくが死んだ理由を知らない。かりにも、一度は告白された相手なのにだ。
ぼくは、教室の中に入って、自分の机の花瓶を手に取った。
「どうしたんですか?」
葉山絵里が不思議そうに訊いた。
「いや、花瓶の水が濁ってるから」
ぼくは、花瓶を持って手洗いに向かった。自分で自分の花瓶の水を取り替えるなんて、まったく悲しいことだ。
葉山絵里がついてきた。
「小田島さんってやさしいんですね」
「そんなことないよ」
「ううん、やさしいわ」
「じつは、ちょっと知り合いだったんだよ」
「えっ、彼とですか?」
「ああ。彼が死んで残念だね。とても悲しいよ」
「え、ええ! 本当に残念ですね。あたし彼と友達だったんです!」
「へえ」
「あっ、あたしやります!」
葉山絵里はぼくから花瓶を奪い取った。そして、ぼくの花瓶を一生懸命洗い始めた。ぼくは、黙ってそれを見つめた。
「さあ、きれいになりましたよ」
「ありがとう。彼も喜ぶよ」
「あの、本当に彼と知り合いだったんですか?」
「うん。いまのぼくがいるのは彼のおかげかもね」
「ああ、そうだわ! そういえば、彼そんなこと言ってました。俳優の知り合いがいるから、あたしに紹介してあげるって」
おいおい。誰がそんなこと言った。
「わあ、それって小田島さんのことだってんですね。あたし感激です!」
「ふうん」
ぼくは苦笑いするほかなかった。
「あたし、彼にいろいろ話したんです。将来女優になりたいこととか。そうだわ、だから小田島さんを紹介してくれるって言ってたんですね」
葉山絵里の瞳は輝いていた。このチャンスを逃すまいという顔だ。たぶんどんな嘘だって平気でつけるのだろう。
「君は、すごいバイタリティーだね」
「え?」
「いや、君はいい性格していると思うよ。きっと、芸能界で成功するんじゃないかな」
葉山絵里の瞳はいっそう輝きを増した。どうも、ぼくの皮肉を理解できなかったらしい。というか、誤解したかな?
「ありがとうございます。あたしなんでもやります!」
やっぱり、誤解したみたいだね。
「じゃあ、せいぜいがんばって下さい」
「えっ? あの、小田島さん」
「なんだい?」
「ええと、あの、あたし女優になりたいんです! そのためならなんでもやります!」
「だから、がんばって下さい。花瓶を洗ってくれてどうもありがとう」
ぼくは、ただ立ち尽くす葉山絵里を置いてその場を去った。もう、葉山絵里のことを何とも思わなくなっていた。これからは、女を見る目を養うのがぼくの課題だな。
そんなことより、ぼくは真穂のことが気になりだしていた。そろそろ陽が落ちる時間だ。ぼくは、足早に渋谷に向かった。
渋谷。はっきり言って、ぼくはこの街が嫌いだ。とにかく、人が多すぎる。それも頭の悪そうな高校生ばっかり。たぶん、真穂もこのお子さまの中にいるんだろう。はてさて、どこをどう探したものか……
案の定、真穂を見つけるのは困難だった。それどころか、ぼくを(つまり、小田島純一を)見つける人の方が圧倒的に多くて、そのつどサインを求められたり、握手をしたりの繰り返しだ。もう、優越感はどこにもない。有名人にもうんざりしてきた。
三時間も渋谷をさまよったころ、さすがに疲れてきた。二月の風も冷たいし。
ぼくはコーヒーでも一杯飲んでから家に帰ろうと思った。しょせん、都会で一人の少女を発見するなんて無理なのだ。
ところが、無理じゃなかった。真穂はいた。そこはビルとビルの物陰だった。
「なあ、いいだろ?」
若い男が真穂に迫っていた。
「やめてよ!」
「つれないこと言うなよ。いいかげん、いうこと聞けよ」
「やめてったら!」
「おーい、真穂。なに遊んでるんだい?」
ぼくは声が震えないように注意しながら声をかけた。じつはちょっと恐い。
「パパ!」
真穂はぼくを見て驚いた。
