1
七十八年。
われながらよく生きてきたもんじゃ。運も良かった。そもそも、あの戦争で特攻隊になったとき死ぬはずだったのじゃから。
だが、本当の戦いは戦争を生き抜いたあとじゃった。焼け野原になった東京で、女房とふたり、身を粉にして働いた。若気の至りで、五人も子供をつくったものだから生活は決して楽ではなかった。もっとも、あの頃の日本人は、みな同じじゃが。
昭和三十五年ごろじゃったろうか。高度成長時代の兆しが見え始めた。それから数年。世は好景気に沸き、わしの工場もしっかりと時代の流れに乗ることができた。いつしかわしの会社も有限会社から株式会社になり従業員も増えていった。
まあ、大金持ちになったわけじゃないが、憧れのジャガーを買えたし(わしはイギリスが好きじゃ。文句あるか?)、女房と年に一回ぐらいは海外旅行にも行けるようになった。そんなこんなで、今では、長男に会社を譲り、ほかの子供たちもりっぱに社会の一員として生活している。
七十八年。
本当によく生きた。女房は、二年前、わしを置いてさっさと逝ってしまったが、まあいい。どのみち、近いうちに会えそうじゃ。
そう。わしは今、病院のベッドに横たわっている。子供たちはなにも話てくれんが、どうやら癌らしい。もちろん、死ぬのは愉快ではないし、老衰で死ねんのも残念じゃ。じゃが、総じて悔いのない人生じゃった。
とはいえ……どうしても心配なことがあるのじゃよ。
孫のことじゃ。名を翔太という。
末の娘の子供。今年、高校に入学したばかりの、たぶん(息子どもが、どこかで間違いをせなんだら)わしの最後の孫じゃ。
翔太もわしの血を引いている以上、根性とガッツが秘められているはず。ところが、どうしたことか翔太には覇気がない。よく言えば文学少年じゃが、わしには気弱で頼りない少年にしか見えん。いやいや、なにも肉体のたくましさを言っておるのではない。肝心なのは精神の強さじゃ。
翔太は、わしが入院してから何度か見舞いに来てくれた。じゃが、病室の隅でモジモジしておるだけで話しかけてこようとはせんかった。わしはそんな翔太を見ると、ついイライラして睨みつけてしまうんじゃ。すると、逃げるように帰ってしまう。
心配じゃ。
もう少し早く、なんとかしておくんじゃった。とはいえ、翔太の両親の教育方針もある。いくら祖父とはいえ、わしが勝手に翔太に活を入れるわけにもいかん。
わしだって、ガラにもなく娘夫婦に気を使っておったんじゃ。今では、それが間違いだったと反省しておる。まったく、弁護士の夫婦なんてろくなもんじゃない。自分の子供の面倒もみれんのじゃからな。
むう。もそっとわしが若くて、こんなベッドに寝ておらなんだら、男の生き方を教えてやれるのにのう。困ったのう。未練じゃのう。死んでも死にきれんとはこのことじゃ。こうなったら、死んだあと、翔太の枕元にでも立つか?
「不気味なジイさんだねえ」
声がした。なんじゃ? こんな夜中に看護婦か?
「な、な、なんじゃ、お主は?」
わしは目を疑った。その声の主は女じゃった。
いや、それはよい。
わしが驚いたのはその女の格好じゃ。スケスケの布きれ一枚で宙に浮かんでおる。
「あたしはアシュレモーナ」
女は答えた。
「あんたみたいなジイさんがいるから、テレビの心霊特集がなくならないんだよ」
「ほう。ということは、おぬし、お迎えか?」
「お迎え?」
「なにをとぼけておる。わしは死にかけのジジイじゃ。そんなジジイのところに、ナイスバディの若い娘が来るわけなかろう。しかも、ヘアヌード写真集顔負けの姿でのう。まったく、ええ乳しとるな」
「スケベなジイさんだね。そこまで露骨に言った人間はいないよ」
「ほっとけ。わしは男性ホルモンの分泌が人より多いんじゃ。よく、キャバレーのマッチを女房に見つけられて……こりゃ、なにを言わせるんじゃ、こんな年寄りに」
「あんた、ホントに病気?」
「そりゃ、こっちが聞きたいわい。そんで、アシュなんとかさんや。あんた、いったい何者じゃ?」
「アシュレモーナ。モーナでいいよ。あたしは、あんたの願いを叶えにきたのさ」
「はあ? モーナさんや。わしゃ、自慢じゃないが頭の方はあまりよい方ではないんでな。もそっと分かりやすく説明してくれんかの」
「願いを叶えてあげるっていってるんだよ。これ以上、簡単な説明はないと思うけどねえ」
「わしゃ、簡単に説明しろとはいっとらん。分かりやすく説明しろといっとるんじゃ」
「ああ、そういうことね。あたしは人の願いを叶えるのが仕事なのさ。人間はあたしのことを女神とか天使とかいろいろ言うけど、そんなことはどうでもいい。あたしの仕事は人間の願いを叶えること。これだけ理解してくれりゃいいのさ。そんで、あんたがうわごとのように孫がどうのこうのっていう願をかけてたからあたしが来たってわけ」
「つまりなにか。わしの願いが天に届いたと」
「まあ、そんなとこ」
「ひゃあ、ラッキーじゃな! わしゃ、福引でちり紙しか当たったことがないというのにのう」
「さしずめ、運をため込んでたんだろ」
「そんなもんかい、モーナさんや」
「そんなもんだよ、ジイさんや。やだ、口調がうつっちゃったよ」
「バカなこといっとらんで、早くわしの願いを叶えてくれ」
「だったら、早く言いなよ」
「うむ。一回でいいから、金髪のお姉ちゃんとデートしてみたいのう。できればイギリス娘がいいぞい」
「こら、ジジイ! 孫はどうしたのさ、孫は!」
「なに? まさか、願いは一回こっきりかい?」
「当たり前だろ!」
「なんじゃ。それを先にいわんかい。そんじゃ言うぞ。わしの願いは、孫の翔太がたくましい青年に育ってくれることじゃ」
「OK。では、その願いを叶えてあげるよ。あんたの孫は、一年もすればたくましい肉体を持った青年になるよ。安心して往生するんだね」
「なんじゃ、それは? まさか魔法か?」
「まあね」
「ドーピングじゃな。そんなのわしは願っておらん」
「じゃあ、どうしろっていうの?」
「つまりじゃな。魔法なんぞで筋肉むきむきに変わっても、なんら解決にはならん。肝心なのは精神の強さじゃ」
「あたしにぬかりはないよ。それも面倒みよう」
「ううむ。じゃがのう……なんか気にくわん」
「なにが?」
「心も体も、自分自身の力で強くせにゃいかん。魔法なんて、クスリと一緒じゃ」
「へえ、いいこというね。でも、あたしにできるのは魔法をかけることだけさ」
「むう。困ったのう」
「困っちゃうのはあたしだよ。願いを叶えないと帰れないんだ。いいかげん納得しなよジイさん」
「待てよ。考えてみれば、なにも翔太に魔法をかける必要などないぞ。よしゃ。願いごと変更じゃ。わしを若返らせてくれ」
「はあ?」
「つまりじゃな。わしはおまえさんが現れる前、自分がもそっと若ければ、翔太に男の生き方を教えてやれるのにと、思っておったんじゃ。ずばり、わしが若返ればそれで問題解決じゃ」
「う~ん」
「なんじゃ。うなっとらんで、早くわしを若返えらさんか」
「ジイさん。その願いは問題があるよ」
「どこがじゃ?」
「人間の寿命はラミルスの仕事だよ。そいつはあたしの管轄じゃないんだ」
「ラミルス? 誰じゃそりゃあ」
「ラミルスはラミルスだよ。あたしは謙虚な性格だから正直に言うけど、あんたの寿命を伸ばすことだけはできない」
「そういうのは謙虚とはいわん。しみったれというんじゃ」
「う、うるさいね。とにかくホントのことなんだよ。あたしは人間の寿命に手は出せない」
「困った女神さんじゃのう。待てよ……寿命に手が出せなくても、その範囲内でならいいんじゃな」
「まあ、そうだけど、許可がいるんだよ」
「許可? なんか役所みたいじゃな。ところで、わしの寿命はあとどのくらいじゃ?」
「よく知らないけど、半年ってところじゃない?」
「ひゃあ、時間がないのう。でも、このさい贅沢はいえん。半年だけでもいいからわしを若返らせてくれ」
「ちょっと待った。いっとくけど、若返りにはすごい体力を使うんだよ。ハッキリ言って寿命が縮むほどにね」
「なんじゃと? あと半年しか生きられん寿命が縮まったら、どうなるんじゃ?」
「二週間ぐらいかな。つまり、残りの寿命は十二分の一になる」
「げげっ。足下みるのう。えげつない金貸しみたいじゃ」
「しょうがないだろ。事実なんだから」
「わかった。わしも男じゃ。その条件をのもう。二週間でいいからわしを若返らせろ」
「う~ん……難しいのはこれからさ。さっきも言ったとおり寿命はあたしの管轄じゃないんでね。寿命を延ばすのも縮めるのもあたしの一存じゃできないんだよ」
「それなら、所轄のお役所に許可を求めたらよかろう。さっさとせい」
「はいはい。でもね、あんまり期待して欲しくないね」
「なんでじゃ?」
「じつは、あたしとラミルスって仲が良くないんだよ。あたしはなんとも思ってないけど、ラミルスのヤツ、なんかあたしを毛嫌いしててさ」
「そんなこと、わしの知ったことか。さっさと連絡せんか」
「はいはい。なんだか、ホントに市役所の受け付けになった気分だよ」
モーナはなにもない空間から携帯電話を取り出した。ハイカラな女神じゃな。
「あっ、ラミルスかい。なに、寝てた? あんたいつも寝てるね。まあいいや。じつはちょっと頼みがあってさ。なに? あんたには協力しない? そういいなさんな。しつこい女は嫌われるよ。今さ、的場源一郎ってジイさんのところにいるんだけど、このジイさんを若返らせたいんだよ。そうすると寿命が二週間になっちゃうけど、そっちでうまく書類を書き変えてくれないかなァ。なんて思ったんだけど、ダメだよね。え? いいの? ホントに? あんたあたしの頼みを聞いてくれるのかい? ああ、そう。うん、ありがと。一応、恩にきるよ」
モーナは電話を切った。
「なんじゃ、どうなった?」
「あんたを若返らせてもいいってさ」
「ほれみろ。なんでも聞いてみにゃあ、わからんもんじゃ」
「う~ん。なんか嫌な予感がするね。ラミルスがあたしの頼みを聞くなんて、絶対おかしいよ。計略の臭いがするねえ」
「だから、そんなことわしには関係ないといっておろうが。早くわしを若返らさんか」
「わかったよ。でも、どうなったって知らないからね。アフターサービスは無しだよ」
「そりゃひどい女神じゃなァ」
とたん。わしはまぶしい光に包まれた。
「はい、終わり。へえ、ジイさん、若いころはけっこうハンサムじゃないか」
「ん? わしは……」
わしは、自分の腕を見た。なんとしわが消えている。もちろん、茶色く浮き出た斑点もすべて消えていた。そして、鉛を背負っていたように重かった体が、羽のように軽い。
「鏡! 鏡はどこじゃ!」
「はいよ。よくごらん」
わしはモーナが出した鏡を奪うと、食い入るように自分の顔を見つめた。
「な、なんじゃこりゃ! わしゃいくつになったんじゃ!」
「十六ってとこかな」
「子供じゃないか! もそっと大人の体にせんか、バカタレ!」
「うるさいねえ。体つきは大人なんだからいいじゃないか。それに、孫と年齢が近い方がいいだろ? じゃ、がんばるんだね。バイバイ!」
モーナは消えた。ポワンと。
「こりゃ! 戻ってこんか!」
病室は静まり返った。
「まいったぞ、こりゃ……」
わしは頭を抱えた。
十代だって! 酒も飲めなきゃ、タバコも吸えんではないか。いや、そんなこたあ、どうでもいい。とにかく、こんな子供の体では……
待てよ。なにか不都合があるか? べつに就職活動をするわけでもなし。考えてみればモーナの言うとおり、翔太と同じぐらいの年齢が都合がいいかもしれんな。ものごとはポジティブに考えなきゃいかん。
さて。
そうは言ったものの、これからどうするか。まず、この忌まわしい点滴のチューブを外すかのう。
ブチッ! 痛てて。
次ぎに着る物じゃな。病院の浴衣みたいなのじゃ表にもでれん。着る物、着る物……
ないな。だいたい、死にかけたジジイの病室にスーツがあるわきゃない。ちと、気はとがめるが、医者のコインロッカーから拝借するかのう。おっと、その前に。遺言を残しておくかの。急にいなくなったらみなびっくりするからのう。
ペンはと。あった。でも、メモ用紙がないのう。まあいいか、この饅頭のフタに書いていこう。
前略。
わしの子供のみなさまへ。
みな、よく聞け。いや、よく読め。わしは旅に出る。探してはいかんぞ。なに、心配するな。老い先短いジジイじゃ。どこでのたれ死んでも変わりゃせん。
わしは猫か! って、自分でボケてつっこんでりゃ世話ないのう。
まあいい。とにかく、わしは旅に出るのじゃ。ちなみに、病院の関係者にわしが消えた責任を追及してはならんぞ。わしは勝手に出ていくのじゃ。ガタガタ騒いで、的場家の家名に泥を塗ってはいかん。警察に捜索願を出すなどもってのほかじゃ。慌てず騒がず、笑って別れるのじゃ。
さて、わしの遺産じゃが。かねてよりの取り決めどおり、兄妹で均等に分けるように。長男じゃから末っ子じゃからと、めんどくさいことは抜きじゃ。じゃが、わしとバアさんの面倒を見てくれた長男夫婦には、特別に会社の株式をすべて譲る。あとは均等じゃ。よいな、しかと言い渡したぞ。
それと、年に一度、墓参りだけは欠かさぬように。なに? わしがいなくなって、骨がない? 細かいこと言うな。お盆には帰るから骨なんぞなくてもいいんじゃ。
と、いうわけでさらばじゃ。みな風邪ひくんじゃないぞ。お腹を冷やすんではないぞ。それから、歯はちゃんと磨くんじゃぞ。まだわからんじゃろうが、入れ歯は辛いぞ。
まあ、言いたいことは山ほどあるが、とにかく、みな元気でな!
うむ。これでよかろう。さて、急がねば。わしには二週間しか時間がないんじゃ。
2
と、いうわけで、わしは長男の家の前にいる。時間は昼前の十一時。けっきょく、きのうの晩は公園で夜をあかしたのじゃ。だって、金がないからしかたない(いやはや、今が夏でよかったのう)。それにしても、この医者から拝借した服はサイズが合わなくてどうも具合が悪い。
そこでじゃ。
今から、自分の家に忍び込むのじゃ。今の時間なら美奈子さん(長男の嫁)も婦人会の会合に出ていて誰もいないはずじゃ。かって知ったる息子の家。(もともとはわしの家じゃ!)バアさんが元気なころから、台所の窓の鍵が壊れとるのは家族だけの秘密じゃ。
カラカラカラ。
ほれ。案の定、窓はすんなり開いた。ハハハ、この家に忍び込むなんぞわけもないわい。
ん? それってマズイんじゃないかい? まあいい、今は好都合じゃ。
さてと、まずは服じゃな。それから銀行のカードじゃ。
「まったく、親父ってヤツは!」
ギクッ!
息子の怒鳴り声が聞こえた。
「昔から人の迷惑というものを、まったく考えてない!」
「あなた。そんなに怒鳴らないで」
「うう……すまん。だが、あんな体でどこに行くっていうんだ。心当たりはすべて連絡したし、もう万事休すだよ」
「お父さんにはお父さんのお考えがあるんでしょ」
ひゃあ、マズイのう。考えてみれば、わしはきのうの晩から病院を抜け出ていたんじゃ。家族に連絡があって当たり前じゃな。空き巣狙いが、とんだことになったわい。
「美奈子。もう一度、近所を探してみよう。遺言にあったとおり、ホントにのたれ死んでいるかも知れないからな。その辺のドブにでも頭をつっこんで死んでなきゃいいが」
なんちゅうことを。わしゃ、そんなマヌケではないわい。
「あなた。縁起でもないこと言わないで」
「いいや、わからんぞ。だいたい、遺言が饅頭のフタに書いてあったんだ。オレはもう、なにが起こっても驚かないぞ」
ほう。自分の父親が高校生になっていても驚かんかね?
「とにかく、もう一度、探してみましょう。三丁目の節子お婆さんのところに顔を出すかも知れないしね」
ふん。あんな性悪ババアのところなんぞ誰が行くか。
「よし。行こう」
長男夫婦は出ていった。ラッキー。わしって運がいいわ、ホント。
さて、服じゃ。
ええと、どれもジジ臭いのう。って、わしゃジジイだからしかたないか。
あれ? どれもサイズが小さいぞ!