「なに? パパだあ?」
若い男も驚いていた。
「パパ、どうしてここにいるの!」
「どうしてって。その、真穂を捜してたんだよ」
「あたしを?」
「うん」
「おいおい」
と、若い男。
「おまえ、本当に小田島純一の娘だったのかよ」
真穂は答えなかった。
「そうだよ」
と、ぼくが代わりに答えてやった。
「ふうん。まあ、親が誰だろうと関係ないね。真穂はオレたちと遊んでるのが楽しいんだよ。パパさんは引っ込んでな」
「そうは見えなかったな」
「うるせえなあ。いいから帰れよ」
「真穂と一緒にね」
「おい、オッサン! いいかげんにしろよ。真穂は帰りたくねえんだよ」
「真穂。帰ろう」
ぼくは真穂の手を引いた。と、そのとき。若い男がぼくに飛びかかってきた。ぼくは、真穂の手をいったん離すと、軽い身のこなしで男を受け流した。と、同時に男の足に自分の足を引っかける。男は、すってんころりんと転んだ。
自分でもビックリ。この体は想像以上に鍛えられている。
「て、てめえ……」
男は起きあがるとぼくを睨んだ。なんか、かわいいもんだ。ぼくはもう恐くなかった。
「やめて!」
真穂がぼくと男の間に割って入った。
「どけよ、真穂」
と、男。
「バカ! あんたのこと心配してあげたんだよ。パパはケンカに負けたことないのよ。ケガするのはあんたの方よ!」
へえ。ぼくって強いんだね。
「おもしれえ」
と、男。
「やれるもんならやってみな。新聞に載るぜ。俳優小田島純一が未成年をケガさせたってな」
真穂は一瞬青ざめた。
「ひ、卑怯よ!」
「お話の途中、悪いけどさ」
と、ぼく。
「いまのぼくは俳優の小田島純一じゃないんだよ」
「うるせえ!」
男は真穂を突き飛ばすと、ぼくに突進してきた。ぼくは簡単によけて……と、言いたかったが、突き飛ばされた真穂を抱きかかえたもんだから、しっかり、男のパンチを食らってしまった。
痛い。殴られたのは生まれて初めてだ。
「パパ!」
ぼくは、口の中が切れてしまった。鉄の味が舌に感じられる。ぼくは、男をにらみながらぺっと血の混じった唾を吐いた。自分で言うのもなんだけど、その仕草は映画のワンシーンみたいでかっこよかったと思う。
「へっ、やっぱ、強いのは映画の中だけかい、小田島純一さんよォ」
「さあ、どうかな? なにせ記憶がないんでね」
ぼくは男にパンチを浴びせた。ものすごいスピードだ。パンチは男の腹に入った。なんと、その一発で男はうずくなったまま動かなくなった。
「あらら」
ぼくは急に不安になった。
「ちょっと強く殴りすぎたかな?」
「うう~ん」
男は気絶したまま唸った。
「よかった。寝てるだけだな」
「パパ……」
真穂はハンカチを出してぼくの口を拭いてくれた。
「さあ、帰ろうか」
ぼくはにっこり言った。
「うん……」
真穂は意外なほど素直にぼくに従った。
「ねえ、パパ」
真穂が訊いた。ぼくたちは家に帰るため電車に乗っていた。席は埋まっていたのでドアのところで二人で立っていた。
「なんで、タクシーに乗らなかったの?」
ふと、気づくと、乗客のほとんどがぼくたちに注目していた。
「ああ、その手があったか。気がつかなかった。でもまあ、いいんじゃない。真穂はぼくといるのが嫌かい?」
「ううん。そうじゃないけど……昔のパパだったら、ぜったい電車なんか乗らないもの。少なくともあたしと一緒になんて」
真穂はうつむいた。
「ふうん。昔のことは忘れたなァ」
真穂は顔を上げた。そして、クスッと笑う。ぼくも真穂にほほえんだ。
「ねえ、パパ」
真穂は真面目な顔になった。
「怒ってる?」
「なにが?」
「だって、あんなヤツと一緒にいたから……」
「うん。怒ってるよ。ぼくが見つけるのがもう少し遅かったら。なんて思うといい気分じゃないな」
「ごめんなさい」