まさか……わしって縮んでた?
いやあ、歳はとりたくないのう。しょうがない、息子の服を借りるとするか。どうもヤツはセンスが悪くて気がのらんが。うん、取りあえず、このポロシャツとスラックスにサマージャケットを借りとくか。息子にしてはマシな服じゃな。
つぎに銀行のカード。これは問題なし。わしの部屋の引き出しにちゃんと入っておった。そんじゃあ、泥棒の真似事は終わりじゃ。
おっと、一応、借用書を書いておくかの。
息子よ。おまえたちのいない間に、服を借りるぞ。ついでに、銀行のカードを持っていくが、これはわしの金じゃ。くれぐれも警察に届けたりせんように。さらについでと言ってはなんじゃが、わしゃ、節子ババアが嫌いじゃ。
ああ、それからな。いいかげん、台所の窓の鍵を直せよ。
では、さらばじゃ。
これでよしと。むふふ。やつら、帰ってきてから腰ぬかすぞ。
わしは外に出た。さっそく金を引き出そう。取りあえず、今時の服も買わんといかんし、2~3百万も降ろしておくかの。まあ、わずか二週間の生活には多すぎる金額じゃが、どうせ、あの世には金を持っていけんのじゃ。せいぜい使うとするかの。
どれ、渋谷にでも繰り出すか!
3
渋谷に行ったのは失敗じゃったな。あんな街、わしゃよう歩かんわい。なにがスペイン坂じゃ。バカ面のガキばっか歩いておって、胸がむかつくわい。でも、このヒザが破れたジーンズと変な柄のTシャツは気に入ったぞ。
さて。
本来の目的を忘れてはいかん。わしの目的は翔太に男の生き方を教えることじゃ。さっそく始めよう。
わしは、マンションの前の公園で、翔太の帰りを待っていた。このマンションの五階が翔太たちの家じゃ。学校から帰ってくるとき、この公園を通るはずなのじゃよ。
おっ、帰って来た。
「翔太!」
わしは声をかけた。翔太は、辺りを見回している。
「ここじゃよ、翔太」
わしは駆け寄った。
「あ、あの……きみ誰?」
翔太はわしを見て首を傾げた。
「こりゃ。わしを見て分からんか?」
「ご、ごめんなさい……あの、きみのこと覚えていないんだけど……」
翔太は、そう言ってポケットから財布を出した。
「今日は、千円しかないんだ。これで許して下さい」
「なに?」
わしは目が点になった。
「まさか……おまえ、かつ上げにあってるのか?」
翔太は、わしの質問に当惑していた。どう答えていいのか、わからない様子じゃ。
「なんということじゃ! これが的場家の血を引いた男か!」
わしは怒鳴ってしまった。情けないやら切ないやらで、つい。
翔太は、腰が抜けそうになった。
「ご、ごめんなさい。あ、明日はもっと持ってくるから」
「バカモン! かつ上げなんぞにあってどうする! 男ならもっとしゃきっとせんか、しゃきっと!」
「あ、あの……はい、ごめんなさい。もう家に帰ってもいいですか?」
わしはタメ息をついた。ダメだこりゃ。
「翔太。少し話がある。ちょっとつき合え」
「で、でも、塾があるし……」
「つき合え!」
「は、はい!」
「よし。いい返事じゃ」
わしと翔太は、公園のベンチに腰を下ろした。
「翔太。よく聞け。わしは……」
待てよ。今ここで正体を明かしても翔太が信じるか? 信じないわなあ、ふつう。
うむ。ここは作戦変更じゃ。
「翔太。おまえのジイさんのこと知ってるか?」
「おじいちゃん? おじいちゃんは病院に入院しているけど」
「そうか。まだ聞かされておらんのじゃな。じつはな、おまえのジイさんは旅に出た」
「え?」
「旅じゃ。いや、勘違いするな。まだ天国にはいっとらん。わしはおまえのジイさんから翔太のことをよろしく頼むと言われておるんじゃ」
「あ、あの……意味がよく分からない」
「あー、つまりな。わしは……いや、オレは、病院でおまえのジイさんと知り合ったんじゃ、いや、知り合ったんだよ。それで、孫の話を聞かされて、いろいろ相談にのってやってくれって頼まれたんだ」
「それ、ホント?」
「本当じゃ……いや、本当だとも」
「でも、どうしておじいちゃんが、そんなこときみに頼むの? きみは誰?」
「オレは……怪我で入院してたんだ。そこで、おまえのジイさんと知り合ったのさ」
「名前はなんていうの?」
「ええと……ゲ、ゲンって言うんだ」
「ゲンくん? おじいちゃんと名前が似ているね」
「そうとも。おまえのジイさんは源一郎だろ。オレはゲンさ。名前が似てるんで気があったんだ」
「へえ。おじいちゃんらしいな」
「どうして?」
「だって、ぼくのおじいちゃん、すごく気が若いんだ。ゲンくんと気が合うなんてすごいね。でも、どうしてゲンくんはおじいちゃんの口まねをしていたの?」
「ああ、それはその……うつったんだよ、年寄り言葉が」
「ふうん」
「とにかくだ。翔太、これからはオレが男の生き方を教えてやる。これはジイさんの遺言だ」
「おじいちゃんは死んでいないよ。そういえば、さっき、旅に出たってどういうこと?」
「おまえのお袋さんに聞いてみな。連絡が入ってるはずだ。それから、オレのことは誰にも話すなよ。これもジイさんの遺言だ。いいな、翔太。約束だぞ」
「でも……」
「でもじゃない。なあ、翔太。かつ上げなんかされないようになりたくないのか?」
「そ、そりゃあ……」
「だったら、オレの言うとおりしろ。分かったな」
「うん」
「よし。第一日目はこんなもんでいいだろう。これから毎日、オレにつき合え」
「でも、塾が……」
「二週間だけだ。そうしたらオレは消える。お袋さんからジイさんのことを聞けばオレの話が嘘ではないとわかるはずだ。いいか、これは遺言だぞ。二週間ぐらい塾を休んでも罰は当たらんよ」
「おじいちゃんの遺言……ねえ、おじいちゃんは死んじゃったの?」
「だから、死んでないってば」
「でも……」
「翔太。おまえは『でも……』が多すぎる。言いたいことがあるならはっきり言え。いいか、それが人を批判する言葉でも、いや、批判する言葉こそはっきりと言いなさい」
「う、うん……」
「だから『……』もやめろって。読者が読みづらいだろうに」
「読者?」
「こっちの話だ。それより、うちに戻ってジイさんのことを聞いてこい。でもな、くれぐれもオレのことは話すなよ。明日もここで待ってるぞ」
「うん。分かった」
翔太は、足早にマンションの中に消えた。
やれやれ。素直なところは(ちと、人にダマされそうで不安だが)美点として認めよう。だが、あれじゃあどうしようもないぞ。
よっしゃ。明日からは、ビシビシいくか!
4
次の日。わしは例によって公園で待っていた。すると、息を切らしながら走ってくる翔太が見えた。
「はあ、はあ、はあ」
「翔太。なにもそんなに急ぐことはないぞ」
「ゲ、ゲンくん! おじいちゃんが、おじいちゃんが!」
「落ちつけって」
「おじいちゃんが、病院からいなくなったんだ!」
「知っとるよ」
「ねえ、ゲンくん。おじいちゃんはどこにいるの? ママに教えてあげなきゃ」
「ママ?」
「うん。ママもパパも心配してるんだ」
「バカモン! おまえ高校生にもなってお袋のことをママなんて言うな!」
「えっ、でも……」
「ほら、また『でも……』が出た」
「ごめん」
「いいか翔太よ。まずは言葉から直せ。ママのことはお袋。パパは親父だ。いいな」
「うん。分かったよ。それより、おじいちゃんはどこにいるの?」
「旅に出ている」
「どこに?」
「知らないよ」
「嘘だ。ゲンくんは知ってるよ」
「どうしてそう思う?」
「だって、そんな気がする」
「素晴らしい直感と誉めてやりたいが、知らないものは知らないんだ。悪いな」
「そんな……おじいちゃん……」
翔太は、ガクッと肩を落とした。
「翔太。おまえ、ジイさんが好きなのか?」
「うん。子供のころおじいちゃんのこと大好きだった。でも、ぼく中学に入ってからおじいちゃんとほとんど会ってないんだ。勉強が忙しかったから」
「受験か」
「うん。いい高校に入らないといい大学に入れないから」
「世知辛いのう。難儀なことじゃ」
「なんか、ゲンくんって、おじいちゃんみたいだ」
「気にするな。それより、ジイさんもおまえに会いたがっていたぞ。だから、オレにおまえのことを頼んだんだ」
「どうして、おじいちゃんは直接ぼくに会いに来てくれないの? ぼくおじいちゃんに会いたいよ」
「おいおい、翔太。そんな目でオレを見てもダメだって」
「ぼく、おじいちゃんが入院してから、何度かお見舞いに行ったんだ。でも、なにを話していいかわからなくって。おじいちゃんも入院してイライラしてるみたいだったし」
わしは胸が締め付けられた。
「ぼく、もっと、おじいちゃんと話がしたかったよ。ねえ、ゲンくん。本当におじいちゃんの居場所を知らないの?」
「し、知らん」
「そう……」
「なあ、翔太。ジイさんはそのうち戻ってくるよ。そのときまでに、もっとたくましくなってジイさんを安心させてやりなよ。ホントに、おまえのこと心配してたんだぜ」
「うん。本当にぼくに会いに来てくれる?」
「ああ。間違いない。おまえのジイさんがオレにそう約束した」
「そうか。おじいちゃんが約束したなら、絶対だね。おじいちゃんは嘘つかないもん」
「もちろんだ」
「わかったよ。ぼくもっと強くなる。でも、なにから始めたらいいの?」
「ふむ。そうだな」
しまった。なにも考えとらんかったぞ。
すると。
なんとも好都合なことに、いかにも頭の悪そうなガキが数人わしらのところに近寄ってきた。
「あっ。高梨くん……」
翔太は、少し怯えたように、その頭の悪そうなガキのひとりの名を呼んだ。
「なんだ、知り合いか翔太?」
「うん。クラスメートだけど……」
「だから、その『……』はやめんか」
「ごめん」
「おい、翔太」
高梨とかいう頭の悪そうなガキが言った。
「金出せよ」
「うん。あの……」
翔太は、わしをうかがった。
なるほど。定番じゃのう。好都合じゃ。
「翔太。ビシッと言ってやれ」
わしは言った。
「うん。あの、高梨くん。悪いけど、お金はあげられないよ」
「なに? よく聞こえなかったぞ、翔太」
高梨が聞き返した。
「だから、お金は上げられないんだ」
高梨は少し驚いたように肩をすくめた。
「翔太、おまえ、頭どうかしたんじゃないの? オレたちに金を渡さないとどうなるか忘れたわけじゃないだろ?」
これが今時のガキか。ヤクザもビックリじゃのう。
「忘れてないよ。でも、お金は上げられない」
翔太は、体の震えを懸命にこらえながら応じた。
ほうほう。最初から、なかなか見所があるじゃないか。
相手は、四人。わしがいるとは言え、こっちは二人じゃ。翔太も、穏やかにことが解決するとは思っとらんはずじゃ。なのに、がんばって突っ張っておる。
やっぱり、わしの孫じゃな。心の底に、根性がちゃんとあるわい。
「おまえはバカか」
高梨が言った。
「痛い目を見ないうちに金を出せばいいんだよ」
「い、いやだ!」
翔太は、涙目になりながら叫んだ。
「そうかい。じゃ、痛い目を見ろよ」
高梨が翔太の胸ぐらをつかむ。
「ゲ、ゲンくん」
翔太が、わしを助けを求めるような目で見た。
「翔太よ」
わしは立ち上がった。
「その高梨とかいうヤツは任せた。そのかわり、残りの三人は気にするな」
「なんだてめえ」
高梨がわしを睨む。
「おまえの相手は翔太だ。翔太と話を付けろ」
わしは、高梨以外の三人の前に立ちはだかった。
「さあて、わしの……じゃなかった。オレの相手を最初にするのは誰かな」
わしは、半分ウキウキしていた。喧嘩なんて久しぶりじゃ。街のチンピラをこてんぱんにノシてやったのは、もう、四十年以上前じゃからな。あれ以来じゃ。
「なんでもいい。やっちまえ!」
高梨が言った。
よっしゃ! そうこなくっちゃいかんぞい!
で、五分後。
わしの足下には、腹を抱えてのたうち回るガキ三人がうずくまっていた。
翔太の方は、逆に、高梨の足下に、腹を抱えてうずくまっていた。
ま、喧嘩なんて慣れじゃ。翔太にはまだ無理じゃろうて。
「てめえ、よくもやりやがったな!」
高梨がわしに向かってきた。
ところが、その高梨は、スッテンコロリンと転んだ。翔太が、高梨の足首をつかんだからじゃ。
「翔太、てめえ!」
高梨が、翔太を蹴り上げようとする。
おっと、こりゃいかん。
ケンカにもルールがあるのじゃ。相手を殺すような技は使っちゃいかん。
わしは、蹴りを入れようとしている高梨の肩をむんずとつかんだ。
「そこまでやってはいかんのう」
「うるせえ!」
わしは、高梨のみぞおちにパンチを入れた。
「うっ!」
うずくまる高梨。
「ふん。殴るのには慣れていても、殴られたことはないようじゃな」
「うううう」
「少しは人の痛みを知らんか、バカ者」
ビターン!
わしは、高梨のほっぺたに、思いっきりビンタをくれてやった。
「うっ。うわーん!」
高梨は、急に泣き出した。
やれやれ……しょせんは、ガキか。
「翔太。大丈夫か?」
わしは翔太に言った。
「うん」
翔太は立ち上がった。口が切れて、血が出ている。
「ゲンくん。ぼく、負けなかったよ」
「よくやった。ほれ、よく見てみい。このバカどもを」
翔太とわしは、まだ泣き止まない高梨と連れの三人を見おろした。
「なんだか、可哀想だね」
「おまえは、とことんお人好しじゃなァ。まあ、そこがいいところか」
「そうかな?」
「まあいい」
わしは、高梨が泣き止むのを待って、たっぷりと、この頭の悪そうな四人組にお説教をしてやった。
説教が終わると、翔太がしみじみ言った。
「ゲンくんって。なんだか本当におじいちゃんみたいだ」
「バ、バカ。わしゃ……オレはまだ十六だぞ。ジジイと一緒にするな」
「アハハ。ごめん」
翔太の声はさわやかだった。
初めて、自分の意志で不良グループに対抗して、負けなかったのだ。きっと、翔太の心の中でなにかが変わったのじゃろう。この年齢の子供は、成長が早いのじゃ。
「よっしゃ!」
わしは言った。
「みんなでラーメンでも食いに行くか」
「うん。いいね!」
翔太も賛成した。
その後、わしと翔太は、不良グループを連れて、ラーメンを食いに言った。
ま、しょせん、ガキ。こんなもんじゃろ。
5
わしが若返ったのは大成功じゃった。二週間なんて短すぎると思っておったが、実際はちょうどよかったのかもしれんのう。
わしは残された日々、翔太と毎日会った。
なにより、翔太とゆっくり話ができるのがうれしい。翔太は、学校のことや、両親のこと。そして、わしとの思い出など、いろいろ話してくれた。
孫との語らいとはいいもんじゃ。
そして、翔太と話していると、この子が真面目でまっすぐな性格に育っているのがひしひし伝わってきて、それが、なによりうれしい。
どうやら、娘夫婦の教育方針もまんざらじゃないようじゃ。わしなんかより、ずっと娘夫婦の方がしっかりしておったかもしれんのう。
なんか、安心して往生できるような気がしてきたぞい。
そんなこんなで、わしの寿命もあと一日を残すのみとなった。あっという間の二週間じゃったな。
ところが。
「どうしたんだ翔太。なんか落ち込んでるみたいだぞ」
「そうかな?」
「隠すなよ」
「うん。ちょっと気になることがあってさ」
「学校でなにかあったのか?」
「あったというか、なかったというか」
「はっきり言えよ」
「うん。向井さんのことでちょっと」
「向井? 何者だ。またチンピラか?」
「ち、違うよ。向井さんはそんな子じゃない」
「まさか、女の子か?」
「うん」
「ほうほうほう。それはそれはそれは」
「なんだよ、ゲンくん」
「おまえのこれだろ?」
わしは、小指を一本立てて見せた。
「それってどういう意味?」
翔太は首を傾げた。
これだからガキは……って、別にわしが変なことを教える必要もないか。
「まあ、気にするな。それで、向井って子はおまえのガールフレンドか?」
「違うよ!」