真穂はぼくに謝った。なんか、すごくかわいい。いや、女としてかわいいんじゃなくて、子供としてだ。ぼくは十九歳なのに変な気分だね。
「まあ、間に合ったんだからいいさ」
「でも、パパのことが新聞に載っちゃったら……」
「一度、新聞に載ってみたかったんだよ」
ぼくはとぼけた声を出した。
「だって、悪役の仕事が来るかも知れないじゃないか」
「まあ、パパったら」
真穂は笑った。
..3
精神科医とのカウンセリングの日が来た。二回目だ。
「その後どうですか?」
と、志津子先生。
「快適です。思った以上にうまくいってますよ」
「と、言いますと?」
「いやあ、真穂とうまくいくようになりましてね。最近は、朝ご飯も夕飯も一緒に食べるんです。昨日なんか、一緒に映画を見に行ったんですよ」
「あら、よかったですね」
先生はほほえんだ。
「娘さんもいまのお父さんを受け入れてくれたんですね。家族の協力はなにより大切ですよ」
「ええ。まったくね。ところで、先生にご相談したいことがあるんですが」
「はい。なんでしょう」
「真穂の進級祝いにプレゼントを買いたいんですよ。なにがいいと思います?」
「は?」
「明日から真穂の学校春休みなんです。進級のお祝いをしようと思っているんです。いや、ぼくは女の子の好みが分からなくてね。誕生日なら洋服とかでいいんでしょうけど、進級祝いですからね。万年筆ってのも変だし、いまさら腕時計もないでしょ?」
「ええ、まあ……それがご相談ですか?」
「そうですよ。ここ三日ぐらいずっと悩んでるんです。いいアイデアがなくてね」
先生はクスッと笑った。
「いいお父さんね」
「からかわないで下さいよ。ぼく、真剣に悩んでるんです」
「ごめんなさい。それでしたら、パソコンなんてどうですか」
「パソコン?」
「ええ。進級祝いならちょうどいいんじゃないかしら。もちろん、すでにお持ちでしょうけど、パソコンは新しいほうが快適に動きますから」
「そうか、パソコンね。いいかも知れない。でも、どの機種を買ったらいいのかな?」
「お持ちじゃないんですか?」
「ぼくの書斎にはありました。でも自分で買った記憶がないし、使った記憶もない」
「そうですか……」
先生は少し思案してから答えた。
「そのパソコンには、リンゴのマークが描かれていましたか?」
「リンゴ? ああ、そういえば描いてありましたね」
「ではマックですね。小田島さんのリハビリの意味も込めて、同じメーカーにしたほうがいいでしょう」
「ふむふむ。マックね。そう言えば、先生の机の上にあるパソコンにもリンゴの絵がありますね」
「ええ。私もマックですよ。医者はマックを使っている人が多いんです」
「へえ、なんで?」
「学会で発表したりするとき、スライドを作るのが楽なんですよ」
「ほ~う。なるほど。よし、マックで決まりだな。ここに教えてくれる人がいるから」
「私のことかしら?」
「ほかに誰がいます?」
「分かりました」
先生は笑った。
「ところで、そろそろカウンセリングを始めてよろしいかしら?」
「どうぞ。さっさと済ませましょう。ところで、机に置くタイプとノート型のパソコンじゃ、どっちがいいですかね?」
ぼくはカウンセリングが終わったら、すぐに秋葉原に行こうと思った。
翌日。ぼくは真穂の帰りをいまや遅しと待っていた。
「ただいま~」
帰ってきた。
「おかえり!」
「な、なによ、このご馳走」
真穂はテーブルに並べられた料理を見て驚いた。
「だって、明日から春休みだろ。まあ、進級祝いだな」
「大げさねえ」
真穂は苦笑いした。
「でも、こんなのケータリングサービスしてくれるんだね」
「違うよ、出前じゃないってば。ぼくが作ったんだよ」
「パパが?」
「うん。今度はうまくいったと思うよ」
「どうだか」
真穂は笑った。
「着替えてくるわ。味見はそのあとで」
真穂は二階に上がっていった。ぼくは、ローストチキンを電子レンジに入れて暖めた。そうそう。ワインのコルクも抜いておこう。
「パパ」
真穂が降りてきた。
「さあ、食べようか」
「うん。あの、その前に。嫌なことは最初に済ませておきたいから……」
真穂はぼくに一枚の紙を渡した。通信簿だ。ぼくの通信簿は、体育以外せんぶ五だったが……
「どれ」
ぼくは真穂の通信簿を開いた。真穂はバツが悪そうに下を向いている。こりゃ、期待できないな。
案の定だった。唯一の救いは英語の成績がいいことぐらいだ。いや、親に似て体育の成績も悪くない。親? ぼくが? まあいい。この体の娘なのは間違いない。
「そうだな」
と、ぼく。
「英語は問題なし。体育もすばらしい」
真穂はちょっとホッとしたようだ。
「でも、数学と物理が寂しいね。ついでと言っちゃなんだが、世界史も大変なことになってるな」
「だって、如月先生の授業って難しいんだもの」
「そうかなあ。簡単だと思うけど。あの先生はうまいよ」
「そんなことないわ。って、どうしてパパが知ってるの」
「あ? ああ、いや、そんな感じがしたんだよ。違った?」
「違うわよ。なに話してるのかぜんぜんわかんないわ、あの先生」
「そりゃ、重傷だ。とにかくこれじゃしょうがないよ。春休みは特訓だな、ぼくが教えてあげよう」
「パパが? 悪い冗談」
「なにを言いますかね、この子は。ぼくは東大に……行こうと思ったことがあるんだよ」
「まさか。分かった。灯台でしょ? 光る方の」
「まあ、言ってなさい。あとで驚かせてあげるから」
「ふうん。楽しみね」
真穂はニヤリと笑った。
「さあ、食べよう。冷めちゃうよ」
「うん。いただきま~す」
真穂は、席についてローストチキンをほおばった。
「うそ! 美味しいよ!」
「だろ。ぼくに不可能はないね」
「白状しなさいよ。買ってきたんでしょ?」
「違うってば。料理の本を三冊も買ってきたんだよ。努力と汗の結晶」
「ふうん……うそみたい」
「ううむ、ダメだ。やっぱり白状しよう。じつは、ほとんど林さんに作ってもらった」
「やっぱり」
「でも、手伝ったんだよ。料理の本と材料を買ってきて、お皿を洗って、ええと、それから……」
「アハハ。つまり、味には関係ないんだ」
「それを言っちゃ身も蓋もない。よし、そういう悪い子には罰を与えてあげよう。明日から掃除と皿洗いは真穂の仕事だな」
「ええっ。ひどいよぉ」
「いや、じつは冗談抜きなんだ。林さんにも春休みをあげたんだよ。あの人、お孫さんが生まれたんだ。知ってるだろ?」
「うん。そうか、生まれたんだ」
「そう言うこと。だから、しばらく真穂とぼくで生きていかなきゃならない」
「サバイバルね」
「そこまでひどくないだろ」
「アハハ。まあね!」
ぼくは楽しかった。真穂も楽しそうなのがいっそううれしい。ぼくは……いや、きっと小田島純一がこんなひとときを望んでいたに違いない。それに、ぼく自身、家族の団らんを思い出していた。両親が死ぬ前は、こんな時間を過ごしていたんだ。
夕食が終わると、ぼくと真穂はお皿を洗った。二人でキッチンをきれいにする。真穂はそんな手伝いさえも楽しそうだった。もちろんぼくも。
「プレゼントがあるんだ」
二人でお茶を入れたあと、ぼくは言った。
「わあ。なになに?」
「進級祝いだからね。そんなに楽しいものじゃないよ」
ぼくはソファーの陰に隠してあった箱を取り出した。
「パソコン?」
「うん。マックにしたよ」
「ふーん」
「ウインドウズの方がよかった?」
「ううん。そうじゃないけど、ネットならケータイでできるし、あんまり興味ないかも」
「簡単だって、お店の人が言ってたよ」
「ふうん。じゃ、パパ使って見せて」