翔太は、とたんに赤面して叫んだ。
正直なヤツ。
「ふむ。つまり、おまえが好意を寄せてはいるが、いまだ、願いかなわずって女の子なわけだな。ぶっちゃけて言えば、片思いか?」
「なんか、ゲンくんに話したくなくなってきた」
「ハハハ。悪かった。茶化さないから話せよ」
「うん。じつは……向井さん、もしかしたら退学になるかもしれないんだ」
「退学? 穏やかじゃねえな。なんでそんなことになったんだ」
「わかんないよ。ただ、向井さん、きのうから学校休んでて、今日、クラスのみんながそんな噂をしてたから」
「ふうん。どんな噂だ?」
「それが……変な噂だよ」
「聞かせろよ」
「向井さん、悪い大学生とつき合ってて、変なクスリをやったとかやらないとか」
「ガキがクスリかい。驚いたね」
「だから噂だってば。ぼくは、向井さんがそんな子だとは思えないよ。少し変わってはいるけど」
「変わってるって、どういう風に?」
「その……言葉遣いが男っぽいとか、ケンカが強いとか」
「それって、ヤンキーってヤツか」
「なにそれ?」
「いや。知らないならいい。それにしても、翔太って変わった趣味してるな」
「どうして?」
「いや。うむ。そうじゃな。ううむ」
わしはうなった。どうやら、わしの理解を少し越えた話のようじゃ。翔太がヤンキーの女に惚れるとは、なんともかんとも。我が孫ながら、今の子はよくわからんぞい。
「なあ、翔太。そんな女のどこがいいんだ?」
「ゲンくん。向井さんを知らないからだよ。向井さん、すっごくいい子だよ。ぼくは知ってる」
「どう、知ってるんだ?」
「彼女、すごい友達思いなんだよ。よく放課後なんか、相談に乗ってあげてるところを見たことがあるんだ」
「そりゃ、ヤンキー仲間の集会……いや、なんでもない。翔太がそう言うならそうなんだろう」
「うん。そうだよ」
「そうか」
わしはうなづいた。
考えてみれば、外見や言葉遣いでその子供の人格を疑うのは大人の悪い癖じゃ。きっと、翔太には、向井って子の本当の良さがわかっておるのだろう。
ここは翔太の女を見る目を信じよう。
「よし、事情はあいわかった。じゃ、その噂ってヤツを確かめにいこう」
「えっ、どうやって?」
「当事者に直接聞けばいいじゃないか」
「当事者って、まさか向井さん?」
「他に誰がいる。行くぞ、翔太」
「ま、待ってよ、そんな急に」
「住所を知らんのか?」
「知ってるけど……」
「なら問題なし。時間がないからさっさと行くぞ!」
「時間がないってどういうこと?」
「こっちのことだ。さあ、立てよ」
わしは、翔太の手を取って、強引に立たせたのじゃった。
ま、時間がないのはホントじゃが、最後の日に、翔太の惚れた女を見られるってのも悪くはないのう。
向井圭子の家は、翔太のマンションと同じ町内にあった。こっちは一軒家じゃ。ふうむ。ヤンキーの娘がいる割に立派な家じゃな。
いかん、いかん。また偏見を持って見てしまった。大人の悪いところじゃ。
「本当に行くの?」
翔太が、玄関の前でわしに聞いた。
「今さらなんだ。ほれ、インターフォンを押してやる」
「あっ、まだ心の準備が!」
ピンポーン。
わしは、翔太を無視してインターフォンを押した。
やや間があってから、インターフォンから女の声が聞こえる。
〈はい。どちら様でしょうか〉
わしは、翔太の脇腹をつついた。
「あのあの。ぼく、向井さんのクラスメートで、下山って言います」
翔太が答える。
〈まあ! ちょっとお待ち下さい〉
ドアが開く。
「いらっしゃい」
向井圭子の母らしい女性が、わしらを迎えた。
おほっ。いい女じゃ。歳のころは、四十代の半ばかのう。言っておくが、わしゃ今年七十八じゃ。わしから見れば、四十代の半ばなんて、ピチピチギャルじゃぞ。
「あ、あの。初めまして。ぼく、下山翔太です」
翔太が、緊張しながらピチピチギャル……じゃなくて、向井圭子の母親に答えた。
「あなたが下山くんね。圭子から、話をきいたことがあるわ」
「向井さんが?」
「ええ。クラスに変わった子がいるって」
「変わった子?」
わしと翔太は顔を見合わせた。
「あら、ごめんなさい。変な意味じゃないの」
「いえ、いいんです。あの、それで、向井さんお元気ですか?」
と、翔太。
なんか、マヌケな聞き方じゃのう。
「ええ。元気は元気なのですけど……」
母親の顔色が少し曇った。そして、真剣な眼差しで言う。
「下山くん。よかったら、圭子と話をして上げてくれないかしら?」
「いいんですか!」
思わずうれしそうに答える翔太。まったく正直なヤツじゃ。
「ふふ。もちろんよ。ホントに、圭子が言っていた通りの子ね。さあ、どうぞ。上がって下さいな」
「はい。おじゃまします」
わしらは、向井圭子の家に上がった。圭子の部屋は二階らしい。
母親が先に階段を上る。
おほっ。いいお尻じゃのう。とても、子供を生んだとは思えんぞい。
じゅる。
「ゲンくん」
翔太がわしにささやいた。
「ヨダレが出てるよ。どうしたの?」
「うっ……なんでもない」
ヤバイ、ヤバイ。わしゃ、根っからのスケベじゃ。バアさんや、許せ。
コンコン。
母親が、向井圭子の部屋をノックした。
「圭子。お友達が来てくれたわよ」
〈友達?〉
部屋の中から、圭子の声が聞こえた。
「ええ。下山くんよ。上がってもらったけど、開けていい?」
〈下山? 下山がなんでうちに来るんだよ〉
「自分で聞いてごらんなさい。開けるわよ」
母親はドアを開けた。
「どうぞ。今、お茶を持ってくるわね」
母親はにっこりと言った。
「あの。どうぞお構いなく」
翔太はペコッと頭を下げて、圭子の部屋に入った。
わしもあとに続く。
ほう。まあ、女の子の部屋じゃな。部屋中ピンクってわけじゃないが、ぬいぐるみなんか置いてある。ま、いわゆるガキの部屋じゃ。
「こ、こんにちは、向井さん」
翔太は緊張しながら言った。
「まあ、座りなよ」
と、圭子。
「うん」
翔太とわしは、ちゃぶ台(色はお洒落じゃが)みたいなテーブルの前に座った。圭子も、ややめんどくさそうに、翔太の前に座る。
「誰?」
圭子は、アゴでわしを示しながら聞いた。
「うん。ゲンくんって言うんだ。ぼくの友達」
「ゲンだ。よろしくな」
「ふうん。兄弟かと思った」
圭子が言う。
「えっ。そうかな?」
翔太が、今ごろ気づいたようにわしの顔を見た。
「ああ、目元なんかよく似てるよ。ホントに他人?」
と、圭子。
「ワハハ。気のせいじゃ。わしら……オレたちは正真正銘の他人だよ。それより、さっさと話を進めようぜ」
「う、うん。そうだね」
「話ってなんだい」
「うん。あの……なんだっけ?」
ガクッ。
わしと圭子は思わずズッコケた。
コンコン。ノックの音。
「お待たせ。お茶が入ったわよ」
母親が、紅茶とクッキーを持って入ってきた。定番じゃなァ。
「ごゆっくり」
そう言って、母親は出ていった。
さて。本番じゃ。
わしは緊張しながら紅茶をすする翔太をつついた。
「翔太。さっさと聞けよ」
「う、うん。あの、向井さん。お母さんにぼくの話をしたの?」
ガクッ。なんか聞くことが違うぞ。
「そんなこと聞きに来たのか?」
「違うけど、さっきお母さんがそう言ってたから」
「話したよ。うちのクラスに、バカ正直で情けないヤツがいるって」
「ハハ。やっぱり」
翔太は、笑って答えた。なんか、ホントに情けないぞい。
それにしても、圭子の言葉遣いもすごいモノがあるが、意外と、圭子も翔太のことを好きなのかもしれんのう。なんか、そんな気がするぞい。
「なあ、下山。話があるんだろ」
圭子がイライラしたように言った。
「うん。じゃあ聞くね。でも、気を悪くしないで欲しいんだけど」
「早く言いなよ」
「クラスで、変な噂が立ってるんだ。向井さんが、悪い大学生とつき合ってて、その大学生と悪いことをしたとかしないとか……」
「悪いことってなんだよ」
「あの……それは……」
「クスリじゃ」
モジモジとらちの明かない翔太に代わって、わしが言ってやった。
「ふん。やっぱりそんなことだろうと思った」
圭子は鼻を鳴らした。
「それで、下山は噂を確かめに来たのかよ?」
「うん」
「ふうん。確かめてどうするつもりなんだ?」
「正直に言うと、ぼくは向井さんがそんなことする子じゃないって思ってるんだ。だから、できたらそんな噂を否定したくって」
「あたしを信じるって言うのかい?」
「うん。ねえ、向井さん。このままじゃ、ホントに退学になっちゃうよ。ぼくそんなのイヤだよ」
「どうして、下山がイヤなんだよ。これはあたしの問題だろ」
「でも、だって、せっかくクラスメートになったんだから、一緒に卒業したいよ」
翔太の声には、だんだんと熱がこもってきた。マジで惚れてるな。
「おまえって、ホントに変なヤツだな。どうして、あたしに関わるんだ?」
「そ、それは……」
「それは?」
わしと圭子は、思わずハモりながら聞き返した。
「ど、同級生だからに決まってるじゃないか!」
翔太は、顔を真っ赤にしながら答える。
「おいおい、翔太」
わしは思わず言った。
「おまえ、いまどきそんな理由が通用すると思ってるのか? ぼくは、圭子が好きだってハッキリいったらどうだ」
とたん。翔太の顔が耳まで真っ赤になった。
圭子も、驚いたように翔太を見つめたあと、頬をピンクに染めて顔をそらせた。
ワハハハ。ガキは可愛いのう!