「どれ……む? なんだ、この分厚い説明書は」
「パパ読んでね」
「うん。ええと……おや? DVDが付いてるぞ。どこに入れるんだ?」
「パパ考えてね」
「うん。って、おまえなあ……」
ぼくは真穂を羽交い締めにした。
「キャーッ、ごめんなさ~い」
その晩。ぼくと真穂はパソコンと格闘した。それはそれで、また楽しい。パソコン自体は楽しくないけどね。
4
「先生。エイリアスってなんですか?」
ぼくは精神科医の志津子先生に訊いた。
「はい?」
「マックですよ。先週、買ったんです。そう、前のカウンセリングのあとに。それで、真穂と使い方を勉強してるんですが、エイリアスって機能がよく分からない」
「ああ。そう言うこと。エイリアスっていうのはファイルの分身ですよ。それを作っておけば本物のファイルを操作しなくていいんです」
「へえ……なんかぼくに似てるな」
「え?」
「あっ、いや、なんでもないです。ええと、そのエイリアスって便利なんですか?」
「ええ、とても。お見せしましょうか」
「ぜひ」
志津子先生は机のマックを立ちあげた。ぼくは彼女からいろいろマックの使い方を教わることができた。持つべきものはパソコンに詳しい友人だな。
「真穂さんとは仲がよろしいんですね」
志津子先生はモニターから顔を上げた。
「ええ。友達みたいな感じかな」
「先週もそうでしたけど、小田島さんのお話は真穂さんのことばかりね」
「そうかな?」
「そうですよ。昔からそうだったのかしら」
「さあ?」
「真穂さんは、小田島さんが記憶をなくされる前の話とかしないんですか?」
「しませんね。ぼくも訊かないけど」
「どうしてかしら。昔から仲がよろしければ、そういった話は自然と出てくると思うんです」
ふむ。さすがは精神科医。鋭いところをついてくる。しかも、自然とカウンセリングに話を戻すところなんかプロの技だ。まあいい。ぼくは志津子先生の仕事につき合うことにした。それが患者の義務でもある。義務か。言い得て妙だな。絶対に治らないんだから。
「じつは」
と、ぼく。
「ぼくと真穂は、親子としてうまくいっていなかったと思います」
「どうしてそう思われるのかしら?」
「なんというか、感じるんですよ。真穂を見ているとね」
「なにを? いえ、どんな感じなんですか?」
「胸が苦しくなる。喪失感とでもいうかな。とにかく、落ち込むんです」
「それで、いまはどうです?」
「うん。真穂の笑顔を見るとうれしくなりますね。胸の痛みも消える」
「それですよ」
先生は瞳を輝かせた。
「それこそ、小田島さんが過去の記憶を失っていない証拠です。いまは潜在意識のなかでしか感じられないかも知れませんが、それは、確かな記憶なんです」
「それは違うと思うな」
「小田島さん。希望を捨ててはいけませんよ」
「いや、そういう意味ではないんです。こんなことをお医者さんにいうと笑われるかもしれませんが……」
「どうぞ、おっしゃって」
「先生は、魂って信じますか?」
「魂? そうですねえ。定義によりますね。それが、霊魂のような物をおっしゃっているなら、分からないとしかお答えできません」
「ぼくもそう思います。つまり、いまの医学では人間の脳は理解できないんだと思います。確かに、ぼくの真穂に対する感情は記憶のせいかも知れない。でも、ぼくはもっと深いものを感じるんです。たとえ、ぼくの……小田島純一の記憶がすべて完全に失われても、きっと真穂のことを忘れないと思う。人を愛する気持ちって、脳の中の神経細胞だけで説明できるものじゃない。そんな気がするんですよ」
ぼくの言ったことは事実だ。この体はぼくの物ではない。でも、真穂に対する感情はこの体の、つまり小田島純一の物なのだ。
「小田島さんって、ロマンチストね」
「はは。どうも現実離れした話でした。忘れてください」
「ごめんなさい。もし、皮肉に聞こえたのなら謝ります。私だって医者である前に人間ですもの。人を愛する気持ちが永遠に不滅なのもなら、どんなにか素敵なことだろうと思いますよ。ですが、医者としては小田島さんの記憶が完全に失われたとは考えられませんし、そういうスタンスにも立ちたくはないですね」
「ハハハ。そりゃそうでしょうね」
ぼくは笑った。しょせん、ぼくの話はモーナに出会った人間でなければ理解できない話なのだ。と、思ったら、志津子先生は、ややためらいがちに言葉を続けた。
「医者がこんなことを言うと怒られそうですが……あるいは、小田島さんの考えが正しいのかもしれません。いくら研究しても人の心がどこから来るのか理解できないのかも知れませんね。神様の存在を証明できないのと同じように」
「信じる以外にはない」
「ええ。でも、いまは小田島さんの記憶が戻ることを信じましょう」
「もし、仮にですよ。ぼくの記憶が戻らないとして、真穂はどう思うでしょうか。この先もぼくを父親として認めてくれるかな」
「それは、大丈夫だと思いますよ。お話を聞いている限りは。ですが、記憶が戻った方がいいんじゃないかしらね」
「どうかな……真穂とぼくはうまくいっていなかったんです。その状況に逆戻りになるのでは?」
「いまの記憶があるじゃないですか。それがあれば大丈夫」
「同じ過ちは繰り返さないってことですか?」
「そうです」
先生は、ふとぼくを見つめた。
「それにしても、小田島さんって、本当に真穂さんが大事なのね。いつも、話が真穂さんに戻ってしまうわ」
「過保護かな? ぼく、親だった記憶がないんでよく分からないんだけど」
「いいえ。少しうらやましいわ」
「そう?」
「私の想像ですけど、真穂さんは父親にかまってもらえない孤独感を感じていたのだと思います。その父親が、いつも家にいてくれるって、うれしいことなんですよ」
「そうか。うん、分かる気がする」
「人間ってそういうものですよ。私も彼がもう少しそばにいてくれたら、別れることもなかったと……あら、いやだ。私ったら、なんの話をしてるのかしら」
「訊きたいな。その話」
「忘れて下さい。ええと、もう時間ですね。今日もあまり進展しませんでしたけど、来週もちゃんと来て下さいね」
「先生が来るなと言うまで通いますよ。今度は、その彼の話を聞きたいな」
「忘れてください!」
「それはないよ。思い出せっていうのが、先生の口癖でしょ?」
ぼくは、笑いながら席を立った。
「おかえりなさい!」
ぼくが家に帰ると真穂が迎えてくれた。春休みに入ってからはいつも真穂と一緒だ。
「ただいま」
「治療はどうだった?」
「カウンセリングだよ。まあ、どっちにしても進展なし」
「そう。がっかりした?」
「そんなことないよ。別にあせってないさ。このままでもいいし」
「うん。そうだね」
真穂はにっこり笑った。
「真穂はぼくの記憶が戻らない方がいい?」
「あっ。違うの。そういう意味じゃなくて……あの、あせらなくていいわよ。って言いたかったのよ」
「そうか」
ぼくとしては、ぼくの記憶が戻らない方がいい。と、言ってくれた方がうれしい。だって、小田島純一は、真穂の本当の父親はもういないのだから。
「ごめんなさい、パパ。変なこと言っちゃって」
真穂はぼくの顔が神妙だったので気になるようだった。
「いや、気にすることないって。カウンセリングが長引く方が都合がいいんだ」
「どうして?」
「女医さんが美人なんだよ」
「まあ、パパったら! そういうところはぜんぜん変わんないのね!」
変わらないんではなくて、男の本能だと思うが……とにかく、真穂は怒ったらしく、ぼくを置いて部屋の中に入ってしまった。
「おーい、真穂ちゃん」
「知らない!」