「ゲ、ゲンくん! どうして、そんなこと言っちゃうんだよ!」
翔太がわしを睨む。
「ハハハ。おまえ、今の言い方は、肯定してるようなもんだぞ」
「うっ……」
思わず、ノドを詰まらせる翔太。
圭子は、ピンクに染めた顔を、さらに赤くしてうつむいた。どうやら、いい感じで話が進められそうじゃな。
「と、言うわけで圭子くん」
わしは圭子に言った。
「翔太は、おまえさんの力になりたいわけじゃ。この、バカ正直で情けない男を信じて、真相を語ってみたらどうかね?」
「でもさ……」
圭子は、うつむきながらぼそっと言った。
「でもなんじゃ。このさい、全部話してしまった方が気が楽になるぞ」
「でも……下山には関係ないことだから」
「か、関係なくないよ!」
翔太が言う。
「ぼく、向井さんの力になるから。話してよ!」
「誰にも言わない?」
「言わない」
「約束する?」
「約束する」
翔太は真剣な顔で言った。
「うん。あたし、下山を信じるよ」
「よかった。話してくれるんだね」
「実は……あたしの中学時代のダチで、今、S女に通ってる奴がいるんだ」
「S女ってなんじゃ?」
わしは聞いた。
「S大付属女子校だよ。知らないの?」
「ああ、あそこか」
S大付属女子校といえば、確か、翔太と圭子が通う高校よりレベルが高いはずじゃ。
「そのダチがさ。ウリやってるんだ」
圭子が続ける。
「ウリ?」
翔太が首を傾げる。
「売春じゃ」
わしが答えてやった。
「バ……バイシュン!」
「こら、下山! 声が大きい!」
「あっ。ごめん」
やれやれ。翔太の免疫のなさにも困ったもんじゃ。圭子の免疫ありすぎも困ったもんじゃがな。
「最近じゃ、援助交際っていうんじゃないのかい」
わしが圭子の先を促した。
「うん。そういう子もいる。でも、ダチはホントのウリなんだ。バックもついてる」
「バック?」
またぞろ首を傾げる翔太。
「ヤクザじゃよ」
わしが答えてやった。
「ヤ、ヤクザ!」
「声が大きいってば!」
「あっ。ごめん」
「それで、そのウリの子がどうしたわけじゃ?」
わしが聞く。
「なんでもいいけど、あんたジイさんみたいな話し方をするんだな」
「気にするな。先を話せ」
「うん。あたしさ、ダチにウリをやめさせようと思って、いつもたまってる場所に話をしに行ったんだ」
「たまってる場所って、どこ?」
翔太が聞く。
「六本木のディスコだよ。下山、行ったことないか? アリアンって店だけど」
「ないよ。ディスコなんて」
「そうなんだ。あたしはたまに行くよ」
「面白いの?」
「別に」
圭子は肩をすくめた。
「デスコの話なんてどうでもいい」
わしは二人の会話に割って入った。
「それより、そのデスコに行ってどうしたんじゃ?」
「ああ。そうだったね。とにかく、ダチと話がしたくて、行ってみたわけさ。そしたらさ、あいつクスリやってるんだよ。アレ見たときは、もう、こいつダメだって思ったね」
「その子がクスリやってたんだ」
翔太が言う。
「問題はそのあとさ。これじゃなにを話したって無駄だと思って、帰ろうとしたんだけどさ、あたしもダチにクスリ売ってる相沢ってやろうに捕まりそうになったんだ」
「そ、それで?」
翔太が、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「ハハハ。捕まらなかったよ。ちょうどポリのガサ入れがあって、相沢は逃げやがった。でも、あたしがポリに補導されちまったってわけ。あとは学校に報告されて、こんなありさまさ」
「そうだったんだ」
「うん。でもさ、ダチにとってはよかったと思うよ。補導されて、もうウリもできないし、クスリも買えないだろうしさ」
「でも、それじゃ、向井さんはただの被害者じゃないか。警察にはちゃんと話したの?」
「話したよ。誰も信じてくれないけど」
「そんな……」
「信じてくれたのは、親と……下山だけさ」
「お父さんとお母さんは信じてくれたんだ」
「ただの、親バカさ」
「違うよ」
「そうかな?」
「そうだよ。ぼくにはわかる気がする」
「親の気持ちが?」
「そうじゃなくて……説明できないけど、向井さんはそんな子じゃないから……」
「愛あればこそ」
わしはポツリと言った。
とたん。翔太と圭子の顔が赤くなる。ワハハ。楽しいぞい。
って、それどころじゃないな。
「あいわかった」
わしは言った。
「つまり、圭子のダチにクスリを売っていた、相沢ってバカをとっつかまえて警察に渡せば問題解決じゃな」
「バカ。あいてはヤクザだよ。そんなことできるわけないじゃん」
「なあに、ヤクザとて人間じゃ。ひとりの時に狙えば、なんとかなる」
「バカ言ってる。いいかげんにしなよ。そんな危ないことできるわけない」
「翔太はどうする?」
「やるよ!」
翔太は言った。
「やらなきゃ、向井さんが退学になっちゃう」
「下山。いいかげんにしなよ」
「大丈夫。ゲンくんって、すごくケンカに強いし。ぼくだってまんざらじゃないよ」
おいおい、大きくでたな翔太よ。惚れた女の前でカッコつけるのは男のサガかいのう。
「冗談だろ、下山。ホントにやる気か?」
「うん。もう決めた」
「愛あればこそ」
わしはまたポツリと言った。
ところが。
「バカ! さっきから、うるせえんだよ!」
圭子のゲンコツがわしに飛んできたのであった。
ゴン!