「冗談だよ。女医さんなんかに手は出さないってば」
「女医さんじゃなかったら手を出すの?」
うっ、やぶ蛇だった。
「機嫌を直してくれよ」
「やだ」
「そんなこと言わないでさ。そうだ、今日は美味しいもの食べに行こうか。なんでも真穂の好きなものをさ」
「ホント? じゃあ、お寿司が食べたいな。大トロ、うに、いくら。それともフランス料理のフルコースがいいかしら」
「こらこら、少し遠慮しなさいってば」
「アハハ。ダメよ、あたしの好きなものって言ったじゃない」
「チェッ。お嬢様にはかなわないね」
けっきょく真穂は、手頃なイタリア料理で許してくれた。まあ、いくら高価な食事でもぼくの経済力なら問題ないのだけど、真穂も本気で怒っているわけじゃないってことを言いたかったのだろう。
ぼくらは、夕御飯を食べたあと、少しウィンドーショッピングを楽しんで家に戻った。いつものようにお茶を入れて、たわいもない話をする。楽しいひとときだ。
もう、ぼくの胸が痛むことはほとんどない。たぶん、この体に残った小田島純一の魂のかけらも満足しているのだろう。
日づけが変わるころ、ぼくは自分の寝室に入った。真穂もそろそろ寝たはずだ。ぼくは部屋の電気を消した。
ベットに入ろうとしたとき、ふと、戸棚が気になった。理由は分からない。ただ、なんとなく気になったのだ。この寝室でいつも寝ているが、あの戸棚が気になったのは初めてだ。
ぼくは、暗がりの中で戸棚を開けた。中から古いアルバムが出てくる。ぼくはベットに腰をかけ、小さなライトスタンドをつけた。オレンジ色の光が手もとを照らす。ぼくはそのアルバムを開いた。
子供のころの真穂が映っていた。少し若い小田島純一も映っている。そんな写真が、たくさん張ってあった。ぼくはページをめくった。胸になにかこみ上げてくる。見たこともない写真なのにうれしいような、悲しいような、不思議な気分だ。
ぼくは、知らず知らずのうちに涙を流していた。
「パパ……」
不意に真穂の声がした。顔を上げると廊下から光が漏れていて、パジャマ姿の真穂がシルエットになって立っていた。
「どうしたの?」
と、真穂。
「泣いてるの?」
「い、いや。なんでもないよ。変だな……どうしたんだろうね」
ぼくは、あわてて涙をぬぐった。
「なにを見てるの?」
真穂が部屋に入ってきた。そして、ぼくの隣に座る。
「アルバムね。どこにあったの? あっ、あたしだ……」
「真穂が子供のころだね。ぼくも映っているよ」
「パパ、若いね。あたしたち笑ってるよ」
「うん。今みたいにね」
ぼくらはしばらくアルバムを眺めた。そのアルバムは、真穂が小学校を卒業する辺りでとぎれていた。
「パパ、こんな写真持ってたんだ……」
「らしいね。覚えてないけど」
「ねえ、どうして泣いていたの?」
真穂がぼくを見つめた。
「さ、さあ……分からない。写真を見てたらなんとなく……」
「記憶が戻ったんじゃないの?」
「いいや、違うよ。ぼくの記憶は戻らない」
「パパ。記憶が戻りたい?」
「どうかな……別にいまのままでも幸せだよ」
「ホントに?」
「ああ」
「でも」
真穂は急にうつむいた。
「ごめんなさい。パパの記憶がなくなったの、真穂のせいだよ」
「えっ? なんでだい?」
「だって、だって」
真穂の瞳から涙がこぼれた。
「あたし、パパが……パパがもっと優しくなって欲しいって思ってた。あんな不良とつき合ってたのも、パパにもっとかまって欲しかったから」
「真穂」
「だから、毎日、神様にお願いしていたの。パパが優しくなってくれますようにって。そしたら、あたしの願いが叶っちゃった。でも、パパは記憶をなくしてた」
「バ、バカだなあ。そんなの関係ないよ」
「でも、最初はパパが優しくなったのは記憶がなくなったせいだと思ってた。でも、違ったんだ。パパは、昔からあたしを……」
「だから、真穂のせいじゃないって」
「ううん。あたしのせいだよ。あたしがパパのことなんにも分かってなかったから」
「違うよ。もしそうだとしたら、真穂のことを分かってないのはぼくの方だ」
「でも、でも」
ぼくは真穂を抱いた。そして髪を優しくなでる。
「パパ。ごめんなさい。ごめんなさい……」
真穂はぼくの腕の中で泣いた。ぼくは、ずっと真穂の髪をなでていた。いつしか、真穂は泣き疲れて眠ってしまった。ぼくは毛布を引っ張って真穂と自分にかけた。
と、そのとき。
ぼくの体から、白い、いや透明に近いなにかが出ていったのを感じた。その透明な物は、いったん空中に留まっていたが、しばらくして天井を突き抜けるように天に昇っていった。
「どうやら、うまくいったみたいね」
声がした。モーナだった。相変わらず、布きれ一枚のセクシーな姿で宙に浮かんでいた。
「モーナか」
「光栄ね、覚えていてくれて」
「忘れろっていう方が無理だよ」
「いま、小田島純一の魂の残り火が、天に昇っていったわ」
「やっぱりそうか……」
「彼の魂も、やっと満足したわ。ずっと、娘を思いつづけていた想いがね」
「分かってたよ。この体が教えてくれた」
「まあ、そうでしょうね。あんなに強い想いだったもの。娘との絆を取り戻したいという想い」
「モーナの仕事は、人の願いを叶えることだったよな」
「そうよ」
「それって、小田島純一のものだったんだね」
「正解よ。三分の一ね」
「三分の一?」
「そう。小田島純一の願いと、その子の願い。そしてあんたの願いよ」
「三人分?」
「滅多にあることじゃないわ。一度に三人の願いがうまくかち合うなんて。あんたはカッコいい男になりたかった。この娘は優しい父親が欲しかった。小田島純一は娘との絆を取り戻したかった」
「まさか……それでぼくと小田島純一を殺したのか?」
「冗談。それは、ラミルスの仕事だよ。小田島もあんたも死ぬ運命だったってことよ。ただ、あたしがうまいこと組み合わせて、それぞれの願いを叶えてあげたってだけさ」
「そうかな? 真穂の願いは優しい父を望んだことだよ。ぼくは彼女の父じゃない」
「わかりゃしないわよ。知ってるのはあたしとあんただけ」
「いい加減だな。このまま、だまし続けるのか? ぼくは嫌だね」
「どうぞ、ご自由に。もう、小田島純一の魂はその体に残ってないわ。その子を見ても胸が痛くなることはないよ。でもね、あんたは真実を語ることはないね。賭けてもいい。あんたは、もうその子の父親なんだよ」
「計算づくかい?」
「そう言いなさんな。あんたもその体で人生を楽しみなよ。そろそろ、その子にも母親が必要だろ? あの女医さんなんかどうだい。彼女、あんたのこと気に入ってるよ」
「小田島純一をだろ」
「違うよ。あんたをだよ。あんたの心をね」
「どうかな」
「まあ、信じなくてもいいさ。さあ、アフターケアは終わり。もう行くよ。たぶん、二度と会わないね」
「モーナ」
「なんだい?」
「その……なんとなく不本意だけど、礼を言うべきなんだろうな」
「どっちでもいいさ」
モーナは消えた。
「うん……」
真穂が目を開けた。
「あ……あたし、寝ちゃったんだ」
「このまま、一緒に眠ろうか?」
「うん」
「なあ、真穂」
「なに?」
「今度、ディズニーランドに行こうよ。スペースマウンテンに乗ってみたいな」
「パパ、子供みたい」
「ダメかい?」
「ううん。ミッキーのぬいぐるみ買って」
「真穂こそ子供みたいだな」
ぼくは笑った。でもたぶん、真穂は本当に子供なのだ。ぼくの。
そうだ。ディズニーランドには、志津子先生も誘ってみよう。ぼくはそう思いながら目を閉じた。
明日はきっといいことがある……そんな気がした。
終わり。