「痛てえ!」
過ぎたるは及ばざるがごとし。
6
わしと翔太はデスコの前にいた。なぜか圭子も一緒だ。
「向井さんは帰った方がいいよ」
翔太が言った。
「冗談だろ。下山、本気で相沢を捕まえるつもりか?」
「うん。もう決めたから。でも、向井さんはここにいない方がいい。また、警察の人に疑われちゃうから」
「バカ。あんたって、ホントにバカだよ」
圭子はうつむきながら言った。
「バカバカって言わないでよ。自分でも認識してる」
「ホントにもう! 下山がこんなに頑固だって知らなかったよ」
「血は争えんな」
わしは言った。翔太は、間違いなくわしの孫じゃ。妙に確信してしまうぞわしは。
「えっ、なに?」
翔太が聞き返す。
「なんでもない。それより、翔太の言うとおりだぞ圭子。おまえは帰った方がいい」
「ふん。じゃ聞くけど、あんたたち相沢の顔をしってるのかい?」
「あっ」
わしと翔太は顔を見合わせた。
「ほらごらん。あたしがいなきゃ相沢を捕まえられるわけない。じゃ、あたしは帰るよ、バイバイ」
「待って、向井さん!」
翔太が圭子の腕をつかんだ。
「相沢が出てくるまでここにいてよ。そしたら帰って欲しい」
「ヤダ」
「そんなこと言わないで。お願いだよ」
「ヤダよ」
「向井さん~」
翔太は情けない声を出した。
「バカ! あたしは下山のこと心配してるんだよ。どうしてそれをわかってくれないのよ!」
「ぼくだって、向井さんのこと心配してるんだよ。それをわかってよ!」
二人はケンカを始めた。
やれやれ、先が思いやられるカップルじゃのう。
「こら、二人とも。ケンカするほど仲がいいとは言うが、ここは町の往来だぞ」
「な、仲なんかよくないよ!」
と、圭子。
「向井さんも頑固じゃないか!」
と、翔太。
「やめんか。それより圭子。今、店から出てくるヤツは相沢か?」
「どれ? ああ、あいつがそうさ。そんなことより……あっ!」
圭子は、翔太とのケンカに夢中で、大事なことを忘れておったようじゃ。これを、本末転倒という。
「ありがとう、圭子。お前帰っていいぞ」
「バカ野郎! ハメやがったな!」
「人聞きの悪いこと言うな。おまえが勝手にしゃべったんじゃ。翔太、ぐずぐずしてる暇はない。行くぞ」
「うん」
わしと翔太は相沢を追いかけた。
「ま、待ってよ!」
圭子もわしらのあとを追ってついてきた。
しばらく相沢のあとをつけていると、六本木の外れにある雑書ビルに入っていった。
「ここに事務所があるのか?」
わしは圭子に聞いた。
「知らないよ」
プイと顔を背ける圭子。
「ふむ。じゃ、ちょっと調べてみるか」
「やめなよ。ホントに危ないよ。ねっ、お願いだからさ」
圭子は作戦を変えたのか、すがるような目つきで言った。
「どうする翔太。今ならやめられるぞ?」
「やめないよ」
「それでこそ男じゃ」
すると、今度は圭子が言った。
「こうなったらわたしも付き合う」
「向井さん。それはダメだよ」
「下山がやるなら、あたしもやる!」
「わかったよ」
翔太はタメ息をついた。
「でも、向井さんは女の子だから、危険なことはぼくに任せてよ」
「バカ者」
わしは翔太の頭をポコンと叩いた。
「危険なことをしないのはおまえもだ」
「でも、ゲンくん」
「おまえは圭子をちゃんと守ってればいい。わかったな?」
「う、うん」
翔太はうなづいた。
と、そのとき。
「しっかし、相沢さんもよくやるよな」
「まったくだぜ」
チンピラ二人が話している声が聞こえてくる。どうやら、事務所に向かって歩いてくるようじゃ。
「ヤンキーの女にウリやらせて、そんで、ヤクまで売るんだから大したもんだぜ」
「そういや聞いたか? 相沢さん、ウリやらせてるヤンキー女のリスト作って、組の幹部に渡すらしいぜ」
「へえ。これで相沢さんも出世だな」
ほうほうほう。ヤンキー女のリストときたか。こりゃいいこと聞いたわい。
わしは、事務所に歩いていくチンピラ二人を呼び止めた。
「ちょっと、きみたち」
チンピラが振り返る。
「なんだおめえ」
チンピラはわしにガンを飛ばした。
「今、おもしろい話してたねえ。もう少し詳しく教えてくれんか?」
「おい。ガキがいきがってんじゃねえよ!」
そうじゃった。わしって、見た目は十六才なのじゃ。
「どうやら、素直に話してはくれないようじゃな」
わしは指をポキポキと鳴らした。
さあて。時間もないことじゃ。サクサク行くとするかの。
で、わずか五分後。
「ひ~っ。勘弁してください!」
「もう、殴らないでくれ~っ!」
チンピラ二人はボコボコにされた顔でわしに懇願した。
「やっと素直になったな。さあ、話せ。相沢がリストを作ってるってホントか?」
「オレらも聞いただけです~」
「ふん。そのリストはどこにある?」
「たぶん事務所です~」
「事務所には何人いるんだ?」
「い、今は相沢さんだけです~」
「ホントか?」
「ホントです~ だから、オレらが、呼ばれて行くところだったんです~」
「あいわかった。手荒なことをして悪かったな。悪いついでに、少しそこでお休みしていなさい」
ボコッ! ボコッ!
わしは、チンピラ二人にとどめのパンチを入れた。
キュ~ッ。という感じで気絶するチンピラどもであった。
「し、下山って」
圭子が、翔太に耳打ちする声が聞こえた。
「すごいダチもってるんだね」
「う、うん。ぼくも今、そう思った」
ワハハ。ガキにはちと、刺激が強かったかのう。
わしらは、雑居ビルに入った。事務所の前に移動する。
「覚悟はいいか、二人とも」
わしは翔太と圭子に言う。
コクコクとうなづく二人。
「よし。いざ出陣じゃ」
わしは事務所のドアをノックした。
コンコン。
やや間があって、中から声が聞こえる。
「おう。高木たちか。開いてるぞ」
「すいませ~ん。宅急便です」
わしは答えた。
「なんだ。勝手に入れ」
「それがその、荷物が大きいんで、すいませんが、開けてもらえませんか?」
「ちっ。しょうがねえな」
カチャッ。
ドアが開いた。
ボコッ!
わしは、間髪入れず、ドアを開けた相沢の顔面にパンチを入れた。
「グワーッ!」
相沢は、ぶっ倒れた。
「痛ててて!」
はい。いっちょあがり。
わしらは、ズカズカと事務所の中に入る。
「よし。翔太。リストを探せ」
「うん!」
「あたしも手伝うよ!」
翔太と圭子が事務所の中のあちこちを探しはじめた。
さて、わしも、探すとするか。
と、わしが思ったとき。
「あった!」
翔太が叫んだ。事務机の引き出しに入っていたようじゃ。
一見落着じゃな。
「てめえ!」
相沢が、鼻を押さえながら立ち上がった。
「ほう。回復が早いのう」
「きさま、なに者だ!」
「哀れな被害者の関係者じゃ。もう、おまえは終わりじゃ。おとなしくお縄につけ」
「けっ。いい気になりやがって」
相沢は、胸ポケットからピストルを出した。
「ハジキを持っておったか!」
「ふん。驚いたか。驚いたろう。ワハハハ!」
相沢が笑う。
そのとき。わしは、翔太をちらりと見た。
なんと。翔太は、圭子をかばうように立っていた。足が震えておるのがなんじゃが、なかなか立派じゃ。
って、それどころではないぞい。
「こうなたらしかたねえ。おめえら、東京湾に沈んでもらうぜ」
相沢が言う。
「ふん。もう遅いわい。すぐに警察がくるぞ」
「ワハハ。ガキのくせに嘘はいけねえな。警察がくるなら、何でおめえらがリストを探しにくる必要がある」
「ごもっともじゃ」
「す、素直なやつ……」
相沢はあきれたように言った。
しょうがない。ハジキで撃たれるのは痛そうでイヤじゃが、どうせ、老い先短いどころか、わしは今日で寿命がつきる身じゃ。ここは英雄になって死ぬかの。
わしが、一歩、相沢に近づいたとき。
「ゲンくん! 無茶したらダメだよ!」
翔太が、わしの腕を抱えた。
「こら、翔太。離さんか」
「いくらゲンくんが強くても、ピストルにはかなわないよ!」
「わかっておる。じゃが、よく聞くんじゃ、翔太。わしはゲンくんではない。わしの本当の名は、的場源一郎じゃ」
「えっ?」
一瞬、目が点になる翔太。
「今まで黙っておったが、わしはおまえのジイさんじゃよ」
「ちょっと。なんの話をしてるのさ」
圭子がわしらの会話に割って入る。
「うむ。ついでに圭子もよく聞け。わしは、ちょっとした事情で若返ったんじゃ。理由は聞くな。どうせ理解できんじゃろうからな。ま、そんなわけで若返ったのはいいが、残りの寿命をほとんど使うことになってしまってのう。たった、二週間しか生きてはおれんのじゃ。そして、今日が二週間目なのじゃよ」
「そんなバカなこと、あるわけないじゃん」
圭子があきれた顔で言った。
ところが、翔太の顔は真剣だった。
「おじいちゃん? 本当におじいちゃんなの?」
「そうじゃ。今まで黙っていて悪かったのう」
「おい、下山。こんなヨタ話、信じるのかよ」
圭子が言う。
「やっぱり、おじいちゃんだったんだ」
翔太はにっこりと言った。
「えっ?」
わしは驚いた。まさか、翔太は知っていた?
「ぼく。なんとなく、そんな気がしてた。自分でもバカバカしいと思ったけど、ゲンくんがおじいちゃんのような気がしてしょうがなかったんだ」
「そうか。わかっておったか」
わしは肩をすくめた。
「まさか……ホントにそうなの?」
圭子も半信半疑の顔で聞く。
「ホントにそうなんじゃよ。わしの寿命は今日で終わりじゃ。だから、ハジキなんぞ恐くはない」
「やい、てめえら!」
相沢が叫んだ。
「オレを無視するな!」
ああ、忘れとった。
「うるさいのう。今、いいところじゃ。読者が真剣に読んでおるラストの感動シーンじゃぞ、バカタレ」
「なにわけのわかんねえこと言ってやがる!」
相沢が、ピストルをわしらに向ける。
そのとき。
「こっちだ! 早くしろ!」
と、いう声と共に、数人の足音が近づいてきた。
しまった。相沢の仲間か。こりゃ、ヤバイぞい。
ガチャッ!
ドアが乱暴に開く。
「全員、動くな! 警察だ!」
あれ?
なんと、足音は相沢の仲間ではなく、お巡りさんであった。
言うまでもないが、相沢は、どうやっても弁解の余地がない姿を警察に見られたのじゃった。ピストルを、十六才の青少年たちに向けている姿。これ以上、相沢を現行犯逮捕するに適切な状況があったら教えて欲しいくらいじゃ。
もちろん、相沢は、その場で取り押さえられた。
あっけない結末。
じゃが、どうして警察が踏み込んできたんじゃろうか?
「どうやら間に合ったようだね」
わしの隣に、突然、ポワンと女が出現した。モーナではない。ロングの黒髪のやけにきつい顔をした女じゃ。
「どわっ。なんじゃ、おぬし?」
わしは驚いた?
「どうしたの、おじいちゃん?」
翔太が、わしを見て不思議そうに聞く。
「どうしたって、翔太には、この女が見えとらんのか?」
「女? 向井さんのこと?」
見えとらん。
「この子には見えていないよ」
女が言った。
「わたしの名はラミルス。的場源一郎。あんたを迎えに来たよ」
「死神か?」
「違う。死を司る者。そういうのが一番近いね」
そのとき。警察が、わしらに近づいてきた。
「きみたち。怪我はないかい?」
「はい。大丈夫です。それより、これを見てください」
翔太は、相沢の作成していたリストを見せた。
「これは……きみ、これをどこで?」
「事務机の中です。ぼくたち、これを探しにきたんです」
「ほう。われわれが聞いている話とずいぶん違うようだ。われわれは、女性から、高校生がこの事務所に連れ去られたという通報を受けて駆けつけたのだが」
「女性?」
「心当たりはないかね?」
翔太と圭子は首を振った。
「そうか。まあいい。きみたちにはいろいろと聞きたいことがあるから、ここで待っていなさい」
「はい。なんでも聞いてください!」
翔太が明るい声で答える。
「ハハハ」
お巡りは笑った。そして笑顔で言う。
「危ないことをしてはいけないと説教したいところだが、どうやらお手柄のようだね。とにかく、ここで少し待つように」
「はい」
わしは、おや? と不思議に思った。お巡りは、翔太と圭子には目線を合わせたが、わしのことはまったく無視したのだ。
「あんたの存在は消えかかってるのさ」
ラミルスとかいう女が言った。
「なるほど。そろそろタイムリミットって言うわけじゃな。ところで、警察に通報したのはおまえさんかい?」
「ご名答」
「ずいぶん変わったことをする死神じゃな」
「だから、死神ではないと言った。わたしは死を司る者」
「同じことじゃ」
「同じではないわね。わたしは、相沢という男が、少女たちを死に近づけているのをやめさせたかったのよ」
「なに? どういう意味じゃ?」
「つまり、クスリというのは、本来の運命から脱線する道具なの。人は、決められた寿命をまっとうする必要がある」
「まさか、それでわしを利用したのか?」
「そうよ。わたしが直接手を下すのは許されないからね」
「思い出したぞい。確か、モーナとかいうスケスケお姉ちゃんが、仲の悪いラミルスがすんなり頼みを聞くのはおかしいって言っとったわ」
「そうさ。若返ったあんたが、この件に首を突っ込むのは初めからわかっていた。だから、あの忌々しいモーナの頼みを聞いて上げたわけ」
「なんとまあ。せこい死神さんじゃのう」
「だから、死神ではないと言っているでしょうに」
「わかったわい。なーんか釈然とせんが、わしも目的を達成できたんじゃから文句はいわんよ」
「いい心がけだね。さあ、話は終わり。あなたを連れていくよ」
「待て。翔太にお別れぐらい言わせてくれい」
「もう時間がない」
「協力したんじゃから、そのくらい譲歩せんかい」
「しょうがないね。手短に頼むよ」
「うむ」
わしは、興味深げに警察の動きを見ている翔太と圭子に声をかけた。
「こりゃ、翔太」
翔太が、わしの方を向く。じゃが、わしがどこにいるのかわからないようじゃ。
「あれ、おじいちゃん? どこ?」
「今、この辺から声がしたよ」
圭子もあたりを見回しながら言う。
「ここじゃ。と言っても、もう、おまえたちにはわしの姿は見えまい」
「おじいちゃん。まさか!」
「お別れじゃ」
「おじいちゃん!」
「バカ者。大きな声を出すでない」
「あっ。ごめん」
「やだ。ホントに、ゲンが下山のおじいさんだったんだ……」
さすがの圭子の、ことここに至って、わしの言葉を信じたようじゃ。
「よく聞け、翔太」
「うん」
「楽しかったぞ」
「えっ?」
「おまえと、いろいろな話ができて楽しかった。最後にいい思い出をもらったのはわしの方じゃったようじゃ」
「お、おじいちゃん……」
「バカ。泣くな、女の前で」
「う、うん……」
翔太は涙をぬぐった。
圭子も、じっと翔太を見つめながら神妙な顔をしていた。
「最後に、わしからプレゼントをあげよう。実は、銀行から金をずいぶん降ろしたんじゃが、使いきれなんだ。公園の大きな木の下にホコラがあるが、その中にまだ三十万円ほど残っておる。翔太にくれてやることにしよう」
「いらないよそんなの」
「そう言うな。圭子に洋服でも買ってやれ」
翔太と圭子は一瞬見つめ合って、すぐに目線をそらせた。
「じゃがのう、わしの線香代は、自分の小遣いから出すんじゃぞ」
「うん。わかった。ぼく、必ずお墓参りするから」
「あたしもするよ」
「うんうん。頼むぞ。言っとくが、花なんぞより、饅頭がいいからな」
「うん。おじいちゃんらしいや」
翔太は涙をためながらクスッと笑った。
ラミルスがわしの腕を引っ張った。
「時間だよ」
わかっとるわい。
「じゃ、わしは行くぞ」
「あの、お母さんたちになにか伝言は?」
「そうじゃな。盆には帰るから覚悟せいと言っておけ」
「うん。待ってるよ、おじいちゃん」
「さらばじゃ」
「おじいちゃん!」
とたん。
わしの体は宙に浮いた。見ると、シワシワのジジイに戻っている。
「さあ。時間を食った。特急で上がるよ」
ラミルスが言う。
「待て待て待て」
「今度はなんだい?」
「このままじゃ、わしも読者も納得できん」
「読者?」
「なんでもいいからちょっと待て」
わしは翔太と圭子を見下ろした。
「ホントにおじいさんだったんだね」
圭子が翔太に声をかけている。
「うん。きっと、ぼくが情けないから叱りにきてくれたんだ」
「情けなくなんかないよ」
「えっ?」
「なあ、下山。あのさあ……その、おじいさんが言ったことホント?」
「言ったことって?」
「ほら。あれさ、あれ」
「わかんないよ」
「下山が、あたしのことを好……バカ。言えないよ!」
圭子は顔を真っ赤にしてうつむく。
翔太も、圭子の言いたいことを理解したらしく顔を真っ赤にした。
ほれ。ここで勇気を出さんか、翔太!
「う、うん。ホントだよ。ぼく向井さんのことが好きだ」
よし! いいぞ翔太!
圭子は、翔太の顔を見ないようにしながら答えた。
「だったら、あたし……下山と、その……付き合ってあげてもいいよ」
素直じゃないのう、この子も。
「ホント?」
と、翔太。
「うん」
うなづく圭子。
「こんどの日曜日、暇だからデートしてやってもいいかな。なんて」
「ディスコ?」
「バカ違うよ。あたしさ、一度、ディズニーランドに行ってみたかったんだ」
「うん!」
翔太はにっこりと笑った。
突然、わしは天井を突き抜けて、外に出た。
「なんじゃ、いいところだったのに!」
「もういいだろう。付き合っていられない」
ちぇっ。ケチな死神じゃ。
まあいい。老兵は消え去るのみ。
翔太よ。こんどこそさらばじゃ。明るく楽しい人生を送ってくれ。
そして、ありがとな。
終わり。